あなたのテープで 聞いたことですが 印心を受けた人は 修行結果は予約済み ということですが そうです 詳しく説明して いただけますか 予約済みとは どういうことですか 例えば 印心を受けた人は きっとマスターを 信じて 引き続き修行します

突然方向を変えて 離れていく人は それはその人の選択で 仕方がありません

それは自由意志が あるからです

自由意志とは 何か分かりますか 全ての宗教はこの 自由について語ります 例えば私について 学びたい人は その人が 修行して到達する レベルを予約して おきます

後に修行をし続けて そのレベルに 達した場合 その地位につきます

少なくとも あなたのために一つの 席を取っておきます 例えば皆さんが劇場で 劇を観賞する場合 まずチケットを予約 しなければなりません

それから予約金を 払わねばなりません 予約金を払わないと その席は 他の人に譲られます

チケットが 必要なくなったら お金を払い戻したり 電話でチケットを 返却できます そのチケットが 欲しくないのです すると行かなくても いいのです たぶん そこへ予約金を取りに 行くかもしれません または少しお金を 失うか何も失わないか これは前に いくら払ったか 何日前に予約したかに よります そうですね それからその位置 その席は他の人に 与えられます 意味が分かりますか はい いいでしょう 同じことです 釈迦も仏典で これを述べています 私だけがこれを言った わけではありません 仏教徒であれば 私が言ったことを 経典と比較してみると 私が言った事は真理 である事が分かります これは大した ことではありません 釈迦に従兄弟が 一人いました

彼はよく家に戻って 妻に会いました 彼には美しい妻がいて いつもこっそり戻って 彼女に会いました

ですから 彼の霊修行は 進歩せず 後退するばかりでした 釈迦は彼を助けるため 彼を連れて 天国に行きました そうですね 天国には 美しい宮殿と 多くの美しい女の子や 妖精がいました 数百人もいました 彼女たちは あちこち走り回り踊り 宮殿を掃除しています

釈迦の従兄弟は 妖精たちに「なぜ この美しい宮殿には 住む人がいないですか 誰のためにこの宮殿の 世話をするのですか 宮殿の主は誰ですか」 と聞きました

彼女たちは答えました 「今は誰も 住んでいませんが 釈迦の従兄弟を 待っています 霊修行で高いレベルに 達したら 私達は彼に仕えます ここは彼の宮殿です しかし彼は今修行が 十分できていません あまり進歩もなく いつになったら 上に上がってくるか 誰も分かりません できなければ これを別の人に 渡します」と これを聞くと 彼は大変動揺して 「私を待ってて下さい 私は上がってきます 帰って修行に精進 します」と言いました 彼は帰ってから 釈迦はまた彼を連れて 地獄に行きました 大きな鍋に油が 煮え立っていました 熱い熱い油です 二人の悪魔が 見るからに可愛く 長い牙が生えていて 長い脚と 炎のような髪はそてもきれいです 彼らは寝ていました

彼は怖くて彼らを 呼び起こし聞きました 「なぜここで 寝ているのですか 何のための油なのか なぜ誰もいないのか」 「釈迦の従兄弟の為に 用意したもので 彼が 修行に励まず 精進しないので 私達はここで彼を 待っています 後からここに落ちて くるかも知れません いつ落ちてくるか 分からないので 準備しておきました  今は仕事がないので 休んでいるのだ」 これを聞いて 彼は大変恐ろしくなり 帰って修行に 励みました 私も席を 予約するといった事を 話しました ただ 皆さんには下にも 予約席があります

マスターを中傷すると その下の所に行くかも しれません 皆さん何を選択するか 私は分かりません 人間には 選択の自由があるので 好きに 選択できるからです 全ては心によって 作られたもので 信じたければ そうしてください 信じなければ 無理強いしません 天国に行きたければ 修行しなければならず 地獄に行きたければ 行ってもらいます ですから両方に 予約席があります 片方だけではなく 釈迦の従兄弟でさえ 地獄に予約席が あります 私達はどうでしょう

仏陀の従兄弟でさえ 安全ではありません 皆さんは私の ただの弟子です

私が仏陀であることを 信じないとしたら もっと修行すべきです 仏陀の従兄弟でさえ そうですから 仏陀の 従兄弟でない人や 仏陀の弟子でない人は 何が起きるでしょう

私が仏陀であると 信じていればよく 私は異議を言わないし 否定もしません 全ては心によって 作られたもので 皆さんは私が仏陀だと 信じれば私は仏陀で 大した事ではないです 私は自分が 仏陀だとか仏陀でない などと名乗りません 皆が仏陀ですから 私もきっとそうです 全ての衆生は 仏性を持っています 動物でさえそうです 私に仏性がない はずはありません 私が仏陀でない はずはありません 私が仏陀でないと誰が ですか 皆さんですか そうですか(はい) 素晴らしいです

いいでしょう  私が仏陀だと 信じた方がいいのです もっと精進する事です 仏陀がマスターに なって光栄です そうではありませんか 私が仏陀だと 信じられなければ もっと修行すべきです 釈迦の従兄弟に 何が起きたかを見れば 分かると思います 仏陀の従兄弟でさえ 安全ではありません 地獄に落ちるのです 私たちは 仏陀の従兄弟でも 弟子でもありません ですからもっと 気をつけなければ なりません もっと修行に励まねば なりません たとえ私が仏陀だと 信じないとしても 皆さんはこれを 証明できません

先ずは 私の法門が最も良いと 信じないとしたら 証拠がありません 別の法門がこれより 優れていると どう証明しますか 凡夫はその違いを 話すことが出来ません 自分が好きな 法門があればそれを 修行していいです 私の法門が 気に入らなければ 習わなくていいのです どの法門を修行するか あなた次第です いつの日か 結果が現れるでしょう

私の法門は 信じやすいです なぜならすぐに 体験できるからです 自分で証明でき 経典で確かめることが できます 他の法門は 体験がありません 数十年も 仏陀の名前を 唱えても無駄です 仏典を拝んでも 何の体験も 得られません 証明もできません

私の法門は少なくとも すぐに体験が得られ 少しは証明でき 何か確かめるものを 持っています 他の法門は 何の体験も 得られません 何を持って確かめるの でしょう  念仏する前と 念仏した後は 何の変りはありません 何も証明できなのです

普通の野菜を 洗って生で食べます ほんの少し食べます 彼らはこのように 生活を送っています 日々このようにです 海辺に 住んでいる人もいるし ガンジス河の川辺に 住んでいる人もいます 一つか二つ洞窟を持ち ガンジス河の 川辺に洞窟が多いです 自然にできた洞窟と 自分で掘った物があり 簡単に掘れます 鍬を使って 山に洞窟を 掘って 蚊が入ってこないよう ドアを作ります ある人は 裕福で 中にお金があります そこで 鉄でドアを作り 刑務所のようです 自分は中に入って 時間になると 出てきます

全ての宗教は 異なります 将来私は ビデオカメラを持って 世界旅行に行くとき それらを撮って おきたいです とても美しいです あるものは 実に美しいです 私はインドの音楽が 大好きです 道場では 様々な楽器を同時に 演奏していました ギターや ドラムなどです それらを同時に 奏でるときに 素敵な音楽になって それを聞くとき とても美しい音楽で ハイレベルの音楽で 聞いていて禅定に入る こともあります そのような体験は ありますか あります 少しあります

私がインドにいた時 出家生活は とても簡素でした ただ時には 二週間も何も 食べるものがなく 本当に空腹でした ガンジス河の川辺には 沢山の人が 洞窟に住んでいます 彼らの教えてくれた やり方では 時々 食べるものがないと ガンジス河の 水を飲み そして洞窟に戻り 瞑想を続けるそうです 暫く瞑想してから 疲れたか 空腹を感じると また降りて行って ガンジス河の 水を飲み そして上がってきて 瞑想を続けます 暫く座っていると また空腹を感じ また降りて行って 水を飲み戻ってから また瞑想を続けます

水を飲むと 満たされ空腹感も なくなるそうです 彼らがこう言いました 私はそのような困難な 体験はありません 三、四日間食べない 事が以前ありました 私が修行する前でした フランスにいた時です 私は一週間か二週間 食べなかった ことがあります それはできます リトリートの時は 何も食べたくないです だから食べません その期間中誰もそばで 面倒を見てくれません 買い物する必要も 料理する必要もなく どちらも面倒なのです だから私は食べません 私は水だけ飲みます それでよかったのです 果物があればそれも いいです  果物ではなくジュース それで過ごせます ただこれは贅沢です 水が最も便利です 死にません ただ 少し痩せるでしょう

やって見て下さい 何日間ですか 二日間か三日です 二、三日ですか 一週間か一カ月でも 問題ありません 本の中で 私達の観音法門を 修行する人は 餓死しない  ある日食べる物が なくて餓死しても 問題ないとあります (食べる物があるか ないかは重要でなく) なければ なくていいのです

死にはしません そんなに早く 死にません 慣れます 死にません 観音法門を 修行しない人でも 一人か二人 観音法門を 修行していなくても 最高の力と繋がって いるので食べ物なしで 生き残れます やってみて下さい

怖がらずに 心が平穏なら 問題ありません 少しおなかがすいても 大丈夫です 何日かすると感覚が ないようになります それに慣れて 食べる必要さえ 感じないように なります 本当 私は試しました ええ テストしました でも注目されたく なかったのです 私が アメリカにいた時 一日一食だけでした

一日一食だけで それにとても忙しく 一日十六時間働いて 床を掃いて トイレなどを洗浄し そしてメインホールを きれいに片付けました その後 朝と夕方の 修行を行いました とてもお腹がすいて そういった仕事は 空腹にさせます 私は経典を 唱え続けました 胃袋が 空っぽのままで 胃袋が空になるまで お経を上げ続けました その後料理と多くの 仕事をせねばならず 料理している間も もちろん空腹でした 私は夜  何も食べなかったし 朝も何も 食べなかったからです

料理している間とても お腹がすいていました それで沢山昼食を 食べました 三杯も とてもゆっくりでした とてもお腹が空いていたので沢山食べたけれどゆっくりです それで彼らが毎回 私を見続けるたび とてもきまりが悪く 彼らはからかいました 「彼女は三食を一食に まとめた」と 彼らはからかいました 何回も何回も ある日私はうんざりし もう聞きたくなくなり 言いました「いいです 今日から食べません いいです 皆は食べて  私が料理しますから」 その決定後はお腹が 空かなかったのです 全く空きませんでした その日から私は 食べるのを止めました 彼らはとても恐がり

過去私が食べないのは リトリートの 時だけでしたので 私が食べないと言った のとは違いました 本当にそうしました そのように簡単でした きっぱり止め 食べず 大丈夫今日は食べない 一日は大丈夫です 二日は大したことなく 三日後 彼らは 驚愕し始めました 彼らは怯えました なぜなら まだ私が一生懸命に 働いているのを見て 彼らは怯え始めました 「何か食べて 怒らないで」と 私は「怒ってませんよ 食べることはとても 疲れて厄介なので 食べないと決めました 気にしません」と答え 空腹でなく むしろ 素晴しいと感じました

体は軽くて それに とても気楽でした 消化の問題は ありませんでした 素晴しく いい気分で 時間が過ぎて行っても 食べる気になりません 全く食べたいと 感じませんでした 私は思いました これを続けたら 百年は大丈夫だと 本当にそうなのです でも彼らは動揺し その寺院で彼らは 「騒ぎ」始めました 彼らは毎日 私を煩わし それに 他の人にも話したので それで皆が 私を見に来ました その時私は言いました 「チンハイ あなたは 自分で面倒を起こした そんなことしないで 一碗食べて問題を 最小限にしなさい」と それで私は食事を 再開したのです 本当にただ面倒を 避けるためです 喧騒とした雰囲気を 作りたく なかったのです

それが食事を 再開した理由でした さもなければ とても 自由で気楽でした 私が決定をした日 あたかも脳が命令を 下したようでした 「いいわね 胃袋」 胃は「分かりました もういいね 素晴しい これからは 仕事がないぞ」 両者が同意して 私は全く空腹を感じず とても気楽でした ほんとうに気楽でした 今私は後悔しています 食事を再開して とても後悔しています やめないで続けて いたら 今私は 食べる必要ありません 私はどこにでも行け とても便利で どこに行っても 心配する必要がない 心配してるのではなく 私はどこに行っても 常に食物があります

決して食物に事欠かず 沢山の食物があります たぶん過去において あまりに多くの 布施をしたので それが今沢山実を結び 良いカルマ(報い)が あるのかもしれません ですからご存じの通り 私はどこに行っても 十分過ぎる食物があり 私一人だけでなく 団体の皆が食べても 食べきれません 私達はいつも 多くの人々と 食物を分かち合います そんなに多く 食べられません ですから私は決して 餓死の心配ありません

反対に 食べなかったら 人々が面倒を持って 来るのが心配です 皆が食事を取らない 人を見に来ます 解脱のために 来るのではありません

彼らにはその印象 だけがあるのです

彼らは不思議に思い 皆が食べるのになぜ 彼女は食べないのかと 好奇心のために 彼らは伝説を 見に来ます 奇跡的なものを 解脱を求めに 来るのではありません

私が菩慧尼を 訪問した時でさえ 私にもまた 好奇心がありました

「誰でも食べます 世界中皆食べるのに なぜ彼女は食べない」 例えばそのように 私達はそれを考え続け その考えだけに夢中で 彼女に会って聞こうと 思い続けます 「なぜ食べないの」と それが最初の質問で そう彼女に聞きました でも彼女は何も言わず 彼女の弟子の通訳後 私はもう一度その 弟子に聞きました

「それは本当その人は 何も食べないですか」 当時私はアメリカに 行ったことがなく 自分で断食を 試していませんでした 好奇心にかられて 私は聞きました 「どうするのですか」 彼女にどのように するかと聞いたのです 彼女曰く「ゆっくりと」 どうするかは言わず ただ「徐々に」と 言っただけです そう そして彼女の 弟子は通訳して 言いました「修行者は 気長にすべきです 一歩一歩あまり 急いではいけない 私のマスターは修行の とても高いレベルに 達しました

だから食べなくても 構いません あなたはこの道を 始めたばかりです あまり速く急がないで でなければ 倒れます そう はしごを 登るように ゆっくりすべきです」 彼女はそう言い でも 私は弟子に聞き続け「あなたのマスターは 本当に全然食べない」 彼は「本当です」 「何年になりますか」 と私は聞きました

彼は「二十年以上」 私は言いました 「わあそれは素晴しい それは素晴しい 私は必ず この法門を学びます」 こうして私は 断食だけに集中し 残りことを忘れ 解脱と修行と 高いレベルの智慧を 忘れてしまいました これら全て忘れました なぜ彼女は食べなくて いいか考え続けました

なぜなら当時 私が市場に行った時 寺院の出家人も 時々市場に 行きますが 市場で野菜を売って いる人の苦しい 生活を見たからです

あまりに多くの困難 そして農業はもっと 困難です 辛い仕事の後 彼らは 野菜を丁寧に洗い きれいに見えるよう 並べなければ なりません

ある年老いた女性は お金がなく 屋台の店がないので 野菜の束をいくつか 小さなかごに入れて 叫び売りをします 彼女は大声で叫び続け でも誰も買いません 私はとても辛く感じ また市場では 鶏がカゴに 閉じ込められています 毎日それを見て私は 泣いて家に帰りました 買い物に行きたくなく 何も食べたく ありませんでした でも空腹になります どうにもなりません 私は空腹の時でさえ やはり嫌悪を感じ 私は空腹のために食べ でも気分が悪くなり いったん食べては 全部吐き出しました 食べて吐き出す 私は衆生は非常に 苦しいと感じました 彼らは辛い思いをして そんな金を稼いでいる 食料品の買物を するのは辛かったです それを考えたると 食べたくなくなります

それであまり 考えないようにします 今日の昼食は とれないでしょう 余りにもそれについて 考え続けていたらね 私は自分の話を しています ですからこの状況で 彼女が二十年間も 食べていないと聞いて もちろん私は これらを考えて きわめて重大な問題 霊的な解脱を忘れます 断食が最高だという 事にだけ夢中になって それらの事を尋ね続け 彼女がどんな法門を 修め それが彼女を 解脱に導くかどうか 尋ねるのを忘れました これら全てを忘れ ですから神通力は 厄介なことなのです そうでしょう

普通でないことを したら それは常に とても厄介です それは人々を究極の 目標 究極の目的から 外れさせます そうではないですか だから私は 食べなくてもいいと 皆さんに言っても 食べ続けています 毎日食べますが 草をたべるようです ほとんど 草を食べてるようです 時には 私が  これは大変おいしい と言うのを聞きます 皆の為に言ったのです それが美味しいとは 限りませんが 皆さんにとって美味と 私は分かります

皆さんが美味しいなら 私も美味しいです

私達は一体ですから 皆さんが良いなら 私も良いのです

必ずしも味わう 必要はありません 私は時々 耐えられませんが 何か特別なことは したくないです 人々にそういう 思いをさせたく ないのです

私は人々をそんな 無用の考えに 導きたくないので 普通に生活します 「平常な心は 道である」 はい 賢者は 愚者のように見える 私達は修行するほど もっと普通になります もっと修行したら もっと普通になります

私に会いに来ると 人々は失望します マスターは こうである筈だと 思うでしょう 威厳ある態度で座り 目は鼻を見て 話し続け 経典を読み続けて 話してると思います そんなことありません ここには経典の代りに キャンディとナプキン オレンジがあるかも しれません

そう こんな風です 講義を始める前でさえ 時には私達は 大笑いをします

とても自然です 芝居をする雰囲気を 創り出そうとは しません ある人はそれを好み 他の人は好まない かもしれません 彼らはこんな事に 慣れていませんから 私も歌を歌います 私達は柔軟性があり 時にはこのように でも殆どのマスターに とってこれが彼らの 講義の方法です

霊修行は厳粛で なくてはいけない事を 意味しません 修行すればするほど より気楽になります 何もありません 修行は呼吸と同じです 誇りに思って とても重要に 見せる事はないのです そうでしょう 食べる事 寝る事と 同じです 何かする必要があれば そうするだけです 食べる事はこの肉体の 保護するためです 霊修行は精神を 保護するためです 私達は毎日水を使って  体を洗います 音を使って 精神を清め 悪いカルマ(報い)を 浄化します それだけです 自分の外と内の両方を きれいにします それは陰と陽の バランスを保ちます 陰は外側で 物質的な問題です

それは私達の肉体  世界で 物質的なものです 陽は内側の 見えない部分です 私達には陰と陽があり 両方がバランスを 保つと道(タオ)です 平常でいることです バランスを保つのが道 心が平常なのが道 バランスのとれた 衆生だと 私達は幸せで楽しく 何をしても 心配しません

何にも執着しません しかし他人に 害を及ぼすことはせず 道徳ある人として 害になることは するはずがないです

それは基本的なことで 言う必要さえ ありません ですから 霊修行は普通のことを するのと同じです 修行すればするほど より普通になります 修行するほど よりこの人生を 受け入れられます

恨みや拒むことなく この世界を受け入れる べきです また 逃げたりもしません 私達は執着しないが それを拒絶しません そしてこのように より普通であるなら よりリラックスします それが 修行者の道です 深刻なふりをする 必要ありません そうしても良いですが 役に立ちません 私は講義してる時に 厳粛に座っている 人を見たら 悲しくなります 私は彼を見続けます どうしてでしょう なぜそうするのか 彼の目は誰も あえて見ません 鼻を見続けているだけ 私は悲しく 彼に注目します 彼の世話をします

しかしそれは習慣です 彼は他のマスターを まっすぐ見ないことに 慣れているので できないのでしょう 講義の時は 私を見るべきです 私が食べている時 見ないで下さい シャワーを浴びてる時 見ないで下さい しかし講義の時は 見るべきです 私を見たら 福報があります 瞑想したかったら もちろん目を閉じて 瞑想してもいいです 構いません しかしそんな 表面的な態度を 装わないで下さい よくないです

治療者が 修行の力を使って 他人を治療するのは より低いレベルに属し それで彼は患者に 触らねばならず 彼は誰かを触り そこを触り 例えばそのように 彼は痛いところを 触ります 後で彼はすぐに 手を洗うべきです 長い間沢山の水で 手を洗わなければ なりません 長い間 流水の下で洗い そして (振り切る)そう 長い間 これは 悪いカルマ(報い)を 悪いカルマ(報い)の 力との関連を 切り離して しまうためです でなければ 二つの魂が 混ざり合う 可能性があります 恐ろしいことです

霊体 目に見えない いわゆる阿修羅の体は 混ざり合うでしょう それはよくないです 悪いカルマ(報い)は 私達に移ります これは方法の一種で 自己防衛の方法です 彼らは知ってます 魔女は 皆知っています 黒魔術師は  知っています

過去において 釈迦牟尼仏 あるいは開悟した人は 皆ここに 第三の目があり インド人は ここに赤い点をつけて 智慧眼を作ります 内で開悟していなくて 彼らは外に にせの目をつけ それは開いてませんが 智慧眼をカバーします 彼らは ある種の布 あるいはある種の紙で そのように 一つ一つ作ります それは市場で買えます 毎日一つ付けて 落ちたら 次の日もう一つ つけます でなければ 何か赤色の物を使って ここに点をつけます 以前 偉大なマスター達が 印心の時や 法門を授けた時 彼らはこう触れて 智慧眼を開けます 偉大なマスターの手や 体の他のどの部分にも 大きな力が あるからです より良い修行者は マスターの触れる力を 認識します ある人は 感じません それでもなお 役立つのです