皆さんに再び会えて 本当に嬉しいです 神のご加護を 私は長い間ここに 来れずにいて本当に すまなく思っています

しかし時に 悪いカルマ(報い)を 集合カルマ(報い)の 面倒を見ることは 容易ではありません 皆さん自身のカルマ (報い)でなく皆のが 同様にあります とにかく今日私達は 互いに会う機会に 恵まれました 良かったです 全然ないよりいいです いいでしょう  この大きな菩薩の店と 寺の他に 何かありますか 大きくなった事は? 私達の団体は 大きくなっています ええ少し 私達が食べに訪れた 菜食レストランは どうですか 繁盛していますか ええ実際 私達はお金に注意を 向けて店を開くのでは ありませんね そうではなく平和な 生き方を広める為です また瞑想と 崇高な愛の方法を 広めるためです

ある人が言いました この種の衣服は高貴な 人だけが着るのだと そうですか 誰でもこのローブを 着て歩いたら 高貴に見えるでしょう 早くは歩けません このように歩幅狭く しか歩けないので 皇族のように見えます ですから同じです 私達が内面の繋がりを 修行するなら 私達は皆やはり高貴に 見えます 私達の 内面の考え方 内面の 振動力が変わるからで それで私達は 変わります 皆が それに気がつきます ただ時々私達は 外側の衣服を替えます 新しい衣服にあるいは 違った種類の衣服に すると私達の外観は 変わるのです

内面も更に変わったら どれ程変わるでしょう 考えの 全過程 あらゆる理想 全ての焦点を合わせる 注意の向け方 全てが変わります その時もちろんですが 私達は違って見えます 私達は変わります 菜食が皆さんをより 慈悲深くするのでは ありません 法門のみが皆さんを より高貴にするのでは ありません 皆さんが自分自身に 献身する方法なのです 自身が自分の新しい 考えに生活様式の方に 注意を向け高貴で 新たな人にさせます 私達が ただ法門を学び ただ菜食をするだけで 自分を変えないなら それは大した助けには なりません

私達はなぜ 菜食なのか 瞑想を修行するのか 知らねばなりません そうすれば私達の全身 私達の全存在 私達の全脳細胞が 目的を 理解するでしょう そうすれば私達は 内面から外面まで すっかり変わります 概念は正しくなければ なりません そうして 瞑想が実を結ぶのです そして生活様式は 模範的に良いものと 高貴で美しいものと なります それで私達は 私達の注意を 何か束の間のものに 向けたりしないのです 神通力とか何か その種の 超能力などにです

こうした事は 恐らく私達が幾らか 能力を持ったなら 私達は状況を 変えることが出来ます 物事の外面 見かけとか環境等を 変えることができます しかしこうした事は ほんの一時的な事です その後時に 結果が以前より 悪化する事があります なぜなら 私達が神通力を 使ったところで 何の役に立つでしょう 私達に超能力があり 人を変えられるとして 例えば 病気の人を 健康な人に 醜い人を 美しい人に 変えられたとしても その人の内面がなお 腐っていたなら 病気だったなら 内面が醜かったなら 否定的な考えで 本当に高貴ではなく 他者や自身に害のある 望みを抱くなら 何に役立ちますか

私達が 明日何が起こるか 分かっていたとして それを避けようと してもたった一つの事 内面が変わって いないなら 次の時にはやはり 悪いカルマ(報い)は やって来ます 私達の生を続けられず 悪い事を避けられない なら どうでしょう 私達が内面から 変わらねば 起こる事は 起こるのです なぜなら 内面から変われば全て 他の事は変わります 時に例え何とか できたとして 悪運を幸運に生涯中 変えられてもです 仮に私達に超能力が あったなら私達には 常に未来が見えます 明日何かが起こるとか いうように あれこれしてそれを 避けようとします

明日 交通事故に 遭うかもしれません ええ それで家にいて 車を運転しません 或いは誰かに曲り角で 殺されることになって いるならその方角では なく別の方へ行きます 仮に事故や悪運を 生涯ずっと避けられた として次の人生は どうでしょうか 次の人生では 再び人間ではないかも しれないのです 超能力を使うことさえ 許されないかもしれず あるいは 超能力の 知識を訓練できる 好ましい 状況下ではないかも しれないのです

すでに地獄にいるかも しれないのです 懲罰の炎を避けるべく 誰が皆さんを助けに 行ってくれますか ですから古代から マスター達は 常に私達に美と徳と 真理の中を 歩くように 強調してきました それこそが私達の 唯一の安全弁なのです 何であれ私達が することはすぐに 私達に影響します たとえ私達が 理解してはいなくとも 否定しようとしても 避けようとしても 結果的に訪れます ええ 皆さんが 全てを捨てて 全世界を放棄し 出家して ヒマラヤへ行き ずっと一人で洞窟に 座っていない限りです

そうすれば皆さんに 何も起きないでしょう ええ今生では皆さんに 何も起きませんが 次の時に起こります 何であれ洗い流されて いなければ常にそこに 残っているからです 仮にシャツを 汚したとして それでそれを避け 見ないようにします 汚れが付かなかったと 思おうとします シャツにシミが 黒いシミが 存在しないと 思おうとします それでそのシャツを 片づけてしまします それが自然に消えて しまうと思いますか カルマ(報い)も 同じです

たとえ 私達が前世の 善悪の行いの結果を 避けようとして 洞窟のどこかへ 逃げ込みそこで一人で 座ったとしても 次回私達は戻って来て 支払わねばなりません 超能力者にも同じ事が 言えます 彼らは 状況を変えられます ほんの暫くの間 悪運の現象を 引き延ばせますが それは尚もそこにあり 後で戻ってくるのです 後になってより強力に でもこの世界の 多くの人達は超能力が 大好きです それで彼らはあれこれ そうした修練を 学ぶのです ちょっと超能力を 得るためにです

それが素晴らしいと 思っています はい それで私達の修行の 重要な点ですがそれは より多くの力を得る ことでもより多くの お金を得ることでも 所有物や何かより多く 持つことでもなく 自身に対するより 多くの覚醒を得る 事なのです その瞬間 私達がどこにいるか 私達が進歩しているか 自分自身の本性を 認識する為に内面に より深く入り どれ程 深いかということです 真なる存在というのは 決して変わらない  存在だからです どんな状況であろうと 関係がありません どんな服を着てようが 関係がありません

どんなプレッシャーで あろうと関係なく 真なる存在というのは 常に集中しています 私達が真なる存在に 頼れば 人生において 私達はより安定し より平穏でいられます 私達はあまり揺れたり しないのです 人生での大波が 私達をここかしこに 押しやり 繰り返し 襲ってきてもです 時に私達が内面に深く 入るほど 私達の 人生は安定し 益々 私達は本当にこういう ものだと認識します 私達はそうしたものや こうしたものではなく 自分達が考えるような 習慣ではないのです 私達を代表すると 考えているような 知識の集積では ありません

私達は全くそうした ものではないからです いずれにせよ 私は 皆さん全員がこの事は 分ってると思いますが 皆さん全員現時点まで 私が話してきたことを 分っていますね それで皆さんは なおも瞑想を続けて いるのでしょうね 人生に利益があります 進歩しましたか 自分が好きだと思える 人に戻れてきましたか 少なくてもより自分を 好きになれましたか そうですね (はい) 聞けて嬉しいです 皆さんの人生や 家族や友達に 何も利益がないなら 皆さんについて来て 欲しくありません

実際 皆さんは 私にでなく 教えに ついて来るべきです 教えというのは 私の 教えではありません 教えというのは私から 生じたのではなく 教えは天国から 真理から 真の内面から 生じたものです 皆さんの内面の マスターが真理として そのように教えを 受入れているからです 内面のマスターも 分っているからです だから皆さんは従い 引続き修行に身を入れ そしてやはりそうする ことで皆さんの人生に 利益があるからです そして皆さんはそれが 真理だと分っています それは何らか皆さんに 利益があるはずです

さもなければ皆さんは 私に四年も会って いないのに それでもまだここにいます 三年と十九日です 四年と十九日です 中には 時々 リトリート中に 私に会った人が いますが 中には決して この四年と十九日の間 私に会わなかった人も います 私は皆さんが 引き続き 真理に 従っていてくれて 皆さん自身の確信 信念に従っていて くれて嬉しく思います 皆さんが幸福と進歩に 気づいてきてくれて 嬉しく思います それこそが 真の真理探究者です それこそ真のいわゆる 弟子というものです

弟子は肉体的にどこか マスターについて行く という意味でなく 弟子という意味は 自分の直感に従い 内面のマスターに 従うということです それで皆さん感じます 「これが正しいんだ 正解なんだ 本当のことなんだ 私はこの真理に常に しがみついているんだ それで 他の偽物や 害ある方向にそれたり しないんだ」と 皆さんが自分自身に 従っていて嬉しいです マスターに従うのは 肉体的にですがそれ程 利益があると限らず そうなると 皆さんは ただその 性格を見てしまい 真の教えを見ません マスターの真の内面を 見ないのです

肉体のマスターに 集中しすぎてしまい マスターがする全ての 事に皆さんは思います 「あれは何だ これは何だ それはいいのか よくないのか」と そして 心の中で 大変な事になります そうすると 皆さんは 真の教えは 皆さんが 従うべきものであり マスターの習慣や 状況とか人々の処理の 仕方でもないという 事を忘れてしまいます 私達には皆 自分達の プライド エゴ 好き嫌い 習慣があるからです 私達はそれを使って マスターを 測ってしまい それで 矛盾の中に 落ちてしまうのです

私達は肉体的にある マスターに従うために 全てこうした二元的な 種の比較を超越して いなければなりません それは大変難しいです 古代より 殆んどのマスター達に 一人か二人の弟子しか 従っていませんでした 例えば釈迦には唯一人 しかいませんでした クリシュナには 七万人の妻がいたよう ですが 常に従って いたのは一人でした 他の妻達は時々 来るだけだったのです 皆さんと同じです 例えば釈迦には アーナンダしか いません 唯一人です イエスには約十二人 いましたが一人が彼を 裏切ってしまいました

そして一人は彼を 否定し 一人は彼を 疑ったり 等々です 私達がマスターに常に 従ってぴったり くっついているのは 簡単な事ではないです クリシュナでさえ一人 しかいません献身的な 本当に愛する配偶者で 信者で全弟子の中で 最も一番の人ですが 彼女はなおも時に クリシュナを困らせ 彼女の心がマスターを 疑いましたマスターの 注意を彼女だけに 向けたかったからです 嫉妬とかプライドとか 傲慢さとか 彼女は 最も愛されている 等々 皆さんはあらゆる 物語を読んだでしょう 私の意味が解りますね

そして彼女は既に とても進歩した魂で マスターと 殆ど同等でした 時々 互いに会うのは いいですね 皆進歩する為私に会う 必要が本当にあると 考えないで下さい ある人達はマスターと いる運命なのです ある人達は家にいる 運命なのです 彼らのいる所にです 他の仏陀の 世話をするのです 息子の仏陀や娘の仏陀 夫の仏陀や 妻の仏陀 祖母の仏陀 等々です もう一度強調しますが 私はマスターではなく マスターは 私達皆の中にある 不可視のパワーです そして それは宇宙 パワーに属しています

私達は皆それを請求 する権利があります 全体或いはその一部を どれほど私達が 欲しいかによります 私達がこの栄光を 再請求するのに どれほど誠心誠意か にもよります 私達が誠心誠意なら 本当に全体を望めば 皆さんは全体を得ます それで皆はいわゆる マスターになります 皆さんが 「うん十分だ 私には1%あれば十分 10%あれば十分だ」 と言えば得られるのは それだけです でも私達はそこに座り 「誠心誠意です むしろ 百%の誠心誠意があり ます」とは言えません

私達が考えて なるようなものでなく 誠心誠意とは頭脳から 生じるのではないです 私達の話し方から 生じるのでもなく 私達の考え方から 生じるのでもないです そこにあるかないかで しかありません 自分達が誠心誠意か 分りさえしないのです 私は正直に言います それは太陽とか花とか 海のようであるべきで 太陽とはそこに座って 「私が太陽です 私は 間違いなく太陽です」 等と言ったりしません ただたぶん 私達が 何かであることを運命 付けられているためで 私達は何かである事を 選ばれているのです

今あるべきようにです ですから皆さんが何で あろうと構いません あるが儘にそこにいて 引き続き 内面の 真の力強い本性を 知覚していって下さい 皆さんに 出来る限りです 時々 出来なければ 自分を許して下さい 私もまた皆さんに 真実を言っておきます 瞑想が 皆さんを 神に近づけて くれるのでは ありません それは単に皆さんを 常に目覚めさせておき 万が一 神が本当に その時現れるかどうか 気づかせてくれるため リラックスしてそこに 座りなさいと言ってる ガチガチではいけない とにかく神は来て又は 来ないかもしれません

神はすでにそこにいて 何のためにわざわざ 来なければならないか 何で行ったり来たり せねばならないのか ただ深い 集中の瞬間 内面の覚醒時に 私達が「あああなたが いた」という訳です 瞑想すれば 神により近づくという 意味ではなく 神が 皆さんの所に行くと いうのでもありません 誰の所にもやって来て 瞑想していようが いまいが花にも木にも 全てのものにです 瞑想とは皆がそこに 座って待つという事で 万が一に備えてね 店が開いているのです そうすればお客さんは 行きたい時に行きます それが問題なのです でも皆は店を開けて おかねばなりません 時に彼はやって来ます 時にやって来ません ブラザーのようにです 彼は店を開けて それを広げますが それでも お客さんが 来るか保証できません

時には 沢山来ます 時には 来ません 時に 一人来ます 時に 二人来ます 時に遅い時間に来ます 時に一日中開けて おいても誰も来ません いずれにせよ 私達が 万が一目覚めていれば 私達の多くが神が いる事に気づけないと 神がどういう風なのか 見たいと思っていれば 神が本当にいるのか どうかと思っていたら 私達は座って待たねば なりません そうしないと私達が 食べたり飲んだり 話したりしてあまりに 忙しすぎると 神が とても近くにいても そして現れても 私達は注意を払わず 分らないのです ですから 私達は瞑想します

私達が瞑想すれば 神が私達をもっと 愛してくれるという 意味ではありません 神は誰も愛しています 瞑想がしまいが 肉を食べていようが ベジタリアンだろうが 何でも神は愛します 神には 善悪の差別は ありません 醜いとか犯罪者とか 徳が高かろうがです 神は皆が何を食べても 気にしません 神は皆さんが何を しようが気にしません そうした事はただ更に 安定を助けてくれます ベジタリアンの方が 意識をより曇りにくく してくれます アルコール タバコ 麻薬のない 食生活が 意識をより曇りにくく してくれます

私達はもう十分 曇っています ですから 私達が 全ての雲を払ったら とても健康的で綺麗で 純粋な生活をしてたら 神がやって来た時 より見るのが簡単です 神が気にするからでは ありません 神は皆が何を食べても 何をしても 何を考えても 気にしません ええ ですから万が一私達が 菜食をすることで 神に賄賂を送れると 思うなら 五戒を守り タバコをやめ 麻薬を持たず あらゆる有毒な物に 触れず快楽などを避け それで 神が とても感動して 賄賂を送り より神に 近づけると思ったら それは違うのです

でもベジタリアンや こうした健康的な生活 様式が単に肉体的に 良いだけでなく  精神的にも良いのです これらはちょうど カーテンのようで カーテンの後ろにいる 愛する人が見たいなら もっと良く見るために カーテンを開けたり 外したりしなければ ならないのです カーテンを外したから カーテンがないから あるいは カーテンがあるから 愛する人が皆さんを より愛してくれるとか そういう事ではない ですから私達が 善良だとか徳深いとか ベジタリアンなどと 言って誇ることは 何もないのです 何もありません

私達だけには良いです 誰か他の人ではなく 大した事ではないです 私達はもう 牛やウサギの話を 知っています 皆ベジタリアンです 彼らは私達以上に 戒律を守っています 彼らはポルノを 見たりしません タバコを吸ったり 酒を飲んだりしません 邪淫をしたりしません ね そういうことです 純粋に聖なる存在です 私達のする全ては 私達に良いだけです 誰か他の人より優れて いる訳ではありません 例えば 皆さんが病気なら 医者に行きます 医者は注射してくれ 手術してくれたり 薬をくれたりします これらに辛抱強く 耐えねばなりません

それで皆さんは自分が 善良だと思う?いいえ 善良でないと思います 良くないとか良いとか でなく これらの薬や 治療は単に皆さんに とって良いだけです どれほど善良でしょう 同様に 菜食 戒律 全てそうしたものは 私達には良いのです 私達にとっては薬です 頭脳の病の薬なのです 私達が飲めば それは 私達には良いのです ですから 自分が 徳が深いなどと自慢し ホラを吹いて回ったり しないことです

マスター どうやったら人は 霊的に進歩したことが 分るでしょう 霊的な進歩ですか ええ どうやったら それが分るでしょう 分らなければ エゴにとってはやはり その方が良いのです そういう人は より敏感になりますか

それは本当でしょうか 霊的進歩の 印として という意味ですか (はい)そうです それはある一面です 全てではありません

実際私は少し皆さんを からかっているのです 人は霊的に より進歩します 以前の自分と 比べてみれば です また多くの人が 皆さんに変わったと 言うでしょう 皆さんはより良くなり 多くの事において より愛情深く より優しく より敏感に より賢くなるのです 激動や困難に対しても 落ち着いていられます 皆さんはなおも泣き 笑うかもしれませんが 内面では全てを 受け入れます そして それを処理するために ベストを尽くします 以前とは違うのです

泣いてそこに座って 何もしなかったり 笑って そこに座って 何もしないのではなく 例えば 霊修行する以前 私達が進歩する前 人々に ちょっと叱られれば 私達は傷つきました 不機嫌さをぶつけたり とか 色々しました 今 私達はまだ傷つく かもしれませんが 殆ど注意を払いません あるがままです 私達は前ほど 傷つかないでしょう 前ほど 深い屈辱とは 思わないのです 私達は「この状況は 屈辱的だ」「この種の 行動は私には恥だ」と 感じるかもしれません

それでも私達はそれ程 屈辱と感じないのです 声に出して言ったり そのように考えても そんなに強く影響を 感じたりしないのです それは霊的進歩の 印でしょう ありがとうございます マスター(はい) あなたは瞑想の効用は 私達に神がより近く なろうが なるまいが 智慧を与えてくれる事 だと説明されました でも神が私達を探しに 来たら何が起きますか 死んでしまうのですか 神が皆さんに近づくと 皆さんは死ぬのですか

皆さんは死ねません 「死んで」 そして 命に戻ってきます サマディというのは 私達が生きている間の 死のもう一つの形です サマディの中に深く いる時 私達はやはり 死にます 物質世界で死ぬのです 感情的世界で 死ぬのです 頭脳的世界で死に カルマの王が司る 世界で死にます 全ての事に死ぬのです 私達は意識の より高いレベルに入り 物理的宇宙の存在に 気がつかないのです それはやはり 死の一つの形です 死ぬのが怖いのですか いいえ いいでしょう ありがとうございます どう致しまして