それでは温かい拍手で スプリームマスター チンハイを お迎えしましょう 牧師さんのようで とても美しいです ありがとうございます

本日は 市長に お越し頂いています 施市長もまた この会場に スプリームマスター チンハイの講義を 聞きに来られました それでは 温かい拍手で 施市長もお迎えして お話を頂戴しましょう どうぞステージへ では 温かい拍手で 施市長を お迎えしましょう

わが台南市を訪問の スプリームマスター チンハイを歓迎します 大変嬉しいです これだけ多くの市民が 幸せで平和な生活を 皆が送れるために 社会の浄化を 願っています この事で 私は大変 嬉しく思います 選挙の時 市長に 立候補していた時 スローガンを皆様は 覚えているはずです 「心の中に 神があり 愛があるべきだ」と 選挙活動の際 私も言いました 「心中に神がいてこそ 愛が持てる」と 今日 スプリーム マスターチンハイの 訪問は 台南市の 栄誉となります 都市が より平和で 調和したように なることを示します

皆様の貴重な時間を 取りませんので マスターチンハイに 再度感謝します 台南市と台南市民に 幸せで楽しい日々を 加護を与えて下さって お越し頂き 本当に感謝します ありがとうございます 大変お若い市長ですね 三十歳ですか 三十八歳です たった三十八歳 たった三十八歳で すでに市長です 素晴らしいです ありがとうございます 大変お忙しいのに この講義においで 下さいました 光栄です 阿弥陀仏 ありがとう ようこそ 施市長に感謝します そのような 心からの励ましを 与えて下さって マスター こんにちは 在席の皆様 今日は釈迦牟尼仏の 生誕日です

全国各地の寺院で 盛大にお祝いを 行っている中 私達はここで 真の仏陀と共にいます このような 意義深い日に 私達は 在世仏である スプリームマスター チンハイと共に いることができます とても特別です 釈迦牟尼仏は 楞厳経の中で 在世のマスターに 会うのは非常に難しい と言いました ですが今日 私達は出会いました 明らかにそれは 私達が累世 積んできた功徳だと 言えます またはマスターの 慈悲とも言えます 霊修行の際 必ず本当に開悟した マスターを探すべきで 道に到達したマスター 在世仏を 探すべきです でないと 一日二十四時間 瞑想し続けても 苦行を修行しても 大した結果は 得られません

印心したばかりの 修行仲間でさえ 多くの良い体験があり すべてを話すには 話が尽きません では 温かい拍手で ブラザーのお話を 伺いましょう 修行の心得と体験を 語ってくれます ブラザー どうぞ こんばんは マスター 尊敬すべき出家者 会場の皆さん 今晩 スプリームマスター チンハイの神聖な 講義に参加できて 光栄で有難く思います この機会を借りて 霊修行の上での 個人の体験を簡単に 分かち合います 仏教では 霊修行に 四つの困難があると 言われます 人間に生まれること その地に生まれる事 法(真の教え)に触れ 学べる地にです

また 開悟したマスターに 出会うことです 今 私達は 幸運にも 人間としてこの地に 誕生できましたが どのようにすれば 法(真の教え)に触れ 開悟したマスターに 出会えるのでしょうか 今夜 わずかですが 私個人の経験と 開悟したマスターを 認識する方法を 共有したいです およそ十二年前 機会があって 道教を交えた 仏教の本を読みました それ以来 取り付かれたように 仏教を学び 道教を探索しました しかし私の智慧が 開いていなかったため 頭脳のレベルに留まり 約二年間続きました

その後 秘奥な仏教の マスターから学び 瞑想も行い 約二年間でしたが 宝物に欠け 不正確な修行を 行っていました ほとんど悪霊に 取付かれたようでした 毎日 悪夢ばかりで 心身共に 大変苦しみました 幸運にも 理性を 失っていませんでした 当時 突然目覚めて 瞑想と修行を すぐに止めました その後 再び瞑想に 挑めませんでした ただ仏教経典を研究し 正しい道を 探したかったのです 仏教経典は 理解するには 難しいからです また 家族の一人が カルマ(報い)の病に遭ったため この時 再度 開悟したマスターを 探して 指導と助力を 求めたかったのです

それで他に 二人のマスターを探し 一人は秘奥な 仏教マスターで もう一人は公開の 仏教マスターでした カルマ(報い)を 取り除くため 公開の仏教マスターは 毎日 大悲咒を 唱えるよう教え 法華経を 観音菩薩の名を 普門品を唱えて 仏陀を拝むよう 教えました 長い間経た後でも 私は何も 得られませんでした その代わり 無形の重いものを 背負っている 感じがしました

約二年前 ふと屏東で 数語 書かれたポスターを 見かけました 「即刻開悟 一世で解脱」 このポスターに深く 引き付けられました 驚くほどポスターに 特別な加持力があり マスターの講義を 聞きに行くよう 私を導きました

マスターの講義を 聞いた後 二つの重点が 電撃のように 私の心を打ち その場で印心を 決意しました 印心は 私の 全人生を変えました 理由は二つ まずマスターの話では 弟子が瞑想の時 魔に取り付かれたら 弟子の間違いでなく 先生の過ちであり 守る力が足りない ためだと言いました 第二の重点は マスターには鍵があり 印心の後 即刻に開悟し 一世で解脱できると 保証しました 従って マスターの講義を 二回聞いた後 待ちきれず マスターに従い 屏東の山地門で その夜 印心を受けました それ以来 マスターは 私の人生を変え 私は生まれ変りました

この二年間 毎日マスターの 恩恵に感謝し 静かに修行して より自信を持って 仕事ができました いささか 困難も ありましたが 試練に向かいました けれど無常の人生に 真の永遠があり 辛い人生に 永遠の幸せがあると 体験できました 昔「布袋」という 僧侶がいて 実は菩薩であり 神聖な誓いを 果たすために この世界に下りたと 言われています 彼は常に 杖と布袋を持って よく唱えました 「この布袋を 朝も夜も抱えている それを下ろせば なんて楽だろう」と けれど彼が大衆の前に 姿を現すと 誰も彼を 認識できません

仏教では 朝晩の経典の朗読で こういった 一句もあります 「あらゆる仏陀を 知りたいなら 真の境界にいる 原初の本質を 熟考すべきである すべては心によって 造られる」 それもまた 仏陀を理解するには 彼の教理から 始めるべきだと 教えています ですが今 本当に 開悟したマスターが 私達の前にいても どのようにして 見分けますか 開悟したマスターを 見分けるには 外観からでは 内面の性質を 見るべきです

開悟したマスターは 嘘は言いません

開悟したマスターだけ 約束してくれます ここに七点 個人の修行体験による マスターの識別法を 皆さんの参考として 提供します 第一に 開悟したマスターは 必ず人々のカルマ (報い)を処理し 悪いカルマ(報い)を 断ってくれます 第二に 開悟したマスターなら 十分なパワーで 霊修行する間 弟子の安全を 守ってくれます 第三に 開悟したマスターなら 無限の化身があって 至る所に遍在し いつでもどこでも 祈れば応えてくれます 第四に 開悟したマスターから 印心を受けた後 即刻に開悟します 開悟したマスターは 一世で解脱できて 仏陀の境界に到達 することを保証します

開悟したマスターの 教理と伝授する法門は 古くからの マスターの教理や 経典に記載された 教えと一致します

開悟したマスターなら 身 口 意 (行動 言葉考え)を 浄化すること

生涯の菜食の持続 五戒を守る 日々の 瞑想を教えます このことから 古代の 修行する 多くのマスターは 霊修行しながら 世俗の楽しみを 享受するものは いないということが 分ります 第七に 開悟したマスターから 印心を受けた後 それに従って 修行すれば  内在の体験を すぐに得られます これらの体験は 経典に記載された ものと確認できます 瞑想した後 心身は非常に穏やかで 心地よく感じます 不快感はありません 以上が 個人的に マスターを認識する 方法です 観音法門を修行する 最大の目的は 開悟 解脱 成仏です

ですが霊修行の過程で 通常の人々が 理解し難いことを 私達は体験します 登山のように 目的地に達するまで 途中の道に美しい 景色が広がります こういったものは 自ら経験した人だけに しか分りません 今からさらに 少しの経験を 分かち合います まず 印心後 心身がとても リラックスして 幸せになります 私の経験上 マスターが 私の過去何世もの カルマ(報い)を除去してくださった ためです 第二に しばらく 修行を続ければ 明らかに感じます

一日でも 瞑想しなければ または不足すれば 心地悪くなります 従って マスターが 過去のカルマ (報い)を除去してくれたとしても 毎日の生活で 些細なカルマ(報い)が 残っているため 私達は自身で 浄化すべきです 瞑想した後の感覚は 言い表せず 天の甘露水により 洗われたようで 非常に爽快です 第三に よく聞かれることは 生まれてくる 悪い考えを 除去する方法です 私の経験上 頭脳に悪い考えが 現れた時はいつでも 他の考えが言います 最初の考えは 悪い考えで 仏陀からでなく 魔からの考えだと 私は常に 内面の 悪い考えに言います

その時 悪い考えと その後の考えも 両方消えます 悪い考えは 波を立てる 泡のようです 他の何かを加えれば すべてが静まります それで悪い考えは もはやありません それが私の感覚です マスターチンハイが 話したことを 証明するかのように 私達の中には二つの 品性があります 一つは 仏陀の品性 もう一つは  魔の品性です 二種のパワーがあって 肯定的なパワーと 否定的なパワーです 第四に 印心後 しばらく 修行を続ければ 生活は自然と 変わった気がします 例えば 前のように 落胆しません より自在で幸せです

楽しくないことを 簡単に探したり しません 少し面倒が起きても すぐに離れます さらには 多くのことを 気にしなくなりました 簡単に満足します どんな状況でも より簡単に 順応できます あまり苦しいとは 思わなくなります 外面の幸せもそれほど 執着しなくなりました 様々な人に対し 比較的 外見だけに こだわったり 分別しなくなりました よく心の中で思います 他人も修行していたら レベルは私より 上かもしれないので 他人を批評する 理由がなくなります 第五に どんな事をしても より自信が持てる ようになりました

特に難しいことに 遭遇した時 常に マスターの 助けを黙々と求めます 時々 奇妙な 解決法を見出します それで驚きます マスターのパワーは 遍在しています 維摩詰経の中で こう言われます 「菩薩は衆生のために 生死の輪廻に 戻ってきた 生死ある所には 病気がある 衆生が病気となれば 菩薩もまた病気となる わが子がいる 両親のようで 息子が病気なら 両親も病気となる 息子がよくなれば 両親もよくなる 従って 菩薩の病気は 慈悲ゆえに生まれる」

以前 経典を読んだとき 言葉はそれほど 難しくなくても 本当の意味は 理解できませんでした マスターが智慧を 開いてくれた後 そしてしばらく 修行を続けた後 自然と気づきます 今まで分らなかった 経典は  智慧が開いていなくて 表から 見ようとしたため 分らなかったのです 言い換えれば 実相の世界から 内面から見れば 簡単に経典の意味を 理解できます 例えば 金剛経の中に 一文があります 「諸法(真の教え)は 皆平等であり 高低はない」と 簡単に見えても 前まで意味が 分りませんでした

いわゆる 「諸法(真の教え)」は 衆生を表すべきですが なぜ衆生が平等なのか 分りませんでした 後になって 内面の智慧から 理解しようと試みると 「衆生」は 人類に限らないことを 理解しました 衆生に皆 仏陀の本質があるなら 内在する 仏陀の本質は 平等になるはずです それらの衆生が どんな事をしても 同じ因を作れば 同じ果を得ます これもまた一種の 内面の平等です この観点からすれば 容易に理解できます 「諸法(真の教え)は 皆平等である」と言われるわけです 特にマスターのような 仏陀の場合 彼女は 愛で衆生を見ていて 身分が高いか低いか 裕福か貧困かに 関係なく  皆を平等に扱います これこそが本当の 平等だと感じます 最後に 皆さんに 報告したいことは 今日機会があって スプリームマスター チンハイの講義が 聞けるのは 非常に 稀有なことです 私達各々の智慧を 開くには 鍵が必要です

今私達はスプリーム マスターチンハイが 私達各人の智慧の扉を 開く鍵を持っていて それを得るかどうか 決めるのは 私達次第であり マスターが 決めることではないと 知っています 経典にはそのような 機会は非常に稀で 数千から数万年という 永遠の時間に一度しか 巡り会うことが できません もちろん ここに 法(真の教え)を 聴きに来て マスターの教理を 受けいれて 印心したいと望む限り マスターは 全て平等に愛を込めて 彼らの世話をします ですから私は皆さんに 法(真の教え) を学び 印心を受ける この好機を 逃さないように お勧めしたいのです 最後に  仏陀に人々の加護を 祈りましょう ありがとうございます お話をして頂き 大変有難うございます

それではスプリーム マスターチンハイに 講義をして頂くように お迎えしましょう ありがとう 少々お待ち下さい次に 鐘がお話を読みます ほんの数分 お時間を頂くだけです

この話は私達にとって 大変ためになります

真の悟りを開いた 禅マスターの 驚くべきパワーを 理解するのです お話はこうです 唐の時代 馬祖道一という名の 有名な禅師が いました 彼の隣人も また僧侶でした この僧は非常に 狭量な心の持ち主で 馬祖同一に レベルの高い 弟子がいて 良い講義をする事に 嫉妬していました それでその僧は 馬祖同一の事を よく誹謗中傷しました ある日の真夜中 閻魔大王が 派遣した二人の死霊が 僧の家の扉を 叩きました 僧は答えました 「何ですか」 死霊は「閻魔大王が お前を逮捕するよう 我々を遣わしたのだ」 僧は尋ねました「なぜ 私は六十七歳で ずっと仏陀の教えを 広めるため 懸命に励んできました 人々の質問に 最良の答えを出すため 四十年に渡って 講義をしてきました

機会があればいつでも 人々を仏教に 帰依させるために 仏陀の教えについて 討論をしてきました 懸命に努力しました でも私はあらゆる 種類の討論と人々の 質問に答えるのに あまりにも 多くの力を注いだため 修行の時間が ありませんでした なぜあなた方は私を 捉えに来たのですか」

死霊は言いました 「この四十年間 お前はずっと 経典の説明をしてきて 霊修行をする 時間がなかった 今お前が修行を望んで それが何になる 咽喉が渇いた時に 井戸を掘ることを 考えるようなものだ もう手遅れなんだよ お前も言っただろう 自分はいつも 人々の頭脳のための 質問に答え 討論に参加していたと 非論理的なことだ  なぜなら経典には こう書かれている 「我々はまず 自分自身を救ってから 他を救い 自身が解脱してから 他を解脱させ 自身が克己してから 他を同様に 克己させるべきである 我々はまず自分自身が 平和で満足すべきで

そうしてはじめて他を 平和で満足させられる 他を浄化する前に 自分の脳を浄化すべき 他を涅槃(最高の天国)に 連れて行く前に 自分が行くべきである 他を幸福にする前に まず自分が幸せに なるべきである お前は自分の頭脳を 静寂にして来なかった どうやって他の人々を 霊修行で救えるのだ お前の心は 解脱するのに十分な程 純粋ではなく 討論する雄弁さが あるだけだ これは間違った方法で 仏教を教え 人々を欺いている これによって 閻魔大王は非常に怒り お前を逮捕しに 我々を遣したのだ

大王はお前をすぐ 「刀樹林地獄」に 行かせるつもりだ だからお前は舌を 切り落させる 残酷な罰から 逃げられなしない 仏陀は言われた 能弁で教えることは ただ僅かな知性を使い はかない論議に かかわることだと 従って ある者には 多くの障害が生じ ある者は自身の心に 集中できないのだ 自分の心を 集められないなら どうやって公正な道が 分かるだろうか 間違った知性を 使うとあらゆる 悪いカルマ(報い)をつくるのだ 四十年間 お前は 口を使って悪いカルマ (報い)を造り出して来たので  地獄に行くべきだ 今すぐ一緒に ついて来い さもなければ 閻魔王は我々を 罰するだろう

二番目の死神は より慈悲深かったです 彼は言いました 「閻魔王は長い間 これを知っていました なぜ 一日 修行する機会を 彼に 与えないのですか」 最初の死神は言います 「いいとも お前に一日与えよう では地獄に戻って 閻魔王に報告しよう 彼が許すなら 我々は明日また 来よう 彼が許さないなら すぐにお前を逮捕する つもりだ」 太陽が昇る前に 住職は開元寺に行って 戸を叩きました 門番が彼に尋ねました 「誰ですか」 住職は言いました 「私は大安寺の住職で 馬祖大師に会いに 来ました」 門番は戸を開けて 彼を入れて 馬祖師に会わせました

住職は 何が起こったかを 馬祖大師に話しながら 床の上に平伏して 彼にお辞儀しました その後 立ち上がって 言いました「私は 生死の境に立ってます どうしたら良いですか どうか慈悲深く私を 救ってください」 馬祖大師は住職を 彼の側に立たせました 太陽が昇ったとき 二人の死神が 大安寺に来ましたが 住職はどこにも見つけ られませんでした それで彼らは 馬祖道一が住んでいる 開元寺に来ましたが また彼を見つける事が できませんでした それで彼らは地獄に 戻らねばなりません 実際 馬祖と住職は冥府の 使者を見ましたが 使者は彼らを見る事が できませんでした ありがとうございます 分かりますか (はい)

馬祖道一は 偉大な禅師でした 彼のパワーは全宇宙を 網羅するので 閻魔王は彼を 捕えられませんでした 仏陀になる利益は そのようなもので 自分を 救えるだけでなく  他の者のためになる ことができます 私たちがどんな罪を 犯したとしても どんな種類の地獄に 行くことになってても どんな罰を受けねば ならなくても 私たちが悟りを開いた マスター 例えば イエスか 釈迦仏陀に 帰依すれば 彼らに従って 修行をするなら 閻魔王は私たちを もう見つけられません

私達はもう彼の リストにはいません 私達の身体がまだ ここにあるとしても 私達はもはや 人間ではありません もう彼の支配下に 置かれていません 閻魔王は とても強力です 彼は 三界を支配し ただ第一界と 物質界だけでなく 第三界以内のすべてを 支配します 第三界は 阿修羅界 因果の世界および 梵天を含んでいます いわゆる 梵天の境界は 非常に偉大な 第三の天国を 示します しかし そこでさえ 閻魔王の支配から 逃れられません 彼は功徳と罪だけを 考慮するからです 分かりますか 彼は

どの位の福報 または 罪があるか数えます 彼は私たちが高官 大僧侶 または世間の 一般の人であるかを 気にかけません

ほとんどの人々が 多くの経典を暗記し 多くのマントラを 覚え 多くの 異なる理論を研究 すべきだと考えます それで彼らは 素晴らしいと思って 彼らが知っている すべてを 他の人々に言います 彼らはこれが 法(真の教え)を広めることと思います 弘法がこうであれば 今の話はあまり 理解できないでしょう 馬祖道一は 中国で最も素晴らしい 禅師の一人でした 皆が彼を知っています 彼の外観から 隣のマスターと同じで あるように思えました 彼らは 同じ地位を持ち いわゆる仏陀の教えを 広げるような 同じことをしました でもなぜ馬祖に助けを 求めなければ ならないのでしょう この師は表面的な 理論しか知らず 真髄を 知らないからです 馬祖道一は 真髄を得ています いったん真髄を得れば  経典を読む 必要はありません

私が言いたいのは  真髄を理解せず 経典を  勉強するだけでは 役に立たないということです 真髄を理解すれば 経典を知らなくても 構いません

第六祖慧能禅師は 字が読めないことを 覚えていますか 慧能禅師は漢字が 読めませんでした 字すら読めないので 経典もまったく 知らないです 彼は金剛経の 経文を少し 聞いただけです しかし 彼は 道を得たので 経典に精通した人も 博学な人も 彼に追随してきました 経典は知っているが 真髄を 理解していない 人たちが皆 彼に聞きに来ました 例えば 仏教の教えを 勉強した尼僧は 涅槃経について 慧能禅師に 聞きました 慧能禅師は「この 経を聞いたことは ない」と答えました 今日では 誰かが こう言ったら 必ず 異端者だと思われる でしょう

涅槃経すら知らないの ですから 慧能は「聞いたことは ないが 読んで くれれば説明します」 と言いました 本当にそうでした 慧能は聞いた瞬間 すべての経文を 理解しました 以前読んだことすら ないが 慧能禅師は すべての経文を 説明出来ました 開悟した人は すべてのことを 知るからです 知らないことは ありません 小さなことも 知っています 例えば 運転 手術 注射のことまで 知っています 全く習ったことのない ことも 知っています 何でも知っている と同時に 知りません 何でも自然に やるだけです 智慧を得られます ですから老子は 「賢者は愚者の如し」と 言っているのです

老子はまた 「知らずに知ることは 真に知ることだ」と 言っています 表現は 紛らわしいですが  混乱してはいけません