釈迦は言いました 「私はあなたに自身の 仏性を分かってもらう ために来た」と 仏陀と衆生は まったく平等であり 何の違いもないと 言っています 私達は仏陀を 信じているとしても 仏性というものを 分かっていません 教える人がいないか 私達自身それを 知る努力を しなかったからです 自分の仏性を 見つけた人は幸運で 素晴らしいことですが 大半の人は 無数の過去世において 失敗を重ね 困難は毎回 増していきます 一部の人は千里眼が つまり 第三の目が開き 時空を超えて見る 能力を持っています

彼らの目で見ると 世界の人は古い魂で 充満しています つまり この世界の人々は 絶えずこの同じ 地球上に生まれ変り 同じ状況で 同じ生活を繰り返す ということです それは私達が 最初に家に戻る 試みが失敗し 二回目も 三回目も 四回目も四千回も 失敗すると自分が 来た所を忘れます しかし 自分の仏性を 忘れたのであって 失ったわけではなく 随時見つけられます この世界で 数百万人もの人々が すでにその宝を 見つけています 私を含めてです だから貴方もできます 多くの人が私に 開悟した後 どうなりますか 個性は変るか 生活に変化があるか

生活に変化があるか 考え方は変るか 開悟し 仏陀になってから 何をするかと聞きます 皆さんもきっと そう思うでしょう 私はこう答えます 開悟した後も 寝て食べたりします お腹が空いたら食べて 疲れたら寝ますと ただこれは 私の肉体の部分が することです 別の部分 霊的面では つまりすでに 目覚めた仏性は 肉体の機能とは 別に他のことを します ですから 仏陀になった人を 外見ではおそらく その内面のレベルを 測ることはできません 肉眼や 頭脳の理解力では その人が開悟したか どうか仏陀になったか どうか分かりません

しかし霊的知覚力を 持っていたり 智慧が開いていて 瞑想修行している人 生まれつき霊性の 能力のある人は 知ることができます または 仏陀について学ぶと その人の偉大さを 分かります これは私達が英語を 習えば習うほど 先生が英語で話すとき いかにすごいか 分かるのと同じです でないと 少ししか分かりません 先生の指導に 従わず 先生と同じものを 勉強しないと先生の 学識を判断できません ですから最も大事な ことはやはり自分の 偉大さを発見すると 他の人の偉大さが 分かるということです

そうでないと私達は ただ仏陀もお腹が 空いたら食べるし 一日一食でもです 疲れたら寝て しかも病気だってする としか分かりません 肉体や 環境衛生の影響で そうなります 仏陀の ある部分は 永遠に病気せず 永遠に疲れず 永遠に空腹にならない それが真我であり 真の仏陀であり すべての人の内面に 持っているもので 生まれる前も 死んでも ずっと持っています これが今日 私達が ここに来た目的であり 他の所にも行く目的で 人々とこの良い情報を 分かち合いたいのです 要するに私達は 再び仏性 真我を 見つけられます

つまり永遠に死なず 生もなく病気もしない 永遠に存在するのです もちろんこれは 常に無料で与えます 皆はただが好きです これは珍しいものです 今では無料の ものはありません これは無料ですが 努力せねばなりません つまり 一旦智慧が開いたら 私達はそれを保ち 発展させて仏陀の 境地に達するために 毎日瞑想に励まねば なりません 毎日二、三時間 瞑想する必要が ある以外は すべて無料です 私の時間と助言 労力 私が随時提供する 助けはいつでも無料で なぜなら 私は自分で稼いで 賄っているからです 寄付を必要としません

リッチな仏陀も なかなかいいですが 私が仏陀であればです 皆さんが私を仏陀だと 信じていればです 沢山の人が私を 仏陀だと言っています 私は何も考えません ただこの世界での 責任を果たし皆の 恩に応えるだけです この世の人々の お蔭で 私は成長し 教育を受けることが できましたし 智慧眼も開くことが できました ですから私が自分の 時間と労力を貢献 するのは自然な事です 子供が 年老いた両親がいて 成長してから 両親の世話をして 親孝行の責任を 果たすのと同じです 従って 人々のために 奉仕できて光栄です ですから私は 自分のすべてを 貢献します 

財産や 同情心 愛と時間を含めてです 仏陀の教えと 私の開悟した後の 見解から見た場合 すべての衆生は皆 兄弟姉妹です ただ中には この世界で 肉体的 精神的に 苦しんでいる人がいて 先生も弟子達も 全力で彼らを 助けてあげなければ なりません もちろん私達が 霊的智慧と 解脱を渇望している時 無条件に 助けてくれる友人が 見つかった場合 私達がまだ 無知の段階にいる時は 大変ありがたく思い もちろんその先生 霊性上の友人を 崇拝したりします そのいわゆる先生は 時には弟子からの 尊敬と愛と 崇拝に辛抱しなければ なりません これは不必要です

皆が平等で 私達皆が内面に 仏性と神の品性が あるとしたら 誰も他の人がして くれたことに感謝する 必要はありません 最も重要でかつ すべき事は 自分が信じている 先生の指示に従って 修行に励むことです 先生と同じ水準に 到達するまでです これが学生の最も 良い感謝の表現です もちろん全ての人が 古代の聖人達の 生活方式を 好むという わけではありません ですから私達は 修行者の仲間入り するのを嫌っています 恐れることが多いです しかしこれは 口実にはなりません

私達は 悪い事をし 自分自身や 家族や国に害を及ぼす 事を恐れるべきで 良い事 高潔な事 正しい事 霊性上の事を恐れる べきではありません ある人は私に 菜食すると人に 笑われるのを恐れると 言っています 私は「なぜですか 菜食は誰も傷つける 事はない」と言います 仏陀に ならなくても 菜食は 健康にいいのです 私はランナ王国で 30~40%の人が ベジタリアンで チェンマイにも沢山の 菜食の店があることを 嬉しく思います いいニュースです 大分前のことですが 私は休暇で タイに来たとき 菜食の店を探すのが 大変だったのを覚えて います

バンコクでも それに 他の地方でもです 私がこの 「仕事」をする前に 貴国を数回訪れました つまり 開悟する前の話です タイは仏教国で 菜食の店を 見つけることは 容易いはずだと 私は思っていました 時には 私は寺院に行くと 菜食の食べ物があると 思いましたが なかったです 出家者でさえ菜食を 食べられません ましてや私は尚更です 僧侶達は外で 托鉢すると 人は何でも供養します 僧侶達の健康のことを 心配したからです 僧侶達が沢山の 鶏肉や牛肉を食べると 壮健な仏陀になれると 思ったのでしょう 可哀相な僧侶達は 選択の余地がないです チェンマイでは ましだと思います

ここでは多くの人が 菜食をしているから 私は来られたのだと 思います ここに来た時 とても良い感じでした それに宗教的な 雰囲気が濃いです 雰囲気は以前 私が訪れた所と 違います それを感じ取れます 感じられるのです

長い期間 修行した後 私達は生活などの面で とても敏感になります 以前感じなかった事を 感じることができ 以前知らなかった 沢山のことを 知ることができます これが修行の利益です そうでないと外見は 以前と何の違いも ありません 外見は以前より 若くなり 以前より綺麗になった かもしれませんが 修行者にとってこれは 基準ではありません 内面こそが 重要なのです 内面で私達は より智慧があり 過去 現在 未来を知り これらの範囲を超えて ずっと前に失われた 智慧の大きなパワーを 得ることができます

私達はここに来て 皆さんと即座に自分の 宝を知る方法を 分かち合いたいのです そして引き続き それを発展させれば 偉大な本性を完全に 分かるようになります 結果はすぐに 立証できます 多くの人は 初日に彼らの過去と 未来が分かります また多くの人は 数日後又は数週間後 数カ月後に分かります ただこれは 個人の背景と 誠意にもよります これは私達が皆さんに 提供する朗報です 皆さんに質問の時間を 残します でないと 長くなるからです 私はいつまでも 話すことができます 

仏陀の仕事は 偉大ですが 私は皆さんが 自分で見つけて 欲しく 毎日修行し  瞑想することによって それを発展させます スリルな映画みたいに 最後にどうなったか 内容はどうなのか 人に言ってもらうと もうスリルに感じず 映画を見に行く喜びも なくなるでしょう いいですか だから皆さんに自分で 発見して欲しいのです 経の講義の後皆さんと 秘密を分かち合います この秘密を知りたい 人は今日から 菜食をすることを 約束せねばなりません 秘密を半分または 三分の一を 知りたい人は 方便法を習うことが できます これでまずやってみて 好きかどうか 考えて下さい 異なるのは 全部の秘法を 習う人は 今生で 仏陀になることもでき 多くの先祖や 友人や愛する人が 超昇する事ができます 方便法を習う人は 自分だけが 解脱できます ご自分で決めて下さい ご清聴ありがとう ございました