ようこそ 神に祈りましょう 今宵がうまく行き 私達がこの人間の体 この道具を通じて 神からの多くの 恩恵を受けますように アーメン 神に祈りましょう  全能の神 最高の仏陀が 私達の世界を祝福し 毎日がもっと平和で ありますように 平和は私達から始めて ありがとうございます

皆さん来てくれて 嬉しいです こんなに 来てくれるなんて ここに来る車の中から 燦々とした太陽と 買物に忙しい多くの人々があちこち ドライブしているのを 見ました 本当に素敵な日でした たぶん誰も来ないか 二、三人しか来ないと 思いました 私を含めてです ある計画をたてました 私が中に入ったら その二、三人を誘って その二、三人を誘って コーヒーショップに 行ってお祝いしようと 今日仕事がないことを 祝おうと思いました けれどもこんなにも 来てくれて ええ やはり 心の中で祝います 私達の多くはまだ神を 求めていることをです いいでしょう

では一緒に仕事を 一緒に仕事しましょう 神を求めることは 個人の仕事ではない 仏陀になることも そうです 神を求めることが意味するのは 仏陀になること キリストになることで 仏陀やキリストの ようになるには 多くの条件が 要求されます 例えば その個人が 神または 成仏を探し求めるには 非常に切望していて 非常に誠実でなければ なりません 仏教では 「成仏」は 最も高い境界に到達し 神と一体に なることです 仏教では神を 阿耨多羅三藐三菩提 と呼びます 阿耨多羅三藐三菩提 とは 最高の神を意味します

キリスト教では 「全能の神」と言います 名称は異なりますが 意味は同じです ある個人が 神または 阿耨多羅三藐三菩提を とても切望していれば 最高の神に到達できる 方法を知るべきです 私達はたいてい 礼拝または崇拝の形で しています 仏教では お寺に行って 仏像を拝みます そして数珠を このように教えます 仏陀の名を 唱え続けながらです 唱えられる仏陀は 沢山あります 一年経っても 仏陀達の名を 唱えきれません キリスト教に沢山の 聖人がいるように 聖フランシスコ 聖マリア 聖ホセなど そうですね 

同様に仏教では 同様に仏教では 沢山の仏陀があります しかし 仏教とキリスト教での 聖者と仏陀に関する 定義は 少し異なります 仏教では 誰かが仏陀になったら 彼は全能の神と一体に なった事を意味します キリスト教では 聖人はたぶんまだ神と 一体になっていません そうではないですか 聖人は聖人で 神は神です でもそれはただの 誤解かもしれません 聖人にも色々な レベルがあります イエスキリストの様な 聖者は神と一体です 彼は言いました「私と 私の父は一体である」 「私を通さない限り 誰も天の父には 到達できない」と ある意味で  彼は仏陀に似ています 最高の神と 一体になっています 仏陀も言いました 「仏陀を 見つけない限り 解脱できない」 聖パウロも同様です

彼は「私は生きるが 私ではなくキリストが 私の中に宿る」 なぜなら「宿るのは キリストで私でない」 イエスも同様で彼は言いました 「私ではなく 天の父がしています」 キリストとは天なる 父からのパワーです 仏陀のパワーは キリストのパワーと同様で すべて 同じ源から来ていて 体という道具を通じて 世界に利益をもたらすために 使われます まるで 二本とか三、四本の 電線のように 外見から見ると色が異なりますが

中には 電気があります 同様に 同じ源から来ています 仏陀やキリストになり キリスト意識 または 仏陀に到達するには 先ず神への真摯な 切望が必須です 神は私達に内在します 皆知っていますが 神を見つけることは とても難しいです 非常に矛盾しています 神がここにいるなら なぜ見つからないのか 実際あまり難しくなく 私達は神が 内面のどこにあるか 知らないだけです 私達が家にお金を 置いていることとか 親がお金か金を 家のどこかに隠すのを 知っていても その場所が 分らなければ 見つかりません

誰か 父親が金を隠した 場所を知っていたら もちろん 私達はすぐに 見つけられるでしょう キリスト 仏陀は 宝を発見した人達です 彼らが発見した後 彼らが発見した後 他の人にもその情報を 他の人にもその情報を 共有しました そして 彼らの恩寵により 例えば仏陀とキリスト 聖パウロ 聖ペトロ 聖シモンなども 神の国を見つける ことが出来ました 仏陀の加護が あってこそ 彼の弟子 阿難 摩訶迦葉等も 神の王国を見つけ 仏陀になったのです イエスは言いました 「私達は皆神の子です」 仏陀も 彼は知覚ある衆生と 同等だと言いました しかし私達と 仏陀とキリストとの 違いとは 彼らは彼らのパワー 彼らの神 彼らの 天国を見つけましたが 私達はまだだからです

神の国は いつでも 見つかるかもしれず その場所さえ分れば 神を見つける方法は 一つあります 多くの事に やり方があるように 神は決して私達が 神の国に戻るのを 禁じていません 神は既に様々な 「道具」を私達の中に 植え付け 欲しい時 いつでも神に連絡が 取れるようにします しかし 時々 その道具は 使われません ですから 私達には神が見えず 見つからず あるいは 連絡出来ないのです 私達の家に ラジオがあるように 開けなかったり どう開けるか 分からなかったら ラジオ局からの 番組を受信することが できません

誰かその使い方を 一度教えてくれれば 毎日使えるでしょう 時には 私達は幼な過ぎるので それが使えません 使い方が分りません 他の誰かに教わったら 使えるようになります あるいは私達は以前 使ったことがなくて まだ新品だからか 以前ラジオを持って いなかったから その 使い方が分りません 私達は多くのことを 忘れています この世に 滞在している間に なぜならこの世には やる事が 沢山ありすぎて 生きるために 乗り越える奮闘も 沢山ありすぎるから 私達のラジオ 私達の楽器を使う 時間さえありません

しかし実際  私達はずっとそれを 使わねばなりません 少しでも十分です 今 私たちがただ ラジオの隣に立って  つまみを開かないなら 何も受信することが できないでしょう 私たちがそこに立って 叫ぶか 悲鳴を上げて 「なぜ放送局は働いて いないか」と言うなら それは無駄です  それは放送局の せいでなくて 私達が 開かなかったのです それで 私たちが神に 祈っては 神が答え ないと思うならそれは 神のせいでありません それは私たちが自分の 受信機を開かなかった だけで それで 神と一つになることが できません この世界に「電話」が あるように 私達は  神に電話できます ただその電話は 電線がないだけです

目に見えない電話です 時々 人々が海中に 潜水する時 彼らは ボートに連絡するため ある種の接続装置を 持っているかも しれません 彼らは上から情報を  そして ここ下から 情報を聞くために 時折 それを 使わねばなりません 海の中に深くもぐって 連絡がない場合  時には危険なことも あるでしょう さて聖書には キリストが私達に 公開した多くの 秘密のものがあります そして仏教の経典でも 同様です 例えば 聖書に  神の声は 雷のようで 雷の音のようで 多くの水の音のよう だと書かれています

神は大きな炎のように 輝き立っている 神は大きな炎か 火のようである モーセが神を見たとき  一種の大きな光の中 大きな火の中に見て 聖書では また他の 誰かが大きな炎の中で 神を見たことについて 同じ事を示しています それは どの時に 私たちが神を見るか 神と接触しているかは 重要でないことを 意味します  体験はどんな時期でも 同様です 仏教 または仏教の経典には 蓮華経と呼ばれる 一つの経典があります それにもまた 雷の音 多くの水の音 海潮音のような 仏土の音を聞くことが できると示しています

ちょうど聖書で言う トランペット等の 音を聞けます また仏陀は大きな光を 持っていると言います 「仏陀」は「光を持って いる」という意味です それで神が光を持ち 仏陀も光を持つなら 両方は同じもので あるに違いありません そう思いませんか どちらも光があります 同様に見えるなら バラに違いありません オランダから来たか  英国か アルゼンチンから 来たか関係ありません 人々がバラを 自分の国か違う国で 育てても 同じものが 生産されるでしょう 私はイギリスで 同じ花を見ました オゥラック (ベトナム)で 同じ花を見ました

同じ植物を育てれば 同じ花を得るでしょう ですから仏教徒が 修行して光が見えて 雷の音トランペットの 音が聞け 多くの水の 音が聞けるなら クリスチャンの聖人も 炎と光を見る事ができ そして 雷のような音 多くの水の音を 聞くことができます 彼らは同じことをし 同じ地位に 到達するに 違いありません つまり同じ成功です そうでしょう また 聖書には 別の秘密があります それには 「始めに言があった」 と書かれています

「言葉」の意味は 振動 音です すべての振動は 音を生みます 「言葉は神と ともにあった 言葉は神だった」 ですから言葉を 聞いたら  神を聞いたことです 二種類の音 つまり振動が あります 聖書が言う言葉は この世界を 超越した世界の音を 意味し 普通の耳で聞こえる 音ではありません 私達が毎日話す 言語ではありません そうでなければ聖書に 「初めに  人々は人間の言葉で 話していた」と 書かれたでしょう 違います  この言葉は振動です 仏教の経典でも 同じことを 言っています それは 「仏陀は音流に頼って この世界に 降りてくる」と 言っています

「凡夫はこの音流 この振動の流れに 頼って家に帰り 神の王国に帰る」と 言っています これで古代の マスターが明かした 秘密が少し 分かりましたね つまり 私達は家に帰るため 神に繋がるため この言葉 つまりこの音流に 接触しなければ ならないのです 家にラジオがあり ラジオの電源を 入れれば ラジオ局に 繋がるのと同じです ラジオ局に行く必要 さえなく ラジオの 電波はどこにでもあり 遠くまで届きます 神も遍在し どこにも神がいます

ですから 唯一の問題は いかにこの言葉 つまりこの音流と 接触できるかです 方法が分りますか (いえ)分りませんか

(祈り)祈りですか 献身的に 誠心誠意で祈り  極めて深い 意識レベルに入れば その音流が聞こえる 時があります そうすると  神の音が聞こえ  光が見えるでしょう 仏教の経典に 阿弥陀仏経というのが ありますが そこには  真摯で献身的に集中し 一日 二日  一週間 二週間  あるいは 何週間も 阿弥陀仏の名前を 繰り返して念仏すれば 阿弥陀仏が見えると 書かれています ですから  非常に真摯に 集中して祈れば 時には 音が聞こえ 光が見えることも あるかもしれません 毎日真摯に祈れば 毎日光が見え  音が聞こえるかもしれません

でも耳で聞くのでは なく 内面の存在が 聞くのです 一種の深いサマディー 深い禅定に 入るのです それは無意識という 意味ではありません 深い禅定は 無意識ではありません 意識朦朧 恍惚状態 ではありません はっきりした意識の 中で聞くのです そのとき 深く祈りの中で あまり外の世界を 余り外の世界を 意識しません でも神に繋がるため 祈りよりもっと良い 方法があります 実際すでに神と接触し 神がどこにいるかを 知っている人が 私達の中にいれば その人に教われば いいのです そうすると 私達は 毎日神を聞き 神を 見ることが出来ます

これがイエス キリストが彼の弟子と その時代の人々に 教えたものです 仏陀も ムハンマドも 老子もソクラテスも 同じです 今 私達の時代にも  このような人がいます 彼らについて しばらく学び 勤勉に修行すれば 私達も キリストのように 仏陀のようになれます 神と接触し神と一体に なり宇宙と一体になり どこにでも存在する ようになります キリストがキリストに なれたのも 仏陀が 仏陀になれたのも こうしてなれたのです ですからイエスは 「私は天の父と一体だ」 仏陀は「私の中に 仏性があるのと同様に すべての衆生には 仏性がある」と 言ったのです 老子は道徳経の中で 「万物は一体である」 と言いました 全宇宙は一体です

それぞれ異なる信仰の 貴重な経典の中から 多くの秘密と 多くの類似した見方を 発見できるわけです だから 彼らは皆同じ ことを教えていると 知ることができます 今 この時代に 神の光が見え 神の音が聞こえるよう 私達を助けてくれる 人がいれば 私達は正しい道を 歩んでいると 知ることができます この人は仏陀あるいは キリストと同じ教理を 教えていると分ります その人は仏陀あるいは キリストの弟子 あるいはその後継者 だと知るべきです 歴史上 いつもこのような 人々がいます 私達はこの人たちを 神のしもべ  神の息子と呼びますが

彼らは人類のしもべ 人類の息子でも あります 「息子」と言う時 必ずしも男性のことを 意味するわけではなく 神の王国では 性別がなく 性別の 違いはありません 男も女もありません 全てが美しく純粋です この世界のすべてが 神の半分の品質です 私達の内面に神がいる けど 外面は違います それは神の品性と 魔の品性が 混合しているからです 魔とは幻想のことです 聖書には 堕天使の物語があり 堕天使の物語があり 仏典には 幻想の王国 闇の王国という 魔に関する 物語があります 私達は真実と幻想の 混合体です 内面は純粋な魂で 外面はこの世界からの 物を借りて今のように なっています  またこの世界から 沢山の概念を借ります それらの概念は神の 概念ではありません

神は自分の似姿に 全てを創造しています それは全てが輝かしく 美しくて純粋です 私達には想像しにくい ことですなぜなら 私達は物質世界にいて また神の世界にも いるからです 「物質世界にいる」 ということは 私達は肉眼で見て 低いレベルの意識でこの世界を 理解している意味です いったん  智慧眼が開くと 違うように見ます 真の世界と 影の世界を見分ける ことができます 子供の時 または 赤ちゃんの時のように 沢山の美しいものが あるけれど 私達は よく認識できません 美味しい物や 美しい物があっても 分かりません

両親が家にきれいな 女の子を連れて来ても 赤ちゃんの男の子は 無視するでしょう 彼女と 結婚することなど 考えもしません 十年か二十年 経ってから きれいな女の子を見て 考えは違ってきます 彼は鋭い鑑賞力を 示すでしょう ですからこの世界には 常に美女がいますが その赤ちゃんの考えが 変わっただけです 彼が幼い時にも きれいな女の子がいて 彼が大人になっても きれいな子がいます 物事の見方が 変わっただけです

実際 その男の子に 教える必要はなく 本能的に分かります 悟りを開くのも同じで 本能的に神が 分かります なぜなら 内面に それを認識する能力が あるからです 成長したらその能力が 目覚めます 従って 人が 開悟を求めるなら 彼らは既に 成長しています 神を彼らの 目の前に置けば 彼らは認識できます 少年と同じで 成長してから きれいな女の子を 連れて来れば すぐに分かります 好きになるでしょう ジョークがあります ある修行者がいて ある山で瞑想と道徳を 修行していました また彼は一人の 男の子を育ててました

その子供は孤児で 小さい頃から 育てられました 二十年間彼らは 山に住んで一度も 山から下りて人を 見たことがありませ 多くの修行者は そのようにしています ある人はヒマラヤから 一度も降りて来ません この世には何も彼らを 引き付ける物がないと 彼らは感じるのです 彼らは悲観的である わけではありません ただこの世に 執着してないのです 彼らの生活は とても簡素です 何があっても それで生活します

それで二十年間後 ある日 いわゆるマスターは その男の子を連れて 町に行きました 誰かを訪ねて そこで何かを しなければなりません とても重要なので マスターは山から 降りねばなりません とても重要なので 降りて来ました それで 下りてから彼らは 沢山のものを見ました その男の子は人生で 一度も見たことのない ものを沢山見ました 山では 猿や果物 木 滝や花などしか 見ませんでした

突然 美しい女性が 通りを横切りました それでその男の子は マスターに「あれは 何ですか」と聞くと マスターは 「いや あれは見るな  虎だ とても怖いぞ 見るな 見るな 見るな」と言いました マスターは少年を 連れて去りましたが 少年はずっと見て いましたマスターは 早く少年を別の通りに 連れて行きました 少年がずっと見つめて いたからです 彼らは用を済ませて 山に戻りました 家に帰ってお茶を飲み ケーキを食べました マスターは 何気なく 男の子に聞きました 「今日街で 色々見たが 何が一番好きか 話してみなさい」と 男の子は 「虎です」と答えました ですから分かりますね

私達も同じです まだ神を見たことが ないので 神の栄光に魅了され 陶酔することが できません 誰かが見せてくれれば 私達は とても自然に すぐ突然 本能的に知ります するともう 牧師やお坊さんや 尼僧さんや仏陀が 敢えて私達に 「神を愛せよ とか 仏陀になるべきだ 仏陀や神を崇拝しせよ と言うまでもなく 私達はそうします