真の神はすべての愛 智慧 許しであり そしてこの神を イエスは信者の前に 示したかったのです 私も皆さんにこの神を 思い出させたいのです その真の神は私達の 中に住んでいます 神以外に神はいないのです いかにこの神を探すか その教義に戻ることに よってです つまりすべての愛 許し 全ての慈悲と 全ての智慧の教義です 以前 無知で犯した 悪行を悔い改める ことによってです 二度と同じ罪を 犯さないと決意し このような真の悔い改めによって 神の光が 再び芽生えてきて 私達の過去の罪は 許されるでしょう

それが真の洗礼であり 水によるものでなく 聖霊によるもので 論理的な智慧の光に よる洗礼です だから私達が 水での洗礼を受ける時 神からの光が 何も見えず 罪と苦しみから 高揚した感じが しないのです なぜならその教義は 私達に強いることなく 智慧は私達のために 開かれてないからです 魂の中で 深い悔い改めが 起こらないからです 真の洗礼の時 或いは私達が言う 「印心」の時 神の光が見え 神の言葉が 聞こえるでしょう つまり はじめに言があった 言は神と共にあった 言は神であった

ですから真の洗礼は この言葉 すなわち この神と繋いで してくれます それは真の洗礼と 一般的な洗礼との 違いです 水を使っても 使わなくても 違いはありません 重要なのは 洗礼者が 私達自身の内面にある 印象を喚起する事です ですから 洗礼者ヨハネが 人々に洗礼を施したり イエスが 説教したりすると 人々は 他の聖職者が 同じ事をする時より 利益を得ます それは洗礼者ヨハネが 霊感や神への 誠実さや献身を 持っていたからです

そしてイエスが 彼の教理を 説教する時 それは彼自身の 深い信念と悟り そして神への愛 とても純粋な愛であり 純粋な智慧で それは当時の 一般的な聖職者とは 全く違うものでした イエスの愛と智慧は 他のいかなる世俗の 利益やこの世界の 女性や権力への いかなる欲望も 混じってませんでした 彼の生活は 素朴で真実で 彼の説教のあらゆる 言葉に真実でした 彼の説教は 有名になったり人々の 尊敬を得たりする ためではなく 神への真実の愛 神から 人類への真実の愛 人々に本当の光をもたらしたいという 彼の本当の望みでした

つまり人々の苦しみを克服するためです ひとたび私達が何故 苦しむのか理解すれば 私達は変われます 私達は理解して いない時だけ 苦しみ続けます ちょうど医師が診断し どこが病気なのか 分かれば 治せるのと同じです でももっと重要なのは 患者自身が 日々をどう生きるか 知るべきという事です 長い間 健康でいるためにです さあ身体を健康に 保つために 私達は幾つかの衛生の きまりを知るべきです

私達は何を食べ どんな運動をするか 知るべきです そうすれば殆どの 病気を予防できます 霊的に健康でいるために 私達は神の法や 自然の法が どんな物か知るべきで そうすれば健全な 智慧を保ち神のように なることができます 神はご自身に似せて 人を作ったのですから

聖書に書かれています 「完璧でありなさい 天国の父なる神が 完璧であるように」 さあ殆どの人々が 聖書の この助言に従えば 世界はずっと前に 天国になったはずです でも殆どの人々は これに従わず 神の法を尊重せず だからその代償として 自分達や多くの国々が 苦しむのです 一つ最も重要な 法があります それは 「汝殺すことなかれ」 そして私達はそれを 誤解しています

聖書に書いてあります 聖職者が 神に捧げるために 感謝際に 多くの子羊や 羊や山羊や去勢牛を殺し 聖なる寺院の その場所で それはなされたと 神の居場所を 食肉解体場にしました 神でさえ抗議します 神は言いました 「誰が全て羊や山羊を 私に供えるために 殺すように言ったか」 「あなた方自身 これらの無垢の血で 洗い流すべきであり 再び同じ罪を 犯してはならない 罪を悔いるべきだ」

皆さんは 想像できますか 偉大で壮麗な柱や 輝く屋根 大きな建物 広大な中庭 華麗な構造の 美しい寺院 そこは最も崇高な 智慧と礼拝が 集まる場所で あるべきです でもその中は 食肉解体場になっていました そして聖職者達は皆 血の臭いを嗅ぎ 肉を焼く煙を 嗅いだのです 私は知的な人々が それを非常に神聖だと 言ったとは思いません モーセは「汝殺すこと なかれ」という 神の法を定めました でもそれでさえ 彼らは破りました

ですから世界が時々 苦しまねばならない 悲惨さに対して 神を非難はできません 私達の尊敬や 愛に値する 神が生き延びる為に 牛や子羊や羊の 焼き肉に頼らねば ならないのなら 私達自身の汗や 労働や あまりにも貧しくて 自分達のため肉も 賄えない人々からの 想像できるでしょうか どんな類の 恵みや祝福を 神が与えられるか なぜならその神は 依存する神だからです 普通の人でさえ そんな依存はしません どうして神がしますか 良い心根の 親切な人々の多くは とても純粋な無条件の愛で 他の人を助け 見返りは一切 期待しません それではどう述べる ことができますか いつも金銀や 焼き肉を要求し 見返りとして 何も与えもしない神を 神が何か贈り物の前に 肉を要求するのです

これは聖職者達からの 策略で神からの ものではない筈です 神が本当に 私達が神に 全ての牛肉や鶏肉や あらゆる物を 与えても神は贈り物を くれないでしょう 「それでもOKです 十分に公正です」 でも神は与えません 見返りは何もないです そんな神です その証に 捧げものをする人でも 普通の人と同様に 病気  悲惨な状況 悲しみのため 苦しんでいることです 教会の神父ですら 普通の人と同様に 苦しまなければ なりません だから 神を ばかにする人が います 神にとって不公平です

問題は私達の誤解です 神が無慈悲で 貪欲だから ではありせん 神は法を作り 私達は守るべきです 神のためではなく 私達のためです 英語ではよく 「神のため  あれこれ やらなければ」と 言います 違います もう一度 言いますが 私達は 私達のため あなたは あなたのためにします だから その言い方を 変えるべきです 私は知りませんが あなたの国でも 「神のためこれをやる」と言いますか やはり言いますね 申し訳ないですが  真実を言うべきです 神は私達から 何も必要としません

生きる必要があるのは私達です 平和で幸せを感じる ため 秩序のある 社会を必要とするのは 私達です だから 私達のため 法律を守り 正しい行動を 学ぶのです 私達の生活を守り 心身の福祉を 高めるためにです  例えば 病気になった 時 医者に診てもらい 医者は薬を 処方し タバコを少なくし コーヒーを飲み過ぎず もっと睡眠を取り 沢山散歩して 新鮮な空気を 吸うようになどと 教えてくれます それは医者の ためではなく  私達のためです 同様に 神の法律は 宇宙の秩序 宇宙の調和のための ものです

この秩序の中にある 全ての衆生の平和と 幸せを確保するための ものです この法律を知らず この法律を破ったら 故意か 無意識かに かかわらず その結果のため 苦しむことに なります これは仏教徒が言う 「カルマ」のことです 因果の法律です これは聖書が言う 「蒔いた種は刈らねば ならない」ことです 同じことです だから 神の法は 私達を守るため 私達のためのものです 法律を覚えるべきです 神の法に反して 何かの過ちを犯した 何かの過ちを犯した としても 救済方法があります 懺悔しもう一度 やってみるのです

これが全てです すると 再び 神の王国に 迎えられるのです 私が言った すべての事は真実です 私の言葉の真実性を 試し 本当なのか どうか 懺悔は効果が あるかどうかを試し たいと思うなら その 証拠を提供できます それは印心の時 あるいは「洗礼」 「真の洗礼」と 言っても いいですが 私達は本当に過去の 無知を懺悔し 真に神に戻りたいと思ったら 私達は神の前に 行けます  しかもとても速く だから 「即刻開悟」 あるいは直ちに神と 繋がると 言っています

神の光が見え 神の美しい 旋律的な声が聞こえ それは私が皆さんに 言った証となります 懺悔の力ついて 美徳と神への真摯な渇望の力は 真摯な渇望の力は 全ての悲惨さ 全ての過去の罪を 浄化できます 私達は水の下に 立ちたいと思った時と 同じです 私達は埃と色々な 不潔なものに満ちて いると知っており その水は私達を 全てのものから 洗浄できます それらの汚れと 不潔なものは 何日 何か月  何年も 溜まっていたとしても 滝の下にほんの短い 時間さえいれば完全に きれいになります

私達はそれが起きる ように願い その汚れ と不潔から離れたい と思っているからです ですから全能の神の 恩恵と慈悲を 疑わないでください 私達は真摯に懺悔し 真摯に 神の王国の智慧を 求めるべきです すると本当に何でも あなたにやってきます 私は聖書 あるいは 仏教の経典で読んだ から 私は仏教徒 だから いつも他の人 説教する通り 説教しているから こう言っている のではありません 違います こう言っているのは 私はこれらを経験し これらは真実で これらの事実を自ら 検証したからです だから 私は喜んで それを打ち明け 皆さんに この希望  この美しく光栄な 体験を伝えたいのです

人生に飽きて 疲れ果てて 神の恵みを 得ようとするなら そうすべきです 何の疑いもなく 無条件で なぜイエスの話は 彼の時代の司祭らより 印象的でしょうか それは彼に内在する 信念であり 彼の内面のな 体験であるからです 従って「私の名の もとに神に祈る」と 言った時 人々はそうすれば 結果が得られます それはイエスがとても 誇りに思ったり傲慢と いうのではありません 彼自身が深く 理解しているからです それは彼の名前で 彼の信念 彼の 内在する力 彼の 最高の智慧が人々を 思い出させることです

最高で 高潔な理想が 思い出された時 彼ら自身の最高の理想 信念及び 智慧が 呼び起こされるのです そうすると彼らは 成功するでしょう イエスは自分の名前が 最高だと思っている わけではありません イエスが自分の名前 彼自身を尊敬して崇拝 することを望んでいる わけではありません 私達はイエスが非常に 謙虚だと知っています とても無私であると 彼はいつも言ってます 「全ては私を通して 父がやっている」 父は常に神のことです 父なる神です しかし彼の名で 祈るしかありません 矛盾していません

彼はとても影響力の あることをよく 知っているからです 個人的な影響力が 非常に大きい人に 内在する力です だから 私達は歴史を 見れば分かるでしょう 多くの賢明な人は 人々を栄光と 智慧の道へと導きます 一方 多くの邪悪で 無明な人は人々を 破壊と暗闇の方向に 導いてしまいます これは個人的な 個性と影響力の ためなのです それを知っていますかそうです 従って 高貴な人に なるのは私達の義務で すると 他人に影響を与えたり 正しい道へと導く ことができるでしょう それゆえ 彼は 「まず 神の王国を 求めなさい そうすれば全ては汝に 与えられるでしょう」 だからこそ仏陀は 「先ずあなたが 仏陀になりなさい すると 衆生は 救われるでしょう」と だからこそ 孔子は 「まず自分の身を 修めよ」と言いました 身を修めることは スペイン語で 表現できますか はい その意味は 自分自身を浄化させ 自己を鍛えることです

人と呼ばれるために 立派な人になるように 尊敬すべき高貴で智慧 ある人になるように それはいわゆる 身を修めることです ですから 孔子は 「天下を収めるには 先ず自分の身を修め 家庭を平和にし 国を治めれば 天下は治まる」と 教示しています 従って  高潔で 称賛に値する 活動を行うのと共に 例えば人を悟らせること 道徳のことを 人に唱道すること 寺を建てて神と 仏陀を礼拝すること 貧しい人々と 病人に慈善を施すこと 全ての国に平和を 呼びかけることなど その一方 自分自身も 治めるべきです すると 全てが 効果が得られます 人々に間違いなく 影響を及ぼすことが できるでしょう そして 全てが 成功するでしょう 今の時代では 私達は とても幸運です

どんな信仰であれ どんな神を礼拝する ことであれ どんな教義に 従うことであれ 多くの国の法律に よって尊敬され 支持されています イエスの時代とは 違います 彼は孤独で無力で 多数の無明な人々 及び非常に狡猾で 残酷な司祭職と 戦ったのです 彼を守る法律さえ ありませんでした ですからただ今 神やキリストのように なりたいなら 良いチャンスです この機会を失うべき ではないと思います 来年あるいは百年後 この世界はどうなるか 誰も分からないだろう そしてどんな運命が 子供を待つでしょうか 私達の次世代のために 私達の子供のために 未来世代のために 良い基礎を築かねば なりません

全ての良い親は 子供の明るい未来を 願っていると思います ですから  子供達に快適な 生活を提供するために 彼らは一生懸命働いて 全ての力と 若さ及び智慧を 犠牲にしています でも彼らを教育したり お金を与えるほかに 平和と調和の世界を  彼らに残すべきだと 私は思っています ですから仏教の教義を 説教したり キリスト教を伝道 したり 私の宗教を 信じさせようとは 思わないでください 違います  私はただ次世代 及び現代の人々に 平和な雰囲気を 貢献できるように 努力したいだけです

私は決して 仏教 キリスト教 ヒンズー または どんな「宗教」の 排他性を説きません 私はそれらのすべてで 善良さを見るからです 私はまた殆どの人々が 詳細に彼らの宗教 信仰に従わないのが 分ります それで この世界の 市民の一人として 私は 人々に彼らの 教理を忠実に守って 彼らの隣人にとって 良くなり そして 敵を愛せよと 思い出させ 人々に神の法則と 永遠の原則を思い出さ せる義務があります

それで 現在の世代の 苦しみを少なくし 未来に円満な雰囲気を もたらします 永遠な法則は 私達が 神から来ている事で それは唯一無二と 愛と全能の神であり 私達は皆兄弟と姉妹で あるということです それで 私達がどんな 信仰を信じているかは 重要でありません 私たちは互いに愛し 互いに尊敬し 互いに助けるべきです 可能な限りの能力で 毎日神を思い出すのを 忘れないでください 私達が神を思い出せば 思い出すほど 私達の生活は さらに平和で 滑らかになるからです