神の王国とは 至福の状態 幸せの状態 聖人の 状態を意味します それで 聖人になれば 私達は聖人のようで 幸せで 至福に満ち 神の王国を見つけた という意味です でも 至福に満ち 幸せなら それらも本当に 神の王国なのです 私達の理解の レベルによります 従って 私達はよく 沢山の美しい仏国土や 妖精の国 神の王国 天国などが あると聞きます 本当に存在します 私達は自由に そこへ旅ができて そこにいる時は いつでもとても幸せで 至福に満ちています そこへ行けば行くほど より賢くなり より幸せになります そういう訳で 神の王国 仏国土を 探すべきだと言います 何回も 仏国土を見続けた後 私達は仏陀と同様に 賢くなります 私達は仏陀になります 西洋の言い方に あるように 私達がそのように たびたび 神の王国にいれば 神と一つになります 従って イエスがしばしば 神の王国を訪ねた時 「私は父と一体である」 と宣言しました でも当時の人々は 誰一人彼の言うことを 信じませんでした 人々が彼のレベルに 達していなかったため それで 彼らは 彼を理解できず 結果的に 彼を信じませんでした 今の私達と一緒で 誰かがこう言ったら 「私は神と一体である」 「私と父は一つである」 あるいは 私は仏陀に なったと言ったら 私達には理解しにくく 信じ難いのです でも信じる必要はなく 自分自身でそれを 証明すべきです 自分自身でそれを 体験できれば  それならまだ 信じる時間があります ですから 私の目的は 自己体験をする機会を 提供することにあり それで信じられます 例えば 仏国土はありますか 神の王国はありますか 天国はありますか はい あります 印心の時 自分で 確かめられます 例えば 過去の全ての聖人の 頭の周りに 光があるのを見ます 彼らが内面の光を 発したためです 発したためです 彼らは神の電気で 充電しています 私達もこの電気で 充電したら やはり光になります イエスが水によって 洗礼を受けた時 彼は魂が白いハトか 白い光のように 天から降りて来るのを 見ました 今 洗礼を受けたら 私達もそれを見れます または少なくとも 何か似たものをです それで本当に洗礼を 受けたと分かります でなければ それは 一種の儀式にすぎず 真髄がありません

印心の時 恐らくこの種の イエスの体験とか 似たようなのがあり 聖書にあるように 彼が神を見た時 神は大きな炎のようで 神の声は 雷のようで 雷鳴のようで 沢山の水の音の ようだったと 私達が印心した時 同じ体験や より高い体験さえ あって  それで私達は信じられると分ります そういう事はあります 過去の聖者と同様に 私達が開悟していれば 私達が神の面前に いることが分ります また 仏教の経典でも 誰かが菩薩になった時 やはり違う音と光に 言及しています 音も違います ですからこれらの音も 印心の時に見聞き するかもしれません それで  正しい道にいると分り 本当に開悟していて 菩薩になったと 分ります 仏陀が在世の時の 彼の弟子のようにです

今日 車中で アマゾンに関する 面白い話を聞きました ある人が私に アマゾンの ある部族は 現在でも人を殺して 食べると言いました 多くの探検家がそこに 入った切りで戻って 来なかったのです やっと 逃げ帰ってきた人々が そう語ったそうです 私はショックを受け 恐ろしく感じました 私は 殺された時の 人々の恐怖に怯える 気持ちをもろに 感じ取ったのです 私は同行した人に 言いました 「自分が殺されて ランチになると 分かったら きっと恐怖で 怯えたに違いない」と 彼は「ええ きっと 恐ろしかったはず」と というのは すぐ殺すのではなく ゆっくり殺すのかも 彼らには 殺される人に対する 感情がないからです 殺される人の 気持ちを考えるという 習慣がないからです 彼らの習慣は人を 殺して食べることです 殺される人だけが 恐怖に怯えるのです どんなに怖かった事か だから私は人間が 動物を殺して食べるの と同じだと言ってます 動物達の感覚を 無視しているのです

きっと恐怖に怯えたに 違いありません 動物は人間の言葉が 話せないので 自分を 守れません 今 私達が 動物と立場が 交代したら 動物達の気持ちが 分かると思います 自分を動物に置き換え アマゾンの 探検家に置き換えて 捕まった時 そこの部族の人に  切り裂かれると 思う時 きっとその恐ろしさが 分かると思います だから聖書に「殺生 すべからず」とあり 仏陀も強調してます 「殺生すべからず」と どんな宗教でも 最初の戒律に 不殺生とあります 私達は忘れています 殺生は二通りあります 直接と間接殺生です 動物を食べなければ それを殺して売る人は いないはずです ですから不殺生とは 菜食を意味します 全ての人が 菜食をすれば 世界は 平和になって 平和を 語る必要もありません 平和で 楽園になります 人間だけでなく 動物にも同様に 平和が必要だからです 動物も人間も皆 同じくこの地球の 住人だからです 人類が現れた時に 動物達はすでに 存在していました だから私達は隣人です 人間と動物です 平和になりたければ 人間だけでなく全てが 平和であるべきです 動物達も毎日 平和を求めて 泣いているからです 私達が内面の 神の耳を持てば 動物達が泣いてるのが 聞こえ 彼らの言葉が 分かります

野菜はどうですか 野菜にも命があります しかし野菜の意識は とても低いです 殆ど感覚がありません 実際 野菜を食べても やはりいわゆる 悪いカルマ(報い)を 集めてしまいます カルマとは 要するに 「蒔いた種は刈らねば ならない」のです もし殺せば 殺されます これがカルマ(報い)の 意味です 人を殴ると 後で人に殴られます これがいわゆる 悪いカルマ(報い)です 今 植物を食べても やはりありますが 最小限の悪いカルマ (報い)で ほんの少しです 毎日二、三時間 瞑想したら カルマを 洗い流せます 神に瞑想しないと 最小限の悪いカルマ (報い)でも 洗い流せません ですから 天国の  神の 内面の 神の王国の修行は 必要なのです 菜食をする前に すでに殺生をしている からです 呼吸したり 歩いたり 手を洗ったり すべて殺生なのです ですから菜食をすると 罪がないという訳では ありません 例え何も食べなくても 罪があるのです 過去生での 悪いカルマ(報い)が あります  聖書でいう原罪です 呼吸すると 見えない 生物を沢山殺します これは罪になります 洗濯したり 体を洗うとき 体を消毒して 沢山の目に見えない 生物を殺して 罪になります 地面を歩いても 芝生の上を歩いても どこでもです   だから 逃れる道はありません 内面の偉大な力で 全て洗い流さない限り 方法はありません それを「神の慈愛」と 呼びます 私達は毎日 神の慈愛を持って 私達の家をきれいに 洗うことができます 神の恩恵なしに 神の王国へ戻る チャンスは ほとんどありません これが皆さんと 分かち合いたい事です 避けられない罪を 毎日どのように 洗い流すかです 霊的な永遠の存在を どう感じるのですか 死後も 命があると どう信じますか

信じるまでもなく 体験することです 私には体験の仕方を 示す方法があります 私や仏陀やイエスが 言ったことを 信じるまでもなく それを知ることです 内面の自性を知り 見て分かることです ですから この世界には 数多くの 宗教経典があって いずれも沢山の 天国や地獄について また全ての 美徳や罪について 述べているわけです ですが人々はなおも 悪い事をします 経典が言っている事を 信じられないからです なぜなら天国とか 地獄について彼ら自身 体験がないのです 心に深い印象が ないのです それで 問題を 起こしかねないし 過ちを 避けられないのです

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