もう一度聖書を 読み返すと  たぶんレビ記ですが 生け贄と贖罪祭の 記載があります 当時神を供養する 儀式は実に野蛮な事が わかります 知性のある人は 受け入れられません

私達が罪を犯した時 それを自白し 生け贄を捧げると 罪を洗い 流せるとしたら それは良過ぎます そうなると 「蒔いた種を刈る」 という法則は 冒涜され  真理でなくなります 従って 罪を洗い流す 論理的な方法は イエスが 指摘したように 懺悔と真の洗礼を もってすることです 真の洗礼をしてこそ 神と連結でき それで 光を見ることができ 神の声を聴けて 神の愛と加護を感じる ことができます さもないと外面に 頼っては 私達が苦しむ 本当の原因が 分かりません

これは神の定めた 法に 反すると思います 「殺してはいけない」 盗んではいけない 人の財産と妻を 熱望してはいけない」 などです だから神はどうやって 説明しますか 生け贄や 贖罪祭について これは神が定めた 規則ではありません 人々の無知によって 神を冒涜し 神に泥を塗りつけて 神を怪物のように したのです これは恐ろしい罪です 他の罪よりも重いです 彼らの行為と 言論は神の名に 泥を塗ったのです そしてこれを 「宗教」と呼び 「美徳」と呼びます あり得るでしょうか

彼らは ローストビーフや豚 家畜など色々な物で 神の機嫌がとれると 思い込んでいます ほとんどの いわゆる非論理的な 迷信は当時の聖職者らが 発明したものです 民衆の純真さと 無知を利用して 彼らを統制し 利益を得たわけです それは誰に取っても よくないのです 私達を暗闇の中に 閉じ込めるからです

イエスは常に人々に 偉大な神 唯一の神  愛に満ちた神 大智慧である神を 信じるよう忠告し 決して人々の前に その種の血を好む神 人をゆする神で 現れてはいません またイエスは人々に 真理を識別する方法も 教えています それで 自分自身に頼れます 道徳を修行することで 神に近づき 自身の内面の神を 知ることができます そして真の洗礼の システムを通して 彼に追随する人々を 神と繋ぎます もちろん訪ねてきた人 全員に洗礼を施した わけではありませんが かなり多いです

洗礼を受けるために 来たのではない人も 彼の偉大な教理と 模範的な振る舞いの 影響で大きく開悟し 智慧も 啓蒙されました そして少なくとも 今日まで続いています ある人々は 迷信から 遠ざかっています 一部の人々です 私達がただ イエスと仏陀の 外面的な教義だけ 分かっていても 内面の体験がなく 内面で万能の神の 力と繋がっていないと 余り役立ちません 役立つとしても 大きくはありません なぜなら内面に 真理と道徳を 固く守るための 支えてくれる強い パワーがないからです そうでないとなぜ 洗練者ヨハネがいて イエスが洗礼を受ける 必要があったでしょう

彼らが演壇に上がって 一言や二言 話をするだけで 十分なはずです 実際それで 十分なのです なぜなら神の選んだ マスターには無限の パワーがあるからです 彼のパワーは 宇宙を包むこともでき そのマスターの名を 真摯に唱えるだけで 解脱できます そのマスターが 存命であればです なぜなら 彼の磁場が 私達の回りにあるので 守ってくれるからです だから私達には イエスの名や 仏陀の名を唱える 伝統がある わけです これはマスターが 存命の時に 古代から伝わった 伝統です なぜならマスターが 存命の時は彼の名を 唱えるだけで 解脱でき 加護を受け 身 口 意の 病気を癒す ことができます

でも 断っておきたいのは 誰もが治るのではなく 信じる心次第です 「汝の信心が 治した」のです それである女性が イエスの服に触れた時 彼女の病気は すぐ治りました イエスは「汝の信心が 治した」と言いました イエスに会いに行く 人は誰もが信心深い わけではありません ですから聖書に 「汝の天なる父に祈り きっと与えられ 叶えられると信じよ」 とあります なぜイエスは洗礼を 施したのでしょうか 彼が存命の時 彼の磁場と 彼の人格と 彼の道徳で十分人々を 浄化できるはずです

彼は人々が やみくもに彼を信じて 欲しくなかったのです マスター達は皆同じで 仏陀も私が言ったこと でも確かめてから 信じよと言いました 偉大なマスター達は 皆に自身でマスターに なって欲しいのです しかも今生で 神と繋がって ほしいのです 死ぬ時まで待って 神を見るのでは ないのです イエスも仏陀も 人々に自身が マスターになって 多くの教えを広めて 智慧を伝承して 欲しいのです この世代だけが 彼の加護を頂き 解脱するのでなく 後世の人々もそう なって欲しいのです

というのは 洗礼を受ける時点で 神との連結が 確保され あなたは マスターの道 仏陀の道キリストの 道を歩んでいて 自身がマスターに なります いつかはキリストや 仏陀のような 智慧を持ちます ただ真の洗礼で なければなりません 真の洗礼のことです 真の洗礼を受ける時 神の光を見て 神の声を聴き 神を見ることを 保証され 智慧に満ちた マスターの地位が 確保されます よってあなたは 霊修行団体の 核心部に加わり その智慧とパワーは 地球上で 最も賢い人にも勝り キリストや仏陀の 輪の一員になります だからイエスは懺悔と 真の洗礼を強調した わけです

水での洗礼ではなく 聖霊によって 光と精霊で行います それは神の光を見て 神の聖霊と繋がる ことを意味します 分かりますか その他のいかなる 洗礼は皆 真の洗礼の 真似に過ぎず 私達を神と繋いでは くれません お金をかけても 繋がりません なのにお金をとります 真の洗礼は お金をとりません お金だけでなく 一輪のお花や 一本の線香や 一切れのパン 一羽の鶏さえも 何も必要としません 真の洗礼はどこででも できます  教会に限りません それは「神の教会」で 行います 「神の教会」とは この肉体のことです この肉体は 神聖な寺院で 神は永遠にその中に 宿っています

十分な智慧があって 開悟していれば 神を知る事ができます 私達もキリストの ようになります でないと内面の神を 知ることができません 全ての衆生の内面には 神が宿っています 罪人にも聖人にも 貧しき人 富める人 高い地位の人 下層階級の人にも 宿っています イエスと釈迦は開悟後 これを知ったのです 彼らは自分と 他の衆生は平等である ことがはっきり 分かっています そこで慈悲から 人々に大事な宝は 自身の中にあることを 伝えたいのです 自分の身分がどんなに 高貴であるか知らせ 人々を苦しみや 無明から 解脱させたいのです

私達が王子や 王女だとすると 自分の身分を 取り戻すべきです 一生虜や奴隷扱い されるべきでは ありません すべての経典で 言っているように 私達が神の子 だとしたら  イエスキリストと平等なはずです 彼は自分は 神の子だと言いました イエスを見てください 栄光に輝き智慧に満ち 慈悲深く 愛に満ちています 私達はどうでしょう 実際私達はまず イエスのようになる ことを渇望してこそ 自分は神の子だと 主張できるのです 実際に私達がすでに 神の子だとしても ただ若すぎるのと 無知であるため 分からないのです 従って私達はイエスの ようになることです

これが今回 私が訪れた目的です またご存知のように 弟子達の要請も あって来たわけです このような機会を得て 神からの任務を 果たすことができ 嬉しく光栄に存じます 皆さんに宇宙における 自分の地位を思い 起こして欲しいのです 残りの人生を 罪意識を持って生きる べきではありません 立ち上がるべきです 高貴で賢くあるべきで イエスがしたのと同じようにです それがイエスの慈悲に 報いることであり 彼が私達のために 堪え忍んだ苦難に 対する補償にもなり これこそが 彼が世界に文明を もたらすために自分を 犠牲にした事に対する 感謝の表れです

イエスだけでなく 私達は借りがあります 歴代の聖人や預言者達にも 恩恵を賜っています 私はイエス一人を 例にあげましたが あなたが信仰する 聖者に触れなかったら お許し下さい 全部の預言者のことを 話すと他の事を 話す時間が なくなります そうすると 聖者の名を唱える会に なってしまいます 仏教でこのような 修行法があります 皆集まって一緒に あらゆる仏陀の名を 唱えます これを中国語で 「念仏」と言います 時には三日間もかけて 唱えます というのは数千もの 仏陀がいるからです これに付き合うための 休暇が取れますか 真の洗礼は私達に 神の声を聴かせ 神の光を見せて くれます それは聖書で こう言っています 神の声は 雷の如く 水の音の如く ラッパの音のようだと 神の声と 繋がらないと 真の洗礼による 利益を確かめることが できません 懺悔による効果も

確かめられません 真の洗礼は 真似でやる洗礼とは 違います イエスが存命の時でも 多くの人が彼を 真似したのです 偽りと不純な 動機を持ってです 彼らは名利が 欲しいのです これが真のマスターと 偽者のマスターの 違うところです ほとんどの人は 名利だけを求めます イエスと仏陀は決して ですから 崇高で 崇拝に値し 数世紀に渡って ずっと人々に 偲ばれています 彼らは内心を見つめ 純粋さを見つけ 聖なる道に 専念したのです ですからが 私達瞑想するとき 戒律を守らなければ ならないのです

必ず 戒律の真義を知って 自身を純粋で気高く 保つべきです でないと私達は 内面の最高の智慧を 開くことができません また神の最高の秘密を 永遠に知ることも できません ごく一部は知ることが できるかもしれません ですから ほとんどの修行者や 秘密の修行団体は 多くの誓約と 戒律があります 弟子達に確かに 分かってもらうことは 光の担い手としての 責務です また道義上果たすべき 責務です 彼らは弟子達を 心配しています 彼らが名利のために 教義を公にすることを ですからエッセネ派 同胞団が教義を 公にすることを 許しません

同胞団の仲間の エゴが膨らむのを 防ぐだけでなく 世俗の名利に誘惑され 堕落することを 防止するためです 一般の人々が この崇高な教義を 知るだけでなく 教義を知ってから 私利私欲のために 彼らを裏切り 神聖な教義を誹謗し 最高の智慧をゆがめて 個人のために利用し 世俗的な欲求を満たす ことを防ぐためです ですからイエスが 真理を説いてから 実際に多くの人が 彼と彼の名を 利用したのです 防ぐことは難しいです この種の虚偽的な 主張は実に多いです 多くの教派が自分は イエスの伝承者で 人に洗礼を施し 神聖な福音を説く 権利を主張します

これは避けられません 仏教も同じ 状況です

これが この世界の問題です ご清聴 ありがとう ございました

ありがとうございます