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智慧を培う最高の方法 3/5 一九九二年二月二八日インドネシア スラバヤ(インドネシア語)    
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殆どの人は 何かの概念に 影響されています 霊的修行を するのは難しいと 思っています 実際には 菜食に 切り替えた以外 私達はそれほど 変わっていませんね 五戒は 全ての人間が 守るべきものです 誰が生き物を 殺したいでしょう

誰が盗みたいでしょう 誰が浮気を したいでしょう こういうことは 状況が そうさせて いるのです また してはならぬと 誰も気づかせて くれないからです 人々は同じ様な 事をして 同じ段階にいて 同じ事を話し 同じ事をします 誰も立ちあがって 「良くない」と言わず 考え直すべきです 人々は気づく 必要がありますが 誰も指摘しません 私達はみな 卒業して 仕事し 稼ぎ家を建てるよう 言うだけです そういった事は  いろいろ言いますが 道徳的な事は 殆ど指摘しません 幼い頃からなので 習慣になっています 子供が成長し 私達も気づかせる事を 忘れているのです 学校も道徳の重要性を 子供達に 教えてくれません 道徳経や孔子 荘子に ついては教えますが そういう古い言葉は 奥深いものです どうやって子供に 理解できるでしょうか 彼らは卒業の為に 懸命に覚えますが 意味については それほど考えませんね 真に理解した人が その真の意味を 教えなければ 彼らは成長して その程度になって しまうのです 世界を変えたければ まず自分から 変えるべきです

私が丁度アジアに 滞在していた時  一人か二人ですが 誠心誠意だったので 見てあげるように  なりました 彼らに道徳や 永遠の財産を 思い出させられるなら 私はベストを尽します これは私達  修行者の責任ですね 皆さんが商売人なら 商売が上手くいくよう 真面目に 働くべきです 親であるなら 良い人になるよう 子供を育てるべきです 修行者として 私はこの仕事を しているので 義務を果たします 私の仕事では 皆さんの様にお金を 儲ける事はないですが 他のものを得ます 世界平和と 弟子達の愛を得ます 彼らの愛は発展し 他の人々へ広がり その人々は より多くの人々に 愛を広げます すると私達の社会は 影響されます 高徳な人が より多くなれば 社会も より良くなります さもなければ 全世界は 堕落したように なるでしょう ひどい堕落です 私達が自分への喚起や どこから始めるかを 忘れるからです 私達が変わり始めると 良い結果があるか どうかと疑います 分らないからです それで 皆が 堕落しているのを見て 「私だけがしても何か 違いがあるだろうか」 と思います その時 私達は勇気も 動機付けもありません 互いに 鼓舞する事なく ただ古い生き方を 続けます

実際 私達は変りたい そうですね 時に 社会があまり 良くないと感じて 理想的社会を 創りたいと思いますね しかし 私達は 一人では 十分な力が ないと思います でも そうとは限りません 私も以前 一人でした そうです 仏菩薩が私に仕事を 割当てた時 私は 勇敢にやり抜きました 一人でした その上 私は外国人で しかも女性です 人々は女性を 見下しましたが 私達は道(タオ)を 信じました 仏菩薩の擁護があれば 何も怖くないし 私達は確実に そう出来ます 仏陀に言われた事を とにかくするのです それでいいのです 私がもし「私は一人で 女性だし 小さく弱い しかも外国人だし 何ができるだろうか」 と思ったら 私も他の人と一緒に 亀の様に雲隠れすれば 社会には誰も喚起する 人がなく 互いに 励ます事もありません 私達の親戚や友人には こういう事を 私達と話す機会が 滅多にありません その上 人々は多忙でレベルも ほぼ同じです 私達は深く研究して いないので 理解できません ね 私達には 誰か 学んだ人が必要です 忘れた事を 言ってくれる人が 必要なのです それもいいですね

今海外にいる 同胞達は経済の低迷を 心配しています ここは悪くありません そこでは 道徳を高める時が きています でないといつまでも 経済や技術ばかり 発展させて 神仏を忘れて しまいます 自身の仏性と 道徳を忘れては いけません それで神や仏陀または 造物主は時々 災難を与えます すると彼らは 考え始めます その時 初めて 物質は決して永遠な ものでないと分ります 釈迦は偉大で 裕福な王子でしたが 真理のために全てを 手放しました 私達はそんな極端に ならなくていいです 彼とは違うからです 仏陀になると願を かけることもないです 菩薩になるのも いいです そうですね 生死から 解脱するのも いいです または再び 人間になって 社会に奉仕し 正直で道徳的な 人間になるのも それで十分満足  そうではありませんか それでもやはり 私達を諭し 何を どうしたらいいか 教える人が必要です でないと方々で答えを 探す事になります

それに私達は 忙しくて探す時間が ありますか 私は独身の時 皆のように商売で 忙しい事はなかった のですが やはり長い 時間がかかりました 長い間 多くの国を訪れ   長い間修行して やっと分ったのです 皆さんのような 多忙で沢山の責任が ある人は尚更です 皆さんは全てを 放り出し ヒマラヤに 行ってマスターを 探すことはできません 厳しすぎます そうですね 従って誰でもできる わけではありません 誰かがすでに 見つけたのなら それを皆と 分かち 合えばいいのです 例えば皆さんに 子供が沢山いたり 大家族の場合も 一人か二人が 働くだけで十分 家族を養えます 稼いだお金で 子供を学校に 行かせたり お母さんの薬や 家族の服を 買うことできます 家族全員が 外で働かなくても いいのです 同様に私一人が 真理を探し当てた だけで十分です 私は皆と共有する 義務があります 学ぶか学ばないかは 各自の自由です

人々は同じ仕事をし 同じ道徳的な事を教え 悪事を働かないよう 教えていながらも 相手の教えに 対する理解が 欠けているため 互いに誤解する ことがあります 彼らは異なる宗教 として差別します でも 人にいい事を 教える宗教は よい宗教です 外側の服装は 何でもありません 皆さんは毎日服を 換えますが やはり黄さんであり 劉夫人なのです 昨日 高潔で 教養ある人だったら 今日ジーンズを 履いていてもやはり 高潔で教養ある人です ジーンズを履いたから カウボーイになる わけではありません 私は外出する時 時々支障が 生じます 何事も常に 順調とは限りません しかし何事も始める時 それが予想されます 中国語に 万事始めが 難しいという 諺があります

私は耐えるだけです 気楽でなくても 私は外出します 簡単ではありません 時には 沢山のお金と時間を 使わねばなりません 私は決して外で お金を集めません お金がある時は 法を広めるのに 使います 人々が道徳的な事を 耳にするのは よいことです 私は貧しい人と 富める人を 区別しません 人々は私を見るのに お金を使う必要は ありません 神仏が私に お金を与えて 説教 させているのです とても簡単です 道を信じていれば 何でも必要なものは 手配されます 私は困難や どんな状況でも ただ耐えます 何故なら 釈迦は 四十九年間 それほど多くもない 衆生を救うために 毎日歩いた事を 覚えているからです 弟子は そういませんでした 沢山の人が彼の経の 講義を聴きましたが 皆が弟子になった わけではありません 彼の弟子は ほんの何人かの 出家者だけでした 彼の苦労を 思ったとき 私の これぐらいの困難は 何でもなくなります 私は飛行機で旅する こともできます 歩く事もありますが

実際 釈迦は 出家者や修行者は 必ずしもインド人と 同じ服を着る必要は ないと話しています その国に 合った服を着て いいが 一般人と同じような 服を着るのではなく 少し違って見える べきだと話しました 私は外に出ても 旅行バッグを持って 気ままに見て回り あちこち食べ歩く 普通の旅行者のように 楽しくはありません 外に出れば 沢山の問題があります それでも社会で 一部の人が変わって 社会がより繁栄し よくなるよう  影響を与えられれば 苦労も報われます そうでしょう? 皆さんも 外で仕事をするのは 簡単ではありません 人との競争で懸命に 働かねばならないし あまり誠実だと 人は私達を凌ぎ 商売をだめにし 怒らせます でしょう? そして 商売を取りあげます しかし皆さんが 彼らのようにすると 良心が 咎めます そうですね 沢山の法規もあって とても難しいです

皆さんが自分や 家族を養うために あんなに働いて いるのを見ると 私の苦労は何でも ないように思えます 私の苦労で多くの 人々が利益を得るので 損する事はありません 皆さんが家族のために 全世界と勇敢に 闘っているのを見ると 修行者である私も 人々のために 頑張ることは 何でもありません 私はこのように 自分を慰めます すると 弘法の仕事を 続けられるのです 私もひとりの人間で 肉体を持っています 内面には心が ありますが外側は 肉体なのです 時々 肉体は 内面の心の言うことを 聞きません ただ寝て いたがるのです 皆さんが運転する時と 同じです 皆さんが一流の ドライバーでも あまり長く 運転してると うんざりして ストライキします いけない所に 横たわって どうしようもないです 皆さんが聡明でも 何もできません 車は止まったままです 同様に 私の肉体にも 支障が多いのです

マレーシアで私に なぜ最高の観音法門を 在家の人に 教えるのかと質問する 人たちがいました 私は在家の修行者の 何が悪いのかと 聞き返しました 私は在家の修行者に 感心しています 皆さんは 家族の面倒を見て 社会のために働き  仕事で競争もあります それでも道を 求めてもいるのです 皆さんは 泥沼に咲く蓮の花の ような存在です しかし 泥に 汚染されていません 尊敬するに値します もし皆が出家していたら 私たちはとっくに 消えていました 地球はとても 美しいです 私達は それを維持しよりよい 所にせねばなりません 涅槃(最高の楽園)に 涅槃(最高の楽園)に入りたくなくても 構いません ここにいて 徳のある 智慧に 満ちた修行者になり 周りの人々に手本を 見せるのもいいです そうですね

例えば五十人の中に 一人の修行者が いるとすると 大分違ってきます 計り知れない 影響があります 人々は悪い事を 敢えてしなくなります たとえ彼らが その人のように 厳格に修行しなくても 道徳的で正直な その人を見て 反省します それについて 考え始めるのです たとえその人ほど 善良でなくても 自省して 間違った 行為を減らすのです いつか 時間が来たら そのうちの一人が 彼に影響され 修行 するかもしれません すると希望の灯りと よい手本が増えて 周りの人や 彼を知っている 人達が 彼の影響を 人達が 彼の影響を 受けるのです こうして私達は世界に 恩返しするのです そうして世界平和を もたらすのです 私達は剣や弓矢や 銃で天下を鎮静する のではありません 戦争や暴力で 人々を抑制しても 鎮静は決して 長く続きません 誰でも知っています 中国史にも例は枚挙に いとまがありません 尭 舜 周王朝 漢武帝の時代を 除いてです

これらの時代の 皇帝は賢明でした 悟っていたのかも しれません ですから  天下泰平でした 人々は自然に 皇帝を敬い 従って 皆が協力し合って 国を平和に しました 私たちの修行仲間は 霊修行をし 菜食をしています 殺生は望みません 五つの戒律を守ります 仏教徒は 五戒を守り カトリックは 十戒を守ります 大体似ています 十戒は五戒を 少し発展させた ものです 実際 五戒は とても重要です 皆が五戒を守り 世の中の殆んどの 人が五戒を 守れば 仏土に行く 必要はありません ここにいてもいいです だから釈迦は 仏陀は心にいると 言っているのです 心が純粋だと 自然に仏土が 出現します 想像してみて下さい 誰も盗みを働かず 人の物を横取りせず 人がくれない物を 持ち去らず 強奪せず 配偶者に忠実で 愛し合い 子供の 面倒をよく見ると 子供の成長における よき手本になります 一緒に菜食し 一緒に菜食し 盗まず 殺生せず 邪淫せず嘘を言わない こうしていけば 親の代から 代々受けついで いかれます

そうですね 祖先から受け継ぐとは こういうことです 私達が非道徳的で よい手本にならないと 子供は私達から 学んで もっと 酷く成長します こんな子孫は何の 役に立ちますか 私たちは後世に 悪名を残す だけです 何かいいものを 残すでしょうか 歴史に名声を 残しません 古代は 国王が 徳が高く 純潔な人を 表彰しました 表彰状は 代々大事に 伝えられます 人々は 彼らに敬服し  彼らに学びたいと 思います 皆が尊敬するからです どんな悪い人でも 善人を尊敬します おかしいでしょう 悪人は善人を 最も尊敬しています 悪人はとても 悪くて分っていない 人間だと思わないで ください 違います 内心で全て分ってます 状況が彼らを 悪くしたのです 状況はヒーローも 悪人も作りあげます 私たちは内面の 霊的力を使うことです 仏陀の名号を 唱えるだけならば 外部の力に 依存しているのです 内面は安定しません 内外とも安定せねば なりません

念仏すると 同時に内面を 省みて 戒律を 守らねばなりません また 菜食をし 徳を養うべきです 内外どちらも 修行することで 陰と陽のバランスが 取れます こうしてこそ 周りの環境に 影響されないほどの 力が持てるのです 社会が悪くても 私たちは影響を 受けません 内面に 力 すなわち 仏性を 見つけたからです そうして初めて 心が安定します でないと 私たちが どんなに物知りでも どんなによくしようと 頑張っても 内面の パワーがなければ とても難しいのです これは家を 建てるのと同じです 基礎が強固で しっかりしてこそ その上に何でも 建てられるのです 大きい家にするか 小さい家にするかは デザインの問題です 同様に私たちは 同じく修行し お経をあげる 人たちをみかけます

時には彼らは大変 熱心に念仏します 高潔な人になりたいと 渇望します それでも悪い事を することがあります 内面の力が見つかって いないからです 念仏するのも お経をあげるのも お経をあげるのも いいことです お寺を建てるのも いいでしょう 沢山 お寺を建てて 僧侶や尼僧を 支援するのもいいです 私は各宗教が 早く健全に発展して 様々な縁を 持つ人々を 教える べきだと思います 皆が仏教を信じるよう 強要はできません 彼らが信じなかったら どうしますか 無理強いはできません 他の宗教を信じても よい事を教えるのなら いいのです 本当にその宗教の 教えを実践すれば それでもいいのです どんな宗教も 本当に良いものです 問題は人々が自分の 宗教の道徳規範を 実践できないことです

どんな宗教も これが問題です 彼らが自身の宗教の 本質を理解しない限り 互いに誤解する ことが多いのです 自分が ちゃんとしていて 本当に高潔だと 他の人の 内面の 良さが分ってきます 他の宗教とその 宗教の信者たちも 良い人だと分ります 彼らは皆同じである ことが分ります 全く同じです 例えば 中国人は よく中華料理店に 食べにいきます しかし西側の人達は 洋食を好みます 彼らが中華料理を 食べたいとすれば 大歓迎です そうでなくとも好みの ものを満足に食べて 健康ならけっこうです 世界に奉仕できる 元気な体があれば 彼らの食事を気に かけることはないです 私は中華料理を食べて とても健康です 一日八時間から 十時間働きます 彼らはポテトなどの 洋食を食べて やはり元気なのです

同じく一日八時間か 十時間働き 世界に奉仕します どちらもいいのです そうですね 宗教も同じです よく考えると分ります どの宗教も 人を殺すよう教えて いません どんな宗教も盗みを 勧めていません 多少誤解は あるものの どんな宗教も本当に 同じ事を教えます 皆が社会を混乱から 守ろうとしています 信仰する宗教や 修行レベルに かかわらず 皆が 暫くはこの世界に 留まります まだ離れていません 世の中が戦争や 強盗や暴力で 混乱していて 修行できますか 当然できません 従って全ての宗教は 論理的に人々に 教えるべきです これは第一に 宗教を守るためです たとえ 私たちが 相手が好意で 善行を勧めていると 思わなくても 論理的に考えると 少なくとも彼らは 自分を守りたいのです 社会が混乱していたら どう 発展できるでしょう そんな状況で瞑想 していたら 真二つに 切られたりします 奥さんが誘拐される かもしれません その何がいいですか 子供は学校にも 通えず 苛められて 何がいいのですか どの宗教もいいのです 問題は私たちが なにかの宗教に 属していながら 信徒としての義務を 果たしていない事です だから世界は こうなのです それで 私は寺院を 建てたり 出家者を 支援するのは 良い事だと思うのです 私の団体ではないです

私達は 自立しています 手工芸品を作ったり 私も絵を描いて 稼いでいます 皆さんに供養を 示唆しているのは ではありません 他の宗教と 他の出家者団体の ことです 彼らにお金が必要なら 供養しても いいのです 重要なのは 彼らは 自身の義務を必ず 果たすことです まずは自身の 修養を積み すると 家族を管理でき 最後に国を治める ことができます 最も大事なのは 自身の修養を積む事で これができないと 人を指導する ことができません 中国語ができずに どうやって子供に 中国語を教えますか そうですね 少なくとも中国語が 少し分って 初めて子供に 教えられます 自身の修養を 積む事は最も大事です 修養を積む事を 通して体験を得ます 沢山の他の人が 忙しくて認識できない 事が分ってきて それを人と 分かち合えます  私達の交流はその時 初めて本当の意味で 有益なものになります

知っているものを 全部話します 大事なのは 私達は よき手本を見せて 人々に良い事をし 社会を守るよう 勧めることです たとえ 仏陀にならなくても 人間としての義務を 果たせれば  これも良い事です そうではありませんか 私は宗教の 指導者たちが 外に出て人々に 説教することを 支持すべきだと 思います  社会の基盤を守り 混乱を防ぐためにも そうすべきと思います もちろん 私たちが 修行する方法は もっと奥深いです お経をあげる だけでなく それが 分らないといけません もし私が経典を 理解していなければ 仏教の事をどうやって 沢山分りますか それは  私は経典を 研究したという ことです そうですね しかしこれは 表面的な事です 内省せねばなりません 内面の仏性と 繋がるまで 修行せねばなりません

内面の力を見つける ために繋ぐのです すると 人と話す時 説得力があります そうですね 料理法を知っていても お腹を満たさねば なりません 一日中 料理ばかりして 最後に台所で倒れたら 一体何がいいですか メニューを読んで 人に料理を 紹介するだけでは よくありません 料理を食べてみて 美味しいと分って 初めて 話に 説得力があるのです そしてこう言えます  「食べた事があります とても美味しいです 間違いないです」と 聞いた人は 私達が 誠実だと分ります 食べたことの ない人だと どんなに美味しいと 言っても 説得力がありません

誠実さと 内面からの力が 欠けているからです ですから修養を 積む事は大事なのです 皆が知っていますが 実践しません 私達はよく 身を修めてこそ 家を治められ それから 国を治められ そうして 天下を太平に できると耳にします また「己の 欲せざるところ 人に施すなかれ」 などといいます しかし 言うは易く 行うは難しです では明日また お会いしましょう マレーシアでは二つの 言語が使われます 殆どの人は中国語を 話し 少数の人は 英語を使います

彼らはとても誠実で 私の教えをよく 分っています 菜食の話以外は そうです 多くの人が私に 印心には大変 興味がありますが 菜食者にはなれない と言います とても可愛いのです 私はそれはできますか 美味いパンや菓子を 欲しがりながら お金を払いたくない のです と言いました そんなことできますか 皆が着ている服は 暫くの間だけ 体を覆えるのです 無常の物ですが やはり沢山のお金を 払っています 何日も数週間も 働いてやっと スーツを買うお金の 余裕ができるのです 今 皆さんは永遠の 命を求め 輪廻を避けて 西方の極楽の世界に 行きたいとしながら わずかばかりの 「航空券」代を払い たがらず 菜食を したがらないのです 私は「いいでしょう 菜食者にならなくて いいです」と言います

すると今度は  二時間半の瞑想は 長すぎると言います 私は「いいでしょう 菜食者に ならなくてもいいし 瞑想しなくても 修行しなくても 戒律を守らなくても いいですよ 私が代りに 菜食し 瞑想し 戒律を守り そして あなたに代わって 仏陀になります」 と言いました それでOK? 大多数の人は修行を 望み したくない わけではありません ただ 意志が弱くて 影響されやすいのです 彼らは一人で 決められません 小さい時から 人の影響に慣れて いるのです 自分の意見を持って いる人は少ないです 大多数の人は お母さんや 学校でそのように 教えていて 経典や本で そう習っています しかし私たちは 理解しないまま その通りやって いるだけです すると私たちは 自身の権限を失います だから生死の 輪廻の苦しみを 受けるのです 皆さんの大半は 海外の華僑で ここで商売をし 生活は 安定しています しかし世界は本当に 苦しんでいます 大変悲しんでいます いつか時間があったら 貧困地帯 難民地区 あるいは 屠畜場に 行ってみるといいです 帰ってきたら 眠れず 食べられなく なるでしょう とても辛くて こういった事に 責任を感じるでしょう

実際 私達が買う 仏像は 幾分 理にかなっています 例えば 釈迦牟尼仏 観音菩薩 阿弥陀仏の像を 見ると 皆この様に 座っています そうですね? この意味は何でしょう 何をしていますか 瞑想しているのです 座禅しています ですから私達が一日中 経典を唱えるだけでは 見合わないですね そうです 経典を唱えるのは いいのですが 釈迦牟尼仏がこうして 座っているのを見た時 彼が私達に何を望んで いるか分りますか 瞑想してほしいのです そうですね 経典は 教理ですが 瞑想は 修行です そうですね 私達には両方必要ですそうでしょう 商売をするのも 同様です 例えば ご両親が 商売のやり方を教えて くれるとしたら  それを聞くべきです 一方で やはり 外に出て 経験を積み その言葉を実践 しなければなりません そうしてこそ 理解できるのです 言葉を書きとめて 唱えるだけじゃ だめです ね 記憶するだけでは だめです 完璧でも完全でもないそうでしょう 経典を唱えたり 勉強したりするのは いいですが 仏陀が した事 経典が 主張する事を理解 しなければなりません 例えば  金剛経の中では 人は 布施 持戒 忍辱 精進 禅定をし 智慧を得るべきと 述べています この六つの徳目を 満たせますか 出来なければ まだ 仏教徒ではありません

私が言ってきたことは 釈迦牟尼仏が言った ことと同じです 皆さんはよく忘れるか 学んでいないか 深く勉強していない あるいは 修行して いないに過ぎません どんな仏教徒でも 六つの徳目 布施 持戒などを すれば・・・ 持戒とは 菜食を取ることも 意味します 菜食でない食品を取る ことは一種の殺生です 直接には殺しませんが 私達が食べたがれば 他の人が殺します 私達は 布施  持戒 忍辱を すべきです 忍辱とは 互いに攻撃せず 殺さず 破壊しない ことを意味します

勤勉になって 毎日すべきことを するのです 毎日瞑想し 追いつか なくてはなりません 瞑想ですが 瞑想する 人いますか いません 人々は皆 金剛経を 唱えますが 中に 述べた内容を実践する 人はほんのわずかです やる人もいますが 少数しかないです

私達は六つの徳目を 修行します 私達はお金を寄付し ダルマ(真理)を 広めます それらは全部 布施です 私達は皆さんにそう 教えるだけでなく 模範にもなるのです 例えば 私のお金は 私に使うわけでもなく 大邸宅を建てる ためにも使われません 私はお金を使って 中国大陸 フィリピン オゥラック (ベトナム)の難民や 洪水被災者を助けます 例えば 洪水被害が あったら 彼らに お金を寄付します またダルマ(真理)も 広めます

私は懸命に働き よく旅します 説得できる人なら だれでも 説得するのです 私と縁のある だれにでも ベストを 尽くして教えます それは私にとって ひとつの布施の 形でもあります 持戒についてですが 厳格に戒律を 守らねばなりません 忍辱は どうでしょう それもやります

次は 精進ですね 私達は毎日瞑想します 精進とは 進歩を遂げることで 己を反省し 日々 責務を果たす ことを意味します 修行をする場合の 私達の責任は 瞑想し 人々を良い 行いをするよう説得し 最善を尽くして 義務を果たし 精進することです 瞑想については もちろん 瞑想して サマディに入ります 智慧とは何か ご存じですね 智慧があるのです 沢山はなくても 少くなくとも多少は あります でしょう さもなければ どう 話せるのでしょう ね 内面に智慧がなければ 人々は私達の話に 耳を傾けないでしょう 実は私達は六つの徳目 全て理解できても 簡単には 語れないのです 人々が六つの徳目を 守ろうと努めれば 彼らには 金剛経だけで 十分です  他の仏教の経典を読む 必要などありません しかし 多くの人は 経典だけを読んで 実践に 移さないのです

仏教はとても 素晴らしく貴重です 内面の本質があって 美しい外観もあれば 完璧になります 私もベストを尽くして 仏教を讃え  促進し 整えて より完璧に隆盛する ことをめざします 私は仏陀の名をもっと 栄光あるようにしたいのです 彼の教えを 更に広め  出家者の名誉を高め より敬意されるように したいのです 私は十分に 正しい事をして来た そう思っています 異端宗教の教徒は 人に有害で悪い行いや 社会 家族や人々の 道徳価値を破壊する 事を教えています そうであれば間違いと 言えますが 私達の 道はとても高潔です
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