イエスは彼が行う事は  全て 私達にも出来る 皆 神の子であると 言わなかったですか ロックフェラー氏の 子供だったとしたら 皆さんは誰ですか ロックフェラー家の 一員ですよね 父親の持つものは 何でも所有してますね ロックフェラー家の 子供達に尋ねて下さい 何を所有してるかを 皆 父親の名声を 所有しているのです 彼が残した財産全てを 所有しているのです 存命中でもです そうではないですか ところが否定の力 悪魔の力は 私達が神ではないと 信じさせたいのです

私達は罪深く 悪しき者で 行う全てが罪深いと 私達はそれを信じて それで 心から神を 信じてはいないのです 信じたくても 逆の事を信じるように されているのです こうして 私達は 神の力でなく  反対の力を信じるよう 騙されているのです それでイエスは 苦しんだのです ほとんどの人が  彼や 彼の考え方を 支持しなかったから 彼の言葉や行動や  信念の 肯定的な力を 支持しなかったから それで殺したのです

しかし少なくとも 彼は数人を目覚めさせ はりつけ後も 何世代にも渡って 影響を与え続けました ですから彼は 人類に多大な貢献をし 私達に大いなる文化を もたらしたのです それこそが 救世主 預言者の仕事です しかし 過去 現在 未来において 彼は唯一の 存在では ありません 彼が こう約束を しているからです 私が行う全ては汝らは より良く出来る と 洗礼者 聖ヨハネも 同じことを言ってます

我は水で洗礼を施す だが我より 後に来るものが 我よりも勝る者は 聖霊によって 洗礼を施す それで 後から現れた 各預言者は より強かったのです 神さま ありがとう 彼は 勝っていなかった 恐らくそうでしょう なぜならイエスはこう 誰かに尋ねられた時 「あなたはイリヤの生まれ変わりですか」 彼は黙りました 沈黙するとは どういう意味でしょう 沈黙とは はい と言う意味です でなければ 彼は こう言うでしょう 

違います おかしな 事を考えないで下さい

彼は弟子が 間違った事を言えば 教えたはずです

ですから 沈黙は 認めたということです ですから実は つまり 彼とイリヤ 彼の前に 現れた預言者たちは 少なくとも同等で 差はないのです でも我がする事を汝は よりうまくできると なぜ彼は言ったのか あるいは ヨハネは 我の後に来るものは 我より優れ 我は 彼の靴紐を解く価値は ないのかと言ったのか それは ただ彼らが 謙虚だったからです マスターは皆 このように謙虚でした また 真実を 示していました マスターが神から 地上に降りて 人間に教えるよう 任じられた時 特別な力を持っていた わけではありません ただ当時の人々の 理解と思考力と 新しい考えを 受け入れる能力が 違っていたからです

人々には神の力が あったからです 人々が支持し 理解すれば 神が支持し理解すると いう意味です 神は皆の内にいます 彼らが耳を傾ければ 神が耳を傾けるのです もし彼らが同意すれば 神が同意すると いう意味です

彼らの中の神が 同意し それで物事が起きます なぜなら 全ての 神々が来て同意したと すれば この力は 小さいと思いますか ええ それで マスターでも 強力になるには 周囲の支持や力が 必要なのです でなくて マスターが 誰も教えられず 誰も耳を貸さないなら どんなマスターかしら 役立たずですね あるいは  国全体に支持されない 王様なら  彼は無力な王様です 違いますか 或いは仮に 医師が医学的研究で 資格を取った後に 一度も患者を 治していないなら 良い医者と 呼べますか 役立たずです それでは 医師の 意味がありません

医師は 患者を治せば治すほど 有名になり 自信を得れば 得るほど  人々は信じます

とにかく物事は自ら より良くはならず 状況が 必要なのです 水は 植物が育ち 花が咲き ふさわしい季節に 実がつける為には 欠かせないようにです ですから イエスが 「汝は私がするより 勝る」と言っても 彼より勝るという 意味ではありません ただ より良い状況に いるという意味です 私達が神の智慧と 自身の内なる 受け継いだ智慧を伴い 派遣され 権限を与えられたら 私達はイエスより 勝れた事ができます

各時代を過ぎて 私達の世界は より文明化し 強くなり 知的になり 聡明になるからです

日々私達の世界が より文明化していると 分かりますね 各時代 マスター達が来て その智慧と加護と 肯定的な 知的エネルギーで 私達の地球に恩恵を 与えるからです だからたとえ 時に私達が そのマスター達と 直接対話しなくても 彼らのエネルギーや 加持は 私達の生活に まだ恩恵を与えて 状況を変え 私達の為に世界を どんどん良くします ですからイエスの言葉 「私が今する事を汝は より良くできる」の 意味はより良い状況が 私達を助ける そして 時が来ればという事で 多分 より良いのです なぜなら  マスターの理解は  やはり人々の 理解の必要へと 広げるべきだからです

例えば 大学教授が 小学校に行ったなら 自分の知識全部は 小学生には 使えません 小学生が理解する 方法で話すべきです そして もし それを続ければ 自身の知識は 最小限になって 知っている事も 忘れるでしょう そのため 教授が大学に行けば 学生がより聡明なほど その知恵は 益々深まり 生徒はより良い事を 多く要求するのです

私も時にさまざまな 聴衆に話していて 難しく感じます ある聴衆に対しては とてもリラックスして 何時間も 話し続けられ 疲れも感じません やる気を感じ 私の話す事は 双方にとって 大変良く 私も好きなのです 自分に話しているわけ ではないのですが それらの話は 質が高いと分かります

とても高度です 高度な悟りです

ですから聖書のこの話 つまりイエスの 教えを理解するには  私達も彼がした事を  私達も彼がした事をすべきです つまり神を沈思し 密かに祈るのです もしすでに なにか瞑想法を 学んでいるなら どうぞ続けて下さい 少なくとも 神の王国一部を 知る助けになります 私の知るところでは 私達が行っている 方法は 実は 方法ではありません というのは 書かれたものはなく 沈黙と 内なる認識力を通して 伝わるものだからです 言葉のやり取りによる ものではないのです また この種のものが最高で 最速で神の王国の 最後の扉だという事 だから 質問があれば 喜んでお答えします

どうぞ シェフ ここの聴衆の大半は 食べることや 食べ物の選択 菜食の霊的側面を 聞きます でも私は 人々は菜食になるべき 理由をもっと知る事に 関心があると思います 宜しくお願いします 理由ですか 菜食になるべきと それもまた聖書で 言っています 神曰く 私への捧げものに 雌ヤギや雄牛を二度と  殺してはならぬ 無垢な命を殺めるのを 一切やめよ さもなくば 汝の手は 無垢な血にまみれる 無垢な血にまみれる 汝が祈る時 わたしは顔を背けて 耳を傾けないだろう 一切をやめないなら 汝を許さぬであろう 違いますか そうです 他にもこうあります

腹のための肉と 肉のための腹 神は双方を滅ぼす と また他にも 酒を飲むもの 肉を食すものと 交わるなかれ 違いますか どうです 他にも 物語の中にあります ある人々が神に 食用の肉を請うと 神は激怒して 天国から 肉の雨を降らせ その後 肉を食べた者全員を 殺しました そうではありませんか まだ怖く ないのですか 他にもあります 汝の体を 死体を埋める 墓場にするなと 神は聖書で そう話していませんか 私が言ったことは 正しくないですか 読みましたか  はい でもあなたは 聞きたがらず 理解したがらず ただどんどん 聞き流したのです それに司祭たちが 全ての獣を殺し 焼いて 黒煙が天まで上り 寺院を 肉処理場にした その部分を あなたは読みました

菜食になることの 霊的な利点は 霊的な利点は 何ですか

こうして 尋ねて 下さって嬉しいです 霊的な利点だけ考え  気にかけている ということですから 大抵の人々が菜食を 語る時は 健康や ダイエットと 容姿のためです 菜食の 霊的な側面は 非常に明解です 非暴力です 汝殺すべからずです 神が汝殺すべからずと 言った時 人間にだけ 言ったのではなく 全衆生に対してです  彼は良き友 助けて  くれるものとして 全動物を創ったと 言いませんでしたか 神は全動物を私達の 保護下に置いたのです  神は 彼らを世話し 治めよと言いました

皆さんが 臣民を治める時 彼らを殺して 食べますか 他に誰もいないのに 王になりますか はい もう分かりましたね 神が言ったらとにかく しなければなりません 問う必要はないのです 神は明確に言いました でも神以外に誰が神を 理解できるでしょうか ですから今 私達は 神を理解するため  神になるべきなのです ぜひ 再び神のように 他の誰でもない本来の 自分になって下さい 神に瞑想することは 神を崇拝するという 意味ではなく 神になるという事です 自分と神は一体だと 認識する事なのです 我と天なる父は一つと イエスは言いましたね

彼と彼の天なる父が 一つであると言うなら 私達と彼の天なる父も 一つです 私達もまた 神の子だからです だから彼がなした事は 更に良く出来るのです 私達は神より優れて さえいるかもしれない 誰に分かるでしょう 神の事を何も 知らないのに なぜ 崇拝するのでしょう  盲信するのでしょう 私達は崇拝するものを まず知るべきです 結婚相手の女性の事を 結婚する前に知るべき であるのと同じです 今日では 近代化され もう面識のない者同志 結婚したりしません

それなら どうして 盲目的な信心で神を 崇拝すべきでしょう 私達には神に姿を現し 自己紹介するよう 要求する権利があり どの神に 従いたいか 選ぶ権利があるのです もう分かりましたね 聖書で非常に明白に 菜食になるべきである と 述べられています あらゆる科学的 根拠に基づいても 菜食になるべきです あらゆる健康的根拠に 基づいても やはり 菜食になるべきです あらゆる経済的 根拠に基づいても 菜食になるべきです

あらゆる慈悲の 根拠に基づいても 菜食になるべきです 「世界を救う」という 精神に基づいても 菜食になるべきです ある調査で 述べられています 西欧 アメリカの 人々が週に一度 菜食をすれば 毎年六千万の人々を 救えるだろうと 英雄になりましょう 菜食者になりましょう 是が非でも 個人の進歩上 あなたの道に接近する 嫉妬の傾向や 敵意など 繰り返し起きる傾向に あなたはどうやって それらに動かされ どう取り除きますか 難しいです

ええ 嫉妬は 自然な振る舞いです ただ嫉妬に私達を 支配させてはだめです 私達をみじめにさせ 残忍になり それは自身を 十分愛していないとか 間違った人を 愛しているとか その愛はまだ 制御されていないと いう印です 私達の感情がまだ低い レベルである印で 幸せに思って 私達はまだ生きてます 死んだ時に 嫉妬は終わります 死ぬ前ではありません ですから 誰かが あなたを妨げると つらく感じます その痛みを止めるのに 麻酔を打つ 必要はありません ただ痛みを知るのです

痛みを止めることが できなくて でも その痛みを二度と 味わわない為に自分の 体を消すとしたら それはいけません 痛みを  痛みの元を 止められないなら それを受け止め まだ自分の体が 生きていると感謝する 柔軟性がまだあります

医者があなたの 反射神経を試そうと 金づちで膝を叩いて 足が跳ねれば それは大丈夫です 跳ねなければ変です 海にはもともと 波があるのではなく 地球の自転と 風力によって 波は起こります でも 海が 抵抗すれば もはや 海にはなりません もう海ではありません

水がなく 波がなく 死んだ海です ですから 海に波があるとき それは依然として海で   海の本質を持ってます でから嫉妬心が あるのは良いのです もちろん嫉妬は 楽しくありませんが 少なくとも自分が 生きていることを知り 自分の気持ちは鋭く 人間らしいと知ります

ただ上手く制御して 他の人も恐らく自分と 同様に嫉妬するのだと 知るためではなく 相手を傷つけるために 使わせてはいけません 自身ではなく その人を幸せにする 援助をするよう 努力して下さいね 助けられるなら 原因は止まります 自己決意や当然の結末を 強く信じる者として 私は内面の平和に 達するように感じます でも本当に気にかけ 自然な過程が 起きるのを望む人が 達成することを あなたは どのようにし 何を手伝えますか またその過程でどんな 援助ができますか あなたはすでに 内面の平和に達し 誰か他の人を 助けたいのですね そうですか(はい)

それは 善意からの願いです

自分に 強制することなく

ええ ただ自然にね 誰かが聞くなら あなたは話します 聞かないならやめます 周囲の誰かに与えます 今日 私が招待されて ここに来たようにです 招待されなければ 私は現れません あなたが聞きたくなく 出て行きたいなら 私は来てあなたに 首輪を付けて引きずり 「座れ」とは言えません

私は聞きたい人だけに 話すのです そうするのです 空腹な時に食べたり 疲れた時に 可能な限り 寝るのと同じようにです もちろん時には 白黒はっきりしない 状況でも ただ委ねれば 神の意志は為されます 誰であれ神は連れて 来ます 本当です 神が誰も 連れて来ないなら カルマ(報い)から 解放され  幸せだという意味です

完全に神聖であり 同時に 完全な人間でいるのは 可能ですか ええ 完全に神聖な人物とは 完全な人間のことです 完全な人間とは 完全に神聖なのです 今私達は 単に 半人前の人間です 私達はためらいながら エゴで 物事を行います 私達の喜びのため 私達の経験のために それらすべてを 手配する神を 私達は信じません 罪と美徳を 分けているのです 私達はすべてのことに 騒ぎ立てます

また自身や人々を それによって 判断してしまいます 神がすべき事について 自身で制限してしまい 私達は苦しんでいます 実際 神は私達の 内面にあっても私達は 神を制限しています 神は楽しみ すべてを行いたいのに 私達は知らないのです ただこう言います 「そうしてはダメだ」 自分自身に言うのです それをしてはダメ これはすべきでない でもなぜ菜食なのかを あなたは私に尋ねます ええ 私は知ってます 菜食は ただ私達に 内在する神が 求めているからです

それは不殺生の理念に 反します 私達自身が殺生を したくないのです つまり自身を盗品に したくないのです 例えばですが

今私達が他の人に そうするというのは

つまり自身に反し 自分を苦しめるのです 何であれ自分の意志に 反することをすれば 自分を苦しめます あなたは自分を 打てません 自身を飢えさせては なりません 例えば 同様に 私達は殺生を すべきではありません  それは命の原則に 反するからです 自身を苦しめるので そうしないのです 自身を制限していると いう意味ではない

それは自身の命を 様々な命にまで 広げることなのです この命はこの体の中に 限られているのでなく 動物の命や 様々な衆生にまで 広げるのです それが私達を偉大に 素晴らしく幸せに 無限にします

暗黒の力の考えか何か 頭脳の中にありますか ええ 私達には 自由意志があり 白を闇と考えます 悪魔も神の王国から 生まれたと言います 神の王国は 私達の内面にあります 私達が 生命の原則 良い原則 真の原則に反する 革命を起こせば 暗黒の力の中にいて 暗黒の力の 否定的な力の道具に なってしまいます でも否定的な力も 構いません 生活をより刺激的にし 実存させます そうでないなら 私達は天国で 寝ています する事がありません でも否定的な力に 疲れたらすぐ そして 家に帰りたければ そうすべきです 常に否定的な所で 遊んではいられません

私達は 時々家に 帰らねばなりません

ですから私の言葉は そんな 遊びに疲れた人や もう遊びたくなく 休みに 家に帰りたい 人のためにあります そういう事です

人生における 戒律の役割は何ですか

人を訓練します ええ 他に何でしょう そう思いませんか ええ ありがとう 長年 八年間 私は毎日二、三時間 時には それ以上 瞑想をします 断食などもしました それで大病にかかり 瞑想できず 起きて 瞑想できないのを 恐れていました それで私は唱え 神の事を考え 経典を 読むように努めました そして 八年かかって 良くなりました でもあまり強くなく また痛みがあります 毎日二時間半 瞑想ができません とても難しいのです 何かご提案を いただけますか なぜ瞑想するのに 座る必要がありますか 横になってもよく 立っても 望むなら 片足立ちも構いません 心で瞑想するのです 体ではありません 神の王国に 集中することです

唱える時も それも瞑想ですが 騒がしい瞑想です ですから静かなもので ただ横たわり自分の 方法で瞑想しなさい

瞑想は 蓮華座に 付随するものではなく 注意を集中するものに よるのです 試してみて同じですよ 横になっても 座っても立っていても サマディに入れます

どうやって自分の マスターを知りますか 一人で複数の 生きたマスターに 従うことはできますか

一人で十分と思います 一人で十分です 学ぶべきことが沢山の マスターが既に 一人いるなら どうやって二、三人 から学ぶのですか 追いつくことさえ できないでしょう 二人から学んでも 構いません 本来は地球上に 一人のマスターがいて つまり異なるレベルの マスターがいますが 最高のマスターを知り 祈るべきです 一世で解脱するのが 最良です そうでないと 長い時間がかかります 二、三回の転生か 二、三千年 かかります 最高のものに祈れば 最高のものだけ得ます それが一番でしょう 祈りが誠実なら 神は最高の人を 送ってくるでしょう ええ 最高を求めます 私は今世で神を 知りたいだけです ですから どうか 私に神を知らせたい人 神を知るのを助ける 人を送って下さいと 神は最高を送りますよ そうでないなら 神は あなたを天国に連れて 行く人とか 不思議な力や そんな幻想のものを 与える人を送ります でも神を知りたい 一世で神だけを 知りたいと祈るなら 神は最高で最速で 最強の人を送ります

瞑想は 開悟するために 最も早い方法ですか はい でも 瞑想の種類によります 私達の瞑想は そう 即刻です たちまち 神に 関することを知ります 聖書で説いている ように 最初に言葉があった 振動があり  言葉は神であった 言葉は神と共にあった 私たちの法門を 修行するなら神である 言葉を聞くでしょう

そして神を知ります でも最初のしるしは 恐らくあまり確かでは ないかもしれません 言葉 神への瞑想を 繰返した後で それが確かに神だと 知るのです またあなたは神と 一体だと知ります 次の質問です 観音法門とは 何でしょうか それは神の言葉に 気づいた者が 直ちに神の言葉を 言葉とは神だと 認識する手伝いを することですよ

悪魔は個人化された 悪のように見えます でも邪悪な衆生や この世をうろつく鬼は 現実にいますか 又は 私達に内在しますか 内在の世界と外の 世界にもあります ですから私達には うまく分けられません 頭脳の中に表面上 通常現れるものは 何でも  ですから ほら 同じ部屋にいる 二人の人は 彼らの周りの環境と 雰囲気について 異なる認識を 持っています

一人が死ぬほど惨めで もう一人が 毎日か その瞬間 天国の楽しさの中に いることもあり得ます

ですから私達は自身の 内面に悪が存在するか 否か言えず 両方です それは神のように 内面にも外面にも どこにでも存在し 私達の認識次第です 私達の認識によって 神か悪かを出現させる ということです

私達の概念と認識です 自分の概念を 変えねばなりません 神のように考え 神の道を修行するなら 私達は常に 神の存在の中にいます 悪の方法を修行し 邪悪を考えれば

私達は常に悪魔の 存在の中にいます 悪魔とは人でも 個性でもなく

性格でもありません それは 私達の否定的な思考 行動 言葉から 放たれる力です

至る所に存在します でも私達が 神の王国に入れば 悪魔のことなど 知る必要はありません 私達は 神の王国に調律すれば 神の王国の中に いるのです 私達が悪の王国に 調律すれば 暗闇の世界にいます すべては 私達の概念と 中に入る能力次第です だから 瞑想をする時 私達は神の王国に 調律を合わせる テクニックを知り 常に神の王国に いるのです

ラジオのように 異なるチャンネルに 合わせられるのです 魂とは何ですか それ自体は瞬間にだけ 現れますか あるいは 絶えず認識されますか 繰り返し気付くことで 瞑想によって 繰り返し 魂 精霊に 気付いていることで 絶えず 認識されます 常に 魂に気付くことを 習慣にすれば やがて 自動的な過程のように なり それで 常にその中にいます どこにいようが 何をしようが 関係ありません 例えば禅ではこう言う

「食 寝 歩行すべてが 禅である」そんな感じ