あらゆる時代に  常に仏性があります 仏性は決して 消えません 私達には千分の1秒 必要なだけで 何か秘密の方法を開き 私達が即座に本当の 自分を知るのです ですから仏陀は こう言ったのです 「感覚ある全ての 衆生には仏性がある 全ての感覚ある衆生は 私と同じであり 違いはない」と ですから ある人は 思います「なんと 彼女は仏陀になったと どうして言えるんだ」 「なぜこの人は自分は 仏陀になったと言う」 仏陀になることに 何ら不思議なことは ありません

仏性はすでに私達の 内面にあります なぜ ただ私達が 忘れているだけで 思い出せなかったり 発見しなかったり 劣等感が強すぎるから なのです 私達は その人だけが 自分より偉大で 自分より素晴らしくて 私達には絶対に できないと思ってます 講義の最初に 講義の最初に 私がひっかかった 二つの戒律について お話しましたね 私には化粧をする 時間があったからです 私達の社会が求めて いたからです 仕事が私達に化粧を させ 自分がきれいに 見えたいと思うのでは ないです 分りますか

従って 外面の生活は 私達の魂にあまり 影響を与えません でも当時私は行き詰り 私の先入観のせいで ひっかかっていました 仏陀が私を気にした 訳ではありません 嘘をつかないと言えば たぶん守れたでしょう でも私はまだ顔を ピンクや赤色や青色に 塗っていたので 戒律は守れないと 思ったのです 嘘をついてることだと 思ったのです でも私達が戒律に あまりに極端なら いつ 霊修行ができますか 考え続けるでしょう 「まだ修行できない まだ」 いいえできます できない人はいません

時々私達は 自分のレベルが 分からないことがあり 時には劣等感を持ち 自分自身を 低めているのです しかし これは悪い 特性ではありません 悪い習慣ではないです なぜ私達にこのような 劣等感があるのか おそらく 洗脳され 過ぎているのです 例えば 「あなたのした事は 悪い事です 良くない あなたの行為は悪い」 私達は「悪い事だ」 「良くない事だ」と 考え続けるのです しかし はっきり 解析するなら  何が良くないのですか 良くないのは動機で その行動ではないです 分りますか 動機です 例えば 自分を とても美しく させたいなら 他の人の家族を 台無しにします 分かりますか それで私達を見る すべての人は世界の 美人コンテストの 優勝者だと見ます それは良くない事です しかし 他の人も 使っているので お化粧をするなら 私達もお化粧して 皆と同じように見え 仕事に行く時 人がそれを見ると 少し可愛いく見えて 安心します

雰囲気が少し よくなります 世界は既に 醜くなっていますね 世界には 良いものがもうない ように見え 自身を もっと魅力的でない ようにします 真理 美徳 美しさでは ありませんね ですから 少しの お化粧が問題ないです しかしその当時私は まだ分りませんでした それでも仕事に行き まだ結婚していました 例えば 結婚して お化粧をしなくなり ご主人があなたから 離れたら あなたのせいです 分かりますか ですからお化粧だけは してもいいです 結婚生活を守るべき そうですね 外では誰もが お化粧をします

お化粧をしないと 魅力的ではなく ご主人が浮気したら どうしますか これがこの世界の 人間の美点なのです まだこの世界で 生きているなら 自分をこの世界用に 美しくするのです この世界を放棄 するなら もちろん しなくて良いです お化粧をすることで 誰が守ってくれますか 分かりますか 今 私達は 出家の修行者です お化粧はしません なぜでしょう 自身を守るために お化粧するのではなく 私達がまだ 在家の修行者なら お化粧をして 自分を守り 地位 仕事 家族を幸せに 保ちます しかし いったん 出家の修行者に なったら 違った防備があります 化粧をしないのです 化粧をしたら とても美しくなり 人があなたの所に来て 結婚したがります あなたはどうしますか

そういう事が 厄介なのです ですから 在家者には 独自のルールがあり 出家修行者にも独自の ルールがあります これらのルールは 自分自身を守り 状況を守り 平穏を 守るためにあります 分かりますか ですから大抵の場合 法律は社会を 守るためにあります 例えば 私達は盗みをしません 本当のところ 盗んだとしても 仏陀はあなたを 責めたりしません 怒る必要がありますか 仏陀は愛しか 知らないのです 怒りは知りません しかし 盗んだら 逮捕されます 分かりますか 逮捕され 手錠をかけられ 刑務所に入れられ 罰せられます

あなたは苦しみます 仏陀が私達を禁じてる 訳ではありません 因果の法が私達を 禁じているのです ですからこの法律に 関して 大抵の場合 状況に合わせて 検討すべきなのです 例えば とても 貧しい人の場合 彼は最善を尽くして 仕事を探していますが 一つも見つかりません 分かりますか まだ仕事がありません しばしば彼の子供と 妻は空腹になり 家族のために 彼は食料を盗みました 私達は彼を罰する ことはできませんね ですから守るべき 法律があるのですが  時には 誰かを罰したい時 もう少しはっきりと 見る必要があります

例えば  仏陀が在世の時 ヤクシャ(悪魔)と 呼ばれる者がいました なぜヤクシャと いうのでしょうか 彼女はとても醜くて 容姿が醜かった せいです ヤクシャには 息子がいて 息子を とても愛していました 悪魔は子供の 愛し方を知らないと 私達は思うでしょう 人間だけが子供への 愛し方を知っていると 私達は思いますが 悪魔も子供の愛し方 知っているのですを トラも幼獣の愛し方を 知っているのです ですから すべての 生き物には心があり 良い点もあることを 知るべきです 例えば トラも 幼獣の愛し方や 守り方を知っています ですから 完全に 悪いものも良いものも 何もありません 私達の善良さを守り 品性をもっともっと 毎日成長させてくれる 唯一の方法があります

私達が成長するに連れ 私達は高いレベルに 進歩しています それを仏陀の域に 達するというのです 分かりますか 自身の知性 智慧を 最高のレベルまで 育てるのです それを仏陀になると いうのです

自身の慈悲を 最高のレベルまで 育てることを 仏陀になるといいます

そうでなければ 一人しか到達できず 誰もできないという  いわゆる神秘はない 仏陀は言いました 「私は仏陀になった あなたも仏陀に なれる」と イエスキリストも 「私が今日した事は あなたは将来 もっと うまくできます」 分かりますか 仏陀が在世の時 ヤクシャ(悪魔)は よく 他の人の 子供を捕まえては 食べていました 彼女は既に沢山の 子供を食べていました それで 子供達を 捕らえられた人々は 仏陀に援助を 求めて言いました 「どうにかこの悪魔を 捕えて下さい 彼女を 殺すか何かをして 彼女をやっつけて でないと彼女は全ての 子供を食べてしまう」 一旦仏陀になったら 人は殺せません たとえ悪魔であっても それで仏陀は言います 「悪魔の息子を捕まえ ここに連れてきて 彼を隠しなさい」 捕らえて隠すのです 彼女の息子がいなく なると悪魔は 彼らの後を追いました 彼らの後を追い続け 彼女が追いつくと 彼らは姿を消しました

彼女は仏陀に尋ねた 「主よ 息子がどこに 行ったか見ましたか」 仏陀は聞きました 「なぜ彼を探すのだ 彼が去るならば 彼は去った なぜ彼を 見つけねばならないか 去ったなら去ったのだ でないならそうでない どうして 彼を見つけ なければならないか」 悪魔は叫びました 「ああ なんという 私はとても苦しんでる 彼は私の息子です なぜ私に彼を探すかと 理由を聞くのですか 私は苦しんでいます 彼がいないと 私は 苦しみ 耐えられない もう生きていけない 息子はどこか知って ますか 教えて下さい あなたは慈悲深く 情け深いお方です あなたは・・・ あれこれ言いました 仏陀は言いました 「息子を失いそうで 大変苦しんでますね」

彼女は答えました 「とても哀れです あまりに苦しんでいて 耐えられません」 すると仏陀が尋ねた 「では あなたは毎日 人の子供を捕らえては 食べているが 彼らは 苦しんでいますか」 その時 悪魔は 悟りました 彼女は「その通りです

息子を失って 私も こんなに苦しむのだ 子供達を失った 他の人も 苦しんでるに違いない 今日 私は懺悔します 今後 私はもう 他の人の子供達を 捕えません 息子がどこにいるか

分るなら教えて下さい 今後もう人の子供達を 捕らえて食べないと 約束します」それで 仏陀は彼女の息子を 連れて来て返しました 仏陀はこんな方法を 使って人々を救います 彼は誰も 非難しませんでした 仏陀がは人々が 罪を犯すことを 知っていたからです  どんなに深刻でも それは道徳への 無知と理解不足の ためなのです いったん理解すれば だれでも悟って 仏陀になることが できます その時以来 そのヤクシャは 護法になりました

そうですね 悟っていないとそれは 「守る」と言います それで「私は凡人で 仏陀ではない」と 思わないで下さい 毎日ただ仏陀を 崇拝しに行くだけで 私達が仏陀になれる ことを忘れています 仏陀を崇拝することは 非常に良いことです 仏陀を崇拝することに よって 私達は 仏陀の功徳 良い品性 教理を思い出す ことができます 彼の霊修行を 思いだすことによって 私達は修行を 貫くことができます それは非常に良い事で 悪くはないですが

「衆生が仏陀の 智慧を理解するのを 助けるために 仏陀は 地球に下りた」ことを 思い出すべきです 私達はいかに仏陀の 智慧を理解するのか 仏陀は言いました 「仏陀だけが 仏陀を理解できる」と あるいは 最高の菩薩だけが 仏陀を理解できると ですから私達が仏陀の 智慧を理解したいなら 「ファトトリキエン」 とは私達ははっきりと 仏陀の智慧を理解 したいという意味です ならそれを理解する ために私達は仏陀か 少なくとも菩薩に ならねばなりませんね

仏陀は言いました「仏陀がこの世に 来るのは 衆生に 仏陀の智慧を 理解させたかった からである」と 仏陀の言う意味は 「私がこの世に 来たのは 衆生に仏陀になって ほしいからだ」 分かりますか 仏陀がこの世に 来たのは崇拝され 供養されるためでなく つまり衆生からの 供養に貪欲だったから ではありません でも彼はこの世に来て 衆生に自らの仏性を 理解してもらいたいと 思ったのです 彼らも同様に仏陀に なれることを知って もらいたかったのです ですから後に 釈迦牟尼仏が 涅槃(極楽浄土)に入り 摩河迦葉は成功し それは仏陀になったと いう意味です

それはこのように 理解すべきです 釈迦だけが仏陀に なったのではないと ですから釈迦牟尼仏が まだ涅槃(極楽浄土)に 入定していなかった時 彼は既に 摩河迦葉を招き 彼を横に座らせ 弟子達に 宣言していました 「私が到達した所に 彼も私と同様到達した 彼は私と同じであり そこに違いはない」と この意味は誰であれ 仏陀になれることを 知らせることです 仏陀は唯一の人では ないのです しかし仏陀を信じる ほとんど多くの人々は これを忘れています

彼らは忘れてしまい 仏陀になったと 言う人を見ると 彼らは呆然とします 「何とおかしなことを 言う とても傲慢だ」 ですから釈迦が 仏陀になった時 彼らは信じられず 多くの人々は 信じませんでした 同様にイエスも 「私は神の息子である」 「神の息子」の意味は 「仏陀と私は一つで 私達は平等だ」です そういう意味です 大抵 国は皆 異なり 彼らの話し方も 異なります それは私達には 馴染みがないです 「神」の意は「阿耨 多羅三藐三菩提」で 最高の仏陀の意味です 分かりますか 最高の仏陀は 全ての他の仏陀を 上昇させます

いわゆる古代の仏陀で 最高の仏陀は よく知られる 「阿耨多羅三藐三菩提」 その意味は 「最高の均衡が取れた 真理の正しい状態」で 意味は唯一のものです つまり「真の開悟」 ということです 分かりますか 「阿耨多羅」の意味は それ以上高いものは ないのでこう呼びます 「最高の完璧さ」 「三菩提」の意味は 真理の完全な理解 ということです このような存在だけが 最も開悟していて 最高を知っていて いわゆる古代の 仏陀と言われます

つまり「阿耨多羅三藐 三菩提」のことです 「神」と呼ぶ 他の人々もいます それだけ 分りますか 言語の使用法は 若干異なります ですから釈迦が 仏陀になった時 彼は言いました 「私は仏陀になった」 多くは彼を信じません 「どうして仏陀に なったというのか 私の同じ人間なのに どのようにして仏陀に なるというのか」 でも彼を信じる人々も いました

イエスキリストは 「私は神の息子です 私は完璧なものと なった」誰も彼を 信じませんでした 誰も彼を信じない のではありません 信じた人もいました でも多くの人々は 信じませんでした だから彼を十字架に 磔にしました なぜ それは 私達は仏陀が 私達の内にいることを 忘れてしまったからで 私達は聖書が言及する ことを忘れます 何を 「神の王国は内面に ある」そうですね 仏陀だけがそれを 言ったのではないです 私達は仏陀が衆生を 欺いたのではと 思いました

聖書も言っています 全く同じ事をです 「神の王国は私達の 内にある」分りますか 「神は私達の内にいる」 聖書は言います 「私達の身体は 神の神殿である」 「神は私達の内に宿る」 そうではないですか そして仏陀も 同じ事を言います 仏陀は言いました 「仏陀は内面にある」 「この身体は寺院だ」 私達は忘れています ただ忘れているのです 自分達が菩薩である ことを忘れています 自分が阿羅漢である ことを知りません 私達は非常に崇高です ですからどんな仏陀も 常にこの世界に来て この事を衆生に 思い出させるのです

「あなたは仏陀です 忘れないで忘れないで 忘れないで」と でも私達が再び 思い出したいなら どうすべきでしょう 思い出すのは 非常に簡単です  ただ開悟が必要で それで思い出せます ただ夢を見ている ようです 私達は 多くの悪夢を見ますが 誰かが私達を起せば その夢は消えます 本当に簡単です それではなぜ私と共に 修行する人々は 日々進歩して いくのでしょうか ちょうど 先程の紳士のように 私が彼をそこへ行かせ 賞賛しあなたを誘惑し 学ばせようと しているなどとは 考えないでください この事は私は 初めて聞いたのです

何であれあなたが 聞いた事は私も同じで 昨日から今まで私は 彼に会った事はなく 私はパナマから 到着したばかりで眠り 今日彼に会いました 彼もボストンから 到着したばかりです 私が全て手配したと 思わないで下さい いいえ 違います ですから 先程 話をした紳士は たった一カ月 修行しただけですが 多いに進歩して 彼の性格も変わり 性欲は軽減し 食欲も睡眠欲も お金に対する欲望も 軽減したのです なぜでしょう 開悟の扉が 開かれたからです 彼はお金よりずっと 輝かしいものを 知ったからです

この世俗の世界より 優る事を 睡眠 食事 より世俗的な快楽より 優るものです 分りますか 彼は知り 徐々に自分が誰なのか 知ります 彼自身が 崇高であることを ですから性格 習慣 誤解などは 消滅していきます ちょうど太陽が昇ると 暗闇は消滅せねば ならないのと同じです それだけです 私に幾らかパワーが あるとか 彼を仏陀に 変える奇跡を起こす 魔法が使えるのでは ありません いいえ彼自身が 仏陀に変わるのです 分かりますか ですから あなたが修行する時 智慧はあなたのもので 仏性はあなたのものだ ということを 理解すべきです

ある教師がそれを 与えるのではないです そういう理由で私は 受け入れないのです 誰かが供物を捧げると 私は恥かしくなります あなたの誠意を表わし 私を歓迎するために 献花 果物を捧げてれ 下さいます それで私は幸せになり 少しここのオゥラック (ベトナム)の人々が 温かく本当に私を 愛して下さっています こうは思いません 「私は今 仏陀なので 皆が私に供物を 捧げている」とは そうではありません 非常に恥かしがり屋で 誰でも私に尊敬を表し 沢山称賛する人に対し 私は本当に恥かしく なってしまいます

大した事はしていない と思うからです 仏陀になるのは 或いは菩薩になるのは 非常に自然です 皆自然なことです 私達が訓練できる ことは何であれ 私達がなれるものです ですから何も誇りに 思うことではなく 例えばあなたが医者に なる勉強をするなら 十年勉強したとしたら あなたは 医師になります 数年 法律の勉強を したなら あなたは 弁護士になります 仏陀になる勉強を したなら私達は仏陀に なるでしょう あるいは時に誰かが 言います「マスターが とても偉大だから そのため彼の生徒も 偉大です

きっとマスターが 彼らを加護するか 何か与えているから」 いえ 違います 自身で与えるのです 修行すればするほど パワーを得るのです 修行すればするほど 私達は更に知識を 得られるのです その知識は・・・ 一旦私達がその知性を 活用すればいわゆる 私達の人生は手配 されます 分りますか 私達に必要なことの 面倒を見てくれます 私達がその中で 見出だす状況は 手配され 私達の人生は 日々良くなり それで 私達の生活は日々 より明確になります 私達にはどんな疑いも 明確になります

一旦知性を活用すれば 私達の智慧が 開くからです 仏陀や神が私達に 与えるのでは ありません 本当にそんな感じです もちろん  道を開く どんな先生や仏陀にも 私達は感謝します それは正しいですが そうではありません 彼らは私達には 与えません 私達は自ら学んで 卒業するのです 例えば  薬剤について学ぶ時 それを教える 専門家がいます それで感謝しないと いう訳ではありません それは先生の仕事で 私達が医師になる 方法を教えることで 薬剤の使い方を 見せることに努力し 苦労するからです

しかし私達も自身で 学ばねばならず 努力をします 勉強し 研究し 大変熱心になって 毎日徹夜で 勉強しますね 沢山実践をこなして そして医師になります 医師がそこに立って 「アブラカタブラ」と 呪文を唱えたら 私達が医師に 変身するという 訳ではありません ですから私達が 医師になるときは 私達を教育する 熟練医師を崇拝する 必要はありません 勉強してそうなるのは 自身の知性なのだと 知るべきです 同様にです まさにそんな感じです

私達は教師になるため 教師に学びます 相手の奴隷になるため 学ぶのではありません 私達は 奴隷になるためでなく まさしく仏陀のように なりたいために 仏陀に学びます 私達が仏陀に ならなかったら仏陀は 大変悲しむでしょう 何度お辞儀をしたか 関係ありません まだ泣いています 例えば 私達は 医師や専門家に教わりますね

そして長い間勉強して 医師になれません その医師は うれしいですか また毎日私達が お菓子や 果物 お花を 贈ってこう言います 「あなたは最高です 最高で素晴らしいです よく教えて下さいます あなたはこの世で 唯一の医師です」 そしてペコペコして ほめ称え続けます そうやって毎日 ペコペコします 相手は好みますか まったく違いますね 私達に自分のような 医師になって欲しい 他の人を助けるために 後継者になって欲しい あるいは他の人に 衛生や体のケア方法を 教えたり 病人を 助けて欲しいのです それで幸せです そうですね

私達がお金を あげなくても とても幸せでしょう 医師は生命を 救いたいからです 誰かが医師になって 他を助けるのを見れば その医師は 大変幸せです でないと ただ絶えず ペコペコするなら 何も良い事をしません 私はどこに行っても 同じことを言います こうも言います 「仏陀になるのを 忘れないで」と 仏陀になりたいなら 大変効果的な 方法があります 例えば 私達が 仏陀になりたいなら 仏陀の修行方法を 学ぶべきです 医師になりたいなら 医師になる方法を 習うべきですそれだけ それに関してなにも 変なことはありません

仏陀になるのを学ぶ 上で 方法があります この人がその道を 知らないなら 別の人を探します その人が知らないなら 別の人を探して 尋ねます 「どちらが仏陀になる 方法か 知って いますか」と尋ねます 「いいえ」と言えば その人は知らないので どこか他へ尋ねに行き ちょうどある大学を 探していた おじさんのように 「この大学は 医学校ですか」 「いえ違います」それで 別の学校を探しに行き その学校が違うなら また別の学校を 探しに行きます 誰かが医師になれる なら 私達もなれます 単になりたくないから ではありません

なりたいとなれるかも それで何度も 仏陀になるよう学んで 仏陀になる方法を 知っている先生を 探して教わります それだけです いったん習い始めたら 自分自身で 仏陀になることを 知らねばなりません どんなマスターも 仏陀に変身させません 法華経はこう説きます 「どの時代にも 法(真の教え)を 守るために現れる 無数の菩薩がいる」と なぜ菩薩たちを 探しに行かないのです どうして私達の 頭脳に一つの疑問も ないのでしょう 仏陀がそう言うなら その菩薩たちは どこにいますか

毎日私達は 仏陀を菩薩を 見たいと願いますね だから私達は仏陀を 拝みに行くのですね 本当に仏陀に 会いたいのです 私は大変熱心な人を 大勢知っています 仏陀を拝みに行っては 本当に仏陀に 会いたいと願います 「少なくとも夢で 少し見せて下さい」 そうですね それは 仏陀や菩薩の 話を読んで とても 感動したからです 仏陀の話は 並外れているからです 彼らに関する話は 大変感動的で彼らに 大変愛を感じるからで 「わあ ほんの少しで いいから 仏陀を見てみたい」 「一瞬でいいから 会ってみたい」 そうですね 皆がどうか分りません

でも私は仏陀の 物語を読むたび いつもそう思います 私は言います「仏陀と 一緒に住んだ人々は 沢山の功徳がある どうしてその人たちは そんなに幸運なの 毎日仏陀のそばにいて 話を聞いて 見ることができる 私はどうなの 私は生まれた後に 誰にも会えないの」 それで私達の心は 本当に切望します 熱望するなら 経典を読むべきです 経典を読めば分ります 「どの時代にも 無数の仏陀と 菩薩がいる」 ではなぜ私達は 探さないのでしょう でも遠くに探しに行く 必要はなく 私達が 仏陀 菩薩なのです

少なくとも 私達は 菩薩であり阿羅漢です 自分が誰なのか 知りたいなら 開悟すれば分かります そうでないなら 神秘的なものは 全くありません 仏陀になることは 大変自然に起こります 菩薩になることは 大変自然に 起こります 時々 私達は 智慧や善や 功徳をこの世に与えに より高い境界から この世に転生します 分かりますか たとえ 私達が真理を説く 必要がなくても 智慧で動物や 無明な人々が少し 上がれるようにです 大勢の仏陀や 菩薩が説教をする 必要はありません 私達が霊修行をすれば 自然と光を得ます

その見えない光は 私達の身体中 四肢まで広がります 修行すればするほど より大きく 長い光で 宇宙をさらに取り囲む 取り囲みます 誰でも私達の光の中で 歩く者はまたは 私達に出会えば この光によって 自然に変わります 彼らの幾らかの無明を 浄化します 徐々に 彼らはそのように 自動的になります 彼らが沢山の 仏陀や菩薩に会った時 彼らの智慧は日々 成長していて いつか彼らは 仏陀になるでしょう 彼らが仏陀だと 気づくのです

または 彼らが 最後の先生に会い 秘密を教えてもらい 仏性に気づくのです 彼らはすぐに 仏陀になれます または 数年後に 彼らは仏陀に なれるのです 釈迦牟尼仏は 六年修行をしました そうですね 六年で 仏陀になりました たとえ 遅くても 最長で六〇年です

私達にできないですか 彼の秘密の方法は 何であれ 見つけるべきです 見つけねばなりません 過去に 秘密の方法は 存在しないと 思っていましたが あることを知りました とても簡単です それは「仏陀は私達の 内面にある」ので 他に見つけられる 所はありません 「仏陀は内面にある」 と思っているから ただ 文字通り 理解しますが 本当だと思いません 「仏陀は内にある」 ですから仏陀が 内在するのは本当です 仏陀がどこにいるか 分かるのですか 仏陀が何か 知っているのですか

開悟と共に すぐに分かるでしょう ですから何度も  他の人を教える時 仏陀は内面にあると 彼らに教えると 誤解や考えがあります 「そんなことが ありえるのか」とか 「なぜ嘘をつくのか」 「この女性は人を 欺いている」と 私は騙していますか 仏陀は既にこう 言いました「仏陀は 私達の内にある」と 秘密を知ったら 見つけられるでしょう それだけ そうですね ですから私達が いわゆる無明の時 その表現が理解できず 他の人は 仏陀になれないと 思ってしまいます 一度理解したら 私達は仏陀になれると 思うのです 誰でも 仏陀になれます

仏陀とはなんですか 智慧のことです 例えば 科学は私達が 脳のたった5%しか 使ってないと証明して 私達はまだ95%も 使ってないのです 使ってない95%を 発達させられたら 私達は仏陀になります 今 脳の5%を 使うだけで 沢山の事を理解します 沢山の言語を 学べます  テレパシーも使えます 時に5%を使うことで 沢山の奇跡的な 能力を得られたり 飛行機 電話を 発明します 電話はいわゆる 「天耳」です 今では「天耳」と 呼ばれています 昔は 人々は見えない電話を 使っていました

今では線がある電話を 使っているだけです それも「天耳」の 一種です その「天耳」は 私達だけでなく 私達自身も使えますが 誰でも使えます 電話は 霊修行者の 「天耳」より いくらかいいです なぜか分かりますか 見えない「天耳」は 一人しか 使えないからです でもこの「天耳は」 誰でも使えます そのような物として 現在の「神通力」は とても良くて 昔よりずっといいです ただ 私たちの脳の 能力の5%だけですが 私達は既に多くの 「神通力」を持ちます 現代では 一つの世界   から次の世界へ この 惑星から他の惑星まで 飛ぶことさえできます

私達が100%全てを 使うなら ほかに  どんな事ができますか 多くの事ができます 天国を作り 地獄を 破壊できます 私達を信じる人は 誰でも救い出し  天国まで連れてきます 阿弥陀仏経で 仏陀が言ったことを 覚えていますか 阿弥陀仏がまだ 仏陀になる前に  彼が私達のようにまだ 凡人であった時 彼は誓いをたてました 「私が仏陀になる時 私の世界はこの上なく 美しくて完璧です 誰でもただ一言で ただ一つの祈りで 私を信じる人は  誰でも救って 上へ連れ戻せる」 予想通り 彼が仏陀に なった時 彼の世界は そのようでした

なぜですか 彼は浄土を作るために 彼の知的な脳を 100%使いました それは浄土が自然に あるという意味でなく それが自然にすでに そこにあるなら 阿弥陀仏がそこに 行ったとき そこは 混んでいませんか 既に そこで生きている 人々がいたからです そこにはすでに 仏陀がいました 彼らの世界は すでに居住者を持つ ものでした そこにはすでに 神がいたでしょう 阿弥陀仏はいかに そこに行きその世界の 主になれたのですか

彼はその世界の主です 彼がその世界を作り 彼の信奉者をそこまで 連れて来ました

ですから一旦 私達が 霊修行をすれば 私達に持てないものは 何もありません 欲しい物は何でも 持つことができます それで浄土の居住者は 彼らが望む物は何でも 持つことができます そうでしょう 働く必要はありません 行きたい所はどこでも 飛んで行けます 食べたいものは何でも 得られます 望むものは何でも 持つことができるし 非常に美しいです 苦しみを知りません

苦しみは言うまでも なく「苦しみ」という 言葉さえ存在しません それで一旦仏陀になる なら 皆の創造力は とても強力です 神秘的な物は何もない そうでしょう 私がそれを説明した今 あなたは神秘的な 何かを見ますか 例えば 私達は自分の 脳の5%を使って カメラを発明して 永遠に保てる 人間の写真を撮ります 昔は私達はどんな 写真も撮ることが できませんでした 最良は絵を描く 筆を使用したという ことくらいでした 現在 私達はカメラで 写真を撮って  後代に残すために 永遠に保てます

現在私達は電話を 使えます 私達は電話で 五大陸に 連絡ができます 時にはまた 他の惑星と惑星間の 通信に それを使用できます 私達は月から 地球の人々と 通信ができました 奇跡の力はとても 計り知れません それで私達が仏陀に なった今それは更に 強力になるでしょう したがって 私達が阿弥陀仏陀の ようになった時 人々は一度だけ祈る 必要があり それで 確実に私達が彼らを 連れ上げられます それはただ普通で 何も不思議ではなく それは私達が電話を 持っているからです

一切衆生と 連絡を取る 目に見えない電話です または私達は 観音菩薩になります あなたは観音菩薩を 覚えていますか 彼女に助けを祈る 誰でも どこからでも それを聞けました 私達はそれを特別な ことだと思いました それに関しては 珍しくなく 特別な ことは何もありません 彼らの磁場は 途方もないほど発展し 日々大きく 育っています 日々彼らの智慧は 多くの範囲を含みます たくさんの場所が あるからです 私達が修行するにつれ 私達の磁場は 計り知れなくなります

こうして私達は 磁場の中の誰でも 明確に彼らの言う 何事も理解するのです それは私達人間の脳を 使用するわけではなく 内面の繋がりを 使います 繋がりは テレパシーより 高いです いいですか この世界で テレパシーでは少人数 聞けるだけです しかし仏陀の繋がりは 全世界に 張り巡らされています ゆえに観音菩薩が 助けを求める誰でも 聞くことができると 聞くのです

私達が菩薩または 仏陀になるとき それは同じです それはまさしく同じ それで私達は仏陀には 無数の化身が あるといいます ですから助けを 求める時私達がどこに いても彼はそこに現れ 私達を助けるでしょう しかしながら仏陀は そこに行く必要はなく 彼の磁場が本当に 広大であるので彼は いつもそこにいます まさしく一言の祈りで その磁場は身体に 化身します 分かりますか それは一瞬にして 自然に私達を助けます でなければ彼が私達の  声を聞くのを待って 姿を現すのに魔法を 使うには時間がかかり いったん現れ  さらに彼はそこに 行かねばなりません それでは死にます それで彼は「如来」と 呼ばれるのです 如来とは来ることも 行くこともしないと いう意味ですが 彼は至る所にいます それを如来といいます

彼女はどこからでも 聞くことができます したがって観音菩薩と 呼ばれます

観音法門の修行は 単に「観音」を 唱えることでは ありません 「観音」を唱えることは 低いレベル  即ち初歩的なレベルの 修行です 「観音菩薩」を 唱えることは 彼女に 助けを求め祈ることで 高いレベルの 観音菩薩とは 私達自身が観音菩薩に なることです 私達は観音菩薩と 協力して 彼女と 一体になるのです 全衆生は一つです 私達が仏陀になったと 言えるのはその時です 私達が聞くことができ 理解出来ることを 言う人は誰であれ 救います 彼らの祈りにではなく 状況に応じて 彼らを救います

例えば 子供たちが四六時中 飴を欲しがり 欲しがった時 いつでも彼らに 飴を与えるとします そうはしませんね 子供たちの状況をみて 成長するためにご飯を 食べねばなりません 時には彼らに 飴を与えません 何か他の食べ物を 与えます ですから 時々 仏陀や天に祈りますが 効果がなかったと 思うことがあるのです とんでもありません 多くの場合 人間の頭脳は確かな 物を欲しがりますが 仏陀は それが私達に 良くないと考え私達に 何か別の物を与えます ですから仏陀はそれを 与えてくれなかったと 私達は思うのです それを与えられたら 私達は死ぬでしょう 毎日子供たちに 飴を食べさせたら 彼らの歯は虫歯になり 成長できません それで米や野菜果物等 食べさせるべきです また 私達は 小さな子供達に学校に 行くように言いますが 彼らは厭がって  楽しいことが好きです

彼らは公園に 連れて行ってもらい 滑り台やブランコで 遊びたいのです こういう事が好きです でも私達は彼らに毎日 こんな事をさせたら 彼らは何も学べないと 考えます そうですね ですから私達は彼らを 学校に行かせます このように 時々 仏陀や菩薩は 私達が欲しない状況 自分の為にならないと 考える状況に 私達を置きます でもそれは違うのです 仏陀と菩薩の智慧は 私達の智慧より 遥かに大きく 私達のためになる事を 彼らは知っており 心を込めて私達を 世話します

仏陀と菩薩の秘密 即ち 何を使って 彼らが衆生を済度し 私達を そのような 状況に置き 全宇宙とテレパシーで 繫がるかを 知りたいなら 私達に 道は 一つしかありません  仏陀になることです 事実 仏陀になるのは またもやそうではなく 私達は元々 すでに仏陀なのです そういうことです もっと正確に言うなら 私達は仏性を発見する それだけなのです ここに降りてくる前 私達は仏陀でした 分かりますか 私達は菩薩でした 私達は何か使命が あってここに来ました 忘れてしまいました

忘れたのです さて もう一度 思い出したいなら 簡単です 座って 思い出すのです 分かるまで 思い出すのです 私達の記憶を 取り戻し 私達の生命の起源を 思い出したいなら 唯一の道は 仏陀の法門です 仏陀の法門は 私は既に修行して とても簡単だと 知っています 学びたい人がいれば 全力で教えましょう これは 私が世界を 旅する目的ですし 今日の討議の目的でも あります ご清聴ありがとう

マニ教 選民のための五戒 選民のための五戒 (僧と尼僧) 一 誠実さ 罪から清らかになる 二 非暴力 行動の清らかさ 三 貞操 身体の清らかさ 四 口の清らかさ 食事の清らかさ (純粋なビーガン食) 五 幸いなる貧困 物質主義から清らかに

リスナーのための十戒 (マニ教徒 在家者) 一 偶像を崇拝しない 二 うそをつかない 三 欲張らない 四 殺生しない 五 邪淫しない 六 盗みをしない 七 偽らない 八 魔術を使わない 九 偽善をしない 十 怠けない