ある日あなたは本当に 仏陀になります 信じられないなら 「観音法門を通して のみ自身が仏陀で あると認識できる」 と題したテープを 聞くといいでしょう

よく言われる事ですが 自身の重く悪い カルマ(報い)のせいで 私たちはこの世に 人間としてや やって来たのです しかしカルマ(報い)は 実際何なのでしょう 悪いカルマ(報い)は 浄化できますか マスターは 実際私達には 悪いカルマ(報い)は 元々カルマ (報い)などないと 教えるでしょう

実際カルマ(報い)は あなたが考えるほど 深刻なものではなく カルマ(報い)とは ただ私達の 悪い記録 習慣 良くない考えで 世々代々記録されて 来たものです それは一つの法門で 消滅できます 時々カセットテープが 不明瞭で何度も綺麗に せねばならないのと 同じで その方法を 見つけるべきです また世々代々記録 された悪い習慣 行為 考えを浄化する 方法もあるのです それが観音法門です 時に私達は不思議に 思うかもしれません

多くのマスター 多くの世界の偉大な マスターと呼ぶ人が いるので いったい誰が本当の マスターなのかと 誰が真の正しい 法門を教えていて 本当の道に到達してて 完全開悟に 達していて 仏陀になっているの しょうか あなたが 判断に使える基準を 幾つか ご忠告することに 致しましょう 第一に 真の偉大なマスター 本当に道に到達した 人は人々にこの世俗の 快楽を求めるように 奨励はしません 誰かがあなたに 世俗の素敵な事 快楽にふけるのは良い と言うならあなたは 彼が真のマスターか 質問せねばなりません 二番目は 真の偉大な 霊修行者は 非常に公正で寄付を 受け取りません

真の 開悟した人には 智慧と慈悲が あります 彼は本当に自由で 単純で平和です これらの幾らかの 基準であなたの マスターになり得るか 判断に使えます

よく言われるのは 行為は言葉より 説得力がある 私達が常に クッキーは美味しいと 言いながらクッキーを 食べないなら それらの味は一切 分からずじまいです 従ってあなたが真の 仏教徒カトリック教徒 イスラム教徒なら あなたの宗教の教えを 懸命に 修行すべきです 経典の言葉を ただ知る 代わりにです ただその教えの修行を 通して私達は真に その経典を理解できる というものです

私達はしばしば 仏陀が優しさと 慈悲を表していると 感じるでしょう しかし仏陀はよく いわゆる厳しい 厳格な法門も 教えていることを 知らないでいるかも しれません これは陰陽の バランスです 仏陀は愛と教育を 私達に授け 厳しさと優しさを 示します そのような人が 真に開悟し 道に到達し 仏陀になった人です いつか私達が 修行を通じて 完全に陰陽の バランスが取れたなら 私達は仏陀に なることでしょう

よく言われるのは 私達が善行をすれば 私達は天国へ行き 悪行をすれば 地獄へ行くと しかしどこに天国と 地獄がありますか

キリスト教を含む 宗教の多くの信者は しばしば彼らの信じる 神の存在を疑います 多くの人々は 神が本当に存在するか 疑問を持ちます 哲学者サルトルは 宣言さえします 「神は死んでいる」と 神は存在していますか

マスターは本当に 神が存在するなら 誰が神なのか言います 通常 私達は 霊修行者は単に 線香を燃やし 仏像に礼拝し経典を 暗唱すると思いますが それでは不十分です マスターに追従し 法名を持てば 十分だと思います マスターと弟子 彼らの関係が 親密であろうと それでも十分では ありません 真のマスターは私達に 教え 訓練し 奇跡的に面倒を見ます 私達が危険に陥った時 その人は救いに来ます 何か過ちを犯したなら その人は即座に 思い起こさせます その人は何十億もの 化身を持っている からなのです 印心後 各自が 自らのマスターの 化身の存在を持ち それは彼の 面倒を見ます あなたは過ちを 冒せません 小さな 過ちでさえもです

マスターと弟子の 関係は両親と 子供達のそれより 深いのです 深いのです

菩薩と阿羅漢の 違いは 何でしょうか 私達は仏教において 異なる多くの到達 レベルがあるのを 度々不思議に思います その関係は 何なのでしょう

菩薩と阿羅漢は ある面 実際同じだと あなたは知ることに なるでしょう 私達が区別するために 彼らを異なる名で 呼ぶだけなのです

私達は彼らのレベルが 異なると言いますが 実際 彼らは通常 異なる仕事をします 彼らは皆 素晴らしい 霊修行者です そのようなレベルに 到達するために 霊修行者は多くの 訓練を経験すべきです

私が強調したいことは マスターは他の 平凡なマスターとは 異なることです 観音法門を 教えるだけではなく 一世で解脱させ また道徳的行為も 教えて下さっています 言いかえれば あなたが一世で 本当に解脱したいと それほど思わず 代わりに 良い人になりたいと 思うならマスターと 共に修行することは 正しい選択です マスターは厳密な 基準を私達の日々に 課すからです 先程言ったように 私達は小さな過ちも 犯せません 取るに足らない事で あっても悪い事は すべきではないです

しかし私達が一種 そのような考えを 一瞬でも持ったなら 彼女は私達を称え 激励します 厳格な父のように 面倒を見て  母のように愛します

彼女は私達に決定的 効率的 清潔に 早く事を成すことを 教えます 同時に愛する母が 私達の面倒を見る ように接します 例えば 今日 この講堂に来る前に マスターはインド料理 店へ菜食を食べに 行かれました 彼女はそこの料理を おいしく感じ 私達を我が子のように 考えてくれました それで彼女はそこで 一時間以上も待ち 沢山のインドの主食 「チャパティ」を持ち 帰って下さいました マスターは常に私達 彼女の子供達のことを 考えます

彼女がどこへ行こうが 似たようなことが マスターに追従し アメリカ 中南米の講演 ツアーに付き添った 時にも起こりました 私達はマスターに追従 する子供の団体です 私達は皆マスターの 世話をしていたように 見えましたが 実際はマスターが 私達の面倒を 見ていたのです 仕事をした後 毎回 私達が家に帰宅する まで休みませんでした 彼女が疲労していても 彼女は私達が家路に つき遅い夕飯を食べ 終えるのを待っていて くれたのです

私達とおしゃべりして 下さり慰めてくれる のでした 彼女が 休む前にです 彼女がいかに疲労して いても関係なく 彼女は常に衆生のこと 彼女の弟子 子供たちのことを まず考えていました マスターについて全て 説明することは とてもできません 私達はただ 自らの智慧を用い 心でそれを 感じ取れるだけです では張シスターを 招待しましょう

いかに印心したかに ついてお話し頂きます では張シスターを お迎えしましょう うまく話せないなら どうかお許し下さい ステージで スピーチをするのは 始めてなのです

マスターの講演前に マスターの ポスターを見ました この期間中に 決断をしようとした時 私は普通でない 感覚を覚えました その期間に どう早く変われたのか 分かりませんが 私は食肉をやめた ことを決して後悔して いなくて 生涯 菜食でいることに 後悔していません 印心後  私は完全に違う人に なりました 印心前は 私はよく自分で 肉料理を たくさん食べていて  お腹が痛くなるまで 沢山食べたこともあり それでも肉を 食べ続けたいと 思いました

肉のにおいが良くて 美味しいから 食べ続けたい訳では ありません なぜ食べたいのか 分かりません これをすることで 自分を苦痛にしている ように見えます いつも自分は太って いると思い  皆もそう言います 一度 減量を 決意しましたが 肉を見ると 食べてしまいます それは自分を責めて いるように見えます たとえ 食べたく なくても 食べてしまい どうしてそうなのか 分かりません 印心前の まだ肉を食べていた頃 とてもどん欲で もっと欲しくて 大きい物が欲しいです

私は短気で とても怒りっぽいです 笑ったりもしません 私の知人は 私の事を 冷たくて いつも 怒っているみたいで まるで私が村全体の 狂気かのようでした 時に 他の人が 笑ってるのを見て 何で皆 私が ずっと怒っている ように見えるか 不思議に思います なので親しげな笑顔を 心がけますが 私が笑うと 苦笑いに 思います 時に 笑う代わりに 泣きたいと 思ったことがあります 笑えませんでした とても不満で 大きな重荷を 運んでいるような 様々な心配が あるように見えます 開けません

ジョギングしている 時でさえ 不体裁で 重く感じます 走れず 簡単に 呼吸もできません しかし 印心後 走っている時 すぐに 軽く感じました さらに 気分も より良くなり 感情なしに 一日中 笑えます 重荷の ように感じます さらに 私の笑いは 自然にきます 菜食を 続けてから とても明るくなり 機嫌も以前より 良くなりました 簡単に 人に 怒らなくなり 彼らが私を 怒らせてもです もう他人を簡単に 嫌いになりません なぜか分かりませんが 昔は常に人に敵意を 感じていました

誰も私に 親切でなかったり 背後で 悪い言葉を 言ったら 私は怒って その人を 憎むでしょう しかし印心後 マスターの導きに 従った後 もうそんなに重荷を 運んでいないようで より軽くなり 精神的により軽くなり  重荷が減ったように 感じました さらに 印心前は 多くの人は私のことを 話す前に よく考えない人だと 言っていて いつも批判をすると 言っていました 私はとても心が狭く 貪欲で 怒りっぽかったのです しかし 印心後 もっと親切になったと と感じます

また 印心前は お化けと虫 例えばゴキブリや アリが 怖かったのです それだけが 怖くて  本当に嫌いでした 彼らを見るたびに 気に障って 踏み殺していました しかし さらに 怖かったのが 彼らがお化けになって 私を探して 復讐するために 来たのだと思いました なぜ そう思ったのか 分かりません しかし 印心後 もっと友好的になり ゴキブリやアリを 見ても気分を 悪くしませんでした 私が印心で 何を受けたのか 分かっているようで 生まれ変わったように 彼らは来て 私の 邪魔をしないのです

私の前を 飛び越しても 私を噛みません これが心理的なのか 分かりません 印心によって 私に喜びを もたらしたのは 映画をみて得る 幸せとは違います 代わりに  甘くて 平和な幸せのように 感じます このよう感覚は 人は経験して おくべきです ただ他人の 話を聞いている だけでは 体験できません 印心から 一、二日後 あまり 慣れていませんでした 以前 沢山の肉を 食べていたからです しかし 印心後 純粋なベジタリアンに 変えたのです

さらに マスターの 教えを得てから 私は完全に違う人に なったのです 従って 完全に違う人に なってから 突然ぎこちなく 感じます 印心前は毎日 お肉を食べるような 肉食系でした 印心後は 全く肉に触れない 聖人のようになり 動物と虫を愛し 守る人になりました なぜなら 私はすぐに 高く上り それが信じられず 受け入れませんでした それは本当に 違ったからです これをどう説明したら 良いか分かりません 経験をしたら 分かるのです ありがとうございます

では 謹んで マスターから お話を聞きましょう ありがとうございます

昔は 人々はとても 懸命に修行し 天耳と天眼が ありました このような複雑な 機材を使う必要が ありませんでした 今日 私達は 電子耳と 眼に頼っています 悪くありません ないよりましですが もちろん 完璧では ありません 最善なのは 自分の 天耳と天眼を 改良させることです 超能力が あります 天眼とは 何ですか そこに座っていますが 数千キロも先が 見えるのです そこで何が起こってる のか分かるのです それが天眼です そこに座っていて すごく遠くで 何が起こっているのか 聞こえるのです それが天耳 なのです 他にも 超能力がありますが 今日は超能力の 講演をするために 私は きていません

大国でも 小さい国でも  一つの言語を話したら 劇的に 成長するでしょう そうですね 例えばアメリカです

見ましたか アメリカは 大きな国ですが 一つの言語を話します 彼らは非常に早く 成長していませんか アメリカ人は民族を 二百年以上で造り でもまだ彼らは 世界一です 中国の五千年の 文明化は どうですか 文明化されているのか 伝達されてないのか 私たちが統合できない ので 私たちの文明は 発展できません 全世界は私達の中国の 文明を崇拝します 私はこれが非疎通の 文化であると思います

私達が人々が感嘆する 長い歴史と 上品な慣習を持っているのは本当ですが それは二、三の人々の ためだけのものです 例えば 老子と孔子は とても有名です 孟子 墨子 仏陀は一つの言語で 話します 衆生は自分のレベルと 基本的な理解の程度に 従って異なって 聞くでしょう しかし 私たちが 「一つの言語」のこの グループに加わりたい と思うなら同じ法門を 修行すべきです まるで電話通信体系に 加入するようにです

そして 私達はどんな 場所 どんな家 及び 世界のどの国の誰とも 話すことができます しかし 私たちは 電話線を申し込んで それを私たちの家に 繋ぐ必要があります その後に 電話はただ私達の家の 中の私的な回線ですが それは世界中の どんな国のすべての 電話にも接続されます 私の話が分かりますか その時 それは非常に便利です 同様に この観音法門は 宇宙の中での 通信体系があるので とても強力です それは線なしで全ての 場所に接続します

これは「無線電話」と 呼ばれています 釈迦牟尼仏はこの 「無線電話システム」に 接続されているので 彼はすべての衆生と 疎通できます 観音菩薩も 観音菩薩も この「無線電話体系」の 最高の地位を 成就しました そんなわけで 彼女は 一切の衆生の祈りを 受け取れます 世間一般の人々は 観音菩薩  イエス キリスト 釈迦牟尼仏 阿弥陀仏に助けを 祈ります 彼らがなぜそのような 不可思議な力があるか 尋ねた事がありますか

元々 彼らは私たちの ように同じでした 少なくとも釈迦は 普通の人間として 生まれたし私達と同様 二十年以上も 遊びに耽っていたと 聞きました 唯一の差は 彼は私達  より更に大きな喜びを 楽しんでいたし より高い地位 そして もっと快適な人生を 享受したことです 彼は楽しむ方法を よく知っていました でも突然 家を出て  すべての現世の喜びを 捨てました これは至難の事ですね 本当に難しいことです 大抵の人はできません

私たちは つまらない 富を持つだけでそれも 諦められません 六年後に 彼は宇宙で最高の 悟ったマスターに なりました そして 彼は自分の パワーと智慧を使って 多くの弟子の世話をし 彼らも偉大な マスターに 変わらせました 釈迦牟尼仏が 生きていたとき 彼の弟子は王より 更に大切にされました 多くの王は平伏して 彼らに 祝福の代価で 供え物を捧げました 普通の出家者さえ 普通の出家者さえ 高く尊敬されますので 在世仏の出家者は 言うまでもありません 彼らの智慧は 一般の出家者のものと 異なっています したがって 私たちが在世仏の 出家者に会うのは 非常に貴重です このようにして 釈迦牟尼仏の弟子は 人々によって 高く尊敬されました

彼らがいかにそんなに 偉大になったかを 尋ねた事がありますか 自問してみたら 私にも希望があると いうことが分かります 彼らもまた凡夫で 普通の人間でした ある者は無知だったし ある者は殺人者 ある者は泥棒でした ある者は社会の非常に 低い階級の出身で シュードラでした

最も低い階級です 彼らの仕事は トイレを掃除し 人間の排泄物を使って 肥料を作る 最下位の等級でした そのような人々さえ 釈迦牟尼仏によって 聖者 阿羅漢に 変えられました 王さえ彼らに跪かねば なりませんでした 彼らは仏に従って修行 した後 非常に異なる ようになったからです 彼らは内面が完全に 変えられ 新しい人に なりました なぜそれ程速いですか 聞いてくださいね 私たち皆は 仏陀は 心にあると聞きました そうでしょう 

はい しかし私達は心にある 仏が見つけられません いわゆる 悟った マスターがいるなら 彼が誰であろうと 彼は私達の仏の心が どこにあるか知り それを見つけるのを 助けて 私達はすぐに 仏陀にとても近くなり 非常に強力になります まるで私たちが家宝を 持っているようですが 鍵を持っていなくて またそれがどこに 隠されるかを知らず それを見つけてくれる それを開くに鍵を 与えるくれることが できる人はいれば 私達は突然億万長者に なるでしょう

私たちの人生は 突然非常に異なる ようになりませんか そういうわけで 印心を受けた後 弟子の多くは完全に 変わりました 彼らが内面の宝を 見つけたからです 私が彼らに何も与えた というわけではない 宝はあなたのものです 仏性は あなたのものです 智慧はあなたのもので 私はあなたにそれを 発見するのを手伝って その利用方法を 教えるだけです この宝を利用する事が できないなら 本当に残念です

この宝 この仏性 つまり 天国の王国によって 私達は全てを 知ることができます 内なる聴取能力は 遠くから宇宙全体を 聞くことができます 言語障壁がありません 例えばすべての衆生の 祈りをはっきり聞き 私が仏陀になったと ちょっと仮定して 私はただ家に座って 皆さんに印心できます あなたが自宅で困って 私の分らない広東語で 話してくれると どうなるでしょうか 私はわかります 本当に誠心誠意で あれば 私の化身が あなたの家に来て  広東語であなたと 話しているのを 見ます すごいでしょう そうでしょう はい 例えばの話です

しかしこれは可能です それは起こりました つまりそれはできます さもなければ 仏陀 又生きているマスター 仏陀は「悟った マスター」の意味です

「仏陀」は サンスクリット語 からの訳です 「悟ったマスター」 「悟った衆生」 「悟った聖人」或は 中国語で聖人という 意味です 分りますか 偉大な聖者 偉大な霊修行者 そのような意味です 仏陀になったら 様々な国から 弟子がいます 彼らが困っている時 翻訳する人が 必要だったら彼らを救うのに とても 遅れるでしょう それで 仏陀に なった後 それは 非常に便利です 耳を使わなくても 聞いたこと何でも 分ります 電話を使わなくても 弟子たちが必要とする 衆生が必要と するものを知ります

目を使わなくても 世界中の弟子が 何を必要とするか 彼らに何が起こって いるかが分ります そして 彼らを 助けることができます 世界の文明は決して 十分良い状態に 発展できません 決して仏陀になるほど 強力ではありません 私が仏陀になり 異なる言語を話す 様々な国の弟子が いるとちょっと 仮定してください 話を聞くには 助けできるために どれくらいのイヤホン どれくらいの翻訳を 必要としますか これは非常に面倒です

それで 私たちは心を 通して交流します 私達の最も微妙な 内なる深遠な智慧で 私達は理解し合います 外面の言語 形式的行為 お花 線香または果物を 使用せず あなたは花 果物 および線香を 私に捧げます それが尊敬を払う 伝統であるので 私が講演するとか 印心するのにそれらの ものが必要であると いうわけではないです 印心はこれらのもの または赤い封筒を 必要としません 印心は私達の最も深い 感情を表すために 心を使っています

たとえば 時々 私は半日間話しました それでも 人々は わかりません そして 私は言います 「たとえ私達が言語を 通して理解し合う 事ができないとしても あなたの心は私の心を 理解できます」 それは真実でないか それで 中国の伝統で 無言の方法によって 法脈を伝えます それは心から心への 伝達です これに理由があります インドに 笑い話があります 一人の悟ったマスター つい先頃 他界しました

内なる素晴しい智慧で あなたが何を考えても 彼はすぐに分ります あなたが言う前に 彼はすでに応えました これはマスターが あるべき姿です 行動を取る人々の 外観に基づく 代わりに 彼は人々の 心と彼の弟子の心を 知らなければならない すると助けられます それは一人ひとりの レベル 個性と智慧が 異なるからです 皆に同様に対処すれば 成長できないでしょう 意味が分かりますか 従って 悟ったマスターとして マスターであることは 衆生の心を理解 衆生の心を理解 しなくてはなりません

この能力がなければ 悟ったマスターとは 言えません 悟りというより 無明なのです そのマスターは 本格的に開悟した マスターです 彼は厳しく弟子を叱る ことでとても有名です 沢山叱りました 悪いことをするまで 叱るのではなくて 悪い考えがあったら ただちに叱るのです 周りの人は 理解できないかも なぜその人を 激しく叱るのか 可愛くて大きな目を 丸くして大人しく 座っているのに しかし マスターは 彼の心を知っています 物語を話しましょう ある日 マスターは そこに座っていて 多くの人が 彼に会いに来て 供物を献上するのを 見ました

それで 彼は 供物を皆と 分かち合いました 彼はこのようでした その日 ちょうど バナナがありました 非常に特別なバナナ とても美味しく ピンク色の皮でした どこにでも手に入る 物ではなくありません とっても美味しい 彼は人々に 配り始めました 彼はバナナの皮を 剥いて弟子に 配りました 時々 弟子を叱ってから 甘やかしましたね マスター皆同じですね 一人の弟子が 最後の列にいました 彼はこのバナナが 大好きでした

しかし 彼は 最後の列に座っていて バナナがほとんど 配り終わったのを 見て 不安で不安で 心の中で叫びました 「もうなくなった マスター一つ下さい 誰かを飛ばして 一つ残して」 ちょうどこの考えが 浮かんだ瞬間 マスターは バナナの皮を彼に 投げました もちろん 彼を特別に 待遇することは 他の人は分かりません 皆はバナナ果肉なのに 彼だけは皮です でも  彼はよく分ってます 彼は恥ずかしかった とても恥ずかしかった 皮をもらったので それを 食べるしかありません

悪行を認めなければ ならないため 非常に利己的で 好ましくない考えを 支払うため 皮を飲み込みました 彼は反省したことを 見て マスターは嬉しかった もう一つのバナナを 剥いて半分食べてから その人に渡りました 最高のバナナでしたよ 悟りへの道に 悟りのマスターを 見つけないと 進歩することが 感じられませんが 私達の欠点も 発見できません なので発展できません なぜなら 普通のマスター 有名に関わらず いわゆるマスターは 褒めるだけだからです

どこが悪いかを指摘 してくれないでしょう 弟子を失うことを 恐れるからです 供物を失うこと 面子を失うのを恐れて 残酷に思われることを 心配しているからです でも本物のマスターは 面子を気にしません 面子がありません エゴがなく名誉への 欲望がありません 彼はただやるべきこと だけをやります それで弟子達は 進歩できるでしょう 名誉や振舞いを 守るなら 優しく思わせたくなら 優しく思わせたくなら まだまだエゴがある 分かりますか まだエゴから完全に 解放されていません 真の悟りのマスターは 真の悟りのマスターは 天眼 天耳は全て 見通せます 彼は正しく鏡のように 個性がありません

個人の感情がなく 個人の振舞いがない まさに鏡のように 私達の姿を 反映するだけです 醜いなら 醜く反映されます きれいなら きれいに見えます これらマスターを 見つけるのは難しく 彼らはかなり厳しく 毎日 同じ顔をして 常に座って半眼が 開いて人が来るのを 待ってこう言うの ではありません 「あなたは大丈夫です 良くやってる 無限の功徳ですよ」 衆生は それほど簡単に 救われません 皆それぞれ個性があり 沢山の欲望 不思議な強い雑念 貪嗔痴 貪り怒り愚かさは 宇宙に満ちています

皆それぞれの心が 分からないと マスターは悪い所を 修正できません 高級車を運転してると 思ってください 時々故障が起こります そうでしょう 外面はまだきれいに 見えますが 中のエンジンは 問題が起こっています 車を修理する専門家の 場合 私たちの話から 車には 何がよくないか わかっています 彼は車の内部を見て エンジンを修理する かもしれません 彼は美しい外部から 修理し始めません マスターも 私達の 内面の何が悪いか 分っているべきです

そして私達のレベルに 応じて 異なる方向で 教えてくれます 初めに 同じ方法を 教えますが その後 違うことを 教えます 彼は同じ方法を 伝えますが その後 異なる方向で 一々修理します 調味料 塩 砂糖または醤油を 加えます 分りますか 彼は多くの味で 料理します これらの悟った マスターから 学ぶことは 時々 楽には感じません 彼らはすべてを 知っているようです  私達は隠れられません 良いか勤勉なふりを することができません 彼らはすべてを知り 彼らに会うとき 私達は尊重しながら 恐れます 分りますか

恐れても 彼らが好きです 好きであっても 恐れます 彼らが私達の憧れる 医者であることを 知ってるので 彼らが好きです 私達の病気理解し 治すことができます 彼らは本当に私達を 哀れみ 無条件で 愛してくれるので 私達は彼らを愛します 私達の過ちが 見えても 依然私達を 愛して 調整します つまり 私達の過ちを嫌うが 私達を嫌わないのです 従って 私達は 彼らが好きで 彼らに 付くことが非常に 安全であると感じます  でも私達には恐れも あります 

自分たちは たくさんの暗い思想と 悩みを持つと知るので 彼らが発見 することを恐れます 釈迦牟尼仏が 生きていたとき 彼もそのようです 人々が 何を考えているか すぐに分ってました イエスキリストが 生きていたとき 彼もそのようでした 誰が彼を裏切りそうか 誰が彼を知っている ことを否定するか 彼は分っていました その人は ペトロでした 彼が去る前にはっきり すべてを言いました マスターは皆こうです さもなければ マスターでありません

これは交代制の表です どうぞ明日も 同じ時間に 次の部分をご覧下さい