こんばんは 私の善き 聡明な友人の皆さん この友好的で 神聖な集会へのご参加 歓迎致します 私達はこんなに早く 再会を果たして 皆さんの顔が輝き 非常に嬉しいです 前回よりも問題が 減ったのではないかと 思います あなたの人生は 順調ですか 大丈夫 ある時は良く  ある時は良くない 私が皆さんに 聴衆に 誰にでも会うたび 私は涙が こぼれそうになります 二つ理由があります 一つ目は幸せ 二つ目は悲しみで 幸福である理由は 今私が見ている仏陀の 皆さんの 内在の神の光のため または内在の仏性の ためかあなたを通して 私の周囲の神を 見ているからです でも悲しくもあります あなたがこのことを 知らないことを考えて 恐らく何人かは既知で ほとんどの人は知らず その事が私を 悲しくさせるのです なぜそうなのでしょう 私達が内在の神の光を 知っていたり 自身に内在する 仏性を知っていれば 私達自身の人生は もっと 幸せになり 心身共に強く健康になります 今朝 私が 瞑想をしていた時 多くの智慧が現れ 私は 大喜びしました 私は今晩そのことを 共有できるかと 考えました またはあなたに 会う時いつでも でも それから 何か分りますか 私がここに座った時 無力さを感じました この事は非常に微妙で 時に抽象的だからです その事を人間の言葉で 伝えるのは私にとって 容易ではありません 私はこの問題は 全て良い修行者に あてはまると思います またはいつの時代の 全ての預言者にも それで私達には 多くの宗教があり 異なる経典があります ある一つの経典を 信じる人々は他の物を 信じず一つの宗教を 信仰し他の宗教は 信じません

そして 極端に走ると 他の信仰を 破壊しに行ったり 異なる信仰を持つ 人々に難題をかけたり さえするのです 従って 時に私達には 宗教戦争があります しかし今夜 私は何か もう少し明確で もっと論理的 知性的な事を話すよう 努めたいと思います それであなたは私が 言う意味を理解する かもしれません ご覧なさい 誰もが私に神について 仏性について 質問します 神は 仏性は 何ですかと ですから人々は 理解するのは非常に 困難だとわかります 個人的な 神はいるのか いないのか なぜ私達は仏性を 見つけることが できないのでしょう 仏陀は衆生ですか 衆生ではありませんか ええ仏教の神性 つまり神のパワー いわゆる 阿耨多羅三藐三菩提と 呼ばれる最高のものを 意味します これを キリスト教徒が呼ぶ いわゆる最高の 万能の神の事です それで私にとっては 同じ事を話すのであり たった一つの最高を では私達はどのように 神または最高の仏陀の 存在を認識しますか つまり元来の仏陀 全ての仏の中の仏 全ての 阿耨多羅三藐三菩提を 意味します さて私達は宇宙を 見回しそこに多くの 存在を見ます 人間や動物のように 見える存在もいます 幾つかは目に見えない いわゆる天使や幽霊 仏陀のように 不可視の存在もいます 私達の肉体の境界で 既に不可視の存在の 体験もしています 幽霊の事さえ 話さずともウィルス等 小さすぎて顕微鏡で なければ見えない 衆生もいます

これらのことを目に 見えない衆生と呼び 裸眼でさえ見ることが できません 仏陀が存命中 彼は弟子に 言いました 「コップの中の水には 八万四千の不可視の 衆生が存在しその水を 飲む時には」彼は 弟子に言いました 「私達は何かで水を 漉し それらの衆生を 傷つけないように すべきである」と 彼は顕微鏡など 使用せずそれらを 見ることができました 私達が見えないものを 見るのに彼は何を 使って見たのでしょう 智慧眼を使いました 聖書で言っています 「汝の目が一つなら 体全体が光に 満たされるだろう」 これが一つの眼であり 智慧眼のことで  又は仏眼 天目の ことなのです この眼を開眼するなら 私達は今二つの目で 見ている物より更に 見えるようになります 私達の世界にでは 多くの事柄が 不可視であることを 知っていますね 不可視であればある程 更に強いのです 例えば 私達人間は非常に パワフルですし 象達は非常に パワフルですが 象達は彼らよりも 小さな人間に 支配されます 象と比べ人間は ずっと 小さいでしょう でも人間はウイルスに 屈服させられたり します ほんの一つか二つの 悪玉によって 私達の体は故障し 終わりとなります とても科学的です

私達は今日の科学の 証明や研究により 理解できるでしょう 多くの不可視の衆生が 存在しこれさえも 見えない程のです 顕微鏡を使っても 見えません 非常に微量で本当に 細やかなのです ちょうど一種の エネルギーとなり それらは微量過ぎ 繊細すぎるので 私達はそれらが知性と 感情のある衆生だと 信じることが できません 最近では 植物でさえ知性と 感情があるのが 証明され アリや いかなる種の 動物もまた知性と 感情があります 今 概念について 話しています 私は もう少し現代的で 興味深い話を しようと思います 私達の殆どが受胎は 偶然に起こり 卵子はコントロール できないと考えるか 女性の卵子は侵入され 卵子は無力であると 考えていたと 思います でも 近頃 科学者は彼らの智慧と 研究により理解し 証明したことは 偶然的なことではなく 卵は吸収したいものを 一つとか 二つ 三つ 五つというように 選択しているのです その不可視の 衆生でさえ 感覚があり 彼らにも決断と選択を 持っているのです

更に私達は仏国土や 神の王国に 行きます 私達は 神 仏陀はいないと 思っていました 神は無だと言う 人々もいます ただの空 あるいは仏陀は空 仏性は空であると そして私達が瞑想した 時空に遭遇するのです ええ私の体験から 言えば空ではないです それは存在で愛に十分 満たされ智慧があり あなたが必要な全ての 存在 想像できるもの できないものさえです この存在はパワフルで 想像を超えた力強さで 私達の脳での理解の 範囲を超えたもので さえあります でもこの存在は私達の ような存在ではなく 私達はただその存在を 受け入れるだけです 「エネルギー」とも 呼ばれるものですが 単に「エネルギー」と 呼ぶと概念を誤り 理解を誤ることになる かもしれません それは感情もなく 思いやりもなく智慧も 何もないもの ちょうど 電気エネルギー磁場 エネルギーのような でもいいえそれは そんなものではなく 宇宙の全てのものを 含有しています 全て後で成長する 細菌も含まれています

これらの細菌を私達は 宇宙の種子と呼び この存在に潜伏して いるのです そしてその芽が 全て出てきてそして 後でまた戻ります しかし この存在の他のパワー 私達が神性 阿耨多羅三藐三菩提 全ての仏の中の仏 全ての存在の父と これを呼びますが このパワーは何も 成長させたりはせず 何も含有もしてないが 何もかもが含まれて います 何も生産しません 生産するのは 別のそれを超えた 存在です 例えば ご覧下さい 私がバナナを食べる時 私はただこう言います きっと私は食べ あなたに知らせます バナナを持っている時 私の手でバナナを 持っているように見え あるいは口で食べます でも何のためでしょう バナナを食べたいと 望むのは 私の口ではありません それは脳と 細胞の中で 身体や胃の そして脳の 細胞です それが私に食べさせ 口にバナナを 食べさせます ですから 神と神性と神の力は 同じなのです 類似したものです もちろん神を語るのは 難しいですが 確かに その存在は強力です 私達は想像すら できません 

でも いくらか その一部を 体験できます あなたが その一部を体験しても あなたをすっかり変え 大変威厳があるように 聡明で 親切で 世界の浮き沈みに 影響されないように させます どんな問題が 降りかかっても 解決可能にします たとえ 交通事故で意識不明で 動けなくても 自分で救うため まだ解決できます またそれは いわゆる神の存在 想像を絶する存在 全能で全権を有する 存在と繋がっている時 起こるのです なぜなら私達は元々 その存在から現れ その一部だからです その存在から あるいはその力から エネルギーから 別れれば 私達は 確かに大変小さく 弱いのです でも私達が再び 繋がれば 力強く聡明になります それこそ神の認識や 自己実現の 唯一の神秘です それは私達がこの 不可視に気付き 知るようになること ですが 非常に 力強い存在です さて その存在とは 人間のような 衆生には見えず あるいは天使の ようにも見えませんし 長い髭を たくわえていません その存在の中に たまたま入ると ただその愛や 保護や力を 思いやりを享受します 地球に戻ってきた時 それを言い表す 言葉がありません

地球の意識に 戻った時には私達は どこにも行ったり 戻ったりしません 全ては私達の 内面で起こります またそのような 体験をする前に 興奮して 眠れなかったことなど ありません 本当に穏やかで 平凡で とても順調で 調和しています まるで バナナを食べるぐらい とても簡単です  でもこの体験は 一般の人にはそれほど 頻繁には起きません 私達が達するには 多くの自己抑制と 熱心さ  そして神や 私達に内在する 仏性と一体になる という切望が 必要です 神または仏陀は私達に  間違いなく与えてくれ 大変早いのです でも私達が 自身で得るもの 全てより貴重です また私達がまだ怒り 煩悩 欲望と  執着があれば 神や仏陀になることに 全く適しません それで人は私達を見て 思います「あれ 何という仏陀ですか」 それから人々は 神性や仏陀を 尊ばなくなります そのため この体験に合う人 神と再び 一体になるつもりか この仏性を知る 仏陀になる人は 誰でも 沢山の戒律を 経験せねばなりません 神あるいは 仏性を体験することは すでにこの仏性を 知り得た 神と一体になった マスターの 適切な導きを通して 簡単に得られます ちょうどそれは 英語を話せる人が 初日にもう幾つかの 英語の言い回しを 教えられるのと同じで 初日  英語学校から 帰宅した後 すでに何か話せます 皆さんは言います 「元気ですか 私の名は何がしです あなたのお名前は」 など幾つかです 同様に すでに神を知ってるか 自身の内に 仏性を得た マスターの所に行けば マスターは 少し神の体験を 分かち合えます

ですが私達が 全てを得るには 毎日練習すべきです そして自身に 神の智慧を 完結させるのです まるで英文を 少し話せるように なった後 家に戻って 英語を完全に理解し 読み書きができるまで 家で熱心に勉強する 必要があるのと同じ ですから神の体験は 時に発見するのが 容易でも正しいものを 見つけられないので 大抵の人には 難しいのです 私達は 神はなにか 非常に神秘的で 届かないものだとか 仏陀とは 釈迦牟尼仏のためで 私達のためではないと 考えていました でも真実ではないです 真実ではありません イエスは言いました 「私達はみな神の子だ 私達はみな 神の子である」と イエスは言いました 何であれ 彼が為した 偉大な事偉大な奇跡は 私達には更に 素晴しくできると そう言いましたね 聖書にはこうあります 「私が今日した事は 将来あなた達は 更に良くできる」と彼はそう言いました 洗礼者ヨハネも人々を 水で洗礼しましたが こう言いました 「私の後から 来る者は 私よりも力強く 聖霊で洗礼を お与えになる」と ですから私達人間が文明と知力 技術に進化する時 私達に内在する智慧も また進歩が早く 私達ができる 物事も 進歩します イエスが私達が偉大な 奇跡を起すと言うのに ではなぜ試さないのか 仏陀も言いました 「私は仏陀になったが あなた達も 仏陀になるだろう」 こうは言っていません 「私が唯一無二で 私の後にも先ににも 誰もいない」と 明らかに 仏陀とかキリストの ようになるのは 冗談事ではありません

容易ではありませんが 挑戦していいのです 全く神秘的でも 届かないものでもなく 私は挑戦して 成功しました だから皆さんが試せは 成功するでしょう こんなに小さい 私が試せるなら 皆さんも試せます 私はなぜ挑戦したか それは私に内在する 神や 仏性を 体験したかった からなのです 私達の世界は 苦難に満ちているので 私は自分に課すよう 決心しました ですから私は 自分の修行の結果を 皆さんと分かちます でないと私の人生は 順調で幸せでした 私は何かが必要だと 思いませんでした 物質的な快楽さに 満足している時 霊性の充足を 考えるのは困難です 難しいのです 私達はそれを語らず 十分幸せです そのため 仏陀は言いました 「人が天国にいると 修行や瞑想 仏陀になることは 難しい」と なぜなら 天の世界では 人々は幸せな生活を送っていて そのため 更なる向上を 求めないからです それは日々の生活の 中でも起こります 自身の生活で 幸せで 快適すぎるなら 自身の地位の向上や 更に事業などを 起こすことは 望みません

私達は十分幸せだと 思うのです どんなに幸せでも この開悟に達するのは 私には世界に対し 義務があるからです 私は今日 または智慧あるいは 私が達成したのは すべて 私の目を開いた 人間によるものです これができたのは 私だけではなく また私はこの世に 借りがあります 私達が 他の全世界の 悲惨さや困難を そして 自分の国や他の国を 見ないなら・・・ 私が赤十字で 働いていた頃 人々の 世界的な困難を見て 私は心を開き 協力を得るため 力と智慧を 使いたかったのです そのため 何かを得るなら 全ては自身のためです 皆さんの慈悲によって 全世界の人々の 慈悲により 私はご飯や パンを食べる事ができ 着る服もあり その上智慧も 得たのです 今 私は 全ての苦難は自分 自身が作ったもので ある事を悟りました 同時に私達はこれらの 問題を解決できると 悟っています もちろん 神や仏陀に 助けを求めなければ なりません 後になると 分かりますが 神や仏陀は実は 自分自身であり 自分自身のパワーで 今悟りを開く 自身の智慧なのです

さて修行法は沢山 ありますが 普通の人にとって 最も大切な事は 祈ることです 内在の万能の神に 祈りを捧げ 内在の仏陀に 助けを求めると同時に 自分自身も努力する ことです 戒律を厳守し 全ての衆生に対する 慈悲を訓練します 先ずは 動物の殺生を止める ことから始めます 昨日私はラジオの 「先を読む」という 番組に出ました アナウンサーは私に 世界の飢餓の 解決法は何ですか 神が存在するなら なぜ世界の多くの 人々が飢餓に苦しま ねばなりませんか と質問しました 私は 聖書に布施の話があり 仏教も布施を 強調しています 人が必要とするものを 与えることです 私はそうする必要さえ ないといいました お金のある人は そのまま持っていて 財産のある人はそれを 楽しんでいいのです ただ全世界の人が 肉を食べなければ 牛や 豚や 鶏を飼う必要がなく トウモロコシなど 蛋白質を含んだ 農産物を飢える人々に 与えればそれだけで 十分です  動物を飼うために  大豆やトウモロコシや 食糧を皆動物に 食べさせています これらは本々人間が 食べるものです 一キロの牛肉を 得るために 数百キロもの 食糧と 多くの医療費を 浪費するのです 昨日友人が私に 統計資料を見せて くれました  全国の半分以上の 抗生物質は動物に 使われています

これは沢山のお金が かかります 財産を寄付するよりも 肉を放棄した方が いいのです 肉を食べなければ 屠殺する人もいないし 飼う人もいません 全ての食糧を 人間に与えれば それを食べて 健康になります これは全ての 国にとって有利であり 自国にとっても 有利です 私達は多くのお金を 兵器と動物の 飼育に使っています 多くの土地が荒れ廃れ 多くの耕作地が 牛や豚の飼育に 使われて廃れています ほとんどこんな 状態です これらの耕地を利用し 健康にいい食糧を 生産すれば  国にとってもっと 有利で  平和になると思います 武器でもっと防備する 必要もないのです どの国も聖書通りの 生活をし 仏教の教え通りに 殺生せず 盗みをしなければ 世界は平和のための 会議を開く必要も ありません  コーヒーとケーキ シャンパンを 浪費するだけです それでも何の 効果がないのです 平和を議論すれば するほど 戦争が起こります というのは 方法が間違っている からです 皆が瞑想を習い 動物成分を含まない 食べ物を食べれば 世界は とっくに 平和になり 飢餓はとっくに 無くなったはずです 自分の財産を 布施する必要もなく 肉さえ放棄すれば 十分に世界を救い 自分や国民の健康を救う事ができます ご存じのように 大半の病気は 肉によるものです 動物に抗生物質を 食べさせるからです 動物の苛立ちは 体内に毒を発生し これが肉に残って いるからです 理由は数え切れません これらの肉に含まれた 抗生物質を食べるため 私達の体は 病気に対する 免疫力がなくなります 私達の体は本々病気と 戦う力を持っています 多くの抗生物質を 含んだ肉を食べたため 体は弱くなり 免疫システムも 機能を失い  様々な病気に襲われ 命を失ってしまいます 大変惜しいことです 私達は自分の力で 自分自身と国家を 助けねばなりません

大半の人は イエスや仏陀に 祈っていればいいと 思っていますが 私はこれに 瞑想を加えるべきだと 思います そして 道徳的健康的な生活を 送ると速く智慧を得て 解脱できると思います 例えば皆が 一緒に 観音法門を修行し 内在の神の 指示を聴き 智慧眼で神の智慧を 観て 菜食をし 道徳的な生活を 送れば 病気にかかる 心配はありません 私達の多くの印心した 仲間達は一晩で病気が 治ることがあります 大変重い病気で 手術しないと死ぬかも しれないという 病気です 臨死の状態から戻った ばかりの人もいます 道徳的な生活を 送ったお蔭と 神の庇護の力で 生き返ったのです 正しい方法で内面の 力を開くと この仏性または 内在の仏陀又は 神と呼ばれるパワーは 二十四時間 もしくは   私達が体を離れて からも守ってくれます ある人は私に なぜ 呼吸をコントロール する呼吸法で 神に近づく事は できないのですか この方法で神を知る 事はできませんかと 聞きます「私は疑問に 思います なぜなら 呼吸は私達が意識が ある時だけあります 気絶したり 心臓病の 発作や何かの事故 または何かで呼吸が 止まった時 または 死んで もう呼吸が できなくなった時 それではどうやって 修行しますか 何に頼って 意識を戻し 蘇るのですか 私達は寝ている時 呼吸を意識しません だったらどうやって 二十四時間私達を 守るのですか」と ですから私は今私達が 修行している法門は 最もパワーがある ことが分かりました

一日中守ってくれます 内面から悟るのです たとえ寝ている時でも 神のパワーは 面倒を見てくれますし 死んでも この パワーは消えません とても安全です 永遠のパワーに頼る方がより安全です 呼吸法にたよるより ずっと安全なのです そこで私が皆さんと 分かち合いたいのは とても簡単な 私達が常に加護の 力の中に 万能のパワーの中に いられる方法です この方法は私達の命を 救い 国を救い 宇宙の調和を 実現します これはとても簡単で 難しくてできないと 言い訳する人は いません とても簡単で皆さんが パンをかじるよりも 簡単です パンを食べる時 時には 歯がよくなくてパンをかじると痛くて かじれません 入れ歯の人は 硬くてぱさぱさした フランスパンを かじる事ができません 皆さんが興味を お持ちなら 無料で 瞑想方法を 分かち合いたいと 思います これはパンをかじる ことより簡単で  入浴するより簡単です 入浴することが 困難な時があります 電気がないと お湯が出ないし ガスがなくても お湯が出ません

また蛇口が壊れたり 錆びたりすると きれいな水が出ないし 水が出ません しかし瞑想を習い 神のパワーと 智慧を開き これを生活の中に 応用する事は とても簡単です 驚くほど 簡単なです この簡単な法門に 出会う前 私は多くの法門を 試した経験があります 例えばチベット仏教の密教や タイとミャンマーの 様々な修行法です それは多くの器具と 仏具が必要で これらがあって 始めて修行でます しかしこれから 私が皆さんと 分かち合いたい 観音法門はそれらを 必要としません 観音法門は他のどの 法門よりも簡単です 電車の中や バスの中とか公園など どこででも 神のパワーと通じ合う 事ができます 神の加護を感じられ 神と面と向かって見る 事ができます おそらく イエスや仏陀や あなたが最も敬愛する 人と通じ合う事ができ しかも目の前に現れ 色々と教わることが できます またあなたを加護し あなたを導き あなたの手を取り 二度と孤独を感じない ようになります

でもこれは最高の 境界ではありません イエスや仏陀を 見たとしても最高の境界ではありません 最も高い状態は皆が 自らイエスまたは 仏陀になることです それで 世界を救う すべての力を持ち  苦痛と生死の輪廻の 環から救われます 皆はたいへん賢く 全知で 遍在する ようになります それは私達が到達 できる最高の段階です この最高の遍在の 状態とは何ですか ええ 私は皆に正確に 話せませんでした 私はただ皆にそれは 非常に素晴らしくて 素敵と言えるだけです 多く話せませんでした 話すのが難しいです 経験する事は簡単です 私は皆に来るように 誘って永遠に持続でき 決して品切れに  ならず 決して 市場価格の騰落のない  インフレのない 決して税金の賦課ない 富を共有することが できるだけです 誰も私達からそれを 盗めず 誰もそれから 離れるよう強制できず 誰も私達が何を持って いるかさえ分りません それは秘密の宝です

イエスは「汝は宝を 最も堕落させる 地上に積むのではなく 汝の宝を天に積め」と 言いました つまり宝は天で 見つ付けるということ 彼はまた彼の王国は 地上にあるのでなく 彼の父と一緒にあると 言いました それで彼が言う意味は 彼はこの無限の宝を 見つけたということで それでこの宝を私達も 見つける事ができます 彼は彼がすることは 私達もでき おそらく より良くさえできると 約束したからです 私達はイエスより偉大 でないかもしれません いいえ いいえ 彼の言う意味は たぶん未来に 現代のように 技術 文明化が非常に より大きくなる事です それで現代人の欲求と 必要を満たすために 神からのより多くの 力を使わなければ なりません そのためにイエスは この全てが要りません  彼は若干の奇跡を行う 事で十分です そして 人々は追い掛けました

この頃は二、三の 奇跡では十分でなく 皆はより多く必要です 皆は国際的な登場を 必要とします

皆は異なる国の言語や 文化の知識を 必要とします イエスには必要でなく 彼はそんなに沢山学ぶ 必要はなかったのです たとえ彼が学ぶ必要が あってもエルサレムを 歩き回るだけです 彼はそれだけ何も使う 必要はなかったです 二、三の奇跡だけです この頃は 私達はありとあらゆる 輸送 電話 テレビ ビデオテープ ありと あらゆるこれらの奇跡 「天耳 天眼の奇跡」を現代の 人々に奉仕するために 使う必要があります