マスター 仏陀の境地に到達する 機会を得るために 私達は人間の体を 持つべきでしょうか

どちらとも言えます 私達がこの人間の 体でいる時には 開悟したマスターを 持ち 良い法門を 学ばねばなりません 仏陀の境地に 一生涯で 到達するなら 私達には人間の体が あるからです 天使は人間の体を 持ちません それで 仏陀になれません それは確かです でも私達がこの体から 離れる時 まだ仏陀の 境地に到達していない 可能性もあります

しかし私達に在世の マスターがいれば たとえ阿修羅界か より低いレベルにしか 到達していなくても マスターは引き続き 私達がどこにいても 教えてくれます 後に 私達はなおも 仏陀になれるのです その時 私達は言えます 人間の体がなくても 人はなお仏陀の境地に 到達できると マスターどうか手短に ヨガ修行と到達できる 霊的レベルについて 説明して頂けますか

ヨガは大きな話題です クンダリーニは ヨガ修行の一種です

ただ修行の一種です このようなものです ミラレパの物語で クンダリーニの力に ついて聞きました それは背骨の 下部にある 力を蓄える 6ようなものです 背骨の底部近くです ヘビのようにそこに とぐろを巻いて 待っているのです 私達が霊修行をすれば ある方法が 多くのヨガの流派が 自然に飛び上がる ことを教える 特別な方法があります するとここまできます そうしたら一種の力を ある強い力を 持ちます そしてある程度は 悟ります 神通力を沢山 得るでしょう

しかしとても痛いです クンダリーニの力が 開かれ 急に発現したら それはとても痛くて 危険なのです 修行したいのなら 気をつけて下さい 良い教師を見つければ 何の問題も ないでしょう そうでなければ  障害を持ったり 精神不安定になります その修行は危険です ですから私は皆さんに 観音法門を提供します なぜなら 何も問題を 起こすことは無く 全く危険にさらす ことはありません 悪い状況は無く あなたに良い利益を もたらすだけです マスター 以前に ヨガを修行しました

その中に倒立する アーサナ(ポ-ズ)が あります それが瞑想に役立つと 言う人もいます 他の人は瞑想の妨げに なると言います 観音法門をしながら それをして良いですか 「逆さま」と言う 言葉を聞くだけで 目眩がしました どう言う意味でしょう 体を逆さまにすると いうことは足を 空中に上げることです それを観音法門と 一緒に修行をして 良いのでしょうか それはハタヨガです

あなたはハタヨガを 練習してもいいです それは霊修行でなく ほとんど体の 運動です 中国人は長い間 逆さに立つ この方法を 知っていたんでしょう オゥラック(ベトナム) 人も知っています ひっくりかえることは いいことです 時々 それは私達の頭と体の 循環を助けます 悪くなくていい事です それは運動です あなたはそれを 練習したらいいのに しかしハタヨガに 呼吸法があります それを練習しては いけません 他の全ては練習しても いいです

呼吸法を 練習すれば 三界の中に 束縛されるでしょう マスター 個人的に ガールフレンドと 結婚しましたが正式に 届けませんでした 印心を受けられますか 私は印心を 望んでいます 私を許してください なぜ結婚しているなら 印心を受けられ ないのでしょうか 彼は正式な過程を経て いなくて結婚する前に パートナーと 同棲しています できます 両方が同意する限りいいです なぜそれが 私と関係が あるのですか 私は人々に一緒に 暮す事を禁止しません つまり一度に一人の パートナーを持つこと あなたは正式に 結婚していません しかし両方は同棲する ことに同意しました

後に 結婚する時に あなたは一組です 一人の夫と一人の妻 あなたが走り回って 他の人を探すべきでは ないと言っています それ程厳しくないです 時代が違います マスター どのように 観音法門を私の日常 生活に応用しますか これは良い質問です 私達は社会のために 観音法門を修行するの ではありません しかし それは社会に 非常に役だちます 修行すればするほど より賢くなります より速く行動します より良い決断を します 私達は智慧を持って すべてをします 悪いことをしません

私達は常識で 正しく そして速く 物事を行います したがって もちろん 毎日 観音法門を 修行すれば するほど より私達の国 私達の商売と 仕事の利益になります これは確かです また私の教えは 毎日どう行動したら よいかを教え それを日常生活に 適用できます マスター 出家者になるには 年齢制限はありますか マスターに従い 出家したいと 思う理由が あまりに多くの時間と エネルギーを困難な 仕事をしたり 生計を立てるのに 費やす必要はなく 霊修行に 集中するという事なら 構いませんか 彼の言う意味は 彼は苦労を 恐れていません しかし人生で 霊修行できる 時間を持たないのを 恐れていて 彼は速く菩提に 到達したいのです あなたはできます でも耐えられないの ではと危惧します 毎日足を組んで 何になるのでしょうか

四種類の恩人に恩返し せねばなりません

もちろん 時には 夏の禅会等に 行ったりします その間 私達は中に 三カ月滞在します 外出せず 私は講義さえしません

時に 七日間の 禅会とかを 自分たちで 開催します 皆テントにいます 私達は中に五日 六日 一週間や二週間 いますが 私達は 働く必要があります

私のところでは 水を汲みに行ったり 薪割りのように 疲れる仕事は無いです そんな仕事は無いです 現代 私達はガスを 使うので何も 心配しないでいいです 掃除する床も ありません

拭く窓が ありません テントにいるからです 心配しなくて良いです 私達に参加するのを 歓迎します マスター 私はとても 道理的な人です 悪い人を扱うには どうすれば良いか 教えて下さい

彼らの心配をしないで 言葉を使って  彼らの心を動かし 変えられます その方が良いのです あなたが彼らを扱う 必要はありません 例えば 彼らに 私の講義に 参加するよう言います 良い話をし 道徳的な振る舞いを  教えるマスターを  知っていれば 彼らを講義に連れて 行けばいいです または 彼が特定の 宗教または良い団体が 好きと知っていれば それに参加するように 勧めればいいです 私の教えが良いと 思うのなら 彼に来るように 勧めるのもいいです この方法で 彼自身が変わります いつも人を動かすには 愛を使うべきです それが最善の方法です

マスター禅宗の 第六祖の経典には サマディに入るために 瞑想をする必要は ないと言われています マスター 観音法門は毎日 二時間半の瞑想が 必要とされています

その目的は何ですか

では眠りに行けばいい 私達が彼を誤解して いるからです 彼は瞑想をしました

神会が尋ねました 「マスター 瞑想中に何かが 見えますか」 彼がこう聞いたの (はい) そうです 彼が瞑想したことを それは証明します それで慧能は何と 応えたのですか 「瞑想ではものが 見えますが 何も見ません」

この話題について 話は続けません 彼が瞑想したと知って もらいたいだけです 彼が言う意味は 足を組むだけで 悟られないということ どんな無意味な方法で 修行しても悟る事は できません いいえ 不可視の法脈が あるはずです

悟るためには正しい 方法で修行しないと いけません 足を組むだけで 悟りは保証されません 静かに座るだけで 悟りは保証されません それが彼の意図です 瞑想してはだめという 意味ではないです 釈迦牟尼仏は どうですか 彼は一日中 寝ているのですか どの経典にも 釈迦牟尼仏は 瞑想をし 三昧に入ったと 言われています 彼が三昧から出て 弟子に あれこれと説法を したのですね (はい) はい 慧能は 同じ事をしました 彼は座っている時に 昇天しました 彼が毎日 瞑想していなかったら 座っている間に 天国へ昇天できるほど ひざが自由自在に なり得ますか 横になっている間に なぜ昇天しなかった のでしょうか

皆 瞑想していました 瞑想を通してだけ 心は静かになります

しかし 瞑想は 脚を折り畳んでする しかできないとは 言っていません 立っている間に 瞑想でき 横になっている間に瞑想できます お茶を飲んでいる間や 王様のように 椅子に座っても それでも瞑想できます つまり その時に  私達の中にある仏性を 見つけるために特別な 時間を取っておきます

それが瞑想です そして その後 それに慣れて 歩きながら生きながら 座りながら横たわって 瞑想できます だから 禅宗の 六祖慧能は 言いました 「禅は座禅に頼って いません」 彼を誤解しないように マスター 仏教の それぞれの戒律には 深い意味がありますか そうなら  なぜ尼僧は修道僧より 九八多く戒律が あるのですか 不公平ではないですか それは公平です 不公平だから 公平なのです 男性と女性は 違うからです なぜ男性より 女性の方が戒律が 多いのですか 当時の社会的 風習のせいです 人々の習慣は女性より 男性を優遇しました また 男性と女性が 一緒に住むとき 厳しい戒律は無く お互いが恋に 落ちているのです

その上 男性の体は 女性のとは 異なります

一つだけ例えましょう あなたは出家して いないので修行僧と 尼僧の戒律を 言うことはできません それでも 例えをあげましょう 仮に 戒律には こう言われています 本物ではありません 例として私が 作っています 男性は入浴中 短パンとTシャツを 着てもいいです それが戒律の一つだと しましょう 私達の戒律は とても似ています 衛生状態を 維持するものもあり 肉体や振る舞いに 気をつけます

どの戒律もそんなに 真剣ではありません 最も真剣なのは 殺さない 盗まない 邪淫をしない うそをつかない 飲酒をしない 化粧をしない 音楽を聴かない 踊らない 歌わない これはとても 重要なことです 僧侶の戒律であれ 他の戒律であれ 体や風習と 関連します

ですので 釈迦牟尼仏が 僧侶達に短パンを はいて 沐浴し泳ぐことを 認めたとすると 女性はどうでしょう 彼女達は ショートパンツの他に 長ズボンと 外側にローブまで 着なければなりません だから体は 露出しないのです

だから 沢山の規則があります そうでなければ 大差ありません 特別な意味は ないのです

マスター 人が 神々の像を 拝む場合 普通は法師を招いて 開眼してもらうのです 法師に開眼してもらうと 本当に効き目が あるのですか

または誠心誠意祈ると ご利益があるのですか なぜ法師に あなたの智慧を開いて もらわないのですか その方がいいでしょう 考えてみてください 木切れで彫ったものが 法師に触れた後 神になれるとしたら 私達人間が触れられた 後神にならない はずはありません この方が簡単でしょう なのになぜ木で彫った 神を拝むのですか しかし この問題の答えを このように言うと 皆さんは納得 しないと思います 私は分かっていますが 皆さんよく 分からないでしょう 説明しますと こういうことです レベルの高い マスターは 石ころを金に変えたり 何でも仏陀に 変えることができます これは本当です 嘘ではありません

だから皆さんは ある法師は石を金に 幽霊を仏陀に変える などの話を聞きます 何でもできるのです 造物主だからです 彼は創造の パワーを持っています 造物主を代表するので 何でもできます ただその種の法師を 先ず見つけることです そうでないと 木切れはあくまでも 木切れです パワーがないからです ただ低いレベルの 魂を招いて くるだけです 仏陀が来るのは 見かけません 悪魔がきます 悪魔が中に入ります なぜなら私達が中へ 招いたからです ですから 木で彫った神々に 開眼してもらうことは 役に立つ事もあります ただ高いレベルの 法師にしてもらって 始めて高いレベルの 神を招く事ができます

そういうわけで ほとんどの場合私達が 神々に祈っても 効き目がないのです またはあるにはあるが 僅かなご利益です 三界以内の世界の 福報くらいです 私達を生死から 解脱させてくれません それらの神々は それだけの力が ないからです それらの法師には 高いレベルの神を 招くだけのパワーが ないのです だから何のご利益も 得られないのです

マスター 人は皆 仏教は悲観的で 迷信的だと言いますが 私が見るからに あなたの弟子の中には 博士の学位や 修士の学位を 持っている人もいるし 病院の医師も 沢山いて エンジニアや 建国高校の 教師や 台北第一女子学校の 英語の先生もいます 彼らは教養があって 科学的教育を受けた 人達です これは仏教は 大変科学的だという 事を証明するのですか そうです ただ真の仏教は 仏陀の法を 含めていなければ なりません そうでないと仏教の 道理に過ぎません

仏教は仏陀の 教理です その教理は 釈迦牟尼仏が説いた 教理を言い伝えた ものです 私が今話を しているのと同じです

法を伝授してこそ 法を伝授してこそ はじめて その時点で本当の 仏法(真の教え)を 習うことになります 私の弟子は 仏法(真の教え)を 習っています

彼らは科学的で 論理的で最先端の ものを信じています

マスター 印心を 受けた後 五代の先祖が 超昇するとあなたは 言いましたが なぜ 八代とか 十代の先祖では ないのですか 私が沢山の数字を いうと信じてくれない 恐れがあるからです 五代の先祖といっても 皆は信じないのです 八代も九代も 十代も 問題ありません 無数の先祖が 解脱されます あなたの 親戚友人や どなたでも皆さんが 愛する人なら 皆超昇します 五代 六代 七代 だけではありません 数を言っただけです 五、六代でもいいです

八代の先祖というと 後から人はまた なぜ十代ではなく 八代なのかと聞きます 十代というと人は またなぜ十代なのかと 聞くでしょう なぜ百代ではないかと それでこの質問は きりがありません マスター 軍人と警察は 敵を殺し 農夫は農薬を使い 病人は薬を 服用し 薬を塗ります いずれも殺生 しなければなりません マスター これらの 人達も印心できますか 彼らは障害もなく 順調に修行できますか 彼らは解脱できますか できます 肉のために殺した わけではないからです

区別することです 憎しみのために殺した わけではありません それは彼らの任務です 他の人と 違うのです 彼らは自分の体を養うために他を殺します これは違います

私達は動物を殺さなく ても死にません

動物を殺すよう 強制されていません

動物を殺さなくても 生きていけます

医者も同じです 薬を使って患者の 病気をしばらくの間 治さねばなりません 殺生が好きでやった のではありません 味覚を 満足させるために やるのではありません これは違うのです

軍人や 警察は 修行者を含めた 国家を守らなければ なりません 国が戦争でも 国が戦争でも した場合安心して 修行できません なので軍人は殺生を 強制されたのです

好んではいません

これは状況が 違うのです ですから彼らも 印心できます マスター 極楽世界 究極の レベルに達するには 必ず菜食しなければ なりませんか 菜食することです 霊修行者だからです たとえ観音法門を 修行しなくても あるレベルに 達すると 肉食者が 修行者で肉食している 人を含めて罰せられて いるのをはっきり 見ることが出来ます その時は 恐ろしくなって 肉食をやめるでしょう そうでないと因果から 脱出できません

原因があれば 必ず結果があります 私は嘘を言いません マスター 印心した人と 本性を知った人は どう違いますか 音流と仏性は 同じことですか

そうです 印心を受けると本性を 知ることになります この二つは一緒に なっています マスター 私は 小学校を出たのですが どういうわけか 詩を書くことも 人々に善行をし よい事をするよう 勧める歌が作れます なぜだか教えて いただけますか 私の内面に何物かが 入っているのですか 私に良くないですか なぜ良くないですか 人々に善を勧めて なぜ悪いのですか 彼は自分には才能が ないのに 内面に一種の力があり 詩を書くようになった と言っています 彼に悪影響が及ぶのを 恐れています

良い事をするのは いいことです これに執着しないこと 自分がやったと 思わないければ 悪いカルマ(報い)は ありません 傲慢にならなければ 悪くありませんが 傲慢だとよくないです 必ずそうです 傲慢だと 問題が生じます マスター 一生懸命 菜食料理を研究し 美味しい 菜食料理を作ると 家族が一緒に 菜食をすることに 役立つでしょうか 助けになるでしょう やってみて下さい もちろん 美味しい料理なら 人は食べるでしょう 美味しくないと 誰が食べますか ほとんどの人が 菜食できないのは 彼らに合った料理を 作る有能な料理人が いないか料理法が 分からないからです 彼らは 菜食とは青物を食べる ものだと思っています 彼らは心配なのです 栄養不足になるのを 恐れています

出家者達を見て下さい なかなかいいです 顔がつやつやで 健康そのものです 色んな料理法を知って 人々が美味しく 頂くよう作らなければ なりません マスター一般的に 言って霊修行者に とって慈悲心を 培うことは大切です 慈悲心は 大変重要だと 言えますが 家に 害虫がいたり 毒性のある虫や 伝染病を移す 害虫がいるとしたら どうしたらいいですか 撲滅しますか それとも保護しますか よく分かりません 観音法門の修行者には そんな問題は ありません 害虫は 自然にいなくなります

自分で対策を 考えて下さい マスター 全ての人は死ぬとき 光を見ますか なぜ彼らは時々 戻ってくるのですか つまり何が彼らを 戻らせたのですか どんな光と 色ならいいものですか その光は魂の光です 私達の主たるものです この世界に戻って 来させる力は 私達の磁場であり カルマ(報い)です 私達のカルマ(報い)は磁場に しっかりついて 一種の力を形成します

そしてひとりでに 一種の力に変化します 自分の 認識と過去に 記録された行為に よって変化されます

そして私達は 今のようなったのです 私達の主たる魂は 前世からの魂は 別の所へ行き もう一度肉体に 戻ってきては 苦しみや悲しみ 善悪を経験します 全てカルマ(報い) なのです マスターキリスト教は 人間が輪廻することを 信じません なのになぜ仏教と類似 するというのですか

似ています 聖書にはこう言います 蒔いた種は 刈らねばならない その意味は 何をするにしても それ相応の結果が 出るということです 彼は全ての人が 神の王国に行くとは 言っていません 皆さんは完全に 研究していないから そう思うのです

マスター 観音法門は 本を読んで修行する ことができますか

冗談でしょう 本を読んで 観音法門を習うなんて できるはずありません 法脈は 教理とは別に あります

法を伝授するとき 法を伝授するとき 私は言葉を使いません 皆さんはそこに 私は ここに座って黙ります 本を読むなんて ことはありません マスター 人生の意義は 肉体的な感情を 断ち切り 快楽や悲しみに 対する執着を 断ち切ることですか

そうです しかし そうでもありません そうすると 石になってしまいます これはいいでしょうか

私達は 喜怒哀楽に対し 執着しませんが まだ 感情は持っています そうでないと 人の気持ちに同情する ことができません

修行した後何もかも なくなってしまう わけではありません それは違います 依然持っています ただそれを気にかけず 執着しないだけです できるだけ人を助け 人の考えや気持ちを 理解しようと 努力します マスター なぜ済公生き仏は 肉を食べ  酒を飲むのですか  特権があるのですか 彼は極楽世界に 行けますか

彼の本にはっきり 書いてあります 済公生き仏は自分で はっきり説明してます

自分は肉を食べないと 神通力で肉を 作り出して人を 楽しませるためです そうですね(はい)

済公生き仏は 決して肉を食べないし 酒も飲みません 酒も飲みません 彼の話を読むと 時々出家者が 彼が持っている酒の ボトルをひったくり ますが何もないです 肉をひったくりますが 瓢箪に変ります 肉のついた骨が 瓢箪に変ったのです 彼にはあらゆる種類の 神通力があり 途方もない 神通力があります だから 生き仏なのです 彼が食べているものは 本物でありません

二〇〇九年 十月二二日の「有機ビーガンで 繁栄し 気候変動から 地球を救う」という スプリームマスター チンハイ国際団体が 主催する 会議の中で 貴賓として スプリームマスター チンハイは気候変動 から地球を守るために 有機ビーガンになる ように奨励しました