修行した後 この真我を見つける ことができます すると私達は智慧と 神通力と 絶対的な自由を得ます 神通力とは決して フラフープと言って するものではなく 優雅で全能な パワーのことを 言います やりたい事は 何でもでき どこにでも行きたい 所に行けます しかしこの絶対的な 自由を得るためには 肉体を使うことは できません

この肉体の中では 自由ではありません 肉体をおいて 内面の真我と共に出て 行かねばなりません これが 神の王国 または「道」 仏性というものです

今何をすべきでしょう どうしたらできますか とても簡単です 方法があります 例えば 私達が初めて ある家に行った時 ドアがどこにあるか 分かりません しかし 知っている人がいると 教えてもらえます ここからは 海に出られて ここからは 町に出られるとか このドアからは 浴室に入れるなどです 私達が浴室を 使うとしたらもちろん その方向に行き 海を見たいとしたら その方向に行きます 私達は毎日 沢山のドアを使います 例えば このドアからは 外を見て 外の世界と 人生がいかに 素晴らしいか判断する ことができます このドアを通して 世界の美しい声を 聴くこともでき この「ドア」を通して この世界の樹木の 香りを体験することが できます

私達の真我が この「ドア」を 世界の良し悪しを 体験するのに用います ですから死ぬとき ドアが全て閉まります もうそれを使いません 誰も使いません 口に食べ物を 運んでも 味も分かりません 目を開けて 美しい女の子を 見せてあげても 何の反応もありません

なぜなら 主人がいないからです 主人がいる時だけ それらの道具を 利用して 物事を体験します ですから私達は この肉体は善悪を 識別する人ではない ことを知るべきです 私達に 真我を出て来させる 方法があるとしたら 自由になります それ以上ここに 縛りつけられません 死んだ時も 同様で 大分自由です しかしその時は その自由を使うことが できません なぜなら別の習慣に 連れ去られたからです 仏教ではその習慣を カルマ(報い)といい 私達は自由に 飛ぶことの できない所に 連れていかれます 元々死ぬときは 自由なはずです

体を離れたからです 体の中に拘束され 閉じ込められて いないのです 自由なはずです これは私達が 生きているとき 準備しなかった からです 良い方法を 学んでいないからです あまりよくない 法門を学んで 海に出る道が 分からず 浴室に行く道しか 分からないのです

そこで一日中 その道を行ったり 来たりしています それだけです 私達が生きている間 他に別のドアがあって そのドアから この世界だけを見たり 聞くのではなく ` 別の世界を見たり 聞いたりできると 分かっていれば 死んでからそこに 行くことができます それを 練習したからです 私達が この世界で すでに世俗的なことを 楽しむことを練習し 外の世界ばかり見て いるのと同じです それで私達は死ぬ時 同じ習慣を持って死に そして同じような体を 見つけて戻りたがり 引き続き外の世界を 見たり聞いたりします この世界で 走り回るだけです

ですから私達には 選択する力があります この内面の真我は 元々この世界の 良し悪しや 苦楽を体験するために 来ていて 後で家に 戻らねばなりません 最後にここに来てから 家に戻ることを 忘れてしまったのです ここであらゆる 世俗的な 楽しみ即ち良し悪しや 苦楽を体験してから ここで道に迷い 他に道があることを 知りません ですから私達に一つの 方法があってこれで 別の世界を体験する ことができます そして今生でそこへ 見に行くことが できます 禅宗の話の中に ある人が自分の体験を 書き記しました 彼は カーテンを開けると 朝が見えると言います

後に ある人がマスターに その意味を聞きました その意味は私達の 内面にはカーテンが あり開けることができ そこから別の境界を 見ることができます この境界は 夜明けに似ていて これは私達が 暗い部屋にいて カーテンをあげると 外に夜明けを見る ことができ 他の境界を見れます それは朝と夜のような 違いがあります ただこれには やや努力が必要であり これを何とかして 探さねばなりません 道は沢山あります 私達は沢山の法門を 聞いています そしてすでに 仏教やカトリック 道教やイスラム教 キリスト教などを 色々なと信じています

なのになぜどんな 法門を修行したら いいか聞くのでしょう それらの宗教は 良くないのでしょうか とてもいいです 私はそれらの 宗教から来ています これらの宗教なしでは 私は目覚めることが できなかったでしょう ただ様々なレベルが あります 私達が 小さいときには 小学校で勉強し 成長すると 高校や大学で 勉強するのと同じです そして博士になり 弁護士や医者などに なります 高校で立ち止っては いけません 決して高校や 小学校がよくないと いうのではありません ただそれは 基礎段階なので そこで止まらないで 続けて上がるべきです

立ち止まっても いいですが レベルが高くなく 違った智慧を体験 することができません 人間の身で 満足しているとしたら それも結構ですが その宗教の戒律を はっきり知らなければ なりません 例えば 仏教を信じるとします すると少なくとも 五戒を守るべきです 即ち殺生せず 盗まず 邪淫せず 嘘を言わず 飲酒せず 賭博せず 麻薬を使わない事です 同じように カトリック教徒は 十戒を厳格に 守らなければ なりません 「殺生しない」とは 菜食をすることが 含まれています

自分で殺さなくても 私達が肉を食べると 人は殺して私達が 食べるように売ります これを「間接的な 殺生」といいます 殆んどの宗教は菜食を 強調していません なぜなら 菜食をしなくても 修行して境界を見たり 神通力を得て楽しむ ことができるからです しかし彼らは それが大したことでは ないことを知りません

後で 肉体が死んだ時は それら超能力は何の 助けにもなりません 釈迦牟尼仏の 弟子の一人である 目けん連は あらゆる神通力を 持っていました 空を飛び 地下を旅し 地獄を訪ね 天国に行けます 天国は 仏土ではありません 彼はまだ仏陀の国には 行けません しかし彼が人に 殺されそうになった時 神通力は彼を 助けられず 彼の命を 救うことができません なぜなら いつも私達より 更にすごい神通力を 持っている人が いるからです その上神通力は 私達の運命を 変えたり 救ったり 不滅にすることは できません

不死の境界に至るには たった一つの方法しか ありません  それが観音法門です 他の法門を 修行すると 神通力を得て 色々なものを作り出し 風や雨を降らす ことができ パワーを得ます しかし私達を不滅に することはできません 不滅を得ると この世界を離れるとき 私達は この無常な肉体を 捨てた後 別の体を借りて 別の世界に住み 永遠に死にません なぜなら ある世界は永遠に 破壊されないからです その世界の 住民は 生まれもせず 死ぬこともありません

地球の人間は 生まれて死にます ある世界は 生まれて死ぬ 体験をしません 私達に道が分かれば そこに行って 見ることができます そしてそこに移住する こともできます そこは不滅の 永遠の地です そこに行く道は 観音法門です これが道です

すべての宗教に 無数の法門が あります 余りにも多くの法門と 宗派があって全部理解 する事はできません 人間はどれだけ 勉強できるでしょうか

きっと私達に 以前習ったことのない ものを教えてくれる 人がいます そうではありませんか (そうです) 言葉でさえ 私達はたった数ヶ国語 しかできません 例えば 英語 ドイツ語 フランス語などです 私達が聞いたことも ない言葉も 沢山あります 例えばアフリカの 部族の言語です 私はフォルモサ語 (台湾語)も うまく話せず 四文を習っただけでも 容易ではありません

言葉も 無数にあり 法門は沢山あります 仏教には八万四千種の 法門があると 言われています 各法門はそれなりの 作用があります 各法門はある種の 生き物が習うのに 適しています

悪い法門はありません ただ私達が 究極の解脱と 永遠に生きる境地 成仏し 偉大なパワーを得て 最高の悟りを 求めるとしたら 観音法門を 修行せねばなりません 私達がまだ 生死の輪廻からの 解脱や 大智慧を得て 仏陀になって衆生を 救いたいと 思わないなら 観音法門を 修行すべきでは ありません これは認めるべきです ただその宗教について 知らないからといって それは 間違った法門だと 言ってはいけません 私達には知らない事が 沢山あります そうですね(はい)

私がインド行った時 又はインドに行く前に 私は多くの ラマ僧に従って 仏教の中の 密教を習いました 例えば最初に 私に受戒してくれた マスターはラマ僧で 彼の名前は ゲシナワンダルジェ 彼を知っていますか (いいえ) 彼はとても有名で ダライラマと同じ マスターでした

インドのダラムサラで もっぱら 外国人に 仏教を教えています また彼は阿弥陀経や 世に伝承された 経典などを教えます その他に彼は 私が受戒する前に 呪文を教えてくれて 私が受戒をする前に 長い間この呪文を 唱えるよう 教えてくれました 受戒するために 特別にこの呪文を 教えたのです 戒律の本を読めば 分かると思います 分かると思います 別に神秘的でもなく 皆が知っています 新店で 私の誕生日を祝う時 私はその呪文を 教えました 覚えていますか まあ いいでしょう

彼はこれを書きとめて 人に教えてはいけない と言いつけました とても厳格です この呪文は 仏典に書いてあります すでに書かれていても 人に教えたり 書きとめたりしない よう言いつけています 私は書きとめたかった のです 理解できない 事を心配したからです すると彼は不機嫌です 何も言わずに 身振りで言います

言葉は通じなくても 私は彼の身振りの 意味が分かりました 彼の運転手が私に それを書き止めたり 人に教えてはいけない と言ってくれました 受戒する人にとっては それは普通の呪文です 皆が知っています 私がオゥラック (ベトナム)にいた時 すでにそれを習って 数千回も唱えています 私は彼の所に行った時 誰にも言わず新しい 物のように習いました 私はよく分かります 彼は正しいのです 呪文は口で唱えると 効果があると いうものでは ありません 私達のマスターが 伝えたから 効果があります 

呪文の秘密のパワーを 彼が起動させたから 私達に伝授したとき 効果があるのです 他の誰かが それを伝授しても 効果はありません

言っておきますが どんな法門でも 公にできるという ものではありません 分かりますか (はい) 秘密の法門を 伝授する人は 私だけではありません ラマ僧の誰一人として 彼らの法門を人に 伝えたりはしません 彼らについて習う事が できても他人に 伝えてはいけません 皆がこれを知っていて 密教の修行者なら皆 知っていることです そうですね(はい) また ダライラマも オムマニペメフムを 教える時人に伝えては いけないとしています そうです それから教えます それぞれのラマ僧に 異なる法門を教えます こういうことです

すべてのラマ僧が 受戒する時全員に同じ 法門を伝えるのでは ありません 偉大なマントラは 例えばダライラマの ような人にしか 伝えられません または一人か二人の 高僧のラマだけが 教えることができます 他の人はできません 大変不思議です これを知って いますか(はい) もちろんある人は知り 密教を習ったことの ある人は知っています または密教の ラマ僧に聞けば これを教えてくれます 仏教は何でも公開して いると言わないこと それはできないのです

一般の経典は 公開できても 偉大な経典は 大っぴらにできません 普通の経典さえ 仏陀はそれを人に 伝えるとき 気をつけるよう 指示しています 人々がそれを軽視 しないようにです こんな事がありました 私が受戒する前に ドイツでオゥラック (ベトナム)人の 女性法師に習いました 彼女は薬師仏経を 読んでいました 私はそれが気に入って 見せて下さいと というと彼女は そんな気軽に見せる ものではないといい 読ませて もらえませんでした 私は跪いて真摯に お願いしたら 読ませてもらえました その経典を読んでから 私はそれを暗誦し 暗記しました 

私は「これは短か過ぎて いいのはないですか」 彼女はそれ以上教えて くれません あなたはレベルが 低過ぎるので別の 経典を教えることが できないと言います 彼女は阿弥陀経を 暗誦できます 私に クンディマントラさえ 教えたがりません 私は以前習いましたが 彼女はそれを 秘密だと思い 教えようとしません 彼女が読み上げた時 私はそれを知っている と言いました 要するに仏教の すべての経典が または教えが全部 普通の人に知られて いるのではありません そうとは限りません 仏教の信徒達は皆 三蔵経を 読んでいますか いいえ 名前さえ聞いたことが ないです  読んだはずありません

ですから 多くの出家修行者も これを知らないで 議論ばかりし他人を 誹謗したりします

出家すると多くの 功徳がありますが 人を誹謗すると カルマ(報い)も 多いです 相殺して 何もなくなります ですから霊修行は 簡単ではありません 身 口 意を 清浄に保つことは 容易ではありません

その日私達が一緒に 食事をしていたとき 私が帰依していた その女性のマスターの 息子が私を 叱るのでした 彼女は私に経典を 読ませてくれません 拒否するわけではなく 私にテストしたのです 彼女は私が 初心者だと思っていて 沢山習う必要がないと 思ったのです

彼女も故意に私を テストしたのではなく ただ私が 無知でまだ子供で 若いと思ったので 沢山読ませる必要が ないと思ったのです しかし彼女の息子が 私を叱るのです 食事しているとき 私が寺院の慣習に 反した事をしたのかも しれません 彼は私を 厳しく叱りました 彼は同じ事を 何回も繰り返し 叱るのでした テープを流したように また阿弥陀仏を 唱えるように 繰り返し 私を叱るのでした 私は申し訳なく思い 私の無知を許し下さい ごめんなさい本当に ごめんなさいといい 私達は各自自分の 「呪文」を唱えました

彼は私の過ちを 唱えて 私はごめんなさい ごめんなさいと唱え 最後に 私の女性のマスターは この様子をみて まあ いいでしょう 彼女に法華経を読ませ なさいと言いました 私は「なぜ 今は簡単に許して もらえるのですか お願いしても 断ったでしょう どうして今教えて 下さるのか」と聞くと 彼女は 「昨日あなたに 薬師仏経を 読ませたので 今日あなたは叱られた あなたはテストされた 経典を読むと カルマ(報い)が 消される」 と言いました それが 彼女が思ったことです

「息子はまだ若く あなたから利益を 得たのにあなたを叱り あなたは反応しない それはあなたが 霊修行に適している ことを示しているので 法華経を読ませても いいということです 彼女は法華経を とても重要視し 私に読ませて くれませんでした ですから殆どの人は 正しい概念がないです 公に 公開したものが いいと思うのです そうとは限りません 安く売ると 人は 大事にしません そうですね(はい)私達はまだ禅物語を 覚えていますね 達磨大師が インドからきて 禅の始祖と なりました 彼の後継者は慧可です 彼が達磨大師に 法の伝授を懇願した時 慧可は外で雪の中で 三日間跪いていました

マスターは無視します 慧可が自分の腕を切り 落としてマスターに 差し出すまでです 彼のマスターは 慧可に強い求道心が あるのを知り 彼に法を伝授しました このように仏教でさえ 完全に公開した わけではありません 私達は誤解しています 不用意に発言し 結果を 意識していません 注意しないと 私達は自分の 身 口 意を清浄に 保つことに失敗します

それは 多くの トラブルを招きます 仏陀の重大な教えは 言うまでもなく 私達は多くの 非宗教的なものさえ 理解できません

しかし この観音法門も 公開されています 興味を持つ人に 公開されています 人々が興味を 持たなければ それを 公にしてはなりません 私達は 市場で 拡声器で私達の法門を 公にする義務は ありませんね そうする義務が ありますか(いいえ)

そうです 人々を強制しては いけません 誰でも学びたい人には 「いいですよ 来て 下さい 教えますよ」

誰でも 学びたい人には 私は常に教えました

それは 私が公然と 伝えるという意味です しかし この法門を伝えるため 私は完全に 明らかに しなければなりません

ただ断片を教えれば 人々に有害です それで私は言います 「公開しません」 望むなら 最初から最後まで その全てを学びなさい それで 少しの 危険もありません 霊修行は 非常に危険です 半分だけ学べれば それを理解せず 誤って唱えれば

取り付かれる可能性が 誰に責任がありますか

たとえ世間のことを 少し学びたいとしても 忍耐強くて先生に 従わねばなりません

英語の学習も 同じですが 数カ月または 数年だけ経てば  少しの結果があります 少しでも結果を得る ために先生の方法と 指示に従わなければ なりません でもたった一日や二日 修行して宇宙の全ての 秘密を知りたいなら それはあまりに ひどすぎます 彼らが理解しないと マスターを非難し 中傷さえします それは さらに悪いです ですからこの世では 教えるのは難しいです そういうわけで 釈迦牟尼仏は 仏陀になった後 出掛けて説教したく なかったのです  

人々を済度したく なかったのです 反対に隠れたかった それから梵天は 人間の形で下り 完全に盲目にならない 人々を解脱させる ように頼みました 梵天が同意する前に 三回 彼に懇願しました さもなければ 彼は教えません 私は彼を非難しません 元々 私も何も教えたく ありませんでした 観音菩薩が 私に教えるように 言ったのです 皆さんは口数が多い 観音菩薩に 感謝すべきです さあ 私は この素晴らしい法門を 膨湖の同胞にも 提供したいです 願えば公然と学びに 来ることができます

霊修行において 自分だけが自分を 救うことができるので 私達は勇気と判断を もつ必要があります あなたの親戚 友人 両親と聖職者は あなたを救うことが できません 自身を救うため方法を  知る必要があります 聞いたことですが 聖書か仏陀の名を 唱えるか 他のものを唱えるか 若干の良い行為をする 事によって  死んだ後天国に行ける 福報を得ますが それは頼りにならない 現在天国を 認識できなければ 死後 どのように 盲目的に行けますか 天国への方法があり 今教えられます 皆さんはそこが好きか どうか見に行けます 

皆さんは 仏土に行けます ありがとうございます 皆さんは 仏土が好きかどうか 見に行けます そこが好きな場合だけ 留まります さもなければ やめて帰ります とりあえずこの選択の 力を持つべきですね

そして そこがいいか どうか 検討できます それはよりよい方法で 私達は仏土が非常に

素晴しいと聞いても まだ発見していなく その場所は好みに 合わないかもしれない ではあまりに遅いです 天国へ行きたければ すぐに行って下さい そして 再び 人間に戻る機会が まだあります  天国が好きなら そこに行けます 好きでなければ 「気にしない」と言え これこそが 観音法門です

マスター 私が最初に 仏門に入った時の マスターに僧になった 息子さんがいました その時 彼は私に仏教聖典の 本をくれました 家で 最初から最後まで 僧侶の戒律も含み 丸々読みました 後で私は 在家者にとって 僧侶の戒律を読むのは 重い罪と聞きました 私はこれが本当か どうか気になります 私はまだこの本を 持っていますが その本をどうすれば いいか分かりません マスター 教えて頂けますか その理由ですが 私が 自分を含め 皆に 受戒に行った時 戒律を在家者に 漏らしてはならないと 既に知っていました

なぜなら在家者は 出家やあるいは 世俗の束縛から 解放されるための 決意または 一切を放棄する 切望がないからです 私達が一切を棄てないなら 多くの戒律が恐ろしく 聞こえ 私達は怖く なるかもしれませんし 出家者になりたいと 思わないでしょう これが最初の点です 第二の点は 見下すことです 第三の点は 無明 貴重ではないと 感じることです ですから在家者は 僧侶の戒律を読まない ほうがいいです ですが ご自分にそんな考えが ないのなら きっと大丈夫でしょう 恐らくあなたの マスターはあなたが 僧になると思ったので 用意したのでしょう

マスターは 思い違いをされて あなたにあげたのです そうでないなら 僧侶は そう簡単に在家者に 戒律を読ませません 私はそんなことは 聞いたことありません 恐らく 誤解でしょう その本がいらないなら 返せばいいのです そして「僧になりたく ない」と伝えるのです マスター観音法門とは 実際はどんなものです 学びたいなら お教えします 数時間かかりますので 数分間では 説明できません 大まかな案を お話できます この観音法門を 修行することで 私達は 仏陀の光と音に 繋がれるのです

その活用とは 何代にもわたって蓄積された 私達の悪いカルマ (報い)を浄化し 私達が菩薩に 到達したり 仏陀に なるのを助けます 私達の力は修行により 成長します 私達は自分自身と 五代 六代 七代 九代を解脱させる ことができます 私達が望むのなら 世界全体を 助けることが可能です そう これが 観音法門です ですが私には この法門を 伝えるのは 数時間かかります 快適な席の 静かな場所が必要です それだけです

ですのでここでは お話しできません

世界保健機関によると 二〇〇九年豚インフル エンザ流行行は 史上かつてない速さで 広まる流行病でした

インフルエンザ世界的 流行病の科学的基準は 満たされた 私は従ってフェーズ5 から6にインフル 世界的流行病警報値を 上げることに決めた 世界は今 二〇〇九 インフル世界的流行病 スタート地点にいます