私が初めて フォルモサ(台湾)に 来たとき 大変感動しました この話をするのは さっき言ったことと 関連があるからです フォルモサ(台湾)に来たとき 私は本当にお金がなく 私は中国 仏教教会に行って 彼らと連絡を 取りました 私も 仏教徒で尼僧でした 私は受戒するために 来たと言いました

彼らは大変歓迎し 外国人が遠いところ 受戒に来てくれた事で 大変喜んでくれました そして私を大変 大事にしてくれて いたわってくれて 手厚く世話して くれました 色々な面で私を助け 世話してくれました 彼らにできることは 全部してくれました ですから フォルモサ(台湾)に 対する第一印象は フォルモサ(台湾)の 仏教教会に対する 印象で とても親切で 責任感が強く 友好的でした 当時 私は 仏教の僧侶に 会ったのではなく ある女性と 仏教教会で 事務の仕事をしている 中年夫婦に 会いました こういうことでした 彼らは大変親切に してくれました そこで後に 私は恩返しに英語を 教えてあげました

後で その女性は私を 他の寺院の法師に 紹介してくれました 私はそこに移り 他の人と住むことに なりましたが 彼らも 大変よくしてくれて よく世話して くれました 受戒するために たった二ヶ月 滞在しましたが 彼は私が他へ行くのを 惜しんでいました この愛は今でも私の 心に保ち続けています ただ簡単にこの話を しましたが その時私は自分が 観音法門を修行して いることを誰にも 言いませんでした ただ毎日床を拭いたり お手洗いの掃除を したりしただけです とても平凡な日々で 何の問題もありません

そしてこの縁で 私はその法師を 知ることになりました

彼は私に アメリカに行って 彼と一緒に法を広め 彼について学んで 欲しいと言いました 私は承諾しました 大変嬉しかったです その時私のフォルモサ (台湾)のビザが すぐ切れるところで 延期できません 延期は難しいのです

なのでその法師が大変 ありがたかったのです 私は言われた通り 直ちに行きました

僧侶と尼僧は どこにも 執着しません オゥラック(ベトナム)人の 法師と 中国人法師は同じです 私は彼らについて 学ぶ機会がありました 彼らの智慧と 違った仏教の法門を 学んだのです とても良かったです 私はすぐに荷造りして そこで一年住みました 彼も私に大変親切に してくれました 余りにも よくしてくれて 言葉では表せません

その後パスポートの 件で私は滞在できなく なりました

その法師は私に 行って欲しくなくて すぐに弁護士を探して 私を助けてくれました そして私を連れて 法務省に行き 沢山の書類を用意し 沢山の保証書などを 書きましたが 結局だめでした 仏陀が私を離れさせる ので そうなりました それでも彼は 私に戻って来て 三カ月滞在してから 離れることを約束して ほしいと言いました これは彼が私のことが 大変好きだから 留めたことを示します

社長は社員が 気に入らなければ 留めますか すぐ首にするでしょう

違いますか

そういうことです

私が再び渡米した時 彼を訪ねました 彼に招かれたからです その後私がアメリカで 住んでいた頃 私は突然 有名になったのです 私のせいではなく なぜだかアメリカの 修行者達が私のいる 所を見つけたのです ずっと探し続けて 最後に見つけました 彼らの内面の体験が 彼らを私の住んでいる 寺院に導いたのです 私を掘り出しては こう言いました あなたは私が探してる マスターですと 私は おかしい 何かの間違いでしょう

ここに確かに法師は いますが今は留守で 戻って来るまで 二ヶ月待たなければ なりませんと言うと 彼は いいえ違います 貴方ですと言いました 私はどんな法門も 伝授しないし 教えることもなく ただここで床を拭いて いると言いました

ご存じのように彼は フォルモサ(台湾)に行っていました 彼の他にも 多くのアメリカ人が 私を訪ねて 来たのです 彼らが「匂い」を嗅ぎ 私は有名に なったのです

離れねばならなくなり その後 私はアメリカに戻り その法師を訪ねました 彼に来てほしいと 招かれたのです 行って彼を訪ねました フォルモサ(台湾)に 戻ってからも 私は彼を訪ねて行き お土産を上げました 毎回仏教協会にも 行って 声をかけました

ここに帰ってくる度に 手土産を提げて 仏教協会のスタッフの 所に持って行きます 大変親切にして いただいたからです

私の彼らに対する愛と 感謝の気持ちは依然 強く心に残っています

さっきも言ったように 全ての宗教はみな 同じ事を教えます 善行をし よい事をし 国や社会を 助けるよう教えます 私も同じことを 教えています そうですね (はい) あるマスターは人々に 数を数えることを教え 一二三四というふうに そうでしょう 呼吸法門です 一、二、三、四 五、六 十まで数えます このように数えて いけば 禅定に入ります また人に 南無阿弥陀仏と唱える よう教える人もいます

これも禅定に入れます 私はただ別の法門を 教えているだけです

時々何をしたらいい 人なのか分からない 事があります 最善を尽くすのです 優しさ 正義 礼節 智慧  誠実を実践するのです たとえこれに最善を 尽くしたとしても それでも十分でない ように感じます または 布施をして 道徳的で侮辱を忍従し 精進して 禅定を得たとしても まだ足りません 何か物足りない感じが するわけです 智慧が欠けています 法(真理)がないのです いったんこの法 つまり 「一」「道」を得ると 心は安らかになります すると何事も 気にならず 誰に対しても 何も求めません

人と争ったり けなしたりしません また誰かを 攻撃したりもしません ただ讃える 言葉だけです 全ての人は 智慧があることを 知っているからです 智慧が開いたか どうか 智慧を使っているか どうかに関わらず 内面にあるのです これを 釈迦牟尼仏は 仏性と言いました カトリックでは 神の王国と言い 老子と荘子は 「道」と呼びました これを得てこそ 私達の心は安らかに なれるのです

ですから私は フォルモサ(台湾)に いても 他の国に 弘法に行ってもこれが 私にできる全部です 真摯にできることは この「法門でない 「法門」を皆に 提供することです これを皆で分け合えば 平和な心と 憂いのない 寛大な心 良し悪しを区別しない 心が得られます ただこれは その国の功徳と 関係があり 出会う人々との 因縁と関係がある事を 私は知っています 誰がこの法門に ついて習いたいと 思っても結構ですし そう思わなくても 構いません 人はみな自分の 計画があります

私はただ自分が 持っている良いものを 提供したいだけです 皆さんが お金のある人は お金を寄与し 力のある人は 力を出し 力もお金も なければ喜んであげる ことと同じです 私はこの法門しか 提供できません 私はお金もないし 力もありません

ご覧の通り この小さな手を 見れば力がないことが 分かると思います しかし私には 皆さんが 善行を行い 全ての宗教をたたえ 人々を助ける団体を たたえ 隣人に優しくし 人を 傷つけない事をたたえ 激励する心があります 喜ぶ心で人をたたえる 心を持っています それで また皆さんに 提供できる 宝物 私の命よりも大事な 観音法門があります これを提供したいです これは私にできる 貢献です

それ故に 観音法門は無料で 提供します 法(真理)を 広める事は 僧侶や尼僧の務めです だから 皆さんは私に 感謝する必要も 恩に思う 必要もありません これは私の務めです 受け入れて下されば とても嬉しいです なぜなら私の義務を 果たせるからです

こういう事です 私達は「道」の 真髄が分らないため バランスが取れず 一つになっておらず 私達は心と心が 繋がっていないのです

それで私達はそれぞれ 異なった方向で 違う事に取り組み もがくのです

親愛なるマスター 阿羅漢や菩薩の レベルに到達するには どの程度まで 行かねばなりませんか ある人が菩薩の レベルに 到達した場合 もう 後退しないのですか

菩薩にも沢山の レベルがあります 阿羅漢のレベルに 達することは とても簡単です 皆ができることです 私達は無数の 人生において修行し 今は観音法門を修行しています 印心を受ける時 自分がどのレベルに いるかすぐ分かります それから 引き続き修行して 今生で 阿羅漢のレベルを 最低でも得ます  最低限で 一生懸命修行し 明日死ぬという 運命でなければ 私が保証できることは 今生で 阿羅漢のレベルに 到達することです 自分で分かります

どのレベルかを 測れますが 阿羅漢に到達したら 一、二、三、四の 様なものではないです 私はこんな感じと 知っていますが 皆さんは知りません 描写できるものは 永遠の「道」では ありません でもそれを知らない 訳ではありません 簡単に説明できません 観音法門を習う べきです そうすれば 自分でこれが 分かるのです また 菩薩という言葉を 私達はあまりにも 気軽に使っています だから 人々が 混乱するのです

ボディサットバは サンスクリット語で 人を悟らせることが できる 悟りを開いた人を 意味するもので 感覚ある衆生を助けて 解脱させることが 出来るという意味です 彼らの仕事は衆生の 解脱に関係していて それで菩薩と 呼ばれます 菩薩のレベルは 阿羅漢より高いとは 限りません 菩薩と呼ばれるのは ただ単に 衆生を解脱させる 仕事に関わってきた からです そうは言っても 菩薩と呼ばれるには また悟りを開いて いないとなりません 菩薩の菩提は 悟りを開いたという 意味なのです 「菩提」とは何か 知っていましたか 悟っていて 智慧があることです サットバは 衆生という意味です つまり悟りを開いた 衆生という意味です 悟りを開いた衆生は 大抵人を助けることを 期待されます だから 菩薩と 呼ばれるのです 悟りを開いた人が 人を助けなければ 阿羅漢と呼びます

こういう意味なのです 阿羅漢も 菩薩になれます アラハトは梵語です 阿羅漢は もう二度と 輪廻はしないレベルに 達したという意味です 二度と人間に生まれ 変わりはしません 発心して衆生を解脱 させるために戻ると 誓約しなければ これが阿羅漢です 菩薩の中には この俗世に戻らない 菩薩もいます 阿羅漢のレベルを 超えている菩薩も 阿羅漢よりレベルが 低い菩薩もいます 阿羅漢よりレベルが 低い菩薩は 第一界の菩薩と 呼ばれ 法(真理)を 広める助けを始めたばかりで ポスターを貼ったり 剥がしたり お花を生けたり クラスに講義用の コップを置いたり そんなことをします これを第一界の 菩薩と呼びます もっと高い次元に いる菩薩は 第八界 第十界という ように仏教用語で 表され 人々に彼らのレベルを 知らせます 私達の大学のシステム 一学年二学年三学年に 似ています

不退転の 菩薩のレベルに 達していれば これは後退しないし 滑り落ちないし 後戻りしないし 落ちない次元にまで 悟っているということ 不退転の 菩薩のレベルに 達していなければ 落ちる可能性が あります 親愛なるマスター 主要な宗教の 教祖達の教えと 修行体験は 全て同じで しょうか 沢山の宗派が ありますが 真理は一つなのですか そうです 皆さんはすでにこれを 分かっているのです 親愛なるマスター 私はよく あなたの弟子から あなたが恋しいと ちょうど数年前恋に 落ちた配偶者のようだ と聞きました あなたに無性に 会いたがる気持ちは 何年も前に恋に落ちた 夫とか妻の 会いたい気持ちと 同じです

とにかく フォルモサ (台湾)には多くの 大師や聖職者がいます 多くの人は他の大師に 従いましたが こんなに強く大師に 会いたがる話を 今まで聞いた事が ないのはなぜですか

たぶん 彼らの時機は まだ来ていません 適切な時機に愛とは 何かが分かります

大人になっていないと 幼い時のように 愛が何かが 分かりません 大人になったら 分かります フォルモサ(台湾) の 人々はたぶん 今は 成長しているでしょう

私が好きなのでしょう 互いに縁があるのかも しれません

親愛なるマスター 釈迦牟尼仏が 悟りを開いた時に なぜあえて感覚ある 衆生に真理を広めよう としなかったのですか 涅槃(永遠の至福)に 入りたかっただけです 梵天が降りてきて 彼に 法(真理)を広めて 感覚のある衆生を解脱させるように 懇願したので ついに 勇気を 奮い起して 法(真理)を広めます それは 仏陀が 衆生は解脱させる事が 難しく 彼らは 真理を信じずに 誹謗するだろうと 懸念したからですか そうです 

経典に 書いてあります 理由はそうでした 親愛なるマスター 母はクリスチャンで 以前は全然 仏教音楽が好きでは ありませんでした でも ある日 偶然にマスターの 仏讃を 聴きました そしたら突然 母はもう一度 テープを繰り返す事を 欲し マスターが 詠唱したお香の讃歌が とても美しいと 言いました 以前聴いたことのある 仏教音楽とは 全然違います もっと不思議なことに 母がマスターの仏讃を 聴いて以来  母は私に毎週日曜日 マスターを訪れさせて くれるばかりでなく 大晦日の夜でさえ 私はまたマスターに 会いに行け 七日間の 瞑想会への参加も 出席できています これは本当に 大きな変化です なぜマスターの 仏讃にこんな 偉大な力がありますか マスターの歌声が とてもきれいだから でしょうか それとも マスターの歌の中に ある大きな慈悲と愛に 母は心を打たれたの でしょうか

彼のお母様なのに 私に聞くのですか 彼はお母様と長く同居しているのに 知りさえ知りません 一度もあった事のない 私がどう分るでしょう 彼女が好きなら いいでしょう 多くの人が同様です

多くの人も仏教 カトリック教 あるいは一貫道が 好きではありません 道教徒は仏教が好き ではないのですが 私の仏讃を一度 聴いたら 好きになり始めました

一曲の歌だけで 全ての人をこんなに 結びつけられるのなら これからはもっと 歌うつもりです マスター 私は靴デザイナーです この手の仕事は 殺生と見なされないと 言われました 仕事を変えなくても マスターの印心を 受けられますか はい 出来ます

マスター 観音法門を 修行すれば 将来 私が死んだら マスターの浄土に 行けますか そうとは限りません あなたの 誠実さと 努力によります

でも 遅かれ早かれ そこに到達しますよ 例えば この人生では 十分に修行をせず 修行が遅れていて 怠けたり のろのろ修行していて また戒律もしっかり 守れないなら 私は保証できません 正義は親類関係を 超越するからです 浄土は 善良で優しい 人々だけが 身口意が清い 人々だけが 高い次元と偉大な 智慧を到達する人々 だけが滞在します 皆さん全員が 肉や酒が好きで それらを 手放せなければ まずは阿修羅界に 住むことになります

そこに行き しばらく訓練を 受けます もっと多く修行し もっと多く 教理を学んでから 皆さんはみな 阿羅漢レベルに上がり それから梵天の次元に 上りその後マスターが いる所に行きます

親愛なるマスター 修行と感覚ある衆生の 済度を同時に するべきですか それとも まず 修行をし あの次元に到達して から他人を解脱させる ために現れますか それは済度の仕方に よります 例えば 感覚ある衆生を 解脱させる二つの やり方があります 直接的な解脱と 間接的な解脱です 例えば 今 私が公に講演に行き 皆さんの役に立つのも 他人を解脱させて います 後に あなたが 高次に到達した 偉大なパワーを持つ マスターになると 直接 感覚ある衆生を 解脱させられます あなたはどの方法で やってもいいです 親愛なるマスター 完全に得度した 仏陀は三身 全てが完全です 親愛なるマスター 完全で完璧な 報身体を持つとは どんなものですか

報身体はつまり 肉体のこと でしょうか(はい)

ほとんどの人が それさえ見えません

広欽老和尚を見ると 彼はとても小さくて 痩せていて 崇高でも荘厳でも ありません 釈迦について聞いて いたのとは違います とても大きくて 背が高く 偉大だと そうとは限りません 完璧で完全な 報身を 持つということは その人には 何ら特徴があっては いけないのです 手足が不自由だとか 骨の造りが異状だとか どんな重い病気も あってはいけません 五感が全て完璧で 完全に無傷でないと いけません 例えば 目や耳や口が 不自由ではいけません

彼がそうならそれが 完璧だと考えられます

障害がある人や 醜い人のように見える 本物のマスターは 一人もいません 少なくても やはり彼は とても上品に見えます

マスター なぜ心が愛で いっぱいの人が 青春の真っ只中で 自動車事故で 残酷に死ななければ ならないのですか 悪いカルマ(報い)の せいですか

もちろん 悪いカルマ(報い)のせいでもあります しかし本当は それだけではないです もうすこし 複雑になります 不公平な死もあります

そうでなければ 昔 車はありません でしたから 誰も自動車事故には 遭いませんでした それは違うのです したがって 時に悪いカルマ(報い)のせいで 時に それを 取り除くためです 時には 社会と環境の せいです 時には 不公平な 死もあります

マスター マスターが話された お腹が空いたら食べ 寝る時間になったら 寝て 時間があったら働くその境地に達するには どういう風に 修行すればいいですか 観音法門を 修行すればいいです マスター 最近 台北には 中国禅学 印心法研究会と 呼ばれる 非営利団体が できました その設立者は 妙天法師です 彼はマスターを 道に達してる方として 尊敬しています マスターの講演の度に 弟子達にマスターの 教えを聞きに行く ように言います 彼も印心を伝授します 妙天法師の 印心の伝授と マスターの印心の 伝授が同じものか 私には分かりません ですが彼は弟子達に菜食を勧めていません

新しい団体ですか

(はい) 中国禅学 印心法研究会は 非営利団体で つい最近 できました

彼の印心が良かったら その人に教わりなさい 自分で判断して下さい

マスター ある人が 人とか物に対して 感情豊かだったり 物質に対して 沢山の欲求があって そのせいで とても苦しんでいたら その人はどうしたら いいですか 修行すべきです 自分の 問題を内側から 正すべきです それは心ではなく 悪いカルマ(報い)です 時に それは前世からの 悪いカルマ(報い)です 残された悪いカルマ(報い)です 時には 社会的 影響のせいでも あります それが何であれ 私達はなおも 苦海の中にいます 多かれ少なかれ 私達は心配があります 苦海を乗り越え 生死から解脱する 唯一の道が あります いったん観音法門を 修行すると 二度と 戻ってきません

マスター 生死からの解脱とは どういうことですか こういうことです 私達人間は生まれ また死にます 生まれる時 生まれることを 望んでなくても 強制的に生まれて それで無理やり 生まれさせられたと 感じることもあります ある人は 生まれたくなくても 生まれてきます 生まれてから 無知のまま生きてきて そう生き続けます 他の人がする事を 何であれ私達もします それだけです そうしてから 自問します なぜと 死ぬ時も ほとんど同じです 誰も言えません「まだ 準備ができてません」 そして黒と白の 死の天使に尋ねます 「待てますか」と 私達が死ぬ時も 強制的に死にます 時が来たら 私達はただ死にます そういうことなのです

それで私達は非常に イライラさせられます 生死から 解放されるためには 私達は今生で 解脱する方法を 知るべきです

例えば 私達は生きている間に 死に方を 修行できます

死ぬ前から私達は既に この宇宙のどの片隅が 私達にとって 住みやすいか探索し 知っておくべきです

そうすれば 私達は 向こうに特注の家を 注文できます

私達は毎日 そこへ行き 家を建てます そして 時が来たら そこへ行き住みます これがいわゆる 生死からの 解脱です 簡単に言えばです

経典に沿って 言うなら 「極楽浄土へ行く」とか 「涅槃に入る」です 今 私達は涅槃 (最高の楽園)を 見つけられます 例えば 観音修行者には常に 涅槃(最高の楽園) を訪れてる人がいます 常に極楽浄土を 訪れる人も いるでしょう 常に自分の この肉体から離脱する 人もいます 出て行っては 戻ってくるのです 例えば 台北に 家があっても 台北が好きでは なかったとします 人口が多すぎたり 複雑すぎたりして 公害がひどかったり 生活費が高いからです むしろ高雄の方が 好きです 人口も少なく土地も あり色々な事が可能で 人々も単純です

これは単なる例です 台北が良くないとは 言っていません 私達はなおも台北に 住まねばなりません さしあたり 高雄の状況が 分かりませんから 私達にはそこに 家もありませんしね そこへ行き 路上で 生活はできませんから そこで 台北から 高雄まで電車で行き そこの土地を 調査して 家を買うか 建てるかします 家が建った後も まだそこに毎日は 住めません 仕事は台北ですから 私達はお金を稼ぐ為に 戻らねばなりません

時間がある時はいつも 高雄を訪れます ですから 常にそこに 通う事になります 家が建ったら 私達は別の仕事を 見つけねばなりません そして台北から高雄に 引っ越します 同様に 私達にはこの体があり それは非常に役に立ち 私達が一時的にそこに 住む事を許します そこに住んでいると 安全な感じがします ですが 私達は毎日 他の惑星に行けます それは仏教用語の 「境堺」と同じものです 他の宗教でもまた 同様に言及していて 神の王国のことです 私達はそこへ行き どの場所がより良いか 確認できます 永遠に続き いつか破壊される ことのない所 いつか 破壊されてしまう 体のない所 百年しか生きられない 体のない所です そしてその場所を 予約できます 死後 この体を 離れて そこへ行き 生きられるのです これが生死からの 解脱です

あなたはこの世に再び 戻っては来ません 生も死も 強要されません まるで牛のようです どこへ行こうと 人々に引っ張られ 全く権利がないような 不公平です 人間は宇宙で 最も偉大な 存在です 全宗教がそう言います なぜ偉大なのでしょう 私達は 自分達の住む所を 選択できるからです 動物にはできません 天使もできません 彼らには肉体がなく ただ周りを 飛べるだけですから それで私達には 肉体があり 宇宙を探索でき 戻ってもこれるです 観音法門はその機会を 提供していて それで私達は 生死から 解脱できるのです