あなた自身のお金を 使うのは大した事では ありません そうですよね 皆知っていることです 同様に あなた自身の パワーを 智慧を発見し あなた自身の 利益のためとか 必要な人のために 使うことも大した ことではありません

あなた自身の 智慧とパワーを 発見すること以外 あなたは普通です

単にもっとパワーが 加わる それだけです 他の人々がすることは 何でもあなたはします 彼らもあなたも眠り  彼らもあなたも食べ 彼らもあなたも歩く それでいいのです 以前と同様にです ただあなたは今 余分に充電と 余分に パワーがあるのです 医学生のケースと 似ています 医学部を卒業した後 彼は医師に なります 彼が何か変わった わけではないですね 外観は同じです 友人も同じです 彼の活動も同じで 振る舞いも変りが あるわけではないです 彼の変わったところと いえばより知識を 才能を 能力を得て 彼の医学専門知識で 彼自身 家族を含め 他の人々も 助けられる点です いいですか 人々は 仏陀を非常に神的な 非常に優れた存在で 神秘的な様子に 作りあげました 誰も 理解できず 知らず 触ることも叶わず 見ることも出来ない キリストを世界の 主にし 彼のレベルに 到達できる者は誰も いないようにしました 間違っています これは誤った 情報です それはあなたが失った 宝物を発見するという それだけのことで あなたの習慣や 振舞いを変えるという 意味ではありません あなたは木像や石仏に なるのでは ないのですから 同じような感覚を 持つでしょうし 同様の直観力を 持つでしょう 依然として同様の 仕事を行う能力が あります  よくならないとしても 更なる力であなたは 社会に貢献でき より活発 機敏 より集中して行う ことができるでしょう あなたの能力を 社会に 世界において 広範囲に貢献する 身体的な機能以外に 不可視の智慧を あなたは持ちます それは姿を変えられ あなたの周りの人々に 加護と向上と喜びを 供給するでしょう

そういう理由で 誰も開悟を 否定すべきではないと わかります 誰も自身の智慧と パワー持つ権利を 否定すべきではない それで 智慧とは何か とても絡み合った 不可視のもののようで 一旦あなたが使う様に なれば感じられます 私達の「エンジン耳」 技術者「エンジン耳」「エンジニア」ですから 「エンジンイア」と呼び 「エンジン イヤー」 又はエンジニアの友人 ただ電気について 言及します それは見えませんが 感じられ 扇風機の電気を あるいはテレビ 装置の電源を入れ 電気を点けるときに 使えるのです そうして私達は 電気の存在を知ります ではどのようにして 神 智慧 或いは仏性の 存在を知りますか 私達は このパワーの具現に よって知ります このパワーを発見し このパワーを用途に 変えるのです 私達はこの智慧を 目的のために役立て 使えるものにします ちょうど電気のようで 目に見えませんが 電気をつける事ができ レコードプレイヤーを 動かす力にします

そして冷蔵庫や 扇風機などあらゆる 役立つ事柄に使えます 私達にこの生来の 智慧があれば それを使用し したいことができます 自身の天国を 建設することも含めて 神は不必要です

例えば禅マスターの 場合のようです

仏教には 多くの宗派の 修行があります 仏陀の名を 唱えるもの それらは浄土宗派と 呼ばれます 推理 瞑想の力を 信じる禅宗と 呼ばれるもの 禅をマスターした人を 禅師と 呼びます

現在 これら古代の 禅師は 開悟した後 彼らは神がそこに いないように よそよそしく 話をします 彼らは神を「私のドア の前に座る老人」 もしくは「私の前を 常に出たり入ったり する古代の人」 または「そこにも 再び年寄りが」 はたまた お茶を飲んだだけ」 などと言ったりします 彼らは神 神の存在に ついて感情を決して 表しません 彼らを理解するのは 難しく私達は 時折誤って彼らを 認識するかも しれないのです でもそうではないです 仏陀の事例と 同様に 彼は完全に開悟した後 いかなる神の存在さえ 否定しました しかし彼は他の名を 使用しました 得阿辱多羅三貌三菩提 その意味は最高の 仏陀ということです 最高の仏陀と 最高の神とは 同様ですが その最高の仏陀 最高の神は私達の 内面に宿るのです それが驚異のなかの 驚異です それが意味します  知っていますか それは私達が神である という意味です 私達は仏陀です 仏陀が住んでいるなら 他の誰ですか

仏陀の主人なら 私達は仏陀なのです 私達は神です しかし話す 言う 複唱 するのは簡単ですが 認識するのが難しい 従って私達は 質素な傲慢に 自身の人生を日々 真の自分を知らずに 生きています それで苦しいのです 私達は重荷を感じ 寂しくなり 落ち込み救われなく 感じるのです 自身の偉大な地位を 知らないからです 本当の自分自身を 私達の内に住む神を 聖なる魂を 知らないからです 「あなた自身が神の 神殿である事を知り 精霊はあなたの内に 住まうのです」また 「神の王国は あなたの内にある」 と言っています また仏陀も「あなたの 心に仏性がある」と 仏陀はあなたの内に ある事を意味します 仏陀があなたの 内面にいるなら私達は 仏陀なのです 他にいないでしょう ここには他に誰も いないのです 仏陀だけがここに住み 私達が仏陀なのです そうでしょう 内面に誰も住んで いなかったなら 神の精霊が 神の王国にいるなら それなら私達が 神の王国にいて 私達が神なのです 非常に理に叶います 開悟をしていなくとも 私達には議論の 余地はありません 次の段階として神の 王国を見つける事です この万能の力を 見つけることです 自身の内に 隠されたものをです 私は見つけたので お知らせできます

あなたが見つけたい なら 私は何の 条件もなく無料で提供 致しましょう

質問ですが 開悟に到達した時 性格に何か起こり ましたでしょうか

非常に怒り易い人なら 落ち着く様になるかと いう事 そうですか  ええ 起こり得ます 性格に影響します

より完全に向けて ありがとうございます

しばらくの間 私は 瞑想して来ました 瞑想ですか はい 数年間しています それで 私はある境地に達し 内面の小宇宙である 私と 世界中の 大宇宙を 同一視する ことができました

はい偉大になりました

拡張していますか 私が小宇宙である ことを感じます しかし私は変化 動き そして世界中の全ての 変化を見る事が できます そしてまた 私自身のシステム 私の体 私の考え 私の智慧 などの中の 私自身の変化を 確認します そして私は食生活に 困難を蒙っています

私は長い間 菜食をしていましたが どうにか私が菜食を することができない レベルに達しました 言い換えると 時々  私は菜食を食べると かならず吐きます

私は胃に 問題があります それは私の体経験に 変化が生じたからだと 思います その経験の後 あなたはもう野菜は 消化できませんか (はい) 分かった それから 果物を食べるときだけ 安らぎを感じます 果物を食べられますね

しかし同時に 私の健康について 心配です はい

異なった段階から私を 本当に案内することが できる先生がいません (はい) 私は本を読んで 実践して 施行錯誤を 経て自分で学びました 分かります はい それでその結果として 私は多少行ったり 来たりしています 私の食事についての 心配の一つとして 私にすべての栄養を 与えるため多様な 種類の野菜を 食べ続けています 同時に 私の体は それらの食べ物を 拒否しています 私が少し快適だと 感じる唯一のものは 果物を食べることです そして私は長い間米を 食べる事を止めました そして時々 若干のパスタ麺を 食べます これから私の体が 黙って 果物食を 続けるように 要求しているのを 固執するべきか または私が正しいと 固く信じている修行を 行い続けるため この体を健康に保つ ように体の栄養価に もっと気遣うべきか どうか分かりません

私はあなたに 共感します 私はこんな事例は前に 聞いた事がありません 今は非常に簡単です 貴方が果物食であれば ナッツはどうですか 私はナッツを食べます それのため 私は クルミ異なるナッツと ピーナッツです いいよ ナッツは ナッツと果物を食べる 事ができれば結構です 我々は特定な方法で 育てられましたので または私は肉を食べる 事をやめて菜食をして 正しい軌道に置かれて いると思いました しかし どうにか あなたは再び肉を 食べたいですか どんでもありません 肉を食べたくないです それで今は貴方に選択 の余地がありません 私には選択がありませんし 肉を  食べる事に戻れません それで貴方は心配する 必要はありません 果物と堅果を食べます それで大丈夫ですか 貴方は丈夫に見えますね 私がOKでないならば 今夜あなたに会う為に 参加できないでしょう

あなたは大丈夫です OKでないなら私に 手紙を書いてください ありがとうございます 知っている 私はあまり食べません

時々 一日に 麺スープ1杯だけを 麺スープ1杯だけ飲み 或は他の何かを食べて 何週間も続きました そして今のように働き 又世界各地を 走り回りました 何の問題もありません 心配する必要はない 体が何を必要としても いいのです それは神の意思です そうでしょう いずれにしても 貴方にとって 先生が いる事がよりいいです あなたに適する先生を 見つけてください 後でより高い境界に 達する時に 見失わないために 私は常に 探しています いつも なぜ先生を 見つけませんでしたか 聞きに行きました (法話) しかし私は従う先生を まだ見つけていません

わかります OK わかった 近いうちにすぐ見つけ それであなたの問題を 解決できることを 願っています

二つの質問があります 一つ目は クンダリニーが 起される時 悟りを開くですか

必ずそうではない クンダリニーを 起される時 悟りを開く事もできます それはここのヘビの ように巻かれます それは 背中の下部に ある蛇のパワーを 意味します ある程度悟ることが できますが 完全の 悟りではありません それがなしで 蛇のパワーに 妨げられることなく 悟ることもできます より大きな悟り 次の質問は 悟りを開くとき 無上の喜びの状態に いるんでしょうか はい そしていいえ はいというのは 至福にいるからです いいえは 世界は やはり苦しんでるから あなたは人間が感じる ことも感じます 木や石のように なるのではありません それだけ いいですか 最後の質問です 即刻に悟りを開くには 瞑想の修行をせねば ならないのですか はい それは 前提条件の一つです 悟りを開く前に 瞑想を修行しなければ ならないのでは ありません 一人でそれをするなら 長年の瞑想修行を しなければなりません そして 突然 若干の光を得ます しかし 偉大な有能な 先生がいれば 一分で悟りを開かせる ことができます あなたの力を開けます はい 分りますか しかし その後 あなたはこの悟りを 育て成長させなければ なりません 従って あなたは毎日 若干静かな時間が 必要です 天国へ道の準備の ために十分の一の 時間を費やしましょう

例えば 私たちは 貯金して 老後 あるいは  病気に罹った時 それを使えます 今 私たちは 人々により良く 奉仕するために より多くの智慧が あるように あるために 静かに高レベルの パワーと交流する ために 10分の1の 時間を費やします それが 瞑想の意味です

あなたには クンダリニーを起し 弟子が悟りを 開くのを助ける パワーがありますか あなたのクンダリニを 起して悟りを与える 必要はありません

私は何もする 必要はありません あなたは瞬間に悟りを そのように開きます  わかりますか そうです クンダリニパワーを 呼び起こす時大変 苦しい事があります それを知っていますか 私は弟子に苦しみを 体験させたくないです その必要は ないのです 体には 沢山の門があります こんばんは 人口の過剰と 生態系の危機が 私達に影響を 及ぼしているという 事実について どんな解決法が あると思いますか

またはあなたが知って いる解決策は何ですか そうですね 解決策は 沢山知っています

例えば何ですか 聞きたいです そうですね 皆が開悟することです すると違った角度から 問題を見ることが出来 もっとよい解決策を 見つけられます 盲目的に耳も貸さずに 何かをするとしたら それはもちろん 失敗します  盲目で耳も聞こえず ここからそこまでしか 見えません 私達は宇宙全体が 見えません 隣の人が言っている ことしか聞きません 天国や地獄のことは 何も聞こえません そこで全体と 通じ合うことが できず 限られた人と 意思疎通し 限られた人としか 学ぶことができません しかし私達は自分の 智慧を更に拡大し 天の目と天の耳を 開くことにより 偉大な衆生について 学び 彼らと通じ合う ことができます 分かりますか これが悟りを開く ということです 差し支えなければ もう一つ質問します リストに邪淫しては ならないとありますが 邪淫の定義について 知りたいのですが もう少しはっきり 説明できますか

妻は一人で十分では ありませんか  なぜ二人を望みますか

一人だけを愛すべきだ ということですか それ以上の人を 愛してはならないと という意味ですか そうです 一人でも 十分頭が痛いほどです 私達が修行をすると 煩雑なことは 少ないほどいいと 思うのです

(そうです)今 一人の 奥さんで物足りないと 思うのであれば もう一人もらって みて下さい どうぞ

そうだとすると私達は 生涯一人しか愛せない ということですか 来世でもう一人の 人を見つけるという ことですか それで十分です 沢山修行すると もっと高いレベルの 愛のパワーと 通じ合うことができ いかなる束縛も 必要でなくなります 自分の妻さえ そっちのけにします 去って行くという 意味ではなく あまり  執着しないという 意味です  愛する人のために 嫉妬したりせず 独占欲がなくなり 彼女は私だけの物だと 考えなくなります

もっと高次元の 愛を持ち もっと純粋な心で すべての人を愛します 有難うございました 多くの奥さんを 持つと 多くの気力や感情や 時間を浪費します 時間を修行に 回すことです

経済的にも 大変です 奥さんがいれば 感情的にも経済的に 需要をも満たさねば なりません または彼女が世話する

彼女に世話になると 貴方も彼女を世話する 義務があるのです 双方が愛を与えてこそ 始めて愛を維持する ことができます つまり互いに愛を 与えたり与えられたり して始めて 愛は長続きします 愛をばらばらに 撒き散らすと 確かな関係と 安定感のある雰囲気を 持つことはできません このような不安定な 雰囲気の下では 修行することができず 望むような高い 境界に達することは できません

衝撃が多過ぎて ストレスが多過ぎます 私達は毎日の生活の ために すでに多くの ストレスを抱えており 一人の奥さんだけで 全ての感情的欲求や 与え与えられ 嫉妬 ストレスと悩み これらを全て持って います ですから 同時に多くの妻を持つ ことは大変です

私の心を悟らせて 下さって感謝します 始めての体験です あなたがパナマ市に 行かれると聞きとても 嬉しく思います 私はパナマ生まれです

私達はクリスチャンで あなたがおっしゃった 世界の全ての 偉大な宗教は皆 統一体であるという ことが大変 嬉しかったです このような観念を 持ってこそ真の 世界平和をもたらす 事ができると思います 改めて来てくださって 感謝いたします どう致しまして その通りです 私は破壊しに 来たのでは ありません 満たすために 来ました 私はただ各種宗教の 信仰と伝統をより 美しくして それを 更に完璧にしたい だけです 私も彼が 言った事と 同じ質問で あなたが かつてクリスチャン だった事を嬉しく 思います 私も クリスチャンでここに いるのは貴方について 学びたいからです 本の宗教を変えずに これを学ぶ事ができる のはとても嬉しいです  ただ私が知りたいのは キリスト教と仏教は どんな関係が あるのですか これが 一つ目の質問です

まずそれらの道徳的 観点を見た場合 仏陀は人々に 道徳的なことを 教えています イエスも 人々に善行を行い 敵をも愛し 隣を愛し 思いやりを持つ ことを教えています 同じではありませんか (まったく同じです) そうです 同じです 次は霊的な面に おいてですが

これは現実的で 道徳的な観点でもあり 社会秩序を維持 するためのものです 戒律を守ると聖人に なるという意味では ありません そう 簡単ではありません

善行をするのと 聖人になる事は 異なる問題です

次に霊的観点を 比較して見ますと イエスは よい行いと瞑想を 通して神の王国を 見つけ 天なる父の 所に戻ることを 強調しています 彼も瞑想しています 少なくとも彼が最後の 四十日間砂漠で 過ごしたことから 分かります  外部との連絡を遮断し 瞑想し 何をしたと 思いますか 一日中 歩き回って聖書でも 読んだのでしょうか 彼は何でも知っていて 彼自身が聖書なのです ですから彼がした事は 瞑想なんです 皆が分かるように 誰かが砂漠で四十日間 瞑想したとすると その人はきっと以前に 瞑想していたことを 意味します 突然砂漠に行って 四十日間座っていて 他に何もしないという ことはあり得ません 何の信念も練習も なしにはできません 狂ってしましいます それはイエスはずっと 瞑想していたことを 意味します 彼が出て行って この 世界を加持するために 最後に充電したのです 同じように 仏陀も菩提樹の下で 約四十日間 瞑想しました 私達は彼がその前に 既に何年も瞑想して いる事を知っています ですから二人は 同じ事をしています またイエスは 神の王国を見つける べきだと言っています 仏陀も仏性を 見つけるべきだと 言っています アップルパイと クッキーは 何が違うのでしょう 私が既に言ったように 国によって 違った言い方で 神を表現します 同じように 時には 悟りを開いた マスター達は偏見と 先入観を打破するため 人々に新しく スタートさせ 古い観念に囚われない ようにします 先入観を打破し 新たにスタート

させるために マスター達は 人々の神経に ショックを与え 目覚めさせるのです 気絶している人や ヒステリーになった 人の顔を叩くのと 同じです そうですね これは決して暴力的な 行為ではありません 気絶している人を 助けるためです 又は誰かが気絶すると 冷たい水を 顔にかけます 誇張した いい方をします それらの 禅師や 一部の人達は 神はない 自分しかいない 智慧しかない マスター 私しかない と言っているのは 人々に衝撃を与えて 目覚めさせたい からです ですから 霊的面から言っても 彼ら二人は 同じ事を言っています 次に霊修行の 体験についても 二人はいずれも 光と多くの天国の ことについて 言及しています 仏陀も 光や天国の音 仏陀の国について 多く言及していて 仏陀の浄土について 沢山言及しています そうでしょう もう一つの質問です 両方とも瞑想を 強調しているので 今クリスチャンも 仏教に習って 瞑想をし 始めています クリスチャンの瞑想は 聖書を使います 聖書の言葉を 学んで 読んでから その言葉に集中して 瞑想します 仏教の瞑想法は 何も考えない ことですが これでどうやって 神に近づきますか これは禅のマスター 達の言葉を 誤解しています 一旦悟りを 開くと 物事に対し 普通と違った 見方をします 以前私も心を空にする という意味が 分かりませんでした 天国とか 仏性といった 用語の意味が 分かりませんでした 大きすぎたのです 悟りを開いてから 全ての事が子供の ゲームのようです カトリックの伝統も 瞑想します 知っていますか キリスト教も 沢山の隠れた 静座センターがあり いわば密教団と言って 誰も中に入れません 何をするのでしょう 彼らは静かに静観し 祈り 瞑想します 瞑想とは何かと言うと 教えましょう 祈りをささげた後 暫く静かに座ります 長時間神に 礼拝したり 手で数珠を 数えたりして 腕が疲れたり 膝が痛くなるので 少し力を抜いて そこに座るか 跪いたまま 少し休むのです その時に 神が意思が 浮んできます これが瞑想です 私達は静かになって 始めて聞こえるのです ずっと話していると 神は私達に話す機会が ありません 祈りは 話す事 求める事で 瞑想は静かに 聴くことです

大半の人はいつまでも 祈るばかりで 話しまくって うるさいのです 話しっぱなしで 神は 彼らにどうすべきか 教える機会がないです だから祈っても 応答がないのです

神は機会がありません ですから論理的も 瞑想は必ず必要です 仏教徒であれ キリスト教であれ  イスラム教であれ 神の話を聞く時間を全く持たないとしたら 決して神と繋げる ことはできません 友人と話をしたり 電話をかける時も 話したり 聞いたりします 例えば私に質問する 時もまず質問をし そして静かになって 始めて私は答える ことができるのです 神に対する態度は 友人に対するよりも 劣っています  いつまでも話し 神に機会を与えません ですから瞑想は 静かに聴く時間です これだけです すると 神はきます よろしいですか 有難うございました はい いいでしょう

他は 例えば ハンセン病の人や 病人を治す場合 彼は そばに人がいない時に 病人の所に行って もう治ったから 起き上がるように言ったのです  人が寄ってくると 彼は去って行きました 覚えていますか 彼は隠れたのです 人に見せたく なかったのです そして人に話さない ないようにと言いつけましたが 彼らは外に 出て全部話したのです マスター達は神通力を  使うとしても 人を引き付けるために 公でするのでは ありません ただ 真摯に天国を求める 人達だけに 来てもらいたいのです 何故でしょうか それは神通力だけを 求めると 神通力しか 得られないからです 天国は得られません しかし天国を求め 天国を見つけると 全てを得られます 神通力を含めた 全てです

ですからほとんどの マスターは神通力で 人を引き付けたり しません 神の力の 極一部に気を取られ 神の全体の力を忘れる 恐れがあるからです

もう一つの質問です  この世界の苦しみや 病気についてですが どうしたら愛する人の 病気による苦痛を 減らしてあげる ことができますか

祈るようにして下さい 神に祈るのです 全てを神や仏陀又は 自分が信じている人に 任せる事です  祈る事です 内面の 神や仏陀に誠意を 持って祈るのです 精神的疾病の場合は どうすればいいですか 精神的疾病ですか 彼が深い眠りから 目を覚ますまで 待つことです それは彼の前世の 行為によるものです 前世に人を 狂わせたか 人にドラッグのような ものを渡して 精神を迷わせた かも知れません だから今生で 悪い報いを 受けるのです 悪い報いが終わったら 正常に戻ります 神は沢山のチャンスを 与えています 今生だけではなく 過ちを正す多くの 機会を与えて 完璧に 至るようにします

簡単な真理が私に 取っては難しいのです 私は数年前からずっと 本を読んで研鑽し 続けています 自分では分かった つもりでいますが 数日前か数週間前に 私が分かっている 概念が 頭に浮びました 分かると思いますか

「人生は難しい」(はい) これは数百回数千回 読んで 分かっている つもりでいましたが たった一ヶ月前に 理解したのです 私はこれを考えながら もがきました そしてその意味を 吟味したら何かが 分かったのです これらを知る事は 私を含め人々の生活を 改善する上でとても 重要です このようなことを もっと学ぶには どうしたらいいですか 先ず神の大国を見つけ 悟りを開くことです これが答えです 一旦智慧を得れば 全てがはっきりします 私が教える必要もなく 自分でどうすべきか 分かるのです 私は何でも はっきり答えが分かる 境地に達したいと 思うのですが  方法が分かりません それは銀行 つまり 宝と答えが入っている 部屋が塞がっていて ロックされています それが欲しければ 私が開ける手助けを します すると毎日 新しい答えを得ます 自分のお金を金庫に 保管しておいて鍵を 忘れたのと同じです 私が鍵を持ってきます すると以前 知らなかった事が 沢山分かります 誰かに聞く必要もなく 全ての答えは内在の パワーにあります これがいわゆる 神の大国 又は内在の 仏陀の智慧という ものです あなたが言っている ことは聞いても やはり理解する ことができません つまりこういう事です 全ての答えが 見つからないという 事でしたね そうです どうすればいいか どうして こうなったのか それは悟りが十分 開いていないからです 十分な智慧が ないからです ただ少しばかりの 知性があるだけです 5%の知力しか 使っていません もっと知りたければ もっと悟りを開か なければなりません 例えばもっと教育を 受けたいと思えば 学校に行って本を 読んで学ばなければ ならないのと同じです 目に見えない力と 智慧を得たければ 自身の内面で 学ばねばなりません 自分自身が マスターなのですが それを忘れています 私の目的 責任は  あなたの内在の マスター 又は内在の神 内在の 仏陀又は生まれながら 持っている仏性を 呼び起こす事でこれが 何でも教え 何でも 答えます いいですか 有難うございました

こんにちは 話して下さって有難う 私が知りたいのは イエスキリストが 奇跡を行い 誰かが 悟りに達したと 言われていますが では彼らは 奇跡を行うパワーが あったのですか この世界にそのような ことは存在しますか はい 存在します いったん私達が内面の 智慧の中に注いだら すべてが具現します でもキリストが 秘密裏に奇跡を行った 事は憶えているべきで 彼は人々に報せるのを 嫌がったのです