では私達の修行仲間に マスターに従って 修行した後の体験を 分かち合って頂きます マスター 出家者の皆様 高潔な 善智識の皆様 こんばんは 本日は私の故郷 澎湖で皆様と一緒に マスターの経の講義を 聴くことができ 嬉しく思います 私は大学で 勉強を始めた時から 教会に通い始め あらゆる団体に参加し 人生の真義と 宇宙の真理を 求めました しかし 良い答えは 見つかりませんでした 後に観雲で 林先生について 太極拳を習い 易経も習い 昨年まで続けました 約二年前に 私は偶然の機会に 栄容書店で 本を読んでいる時 マスターの 本を見つけました

その瞬間 私はハッと悟りました 私は菜食しようと 決めました ついに 台北でマスターから 印心を受けました あれから 一年近くなります この一年間 私は 内面外面共に多くの 体験があります これから三つの 違った体験を皆様と 分かち合いたいと 思います まず 哲学的な面の話です 去年の六月マスターが 台東に経の講義に 行こうとした時 二十人の修行仲間が 台北からポスターを 貼りに行きました 昼は交通が 混雑しているので 夜貼りに出かけました 台東の水南市場近くで 火事が発生しました 火事が発生しました

私ともう一人の女性の 修行仲間とそこで偶然 火事を目撃しました 最初 火は下の階から 出ていましたが どんどん上に 燃えあがりました 中は食品雑貨店です 小さな爆発音がして 多くの人が 集まりました しかし誰も火を消し 止めようとしません 皆は 火事だ 火事だと 叫ぶだけで 誰も消そうとしません 後になって ある人が 鉄の門を蹴っ飛ばして 開けろと言いました そのとき 私も自然と助けに 乗り出しました 門を何度も蹴っても 開きません 最後に私は マスター チンハイ助けてと言い もう一度蹴ったら 門が開きました 皆が喜びました さっそく鉄の門を 取り除きました

その時火はますます 強く燃えました 人々はバケツで 火に水をかけ 消火器も 持ってきました しかし皆は入り口に 立ってやるので 水が火に かかりません その時私は 大変心配でした そこでさっそく 消火器を持って 中に入りました すると火は 小さくなりました 後から消防隊も来て 彼らの努力で 火は完全に 消し止められました その建物の中には 人がいましたが 後で助けられました この事から私は多くの 示唆を受けました まず火事そのもの 自体から私は 生命は無常である事を 感じさせられました ひょっとすると 私達の命と財産は 一瞬で大きな損害を 受けるかもしれません

次に 内面から見た場合 毎日私達は 貪りと怒り 無知の炎で 寺院であるこの体を 燃やしています しかしこの火を消す ために私達は実際に 何かをしたでしょうか 私達はよく 体を鍛え 本性を培うと 言います しかし私達の 貪りと怒りと無知の 火を消し止めようと したことがありますか 鉄の門を見つける事は 容易ではありません たとえマスターを 見つけ 門を蹴って 開いたとしても しかしその音流と 繋がっていないと または門の中に 入らないと その火を根元から 消し止めることが できないでしょう

同じように修行も まずは私達の智慧の 門を蹴って開けて 開ける手助けをして くれるマスターを 探してこそ実際に 貪りと怒りと無知の 火を消す事ができます これは私の哲学的な 面での認識です もう一つの面では 私は大学で 工学を勉強して  科学の角度から 私の体験を分かち 合いたいと思います 流体力学に レイノルドの変換 システムがあります 一つのシステムを 制御された容積に 変換するものです

このシステムは 私達霊修行者が 小さな自己を 大きな自分と考える のと似ています また道教での小円は 大円と融合するという 説に似ていませんか 観音法門を 修行した後 よく考えると 良い答えが 見つかります 他にも例えば 私達が コンピユータを語る時 人間とコンピュータと 比べると私達の方が ずっと知性的です 何と言っても コンピュータは人間の 頭脳に頼るからです

ですから しっかり修行してこそ 自分の真の智慧を 見つけられるし 本当にコンピュータの ソフトウェアや プログラムの作成を 助けることができ 発展させられます ですから霊修行の 角度から見ると 霊性と科学は 互いによくサポート しています

仏教の観点から すると 少し前 私は 法華経と 楞厳経及び 達磨大師の 破相論などを 読みました これは観音法門と まったく同じだと 分かりました 例えばどうやって 本当のマスターを 判断するかについて 仏陀になる道は 四つか五つあると 書いてあります どれが真のマスターか について こう言っています 真のマスターは 戒律を守り瞑想し 偉大な智慧があると これが第一のことです 私達が印心を 受けてから まずは五つの戒律を 守らねばなりません そしてマスターは 瞑想も教えます すると多くの智慧を 得ることができます

彼女の弟子として 私達は 戒律を守り 瞑想して 智慧を得られます 明らかに私達の マスターは悟りを 開いています 二つ目は 悟りを開いた マスターは必ず すべての経典に精通し大智慧があるはずです マスターは 子供の時から 老子荘子を知り 聖書を読み仏教も 研究していました 更に経の講義の間に すべての質問に対する 完璧な回答からも マスターは 大変博識で経典に 精通していることが 分かると思います 三つ目は 本当に悟りを開いた マスターは法を 伝授せなばなりません 印心の間は 言葉は必要ありません 魂から魂に 伝えるものです

真のマスターは必ず 法(真の教え)を伝授します マスターを選ぶ時 私達は彼に法 (真の教え)を 伝授できるかと 聞くことができます 第四に 真のマスターは 必ず慈悲深いことです 私達がセンターで 道場を作る時 マスターはいつも 樹に釘を打ち込まない よう言い含めました また花や 植物を踏んだり 傷つけたりしないよう 注意しています 竹の中にはアリが 沢山います マスターは私達に 竹を燃やす前に アリが全部出て 行ったか確認するよう 言い含めています これらの細かい事から 私達はマスターの 大慈悲が分かります

最後に 真のマスターは遍在で なければなりません 本当に仏教について 習いたいと思うなら 仏陀について 学ばねばなりません 霊修行には 三つの道があります 一つ目は 仏陀から学ぶ方法 二つ目は 仏陀の弟子に学ぶ方法 三つ目は 経典で学ぶ方法です 仏陀や 菩薩がこの世界に 来ているとしたら もちろん彼らについて 学ぶべきです 仏陀になるためには 仏陀に従って 学ばねばなりません 今私は心から 今私は心から マスターは 仏陀だと言いたいです 今日の講演を聴くと 分かると思います 皆が早くこの 観音法門を修行する 機会を掴む事を 願っております 以上です 有難うございました

では謹んでマスターの 講演をお願いします 有難うございました

有難うございました 本日は皆熱心な方達で インスピレーションが 沸いてきてうまく 話ができそうです 私の講演の 良し悪しは 聴衆によります 私ではありません 聴衆は仏陀だからです

聴衆が「よし」と言えば これは仏陀が「よし」と いうのと同じです

中国語では 「人間の意思は 神の意思」と言います

これは 人々が支持するという ことは神が支持する という意味です

つまり 天が喜ぶという事です 人が 不快だと 天は喜びません どういう意味でしょう 釈迦牟尼仏は 「皆に仏性がある」と 言いました これは 内面の仏陀が 賛同するという意味で 凡夫が賛同する わけではありません 内面にある 無上の智慧が 認めるという 意味です あるいは私たちは イエスもまた私達は皆 神の子だと言ったと 聞いています そうですね(はい) 私達が神の子だと すると きっと神の品性や 神のパワー神の 智慧があるはずです

または神の財産など ですから人間は 凡夫ではありません 私達は凡夫と呼ばれ それに 慣れています そこで自分は本当に 凡夫だと思いこみ 何でもないと思います 実際私達は特別です 何でもないとしたら なぜイエスは私達は 皆神の子だと 言ったのでしょうか なぜ老子はすべての 衆生は一つだと 言ったのでしょうか これは 私達は天と 同じで 天は私達と 同じだという意味です

これは 私達は決して 凡夫ではなく 何でもないのではなく 何かあるという事です ただその「何か」を 分かっていない だけです

今日私は最善を尽くし この「何か」を 皆が理解できる何かに したいと思います いいですか(はい) 宇宙の実態は沢山の 形で存在しています 人間だけではなく 動物も 樹も岩もあります そして 多種多様な動物と 人間もいます  またすべての衆生は 一つだと言います どこが 同じなのでしょう なぜすべての衆生は 仏性を持っていると いうのでしょう なぜすべての衆生は 神が生み出したと いうのでしょうか 神から生まれたなら 神に似ているという ことです

そこで聖書に 神は自身の姿に人間を 創造したとあります これは 神は自分と同じ姿で 人間を創造し 私達の内面も神と同じ だということです この同一の物は目に 見えるものではなく 時々 感じることができます ですから誰でも 内面に智慧を持って いることが分かります 似たような事をし 考え方も似ています 皆この神の品性を 持っています 仏教ではこれを 本来の面目 仏性または 大智慧と言います この大智慧は 頭脳ではありません 頭脳はただ大智慧の 指示を受けて 機能しているだけです

大智慧なしに 頭脳は 機能できません だから 人は死んだら そこに横たわっていて 脳も神経も そのままですが 心臓も体も そのままですが 機能していません 考えられず 動けず 話すこともできません

要するに体は自分で 動くことができません これで分かるように 私達は体ではないです 多くの人が 死んでから 戻ってきて 家族の前に現れたり 夢の中で家族に 自分が 本当にいる場所とか 何をしているか どう過ごしているか 苦しいか苦しくないか 幸せか不幸せかなどを 話すと聞いています その戻ってきた人は 誰でしょうか それは仏性という ものではありません その人は仏性では ありません これで分かるように この肉体以外に 人間は別の形の体が あるということです

死んだら私達は 別の種類の体を着ます 今の体とは違います 同じく見えますが 質も 生地も 材料も違います 例えば家の場合 ある家は コンクリートで作られ ある家はレンガででき 鉄筋のものもあります

体の種類だと 肉でできた体もあり 肉は 金属と木と水と 火と土の複合物です ある種の体はこの 五種類を使いません 例えば 仏陀の体は ダイヤモンドのようで 壊れないと 聞いています 要するに彼らの体は ダイヤと水晶のように 永遠に壊れません そして老子も自分は 不滅でいることが できると言ったと 聞いています

老子は 霊修行者は永遠に 死なないと言います 私達は 釈迦が言った 言葉や 老子 イエスの言葉を 信じるべきです 彼らは世界的に有名で 霊修行者で 戒律を厳格に守り 決して うそをつきません 次に明白にしたいのは 老子が永遠に不滅だと 言ったのになぜ私達は 彼を見れないかです 老子はもう ここにいません 彼の弟子ももう ここにはいません 一体何の意味でしょう 不滅それとも 必滅でしょうか (不滅です) 不滅です なぜ見えないか 自問してみて下さい (霊体です)そうです

彼は別の形の 体になったのです それは宇宙のすべての 物質は皆それ自身の 機能と寿命を持って いるからです あるものは長生きし あるものは 寿命が短いです 私達のこの肉体は 寿命が短いです これは 金属 木 水 火 土でできたからで 破壊されるものです

しかし 生まれることもなく 死することもなく 決して壊れない 体があります 老子が語った 不滅に関することは 即ちこの種の 体のことです さっき私は 死んだ人が夢に出る 話をしました 彼らは見た目は 肉体と似ていますが 人は彼らを 掴むことができません 彼らの体は 透明に見えて そこにあるようで しかしないのです それは彼らの 体の形態は物質の 体と違うからです しかしそれも 一種の体です 人間はこのような体を 沢山持っています この肉体は 最も粗くて簡単に 目に見えるものです

後にこの肉体を 離れると また別の体を着ます 内面にはまだまだ 別の体があります この肉体を 離れても まだ第二 第三の体があり これらの体を離れても まだまだ 第四 第五の体があり 最後には それ以上ありません 目に見えない 掴むこともできない 体さえないのです その時にはじめて 不滅になります 体があると 必ず破壊されます 体を持ったものは皆 早かれ遅かれ 破壊されます どんなに頑丈でもです 人は近頃ダイヤも 壊すことができ 別の物で磨いたり 光沢を持たせ 切って形にします

金だって 火で溶かすと 液体に変わります どんな物でも 形と相を持つものは 必ず破壊されます ですから 私達は肉体で 不滅になることは できません イエスは 死後三日目に復活し それから 天に昇りました 彼は天に昇ったと 聞いていますが 彼に関する別の話では 彼は百二十歳まで生き カシミールに行って 真理を伝えた とのことです 彼の死後人は彼を そこに埋めたそうです 私は彼の墓地を訪れ ましたら 彼の名前が 書いてありました ただイエスではなく ユーズアサブと別の 言葉で書かれています

イエスとう意味で 碑文には 彼のこと即ち どこから来て 説教したかとか 命日が書かれています 二つとも信じることが できます もしかしたら イエスは処刑された後 死んでいないか完全に 死んだのではなく 十字架にはりつけられ しばらくの間仮死した かもしれません 仮死とは何でしょう 時々 ヨガ行者は呼吸しない 法門を修行して 何日も呼吸を 止めます 死んでいるようですが 死んでいません 時間になって 人が揺すり起こすと 生き返ります その後イエスは 再び弟子たちの前に 現れました

その後安全なインドに 避難しのでしょう こういう可能性も あり得ます 彼の弟子達がそこに 連れて行ったか 復活後天に昇ったかも しれません 両方可能性があります イエスのような 偉大な人はやりたい 事は何でもできます 私達とは違います

私達は自由ではなく 彼らはパワーに満ち 無数に変化でき 数え切れないほどの 化身があり どこにでも遍在し どこにでも行きたい 所に行きやりたい事は 何でもできます

生きるも死ぬも自由で 彼らにとって簡単です なので両方可能です というのはイエスは インドで十年以上 いながら多くの秘法を 習っています 仏教には八万四千の 法があると言います 彼はインドで多くの 私達が聞いた事のない ヨガ法を習っています ヒマラヤには 多くの人が 秘法を修行しています それは私達が 聞いたこともなく 体験することも 修行することも できない秘法です 私がそこに行った時 この目で彼らが 多くの秘法を習って いるのを見ました その秘法が 究極か否かは 言えません

ただ彼らは大きな 神通力があります それが究極か 否かは別として その秘法は 実に人を当惑させ 驚かせ目を見晴らせる ものがあります この二十世紀に いまだに 古代神話に 出てくるような 神通力を持った 修行者がいることが 分かります それは見事です これは同時に私達に 希望をもたせます つまりこの世界には 物質で充満し お金を稼ぎ酒食遊楽を 楽しむ人間ばかりでは ない事が分かります 仙人もいれば 修行者もいて これは私達の心を 穏やかにしてくれます 私は多くのヨガ行者が ヒマラヤの大変高い 所にいるのを見ました

大変高い所です そこは一年中 雪に覆われていて 決して完全に溶ける ことはありません 彼らは服を着ていなく ただ腰に布切れで 下部の回りを包みます

こんな感じで 下に包みます 古代山の中の人々の ようにです 彼らはこのように 歩きます 訪問者の方は 厚い服をきていても 震えているのに 彼らはこのように 歩き回ります 体は 血色がよく丈夫です 靴も履かずに歩きます ヒマラヤでは靴を 買うのは大変不便です 彼らはそこに大分 長く住んでいて 山を下りて靴を 買いたいと思いません 彼らはこのように 歩き回ります 彼らの体は血色がよく とてもきれいです いずれも男性で丈夫で(たくましい) そうです 歩き回っているのを 人は羨ましがります

彼らはガンジス川に 行って沐浴し それから家へ帰ります 周りに誰もいないかの ように平気で 気にしません 人々は彼らを見つめて 目で彼らを 追いますが 彼らは気にしません 慣れています 元々誰もそんな所には 行かなかったのです 夏の季節だけ 信者達が山々を 敬って来たのです ここと同じで 彼らは 山を敬い 巡礼をします 私が思うに彼らは 山を邪魔し過ぎて 山が震えています それらのヨギは 年中修行しています 冬も夏も 同じです 彼らは服もなく 山を離れません 野生の植物を食べます

何も食べない人もいて これらの人を 気食者と呼びます 私達菜食者は 菜食料理を食べます 彼らは空気を食べます 彼らは気食する 人たちです そうです 気を取るのではなく 気を食べます そうです ですから彼らは物を あまり必要としません そこに住むしかなく そこから出てくると 状況は異なります 非常に純粋な環境から 空気が汚染された 私達の社会にくると 命を落として しまいます 痩せていき 寒さを感じます 山ではあまり 空腹感を感じませんが 下りてくると 空腹を感じます

私もそのような 体験があります 時々 私は自分のテントや 家にいると お腹が空きません または一日一回だけ 空腹を感じます しかし外に出ると 餓鬼達が全部ついて くる感じです 放浪している餓鬼も 私に食べ物を請うので 食べるしかありません 彼らは 肉体がないので 食べられません

私達はこの社会で 時々 汚染された空気と 環境に影響されて 私達は別人のように なってしまいます 私達の考えも 変わってしまい 私達は墨子が言った 人間は本々善良だと いう事も忘れました 彼の言う意味は釈迦が 言ったのと同じです  全ての衆生は仏性が あるということです

善良だとう意味です またイエスも同じ ことを言っています 私達は皆 神の子だと 神の子供の心 または仏性は 「道」であり いわば 「人間の性は 善良なり」であり 私達の本性であり 真我なのです 私達は毎日 外を見るのに忙しくて 真我を忘れて いるのです そうでなければ 私達は皆仏陀なのです これを覚えているほど 仏陀に近く 仏陀に近く 忘れていればいるほど 仏陀から遠いのです この世界は もともと私達が道徳と 苦難を通して学び 選択して目覚めさせ 内面を見るようにする ために創造されました

しかし時には私達は 目覚めません 時に忙しすぎるか 外のことに魅了されて 内面の真我を 忘れたからです 真我は何も 必要としません しかし沢山与えます 修行した後 この真我を見つける ことができます すると私達は智慧と 神通力と 絶対的な自由を得ます 神通力とは決して フーラーホッと言って するものではなく 優雅で全能な パワーのことを 言います やりたい事は 何でもでき どこにでも行きたい 所に行けます しかしこの絶対的な 自由を得るためには 肉体を使うことは できません

この肉体の中では 自由ではありません 肉体をおいて 内面の真我と共に出て 行かねばなりません これが 神の王国 または「道」 仏性というものです 分かりましたか (はい)