私達の心が 大変強力なら 私達が思う事は何でも 実現します

それらの境界の創造者 である私達はまだ その「全ては心が作り 出す」状態にいます 私達は「心」の中に まだいて 「心」に 閉じ込められています この「心」の 大きさや広さは 関係なく これは檻なのです

心がどれ程美しくても 関係なく 所詮 黄金の檻です 私達は内面で 制限されているのです それは 非常に美しく 私達は 良く食べさせてもらい 待遇も良いですが 外に出られません これもまた低い 境界ではありません それも大したものです しかしながら こうした境界にいても 開悟したマスターが いなければ 私達はこれらの 境界を超越できません なぜなら太上老君に 縛られ猿王や 紅孩児に縛られて そうした境界へは 行けないからです

また観音菩薩に 縛られています 例えばです 私達はまだ観音 菩薩ではありません

私達はまだ観音菩薩を 崇拝しています 私達はまだ 彼女より下で 彼女と一体ではなく 同じではありません 従って 猿王が観音菩薩を 見た時 もちろん 彼はまだ彼女に救いを 求めねばなりません 彼は 彼自身や他の人々を 助けるために 観音菩薩ほどの力は 持っていませんでした 彼は同時に 千の祈りに 応えることは できませんでした 彼は 化身できましたが たった三〇分しか もちませんでした

時々 彼は 何本か髪の毛を むしり取ってね それを口に入れ 数回あおって 吹き出すと 沢山の猿王に 化身します これで敵を 惑わせます

どれが本物か 分からなくさせます 彼らは全部の猿王も 捕まえますが それらは全て髪の毛に 戻ってしまいます 彼らはとても怒ります

それはたった 三〇分しかもたず 人々を騙せません 時に彼は 別の猿王を出して 鎖に繋ぎ その間に 本物は逃げ出します 人々は彼がまだそこに いると思いましたが 後で彼が逃亡した事に 気づきました 彼に騙されたと 知ると すぐに後を 追いかけました 時にそれでも追いつく こともありました 化身の体はたった 三〇分しかもちません だから違うのです 従って 彼は 観音菩薩を見たのです 彼自身 観音菩薩に なる代わりにです 私達は観音菩薩に なるまで修行せねば なりません

仏陀を見るだけでは まだダメです 最終的に自分が 仏陀になる所まで 到達せねばなりません ですから彼が 最高の天界の王を 見た時 彼は天界の宮殿で 混乱を巻き起こし 天界の王に 齊天大聖の名を 授けてくれるよう 求めました 天界の王が拒否した為 彼は大暴れしました

彼が天界の王として 既に高ければ 全てのこうした問題を 起こす事はありません 誰が本物か知っていた はずなのです 全て不必要なのです

実はこれは私達の 心の中の葛藤を 象徴しています 私達は私達が最高だと 知っているのです しかし まだその レベルに未到達であり 自身を 信じられないでいます ある日私達は信じます 別の日は信じません 今日再び信じられ 明日は違います なぜ時に信じられ 時に信じられなく なるのでしょうか なぜなら時に 私達は開悟して その日 自分達が誰で あるか知るからです 少なくとも 私達は非常に崇高で 天地において平等で 全ての創造主と一つ だと感じるからです

でもまた別の日 困難に出くわします この物質界には 沢山の 困難や問題 妨害があり それで 普通の人間の レベルに陥り 私達自身を疑うのです この普通の人間とは 非常にうるさくて とても厄介で とても弱く 全体的に 無力で力不足なのです こんな時 私達は 非常にイライラします ここに来て私達に 私達は仏陀であると 言う人の話は 聞きたくありません

私達は自信を 完全に失ったのです 従って この猿王の話は 実際 開悟する前の 私達の内在の葛藤を 象徴しています 私達はある日開悟し 翌日 無明になります 常に切り替わります 観音法門修行者は 多かれ少なかれ 猿王のような 体験をしています それで 日々葛藤し 混沌を 作り出すのです ある日私達は 仏陀になりますが 別の日は違います ある日は成功しますが 別の日は失敗します ある日 私達は仏陀であり 別の日 悪魔になり 行ったり 来たりするのです 猿王の葛藤は 三蔵法師の内面の 葛藤の 象徴だったのです

彼はただ文中で それを猿に変えて 象徴を書いたのです 私達の心は猿のように 落ち着きがなく あちこち行きますが 高い知性と偉大な 神通力を持ち 何であれ 欲しい物を手にでき 望む境界どこにでも 行けるのです しかしながら これら全ては未だ 心の範囲内なのです 「全ては心が作り出す」 の意味する所です それゆえ 私達は 六祖慧能の 「本来なにもない」の レベルへの到達を 目標とすべき なのです その後 私達はなおも 「無」のありさまを 打破せねばなりません 霊修行は無限で キリがありません 私達はある日 やめるとは言えません 私達がそれをやめたら 非常に退屈になります

いつか私達が 最高の境界に 到達するのが確実なら 私なら修行したくなく なるでしょう 本当に あまりにも簡単で 単純すぎるからです 私一人がこう言って いるのではありません 釈迦とイエスも 言っています なぜ私は一緒に多くの 開悟したマスターを 言及するのでしょう 区別したく ないからです 私は仏教の事のみ 話したくありません どんな宗教も仏教です それが私の意見です

仏陀とは何でしょうか 開悟した人です 開悟した人を 信じる人々 それが仏教徒なのです イエスキリストを 開悟した人を 信じる人々は やはり仏教徒です

私にとって あらゆる 偉大な聖人が仏陀です 全ての宗教は仏教です 従って 釈迦の話のみを すべきではないのです

釈迦も 私がしたのと同じ事を 話しました 私はただ霊修行には 上限がないと言って きました 最終的な 境界はありません 少なくとも今まで 私が知る所ではですが

私達が高く行けば 行く程 更に遠く 先があるのです こうではないのです 今日 修行を 成し遂げ 明日はやめて 修行する必要はないと そんな事はありません 従って 釈迦は菩提に 到達した後も 毎日瞑想したのです 聞いた事がありますか 経典で言っています 彼は涅槃から 出てきて ある経典について 話したと そうでしょ それは彼がなおも毎日 修行していたからです 六祖慧能も 同様です 彼は 霊修行は 瞑想するだけでは ないと言いました

彼が瞑想しなかった という意味ではなく つまり 瞑想してる 時のみが霊修行では ないという事です 生きる 歩く 座る 寝る 全てが禅です しかし 開悟した人 だけがこのように 話せるのです 開悟してない人々は こうは言えません 彼らがそう言っても 冗談にすぎません 皆さんも日常生活で 同じ行動をしています そうではないのです 従って 今 霊修行をして いない人々に 修行するように 言うたびに 彼らは言います 生きる 歩く 座る 寝る 全てが禅だと 従って 私達は 明確に知るべきです 霊修行者は彼らの 認識のレベルで 話をするのです 私達が真似たり 写したりしても 冗談にすぎません 全く役に立ちません

法華経の中で 釈迦牟尼仏は 涅槃 (最高の楽園)は 存在しない 涅槃 (最高の楽園)は究極 ではないと言いました

そう言いましたね 皆さんは法華経を 読んでいますか

知らなければ家に 帰って読んでください 「化城比喩品」を 読んでください

その中で釈迦はこう 言っています 涅槃は 幻想の城と同じで 私達にそこで休んで もらってから引き続き 前進させるためだと 釈迦はまた 「化城比喩品」の中で 私が 真理を求める道は 永遠に終わりがない というと皆さんは 大変疲れを感じて 修行したがらない でしょうと言いました それは悲しいことです ですから時には 涅槃があって究極の 所があると言います ただし皆さんが 高い境地にまで 修行した場合 私はまた涅槃などない というかもしれません なぜなら修行には 頂点がないからです そうでないと 釈迦牟尼仏が 仏陀になった後も なぜ 引き続き 瞑想するのでしょう 何のためですか

以前私はいわゆる 高僧に会いました 私は彼に質問しました 釈迦が仏陀になった後 なぜ引き続き 瞑想するのですかと 彼のレベルを量って 見たかったのです  彼は 釈迦が仏陀に なった後 瞑想はして いない ただ休んで いたと答えました 素晴らしいです 早く仏陀になって 休んでください 私はいつの日か 休める日が来るなんて 知りませんでした この話で 私は禅師が 仏陀になった後 休みたがる話など 読んだ事がありません 精進するのです 精進とは 毎日努力することです 彼は言った事を実行し 毎日瞑想していました

そして高い境界に行き そこの衆生を 教え導いたのです ただし彼は 食べている時も 寝て いる時も修行しました 彼は二十四時間 修行の状態 禅の中にいました 私達はまだその レベルに達していない ため 理解できません 観音法門を 修行すれば わりと早くそれを 理解できます なぜならこの法門は 最も早い法門です 他の法門を修行する ことにより体験を 得ることもありますが それは速くありません 他の法門を 修行すると ゆっくり悟りますが 観音法門を 修行すると たちまち悟ります 最速の法門です

時々私達は電車で 高雄に行きますが 飛行機だと速いです これと同じです イエスキリストも 同じ事を言いました 何を言ったでしょう 私の天なる父の所には 多くの大邸宅があり 私はそこへ行って 皆のために用意します 皆さんが住む大邸宅を 用意すると言いました これは彼が この世を去る時に 弟子に言った言葉です どういう意味ですか なぜ天国にはあんなに 多くの異なる大邸宅が あるのでしょうか 修行すると一緒に 住めないのでしょうか 別々に住むべきですか 私達はそれぞれ 家を 建てるのでしょうか 凡夫のようにです 互いにケンカする ことを恐れて 別々に 住むのでしょうか 実際 多くの素敵な建物や 高層の建物は それぞれ異なる レベルと境界を 代表しています

これは 皆さんが上に行った時 ある人は このレベルに またある人は そのレベルに別の人は 別のレベルに達したと いうことです そこで レベルによって 違った建物を 持ちます そうです 彼が言おうとする 意味は修行には 定まった限度が ないということです 一緒に修行して いるからと行って 皆が同じ 国に住むという わけではありません そうではありません たとえ同じ国に 住んでいるとしても レベルによって 違った場所に住みます

仏典に書いて あります 上等な境界と下等な 境界があるように 仏典にも 多くの建物がある ことを示しています

ですから私達は この世界の 言葉に とらわれないで その意味を 知ることです 真の法門は 人間の言葉では 表現できません だから多くの 宗教の間に紛争が 起こるのです 何れも 言葉の違いのためです 私達には確かに 最も小さく かつ最も 大きな問題があります それは言葉の 違いです 私達は 皆それぞれ 違った言葉で話します もちろん 異なります

例えば 昔 インドの人は 釈迦のことを 仏陀と呼びます これを中国語に 翻訳しました 以前中国には 仏陀という言葉が ありませんでした

後に仏陀という言葉に 執着するようになり 釈迦は唯一の仏陀だと 思っているのです これはただの名前です 医者 弁護士 技師 というのと同じです 先生 医者 歯科医 弁護士など 名前にすぎません 釈迦は大変有名なため 私達は仏陀といえば 釈迦だと思います 例えば 華陀と扁鵲はこの 世界の唯一の名医な わけではありません ただ彼らはあまりにも 有名なので ある人は小説とか 文章に書いたため 有名になったのです 他にも 名医がいて彼らと 同じ能力を持っている かもしれませんが 有名ではありません 誰も彼らについて 書かないからです

釈迦牟尼仏が 有名なのは 彼は王子だからです 仏陀になった後 国中に知れ渡りました 仏陀になる前 すでに国中の人が 彼を知っていました なぜなら彼は国王の 座を放棄したからです その時王は 最高の地位でした 今でも国王は 最高の地位です 彼は全てを放棄し 何の躊躇もなく 出家して行きました 彼は美しい妻が 一人だけでなく 数百人もいました 私達は一人の妻でさえ 離れられませんが 彼は数百人もの 妻を手放しました

彼は並外れて普通では ないではありませんか

彼はまた 全世界と 王の座と贅沢な 生活を手放しました そこで国中の人々に 衝撃を与えたのです 彼は大変有名でした もちろん 公に 人々に教えることは 容易だったのです 馬祖(マーツ)という 禅師がいました 祖(ツ)は法師の意味 マーは 馬という漢字です 一人の法師がいました 預言者が将来 馬祖と呼ばれる人が 出てくるだろうと 預言しました  後に彼が馬祖として知られるようになり 彼の家族は 高い身分ではなく 彼は高い社会的地位は ありませんでした 彼は故郷に戻り 経の講義をした時 誰も信じてくれなくて 誰も彼を尊敬して くれませんでした

彼の弟子達が外に出て 彼を宣伝しました 今日 マスターが 戻ってきて 経の講義をすると 人々に宣伝しました 皆が来て だれが マスターを見たら 彼がだれか分かったら 例えば彼は 農夫の息子だとか 清掃者の 息子だとか言って 離れて行きました 彼の講義を聞く人は 誰もいませんでした 誰も彼が 持っている智慧を 尊重しませんでした 見るからに 彼は以前と何も 変っていないのです

ですから馬祖は 今日でも有名ですが 彼は故郷で経の講義を することができません 人はみな 外見を見るからです しかし 釈迦牟尼仏は 王子でしたので 公に人々に教える事が できました 皆が彼を知っていて 彼を尊敬していて 彼を讃え 彼を知っていました 彼は有名だったのです 彼の弟子達も 彼を沢山助けています 高いレベルの 体験を収集しては 書き残し 沢山の 経典にしたのです 釈迦は四十九年も 教え導きましたので 当然弟子が多いわけで 弟子達の体験も 沢山あるわけです ですから 自分達の体験を 書き残したものが 経典になっています だから人は今でも 釈迦を敬服し 彼が持っている力と 彼が弟子達に 何を教えたか 弟子達はどんな体験を したか 分かるのです

ですから 仏陀という言葉は 中国語の辞書には なかったのです 中国語だけではなく オゥラック語 (ベトナム語) スリランカ タイの言葉にも ありません ですから 後に 翻訳する時に この名詞を借りて 文章に書き入れ 仏陀に変ったのです 仏陀が訳語に なってから 後に私達は 仏陀のことを 考えるたびに 釈迦を思い出します また私達が 神医を考える度に 神医を考える度に 華陀を思い 名医を思う度に 華陀の生まれ変わりだ と思うのと同じです 華陀は生まれ変われた ではなぜ 仏陀は できないのでしょうか 仏陀は華陀より 低いのでしょうか なぜ 仏陀は生まれ 変れないのでしょうか

華陀は名医に 過ぎませんが 生まれ変わって人々を 救うことができます 仏陀は華陀より 慈悲心が ないのでしょうか なぜ 仏陀は五十万年 過ぎても現れないの でしょうか 天国で長い間 何を しているのでしょう 天国では人を救う 必要性がありません 仏国土では 皆が善良で 皆が修行の 仕方が分かっていて 下位の衆生だって 素晴らしいのです 彼らはゆっくり 修行し仏陀を 沢山必要としません

私達は多くの仏陀 少なくとも 八十八仏がいると 聞きますが なぜこの 世にいないのでしょう 法華経に 何時の時代にも 菩薩が地面から 現れるとあります これはたとえ い仏陀がないとしても 少なくとも菩薩は いるということです なぜ片方も見つけ られないのでしょう 一人はいるはずです ですから誰かが あえて自分は 菩薩だと名乗る場合 彼を信じるべきです 敢えて名乗る場合は 彼を信じ 祝福すべきです 大した事ありません 論争してはいけません 菩薩は沢山 いるからです

大した事ではないです 道教の人に聞けば 彼らはよく分かります 彼らが言うには 仏陀は沢山いて ある仏陀は衆生を救い そうでない仏陀もいて この世に住む仏陀や 別の世界に住む仏陀 仏陀がいないと 衆生はどうしますか 先生がいないと 子供はどうしますか 時代がいくら変っても 先生はたった一人です 最も有名なのは 老子です 世々代々老子しか いません 先生はどこにいますか

先生は老子一人です しかしこの世界には 沢山の学生がいます 世々代々 孔子がいます それぞれの時代には 少なくとも一人の 孔子はいます 少なくとも各時代に 一人の老子はいます 少なくとも一人います いないはずは ありません 一人もいないとしたら あまりにも絶望的で 失望的です 生きて何の希望が あるのでしょうか 長くて百年生きます その後どうなりますか 誰にも助けてもらえず 昼夜教えてくれる 仏陀もいません 仏陀は極楽世界にいて 遠すぎて私達の叫びが 聞こえないのです

聞こえるとしたら なぜ来ないのでしょう 彼らは聞こえていて 来ていますが  私達の智慧眼が開いて 初めて見えるのです 彼らは来ていない わけではありません たとえ仏菩薩が私達の 目の前にいるとしても 分からないでしょう

私達と同じく見えます 釈迦は私達と同じく 見えますか 光を放つ事を除いては しかし彼は存命の時 彼の光を誰もが見えた わけではありません そうですね(はい) イエスが 在世の時も外見は 普通の人と同じでした 皆さんはイエスの 外見を見ましたか 彼は髭を生やし目も 西洋人の目で 外見は ハンサムな西洋人です

後光以外は同じです 皆が彼の後光が見えた わけではありません だから彼は十字架に 掛けられたのです 彼の後光が見えたら 彼らはひざまずいて 彼を崇拝するでしょう 彼らには 光が見えなかったため 彼を迫害し凡夫として 扱ったのです 人は彼がなぜ自分を 菩薩だと名乗るのか 不思議に思うのです 彼らには 釈迦の光が 見えません 彼の特殊な パワーも見えません 智慧眼が開いていない それで彼を邪道だと 中傷したのです そうですね

釈迦が 宮殿に戻って来た時 彼の父は依然 彼を息子として扱い なぜ物乞いのように なったのか 私達は皇族の血筋だ どうして自分を物乞い にしてしまったのか 私達の顔を潰している と彼を叱ったのです なぜなら父は その時の釈迦が 以前と どこが違うか どんな優れた品性が あるか分かりません 彼の智慧眼が 開いていないのです 釈迦の弟子でも誰もが 彼が放つ光が見えた わけではありません だからデバダッダが 彼を迫害しようとし 沢山の外道の人達が 彼を迫害しようと したのです

ある女性は 妊娠を装い 釈迦を訴えようとし 別の人は釈迦を殺害 しようとなどしました 何れも 無明な衆生が 仏菩薩の後光が 見えないからです 凡夫に見えるのです 智慧眼が開いていれば 私達は彼らと私達の 間の違いが見えます 彼の内面の智慧が 分からないとしても 彼の肉体の違いを 見分けられます 肉体はとても 美しく光輝き 私達と違うのです 私達には見えないし 分かりません 普通の人と同じように 見え 彼が 自分は仏陀だというと 石を投げるでしょう

だから 彼らは釈迦に 石を投げたのです ある人は 剣や毒で彼を 殺そうとしました 或いは 孔子を追い出したり 老子を追放しました これらは何れも 彼らが仏菩薩と 私達の間の違いが 見えないからです 医者になっても その人は以前と 変りませんね 彼の能力を 見ない限り 分かりません 医者でさえそうです 仏陀の場合なお更 分からないでしょう

仏陀の智慧は 医者よりも偉大で 不可思議です 私達は医者でないと 医者の持つ知識が 分かりません なのに凡夫がどうして 仏陀の智慧が 分かるでしょう ですから 仏菩薩と凡夫は 何も違わないです 霊的なものと 智慧以外は同じです 私達は彼と同じ レベルであってこそ 彼の特別な面と 特別な肉体 特別な智慧が見えます 徐々に分かってきます 彼らの弟子になると 早く知る事ができます そうでないと遅いです 彼と深い縁が ある場合以外 一目で 見分けられます

もしくは彼を見る前に すでに彼が現れます 彼は遍在だからです 時には 彼が家に来て何回も 命を助けてくれて いますがまだ彼を 見ていません 私達はただ それは偶然に 変ったと思うのです 私達は仏菩薩が 来て助けてくれた事も 知らなければ 隣に仏菩薩が 住んでいる事を 知りません 昨日彼に会った事も 知りません といった感じです

高いレベルの人だけが 仏菩薩が来てくれた ことが分かるのです そこで私達は よく昔の話を 耳にします 例えばある人が 突然聖人に会って 彼に明日何が 起きるか 教えてもらったとか または彼を助けた後 消えた話を聞きます

それは仏菩薩の 化身なのです

同じ事が現代に おいても起きています 悟りを開いた マスターに学べば 彼の化身が私達を 助けてくれます 時々 彼の化身は 私達が彼について 学んでいなくても 来て助けてくれます それはたぶん 私達の友人 友人と親戚が彼と 関係があるからです そこで私達は 古代において ある人が 突然聖人や 仙人又は 化身がきて 命を助けて くれた話を聞きます そうですね それは在世の マスターの化身です

在世のマスターがいた ことに違いありません 今もいるし 将来もきっと別の マスターがいます

衆生が存在する限り マスターはいます 学生がいれば 必ず先生がいて 病人がいれば 神業の医師がいます 世界にマスターが いないはずがなく 世界に仏菩薩が いないはずが ありません 世界は イエスのような人が 私達を救わない はずがありません

マスター 火葬して残った 舎利は修行の レベルを意味しますか 説明いただけませんか

そうとは限りません 何故かというと 埔里に ある人がいました 彼はまったく 修行していません 彼は私の弟子の 夫でした 彼は大変厄介でした というのは 最後の最後まで 肉を食べタバコを吸い 酒を飲んだのです 彼は何の 信仰もなく 何も信じていません 仏教も信じていなく 何も拝んだ事も ありません しかし彼は死んでから 舎利があります それを見たいですか 明日車を借りて埔里に 行って見て下さい 彼の息子は嬉しくて 誇りに思っています 沢山の人が彼の父の 舎利を見に来ました 彼のお父さんは私に 助けられたのです

以前話した埔里のある 道教の信者が私を訪ね 私に会いに来た話で 彼の孫が 十歳になりますが 私の化身が来たのを 見ています 彼の息子も 私の化身が来たのを 見ています 彼の妻の他に 印心を 受けた人の他にです レベルが「高過ぎて」 何でも見られます 彼女も修行ができて よくないの ではありません 体験もあります ただ その日ではありません

その日は信心して いない人「外道」の 人だけがマスターが 来たのを見ています そうしてこそ 彼らは信じるのです

その少年は 印心を受けていません 私に会った事もなく 私が誰だか 知りません 私はそこに足を 運んだ事もなく 彼の妻も修行に 関して家で 話した事もありません 夫に反対されるのを 恐れたからです 家族全員 菜食していません お父さんが死んでから 家族は全員菜食に 変更しました 彼らは私が 来たのを見たからです 息子は語っています 道教を最も 信じている人が 言っています 道教の信徒は私が 誰だか知りませんが 彼の記述は まったく同じです それで皆分かりました そういうわけで 私を信じるように なりました 皆が修行し 皆菜食しています 皆菜食しています

お父さんは菜食者 ではありませんでした あの印心した奥さんの 旦那です 彼は 菜食もしていなければ 私を信じることも ありませんでした 死んだとき 沢山の出家者が来て 念仏し 読経しました 人は皆 念仏と読経が 効力を発したら死者の 顔はピンクになると いいますが唱えるほど 悪くなり 顔は黒くなったのです その時死者の 奥さんが焦って 私に呼んだので 結局私が 駆けつけたのです

読経は役立ちません 顔がますます黒く なるだけです 最後に私がくるのを 許したのです そこで 私を呼び出し マスター 夫が 死にました 助けて 下さいと呼んだのです 学生が助けを求めると マスターは ベストを尽くします 呼ばなければ無視する かも知れません いやそれはできません 五世代は 超昇するのですから 一人も疎かにする ことはできません 彼だけが マスターの化身を見た わけではありません 多くの私達の 修行仲間の親類も 死んだ時 マスターの化身が来て いるのを見ています

これは観音法門を 修行している人にとり ごく普通です 特別ではありません すごいと思う事もなく 何でもないことです 私達は修行して 私達は修行して 仏陀になるべきです そうでなければ 何になりますか 仏陀になると 何十億もの 化身があります 化身がなければ どういう仏陀ですか

意味が分かりますか ごく普通のことです 例えば 医者になると 手術もできて 処方箋も書けます これはごく普通の事で 英語を勉強すると 卒業後英語を 教えることができ 人に英会話を教える 事もできます 英語を習ってから 将来英語の先生に なる事もできます 大した事でありません

道教を学んでから 道家になれます 仏教を学ぶと 仏陀になれます 驚くほどの事ではない

彼のお父さんは まったく修行して いなかったので マスターが彼を 救うのが大変難しい ことだったのです 私が言ったのではなく 彼の孫の言葉です その道教のマスターも 私が彼のお爺さんを 助けるとき どんなに大変だったか その様子を 見ています 見るに偲びなく それを見たとき 目を瞑って逃げました まだ子供だからです 彼は私の化身をみて 何が起こったのか 分かりません ただ ある法師がきて祖父を 助けるのを見たのです 大変危険な状態でした 彼はやめて マスター 止めてと言いました その子が言ったのです

彼は見て 恐ろしくて 逃げたのです 後から好奇心から また戻ってみると 私がまだそこにいて 危険は過ぎていました 彼は家族に見た事を 話したところ 家族は彼が魔に 取り付かれたか 病気だと思い 医者に診てもらうため 彼を連れて行きました 子供がその事を 話すとき 禅定の状態でとても うっとりしていました 彼はそのように 以前話したことの ないことを延々と 話をしていたのです その子供は 修行とは何か マスターとは何か まったく知りません

以前そのマスターに 一度も会った事がない この世界の 存在ではない とても美しく 輝いていたと言います 誰もがこの子は病気で 医者に連れて行こうと 思いました しかし医者は病気では ないと言いました そこでこの子を連れて 道教の法師に見て もらいました この家族は道教の 信徒だったのです 道教の法師の話は よく当たって多くの 人を助けています 彼らがその子を連れて 道教の法師に見て もらうと問題ないと 言いました この子はただ化身の 仏陀を見ただけです と言いました 当時その法師は私の 事を知りませんでした その法師はこの子は 化身の仏陀を 見たと言いました

しかも古代の仏陀だと 言い 古代の仏陀が お父さんを 助けたと言いました おめでとうございます あなたのお父さんは 幸福な世界にいます 古代の仏陀が助け ましたと言いました この子に古代の仏陀の 名前を聞きました 知らないと答えました あまりに古くて名前を 知らないと答えました これがそのお父さんの 舎利についての話です 皆さんは見たいですか 私が連れていきます 先日も私はその家に 泊まりました

彼はすぐ自慢します 誰かくると その舎利を見せます その家族には 一人の出家者が 出ました

彼のお姉さんです 彼女は家に帰って お父さんの舎利を見て とても喜びました 彼女は 不思議ですね なぜお父さんに舎利が あるのだろう 出家した僧侶だって ないのにと言いました これは本当の話です 私が言った事ではなく 彼らが言った事です そうですね(はい) それを調べたければ 行って見て下さい 修行仲間の一人が 埔里にいて近いです あなたの質問の答えは 必ずしもそうとは 限らないという事です 舎利があるとは その人は仏陀の パワーと繋がっている ことを意味します

一秒か二秒の間であれ 長い間又は最後の一瞬 であれ繋がると 舎利を持ちます 別の話をします 基隆で起きたことです ある 印心を 受けたばかりの 修行仲間がいます 彼女の夫は 印心していません 六ヶ月前 彼女の夫は 腎臓病を患い 歩く事ができません 脚は障害者のように 麻痺していました ただ椅子に座っていて 強い痛みを感じます 利く薬も ありません  何が起きたのでしょう 私が行って二日間 経の講義をしました 彼も私を大変信じて くれましたが 肉を手放せません なぜなら医師と 看護婦はみんな彼に 肉を食べないと 栄養が足りないと 言ったからです

彼のお父さんは当然 彼の菜食を許しません

そういうことで 彼は菜食することが できません しかし彼は強く 印心を求めていました その時彼の妻が 夫に印心を受けさせて 欲しいとずっと私に お願いしたのです 彼は印心したが正式 ではないと私は言い 彼の家族も彼の病気を 治してくれるよう私に お願いしたのです 私は魂だけを救う事が できます 病気は治せ ませんと言いました 後に私は アメリカに行き 彼にすぐアメリカに 来るように言いました

数日後彼は死にました

死ぬ数日前に彼は 菜食者になりました 彼は菜食して マスターが帰って 来るのを待って印心を 受けたいと言いました その間私は アメリカにいたのです 私は外国人の旅券で 六ヶ月毎に離れねば なりません そこで渡米したのです 彼は印心を望み 私が帰って来くるのを 待っていたのですが 死んでしまったのです 私はそう言いました 彼の病気は 治すことができない 魂だけを救うと 彼が死んだ時 彼の六歳になる息子が 私が来て彼を連れて 行くのを見ています 彼のお母さんも 強い光を見ています

子供が彼を見たとき 彼は健康で 完全に回復し 蓮華座に足を組んで座っていたそうです 彼はマスターの 化身に礼拝しました 後から 彼のお父さんは 普通の服ではなく 黄色の出家者の 僧衣を着て 髪を下ろし マスターに向かって 三回礼拝した後 マスターと一緒に 蓮華座に座って 極楽浄土に行きました また子供も訪れました 彼らについて暫くの間 そこへ行きましたが 戻ってきて はっきり話しています お父さんは私にママの 面倒を頼む さよなら 彼は言ったそうです

どんどん遠くなった後 子供は戻ってきました どういう意味でしょう これは修行者だけが その境界に達すると いう事ではありません 場合によります 私達が誰と関係が あるかによります 例えば  私達は政府の 役人ではなく 政府で働いていません しかし高い地位の人を 知っているとすると 私達も権力を持ちます 友人が訪ねてきて その高官の人に話を つけてもらえませんか この問題は彼なら 助ける事ができると 言うでしょう 同じように 国王の友人を 知っているとすると 私達もいくらか権力を 持ちます そうですね

同様に たとえ私達が 修行していなくても 修行者を 知っているとすると その人の福報を借りて 助けてもらえます ですから 高いレベルまで 修行を積んだ人だけが 舎利を持ち極楽浄土に 行けるのでは ありません 違います さっき引用した二例は 最新のホットな話題で 二千五百年前の クールな話ではなく 二週間前に 起きた話か 二ヶ月前の話です

ホットニュースで 今調べても 確かめられます 疑わしければ それを調べて 私達の修行仲間に 聞いてください 二つの話をして 証明したかったのは 修行のレベルは修行と 必ずしも関係あるわけ ではないという事です なぜなら時々ある人は 大変熱心に 修行しますが しかしレベルは 高くない事もあります 電気がないからです 美しいランプに 見えても 電気が通ってないので 明かりがつきません たとえそこに百年間 立っていても 明かりはつきません 見た目がいいだけです 昼間は 美しく見えます 夜には 暗がりしか見えません これは 大変興味深い質問です