ここ二日間 私は二種類の 修行法について 話してきました 一つは受身的な修行で もう一つは 積極的な修行です 受身的な修行とは 私達の言動 考えなど 私達の言動 考えなど 自分や他人を 傷つけることを 一切止めることです 積極的な修行とは それらの行為を 止めるだけでなく 逆に悪い事と 対照的な良い事を することです 皆が知っています 例えば 以前は盗みを働いたが 今は止めて 一生懸命働き お金を 貧しい人や必要とする 人と分かち合うという 意味です 末法の時代において 最も良い修行法は ダルマ(真の教え)を広めることです

貧しい人にはお金を 病人には薬を 貧しい人や 必要とする人に 例えば 服を 与えることができます また愛を与えることも できます  人を慰めたり 精神面においても 面倒を見てあげて これも慈善の仕事です しかし経典を読むと すべての宗教は 人を永遠に 解脱させる方法を 与えることを 暗示もしくは 強調しています ここ二日間 二つの修行法について 話してきましたが 積極的なものにしろ 受身的なものにしろ 両方とも 十分ではありません

というのは私達の 身 口 意をどんなに 浄化しても それはこの世界や 隣の人に対し 役立つだけで 自分を 楽にしてくれるだけで 生死から解脱する ことはできません すると皆さんは 私達の身 口 意が 完璧だとすると なぜまた輪廻するのか と聞く人も いるでしょう 理由があるわけです 例えば 身 口 意を 自己管理するのは 大変難しいです それを願ってもです 完璧な人間になるのは 大変難しいです さっき私達の 修行仲間が 報告したように 彼女は精神的な 葛藤が多かったです 霊修行の中で 必ずこういった 問題に遭遇します

なぜでしょうか それは決して私達が 穏やかな人になりたく ないわけではなく 隣人に優しくしたく ないわけでもなく 怒りをおさえたくない わけでもありません できないのです なぜできないのか 私が初日に話した ように 海に風が立つためです 分かりますか 太平洋は風がないと 波は立ちません 風が吹くと すぐ波が立ちます 決して海自身が 人が船酔いするように 風と嵐を起こす わけではありません これは自然の法則が そうするのです それで私達は時々人に 親切にできないのです 水の上で風が 吹くからです これは風と水により つまり風水です

これを因果の 法則といいます そこで皆は 良い人 親切な人に なりたいのです 人を怒ったり 人に腹を立てたり 人と争ったりしたい わけではありません しかし完ぺきに できる人はいません それは因果の法則の ためです そこで時には私達は 子供や家族の 世話をよくしている のに子供達はなぜ 親不孝なのか理解に 苦しむことがあります そうでしょう 又はあんなに奥さんを 愛しても彼女はやはり 離れていきます 皆が分かっている 事です 

不思議です 事実はかくも簡単です または私達が あんなに夫を尊敬し 彼の意思に 反したことがなくても 彼はやはり外に行って 私達より器量の悪い 女性を探すのです 相手が私達より 美しいのなら 理解できますが しかし醜く 教養もなく 「特殊な」臭いが するかもしれません 私達から見た場合 彼女は何でもないです しかしなぜ夫は彼女の 所に行くのでしょうか 本当に訳が分からず 心が痛いのです 私達が何のミスを 犯したか分かりません これは必ずしも あなたがミスを犯した わけではありません 分かりますか

必ずしも私達の せいではありません これは因果の法則 輪廻の法則のせいです たぶん前世で私達が 彼にそうしたのです そこで今生で彼は 仕返しをするのです 意味が分かりますか 悪いカルマ (報い)を償うには 彼らに借りを 返さなければ なりません 例えばこうなのです または法律のせいで ないかもしれません 時には因果の法律は こうでもないです これは一つ目の 原因に過ぎません 二つ目の原因は世界は 逆さまになっています 意味が分かりますか 私達がどんなに 良くても人は私達の 良さが分かりません ある人は 善良とは何か 分かっていません

そして常に何でもない ことで邪険になります そこで私達は永遠に 大衆を完全に満足 させる事はできません 意味が分かりますか 皆さんも見ての通り 例えばフォルモサ (台湾)政府は 私から見ると素晴しい と思いますが しかしやはり不満に 思う人もいます そうですか そうですね(はい) そういう人がいますね (います) 私も驚きました なぜ不満なのか 私には分かりませんが 彼らは不満です 彼らは満足せず 十分と言うほど ではないと思います 例えばこうです またイエスを 見てください 彼は偉大な 開悟したマスターで 間違った事は 何一つしていません

良い事を教え 人に盗みを働いては いけないと教え 仇を自分を愛するが 如く愛せよと教えます 凡夫にこんな愛は ありますか ないです  これはイエスは偉大で あるということです 彼は殺される時も 神に父よ彼らを許して 下さい 彼らは何を しているか分かって いませんと祈りました 偉大な聖人ですね 彼がどんな人か行動を 見れば分かります 彼のレベルや彼が 真理を教えたかどうか 論じるまでもないです 私達が口を開けて 彼を批判する瞬間 私達のレベルが低い ため彼の行動を判断 できないということが 見て分かります

果実を見れば どんな樹か分かります そうですね 使い物になるかどうか 分かるわけです 他の事は 語る必要もありません イエスの道徳は 彼の行動を見れば 分かることであって よって彼の内面の レベルも分かります 彼はきっと 偉大な菩薩です 普通の人以上の 慈悲と寛大さを 持っています 従って私はいつも 彼を讃えます こんなにも 偉大で寛大で 慈悲深い人でも 十字架に貼り付けられ 人に中傷され 打たれ 罵倒され 残酷に 死んでいきました 聖人はおろか 普通の人間扱いも されませんでした

多くの偉大な 修行者達は 人々に善行をするよう 教えていますが 最後には同じような 目に遭っています もうこれ以上 羅列したくありません 余りにも多くて枚挙に いとまがないです 二、三挙げると 例えば 釈迦は 四十九年間 民衆に奉仕し 社会を浄化させ 衆生を解脱させ 渇望する人々に 修行法を教えました しかし多くの人が 彼を中傷しました そうでしたね 多くの人が 彼を殺害しようとし 彼を冒涜し 不当に非難しました 妊娠を装って 彼を非難した人さえ いました

現在でも 多くの人が 釈迦やイエスを 非難しています ですからよい事を するとよい報いがある などと言えないのです そうではありませんか そこで昨日と おととい皆さんと 私は二つの 修行方法について 話してきました 身 口 意を 浄化して 完璧にする方法も 社会にとってよく 世界平和に役立ちます しかしそれで 十分とは言えません というのはこの世界は 私達がどんなよい事を しても嫌な人がいて いつも嫌う人が います 私達がどんなに 耐え忍んでもそうです いつの時代もそうです 必ず敢えて 挑む人がいます これがこの世界の 慣わしです

ですから 私達が 真剣に修行して 身 口 意を 清潔に保つと 世界は平和になると 思ってはいけません そうでないと 世界はとっくに 平和になったと 思います たとえイエスや 釈迦がここにいる 時でも世界を平和に できませんでした 意味が分かりますか かえって 邪悪な人達に攻撃され 傷つけられたのです 従って別の法門を 使うべきです 身 口 意を 浄化する方法は この世界での方法で 私達は超世界の 法門を習って 早く離れなければ なりません

意味が分かりますか 時間がくれば 離れねばなりません 私達は早かれ遅かれ この世を離れます 従ってカラフルに 化粧して自分を派手に 飾る必要はありません しばらくすると私達は 離れていくのです 私達がここにいる間は なるべく完璧な地球の よき客人になる事です 意味が分かりますか 私達はここの客人です でないとしたらなぜ たった百年留まって離れるのでしょう 私達の家だとすると 永遠に留まっても いいはずです ある人はとても 留まりたがりますが できません それは私達がただの 客人だという意味です

客人だとすると 時間がきたら 家に帰る準備を しなければなりません 荷物と お金を準備すべきです 旅する前には お金を蓄えるべきです しかしこの世を 離れて別の世界に いくには功徳を準備 しなければなりません 福報ではありません 功徳と福報には 大きな違いがあります 福報は物質的なもので 交換できますが 功徳は自分の 不可思議な力で 得るものです 私達にはすでに これが備わっています 功徳はすでにあります 隠れた宝のように それを持ち出せば すぐ使えます 物質的なものと 交換できません

すべての衆生がこの 功徳をもっています 仏菩薩も聖人も 凡夫も ミミズにも 昆虫にもありますが 人間だけが得られます なぜなら この体は最も 完璧だからです   体は汚く病気したり しても完璧です すべての機能を 持っています 意味が分かりますか 他の体は 完璧ではありません たとえば 天使も体があります しかし肉体がないので この宝を持つことが できません 動物の体は私達の 体と異なります 知的な 頭脳がないので 宝をどう得るか 分からないのです 従って私達の体は 最も完璧でこの 宝を得る事ができます

この宝を得るには あれもこれもすべき と多くの人が 言っていますが しかし一つ一つ 比較してみた場合 いずれもこの世界の 法門に過ぎないことが 分かります 例えば昨日神通力に ついて話しましたが 神通力を修行すると 幾つかの能力しか 得られません 例えば 飛ぶことを習うと 空を飛ぶ事ができます 私達はその能力しか 持っていません 他の能力は 持っていません たった一つの能力 飛ぶ能力を得るにも 十数年練習して 一生費やして習います たぶん 飛べる前に 地獄か棺桶に 落ちるかも知れません 地獄でなくても 棺桶に落ちます 分かりますか

上に飛べないと 必ず下に落ちます なぜなら余りにも長い 時間がかかるからです または海を歩くことを 習うことができますが 習い終わったら 死ぬかも知れません 海はそのままですが 人は行ってしまって いません または病気を治す 力を持っていても 明日彼は また病気になります 来年また病気します たとえ今年 この病気を治しても 次の年 彼はまた別の 病気にかかります  一度に全ての病気を 治して二度と病気 しないようにできる 神業の医者がいますか それは可能ですか 

いいえ 私を信じられなければ 治療の力を持った人に 聞いて見てくさい 彼はきっと後から 別の病気にかかると いうでしょう ある病気は 神通力でも 治せません なぜでしょうか それはその病気の 根本が深いからです それは肉体の 病気ではなく 内面の体が病気です 目に見えない体が 病気なのです 沢山の体があります 目に見える体を 肉体といいます もう一つの見えない 体は阿修羅の体といい その他因果の体 ブラーマの体など 沢山あります 服を脱ぐように一つ 一つ全部脱いでこそ 自由になります 私達の真我に 戻るには外に 何も着てはいけません

真我は何重も 包まれています 例えばこれはすでに 包装されていますが この上に更に包装し それにまた更に 何重も包まれています 例えばこうです クリスマス プレゼントと同じで それは 包装紙で何重も 包まれていてその 中身が身我なのです 私達の真我は どこかに隠れていて 私達には探せません それを見つけるには 大きな功徳が必要です きっと隠れ場所を 知っていて私達に 教えてくれる人が いるはずです すると私達は毎日 探し出す事ができます 言い換えれば 自分の真我を 探し出すことです

さっき私が言った 病気治療の能力は たとえ今年誰かを 治しても来年また 病気します 例えばこうです 沢山の法門があって いかにも 面白そうですが それらは完全な利益を もたらせません 他にも沢山の 修行法がありますが 一々説明する時間は ありません 時間はありません 皆さんにどんな 法門を習うとどんな 能力が得られるか その修行法などを 話すつもりでしたが 例えば 空を飛びたい人 地面に潜りたい人は 私がその方法を 紹介できます

例えば催眠術に係り 仮死してから 数日後にまた戻って くる方法とか 人に死んだと思わせる 方法など私はそれを 見せることができます 健康になりたい人は やり方を見せられます 私はこの肉体を あまり気にしません 自分は元気に感じます 時たま 病気もしますが それは自然なことで 病気したらそれでよく 皆が時々病気するので 私が病気しないと 不公平です 私達は一つなので 皆が病気すると 私達も病気します 私は沢山の法門を 知っててそれぞれ何が できるか知っています

これらを気軽に教える わけにはいきません 責任を取らねば ならないからです 十年以上かかります 十年以上かかって 飛ぶことを学びます この十年間私は その人と一緒に飛び 彼が海に落ちる時も 上に飛ぶ時も一緒で なければなりません 例えばこうです 運転を教える人を 見たことがありますね 彼はその人と 一緒についていて 責任を取ります 古代でも人に勝手に 教えるのではないです だから私達は 霊修行の法門をあまり 聞いた事がないのです

私達は 古代の人が 雲に乗って飛び 地面に潜り 海の上を歩く法門を 習うには必ず開悟した マスターを探さねば ならないと聞きました 彼らは長い時間を かけてマスターを探し 何年もの試練を経て マスターのために働き 沢山供養しなければ なりません すると少し 教えてもらえます マスターは気軽に 人に教えると 人はその力で持って 悪い事をすることを 心配したからです 分かりますか 私達はどんな法門を 修行するにしても どんな呪文 どんな神通力を 習うにしても その呪文と神通力を 守る守護神があります

ある日 その法門や 神通力を使って 悪い事または 利己的な目的に 使う場合 その守護神は怒って 私達を懲罰します 古代の マスター達が 弟子に厳し過ぎる のでもなく 教えたくないわけでも ありません 苦労して弟子達に 厳しくテストするのは 学生達を守るためです 意味が分かりますか 先ずは教える前に 彼が資質を 持っているかどうか 高い道徳を持って いるかどうかを 確かめねばなりません よって 他人を守ると同時に 弟子達を守るのです 意味が分かりますか 複雑でないのは ただ一つ観音法門です

というのは 観音法門は 悪い事には 使えないからです 悪い事には効きません 全然効き目がないです 悪いことに 使おうとすると 機能しません 協力しないのです 「それ」は何か 分かりますか それって誰でしょう 自身のマスターです マスターは私達の 賢明な真我なのです 私はただ その真我の代表です 意味が分かりますか だから私は皆さんが 私に礼拝するとか 複雑な儀礼をする事を 許しません 皆が自分自身の マスターがいます なぜマスターが別の マスターに礼拝するの ですか おかしいです 従って私達は 平伏したり儀礼などは 必要ありません

私達は自分自身の マスターを探すべきで するとマスターは こうだと分かります 従って私が印心する時 皆さん自身の 知的で智慧に満ちた マスターの許可を 得なければなりません その人の許可と 了解が必要です 「今それが欲しい  家に帰りたい」と 許可したら始めて 印心できるのです これがマスターの やり方です マスターを 探さないと 印心を与えられません これがマスターで 時間が来たら 私達自身のマスターが 分かっていて私達を 家に連れて帰ります 私はただドアを開け スイッチを入れて あげると彼自身が 独りでに機能します

言葉では説明しにくい ことですが 言わねばなりません 従ってマスターを 探す前に自分自身を 探さねばなりません 自分自身の マスターが 現れたかどうか 彼らが家に帰る 用意ができたか 時間か来たかどうか 確認することです ですから真摯であれば きっと開悟した マスターを探すことが できると知るべきです 開悟したマスターが 見つからなかった場合 私達がまだ十分真摯 でないということです また良い 霊的体験がないのは 真摯な心が足りない ということです 真摯なつもりでも 実際は違います

又はまだ時間になって いないということです 努力すべきです でないと 分かりません 時間が来たかどうか 家に帰る時間に なったかどうか 仏陀になる時かどうか 又は輪廻し凡夫になる べきかどうか試して みないと分かりません 私も印心の前は 印心すると仏陀に なるかどうか定かでは ありませんでした 心の中で渇望した だけです 何を渇望しているの かも分かりません 定かではなかったです とにかく学んで 解脱する扉を探したい と感じただけです

この世界に 包囲され無力で 海に投げ出された ような感じで もうこれ以上 泳げなく早く何かを 掴みたいという感じで 必死でした 私は 必死でしたので それを探し当てました 自分は何がほしいのか と考えるとしたら それはまだ知識を運用 しているという事です 分かりますか 知識は 智慧と違います 昔こんな人がいました 彼は鉄のチェーンで 片足を縛って 樹に吊るし 何年も逆さまに ぶら下がって いました 分かりますか 樹に逆さまに ぶら下がっていました 現在でも多くの インドの人が この法門を習っていて 古代で起きたことでは ありません

インドには多くの 修行法門があって 枚挙にいとまないです それを語る時間も ありません それを語りたいと思ったら 先ず本を書いて 記録せねばなりません でないと忘れます 多すぎるのです 各法門の重点を 記録せねばなりません 私は ビデオテープや テープの中で 幾つかの外的 修行法について 話した覚えがあります 例えば ある人は本当に釘の ベッドに座っていて ある人は下着の パンツの代わりに 鉄のパンツを身につけ 錠をかけ 鍵をガンジス川に 捨てます

永遠に結婚しないと いう意味です 全ての女性に遠ざかれ と言わんばかりです 鉄のパンツをはいて チェーンで周りを縛り 施錠します 鍵はとても大きいです というのは錠が 大きいからです 鍵は捨てます どうやってお風呂に 入るのでしょう 大変だと思います

自分を 逆さまに吊るした 話に戻ります 彼は片足を上に吊るし 頭は下に向けて こんな感じです 毎日食べる時と 寝る時お手洗いに 行く時以外は 戻って来てそのように 自分を吊るします

やってみたいですか 見方が違って来るかも 知れません  きっと逆さまです ある人がそこを 通るとき彼に 「何をしていますか こうする目的は 何ですか」と聞くと 大修行者は 「これで神が見える 私は神を待っている」 と答えました その人は 「そうですか  これで神が見られるの ですか」と言うと 彼は確かに そうだと答えました その人は早速 わらや 草の縄を 見つけてきて 自分を縛って すぐに樹に 吊るしました 彼は自分を 吊るす前に わらで縄を ない始めました

するとその修行者は 彼に それはだめだ 泥沼に落ちてしまう 安全でないと言います その人は言いました 構っていられないさ 神さえ見られれば いいのさ 早く神をみたい  待ち切れない 鉄のチェーンを 探すまで 待てません すぐに自分を吊るし たいのです すると 神が見られます」と 言って自分を 吊るしはじめました まだ吊るしていない 内に落ちてしまいした

皆さんは彼が 愚かだと思うでしょう 軽率に霊修行をすると 思うでしょう 霊修行する人はわらの 縄が丈夫でないことを 分かっているはずです 彼は体が大きいのです もちろん 落ちてしまいます だから皆さんはまだ 仏陀になれず 神を見られないのです 私達は 賢すぎるからです あの鉄のチェーンで 吊るしている人と 同じです 彼は何十年逆さまに ぶら下がっていても 無駄です そのわらの縄を使った 人はすぐ 神を見ました

神は彼が吊るし 終わらないうちに わらの縄が切れて 落ちてくるのを見るに 忍びなかったです 神は彼が泥沼に 落ちて死んでしまう のではと心配して さっそく降りてきて 自分の服で 彼を受けたのです こうして彼は神を見て 大変喜びました 頭の悪い人の方が もっと早く 道を得ます はっきりと計算して いる事はまだ余裕が あるという事です 分かりますか

私達は鉄のチェーンを 作る人を探し自分を しっかり縛るのに 気を取られます 落ちてしまうと 神を見られないと 心配しています 意味が分かりますか やはり疑うのです もちろん神を見られず

その人は 待ち切れません 待つ余裕がないのです その事を聞くと すぐ信じます 強い信念です 吊るし終わらない内に 落ちてしまいました 神は見かねて 神は見かねて すぐに掴まりました そうするべきです

ですから霊修行で 身 口 意を 浄化するだけでは 不十分です それは当たり前の ことです そうすることで 社会の平和を保ち 自分の生存を 維持する事ができます ただそれは 第一歩に過ぎません 私達は すべてを忍受しながら 忍受していると 思わないところまで 修行せねばなりません それこそ真の忍辱です