再びコスタリカの 兄弟姉妹に会えて 嬉しいです 到着する前から 私は既に幸せで ワクワクしていました コスタリカの人々を 恋しく思います 皆さんは温かく誠意 ある国の人々ですから この世界では 裕福で文明的な国は 見つかりますが 高い技術を持ち 非常に高い生活水準を維持している国々は でも温かく 人間愛があり歓待する 国は多くありません それでコスタリカには 温かさと人類愛が 沢山だと発見しました 世界で貴国が非常に 人気があるのは 不思議ではありません

最近 多くの大統領が 貴国に訪問した際にも この国を 平和会議の場所に 選んだほどです 大統領はノーベル 平和賞も受賞しました おめでとうございます 私もここへ来られる 栄誉ある機会を得られ 喜ばしいです とても喜びを感じ 神に 仏陀に イエスに 祈りました 私は良い媒介となり 貴国にできる限りの 最高の奉仕ができる かもしれません 私の 短期間の滞在中にです では一分間 共に祈りましょう 目を閉じて 神に 仏陀に 誰であれ皆さんが 信じている方に 私達の会議が貴国に 全世界に恩恵を もたらしますようにと ありがとうございます

皆さんが言語を 理解しなくても 中国人の人々のように 魂で聞くことを 試して頂きたいです それは生まれ持った 智慧という意味です 恩寵や恩恵を幾らか 引き出します 私は考えを皆さんに 提供したいです この世を去った後 何が起きるかについて 今夜お話致します なぜならこの世で 生きている時に 私達は既にどう すべきか分かります 殆どの人がこの世を 去った後何が起こるか 知りません そしてまた私は開悟と いわゆる「死」の 体験のとの比較に ついてもお話したいと 思います はい「死」です 実際 私達が死ぬ時 私達は死なないのです

この肉体を 変えるだけで あるいは 時には ただ短期間の間 この物質的な姿を 放棄します あるいは長期間かも しれませんが おそらく何百年の間 何千年もの間かも しれませんが 再びこの世界に 道具としてこの物質的な道具を通して 智慧と体験を表す ために戻って来るかも しれません 聖書の中で聖人の 一人が述べています 彼は「毎日死ぬ」と また他にもあります 「死に方を学ぶことで 汝は生き始める」 また他の箇所では こう表しています 「放棄することで 汝は生を得る」と それで聖書で そのような文章を 読んだ時 私達は とても戸惑うのです

「どうやって 生きるために 死ねるのだろうか どうやって毎日死ぬ ことが可能なのか どうやって生を得る ために生を放棄できる というのか」と 「死んで私が体験した こと」この本を読んだ 人は多いと思います 米国のある医師が 多くの臨死の人々が この世に 戻って来た時の話を 集めたものです それはほぼ皆 同じ体験をしたと 表しています それは死後の世界で この肉体を離れた後 彼らは偉大な喜びの 感覚と自由な感覚を 味わうのです 彼らは遠くの国へ 飛んで行き 一種の乗り物でですね トンネルのように 見えます 

その後 光と愛に溢れる 衆生に歓待され 最高の援助で 迎えられます そして私達が開悟の 体験をした時 いわゆる悟りの境地で 私達は多かれ少なかれ 類似した体験をします それで「毎日死ぬ」と いうのを聞くのです 「開悟」の意味は 私達が最高の世界の 周波数と接触すると いうことなのです この宇宙で 私達 だけが存在ではなく この世界での私達の 人生もつねに生きる たった一回の人生では ありません それでいわゆる開悟の 体験を得たなら その瞬間高次の世界と 繋がったことを 意味し 時には過去の栄光ある 体験を再現することで 栄光ある世界のです

私達は常に人間だった 訳ではありません 私達は時には 仏陀 天使 聖人 菩薩でした 「菩薩」の意味は 「聖人」キリスト教の 用語ではそうです ただ これは サンスクリットには 翻訳がありません 「菩提」の意味は開悟 「薩」は衆生で 「菩薩」は 開悟した衆生 聖人の 意味になります 私達は異なる多くの 世界で生きてきました 時には非常に 素晴らしい知的な 世界で以前人生を 送ったこともあります しかしこの世界に やって来て殆どの人が 過去を忘れます それで私達が開悟を 得た時 それから時々 これらの過去の記憶を 思い出したりします

それで私達が属してた 私たちがやって来た 場所の跡を追い 私達が偉大な衆生だと 認識し始めます 臨死体験をした 人々の死の 体験と同じです 彼らがその いわゆる臨死体験を 経験したとき 殆どの人々は一種 生前の全体験の映像を 映画を見るように フラッシュバックで 目にしますが 大半のこの「臨死」の 人々はこの人生の 体験を他の世界で それらを 示されるだけに すぎません しかし開悟した人は それは沢山の 何千年 何百年 数千年にも遡って 見ることができます この世界の 体験のみならず この人生も多くの過去 世界のものを見ます

それでそのような 知識の後に人は 彼は凡夫ではなく 仏陀キリストの意識を 持つ者であると 認識します これはイエスが 自身のことを 天の息子と表し 仏陀が彼自身を 悟った者 それが仏陀であると 表した方法です 「仏陀」の意味も 「キリスト」です 「キリスト」は意識の 段階の事であり神の 意識のことです サンスクリット語で 「仏陀」はキリストで ギリシャ語で 「キリスト」は仏陀です

それで私達がこの意識 レベルに到達し理解し 智慧を得るなら私達も また仏陀でキリスト だと理解するでしょう 私達が最高の開悟が 得られないなら ただ一部の体験 臨死の体験などしか 得られません 私達は死後阿修羅の 世界へ行くか 少し高い境界へ 行きます しかし私達は高次の レベルの開悟つまり 高いレベルに到達し 日々の瞑想修行を 通して 高次の世界へ 到達できます そこは高次の智慧を 高次の栄光を 表しています

イエスは言います 私の父の家には 多くの部屋があると ええ それが 彼のいう意味です 聖書でもまた 記録されています 第三天に到達した 人がいました 聖書は天国がいくつ あるか言っていません でも第三天国があり 第二 第四も あるはずだと 同様に仏教において 仏陀は 多くの異なる仏国土と仏国土の多くの レベルについて 説明しています 例えば 阿弥陀仏の浄土が あります この地はそれ自身が 九つのレベル 九つの境界に分れます 低いものから 高いものまで 美徳と修行の 乏しい者は 低いレベルの地に 留まることになります

何千年もたっても 彼はそこに留まります 日々最高の仏陀と 或いは開悟した衆生と 学ぶことを通し 最終的に偉大な覚醒を 得るまではです そうして高次の レベルに行けます 私が思うに これは学校の 教室のようです 高校に多くの教室が あるのと同じです 今 私達にいわゆる 開悟の体験がある時 それは臨死体験に 似ています 私達はただ 肉体の身体を一時的に 離れるだけでそして 再び戻ってきます ちょうどこれら死後の 体験 米国医師の 本のようにです 瀕死の人々が痛がり 困難に思うのは死の 体験がないからです

日々私達が死ぬことを 学べばそれは 楽しみになります ほとんどの人々が 死ぬ時 この世界を失うかもしれないことを 非常に恐れます 彼らはここより良い 世界が存在することを 知らないからです より美しく より心地よく より幸福な世界が 待っていることを それで彼らはこの世界 良く知っている周囲に 愛する者にしがみつき このことが 霊体と肉体との間での 奮闘を 引き起こします それが痛みの 結果です 死が単に一種の 再生だと知っていれば 恐れる事はありません その時を楽しみに 待つようになります

ではどうやって美しい 日の準備をするのか 多くの人々が 誕生や結婚の準備はしますが 死の準備はしません 実際 死は大事な日で それは最も重要な日と なるべきです 誕生の際私達は 肉体を持つだけで 自由が制限がされ 非常にゆっくり 成長の過程があり でも死は より大きな自由 より美しくより柔軟な 身体になり偉大な 智慧を得てずっと 美しい世界に住む事と なります 休み 学び 進歩し 更に 進むためにです それで実際死は非常に 役立つ出来事であり 改革の速度が上がり 私達を高次の智慧に 速く上昇させる ものなのです

しかし死後この地位を 得るためには  私達はまた地球上での 人生を送る間それらの 例を体験できるように 面倒も見るべきです より楽しいタイプの 美徳なものにする為に そしてこの世界を 離れるその時 私達はもう後悔がなく 罪悪感もなく 執着もありません それで私達は素早く 幸せに上昇します 人々がこの物質的な 身体を去る時 他にも 幾らかの障害があり 加えて痛みがあります それは慟哭と 残される 愛する者の 悲嘆です 殆どの人々が 愛する者の死に泣き 何カ月も何年も 悲しみます

ええそれは私達にも 理解し得るもので 愛する者を 良い友人仲間を失くし 私達はその友人が どこへ行ったか 知らず 彼らが行った世界が より良い世界なのか どうか 誰か彼の面倒を 見てくれているのかと それで私達は悲しみ その魂に執着して いると感じます その結果この感情的な 部分は離れようとする 魂を捕えて ある意味 彼の妨げになります また彼の強烈な喜びも 減少させ 自由をも制限する ことになります それで一番良い 正しい方法とは愛する 者が亡くなった際には 悲しまないことです

困難だと分ってますが これは高次の 犠牲と愛と言えます 私達は幸せに 感ずるべきです 魂は物質的な制限から 自由になります 刑務所から その魂は自由に飛び 回ることができ 多くの事を学び 彼がしたいと思う事が 沢山できるのです でも私達はこの死後の 世界について 垣間見ることができないために 友人や親類の死を 喜ぶことができません しかし私達は死後の 世界を非常に科学的な 方法を通して垣間 見ることができます 私達は死に方を 学ぶことができ この人生を超越した 多くの他の惑星の 多くの他の境界を 見られます

そして死後の世界に 安心し 幸福を確信します そして愛する者が どこへ行ったか 見ることもできます またこの物質的な 世界を去った後 どこへ行くか 選択もできます この方法で私達は 決して死を恐れず 泣くこともありません 誰かが去ったり 少なくとも泣いても それ程の重荷を感じず 深刻な喪失と悲しみに 襲われることがなく 私達は喜びと 嬉しさで泣きます この世界を超越した このような 体験をした時 私達はこれを 「開悟」と呼びます 開悟には多くの レベルがあります 有能なマスターとの 印心の時 私達は開悟の一部を 体験することが できるのです

私達はこの世界を 超越して素晴らしい 世界を見られます 肉体を離れ 戻って来て 全く死と同じ体験を 持つのです そして私達は 楽しく死ぬ方法を知り この世への執着を 失うでしょう 私達にはどんな重く 悲しく惨めな感覚も なくなります ある人々は死後 他の世界から この世界に戻って来た ことを説明します この世にこれ以上 いたくはないと 感じています 既により良い世界が あると知ったからです しかし逆説的に 彼らは人生を愛します

それは彼らを 落胆させたり 死にたいと思わせる ことではなく人生は 継続される過程のある もので 永遠に死が ない事を知るからです それが人々をより 肯定的にさせ より勇気づけ より充実した人生を 送ろうと努力し 人生の恩恵を 社会や自分自身に 意義のある生活を しようと努めます それで私達は多くの 経典の中で 全ての 聖人が常に人類の 利益のために絶えず 働いてるのを見ます 人類に その生涯を エネルギーを捧げ 智慧を貢献します 特に霊性の 分野においてです

イエスの人生を見ると 彼は非常に偉大で 天の息子である事は 言うまでもありません 彼が聖人だという事は 彼の人生を見れば 十分分かるでしょう 今私達は彼が 毎日至る所を歩いて 回ったことを 知っています 真理を説くために 人々に神を 思い出させるために 多くの困難と貧困に 耐えた事を 彼はそうする必要は なかったのです 覚えていますか 彼がパンを増やし 五千人もの人々に 与えたのを そして 覚えていますか

水を ワインに変えたことを そのような人は貧困に 耐える必要はないはず でも彼はそれを選択し 人間に奉仕するために 人々に真理を 神の教理を 目覚めさせるために そうしました無知な 惨めさから抜け出す のを助けるために では仏陀の人生に 戻りましょう 仏陀がカトリックとか キリスト教徒でないと 言う必要ありません 彼はキリスト教の イエスと同様であり 又はイエスは仏教徒の 仏陀と同じです では仏陀は何を したのでしょう イエスと全く同じです

仏教経典を 読むと この世での彼の地位は 非常に高位だったと 私達は知ります 彼は国王になるはず でしたが彼は全てを 放棄し貧困と困難に 耐えました 様々な場所を旅し 謙虚に食物を請い 真理を説法して まわったのです 彼はこの食物さえ 必要では ありませんでしたが 謙虚さと慈悲の行為 としてそうしました それで彼に与えた人は  とても少しかもしれ ませんがお返しに 無限の加護を受けます 与えることと無私の 献身を学びます イエスと同じで 彼も食物を乞う必要は ありませんでした

誰かの供養も 必要としませんでした 彼はそうしたのは ただ人々が加護と 智慧を得るためです 聖者をそれ程献身的に するものは何ですか それは彼らが 永遠に続く生命の 知識を得たからです 彼らは 悟りから幸せを 得たので それで彼らも この楽しい経験を 人と共有したいのです 無明であることが どれくらい惨めかが わかっているので 多くの失敗 多く間違い 多くの犯罪は 無明から来ました この世界には 罪人はいません 本当の罪人はいません 最も大きな罪は 無明です

私達が生命の秘密を知れば 生命を愛する方法を 知れば 悟っているなら 私達はどんな犯罪も 犯しません 従って 間違いをする 誰でも 罪を犯した 罪人でも 非難される べきではありません 無明こそ非難すべき ですから聖人は 人々を有罪と 判決する代わりに 人々に無明から 抜け出す方法を 自身を知る方法を 彼らに智慧の使い方を 教えます 誰でも 本性の中に智慧が 隠れているからです それは私達が神の 王国と呼ぶものです 全てが栄光で 全知で 全愛です

この神の王国を 見つけるとき 自身の努力でも それを知っている 誰かから学ぶことで あっても 私達は充実感を 感じ始めます 愛と生命に対する 積極的な姿勢を 感じ始めます そういうわけで過去の すべての聖人は人々に 教えるために 非常に 一生懸命に働きました たとえそうする事で 多くの批判や誤解や 困難などに耐えねば ならなかったと してもです 時には命さえ賭けることもありました 例えばイエスや ソクラテスの場合で 仏陀も同じです

多くの人々は 彼を殺したくて彼の名を 汚そうとしました しかしこれらの困難 すべてにもかかわらず 聖人は人々のために 常に耐えます 聖人は最も偉大な 平和の創造者です 常に世界に平和を もたらす 最も偉大な政治家で 王座のない 国王です 彼らはこの世では何も 必要としないからです イエスは彼の王国は 天にあると言いました 仏陀はこの世の 王国を見捨てました 内面により偉大な 王国を持っているから それは私達が神の 王国と呼ぶものです 「まずは神の王国を 見つけなさい すると 全てのものがあなたに ついて来るでしょう」 本当にそうなのです