私達フォルモサ (台湾)人は家に自分の クッキーがあって 誰かに食べるものが ないならきっと彼らと クッキーを半分 分け合うでしょう そうですね フォルモサ(台湾)の 人々は非常に親切で 情け深いのです 慈善については たくさん時間を使って 話す必要はないです どこへ行っても 慈善団体を見ます そうではありませんか それらはたくさんあり ライオンズクラブや 慈済功徳財団など カトリックにも 多くの慈善グループが ありますよね そこには多くの 公共団体があります フォルモサ(台湾)は とても小さいけれども 人々の心は とても大きいのです それが嬉しいのです フォルモサ(台湾)が どんどん良くなるのは 驚く事ではありません 私達のフォルモサ (台湾)はこの世界で 3番目か 4番目に強い国と 格付けされます

私達は金持ちで文明的 また発展しています 私達は他の強い国々に 張り合うことが できるのです 本当に競うのではなく 比較するのです そうですね それが分かりますか そうです 皆さんは自分を誇りに 思うべきです 私も誇りに思います 私達フォルモサ (台湾)は物質的にも 人道的観点でも 何も欠けていません それは我が国が 物質的に最も高い 文明を発展させた ことを意味します

国が実質的に発展の 頂点に達したなら 私達の精神は 変化し始め  そして 私達の心も 変化し始めるでしょう というのは 私達が物質的に満足し 肉体的にも快適な時 例えば 素敵な家に住み 環境もよく そして食べ物も 十分にあると 私達はリラックスし 考え出します 何について考えるのか 私が幼い頃 疑問に思ったのと 私達は同じ事を 考えます 例えば 私達はどこから来たか 死後どこへ行くのか 頭が上下逆さまでは なく このように 見えるのはどうしてか また多くの感覚ある 生物の苦しみを見て 彼らが病気のとき 助けられません 医者でさえ治せない 病気があります 親族がそのような 苦痛を受け そして 混乱に直面するのを 見る時 痛みと 悲しみは感じますが 彼らを助けられません また彼らが亡くなる時 私達は一秒でも 引き止めることが できません さらに辛いことは 私達は彼らがどこへ 行ってしまうのか 分らないことです 昨日まで彼らは私達と 雑談をしていたのに 今日は行ってしまう 最も有名なマスターに 依頼して来てもらっても 彼らは私達の親族や 友人を助けられません そんな時なぜこんな ことが起るかと思う そうですね(はい) 我が国があまりに 多くの問題を抱え とても貧しく お金が不足し 精神的に 心地よくなければ 私達はこれらの複雑な 哲学的問題について 考えないでしょう

しかし我が国は発展し 物質文明の頂点に 達したので 私達は他の何も 心配する必要は なくなりました 私達は裕福で 暮らしも良いので 霊性の問題について 私達はもっと考える 時間があります それはまた我が国の 人々が非常に親切で  至る所で慈善活動を しているからです 慈善団体が お互いに自身に 思い出させますので 私達は良いカルマ (福報)を受け取ります それで優しく 親切な雰囲気を 引き起こすのです 私達に準備が出来た時 仏陀は私達と交信 するようになります そうでなければ なぜ仏陀は地獄へ行き そこにいる衆生と 交信しないのですか または仏陀はなぜ より多くの問題ある国 後進国 鎮圧された国 または非民主主義国に 行かないのですか 私達の国は自由主義で いくつか他の国は 自由主義ではないです それらの国は なぜ霊的な教えや 道徳的な行為や 慈善行為で 繁栄しないのですか それは(カルマ報い)の ためです だからなぜフォルモサ (台湾)には 霊的な 教えを説いている人が 沢山いるのかと 驚いて尋ねるべきでは ありません 多くの人々は その教えを広げるのに 非常に都合よいのです 私は嘉義市の市民は 嘉義の市長のことを 媽祖婆と呼ぶと 耳にしました

媽祖婆は 観音菩薩と 似ています その市長は 大変慈悲深いからです 彼女は大変公平だとも 言われています 彼女は人々からの不法 金銭は一切受け取らず 彼女自身の資金さえ 慈善事業に使うと いうことです もちろん嘉義市の人は そのような恩恵に 値するからなのですが ただ良いカルマ (福報)があるなら 彼らはそのように良い 市長を得られるのです あるいは私達が 先程お話ししたように 私達は即座に穏やかで 親しみやすく歓迎の 雰囲気を感じます 私は多くの場所へ 講演へ出かけましたが 講演を主催するために 8組織も加わって 下さった所は他に どこもありません それは 嘉義市の人々は お互いに非常に 協力的だからです 互いに交戦する 代りに 彼ら自身の間で 協議を行うのです 他党を攻撃するような 政党はなく ある政党は 他党を称賛しますが いまだ他の党は互いに 交戦しあっています 嘉義市の人々は より平和に見えます 従って市長は 他の皆と同様に 思いやりがあります それは一種の 良い集合カルマ (福報)です 例えば人々が 同種の恩恵を 持っていて 同意見で 人々のレベルが 同じ種類で 同じ種のカルマ (報い)なら その人々は同じ場所で 生活します

あるいは同族の中に いることでしょう それがいわゆる 「集合カルマ」 (報い)です もう一つ別の種の カルマ(報い)に 「個々のカルマ」とか 「個人の恩恵」と 呼ばれる物があります それで同じ国に 生まれる人々で ある者は裕福で他者は 貧困だったりします 健康な家族に 生まれる 人々もいれば  虚弱な人々もいます これを個々のカルマ (報い)と 呼びます 集合カルマ (報い)は 一般的なカルマです 例えばですが  どのタイプの人々が 同じ家族に生まれるか または同じ場所に 生まれるかが 決まるのです 嘉義市は良い集合 カルマ(報い)に 見えます 皆が親切です しかし私達が修行し 人間としてそのような 程度であれば既に 完璧と言えましょう 市長は本当に公平で 慈悲深く 彼女は人として 完璧です ライオンズクラブの メンバーは 通常の仕事のほかに 自身の時間を エネルギーを 技巧を 資金を使って 恵まれない人々を助け 彼らもまた人として 完璧でしょう どの宗教を信じようが 関係ありません 完全に道徳的です 彼らはいわゆる 孔子の教えの「慈悲 正義 礼節 智慧 そして 信頼性」を 持っています このような人間に なるため人はそれ以上 発展しないでしょう 彼らがは既にトップに いるので人はそれ以上 進むことはできません

自身の面倒をみる 以外に 私達は貧困の 人々を助けるため 最善を尽くします それは人間であるのに 十分たることです 嘉義市の人々は 人間として 十分良いように 思われます どんな場所とか 国に住んでいても 私達はただその 国の王をみるべきです あるいはその場所の 政府の指導者が 道徳的かどうか 高潔かどうかを それで そこで 生きる人々の一般的な 考えが分ります 私達はそこの人々の 霊性と道徳的な面を 知るでしょう それが理由で昔の王は 「天子」と 呼ばれていたのです

王は天国から送られて きたのです あるいは 高級官吏は天から 権限を委任されました それで王が善良なら 高級官吏も良く もちろん ほとんどの人々は その模範に従い それで良くなるのです

私達はそのような 高いレベルの人間は 自らの人間としての 課題を修めたのだと 知るべきです では私達は今から 何をすべきでしょう 自身の面倒を見る他に 私達は十分な 食事をし 義務を遂行し 自分の 仕事もうまくこなし また隣人や 困窮している人々の 面倒もみます 私達は全てをうまく 成し遂げます そして他に私は何を したいのかと 自身に尋ねるべきです 仕事は多いの(はい)
どんな仕事ですか (修行です) 修行を 遂行することです 良い人であることも 一種の修行です (解脱を得ます) よい人間であることを 修行しなさい ええ 私達は 解脱もしたいし  家へも帰りたいです どこの家ですか お母さんの家ですか それは私達の家で 故郷です この世界へ来て 人間になって そして私達が人間の 標準にしたがって 非常に高いレベルに 到達したなら 私達は仏陀 あるいは 天によって送られた ことを知るべきです 私達はただ自然に 高貴な理想と 高潔な性格と 慈悲心を所有します それゆえ 私達は 普通の人間でないと 知るべきです ここに来ている 私達の任務は 動物を含めて他の 困っている衆生を 助けることです 彼らを助けた後 もう家へ帰る時間だと 知らねばなりません

家へ帰った後 他を助けるために 再び 戻って来たいなら 戻って来られます あまりにも長い間 働いた後なので私達は 力を失うからです そして加護の力は 減少します それは車と同じで 時にもっとガソリンや オイル交換が必要です または機械のようで 修理や定期的な 点検の必要があります メンテナンスのために 家へ持って帰ります 私達は一日中 高速道路を 運転できませんし 修理もせず 休憩もしないまま 車で人を運ぶことや 商売などできません 私達が人間として 完璧であっても 将来よりうまくやる ためには自身を再充電 する必要があります それは創造主がこの システムをすでに 準備したからです 暫く働いた後は 休まねばなりません 一生涯働いたら 長い休みをとる 必要があります 一日中働いたら 夜には睡眠をとる 必要があります  皆が知っています なぜ眠る必要があるか 私達のシステムは 休憩が必要なのです

眠らなかったら とても 不快であると感じて 起きられなくて 翌日は働けません そうでありませんか たとえ私達が 起きようとしても 目と口を開くことが できません 話すとき 「おげ んき ですか」 と話します それは正しいですか 「私は疲れてません ただ 目を開けて いられないだけです 暫くしたら起きます オフィスで寝るには あまりにきまりが悪い と感じるので しかし 後で再び倒れます こんな事がありますか (はい あります) 皆が知っています それは自然に 逆らっているからです 夜眠らなくて  「機械」を 休ませませんでした もちろん 私達の体は 最も完璧な機械ですが 同じに休みも必要です 車があまりに長い間 走るならオーバー  ヒートします そして 壊れるか 爆発します 私達の機械も同じです あまりに長い間使うと 不満を言います そういうわけで  病気と苦痛があります または時々疲れます それはすべて十分な 休息をとらないから 同様に私達は この人生で善人であり この世界に十分な 加護を与えました そして 完全に私達の 任務を果たしました しかし 私達はこの 世界の後の長い休息に 対して少しの準備も しませんでした

自身を再充電できる 静かな所を 準備しないなら 何かを食べて 魂は消耗します  それを重いカルマ (報い)と呼びます カルマとは何ですか それは私達が日々得る 他人との関係です

苦痛または鬱病に かかっている誰かが その感情について 私達と話をするとき 彼の重荷の 半分を共有します 私達には優しさが あるので 確かです 我々が誰かの痛みに ついて聞かされるとき 家に帰った後に 彼のことを 考え続けます あの人はあれだけの 苦しみの中にいる どう彼を助けられるか たとえどんな援助も 提供できなくても 心は彼の問題について まだ考えます そうでありませんか その時 彼の悪いカルマ (報い)を受けます 彼が家に帰ると 重荷は半分に 軽減され 私達は目に見えない 残り半分を受けます それで私達が他人を 助けるとき 他人の問題に 幾らか影響を受けます 彼の精神状態や 消耗や苦悩は 目に見えませんが 私達の心に入ります その時 私たちは彼の 悪いカルマ (報い)を集めます 毎日 多かれ少なかれ 私達は若干のカルマ (報い)を集めます 他人が苦しむのを 見るに耐えられず 私達は何とかして 助けようとします ですからライオンズ クラブとか 慈済功徳会とか 進香団などがあります 彼らは人々の 問題を考え  何とかして 助けようとします でも助ける時は もちろん彼らの 苦しみの影響を受ける ことも避けられません

なぜなら私達には 同情心があり 万物は同一体 だからです そういう訳で 釈迦は全ての衆生には 皆仏性があると 言っているのです それでイエスも 私達は自分を愛する ように他を愛すべき と言っているのです 私達がここに この世界を加護し 完璧にするため来た時 パワーは小さくなり パワーが完全に尽きた 人もいます  全ての功徳 パワーと 福報をこの世界で 使い果たし 全部人に 分けてしまったのです 無形のものも 有形のもの全て 分けてしまったので 魂は大変疲れています 助けを必要とする 人達と同じような 苦しさを感じています そういう訳で真の家に 帰る時がきたのです 私達は家に帰って 休息せねばなりません  別の仕事をしたり リラックスした 仕事をすると 元気を回復できます そしてこの世界に 再び戻って来て この世界を助けたり まだ発達していない 兄弟達を助けられます

例えばある人が とても善良で  よく布施し 善行を行い 人を助けるとしたら その人の魂は 比較的進んでいます

高いレベルか 成熟した魂で 仏菩薩に近いことを 意味します  ある人は 魂がまだ幼く まだ子供みたいです 子供が大きくなると 大人になりますが しかし子供の時は 世間知らずで いたずらばかりして 親や先生を 悩ませ 苦しませます 人間は皆同じで ある人は智慧が発展し 慈悲心も高度に 発展していて 何をするにしても 親切で 皆 人を助ける ためにします ですから人の行為を 見るとその人の 内面の智慧がどれだけ 発展しているか 慈悲心が仏菩薩と どれほど近いかを 知ることが出来ます またある人は 人を助けないばかりか 迷惑ばかりかけます これでその人の魂が まだ幼いことが 分かります 大きくなった人が 常に諭し  彼の手を取り 一緒に 歩くことが必要です ですから魂が 成長した人や 慈悲心が発達した人は 常にこの世界に戻り まだ幼い魂 慈悲も智慧もまだ 発展していない魂の 面倒をみるべきです ただこれらの魂の 面倒を見終わった時は 私達も老いるのです 子供を大きく育てて 教育も受けさせた後は 私達も老いてしまい 歯も抜け始め ひげも伸びます ひげが長く伸び 体も弱くなります これは私達の この世界での役目は 終わって 道具として 必要とされないことを 意味します

家に戻る時が きたのです ただ家に帰るためには 荷物の準備が必要です 私達が老いる前に 老後の生活のために 準備するようなもので 同じです さもないとこの世界を 離れるときに どこに行ったらいいか 分からなくなります 死ぬ時病気で苦しくて 自分自身を 助けられません なぜなら 病気になる前に 老いる前に 家に戻る前に準備して おかなかったからです この目に見えない 荷物を準備すべきで 大変簡単なことです ただ毎日少しの時間を 割いておけばいいです 二十四時間この世界に 奉仕するのではなく 毎日二時間割いて 老後の準備をします 魂を保養するための 準備です 魂が疲れて この世を離れるときに これが必要です というのは私達は この世界に永久に 住めないことを 知っているからです どんな地位にあっても どんな良い事悪い事を した人もみな後で この世を離れます その時のために 準備しておくべきです その瞬間のための 準備を修行といいます 修行には沢山の 法門があります これは周知のことです 例えば フォルモサ(台湾)に 浄土宗の法門があり 禅宗の法門があり 天台宗の法門など 多くの宗派が あります カトリックも 教会に行って 神を賛美し 聖書を読むなどします

一種の道徳面での 修行です 念仏するのも 大変役に立ちます サマディに 入ることもあり 気持ちよくなります しかしこれでは智慧が 発展しません なぜなら他力による ものだからです 修行にも 他力による修行と 自力による修行が あります 他力によって 修行しても 幸せになり 仏陀を 見ることもあります しかし自分自身を 発展させなかったので 智慧を得ることは とても難しいのです 例えば 三十年間 念仏をした人に 会った時 三十年前と比べ 彼の智慧は なんら変わりが ありません 彼らと話をして見ると 智慧は何も変って いない事が分かります 以前より善良になり 純心になっている かも知れませんが 他は進歩がないのです 修行を取ってみると 例えば禅宗の 公案を当てる修行も サマディーに入る こともあり 何かが分かることも あります または一二三四五六 七八九十まで数える 方法でもサマディーに 入ることもあります 何でも繰り返し 唱えるとサマディーに 入れます ですから たとえ数を繰り返し 唱えてもサマディーに 入るのです もちろん阿弥陀仏を 唱えてもサマディーに 入ります 阿弥陀仏は 偉大な仏陀でもちろん サマディーに入れます でもサマディーに入る のと智慧が開くとは 異なることです

サマディーは サンスクリット語で 中国語では 三昧とか 念仏三昧 禅三昧と言いますが これは智慧が開く こととは違いますし 究極の境地に到達する こととも違います しかしたとえ 禅の修行や 浄土法門を学ぶと しても先生を 選ぶべきです たとえば浄土の 法門を修行したい場合 徳の高い人で 念仏を通して三昧を 体験している先生を 選ぶべきです そうしてこそ良い 結果を見る事ができ 進歩も早く 魔に取り付かれず 他の問題にも ぶつかりません また禅の修行を したい場合 一二三四と数を数える ことが好きであれば やはり数を数えて 三昧に入った先生を 探してこそ 結果をみることが できるのです 公案も同じです 沢山の公案の答えが 分かる先生を探して その人について学んで 始めて結果を見る ことができます どんな科学も先生が います そうでしょう 英語を習おうとしたら 語学に堪能な 英語の先生を 探すべきであって そして彼について 習うことができます またダルシマーの 演奏を習うのも同じで よい先生を探して 学ばなければ なりません ABCしかできない 人について学んでも 役に立ちません 同様に 修行をしたい場合 一人で黙って 修行しないことです 魔に取り付かれる 可能性があるからです

魔に取り付かれると 救うことは困難です もう遅すぎます 救うのに時間もかかり 本人も苦しみます ただ永遠に魔に 取り付かれない法門が あります それが 観音法門です 魔に取り付かれる わけがないのです そう願ってもです 安全で速い法門です 沢山の法門があって どれもいくらか ご利益はありますが 観音法門は 最も速く 最も安全で いかなる 副作用もありません なぜでしょうか 例えばオゥラック (ベトナム)では ある人達は 会計を習うのに 六カ月かかります しかしある学校は たった二カ月で 卒業できます 一種の集中的にやる 学校です フォルモサ(台湾)に こんな学校はある? はい または秘書になる ための勉強も大体は 長い時間がかかります しかし二、三カ月しか かからない学校もある そうでしょう 同じです 同様に 修行の場合も ある法門は 相当長い時間 修行して やっと仏陀になる ことができます でも遅すぎます 観音法門は 「高速道路」の法門です ずっと高速を保ちます いやな赤信号や 青信号もありません 観音法門も このようです 街や田舎の道だと 速く運転できない上 車が渋滞したり 赤信号や 青信号があり 人も行きかっていて 時には犬や猫 豚まで道に現れて 迷惑をかけたり 私達の時間を 潰してしまします  慎重に運転しても 安全ではありません 高速道路は誰でも 自由に運転できます そうですね 人々は時速 九十キロ 百キロで 運転します 皆が行く道を 知っていて とても便利です

観音法門も同じです 迅速で楽で 信号のない道です 私は多くの国に行き 多くの法門を 習いましたが この法門が最も有効で ある事が分かりました そこで戻ってきて これを知りたいという 人と分かち合います これを分かち合う事を 恥ずかしがったりせず 皆がこれを学べます 願うのであれば私に ついて習ってもよいし でなかったら他の 法門を習ってもいいし ただ 覚えて欲しいことは  よい先生を探すべきで 自分で試さない事です

それは危険です

多くの私について 観音法門を習いたいと 来た人が すでに 魔に取り付かれていて ひどい状態です 簡単に彼らを助けて 問題を解決する事では ありません ですから私は皆さんに 修行するなら 正しい道を選ぶことを お勧めします

どんな法門を 習うにしても よい先生を見つけると 問題が起きません 話は変わりますが フォルモサ(台湾)は 美しい国で 国際的に名を 知られています 美しいフォルモサ (台湾)は 世界に知られています フォルモサは 蓬莱 つまり美しい島 と呼ばれます だから私達は この国をよく保護し 美しい名に相応しく 振舞わなければ なりません  あるまじき行為で 純朴で美しい伝統を 傷つけてはいけません