私があなたに 出来る事はありますか 私はただ 瞑想の方法に とても関心があり けれど どんな方法も 何も知らないのです 例えば あなたの教えなど 簡単です 弟子でも 教えられます 実は 最初に 尋ねたい質問は 考えていませんでした あなたに会った事が なかったので 会いたかっただけです たぶん瞑想について 一般的な討論を したかっただけです 多くの導師が 瞑想に 確かな方法がある と言います けれど 例えば クリシュナムルティ等 私も本を読みました 本当ですか (はい) ヒマラヤに行く 以前ですか そうです

本当ですか 違う論点も研究した 事があって どれが 一番私に適切なのか 確かめました わかります それなら あなたも 探究者ですね さまざまな考えや 学派の思想を研究して それから一番 好きなものを 選ぶのですね そうでもないです ウィンドウ ショッピングなどとは 違い そうでなくて 本当に何かを 決断する前の 一種の準備です ええ こういう人に 触れて  哲学を知るのです どういう訳か 自然に あなたの所に来て ある日 気づきます 「私はこれが好き」と はい 時々 神や仏が さまざま人々に さまざま方法で 手配すると思います

ある人の場合 神は一人のマスターに 直接案内したり 探究心の強い人には 神は 様々な本や さまざまな哲学 さまざまな マスターを送り その後 彼は 選択します はい クリシュナムルティは 人は 自身の先生でも 弟子でもあり得ると 言いました その通りです 彼はそう言いました ええ それではお尋ねします この事を どう理解しますか 人には自身の 意見があり 自由に表現できます 多分 当人には それが良いけれど でも皆には良いとは 限らないのでは もし 自分は 天才だと考え 天才である事が 証明できたなら マスターは不要です

それでも結構ですが けれど私達の殆どは ガイドが必要です マスターや導師でなく人々が 「マスター」とか 「導師」と言う名前で 呼んでいるだけです 実際 それは単に 友人かガイドです そうですね 旅の途中で 付き添う人です 登山したい場合と 同じように 多分 友人か 誰か道が分る人を 連れて行かなくては なりません そうすれば 時間の浪費もなく 道に迷う事もないです あぶない道や 落とし穴の場所など 知らないので 危険な目に あうかもしれません それだけです 他の惑星への道も そうです 内なる意識 内なる理解レベル 達成レベルへの 道は 非常に 率直に言って 同じく多難で落とし穴 危険が一杯です

道が分っていて  導いてくれる 誰かがいないなら 時間を沢山浪費し 見つけられないかも しれません そして 多分 一人で 出て来られない 危険に陥ったりします  従って この場合 導師が必要です 大丈夫なら いいです 誰もあなたを 強制できません つまり  導師がいると 助けになるが 強制ではないと? 私は殆どの場合 必要だと思います 先生から英語を 学ぶのと同じで 何か  数学とか  ピアノでも何でも 先生がいると 多分 より正確に より速くできます けれど 運が悪く 良い先生に 出会えなければ そんな人は 絶望的でしょうか いえ そうではなく 望んでいないのかも かもしれません

誰もが英語を学びたい 訳ではありません はい マレー語か中国語が 話せただけで 満足だったり さらに知識を広げる 必要があると 感じていないのです はい 大抵の場合 本当に そうだと言えます 多くの人々は 瞑想したくないのです 悟りたくないのです 彼らは満足してます それで良いのではと はい その様に簡単です けれど 例えば仮に 真剣な探求者がいたら その人は 偉大なマスターを含め 誰にも 影響されたがりません 例えば 様々な導師の教えに 精通していても そのような人は 自分自身で 悟りを見つけるのは かなり難しいですか 難しい? はい そうと言えます

そうと言えますか そうと言えます ええ なぜですか なぜ? 私達のほとんどが すでにあらゆる思想と 社会の習慣と偏見に 影響されている為です 分りますか はい するとどれが正しくて どれが間違いかを 知るのは困難です

すでに分っている人が あなたに話し それを理解したら こう言います 「ああ そうです」 見つけられない 訳ではありません 時々 すでに 分っている人が あなたの理解を 確かめる必要があり それで安全に感じます でないと自分で試すと 長くかかり過ぎます 人生は短いのです それだけです 数百歳生きられたら 多分 一人で 到達できるでしょう けれど それでも 独りではありません 多くの導師を知り 多種の哲学を 知っていたら すでに 影響されています それで多分 あまりに多くの 学派の思想に影響され さらに厄介な事に なるでしょう 分ります

すると貴方は悟りへの 近道を教えていると 仰るわけですね はい いろいろ近道が ありますね あらゆる種類の けれど私が言うのは あなたがおっしゃる 内容のことです 先ほどの話で 導師を望まない人は どちらかと言えば 悟りに至るまで より長い時間が 必要という事ですね はい 全く到達できない かもしれません 多分です はい だから多分 確実に悟るとは 言えません そんな場合 導師は非常に 役立つと思いますか 大変役立ちます とても必要です 分ります 私は瞑想についての  あなたの見解を 知りたいのです 話されたように 様々な導師が 多分 様々な解釈を 持っています ええ 私の瞑想は何か そうですね(そうです)

私達の瞑想は幾つかの 戒律から成ります まず 全ての生命を 愛する事です 基本中の基本です それで向上します はい つまり不殺生です 間接的にさえです 肉も食べず 同様に 殺生を 促しもしません 自身も生命であると 考え 永遠の生命を 望むからです どんな命でも短くさせ れば 命の一体性を 傷つける事になり 自身を傷つけます ですから 愛の見本を 作り 命を傷つけない ようにします 私達の愛を 動物にも 植物にも広げます でも 生きるためには 若干の植物を 食べねばなりません ただ それは最小かつ 最低限の苦しみです 動物はより苦しみます 植物の意識は より低いのです それが基本的な事です

それから 戒律を守り 昔からの伝統と 良い社会秩序を 保ちます 例えば 妻や夫は 一人だけです ね 貞節です また 他人の財産を 取りません 頂いたものでなければ 一本の花さえもです こうやって 他人の 財産を保護します また 正直に お金を稼ぎます 他人が与える物に 頼りません そんな感じです 私達の出家者のように 自身のお金を稼ぎます そして 毒を摂取せず 酒を飲まず 性的な映画を 見ません そんな感じです ただ社会の 良い秩序と 基本的な道徳を 保つだけです 私達の子供が 学べるようにです それから 後に 瞑想があります 瞑想には マスターが必要です 内面の力を持つ為で 技巧ではありません 内面の力は これをあなたに伝え あなた自身にある 仏性を 神の力を 呼び覚まします

それが印心と称する ものですか 印心です そうです その後 すでに これを見つけたら 準備万端です それから教えます 瞑想の時 もし何か 何か 何かを見たり 何かを感じて ある程度まで 進歩したら 何に注意を払わねば ならないかとか 何を知るべきかとか 今どこに向かうか 発展の程度や 何に注意すべきかとか 教えます 実際それは技巧でなく 内部の悟りであり 瞑想の時 それが分かります 印心の後 それが分かり 天国が見えます 或いは光を見たり 美しい光です 神は光です 仏は光です

あらゆる仏像に 光があるのを見ますね だから 光を見たら 悟りの境地に 近いと分かり 仏性に近く 自身の仏性に近いと 分かります 他のどの仏陀も どのマスターも 崇拝するのでなく 自身が仏陀であると 徐々に分かります 崇拝の必要がなく 仏陀もあなたも 仏陀だからです なぜ仏陀が仏陀を 崇拝するでしょう あなた自身もまた ある程度 マスターです ただ忘れているだけで 今 再度思い出せれば それを発展させ 自己を認識します それが私達の瞑想です あなたはそれを 本当に技巧とは 呼ばないと おっしゃいますが 幾つかの書物で これを観音法門として 言っているのを 見つけました

はい 何か名称を つけるべきでしょう ええ 分かります 何らかの概念を 人々に持たせるため 彼らは何かの目的で 来てます でなければ 何もないと言ったら 彼らはどのように 私を理解しますか はい そうですね 誰かを愛した時と同じ そうですね 女性か男性を愛したら その人に言います 「愛してる これが私の愛」と それから その人に 彼にバラをあげたり 彼女に宝石をあげたり 何かをあげます ダイヤモンドが 愛ではなく それはあなたの愛です そうやって愛を表現 しなければなりません 愛自体は 表現できないからです

それで何らかの方法で 示さねばなりません 彼女と結婚するのは 結婚で彼女を 愛せるのでも 結婚後に 愛せるのでもなく 単に表現方法なのです ということは あなたがおっしゃる 鍵となる要素は この瞑想の修行は 方法や技巧ではなく 人のエネルギーを 瞑想に導く真剣な道 という事ですか はい そうです やはり自己認識の ようなものですね はい そうです 自己の力を 呼び覚まして 理解し 利用します 神に祈って 何も起きない代わりに 自身の神を呼び覚まし 何をすべきか尋ねます 自身が神だからです

目覚められないなら たとえ神がそこに 千人いても 何の役に立ちますか はい 内部に力がなければ やる事を決められず どの道が正しいかを 知る智慧を 得られません 日常生活で また 日常生活や 社会にも 役立つことでです 千人の仏陀がいて 一体何が良いのですか ですから 仏陀は人の仏陀であり 私達は私達です 私達に何もできません 祈っても 誰にも届きません 仏陀が内面にあるのを 知らないからです 唯一 役に立つ仏陀は 私達自身です 目覚めさせてください それで働き出します 仏陀は崇拝の為でなく 使うためにあります 人類に 私達自身に 役立つためにです それを目覚めさせれば 誰かに祈る必要は ありません 仏陀は ここにいるからです 自分の仏陀を作ります

私達のレベルに従って 神を作ります ここまで上れば 考えます 「ああ 神は知性が高い 神は智慧だ」と もう少し上れば 「神はそれ以上で 愛を含んでいる」 更に上れば 「ああ 神よ 私は何も言えない 神は全てである」 だから 神は 自身が築いたものです 仏陀もそうです 分かります それでは瞑想において 勤勉に修行することは 非常に重要であると 言えますか 人々のレベルは違う そうおっしゃったので より真剣な人もいれば 全くそうでない 人もいます ええ でも精進すれば 誰でも到達できます そしてやはり 誠意があるべきです

座ってるだけでなく 本当に見つけたい 本当に自身の力を 見つけて 自分自身や友人や 社会を助けたいと すると 神が助け 神がやって来ます でも何らかの動機では ないのですか こう言う人がいます 「瞑想を修行したい 開悟に達したいので」 ええ います そういう考えは 開悟の助けになる というよりも 障害と言えますか そこには個人の 動機が含まれていて 「開悟に達したい」と 言います 場合によりますね 言葉では 人々が 内面で考えている事は 一切 表せません ある人は言います 「私は開悟に到達 したい」と でも 本心ではありません

ある人は何も言わずに 本当に望んでいます また「望む」と 言った人でも 望む方法が 障害になります 他の人々もやはり 「開悟したい」と 言いますが 彼らは 障害を感じません その人の心の感じ方に よるのです 望むだけではなく 望みには あらゆる 段階があるので 私には白黒はっきり 言えません でも時々 私は 弟子達に言ったり 講演で言ったりします 「ええ あなたが開悟を 望み続けるならば 何か障害になるかも しれません」と それはその人だけ そのグループだけ 又はその日だけの事も あるのです 分かりますか(はい) 生きた教理が マスターです

従って マスターが必要で 模範にし「彼ができる なら 私もできる」と はい そうですね 私達は 例によって 学ぶ傾向があります はい 例で学びます そうです ですから どちらでも いいと私は思います 私達は人々に 論理だけを勉強させて 模範を勉強させない ようにはできません 彼らは選択します ね ええ そうです 私に規則や規範が あっても それは単に ガイドラインにすぎず 人々を束縛しません 「これだけをすべきで 他にはない」と ある友人が 輪廻転生に 関する質問をしました 輪廻転生について 私は何も知りません とにかく私は 友人の代わりに 質問したいと 思います

輪廻の見解はいかが でしょう 事実ですか はい 私は輪廻転生について 多くを話してきました それは事実であり 非常に科学的な事です 私達は沢山の経験を 蓄積しすぎてきて 今生で これらの体験を 生きたり ある欲求を ある意図を ある夢を ある計画を 完了させたいのです なぜなら その学習と経験の 蓄積を通して 交換し合い 私達はまた その沢山の経験や 多くの事をしたいと 思っているからです そしてすぐに死にます ええ 体は別の境界へ 行ったり 即座に 別の体に行くかも しれません

そうです これらの経験 欲求 計画は 実行されねば なりません 私達には 内面のここに記憶する コンピューターがあり これは物質的なもの ではありません 一種 電気の様で 高次の電子です 社会の中にも 電気の様なものがあり 例えば そこに座って リモコンを持てば 家の明かり 電話 ドア ガレージ テレビなど家中それで 操作できますね

さて 私達の心は 高次の電子体系に 属していて 形がありません 内面の頭脳の中に 形作られていますが それが全てではなく 頭脳が全てではなく 私達には高次の電子 「コンピューター」 つまり 私達の望み 知覚 視覚 全てを 記録できる 一種の 装置があります 今作動させるべきです こうして 人間になる方法を学び それで 各人が互いに 異なるのです ある人は多くを学び ある人はあまり学ばず でなければ どう 説明しますか 皆 二つの目 一つの鼻で 同じ様に生まれるのに なぜ彼は より愚鈍で 彼はより知的なのか なぜ彼はより道徳的で 別の人々は より邪悪なのか 学習と経験が 異なるからです

今 この学習と経験は どこか空中に 留まってます 或いは 「コンピューター」 「電子」と言えます そして私達の死後 それが肉体に 留まれなければ どこか 大気中に留まります さあ 私達の魂 これは永遠で 常に 私達が蓄積したものの 所に行き 執着します 「コンピューター」に 行くのです あなたが沢山の時間と お金と愛を費やして 買った車の所へ 行くようなものです なぜ他の人の車へ 行くでしょうか あなたが買った 車の所へ行きますよね 同様に 経験は 「好き」でも「嫌い」でも あなたが経験する事を 望んだので あなたはそこへ行き 再び生まれるのです ええ 分かります

はい 永遠の魂は 決して生まれません ただこうした全ての 一種目撃者なだけです しかし 電子頭脳は 再生 補充されたり 破棄されます これがカルマと 呼ばれるものです なるほど これがやり取りする 法則です 知り 経験し 蓄積し 追い払うという事です 原因と報いです 林檎の木を 植えたら 林檎の実を得るように オレンジを植えたら オレンジの実を得ます 物質の法則です それで この物質界に 生きるなら その物質の法の下 生きねばならない そういうことです その電子頭脳 しかし私達はそれらの ゴミを全て置き去り その上に行けます それを使わなければ 電子コンピューターは 役に立ちません

あなたを傷つけず 何を口述しても 記録されません あなたは中身を知る 必要もありません 置いて行けます 解放されるのです あなたが望めば そうできます これが印心の過程です 「コンピューター」の 全てを取り ボタンを 押し 何もかも消せば あなたはここへ再び 戻る事はありません コンピューターには あなたの処理を待つ ものはありません あなたは「仕事」を変え 他の高次の 「コンピューター」 高い種の教育を得ます ええ あなたが小学校に いる限り 小学校の教科書が 必要なだけです

でも一旦高校に 行ったら 学んだ全ては どこかに捨てても 保存してもかまわず 使う必要はありません ですから印心とは この世界からの解脱や 経験や蓄積された 物事のサイクルからの 解放を望む人々を 助けるものです これが輪廻転生です 望まないなら 抜け出せますが方法を 知る必要があります 何千年もの間 蓄積されてきた ものを消すのは 容易ではないですが ただ消すのです 方法を知るべきです コンピューターの様に 消し方を知らなければ たった一つレッスンを 記録していても それを消せません 何も無かったようには できません

ですから 印心とは 非常に強力なものです 一種の見えない技術で カルマ(報い)を 消すのです 輪廻転生を あなたを来世で 待っている経験を 消します それがなければ戻って 来る理由がありません 「コンピューター」と おっしゃいましたが それは人間の 集合意識か何かの ようなものですか この世で 人間が生きてきて 恐らく 私には分かりませんが 百万年位でしょうか あなたが話された 「コンピューター」は そこから 出るべきだという 人間の集合意識に何か 関連があるのですか 出るべきとは 人はこの人間の 集合意識から 出るべきというか それがあなたの言う カルマ(報い)ですか 人間の集合意識の ことですか

人類の集合意識 それは 集合カルマ (報い)です ええ カルマ(報い)の 大きな束ですね 皆 一般的な形で 何か共有しています しかし 個人の カルマ(報い)とは あなたの「好き」 「嫌い」であり 自身の判断です それは個別で 輪廻を作り出します 欲求を満たすために 計画を終了させる為に 前世の肉体で 機会に恵まれず 知りたいと思った事を 経験するためにです 多くの宗教が善悪に ついて話しています あなたの教理では 善悪をどのように 説明なさいますか ええ 善悪は 簡単なことです あなたにも他者にも 善い事は善です

あなたや他者を 害すものや 両者を 害すものは悪です 非常に簡単です 善を試み 悪を回避してください でも 比較的・・・ できる限りです しかし 繰り返し 詳しく見るべきです ただ「これは善」 「これは悪」と言うほど 簡単ではありません 一般には こうです

「自分がしてほしく ない事は 他者にも しない事」簡単です 従って この面で 私達は肉食をしません やはりそのためです 私達はまた 殺されたり 傷つけられたくなく それで動物に自由を 与えるのです 菜食になれば 仏陀になれる訳では ありません 違います 牛も菜食ですが 彼らは決して 仏陀にはなりません ただ愛の原則で 生き物が好きなので 彼らを率先して 救いたいのです なるほど ですから この場合 私達が教理の 見本です それで私の教理は 他の古代の各教理の ようなのです 例えば 仏陀の 「殺生すべからず」です

イエスも言いました 「生あるものを殺すな」 聖書では十分 言及しています 「肉を食べるな ワインを飲むな 生き物を殺すな」と でも人々は無視します 読んだだけで よく理解していない のかもしれません

それで 人々は善良に なりたいと思いますが 未だ非常に凡庸です これは仰るように 実は高い智慧を 望んでいない ということですか 「善」にも 多くの レベルがあります 善を何により 定義できますか もし 隣人を愛し 子供達を愛していたら 良い父親で 良い隣人です もし 自国を愛し 責務を果たしたら 良い市民です 兄弟姉妹を 助けたなら 良い兄弟 と言えるでしょう でも もしも 全人類を助け 彼らをみな開悟させ 道徳や他者を害さない ことを教えたなら 世界の良い 教師ということです もし善良で 人に教えられれば 神に 天国の存在に 多くの宇宙に 多くの惑星にも 教えられれば 善なる 宇宙の師なのです

ですから「善」には レベルが多いのです どのレベルの善かは 選択次第です あなたの場合は 今のあなたになられた 理由を知りたいです 最高のものを望んだと いうことですね もちろん 最高の ものを求めました はい 私の仲間たちは 単なる善人に なりたいのではなく 聖人になりたいのです 聖人はより良い「善」の レベルがあり 異なる 「善」のレベルがあり 聖人 或いは 仏教の菩薩と 呼ばれるに値します とにかく良い聖人は また良い人間でも あるでしょう そこに含まれます しかし 良い人間が 良い聖人であるとは 限りません

大学の教授のような ものです 彼は小学校の良い 先生でもありますが 小学校の先生が 大学の良い先生である 訳ではありません 聞いた話では あなたの教理 この瞑想では 光が見え 様々な音が聞こえる そうですね ええ ええ ええ 私には一種 正反対に思えます 心の静寂と音など そういった皆がです 騒がしすぎると? OK お話しします その音はあなたの耳を 傷つけません 完全な沈黙です それを沈黙の音と 呼びます 正反対ですが それは 起こりえるのです

それを聞けば 聞くほど 心は 静かになります 「静寂」とは何もない 空という意味ではなく 不必要な 重荷の静寂さ 不必要な 偏見の静寂さ ありとあらゆる 無意味と欲求 不可能な熱望の 静寂さなのです 奉仕するための 静寂さ 知識を 純粋なる 知性を現すための 静寂さです そして その純粋な 知識を 自分のために使えて 天国へ行き地獄へ行き 人々を解脱させ 社会の良き人間となり 人類の良き師となり 自分にとっても 良き師となるのです 「静寂」とは 空という 意味ではありません もし空っぽなら 私に 瞑想は不要です 全てを取り出して 空になった瓢箪の ようではありません それでは使えません

中米

(ビーガンホテル) (レストラン)(パン店) (カフェ)等のオープン