私が既に お話したように 教師は隣人であるかも 知れませんし 時には 子供かも しれません 私達には たくさんの子供 阿羅漢がいます その霊的レベルは 当時の仏陀の弟子と 同じくらい高いです 彼らはあなたが 子供が答えられるとは 決して予想しなかった あなたの 質問に答えられます 私も 時々 彼らと話をしては ショックを受けました 彼らが天国を 知っているからです 私は彼らに尋ねます 「どの天国 どんな名前 誰が そこに住んでいるの」 彼らはすべて答えます 誰も彼らに教える ことさえできません

両親を含めて 両親はまだそのことを 知らないからです それで 時々私は ほんの少しの調整を しなければなりません それで彼らは平凡な 生活ができます さもなければ 有名になり過ぎて  彼らの成長 この世界での普通の 生活を妨げるでしょう そういうことで 私達修行者も 公的に自身のレベルに ついて話すように 勧められていません 特別の場合 マスターの前や 他の衆生の 利益のために 絶対的に必要な時は 例外です

子供として修行する時 清い心を堅持する事と 克服すべき障害がより 少なくてすむという より多くの利点があり 非常に純粋で 単純な環境で住む 人々にも同じことが 適用されます 心が非常に単純で 考えが非常に純粋な 例えばこの町の 人々のようにです また 自分の欲望を ある程度抑えてきた 年配の人々も同じです それで人々は時々 深く後悔もするのです こう言いながら 「ああ まだ若過ぎる 年を取るまで待って それから修行しよう」 この利点のせいです この利点のせいです

でも私はそうは助言 しません なぜなら  あなたが年寄りに なるか 明日死ぬか 決して分らないからで 人生はとても短く はかないので今日ある ものは何でも取ります 私は悟ることと人生の 目的を知りたいと 強く願っている人を 知っていますが 彼女は言います「ああ 私はとても若く息子は まだ結婚していない 息子が結婚するまで 待って それから私は 義務から解放されます それで私は修行に行き 菜食も食べられます 息子が結婚するとき 私はワインと酒を飲み それに豚肉も食べねばなりません」 ご存知の通り伝統です

それで彼の結婚後まで 待ってあなたについて 来るつもりです」 何年か後に彼女の 息子は結婚しました その後 他の人達が尋ねました 「それではあなたは今  マスターに従っていて 瞑想して 仏陀になりたいですか」 彼女は言います「ああ まだ孫ができません 私たちの家系を 続けるために私の娘に 孫息子ができるのを 待つべきです その後マスターに従う それから たまたま 最初の孫が 女の子だったので 彼女は二番目を 待たねばなりません そして彼女に決して 孫息子ができないなら 彼女がどうするか 私は分かりません

常に言い訳は ありますが 正しく 公正な方法で することのは何でも 延期するための どんな言い訳も決して すべきではありません なんであれ それが悪いことで 不道徳なことで 人を傷つけることなら 何百何千の理由を 見付けて それを 止めさせなければ なりません 例えば 私にこう 言った人がいます 菜食になるのは 恥ずかしいと 人々に笑われるのでは ないかと心配するから と言うのです 私は聞きました「なぜ 「何かをして 人を傷つけたり 人を殺したり 人を苦しめたりしたら それなら恥ずかしく 思うべきです

でも 菜食になれば この世界の 衆生の苦痛を 最小限に抑え 自分の体と精神を 強めることになります なぜ正しいことのため 恥ずかしく思う必要が あるのですか」 だから  正しいことと 正しくないと感じる 違いを見極めなければ なりません そうでなければ 他人の意見を 気にするだけでは 終わりはありません 同じことが ある人々にも言えます 妻が 菜食になることを 許してくれないから 夫が菜食になることを 許してくれないから 霊修行は出来ないと 言い続けています しかし彼らが この世で霊修行を しなかったら 来世も この世界に戻れば 妻 夫 または親しい 人がいて 彼らの 霊修行を妨げます

釈迦牟尼仏が 「いつ なぜ」などと 考えていたら 彼は僧侶には なれなかったでしょう それで今日の世界には 仏教は存在しません 釈迦は私たちより もっと重要な人で  より重い責任があり 両親からもっと恩を 受けています 彼には宮殿に留まる 口実が沢山ありました 彼はこう言います 「両親は私に 至りつくせりです 両親は私に春夏秋冬の 宮殿を建ててくれ 私に多くの妃を与えて くれ また彼女たち 全員を養ってくれます それで彼女たちは 皆美しく優雅で 毎日私のために 踊ってくれます 私に美しい妻と 生まれたばかりの 息子がいてその世話を しなければなりません

息子に父親がいないと どうなりますか 王国のこともあります 父には私の他に 王子はいません 私は百万の臣民への 責任があります」と 彼には私達より何千も 何百万も多くの口実が ありました でも 彼はこれら すべての口実を超える 良き理由は一つしか ないと考えました それは愛です すべての衆生に対する 愛です 家族に対する愛 自分に対する愛です この偉大な愛のため 彼は全ての快適さを 犠牲にし  豪華な生活を捨て 家族と離れるすべての 苦痛に耐えようと 決めたのです

でも恐らく彼の家族は あまりにも厳しく 宮殿で菜食することを 許してくれず すべての妃を捨て 毎日二時間半 瞑想することを 許してくれず ヒマラヤのマスターに 印心を受けることを 許してくれなかった かもしれない たぶん だから彼は家出せねば ならなかったのです でも 私達に 家で霊修行すると 同時に 両親に対する責任を 果たし 妻 夫 子供 との愛情関係を 実現させられる機会が あったら それなら  家で修行しても  聖人になれます そもそも 私達の 親 妻 子供たちも 仏陀だからです

私達は自分で修行し そしてまた 私達の家族にも影響し 彼らにも自分たちの 仏性を思い出させたら 私達の家は 寺院になります お寺の中に多くの 「尼僧」と「僧」がいます  真の尼僧と僧です ただ家を離れ 僧衣を身にまとい 一日一食しかせず セックスを捨てるだけ では僧侶になれません 多くの物乞いもこの ように生きています 醜く 結婚出来ない 多くの人も このような生活を 送っています 悟りを 開かない限り 私達の仏性を 認識しなければ 私達の智慧を 使わなければ まだ真の僧と尼僧では ありません 普通の人とは 何の区別もない からです 私達がずっと このような生活を続け 自分から 開悟の機会を奪い 自分の仏性を知る 機会を奪えば 一番悔やむべきなのは 私達自身です

聖人になるのは簡単で 普通のことです 私達は皆聖人なので 誰も私達に敬意を払う 必要はありません

この世界に来る前 聖人の品性は 私達の本性だった からです それによって すべての衆生が聖人で すべての衆生が仏陀で あるので 誰が誰に 敬意を表すべきですか 釈迦牟尼仏の時代には 彼が仏陀になり 彼の弟子達も また彼から直接教わり 彼から直接印心を 受けたから 聖人になりました 彼らが僧だったから ではありません なぜなら唯摩は 彼は在家の人でしたが  すべての僧が彼に 敬意を払いました 彼はとても賢明で 霊的な到達では 非常に高いレベル だったからです

ですから私達の存在の 価値は内面の智慧から 来るもので またどれほど高く 私達が真の仏性の 知識に到達してるかに よるもので 外観や 私達の生き方から 来るのではありません ですから今 皆さんは 家で仏陀になれます 少なくとも阿羅漢には 阿羅漢の意味は なんですか どうやってその人が 阿羅漢だと分りますか 仏教徒によると 聖人または阿羅漢は どんな感覚のある 生き物に害を与えず また彼自身の 本性を知ることができ 時には彼の過去現在と 未来が分る人です

そして決してこの世に 生まれ変わりません 自らすべての 感覚ある衆生の 利益のためにそうする ことを選ぶ時を除いて その場合私達の全ての 弟子の大部分が阿羅漢 私達修行仲間がです そうです 非常に普通の 阿羅漢で あなたの家の  隣に住んで 郵便局で働いていたり 上院議員に立候補し または銀行で ビジネスの交渉をし または秘書の仕事か それともバスの運転か タクシーの運転をして たぶんその人は村の 教師をしたり等々 またこれらの阿羅漢は 彼らの家族や 国の義務を 見捨てません

しかし彼らは現在 長い瞑想修行から 得ている悟りと 自分の賢明な知識を 現世で使うことに 貢献しています これが一番良い方法と 私は思います もちろん 私達の人生で 何をしたいか 自分で選択できます しかし私達の大部分が 社会や家族に 借りがあるので 彼らの愛ある手助けで  私達は育ちました 彼らは私達を愛すから 彼らが私達を 世話するので 私達が 借りていたものを 返済するのは当然です このように全てが 整理されていて 激変があるわけでは ありません 

例えば すべての阿羅漢が 寺またはジャングルに 駆け込み 誰もが家を 離れてしまいます そしてこのように 私達はある人を 独占的に保有しない 非常に普通の生き方で 悟りと菩薩を 作りだします そしてこのように 私達は社会で 他の人々と交わる 機会がありまた彼らが 仏陀であることを 彼らに思い出させる 機会があります 彼らが知りたければ 知ることができます このように  全ての家が寺院です  そして本当に仏陀 阿羅漢 菩薩はその寺の中に 住んでいます ありがとう

ご清聴 ありがとうございます 皆さん非常に集中して お聞きになるので 蚊がこの部屋の中で 飛んでいるのが 聞こえると思います 私は非常に感動し また少し驚いています なぜならタイの人々は 舞踊のように 非常に活発であるので長い間動かずに どうしたら静かに 座ることができるのか それは彼らの心にある このように集中 し続ける誠実さに 違いありません それはタイが 絶えず速くより速く 向上していて 今タイの人々の 生活水準が二十年 前より高いことの 理由です この国の 大部分の人々の 純粋さと誠意さ ゆえです 霊的な僧や尼僧への 人々の敬意の ためです 彼らの日々の修行で 仏陀の教えを 保ち続けようとする 誠実さゆえです

たとえ大いなる 悟りはなくても 彼らは物質的な繁栄と 心の平和で 祝福されるでしょう 彼らが過去の マスターの教えを 誠実に信じるなら それは私がいつも タイにいてで気持ちが 良い理由です 以前私はここタイで 生まれたか 以前タイ 国民だった気がします しかしこれは私達の 信心 信仰が誠実で 純粋な時の加護の レベルの一つです しかしこれは より物質的な加護で より物質的な種の より物質的な加護の 種類です なぜなら 人は寺に供養したり 僧や尼僧に 供養したり 貧しい人を助けるのが 好きだからです

したがって 彼らは物質的な利益の 福報を得られます 霊的な加護と霊的な 覚醒を 手に入れるためには 霊性の道を修行 しなければなりません すべての物事には 原因と結果があります 原因があって必ず 結果があります カルマ(報い)の法則は そのようなものです 寺院と僧侶に供養する ことについてあなたを がっかりさせる わけではありません それは良いことです それもすべきです ただ不十分なのです 私達は非物質的な ことを期待するなら 非物質的なことを実践 しなくてはいけません 一つ例を挙げましょう それで私が言うことを あなたは信じます

釈迦牟尼仏は 存命中 人々が過去の仏陀に 物を供養することに ついて沢山の 物語を語りました 例えば  二人の物乞いは 一枚の汚れた ぼろぼろの布を 当時生きていた仏陀に 提供しました その後 彼らは何度も 多くの生涯にわたって 常に物質的な豊かさを 得られましたが 悟りは開いていません 生きている仏陀にさえ 供養したのに 悟りを開いていません 彼らは物質的な 福報しか求めず 物質的ものしか 供養せず 霊修行を 求めませんでした 魂の解脱を 求めませんでした 違いが分かりますね 仏陀に物を 供養することで 仏陀になるわけでは ないのです

仏陀の方法で修行 しなくてはいけません これはすべての仏典に 記載されてる物語です もっと沢山の物語を 読むことができます 舎利佛という 仏陀の十大弟子の 一人でさえ何度も多く 生涯を転生せねば なりませんでした 九十九世だと思います  それは数千年かも しれません 仏陀に物質的な物を 供養したためです しかし それでも 悟りを開いていません 九十九世は あまりに多い生涯です 一世を百年だとすれば 一世をちょうど 百年だとすれば ほとんど一万年です

最後に釈迦牟尼仏に 出会い やっと悟りを 開きました  九十九世生まれ変わり 仏陀に供えた物質的な 恩恵を楽しまなければなりませんでした 物質的な生活は どれほど愉快か 裕福かにも関わらず 無明で転生すれば それはひどい苦痛です 物質的な恩恵は良い ことではありません 生 老 病 死の 輪廻に苦しむのは 楽しくありません 沢山のテープで詳しく 仏教の物語に関して 説明しましたので 好きなら 持ち帰って 聞いてください

九十九世 それは何千年にも なるに違いありません

時には転生の間 一休みします すぐに生まれ変わる のではなく どこかで休憩するか とても静かで 何も知らない状態で いるかもしれません あるいは 何百年も 天国での生活を 楽しみます あるいは 何百年も 地獄にいるかも あるいは 何百年も 動物王国に 転生するかもしれず それから もう一度 人間に生まれ変わり もう一度 天国に 戻ります または再び 動物に生まれ変わり 低いレベルに戻ります それは大変長い長い 時間がかかります

それは非常に苦しく 大変な苦痛です いったん仏陀と学ぶ 機会を逃すと いつ再び チャンスがあるか 分かりません

しかし私たちが 尊敬するタイの 尼僧から学んだように 良い法門もなく 方法も知らないなら 私達が何を着るか 何をするか またはどれ程誠実で あるかに関係なく 私達の仏性を悟る 目標にたどり着く事は できません ですから 最も重要なのは 方法 法門 そして