今日 仏陀はもう私達から 遠く離れているので ここにいないと 思っているでしょう したがって私達は共に グループを組みます とても大きいのです ものすごい規模です

悪魔と規模は中国語で 発音が似ています それで悪魔のように 聞こえます 知ってますか 昔は 王様の名前とか 親とか先祖の名前を 再び使うのは避ける べきだったですね そうでしたね (はい) 同様に多分私は悪魔が 嫌いなので違った風に 発音するのです 釈迦が 講演する時 どんな道具を使ったか 知りたいですね 数万人の人々が 彼の講演を聞きに 来たと聞いてます 身分の低い人 仙人達 人間 さらに龍とか 多くの他のものも 講演を聞きに来ました 彼はどんなマイクを 使っていたのでしょう その時マイクが あったでしょうか

私達には分かりません そこにいませんでした そこにいましたか 可能ですね たぶん 私達は何度も輪廻 したかも知りません どうしたらそこに いなかったでしょう さもなければ なぜ今日私の講演を 聞きたいのでしょう それは私が 釈迦とほとんど 同様に話すからです 前に聞いたことが なかったら なぜ今 聞きたいの ですか 聞いたのです 聞いた事あるのです 少なくても一、二回は 聞いた事があるのです

すみません 皆さんにお会いして 嬉しすぎて何を話して いいか分かりません 明日まで笑って いられたらと願います それは 講演を聞いた後 忘れてしまったとか 興味がなかったとか 教えを修行する機会が なかったからです 多分信じてなかったか 誹謗もしたかもしれず その結果智慧との縁が 断絶されたのです 長い歳月が過ぎてこそ 同じものを再び聞く 別の機会が 与えられるのです さもなければ なぜ毎回 偉大な師の 講和を聞くのでしょう 例えば 釈迦とか イエス 孔子 老子とか 他の師のですか 深く研究したら 彼らは皆同じことを 話していました

善行をしなさい 良い人になりなさい 自分自身を培って 家庭の事を処理し 国を治めよ 世界を平定せよと 同じ教えです 釈迦も同じことを 言いましたね 多分 彼はもっと広い 意味で もっと広く 言ったか 他の用語を 使ったのでしょう

ですから 釈迦がもうそんなに 話したのなら なぜ孔子も話す必要が あったのでしょう 老子もこれを 強調しました イエスもこれを 強調しました 「隣人を愛せよ」と 隣人を愛せよ とか 敵を愛せよ など これは 釈迦牟尼仏の教えと 一緒です 同じ倫理規定を教えて くれただけでなく 同じ法門も 教えてくれました 彼らは去ったので 実際何を教えてくれた のか分かりません たぶん 私達と一緒の時 何か教えてくれたのに 興味がなかったのです 学ばなかったのです それで私達は まだここにいるのです よく勉強していたら たぶん今ごろ 天国で他の仕事を しています 工場とか事務所へ 急いだり この 地球の上で忙しくする 代わりにです

どんな生涯でも いつも 仏陀 菩薩 聖人 神がいて この世に輪廻し 同じことを 私達に喚起します すなわち この体から解脱し 生死から解脱して 優れた存在になって 人間として戻るのを 止めることです それは苦しすぎます 人間として 戻ってくるなら 完全に自由な人で いましょう

天国が何かさえ知り ませんし ましてや そこに行って講演に 出席などできません 例えば 大学で研究するために 入学しなかったら 構内に入ることさえ できず ましてや 教授が行う講演になど 出席できません 小学校さえも 入学しなかったら 入って座ることも できず 大学は 言うまでもありません

印心してからのみ そういう話をします

印心しなかったことは 入学しなかったことと 一緒です 学校へは入って行けず 先生の事を知ることも できないのです 先生は 内面で話しています たとえすぐ外にいても 先生の言ってることが 分かりません すぐ隣に住んでいても まだ聞きに入って 行けないでしょう 同様に 天国では マイクとか 言語とか 必要ありません 話してないように 私達は話します 話していませんが 私達は話しました 音を聞かなくても 聞こえるようで どんな言語かは 分かりませんが 理解できるのです

帰って来て たぶん 先生が何を話したか 天国でマスターが 教えた事や 仏陀が教えた事などを 言うことはできません それらの仏教経典は インドと ネパールから来た 釈迦牟尼仏の 大弟子が 書いたものです 彼らの経験を 書いたのです 例えば どのように 天国へ行き 瑠璃光王仏の 場所へ行き そこで彼らは どんな世界を見たか 瑠璃光王仏は どのように見えたか 彼に話すのです その場所で 釈迦牟尼仏は 瑠璃光王仏を 紹介しました ずいぶん前に 彼はある方法で 修行していて 大きな願をかけました

仏陀になった後も まだ願をかけました ですから 多くの衆生は 彼によって 生まれているのです 例えばそういう事です 彼の願と福報は 例えば 非常に大きいのです その時 瑠璃の世界を 見ることが できた人はいません

その人だけが  釈迦牟尼仏と一緒に 化身で 行ったのです 彼だけが聞き 理解し  戻って来た時に  それを書きました その時 釈迦牟尼仏と 一緒だと言いましたが 恐らく釈迦は 彼に印心を授けていたか 一緒に瞑想をしていた

彼は釈迦がそこで 話すのを見たのです 例えばですが 釈迦牟尼仏が その人に話かける時 彼らはこの物質世界に いません

彼らの肉体が この世界に あったとしても 瞑想している時に そのような事を 話します それは二人とも 高い境界に 行った時に 彼らは瑠璃の世界に ついて話しました 瑠璃の世界は 彼の誓いであり パワーなのです

インドは大きい国で 釈迦牟尼仏は四十九年 弘法していたので 無数の弟子がいます インド全体から 彼の弟子の 体験が集められ 経典として  多くの体験が 記録されました 分かりますか 素晴らしい 釈迦牟尼仏は もちろん  彼が天国へ行く時  マイクは要りません マイクは 必要ありません 釈迦牟尼仏が 講義をした時 たぶん 彼は最初に一部の々に 話す可能性があり そしてこの人々は 彼の言葉を周りに広げ それを大勢に 広げたのでしょう

それはこのように 恐らく彼らはまず すぐに彼の言葉を 書き止め その後 様々な集団に広げ 右の 左の そして後の グループのリーダーが まず聞き そしてマイクを 使わずにメッセージを 伝えるのです 天国では もちろん 必要ありません 彼らは別の種類の 言語を使います  口語ではありません 時には  とても高いレベルでは 先生の体さえ 見えません 体でさえもです ただ一面の光のように しか見えません とても美しく魅力的で  明るいのです 中央から光が 放射している ように見えます 振動のようで 一面の光の 振動のようです

それだけです 手も 足も無く 頭も無く 口も 目もありません しかし みな理解します

釈迦牟尼仏は 時々 私達が 理解できない  稀有な話をしました  瑠璃光の世界 阿弥陀の世界 華厳の世界 龍の女の子が 仏陀になった 事などです これらは決して 理解できません

それで私達はいかに 釈迦牟尼仏が 言った事を信じますか 彼は二千五百年前に 往生して もう 彼に会えなくても 私達はまだ信じてます

釈迦牟尼仏は 二千五百年前に往生し 彼に会う可能性は ありませんが 私達は彼を信じてます 現在の人の言葉を 私達はなぜ 信じないのでしょう

簡単なことです 現在の人々も 体験をしています 私の弟子も沢山の 経験をしています しかし 私が 公の場に出たのは ほんの数年で  私達は弟子の経験を 全て集める機会が ありませんでした もっと沢山あります 今それを読みたいなら これ位の厚さの 本くらいはあります 本一冊です 沢山の 体験がありますが 全てが書き留めている 訳ではありません ある高齢女性ですが 実際 無学ですが

彼女は北京語を 全く話せず 私とも 会話ができません 彼女は自分の体験を 静かにただ楽しみ 時々 彼女は 私に会いに来て 自分の体験を 明かすだけです

従って  釈迦牟尼仏の 弟子だけが体験が あるとは言えません 私達も 体験があります 出家者 在家者 年配者 子供達 若者も含めてです 病人でさえも 眼が不自由でも 聴覚障害があっても 体験があります 問題ありません 私はつい最近 台北で盲目の男性に 印心を授けました 彼は誰かに暴行され 視覚を失いました 彼は非常に苦痛で 苦悩しました 私は聞きました なぜ そんなに苦しむのかと これらの眼は本来 役に立ちません この眼があるから 転生してこの世界に 来なければ ならなかったのです 私達は  外面的に是非を 見ているからです 外面的な影響により 捕えられて 私達の本性を 見ることに集中できず 自身の内面を 見られないのです ずっと 私達は外面を見て 外面的な状況に とらわれてました

捕えられ より堅く 縛られました 眼を持たない方が もっと良いのです 悔しく 思わないで下さい 禅師の言葉 「今こそ分かりました 大変悔みます」を 思い出します 彼が言いたいのは 赤ちゃんが出生時に 眼と耳がない方が 最も理想的だと 同じことです 私も同じ事を言います 肉眼は 私達を この世界に縛り付け この世の眼は  この世界に縛ります 仏陀の眼は仏陀の地に 連れて行ってくれます 従って 最も重要なのは 仏眼を開くことで 肉眼があるかないかは 問題ではありません なぜなら 霊修行者として 時々 暗い家の中とか 真夜中でさえ ものが見えるのです 非常に明るいからです 私たち自身も 輝くことができます 私たちは仏陀で 光を持っています 仏陀の本性は この光です 私たちは 仏性を見ています すなわち私たち自身の 光を見ています

これは仏陀の本性 つまり神の王国です 神の王国にも 多くの境界があり 光だけではないです 私達ここに家があり 天にも家があります 更に美しいだけです 物質的なものはなく 例えば ここには 車や電車があります あそこにも 輸送の車両があります しかし 私達のとは 違います たとえば 雲や霧に乗ると 聞いたことがあります ありますか 本当です 間違いではありません 作り話ではありません 昔の人々はそこに行き 今 私達もそこに行け 例えば 上の境界に行けば 私達は雲に乗れます 雲があるとしたら 私たちが望めば すぐに来て楽しい ドライブに連れて行き あるいは商売をしに 連れて行ってくれます お風呂に入りたいと 思うと それは すぐに止まります 何も言う必要は ありません キーやブレーキの 必要はありません ここではブレーキを 踏んでも 時々 止まりません

それで 多くの自動車事故が 起こるのです あそこにはありません 雲は互いに衝突して 壊れたりしません そうですね 雲は非常に柔らかく 二つ雲の時さえ 仮に 交通渋滞があって 雲が一緒に ぶつかっても どちらも 壊れません それら二つは ただ手をつないで 二つの雲がです 二つの雲は 手をつないで 進みます 仲間がいて良い事です 問題ありません 雲は 感覚があります 私達のどんな行動も 必要としません 私達が思うだけで すぐに止まります お風呂に入った後 雲に乗ります

すると それはすぐに 目的地へ飛びます すごくないですか たとえ私達にそうした 体験がなくても それを聞くだけでも 楽しいです それは何らかの期待を 与えてくれますね 私達の世界はとても 物質的で 汚染されて いて 惨めなので 私達がそうした物語を 聞くのは良いことです それで毎日子供達に そうした物語を 話すのですね なぜ彼らはそうした 物語を聞くと幸せに 感じて 速く眠りに つけるのでしょう つい最近 そうした境界から 来たばかりだからです 子供達はより純粋で そうした境界に より近いのです

彼らは純粋なので より簡単に理解します 従ってそうした物語を 話すのをやめたら 恐らく彼らはこの 物質界に住み続ける 事が出来ないでしょう とても汚染されて 苦しみに満ちています 子供達は生き残れない かもしれません 従って 私たちは毎日 素晴らしい天人 仏陀 菩薩に関する 心地良い話で 昔話で 子供達を「騙し」ます 本当に子供を馬鹿に してるのではないです 彼らに物語を 話さなければ 彼らは不幸でしょう  そうではないですか あなたは毎日子供達に 物語を読んでいますか

そうです 夜です 彼らはパパ ママに 物語を読んでと せがみませんか それで西洋の子供達は そうするのです 彼らは物語を 聞かないと 眠りません ここではどうですか 同じですね そうした物語を読む時 時々 私達大人でも 大いに楽しみます 子供達だけではなく 覚えているからです 心の奥に 私達自身の国 私達の本当の家を 覚えているようです それで そうしたおとぎ話で 喜ぶのです 純粋に作り話ではなく いくつかは実話です なぜ真実なのでしょう それらは 霊修行者の体験 だからです そうした境界に行き 戻ってきて それを書いたのです しかし 霊修行者の体験は 普通の人々のと まったく異なります

それで時々 それを明らかにできず 言います 「これは私の体験です 向こうに行って 天人 仏陀や 菩薩を見ました 非常に美しい 世界を見ました」と すると 気が狂って 悪霊に取りつかれたと 思われるでしょう こんな事が起こります 人々と 違うからです そうではないですか したがって 三蔵法師は 実際 観音法門を 修行していました 彼の物語を読むと 分かります 私の本の第一巻に 彼が観音法門を 修行してた事を非常に 明確に説明しました したがって 彼は言葉で多くの 境界を解説しました たとえば 猿王はある場所に 行って観音菩薩を 見つけました 天国の王 李靖や 紅孩児などを 見つけました それらは 彼個人の体験です

ただ彼はあまりに 謙虚だったので 自分の体験と 言えなかったのです 彼は 唐の時代の人でした そうした体験をした 人はごくわずかでした 当時恐らく彼は そうした体験をした

そうした世界に行く 事ができた世界唯一の マスターだったのです 従ってそれを人々に 明確に言えないのです 恐らく弟子の数人に 言えただけです 恐らく同じ体験をした より近い二、三十人の 弟子に言えただけです それで彼らは信じ 少なくとも少し そういう体験をして 彼らは信じました それで彼はそうした 話を「西遊記」に入れる 必要がありました それは作り話ではなく それら境界は本物です

私はそうした人々と 繋がれる能力を持つ 道士を 一人、二人 知っています 彼らは 観音菩薩や紅孩児と 繋がれます 昨日話した 道士の話を 覚えていますか その道士は 一昨日 私を見て 「マスター 五日前 あなたの 化身が来て 今日 いらっしゃると教えて 下さいました」 「四日前です」と言うと 彼は言いました「そう 四日前です」と お互いに約束 したのですが彼は 歳のせいか忘れました  彼は 観音菩薩も来て 彼に同じ事を 言ったと言いました この人は地方から来た 人のようで とても純粋でした

彼には嘘が何やら 分かりません 彼を見たら 決して力があるとは 思わないでしょう 道士だなんて 言うまでもないです 皆さん 彼を見下すでしょう 歯は半分抜けてしまい 半分しかありません 爪も切っていません

一日中 同じ服を着て  外に分厚いコートを 軍服のような物を 着ています そんな感じです 彼に会うといつも 同じ服を着ていて 一年中 洗っていない みたいです 他の服も ほとんど一緒です 彼はテーブルの下に 座って瞑想します

テーブルの下に隠れて テーブルの上に 観音菩薩や紅孩児等を 置きます 彼は紅孩児とも 話すことができます 彼は 「マスター 会いたいです」と 二人とも私を一回しか 見た事がありません 私を知る前に 彼は既に私の化身が ある死にかけた人を 救いに行ったのを 見たのです 彼は私がそこにその人 彼の友人を連れに 来たのを知ってました 彼の奥さんは 印心者で夫を連れてく よう私に頼みました 彼女の夫はとても カルマ(報い)が重くて 大変な作業でした それは別の話でした 二人は友達でした

彼が死にかけた時 道士は彼に会いに行き 私の化身が そこで彼を連れて 行くのを見たのです それが最初で彼はまだ 私を知りませんでした それで 私が入ると 彼はすぐに 私に気づきました 彼が最初で最後に 私を見た時の話です その後彼は私にとても 会いたくて いつも 私に来て欲しいのです 昨日私を見て 既に 来たと分かりました 心がとても純粋です 彼らは印心する必要が ありません 正式に印心した人のみ 私が見えるとは 限りません

一回私を見ると 印心されます これは証明できます 時には私を 見なくてもです 彼らの友人は 印心者ですから その友人の 目を見たら 彼らも印心されます 彼の友人を通じて 私に印心されたのです ですから まだ私に 印心されていないと 思わないで下さい すでに昨日 印心済みです しかし 教えていない事が 沢山あります それで 時には 印心者でさえ 知りません 非常に純粋であれば 印心の時に 体験があるのです

その道士は 非常に純粋なので 体験がありました ですから 一昨日 私を見て 言いました 二人とも 夫と妻の両方が 大変高齢で 私に会いたかったと 彼は ここに来るのに なぜそんなに時間が かかったか尋ねました

私は「長くないです ほんの数ヶ月ですよ」 「そんなに私が恋しい なら なぜ一緒に 来ないのですか」 彼は言いました 「来年 来年 弟子として学ぶため マスターに従います 今は子供達が まだ結婚してません 来年には 結婚するので私達は 自由に行けます」 二人は弟子達に 「あなた達は正しい マスターに追随してる 来年 私達も仲間入り します」と言いました 素晴らしい 私は 「それ程私を思うなら 暫く私と台南にいても 構いません

二人とも高齢なので 働いてませんね」と 道士は言いました 「今すごく忙しいです」 多くの人が行方不明の 妻や子供を捜す助けを 求めるからです 「大した事ありません 土地公に頼んで捜して もらって」と私が言い 彼は答えました「ああ 土地公は遅すぎます のろのろ歩きです」 彼も私も冗談は 言っていません 自分達が話すことには 真剣でした でも 冗談を言ってる みたいに見えますね 構いません それもおかしな事です

やはり そうでもなく 私達には面白い事です これは警察に 助けを求める時に 似ています 時々 警察はあまり 頼りになりません 警察は他の場所を 見られないからです

土地公はもっと便利で 走れます 道士は 「土地公は 歩くのが遅すぎて 見つけられません」と 私は 「今の土地公は 現代化していて 車を運転できますよ」 道士は言いました 「運転しても遅いです 私にとって より便利なのは 三太子を送ることです 彼の風火二輪で 空を飛べますからね」

彼は三太子を呼ぶ方が 彼にはより便利だと 言いました 彼は本当にその人達を 召喚できるのです 冗談は言ってません 道士もそうです 彼は冗談とは何かも 知らないのです 彼が初めて私に 私の化身を見て 私がこれこれの 昔の仏陀だったと 言ったとき 私は道士の事を笑って からかいました 「貴方は間違ってます あなたの目が 悪いんですよ」 彼は「私は正しいです」 私は言いました 「何を見たんですか 正確に見てませんよ」

彼がフォルモサ(台湾) 訛りで話すので 私はからかいました 「違いますよ あなたの 目が悪いんです」

道士は言い続けました 「私は正しいです」 彼は本当に驚いていて 私は言葉を疑いました

それで 私達は続けました 私は「間違ってますよ」 彼は「私は正しいです」 私は「違う」と言い 彼は「正しい」と言い とても可愛いです 彼には私の冗談が 分からないのです 彼はとても真剣で 子供っぽい真剣さです とても純粋なのです 私が彼を信じないのを 信じないのです 一〇〇%確かです

決して嘘をつかない為 それで私は疑うのです 道士は大変傷つき 自分を守り続けました 私達の出家者達は 笑い転げていました そうだったでしょう 彼は本当に可愛いです 私がただ冗談を言って いるのが分かりません ただ自分をかばい続け 道士は言いました

「いえ確かに見ました」 確かに見たと 言い続けました ですから この人の 心は大変純粋で まるで子供のようで する事に悪いカルマ (報い)はありません 「私」を完全に 放棄していたからです

それで そうした高い存在と 繋がれるのです 例えばです でも言っておきますが 最高のではありません したがって 猿王も 雲や霧に乗って 多くの境界を 見に行けたのになおも 三蔵法師に従わねば なりませんでした 三蔵法師が正しい道を 修行していたからです

あらゆる物質と 境界を越える 最高の法門をです 猿王はまだ物質界に いたのです

彼にはまだ多くの 仏陀と菩薩が いました まだ「私」と「彼」が まだ霊修行や 境界などがありました 三蔵法師に関しては その時ですら 恐らく西遊記に書いて あると思いますが

どんな境界も見ず 本当に稀です しかしながら 彼には高い理想があり 偉大な智慧と非常に 偉大な使命があり 最後には菩提に たどり着きましたね

猿王は菩提には たどり着いていません 今もまだ達してません 大変神通力があったが 役に立たなかったと 聞きました だから今でも猿王は まだ天国でふざけて 混沌を作る 一匹の猿なのです でも可愛いですね どうでもいいです そう 猿王は 単に三蔵法師の 智慧の象徴です

心 知性 彼はこれらを使え 神通力がありますが 低いレベルです しばらく 修行した後には 多くの神通力を得ます

でも役に立ちません だから猿王は なおも弟子として 三蔵法師に 従わねばなりません つまり神通力は単に 道全体の一部にしか 過ぎないという事です ただある部分で 意味のない段階です

それを超えて 別のレベルがあります 例えば 仏陀や 菩薩になるレベルです 猿王はまだ 観音菩薩や仏陀に 救いを求める 必要がありました そうではないですか 猿王の目が輝くまで 彼を炉で焼いた 太上老君に 救いを求めたのです

私は七才か八才の頃 この物語と 三国志を読みました とても幼かったのです

ですから その道士を 皆が凄いと言いました 病を治すことができ 誰が仏陀の所に 行ったのか 誰が得たのかを どこで仏陀を探せるか 知っているのです 或いは 観音菩薩や なんとか仏陀や インドの仏陀を 見る事ができるのです

それに土地公や 先ほど触れた 三太子や 紅孩児を 使う事もできます それができるのです それでも彼は 私に従いたくて 弟子になりたいのです 自分のレベルがまだ 確かな所に達してない のが分かるからです

空の境地にまだ 達してません  なぜか 彼は多くの境界や 仏陀を見ているのに まだ私の弟子に なりたいのです 理由を知っていますか 知っていますね ええ 言って下さい

マスターが大変高いと 知っているからです そうです でも私が高いと なぜ分かるのですか (自然と知っています) 自然と 自然もですが 道士は 霊修行に 励んでいるからです

猿王みたいです 彼は修行で高レベルに 達したので三蔵法師は

偉大と知ってたのです それに猿王は 観音菩薩がしなさいと 言うことは何でも 聞かねばなりません 多くの境界が見れる 存在なのに なぜまだ 究極ではないでしょう 土地公を 召喚したり 人を探したり 行方不明者を探せても なぜまだ 満足できず私の弟子に なりたいのでしょう 言っておきますが それらの存在 例えば土地公 三太子 紅孩児はみな 私達の心の中です その存在たちを見る時 私達はまだ心の レベルを走り回り 「全ては心が作り出す」 境界にいるのです

私達の心が 大変強力なら 私達が思う事は何でも 実現します 言っている事が 分かりますか それらの境界の創造者 である私達はまだ その「全ては心が作り 出す」にいるのです 私達は「心」の中に まだいて 「心」に 閉じ込められています この「心」の 大きさや広さは 関係なく これは檻なのです

心がどれ程美しくても 関係なく 所詮 黄金の檻です 私達は内面で 制限されているのです それは 非常に美しく 私達は 良く食べさせてもらい 待遇も良いですが 外に出られません これもまた低い 境界ではありません それも大したものです しかしながら こうした境界にいても 開悟したマスターが いなければ 私達はこれらの 境界を超越できません