こんにちは 皆さん スプリームマスター チンハイの  最も有名な本に 「あなたを家に 連れ帰る」があります その題名は 私には まさにぴったりでした 家庭で問題があった わけではありません 両親は共に 中国で科学者として 身を立て  私は非常に愛されて 唯一の妹もそうです 私自身は 名門校を 幾つか卒業し 常に沢山の友達に 囲まれていました 幸せな人生のように 聞こえるでしょうね でも 何かが 欠けていました 心の底で この世に 属していないと感じ 人は私を混乱屋さん と呼びました それで私は 真理や幸せ そして 真の自分が誰かを 探す旅を始めたのです まず 科学を試み 生物学で 博士号を取り 物理学を研究しました すべての根源を  発見したかったのです

進化論 量子力学 ビッグバン論でも 何でも通してです 次に試したのは   哲学 心理学  人類学 歴史  文学といったものです これらの試みが 失敗すると 宗教や 霊修行に変えました キリスト教 仏教 道教 超越瞑想 ヨーガ そして気功まで 各々の修行である程度 真理は得られましたが 究極の知識ではなく それで 私は 依然としてさまよい 自己認識と 人生の 意味に苦しみました うつ病になり 喫煙の習慣が戻り 自殺さえ考えました 私が家路につくには スプリームマスター チンハイが 必要でした

それは一九九三年 インディアナで受けた 電話が始まりでした 一度会っただけの 知人が シカゴから 電話をくれたのです その人は出し抜けに スプリームマスター チンハイのことを 話しました 中国語のその名は 「清らかな大海」 という意味です 何という偶然でしょう 八年前 私は 海に飛びこむ夢を 見たのです 愛と平穏に満ちた 清らかな海でした 目も眩むばかりの 青ですが この世では 想像できないものです その情景は言葉では 説明不可能ですが 

私は涅槃 (最高の天国)を体験し 私は初めて  その夢でくつろぎを 感じたのです しかしスプリーム マスターチンハイは 単なる夢でなく  生き呼吸する存在です でも私は疑ってました 人の頭脳がどう働くか ご存じでしょう その電話を 受け取った次の朝 目を開けると 「在世仏」の文字が 見えました 私の額の辺りで 空中に浮かび 一日中 そのままでした 私の疑いは 消え始めました それがすべて 掻き消えたのは マスターチンハイに 一九九三年素敵な四月 ワシントンDCの ジョージタウン大学で 会った時です

それまでに 私は新しい友人に 電話で  この在世仏と その教えについて 沢山質問をしてました その日の彼女の講義を 聞き すべてが完全に はっきり解ったのです 私はなぜ人生を通して 長い研究をしたのかと 自問した時の 答えは実に単純 そんな感じでした スプリームマスター チンハイのすべてが 私を感動させました マスターの慈悲 自信 天真爛漫さ 智慧 そしてユーモアです その夜 私は印心を受けました その間 私は神の光と 天上界の音を 経験しました

古代から古い経典に 伝えられるものです この出来事は あまりにも圧倒的で 至福と美に溢れ 自分がついに 家に帰り着いたと 翌日まで 気づかないほどでした 親愛なる友人の皆様 私はこの五年 更に成長し 日々 マスターの 教えに対する感謝は 大きくなっています 迷子の魂達を 永遠の家に連れ戻す マスターの無限の力を 今まで以上に  心底確信しています 私の生涯の旅の話で 生徒の準備ができれば 師が現れるという事を 皆さんにお伝え 出来ればと思います 皆さんとご一緒できる のは 大変光栄です それは 今宵皆さんは 旅を終えるからです これは何百万回もの 転生に一度の機会です ありがとうございます

フーファンさんに 続けてご登場願います 観音瞑想について 少しお話しされます 彼をお迎えしましょう ニューヨーク市の ある青年は  両親に勘当されました カトリックの躾を 嫌悪していましたが 観音瞑想を通して 両者の 和解を得ました

大西洋を隔てて 幻滅を感じた妻が離婚 しようとしていました 離婚届を提出する 裁判所の前で 彼女は 「即刻開悟の鍵」の 小冊子を 受け取りました そのページの中に  愛という言葉を見つけ それは 夫との関係を癒す 慰めとなりました 南カリフォルニアの ある家庭では ヒンズー教徒の夫婦が スプリームマスター チンハイを発見します 彼女の中に 全世界の 宗教で信奉される 古代の教えが 具現化していることに 気付いたのです 皆さん この霊的な 道の 最たる使命は 人をより良く 変える力に かかっています

観音瞑想は  修行者の日々の 生活を向上させて きたでしょうか 彼らの優しさ 慈悲 誠実さを 伸ばしていますか 彼らの魂の目覚めは 日々の行いに 活きているでしょうか 言葉を変えると 悟りを どのように 実践するのでしょうか 新聞記者として 私は自分の質問を 三人の観音修行者に あてはめてみようと 思います 皆さんには  彼らの短い証言から 悟りの花が内外に 見られるでしょう 変容その一 傷の癒し 自分を全て知っている つもりだったピーター ステインスキーは 両親を悪く 思っていました

結局 両親は彼を 二十二歳の若さで 勘当しなかったのか ピーターは 人生に確信を 持っていました 一九九六年の夏 彼は大学に入りました 級友が彼に マスターチンハイの 講演ビデオテープを 貸しました 色々な事が重なり 五ヶ月後には 印心を受けました 突然 世界が白黒 はっきりしたものでは なくなりました ピーターはついに 問題の原因は自分で あった事を認めました 彼が何度も薬物中毒の リハビリを 拒絶したために 両親は勘当することに したのです ピーターという 二十世紀の放蕩息子は 一九九七年二月八日に 家に戻りました

六十日間の薬物中毒 リハビリを終えました 彼の両親は 観音瞑想の 癒しの力の 証人となりました そして二人は今 方便法を実践してます もう一つ 近頃ピーターは 再び毎週のミサに 行き始めました 二十六歳で カトリック要理の コースを終えました また聖書を 読破しました なぜピーターのように 神は必要ではないと 確信していた人が 再び霊性を受け入れた のでしょうか 彼は言っています マスターチンハイは 宗教に 正真正銘の 顔を付けたと 彼女は私に 他人を非難する前に 自分の過ちを分析し 自らを批判的に 考察する様導くのです

世界を癒すには まず自身を 癒さねばなりません 変容その二 愛の本「偶然起こる のでない事がある」と シモーヌモチャードは 言っています 彼女の話は 一九九四年に遡ります 彼女は小冊子 「即刻開悟の鍵」を 受け取りました 住まいはフランスの ボルドーでした 観音信奉者に裁判所の 階段で会ったのです 離婚届を提出した ばかりでした 夫のアルジェリア人 三十二歳の マスターファは 七年の結婚生活に 終止符を打つことに なったのです 確かに愛はあったと 彼女は言いました

でも それは誤解で 覆われていました 私達は人に対するより 更に 自らに対して 不正直でした シモーヌは小冊子を なぜ受け入れたか 覚えていませんが それを四回読み返し 本やカセットテープを 郵便で取り寄せ ベジタリアンになり とうとう 一九九六年の初めに 印心を受けました 電話インタビューでは 観音瞑想は私の人生に 最大の至福を 与えたと 語っています お陰で自分の感情と 一つになれました 忍耐と誠実さが 与えられました 意思の疎通は もう 問題ではありません

マスターファと シモーヌは 夫婦の ままでいる事になり 二人は  結婚十年目の昨春  結婚の誓いを 新たにしました 違いはまだ生じますが 今は それを穏やかに すぐ示すのです 二人は 結婚カウンセラーへの 道を歩み始めました 彼らは 人を愛で結ぶ 仕事を始めたいと 思っています マスターチンハイが 彼らにしたように 変容その三 時空を 超えたメッセージを 携えた女性 神はご自分のお姿に 人間をお造りになった と聖書にはあります ゴータマシッダルタは 万人に仏性があると 気づきました

ヒンズー教でも 人間の魂と自我は 宇宙のブラフマンと 神聖に繋がっていると 記述されています イスラム教の聖なる 経典クルアーンでも 永遠の天国に帰りつく 旅路では  男女に差はないことが 明言されています 東洋哲学であろうが 西洋神学であろうが 全宗教が人々の多様な 栄光ある内在の 本性を目覚めさせよう としているのです ダイラルとリーラは この唯一無二の メッセージを 深く理解し インドで 五十年以上多種多様な 宗教の中で 暮らしてきました

パテルス一家は 思い出を語ります 誰もが愛の勅命を 分ち合う事を支持し 命や 平和  誠実さ 慈悲 寛容さの あらゆる形を尊重する 自分達の宗教を持ち 仲良く暮らしてました そしてパテルス一家は 一九九〇年 サン ベルナルディーノに 引っ越し  新しい地域の霊的な 分裂に失望しました 彼らは統一の声を 悟りへの道標を心から 望みました それは 宗教的な一般大衆に 光を与えるはずです スプリームマスター チンハイはその祈りに 応えたのです この女性こそ 異なる霊的な伝統的 教えを 継ぎ目なく 統合する教えを 持つ人だったのです

パテルス一家は 特に彼女のユーモアと 簡素さが大好きで 現実的な悟りへの 姿勢が大好きなのです リーラはこう言います マスターは爽快な 人物です 笑うことも 泣くことも恐れません 女性の師を持つことは 本当に素晴らしいです 神は性別 人種 年齢 人間が作ったいかなる 領域をも超越すると 喚起しているのです パテルス一家は とりわけ観音瞑想に 感謝しています それが 生活の あらゆる面に対する 尊敬の念を 日々 高めてくれるからです

彼らは今 日常の中に 神聖なものを 認識できるのです 悟りとは 教会や寺院 ユダヤ教会堂やモスク また神父らに限られた ものではないと ダイラルは 結論付けています 神は皆さんの中に 他の全てのものの中に 存在しているのです 親愛なる皆さん これら前置きの証明は スプリームマスター チンハイが 観音瞑想の贈り物を 通して私達に与えた 表面的な部分だけです その贈り物とは 内在の静寂と 外在の美徳の均衡です それは善行によって 深められる 信心との 力強い二重奏です マスターは 悟った師として 謙虚に観察し 役目は人々を導くこと 今宵お越し頂いた 皆さまに感謝します 私とご一緒に スプリームマスター チンハイを温かく お迎えください

お越し頂きありがとう それではどこかから 始めねばなりません

私達の人生は大昔に 始まったか 始まった ばかりかもしれません 私達は自分が本当は どこから来たのか 忘れているのです それは 私達のほとんどが 答えられない 唯一の 問いなのです 他の事なら何でも 賢くよく知っています 本からも 学べますし 研究室で 実験できます 化学物質を使ったり 科学的な知識で 解決し 答えを導きます しかし唯一つの答え 最も難解なのは 私達がどこから やって来たかです そしてもう一つ 同じく難解なことは 私達は死後 どこへ行くかです 多くの人にとり人生は 棺の中では終わらない ということは明白です

私達はそれを知っては いても証明できません 古代より  多くの智慧ある 聖人にとって この質問は 非常に簡単でした 彼らは  どこからやって来て どこへ行くのか よく知っています ですから彼らにとって 死の問題は  大した魅力もないし 恐れるに値しません 聖書の中で聖者が 言ってるのと同様に 私は日々死にます 日々死ぬとは どういう意味でしょう 神の王国に入るために 私達が内面へ 引きこもった時が 私達の死ぬ時です 一時的に死ぬのです そして又通常の生活に 戻ってくるのです ですから復活は平凡な 生活の中で いつでも 起こり得るのです

私達が古代の聖者 イエスと 同じ道を辿るなら 私達は一旦 あるいは 日々死んでいるので 別の命があることや この物質世界の他に 別の世界の存在を知り 宇宙を自由に 旅できるように なります 宇宙の神秘を 探検するのです そして死が大した事 ではないと分るのです 実際 私達は決して 死なないと分ります 更に 私達は肉体さえ 持たないのだと 分るのです 不思議に思えるかも しれませんが事実です イエスが十字架に はりつけにされた時 恐れなかったのは その理由によるのです 泣きもせず 命請いもせず 逃げ出しも しませんでした

そう出来たでしょうが そうしたいとも思わず 必要もなかったのです すべてを神の意志に 任せたのです 自分がどこへ行くか 分っていたからです いつでも分っており 死や苦しみなどが 存在しないことを 知ってました 本当の苦しみは 私達がどこから来て どこへ行くのか 知らない時存在します イエスはすでに 知っていたので 肉体的な慰めを 求めるのをやめました 死を恐れることなく 行ったのです 常に 自分がそこにいると 知っていましたから そして肉体は 肉体の目で見るから 朽ちるものなのです でもイエスの智慧には 肉体などと言うものは 存在ないのです

これを証明するのは 非常に難しく 仏陀や イエスのような偉大な マスターが歩んだ 同じ道を辿る以外 ありません 彼らは同じ道を 行きました ですから 同じ事を 教えているのです たとえ私達が  仏教や キリスト教 と名付け 多くの 用語を作り出し 真理を 二つの 異なる領域に分け 私達を混乱させても 実際マスター達は 常に同じ事を 教えているのです 基本的に同じ事です もし私達が リボンや包み紙を ほどいてしまえば マスターの個々の能力 雄弁さなどを 取り除いてしまえば それは 同じものになります

特に私達が 悟った後 あるいは 同じ道を歩き 同じ事を 修行した後では 私達にはそれが 全く同じだと分ります なぜなら両方とも 同じ道を進むからです 例えば 私達が皆 このホールに来て しばらくここで座って 外に出た後で 皆が同じ部屋の事を 説明するのと同じです 何の違いもありません 悟りとは何でしょう とても沢山の人々が 大きな神秘を感じ 非常に讃え 再び自分に取り戻す為 進むべきだと 私達を 強く励ます悟りとは どんなものでしょうか それは悟りと いうものではなく 単なる真理です そうあるべき道 でしかありません

私達がそうあるべき道 でしかないのです そうあるべき道です ですから  私達が悟りを 知らなければ 神を知ることのみが 重要であると その他は重要でないと 気付くまで とても 苦しみ続けるのです 私達が神を知りたいと 思い始めると 神は誰かを 友や 導き手や 方法を教えてくれる 経験ある兄弟などを 送ってくれます どうすべきかが分れば その時こそ 私達が 悟った時なのです 私達は 仏陀や イエスのような 大悟は得られない かもしれません しかし幾らかの 悟りを得たのです そして日々 その行程を進むことで 本当に 偉大になれるのです

その時 イエスが 私達に語った事の 意味を理解するのです 私が為しえたことは 貴方達はもっと上手に  又は同じ様になし得る また 「私と天の父は 一つである」と 私達は皆 神の子であることを 理解するのです 私達は皆 神の神殿であり その中に 聖霊が宿ることを 理解するのです 神が中に宿るなら 私達は何でしょうか 私達は神なのです ではこれが ただの家だとして 神が中に宿るなら 他に誰がいますか 私達や 私や  神がこの同じ家に いられるでしょうか

彼は「私と神がそこに 宿る」ではなく 「私と天なる父は一つ」 と言ったのです 「私と天なる父が 一つ」なら 神を知らずに いられるでしょうか 聖霊がこの神殿に 住んでいるのなら この肉体は単なる 神殿でしかありません そこに住む者は唯一 神でしかないのです 内なる存在者は誰です 唯一の存在です 唯一 神のみです

それが 私達の栄光を いかに取り戻すかを 自身に問い始める時で 悟りが私達に向って 徐々に動き始める 時なのです または 私達が悟りに向け 這い出した時なのです あるいは 走り始め 飛び始めた時かも それぞれ違います ある人々は飛んで行き ある人々は歩いて行き ある人々は電車で 行くかもしれません そういう理由で いわゆる印心の時 ある人々はより大きな 悟りを経験し ある人々は少し小さい 悟りを経験するのです 時に私達は 速く行く事を選んだり 徐行を選ぶからです

どうやって 私達はそれを 選んだのでしょうか 私達は生まれる前に 選んでいるのです この物質世界で 自分の役を演じるため 或いは宇宙のどこかで 演じるためにです 私達は散らばりました 私達は一つでしたが 神の予備軍として 多くに分かれたのです 創造という大計画に 参加しているのです 多彩な人生のドラマを 演じるために そして時が満ちた今 私達の役割は 終わりを告げます 必然ではありません 私達は疲れたしまい 辞めたいと思うのです 家に帰りたくなります 他の人々 他の魂が 私達の役割を 続けていきます

彼らが引き継ぎやがて 私達は帰り始めます それが 開悟した時です とても単純です 私達は神なのです 人生のこのドラマを 演じるため無知で いる事を選択しました 創造を彩り生き生きと 色々なものにし 変化をつけ 面知白くするために また私達が本当に何で あるかを知るために なぜなら 天国には 神しかいません 他は存在しません 私達は神を知りません 私達が神だからです ですから神のようで ないものになりました 私達はここに来る事を 神とは違うものに なることを選択し そうする事で比べられ 私達が神であることが 分るのです

ですから 悟りとは 物理的な宇宙に生じた すべてのものの  目的なのです なぜなら 私達は 神を知りたいから この無知なる役割を 演じるを選びました そうして 本当に神と 私達自身を認識します 世の中にたった一人の 男性しか存在しない なら 男女の違いが 分からないのと 同じです 女性が存在しない限り 男性がどういうものか 分からないでしょう 夜がなければ 昼を 認識できないのです もし太陽光の下だけで 暮らしていたら私達は 闇がどういうものか 分かりません

それが問いであり 私自身が見つけ出した 答えなのです 真意に気づくためには 私達それぞれが 自分のために それを見つけ出す道を 探し出さねば なりません ただ聞いたり 私達は 神であると知っている と言うだけではダメで たとえ 私達が 聖書を信じていても その瞬間 私達は 自分が神であることを 分かっていないのです 理解していますか 皆さん理解してますか ええ 何人かの方は そうでしょう 

開悟してると思います 何人かの方は 他のマスターや 師に付いて勉強し 当然ながら 皆さんは 単なる肉体でないと ある程度 また また 全く肉体では ないとまで気がついて いると思いと思います 時々サマディーの間 自分の体が存在しない ことに気が付きます 存在は分かりますが 体が存在していません 肉体を見つけられない 要素のいかなる痕跡も 見つけられないのです 私達が肉体 骨 体 髪等と色々に 呼んでいる物がです すべてが光であり すべてが神です その時本当に私達が 神だと気付くのです 神だけがこの神殿に 宿っているのです

そして結果的に神殿も 姿を消してしまいます 唯一この意識だけが 私達を幸福に 本当に幸福にします さもなければ どれ程 聖書を読み込もうが 他の師が私達は神だと 告げても関係なく 決して信じられません 私達が本当に 神の子であると決して 知ることはありません また 神の王国が 皆さんの中に 存在することも 決して解らないのです 私達は聖書を毎日読み 聖書を暗記しています 一ページ目~最後まで 暗証できるかも しれません 

それでも 神を知らないのです 私達は毎日知りも しない神に祈るのです 神に祈ります 質問に答えるように 望みを叶えるように 欲望に応えるようにと 私達は始終 そのものであり 私達が祈りを捧げる その対象であるのです そして時々 私達は神に怒ります 神が私達に答えて いないと思うからです 神が望みを叶えて くれないと思うのです 神を知った時のみ 私達はもう神に不平を 言わなくなるのです 神に祈ることさえ 必要なくなります 思う事は何でも 私達のものになります 望むものは何でも 私達は手に入れます もはや欲しいと 望まなくなるでしょう

その時私達は言います 「神は我が羊飼い 我望むべからず」と私達は本当に満足 してしまうからです メルセデスベンツを 運転しようが 自転車に乗ろうが 歩こうが関係なく 私達は本当に幸せで 本当に満ち足ります 内在で非常に豊かに なり 何一つ不幸せに するものはありません たとえ私達が王や 物乞いだったとしても 幸せであり どんな状況でも等しく 幸せでいられるのです 本当に幸福を知ります その時になると 幸福は私達そのもので それは開悟が もたらすものです 私達が耳を傾けるべき 理論ではありません それは経験です

それは知識です 私達が得なければ ならない認識なのです そうでなければ 私達が理解したい 多くのものを 理解できません また 互いに 誤解し続けることに  なってしまいます また個人的な人間関係 仕事上の取引とか 神との愛ある結びつき において 多く苦しむ ことになります 私達は 本当の理解 愛が非常に偉大で 自らの敵が 許せるものであると 解らないでしょう というのは その時には敵がいない と気付くからです 私達は聖書をよく読み 「敵を許しなさい 隣人を愛しなさい」 とあります

しかし その理由が 私達が誰なのか 本当に解るまで 理解できないのです そしてその時になれば 説明は要りません 愛が私達から溢れ出て 光が周りを囲むのです そのようになるのです 私達は愛になり 私達は光になるのです 私達は常になりたいと 思うものになるのです 常に祈りを捧げていた その存在になるのです 神のようになるのです ですから イエスのなマスターが 崇拝される理由は 本当に神のようだから ですから イエスの ようなマスターが 崇拝される理由は 神のようだからです

神に対して想像する すべてを兼ね備えます でも私達も同じように なれるのです イエスが そう言っているので 信じるべきです 彼が私達に嘘をつく 理由はないのです 彼は誰からもお金を 貰いませんでした 彼は当時教会や家さえ 建てませんでした 彼は自らの足で歩き 所有物もありません 彼にはこの惑星の どの魂にも 嘘をつく理由が なかったのです 何でも私に出来た事は あなた達にも出来る 皆 神の子であると 彼は言ったのです 私達は彼を 信じねばなりません 唯一私達がすべき事は 彼が言った事を 認識すべきということ 自分で証明するのです なぜなら 彼は 既に約束しています 方法を発見すべきです この約束を 認識する方法です そして これが 悟りのすべてです 大変簡単です