苗栗に住んでいた時 苗栗に住んでいた時 私達が貧しい人達の名前のリストが 欲しいといったのは できる範囲で助けて あげたかったからです そこへ行って弘法した わけではありません 苗栗に行ってみれば 分かると思いますが 私は隣に行って 法を広めたことは 一度もありませんし 彼らに来てもらって 経の講義をしたことも 向うから私の所に 経の講義を聞きに 来たこともありません 弟子達にも隣に行って 迷惑をかけるような ことをさせません 皆は私がそこに住んで いることを知っていて よく会いにきます 私の所に来たければ いつでも きます 私達は決していかなる 強要もしません 隣の人にも 何もしません  ましてや他の人には それに隣はまだ 印心もしていません 私達がどこに行っても 隣の人は 印心しませんでした

毎週数百人の人が 私を見に来ては 私の経の講義を 聞きます 観光バスや テントも多いですが 彼らは決して 印心しません このことからもとても 自適だと分かるはず 私達は住み着くと すぐに隣の人に 印心するよう 勧めたりはしません そうではありません 私達はただ分かち合う だけです というのは 毎週印心した人たちが ビスケットや飴を 持ってくるので それを隣の人に 分けるだけです こういうことは 当然だと思います 隣の人がいる場合は 当然そうすべきです 彼らに物をあげるのは 法を広めるためでは ありません そこでどこへ行っても 隣の人が印心した ことはありません なぜだか分かりません 私達も理由を 聞きません 私達は 一緒に住んでいます 牛や鶏も人間と一緒に 住んでいますが 問題ありません 印心を受けた人だけを 歓迎したり助けたり するのではありません 印心を受けた人とだけ平和に過ごせるという のではありません 違います 隣の人達は印心を 受けていなくても 私達に大変親切です 地元の警官も大変 親切にしてくれます 彼らに印心を 受けさせたいからでは ありません 時々 警官に沢山の物を あげます 

昨日警官らに 贈り物する時  どうしたらいいか 話すのを忘れました 私達は警察や 公務員のことを 当たり前のように 思っています 彼らが 真面目に働いているが お金は少ないことを 考えません 彼らの弱点ばかり見て お金で賄賂し 自分に有利になるよう 便宜を図るのです しかし法律にとっては 好ましくありません これはよくありません 彼らに感謝の心を 持つべきです

感謝の気持ちを 表したいのであれば お茶とか ビスケットなどを 上げて  彼らが喜んで働き  人民に奉仕するように しなければなりません  献金してすぐに自分の ために何かをやらせる ことはいけません

彼らを不快にさせます 彼らもうまくいかない 場合 苦しいのです 賄賂は本当に両方を だめにします 廉潔な心が汚されます 警官らに何かを あげたい場合は 敬意を持ってすべきで 何かお願いすることが あるのではありません 仕事が大変な ようなので これを 分かち合いたいのです  私達は沢山持ってるが 皆さんにはあるかと 言ってあげるのです 彼らに物をあげる人は 少ないです 皆さんはあり過ぎて

彼らに分けるべきです 道場で 食べ切れないから 彼らに分けるのでは ありません  そういう意味では ありません ただ私達が持っている ものは彼らにもある べきと思ってるからで そういうことです 皆が少しずつ カンパすると  この世界は それほどの格差が ないと思います 阿含経に 釈迦が言った話が 載っています 天地が創造された時 私達は何も 食べる必要もなく 多くの光に包まれ 自分で方々へ飛び回り とても自在でした 服も必要なく 食べ物も要りません 長い時間 住んでから 地面に生えた甘い ものを見つけました 蜂蜜のようでそれを 取り出して食べて いました それを食べたら 体はきめが粗くなり 後には光がなくなって しましました そして体は 地面に接して方々 歩くようになりました  今のようにです

蜂蜜の河が 枯れてしまうと彼らは 別のものを育てたが それもおいしかった 彼らは益々食べる事に 慣れていきました 食べれば食べるほど 醜くなり 沢山食べる人は もっと醜く 小食の人は まだ光があって  少しきれいでした そこで差が できたのです きれいな人と 醜い人が いました 醜い人は きれいな人が 好きになりました 後に 男と女ができ 男は女が好きになり 皆が違って きたからです 以前は皆が同じでした 性的欲求もありません 今は全員互いに 違うために こうなったのです

後に 地球には 沢山の五穀が 生えてきました お米は今と 同じです 彼らはそれを 食べました 他のものはありません 甘いものは なくなりました お米と麦を食べました 他のものは もぎ取って食べました その時はとても 自由自適でした それらは自然に生え どんなに食べても 独りでに生えてきます 問題ありません いくら食べても もっと生えます 何も植える 必要もなく 面倒をみる 必要ありません ある期間が過ぎると ある人は 怠けてこう言います ああもう 毎朝行って 食べるものを 手に入れ お昼もう一度 いかなければならない 夜もまた行かなければ ならない しんどいなあ 一日中食べる分を 持ってきたらいい とつぶやくのでした

そこで一日分を 持ってきます 友人が食べ物を 取りに行きなさいと というと彼は言います  もう一日分持って きたから 皆さんは好きな分 持っていきなさいと 他の人は思うに 彼は頭がいいなあ 一日分も 取っておくなんて 私は二日分取って おこう もっと楽に なりたいと思うのです 他の人も同じ事を します  これがずっと続き 五日分も取っておく 人もいれば 六日分取っておく人 十日分取る人もいます 後に お米や他の作物は 足りなくなりました そんなに早く 育たないのです そこで人はフェンスで 囲んで誰のもので 誰の畑なのかを 分かるように しました そこで財産を 持つようになります これはいいのです 私有財産を持ちます しかし よく育たない しかし よく育たない 財産を持った人は 他の人の食べ物を 盗むようになりました 沢山盗むほど 悪くなっていきます そこで自分で畑を 耕して 十分な 食べ物を得るように なりました 後に耕作が うまくいかなくなると もっと踏ん張り もっと盗むように なりました そこで法律ができ 法を司る王が現れ 諸般の事を処理する ようになりました 法律は益々 体系化されましたが 人々は 貧しいだけです 以前は食べきれ なかったのですが  今は足りません 沢山持っている人と 少ししか持って いない人がいます いずれも彼らが分かち 合っていないからです 釈迦の言う意味は 私達は分かち合いの 心を持つべきで こうして始めて この世界は 多く持っている 人と少ししか 持っていない人との 間の格差が なくなるという事です 私は賛同します そうではありませんか (そうです) 賛同するだけでは 足りません  明日ビスケットを 隣の人にあげる事です 私がドイツにいた時 私は実際そうしました 阿含経を読んだから したわけではなく 自然にやったのです 毎週隣同士は順番で ご馳走したのです 今日は私達が夕食に 招待され 翌週は 私達が招待します 私の番だと もちろん菜食を 作ります 彼らはとても好きです 私は菜食を作り 後から彼らに 作り方を教えます 彼らも菜食料理が とても上手に 作れます

ある日私の夫はきまり 悪く思ったのです 隣の人が私の家に 来るたびに 菜食を食べたからです ある日彼は 今日は 魚や肉を食べさせよう と言いました 私達は半日も言い 合ったのです 私は 嫌です なぜ魚と肉 なのですかと 菜食は人にいい事は 分かっていれば それを 食べさせるべきですと 彼は言いました  強要してはならない 彼らはきまりが 悪くて言えないだけで 彼らは魚や肉に 慣れている 家に来るたびに菜食を 押し付けていると 言いました 押し付けてはいません 彼らは全部食べて 帰る時は少しも残って いないのを見たでしょ あとでもちろん 私は夫を尊敬しているので認めました

彼は魚と肉を 買ってきました 私は私と夫が 食べる分の菜食を 作りました 私達二人は菜食 するからです 私は では皆は皆さんの分を 私達は私達の分を 食べましょうというと 言葉が 終わらない内に 私の分はなくなって いました 魚と肉は 手も触れません 私は 皆さんは 魚や肉に慣れている のではありませんか 彼らは言いました 私達は毎日それを 食べていて ここには 菜食を食べるために 来ているのに なぜ今日はないですか その時 私は夫を一瞥すると 彼は分かったのです

分かち合うことは 大変有意義です 私達は食べ物だけを 分かち合うのではなく 精神的な糧も 分かち合うべきです 隣の人を馬鹿に してはいけません

私の隣の人は 大変開悟していました 印心を受けて いなくてもそうです 大変開悟した 話し方をします 一冊の私の本を 読んだだけで とても知的で多くの ことを知っていました これは印心とは 関係ありません 私は決して 人に強要しません ですから時には 自分の知っている事を 分かち合う必要が あります 私達がベジタリアンで あれば人にも 知ってもらうことです

菜食するのであれば 皆に私達の生活を 知ってもらうと彼らは 私達の自由意志の 権利を尊重するのです 私達も皆が自分と 同様にと強要しません でも自分が 知っている事を 分かち合うのです すると聞き入れます

私達の見方を 彼らと話すのです 私の考えこそ正しい とか 信じないと 地獄に落ちるなどと 押し付けては いけません そうではありません 親切に彼らと 話すことです

今日聞き入れなくても 明日になると 考えるかもしれません

彼の言うことは正しい のだと思うのです

食べ物だけを分かち 合うのでは足りません

釈迦牟尼仏は ダルマ(法)が最高の 布施だと言いました 法とは何でしょう

教理 正しい道 いい生活様式と 高貴な夢です 私達はまだ法を伝授 する事ができませんが 高貴な夢を伝える ことはできます 人に希望を持たせ 高貴な夢を 求めさせる ことによって 毎日混沌のなかで 過ごさなくても よいのです 一日がすぎ 食べて飲んで 遊んで 楽しむなど 毎日同じ事を考え 毎日同じ事をし 誰も彼らを 呼び起こしません 私達は法を広める 義務があります

私達一人一人は 仏陀なのです 人が人を救うことが できたらもう仏陀です 成仏を助けることは 仏陀と同じことを しているのです だから私達は仏陀です その瞬間は 仏陀なのです 仏陀と同じ事を するからです 仏陀になることとは こういうことです 涅槃(最高の境地)に 行くまで仏陀に なれないわけでは ありません 仏陀とは何でしょう 一種の見方  理解する方法であり 私達の智慧から出た 最高の理想なのです 涅槃(最高の境地)に 行くまで待って始めて それを手に入れる ことではありません 仏陀になりたければ 今すぐ生活様式を 変えることです 仏陀と同じ ことをすれば 仏陀なのです

私達は本々 仏性を持っています 仏陀と同じような ことをし  内面で悟りを開き 仏陀や菩薩のように 仏陀や菩薩のように 振る舞えば  すでに仏陀であり 菩薩なのです 仏陀や菩薩のように すればするほど 自分がとてもうまく できることを発見し 私達は元々こうでした これが好きで 以前に やった事があるように 徐々に 実際私達は以前に やった事があると 分かってきます でないと自分が仏陀 である事を忘れます そこで釈迦は 兜卒天から降りて 来ているにも 関わらず 十地菩薩以上で 大菩薩よりも 位が高く 大菩薩よりも 位が高いにも関わらず いったん降りてくると 無明になりました

目覚めるのに 三十年かかりました 私達も同じで 目覚めなければ 三万年 三十万年 かかるかも知れません

仏陀が凡夫になり 凡夫が仏陀になります ほんの僅かな 差しかありません 慎重に生活を 営まねばなりません 理想を保ち 最後まで 自分を奉仕し 仏陀と 仕事をしなければ なりません  どんな困難や妨害  誹謗に直面しても 私達は益々自分は 本当に仏陀である事が 分かってきます そして本当に仏陀の パワーが備ります これは使うほど 多く出てきます それを使わなければ 錆びてしまいます 例えば 釈迦牟尼仏が 三十歳過ぎてからも 宮殿に留まって 食べて 飲んで 遊んで 楽しむ生活を 送るとしたら 世界の統治者に なったかも しれません

経典に載っています 固定された頼れる 運命はありません 占い師は  釈迦牟尼仏が 出家して修行すれば 仏陀になるが 仏陀になるが 家にいれば ただ 世界の統治者にしか なれないとはっきり 言っています つまり 輪廻するという 意味です 大きな福報ではありますが  やはり凡夫です 仏陀でも  マスターでもなく 三界を越えた のでもなく でもなく 生死の輪廻から 解脱したのでも ありません 永遠に解脱し 偉大な智慧を得たの でもありません

彼は元々 仏陀であり 古仏であり 菩薩であっても そういう運命です 彼は生まれてから すぐ七歩歩いた と聞いています それでも彼は 三十年間も 無明でした

ですから彼だけが 仏陀になれると 思わないことです 彼はもう少しで仏陀に なれないところでした 私達も同じで 修行しないと 仏陀になれません 仏性があるから といってずっと 待っているのでは 何もなりません

これでこの世界には 沢山の宝物があって それを手に入れる ことができると 分かったと思います 観音法門を修行すると 手に入ります 知りたければ 私は歓迎します どう手に入れるかを 教えます 完全に無料です 以前も将来も 私は何一つ もらいません 生活はとても簡素で 何も要りません 寺院は 建てません 大変シンプルで私は テントに住んでいます 人に迷惑をかけず 国の税金を 浪費しません  修行は賑やかに興奮し する事ではありません 私達は人に沢山の 迷惑をかけては いけません 寺院を 建てて修行する必要も ないのです 家でも修行できます 親から離れる必要も ありません 家族から離れなくても いいのです 今まで通りやって いればいいのです ただ少し時間を割く 必要があるだけです 少しお金を銀行に 預けて老後生活に 備えるのと 同じです 簡単です 二十四時間は 多いです 私達はその内から 二時間半割いて魂を慰労します すると後にこの世界を 離れるときに 留まる場所もあり 真の家を持つことが できます この牢獄に 二度と落ちる事もなく 動物の牢獄や罠に 二度と落ちてきません 阿修羅の袋に連れて 行かれる事もないです

阿修羅の世界には 多くの空の袋があって 私達は死ぬ時に 気をつけないと その中に落ちます 一旦落ちてしまうと 制御できません だから 幽霊はあちこち 飛び回っているのです

一箇所に留まることが できません 風があれば飛ばされ 風がないと 止ります 食べることもできず 住む所もありません 話すことできません 行きたい所にも 行けません 自由がありません これはいわゆる 阿修羅の袋に 捕らえられたからです

ビニール袋の ようなものです この地球には 一種の水素の風船が あります 大気の中を飛び 下に大きな籠が ついていて人は 籠に座る事ができます

阿修羅の袋に 入れられたら 水素の風船に 入れられたのと 同じで 制御のしようが ありません だから幽霊になると 悲惨なのです いずれも 生きている時 コントロールが できる時に それを コントロール しなかったからです 人間世界にいる間 大事な時間を利用して 自分の生活をちゃんと 営んでいなかったです だから離れるときは 悪いカルマ(報い)の ため とても慌てます 他の幽霊達に 脅かされて 方向もなく 逃げ回ります そこで人間の体に 入ったり 動物の体に 入ったり 地獄に落ちたり またはいわゆる 阿修羅の世界の 袋に入ったりします そこではコントロール しようがありません

人間の体を 持ってこそ  コントロールできます 私達の将来や これから住む場所も 選択できます これらは将来起こる ことではなく 今 他の所に 行って住み  まだ戻ってきます 行ったり来たりします これが習慣になります すると後に 私達が離れるときに 自分がどこへ行くか 分かるのです なぜなら 行ったり 来たりしてもう 慣れたからです こんな感じです さもないと 大半の人達は 阿修羅の袋に落ちて あちこち 飛び回ります 数百年生きる ことができますが しかし無意味で とても悲惨です この世界には多くの 事が罠のように幽霊が 引っ掛るのを待ち 受けています  これは魔王の仕事です 道教では いわゆる魔王とは陰のことです 陰ともう一つ 陽があります 今私達は陽を見つける ことができます 死んでからは 陰の力が 大きいです 生きている時は 陰と陽両方あって 私達は陽を取って 陰は取らない ことができます 死んだら 陽が消えていて それを抑制できません 陰しかありません

そうなったら もう遅いのです

マスター 私は軍人で どのように修行したら いいですか 私は経を読んで 瞑想する時間は ほとんどありません ただ仏陀の名を 唱えたり 四つの無量心を 保つぐらいです どうしたらいいですか

徴兵された時は 修行できましたか

(はい)大丈夫です 彼も前に 兵隊に行ってました ここの修行僧達は 時々 徴兵されます  十日間の事もあります 修行できますよ 大丈夫です 観音法門を 修行するのは とても簡単です 朝に一時間 夜に一時間できます 休憩時間に 修行しなさい 皆が眠るとき あなたは起きて 一時間 修行にあてるのです かまわないでしょう 私たちは多く眠れば 健康で元気という わけではありません そうとは限りません ここにも 夜は眠らず 瞑想している お坊さんがいます 日中 彼は仕事に行きます テレビ局で働いてます 退職したいのですが テレビ局がやめさせて くれないのです 彼は こう言いました 「では 半分 僧として 修行しつつ 働きます」 こうして 彼は 仕事に行くために 朝五時頃に起きます 正午に戻って来て 昼食を取ります 休んで それから瞑想します

彼は殆んど眠りません しかし 毎日 仕事も 修行もできます 問題ありません 意志さえあれば 何でもできるのです 山を動かし 海を覆すことが できる人もいるのです 私たちはわずか 二時間半の修行です  言い訳できませんよね 修行しない口実など 見つけられませんね しばらくして死ぬ時 誰にも 私達が 解脱する理由が わかりません

マスター あなたには 無明の私を 即座に悟らせ 解脱するよう 助ける能力があると 私は信じています 私のような者でも 印心は受けられますか もちろんです あなたは印心を 受けるには最適です 迷信的な人々は そうではありません はっきりした 客観的な心で 印心に来てください これが 最も正しい態度です ただ私が好きだから 来るのはいけません それは個人の 人間の 感情 阿修羅感情です マスターに伺います 懸命に瞑想すれば 『沈黙の涙』の中で 「マスターの慈悲を 切望するが 応えはない」と 書かれていたように 無力で惨めではなく 進歩するというのは 本当ですか

はい これは 人によって それぞれ違います 印心のときと その後に 非常に良い体験を する人もいます しかし 体験が多いほど ますます望みます しばらくすると 渇望しなくなります その後は「この世には 何も起きていない」 ように感じます 私達は辛い渇望の時を 経験しなければ ならず その後やっと 大丈夫と感じるのです 赤ちゃんを 産むようなものです ある観点からですが 子供を産む前は 見ることは出来ず 見ようともしません

しかし 激しい 痛みを伴って 子供を産んだ後は 大丈夫です 修行において 時々 私たちには 激しい渇望があります マスター あなたがステージで 講演をしているとき 全身が光であると 話す人もいます 彼らは殆どあなたが 見られず 講壇は 仏光でいっぱいです マスター 良い修行者だけ その光が見えると 言うのは本当ですか 本当ですか(はい) では 他の皆は 悪い修行者ですか 人々には様々な レベルがあります 見た人の一部は 印心者ではありません 印心者は自分の経験を公開しない様に話した ことを知っています つまり  それを見たのは 非印心者という事です これは彼らが前世で 非常によく修行した ことを示しています 現在も 純粋なのでその 体験があるのです もちろん 心が純粋な 人だけに見えます これは彼らが 非常に良い修行者で あったことを示します けれども 熱心に 瞑想していたという 意味ではありません 確かではないのです 修行は 瞑想だけに ついてではありません 彼は前に修行しました 現在 彼はまだ 修行のその雰囲気を 持っているのです まだ清い心があります 子供のようなのです それゆえに イエス キリストは言いました 「あなたは子供のように 純真にならない限り 天国に入ることは できません」と 非常に純粋で 無邪気という意味です 老子も 子供に 戻らなければならない と言いました これがその意味です 年取った人が 子供になることでは ありません 違います 子供のように 美しくなることで すると私たちは 誰が良いか悪いか 誰が光を持っているか いないかわかるのです さもなければ 私が半年話し続けても 無駄です ひっきりなしに 私は皆に聞かれます 「あなたは仏陀ですか」 「あなたの超能力を 見せて頂けますか」 見せて頂けますか」 でも私は黙っています 時折 それを見て ばらす人もいるので 人々が少し知るのです

マスター  歴代の仏陀 聖人達 例えば キリストや聖母マリア 釈迦牟尼仏陀 老子や孔子と 過去 現在 未来の聖人 全てが 頭や体中から 光を発している というのは本当ですか 本当です 肖像画を見れば わかります 少なくとも仏陀や イエスキリストの絵は この辺に光があります 彼等が聖人であると 示しています 光の無い聖人は 一人もいません 絵の中では彼等には 全員光があります 人々が こう見て いた事を意味します 私達 霊修行者は 皆 光を持っています 釈迦牟尼仏の絵には 光があります

観音菩薩や 阿弥陀仏も同じです でも なぜ 仏陀の光があんなに 範囲が狭いのでしょう わかりません たぶん あまり 目がよくない人が 描いたのでしょう 仏陀の光は広大で そこらに届く程度では ありません ここから遥か遠くまで 全てが光なのです このように 遠く遠く離れても光は まだそこにあります マスター  化身マスターについて お尋ねします マスターのような 姿のほかに 光で 現れる事もありますか はい あります 化身マスターは あなたの行く手を 照らす星々や月 悟った存在など 様々な形態で現れます 私達が最も好む姿で 現れるのです 主に 私達を喜ばせて 信仰を持たせ 私達の修行に 利益をもたらす そんな形で現れます

マスター イエス キリストが 復活して 弟子達の前に現れた時 弟子達は彼の化身を 見ていたのですか 化身だったかも しれませんし 肉体だったかも しれません 彼のような修行者は 望めば何でも 時には  非常に神秘的な事も 自由に出来るのです 時には  化身は使わなかった かもしれないし 時には二つの肉体を 持っていたのです 彼は 他の形に 化身して現れる事も 可能でした 彼の肉体はここと 他の場所に 同時に現れることが できました 肉体を二つか三つ 持っていました ヨガナンダの導師は 何度も同じ事をして それをヨガナンダに 見せました キリストの時は 肉体を使ったようです というのも 彼はインドに行った後 カシミールに戻って 百二十歳まで 生きたからです これはただの噂ですが 現在カシミールでは 彼と弟子達の墓が 見られます 墓の外には彼の伝記が 刻まれ その名が イエス キリストの ようなのです 名はユス アサフです

私はずい分前に そこに行きました マスター 釈迦牟尼仏が 霊修行のために 皇后を牢に 案内した時 彼は化身を 使ったのですか ええ 化身を使いました それが彼らが二人で 西方浄土を訪れる事が できた理由です 飛ぶにはあまりに重く 長時間を必要とする 肉体を伴っていては 西方浄土へ行く事は できなかったのです 化身なら重量が無く より早く より軽いのです このようにして 仏陀は皇后を 西方浄土に連れて行き 紹介したのです こちらが 阿弥陀仏です こちらが 観音菩薩です こちらが 八功徳水ですと 無量寿経を読んだこと ありますか そこに はっきり 述べられています 肉体だったら どう西方極楽世界へ 行けましたか

皇后さえ 肉体ではなくて 霊体で そこに行きました 彼ら二人は そこへ行きました 西方極楽世界の 美しさに感動し「私は ここに住めますか」と 皇后が尋ねました 彼は言いました「はい  できます ただ帰って この場所の名を想えば 後で そこに行って 暮らせます」 マスター 私は 市場を通るたびに 鶏や鴨 魚 肉が 吊るされて いるのを見て  辛くなります 私の知るところでは 肉食の人を含み 大部分の人は 殺生を見ると 胸が痛みます ところが 肉食する人は 菜食を誤解していて 栄養失調になると 思っています それで しぶしぶ 肉を食べるのです しかし 科学者や栄養学者は 大人も子供も 菜食で栄養失調に なる事はないと 証明しています 反対に より健康で より長く生きます では どうして 肉食者は尚も 信じないのでしょう どうすれば 気付かせられますか 参考として小冊子を 読ませてください

本の最後に 菜食の栄養について はっきり 書かれています この小冊子を 読んでも 依然として ベジタリアンに ならないのなら 仕方がないです 阿弥陀仏や 死神が来て 彼らを連れて行くのを 待つだけです