舞踊をご覧頂くことに 致しましょう これはタイの北西部の 舞踊です マスターチンハイを  舞台にお招きしたいと 思います 会場の皆様 スプリームマスター  チンハイを 歓迎致しましょう

次に私達は修行者の 一人をお迎えして 修行後の 彼女の体験を 分かち合って頂きます

こんにちは皆様 まず最初に マスターチンハイに 心から 感謝したいと思います 昨年  観音法門の印心を私に授けて下さって それで私は観音法門を 修行する機会を 与えられました これは最高の法門です

長年にわたる 私の霊修行の 体験から 今まで多くの法門を 試みてきました ユブナウ ポンナウ (腹部に集中する) サラアマハン (心に集中する) そしてプドー(呼吸に 集中する)ものなど 私は五年間間 ノンタブリーの郊外の 寺院に尼僧として 滞在していました 最初の三年間の 私の修行は 沢山の障害に直面し 多くの異なる魔との 戦いでした 私は小さなクティ (小さな僧の家)に 一人で住んでいました 静かに誰とも話をせず 二年間暮しました 私の修行は少しだけ 進歩しました 心は落ち着きましたが 私は多くの努力を いわゆる魔との戦いに 費やさねば なりませんでした

可視 不可視のもの 両方がやって来て 私を邪魔したからです これらの障害により 私の最初の隠匿生活は 三年間あまり進歩が 得られませんでした 私の霊修行においての 体験から 多くの問題に直面し また苦しんできた事を 思うと この苦しみの 生死の輪廻の環から 抜け出したいと 望むようになりました それで仏陀に 祈りました 私を加護し 智慧に導いて下さる ようにと 涅槃(最高の天国)に素早く到達するダルマ(真の教え)を知るためにです 霊修行が 四年目に入った頃 不可思議な現象が 幾らか起こり すべてがより良くなる ことを見せたのです

昨年初めの ある日 帰宅した所 私は近所にスプリーム マスター チンハイの 瞑想センターがあると いう事を聞きました アーリーサムファン 通り3にです それで私はそこに行き マスター チンハイの 本を勉強するために 買いました マスターの本を読み終えると内心は とても良い気分でした容易に理解しました それはまさに私が 長年探し続けてきたものだということを第一巻を読み終えると私はマスターへの強い信心を持ちました 彼女は本当に偉大な マスターで衆生を救う ために来た方で非常に  幸運だと感じました

私は彼女ほど偉大なマスターに会えるとは 思いもしませんでした なぜなら彼女は 宇宙の最高のパワーを 伝達できるのですから それで彼女は私達を即座に開悟させ 今生で解脱させられる のです それは私が最も望んでいた ことでした 昨年六月私は マスターから 印心を受け それ以来 観音法門の修行を続けています まるでマスターが 新しい人生を授けて 下さったように感じ 霊修行はそれに従って 進歩していきました 障害によって再び 妨げられることはなく マスターの保護が 常にあるからです 瞑想中 私は法 (真の教え)を仏陀から 直接学べます 私の智慧は徐々に 発達していきました マスターが私の 智慧眼を開けるのを 助け 仏陀が私を助け すべてが効果的に 働いているのです

更にマスターは私の 家族も守って下さり 私の子供 主人を家では両親や兄弟にも良い暮らしを 与えて下さいました 観音法門を修行する 目に見える利点は 私は明らかに 健康になりました 私の慢性の頭痛は だんだん消えてきて 免疫系統も よくなりました 私の身体は以前より 強く健康になりました 菜食の明らかな利点は 私の胃腸を 丈夫にしました 二度と腹痛が起きなくなりました 観音法門を修行して 以来 私は疑いようもなく この法門は最高で 私達を今生で永遠の 解脱へと導くものだと 言えます 最後に 私はスプリーム マスター チンハイに 非常に感謝しています 私と家族に新しい 人生を与えてくれて それはつまり 計り知れない慈悲です それでは皆様 長らくお待たせ いたしました マスター チンハイの 講義をお聞きください 会場の皆様 どうぞスプリーム マスターチンハイを 歓迎しましょう

美しい踊りと 素晴らしい音楽 愛のある雰囲気を ありがとうございます 今しばらくリラックス した雰囲気になるのは 仏陀の話に行く前には 良いことでしょう

皆さん気分はいかが 良いですか サワッディ(お元気?) これしか知りません

美しいですね 舞踊は ここに来て 踊りを見て 音楽を聞くだけで 帰っても  既に価値があるのでは ないかと思われます

タイの人々の音楽と 踊りです そうですね

実際 弟子がすべて これらを準備しました 私達はこのような 彼らの無条件の奉仕と 愛に感謝すべきです タイの人々と多くの 世界中の人々のために

彼らは日夜 働いてくれました

きっとプレッシャーを 感じたに違いないです でも彼らは プレッシャーでなく 喜びだと言いました 彼らが言うには ここの人々は非常に 歓待の心があり 開悟の教えを 熱望している人々で あるということです ワーキングチームが 言うには 彼らがどこへ行っても 快く迎えてくれ 愛 支援 友好の心で 接して下さるそうです そしてまた私が聞いた 事によれば人々は 非常に勤勉だそうです

恐らくこの地域は この美しい景観の ためでしょう 好天候に恵まれ 山もなく平地である からかもしれません 私達が平地で 働くのは 山で働くより 容易でしょうから それに恐らく それで働きやすく 家の建設や何かが できるのでしょう それで人々は より勤勉なのです 同様に 霊修行においても 何か簡単な方法があり 私達はそれを好みます 困難な事よりそちらを やりたいと思います でも実際 時には 山々や川があれば その景色も 美しいでしょう

私達が環境を支配する ことができるなら それも素晴らしい ことでしょう 私達の瞑想場所は ほとんどが 山の中にあるか 山の近くにあり それで私達は山頂とか 山側に テントをはります 最初は難しく 思われ 人々は そうするのを怠けます でもしばらくすれば それに慣れてしまい それが好きになります それは異なる風景と なるからです

今 時に私達が 容易な修行に 慣れてしまったなら 新しく 少し難しい ことを見ると私達は しり込みする 傾向があります それができないと 思うからです 実際私達が それをやり始めれば 問題ありません 多くの人が 一生 菜食には慣れないと 言うのと同じです その人生でずっと 人々は 肉を食べるのに慣れ あらゆる種類の 動物製品を楽しみます また肉のない食事に なることが できないだろうと 心配します ですが実際には 全く問題ありません 自身の体験を語る 出家した尼僧の 話を聞きました なぜなら タイの出家した 僧侶と尼僧の ほとんどは 菜食をしません

その尼僧もです でも止めたのです 問題ありません 私達の修行仲間の 体験のすべては 霊修行は簡単だと 証明するだけでなく 菜食も簡単だと 証明します それに身体と精神に 非常に良い結果を与え 素晴らしいのです また現代では 菜食の食品は 世界中で奨励され 実践されています 例えば いわゆる 大変文明化し 進歩した国アメリカや 欧州などもです 有名な科学者の アインシュタインも ベジタリアンでした もっと大勢いますが 思い出せません 図書館で調べられると 思います

さてそれは大変簡単な ことなのに私達は  難しいと思いますが 実際は違います 霊修行に 関する他のことが 沢山ありますが それも本当に簡単です また私達は 慣れていないか 聞いたことがないので 自分にはできないと 心配します ですが私達が 決心した後に 勇気を持って 確かな教えに従い 修行すればするほど さらに強くなるのを 感じます また私達にとって この世界で不可能な ことはありません 私達は「肯定的な 霊修行」と呼びます 肯定的である理由は 私達は家を捨てたり する必要はなく 仕事を変える 必要はなく 家族を変える 必要はなく 両親や子供 妻や夫から離れる 必要はないからです それは別れの苦しみの 原因になります 私達はまだ修行でき 聖人や菩薩に なれるのです

また同時に社会への  自分の役目を果たす ために労働や努力を つぎ込みます 自分の国がより豊かで 強くなり また家族が より豊かで 満足できるように なるために たとえ私達の 尊敬すべき尼僧も 修行をした後で 才能と能力が増加し 大変肯定的だと 述べていても 私達は尼僧や僧になる 必要さえありません

私達は才能もあり 元気で 自身の能力を 社会に貢献できます また菜食は 身体を強くします 自然界でも それがみられます 菜食の動物は より強く 大きく その強さは より持久性があります

あるいは病院でも 見られます すべての肉食者が そこで横たわってます それは菜食が 私達を強くする だけでなく それは瞑想の修行で 得られる 肯定的なエネルギーで それが私達の健康と 魂を維持するのです ですから私達は ヒマラヤやチベットの 大勢の偉大な修行者の ことを耳にするのです 彼らは時には 長期間  断食をします それで死ぬことはなく またいかなる健康上の 問題もありません 私達の魂は 身体と頭脳の 主要な 援助者だからです 私達が 真の援助者である 魂を無視すれば もちろん私達の頭脳と 身体も苦しまねば なりません

この世界の 苦悩の原因は 神が私達を罰したり 私達が罪深いから ではなく 私達がこの生命の 真の援助者を 無視しているからです それはつまり真我 あるいは魂 または神性 仏性などで 私達に内在しています それはちょうど 車を磨き続けていたり あらゆる種類の ガソリンを入れても 運転手を食べさせる ことを忘れれば その車は独りでには 動かないのと同じです あるいは車を 私達の意図しない どこかに走らせたら 事故の原因となります この世界は 良い学校であり 良い劇場です そこは私達が ある役を演じ また 自身の技能を高め 私達の存在の内にある 秘められた能力を 使うための場所です

でもこの進行中の 劇の背後にある 真の目的を 理解しなければ 私達の人生で 病気や 移住 低い存在レベルの中の 苦しみなどの 多くの 問題がおきます それは償われない 私達の罪でなく 許されない過ちでは ありません 背後にある目的を 知るのを忘れています この世界の全ての過ち すべての罪 いわゆる 罪の背後にあるものを 私達が生きている間に 私達がすべき 一番重要なことは 私達が生まれる前の  魂の中に戻り 人生の目的を 知ることです それでこの人生での すべての罪や すべての過ち またはすべての成功は 大変明白になります その全てが明白になり 私達も明白になります

私達は罪深く思わず 自身を責めたり そのため結果に 苦しんだりしません ですからこの世には 実際 罪人はいません ただ その人生の目的を 知らない 無明な人がいるだけで 宇宙の大計画に どのように 従って進むのかを 知らないのです この世の苦しみは 私達が真我を知り 神の王国や 仏陀の国の私達の 真の偉大な目的を 知れば大したことでは なくなります 私達がこの物質世界に 生まれる前に この肉体の道具を 得る前は どこにいたのでしょう なぜここに来たのか これらの問いを 知っていれば 答えが得られれば 私達には罪はなく また私達は本当に この世の 一切の大きな課題は

達成します 私達が期待するものは 何でもできます それを知るのは 本当に容易です 知りたいと願う 意志だけが必要で それで私達は知ります それにもちろん 自分で知ることが できれば大丈夫です 自分自身がそれを 知らないなら それを知る人からの 助言や助けを 探すべきです

知っている人達は きっとヒマラヤや チベットの山に いるかもしれません あるいは隣人かも しれません 仏陀と弟子は 至る所を歩き 私達が必要とする すべての機会において 私達を救うのを 待っています なぜなら仏陀や神は 私達の心の深部を知り 源を知りたいという 切望があり 私達はどこから来て 人生の目的は何かを 理解したいと 知っているからです 私達のほとんどは 産まれてから 二歳から五歳位までは まだ自分の人生の 目的や 前世のことを 覚えていますが その後は 忘れてしまいます ある人は幸運にも 覚えていますが殆どは 前世を忘れています

しかし内面の本性 内在する智慧を 静観することを 修行すれば 再び思い出します それで私達は 内面の智慧を 修行しているので 瞑想中や睡眠中に すべてが 明らかになります そういう訳で私達は 生活の処理の方法 毎日の事柄を 処理する方法を 知るのです そういう訳で 生活が平滑になり  体が強くなり精神が より明確になります ほとんどの人々は最初に  文明開化した 進歩している惑星から 転生したり この世界に生れたら 彼らはどこから来たか 何のために ここに来たかを 覚えています  

そして彼らが 初めてその目的を 成し遂げたら 天国で 栄光が与えられ その地位が高くなり それで他の所か 再び この世界での任務が 与えられます でも彼らがその使命に 失敗したら 恐らく 再び この世界に 戻らねばなりませんが  より悪い状況になり  より悪い環境や 条件の中で 仕事と使命を 遂行するのです そのような状況下で より長くこの世界に 滞在すると 精神と心に より重い負荷となり その欠点や 環境での障害を 乗り越えるのが 難しくなります

それに彼らがもともと どこから来たのか 人生の目的は何かを 思い出すのはもっと 難しくなります それで時々 ある人や 小さい子供で 前世を思い出せる 人がいますが とても珍しいのです 仏陀は六年かけて 思い出しました 六年間の勤勉な 瞑想修行と この世界の全てを 捨てることによって 私達は同じことを しなくてもいいのです 彼の人生ではあまりに 沢山所有していたので 彼はそうしたのです ですからそれを捨てて 平等にするのは 良いことです 彼は 何不自由ない 王家に生まれ  夏 冬 秋 春の 宮殿を楽しむ以外 何もすべきことが なかったのです 

また 何百人の妻を享受し  踊りと祭りを毎日 楽しむ以外には 従って 彼は この世界の執着を 捨てるために極端に しなければなりません しかし 私達凡人や 当時の彼の 普通の弟子にとっては そんな難しい苦行は する必要がありません 彼のほとんどの弟子は 在家者ですが 阿羅漢や 菩薩(霊修行者) または他の称号を 取得しており 私達は経典から それが分かります 観音菩薩でさえ 美しい通常の在家者 として出現しています ですから修行者には 二つの方法があります 一つは出家です

外面と内面での もう一つは 内面的な出家です 内面的だけで 外面的にはまだ 平常通り仕事をします しかしそれでも 出家した弟子が たくさんいます 彼らは僧衣を着て いませんが 悟りと 衆生の幸福のために ために献身します それが出家の 本当の意味です 出家者は 家族に対する責任が より少ないか 家族に対しての 義務がない人で 自身のすべての時間と エネルギーと精神を 他の人々の悟りと 幸福のために 一生をかけて 献身する人のことです

在家者とは 他の人々の 幸せのために 献身する人ですが 同時に彼らの 家族の面倒もみます しかし私たちが 尊敬するタイの 尼僧から学んだように 良い法門もなく 方法も知らないなら 私達が何を着るか 何をするか またはどれ程誠実で あるかに関係なく 私達の仏性を悟る 目標にたどり着く事は できません ですから 最も重要なのは 方法 法門 そして 方法を知ることです