尊敬すべき尼僧様 伝統によると 年配者が亡くなると 葬式の際 通常紙幣や紙の金を 燃やします それは正しいですか それを持って行くと 得だということですか はい そうです 印刷した紙の金や 紙幣を沢山持ってると 得をします 尊敬すべきマスター 観音法門は マントラ蜜法 なのですか この法門はどの 教派でもありません この法門は元々の 真の教義です 人々は何度もこれを 「密法」と言いますが 何の理由がありますか 伝達された人は 他の人は 理解できないので それを「密法」と呼び その伝達を受けた 人は知っているのです

なぜなら その領域は その人に属し 彼の隣に座っている 人は見えないのです だからそう呼ばれます だからこれは マントラ蜜法と 呼ばれるわけではなく チベット仏教の 教派や他の法門と 同じなのです いわゆる秘密の マントラはそのため 秘密ではありません 尊敬すべき尼僧様 私達が「オムマニ ペメフム」と 唱える時 身振りは どうすれば良いですか 身振りは不要です 唱えるのも不要です 身振りや 唱えることは何も 影響がありません 「オムマニ  ペメフム」の音を 内面で聞けるので その時に 効果があるのです

観音法門を 修行するとき 時々その音を 聞く事があるでしょう それを梵天の音と 呼ぶのです 従って 普門品では 梵天の音で 海潮音になるのです 海洋波の音の意味は 多くの場合 海の潮の音が 聞こえるのですが 外面的な海潮音では ないのです しかし梵天の音は 仏陀の音は 海潮音のようなのです または時に 仏陀の音は梵天の音に 梵語マントラの 音に似ているのです 梵語マントラは オムマニペメフム これを梵天の音と 呼ぶのです 他にも沢山の 梵天の音があります 霊修行をする時 内面ではっきりと それが聞こえるのです

それを「マントラを 唱える」「陀羅尼を唱える」といいます その時だけを 陀羅尼と呼びます 真の陀羅尼を修行 するとそうなります 多くの人が それを修行していて 内面で彼らは その音を聞いていて その後彼らは  その体験を書きます 先ほど 私が若い男性について 述べたように 私と修行していて 彼は私に彼の 体験を見せたのです そこには 彼が聞いた 音が書いてあり 彼が見た仏陀を 描いてありました そして 時に 彼の兄弟や親戚が それを見つけ 「おお観音仏陀だ これを唱える良い」 と言います 「オムマニペメフム」を 唱えると 彼らには聞こえるので 彼らも唱えてますが

私達は聞こえません なぜ唱えますか 人々はご飯を食べて 満腹になります ただ立って「ご飯 ご飯」と唱えたら 満腹になれますか 尊敬すべき尼僧様 誰かを助けて そして ある日 その人が 私達を傷つけるなら 彼は私達の悪いカルマ (報い)の一部を 受け入れますか はい でも彼に私達の  ためにそれを受け入れ させてはいけません まず 自身を保護し  他者が私達を傷付け ないようにすべきです 私達に慈悲があります

しかし それは私達が そこに座って誰かが 私達の頭を殴るのを 待つか 蛇が来て 私達を噛んで 蛇が 私達の悪業(報い)の 一部を取るのを待つ ことを意味しません それは何も取りません 私達は愚か者です 私達は耐えるべきです 第二に 他の人に 私達の悪業(報い)の 一部を取らせるなら あまりにも可哀相です そうでしょ自身を守り その人を 保護せなばなりません 私達が他人を助ける時 彼らが私達に返しを するようにと どんな利得についても 考えてはいけません 誰かが私達を傷付ける 時 自身を保護し 彼らが間違わないよう その人を守る方法を 見付けるべきです 彼らが悪事を 働くなら 負債と悪業(報い)を 負う事になるでしょう

さらに 私達に智慧が あり 彼らがこの悪業 (報い)を避けるのを 手伝わないなら 私達も悪業(報い)を 負う事になるでしょう 誰も私達の為に私達の 悪業(報い)を受け入れ ません

彼らが悪行を行うなら 彼らは悪業(報い)を 負います 彼らが 私達の悪業(報い)を 負うのではありません 尊敬すべき尊き尼僧様 私の父が生きていた時 彼は決して菜食を しませんでした しかし 彼が往生して 以来ずっと私達は常に 菜食を供養しています このようにして 父は 速く解脱しますか その人が速く解脱 するのは私達が菜食を 供養するということで ありません あなたの誠実さです あなたが子孫の関係で あれば幾らか死者を 助けることができます 菜食の供養をするのは 常に良いことです

あなたが死者のために 菜食の供養をするなら それは生きている 人々にも良いです そして 死者はより 多くの悪業(報い)を 負う必要はありません 分りますか 死者のために 生き物を殺して  肉の供養をすれば  たとえ 死者は どんな悪業(報い)も 作らなかったとしても 彼らは突然 私達の 悪業(報い)によって 影響を受けます それは私たちが 罪を犯したせいです 分りますか ですから   菜食の供養は 常によいことです

尊敬する尊き尼僧様  仏経には書かれて います 衆生には 仏性があり  そして誰でも 霊修行するなら すべてが仏陀になると  それではどうして この世の人々は皆が 仏教に従わず 多くの異なる宗教を 持っていて そして 教義も異なるのですか それが本当なら 仏陀の智慧を見る時 どのように 悟りを 得ることができますか すべての人間が仏性を 持っていることは 正しいです しかし しばしば 他の国々で 人々は 「全ての存在は神聖が ある」と言うでしょう また 神の王国は 私達の内面にあると 仏教徒は仏性は私達の 内面にあると言います キリスト教徒は 神の 王国は内在し神は内面   にあると主張します それはほぼ同じです ただ名前だけが わずかに異なります

すべての衆生が悟り 誰でも本当に真理を 理解すると言う訳では ありません それで ある人は 「仏陀」と言い 他のは「神」と言います そして 両者とも 二つが異なると思い それが論争と戦いと いう結果になります しばしば 言語が 異なる事は言うまでも なく 仏教と言う同じ 宗教の人々も競争し ます そうでしょう 分りますか それは 各々の人々が 彼ら自身の個性と 理解の異なるレベルが あるからです そして 異なる宗教を 確立しました それで それは仏教が キリスト教と異なり  あるいはキリスト教が 道教と異なると言う 事でありません すべては同じ源 同じ言語  同じ目的から来ました すべては同じ真理に 言及しますが 私達は 違って理解しました それから 皆は異なる ものを発明し 塩と 香辛料を加えて それらは皆異なり ました 分りますか

人は菜食者向けに 魚や鶏や肉みたいに  動物そっくりの 食べ物を製造します それによって 私達は罪を犯しますか いいえ それは 罪を犯していません 構いません 第一に 多くの人々が 菜食の食品を製造して 販売しているからで 肉を食べる人達を だましたいのです 第二に芸術的に 製造したいのです 分りますか手工芸です 人をだますのに 動物そっくりに 製造するのは悪い 意図ではないからです 手工芸品を作って いるのです しばしば 主婦はあれこれと より楽しみを 作り出したいのです

あるいは家族を ビーガンにしたいけど 家族が反対するのを 恐れています 食事がつまらなく 見えようが 目を楽しませないので 「魚」や「鶏」か 「鳥」を作るべきです 同時に食べて楽しむ ことができます 人々を幸せにするのは 問題なく 幸せは良いことです 同時に食べて 楽しめるので良いです 罪ではないです 敬愛する高貴な尼僧様 霊修行に瞑想は 不可欠ですか なぜ瞑想を学ぶのに 開悟したマスターが 必要なのでしょうか 瞑想は とても不可欠です 金剛経では 仏陀は六波羅蜜を 説いていますね ええ 

六波羅蜜とは 「布施 持戒 忍辱 精進 禅定と智慧」です 重要でなければ なぜ仏陀はそれを 語ったのでしょう 仏陀は瞑想から 教えましたし感覚ある 衆生が聞くための すべての非常に 高いレベルの経を 説いたのです 毎日仏陀は 感覚ある衆生に 教えるために 自身の智慧を開くため 瞑想する必要があって 仏陀さえ瞑想するのに なぜ私達がしないのか 覚えていますか いつも 私達は話題の前に まず経典を読みます こう説きます 「釈迦牟尼仏は 瞑想から出てきて 教えた」そして あれこれ経を 話しましたね

つまり毎日瞑想を していたのです 仏陀さえ瞑想するのに なぜ私達はしないの 私達は少し早く そして少し多く 瞑想するべきです 私達は開悟した マスターが必要です 開悟したマスターは 低いレベルから 高いレベルまで 修行しているからで どこが危ないか 妨害があるかを 知っています また私達は修行中 どこかで ひっかかれば 尋ねられ それの抜け出し方や 避け方 私達が自分で 解決する方法を 知っています 開悟したマスター なしで修行すれば 自分によって盲目的に 進んで つまづき 落ち 穴や溝に 転がり落ちるなど あらゆることをします

私達は魔にとりつかれ 魔に誘惑されます いわゆる 「精神的混乱」です 分りますか 敬愛する高貴な尼僧様 なぜこの世に人々が そして私がいるべきか お話し下さい そのように より楽しいからです この世に一人だけで 生きたい人は いますか いませんね 私達がそう望むので そうなっているのです 私達が欲しいものを 私達は得る 他に何を 求められますか 尊敬する高貴な尼僧様 私は瞑想中 体が地面から飛んで 行く感じがしました どういうことですか 良いことです 大丈夫 あなたは少し 進歩したのです 進歩しました

尊敬する高貴な尼僧様 地獄はありますか あります 世界を一周して下さい 地獄が見ませんか 他の世はさておき この世には多くの 地獄があります  ええ あります 地獄はここのようです 私達は心配し恐れ 私達の乱暴で邪な 考えは雰囲気を生み その雰囲気は 磁場は私達に くっつき悩ませます そのため私達が何か 悪すぎることをすれば 磁場はいわゆる 圧力を私達にかけ 私達は苦しみます それは 私達の悪行に関する 罪悪感と呼ばれます 地獄が私達を待って いるのではないのです 一人ひとりが自分に 地獄を作ります

敬愛する高貴な尼僧様 仏陀は二ヶ月間 水を飲むだけで 不食をして 恐れのない方法を 教えました これには私達の 霊性の養成に 何か利益はありますか こんな感じです 中道を修行するのが 最高です 分りますか お腹いっぱい食べ物を 食べて  二ヶ月間断食をして 二ヵ月後に 以前よりもっと 食べるのではないです ではどう食べ物を 控えるのでしょう 私を信じないなら 試して下さい 一、二日食事を 止めれば後でもっと 食べるでしょう そうではありません 私達は中道を 修行します 

そして 毎日一、二、三食食べ それで構いませんが 軽く食べるべきです 食べ過ぎないことです 例えば 腹八部から九部 食べれば十分です 満タンまで食べません 分りますか 「食べ物を控える」は そんな感じで良いです 仏陀は一日一食しか 食べませんでした でも私達は仏陀では ないので 私達は  一日三、四回食べます でも軽めの食事です 怠惰になり 智慧ははっきりせず 鋭くならないので 食べ過ぎないで下さい

例えば 病気を 軽減するために 断食の方法を教える 先生がいるなら それは構いません 私達が自分でするなら 時々間違って行い 身体に害を引き起こす 恐れがあります 私達の健康に危険を 及ぼします分りますか 私は 観音法門が 百や千の病気を癒すと 思います 癒せない病気は ありません

一度観音法門を 修行すれば ますます毎日 そんなに沢山 食べたくないと思い 自然に 少なくなります

敬愛する高貴な尼僧様 私はキリスト教徒です イエスキリストを 棄てませんが 寺に行ったり 法の講演をしている 場所にもすぐに聞きに 行くのが好きです 私は菜食者でもあり イエスと仏陀の 両方に従います 私は死後 どこに行きますか 天国か涅槃(極楽浄土) に行きますか 神に従うことは 仏陀に従うことです 仏陀に従うことは 神に従うことです 天国に行くのは 涅槃に達することです 私達が法の講義を 聞くとき  真理の教えや 道徳の教えを聞くとき それは神に反する ことではありませんね

神は更にあなたを 愛します いいですか でも経典を聞くだけ では十分ではないです 霊性を培わねば いけません 経典を聞くことで 沢山の加護を 得るでしょう マスターが 経典を述べるとき 完全な開悟に 達した人は その加護の力は莫大で 私達が死ぬ時 彼は私達を救えます たとえ霊性の育成が なくても 私達はまだ 解脱できますが 仏陀にはなれません この世に生きている時 他の人々を 救うことはできません 印心するために 彼に従うのなら 私達は自ら習い 自ら仏陀になります まだ地球上で 生きている間 他の人々を救える様に 自分の先祖五、六、 七代を救うことが できます 少し高いレベルと 言われていますね

私達が他界する時 確実に神の王国に 行きます 確実にあなたは 神の王国や 涅槃(極楽浄土)に 行きます 神の王国と涅槃には 名前がありません もともと 名前がないのです それでも 世界の言語のため 命名するべきです すべてに名前があり ちょうど人間にも 名前があるようにです 名無しの人には なれません そのため この法門はまた 観音法門と呼ばれたり 生死からの解脱の 法門とも 仏陀の法門 神の法門 とも呼ばれます ですから涅槃に名前が あるのではなく 命名 すべきだったのです

名前はありません 私達がそこに昇り 解脱したとき それは解脱の境界で 浄土です 天国や涅槃(極楽浄土) と呼ぶ必要は ありません 例えば 私はこの花を見て 大変美しいと分ります そしてとても楽しく 幸せに感じます それで十分でしょう その花を名前で呼ぶ など必要ありませんね 花は私達の目を 和ませるためにあり 私達の魂は軽く 軽快になります このように 花は 使命を全うします 「ホアホン」や「ローズ」 と呼ぶのはまさに 同じことです 言語が違うだけです

英語では「ローズ」と呼び オゥラック(ベトナム) 語では「ホアホン」です それだけです そして「ホアホン」が 美しいか「ローズ」が 美しいかかかわらず ただ立って論じます 尊敬する高貴な尼僧様 霊修行をして一世で 解脱するのは 可能でしょうか はい 大変多くの人が すでに解脱しています 既にお話ししましたが 解脱とは 私達の欲 怒り 心酔 偏見や無明から 開放されることです またこの生涯で 解脱できます 私達は解脱したと はっきり分ります 私達が死ぬ時  自分の理解と 智慧のレベルに 釣り合う境界で 生きます

ではもう少し 説明いたします 解脱はこんな感じです 例えば 学校に行き勉強します つまり私達は 文盲から解放される 分りますか 勉強をすればするほど 自分のレベルの差が 大きくなります 私達が働く時 仕事は  ますます良くなり 私達の家もまた 教育レベルに 合っています 私達の仕事や友人は 自分の教育レベルに ふさわしいのです ですから同じ事です 私達が仏陀になるのを 学べば自身の智慧は ますます高くなり その結果自身の 愚かさから 無知から 開放されて  私達が死ぬ時や  日々霊性のレベルが 自分の理解に ますます適するように なります いいですか

例えば 医者の家は ごみ収集人の家とは 異なりますね それは各自のレベルに 似ているからです 相関関係では一度 仏陀になるのを学べば レベルがより似てきて 境界はますます 異なるようになります 私達が死ぬ時 後に  自分の慈悲と智慧と 同様の境界で 私達は生きます 敬愛する高貴な尼僧様 神が神の状態に 達するのが可能な 霊性の育成から 得られる神の 霊的な功徳について お話下さい 神は霊修行しません 元々そんな感じです 多くのものが元から そんな感じです 分りますか

神は大変自然な 現象なのです ただ自然に起こります そのため私達は 「神」と呼ぶのですよ 無上 最も高いのです でないと神が修行する 必要がまだあるなら あれこれすべきなら 私達は神と呼ぶ 必要はありませんね 自然とそうなのです 説明し難いです 例えば 空気は 自然とそうなのです 元から良いのです 私達にとって 吸えば 良いのです 毒ガスや それらを 混濁したら 空気は有毒になります 有毒ガスは 吸い出されたら 空気はまさに以前の 空気になります

敬愛する高貴な尼僧様 准胝観音 仏母は 菩薩ですか 准胝観音は仏陀です 仏母は こんな感じです 大勢が私に言います 「女は仏陀になれない なぜあなたの生徒は あなたを仏陀と言う」それは私の生徒が そう言ったからで 生徒は拘っていません 私が言ったのではなく 生徒が私は仏陀に なったと言いました そしてこう言いました 「女は仏陀に なれない」 ではなぜ 仏母や観音菩薩が いるのでしょうか なぜ「仏母」 なのでしょうか それは宇宙の陰陽を 表します 分りますか 宇宙には陰陽があり それで私達には 古代の仏陀や仏母が いるのです

つまり 天と地球に 陰陽があるのです 「母」であるとか 彼女はなにがしだとか 女性であるということ ではありません そんな風ではないです 仏母は仏陀です 古い仏陀です 敬愛する高貴な尼僧様 私達の親が亡くなると 大抵何かを 供えます ですが死後 私達の 愛する者は転生し その人たちは 私達からのお供えを 楽しめません また十年後 二〇年後 まだお供えをします それで何回目で私達は 死んだ親へのお供えを 止められますか 私達は親に対し 先祖に対し 彼らが 私達の感謝と愛を 示すために お供えをします 彼らが食べるために 食べられるために お供えをするのでは ありません 一部の者は すでに天国に 行っているからです 私達の世俗的で不潔な 食べ物はいりません 大勢が既に 解脱しています もう飲食は 必要ありません それで地獄に行った 多くの人が大勢いて 彼らは食べられません また人間に転生した 人が大勢います

それで彼らも また食べられません 一部の人は 動物に転生します なので食べ物を 飲み込めますか 更に彼らの世界は 私達の世界と違い 食べ物も 私達のは違います 私達がお供えをする時 彼らは食べられません ですから彼らの 福報と美徳と称えて お供えをします 私達がお供えを したいのなら 菜食を供えるのが 良いですそれだけです 「語りうる道は 道そのものではない」 について 説明して頂けますか 道すなわち 仏性は 言語では言い表せ られないという事です

だから「語りうる道は 道そのものではない」 なのです 一切が言語で 説明されるなら 道ではありません 同様に 釈迦牟尼仏は 四九才の時言いました 自分は道を詳しく 道を説明なかったと まさにそんな感じです 仏陀が道を 説明する時 それは 彼が黙っている時です 私が印心を授ける 時のように それは 道を伝える時です 私は何も言いませんが 皆さんは開悟します 私は沢山話しても 皆さんは開悟したのが 確実ではありません 開悟したなら 真理を伝えることでの 私の見えない力に よるものです 私の口からそのような 事を発せられて開悟 するのではありません ですから 「語りうる道は 道そのものではない」 そういうことです

マスター 現在 「気功」は 非常に人気があります それは仏教徒や 道家の瞑想の修行と 同じですか もし私達が五つの 戒律を守って 同時に気功を 修行すれば 私達は 仏陀に達しますか 気功の修行は 仏陀に達することに 役立ちません 気功を修行しないなら 私と一緒に 瞑想を 観音法門を 修行するのです 仏陀に達すると 保証されます でも気功には 二種類あります 一つは体操の ようなもので 武術の一種です いいですか 私は以前この種の 気功を修行しました これは何の問題も ありません

この種の気功を 修行して 一定の レベルに達したら 他の人々は 物理的に傷つけられず 又はナイフを使っても その修行者の体を バラバラにできません この種の気功は 体操です 修行者が 内面のエネルギーを 放出する時 外側の力に対して 体を無感覚にできます これが一つの種類の 気功です 他の種類の気功は 霊性の力を修行し 人々は癒しにそれを 使います 私はこの種の気功は 私達の霊修行により 害があると思います 無作為に自分の エネルギーを使うので 浪費し そして 私達は自身の偉大な 智慧をあけるのに 利用できません

それで後者の種類の 気功を修行しないのが 最善です 観音法門を 修行すれば 仏陀に達するには 十分です 最初の種類の 気功と観音法門を 同時に 修行できます どうしてですか 身体的に 健康なら 様々な意味で結構です 健康のため体を 動かすべきです 太極拳や他の運動 ハタヨガなどを 観音法門と 一緒に同時に 修行できます でも霊性の力を使う 種類の気功は 避けるべきです マスター この数年間 常に沢山の 乱雑な考えがあります 乱雑な考えを 取り除く方法を 教えて下さい

乱雑な考えがあるのは 私達が毎日 世界と 情報交換をして 無駄な情報を色々 集めているためで 脳は全ての情報を 記録する記録装置の ようで そして つけた時に 後から再生します そういう訳で 多くの乱雑な 情報を受け取ると 静まろうとする時に それが出てきます そういう訳で 多くの霊修行者は 乱雑な考えの 収集を避けるため 静かな場所に隠れます それから 彼らが瞑想する間  あまり葛藤せず 乱雑な考えが より少ないからです しかしながら 普通の人々は 永遠に 隠れたりできません

たまには リトリートに行けて それも役に立ちます しばしば 乱雑な 考えがあるなら 放って置きましょう 瞑想する間 修行する法門に 注意を払って 乱雑な考えを 放って置きましょう それはちょうど 運転している間 エンジンやモーターの 音が避けられない様で それを無視して 運転をし続けねば なりません 乱雑な考えを 持っている間 なおも天国の音楽が 聞こえます 隣に座っている 友人と会話をする間 モーターの音が 聞こえるように それは避けられない ものですね

こんな感じです 最初の質問で 中国人が聞きました 気功と観音法門を 同時に修行すれば 仏陀になれますか 現代では 気功は 大変人気があります 二種類の 気功があります 一つは 運動により 体を丈夫にさせます 体のエネルギーを 使って 体を少し より逞しくさせます だから これらの 気功を修行する時 人々がナイフで 私達を突き刺しても 刺せません 多くの場合 体には 首のような 柔らかくて弱い 部分があって 人々は鉄の棒で 首を突き刺したくても 突き刺せません 全くケガしません

また時々 トゲや 釘や 割れたガラスの  上に横たわっても 耐えてケガしません それが 体を鍛える 気功の方法です 前に この方法を 修行しました それが一つです もう一つもまた 気功と呼ばれますが 霊的能力を使います 多くの場合 霊能力を使って 病気を治療したり 体のエネルギーを そのようにして 前後に巡らせます 私の学生の一人も この種の気功を 修行しました 前に 自身の技巧は 非常に高いと 考えていました

多くの場合 彼女はここに立って あそこにいる人を 一撃できて そのエネルギーは 前後に走ります または 時々 跳躍さえできます でも今は 私に従って習い もう自身の技巧は レベルが高いと 思わなくなりました 今彼女は 非常に謙虚学生です 私がどの国に行っても 追いかけてきます 今ここにいます 少し前 中国語で 話した時 これを 言いませんでした ではオゥラック語で
オゥラック(ベトナム)  語で少し追加すれば 皆が有利ですね

最初の気功の法門を 修行できると 言いました その法門を行うのは 体に有益です 体を強くします 問題ありません 気功と観音法門の 両方を修行できます 時間があれば 時間がなければ 気功か ハタヨガを 習わなくて良いです 毎日 床を掃除し ドアを掃除し 服などを洗って 前後に走っていれば それで十分です 二番目の 気功法に関して 病気を癒やすために 霊的能力を使うため 霊的な進歩に 有害であるため 使ってはいけません エネルギーを 誤用すれば 全てを あげてしまうからです

一緒に集中させて いないため ある日 爆発します 大きな開悟に 変わります 分りますか 大きな開悟  すなわち成仏です そういうことです 乱雑な考えを どう止めるか 私はこう説明しました 乱雑な考えがあるのは 毎日外側から 情報を集めている からです 見る目で 聞く耳で 匂う鼻で 常に外側から 集め続けます 記録した何であれ 放つ時が来れば そのように放ちます 私達の脳は コンピュータのようで 記憶したものは何でも 同じく伝えます 多くの場合 少し冷静な時 より明白に見えます

冷静でない時よりも 座って瞑想する時に 乱雑な考えが現れる ということでは ありません 乱雑な考えを 避けたいなら 時々 瞑想するために 平静な場所を 探さねばなりません 私達が 見ず 聞かず 知らず 匂わなければ 記録しません テープレコーダーと 同様で 記録した全てを 後につければ 記憶したものを 正確に再生します ですが「再生」の時 静かに座っていれば より明白にさえ 聞こえます さもなければ 時々活動している時 何を再生しようが 明白に聞こえません 多くの場合 注意を払わなければ 再生していると 分りません ね

それは正に こんな感じです ですが 普通の脳を 持っている人々や 普通の人々にとって 世界と相互に作用し 働かねばなりません これらの情報を 集めないことは あり得ません だから 瞑想の時 より乱雑な考えを 持つことになります ですが 来たら 来させましょう 私達はただ 瞑想を続けます 車を運転するように 騒々しい 車のエンジンを 止めるのは不可能です モーターが止まれば 車は走りません

従って運転していたら 運転し続けます 友人と談話していたら 話し続けます テープを聞いていたら 聞き続けます ラジオを聞いていたら 聞き続けます モーターの音と共に 車の音と共に 聞きます ただ聞かねばならず それだけです 聞くために モーターに停止せよと 強制できません モーターが停止すれば ラジオも停止します 分りますか 電力がなければ 従って ただそれに 耐えるべきです 瞑想していたら 瞑想をし続けること 考えを放っておきます 私達は 仏を唱え 脳は 乱雑な考えを 唱えます 唱えさせて 大丈夫 そんな感じです

避けるのは不可能で サマディにいる以外は 自動的に 魂は 乱雑な考えを 乱雑な考えの振動力を 乱雑な考えの振動力を 越えます 普通の脳を越えたら 乱雑な考えは もはやありません ですが こうなれるよう 常に修行すべきです 座れば乱雑な考えが 直ちに止まる 訳ではありません そうであれば すぐに 成仏したでしょう 霊的な耕作は 不要です 分りますか 乱雑な考えがなければ 修行する必要は ありません 尊敬すべき尊い尼僧様 尊い僧侶が歩いていて 突如溺れている女性を 見かけたとして 飛び込んで彼女を 助けるべきですか

または「男女は接近し 交わりを避ける」と 言われているため 彼女を無視し 歩き続けるべきですか 飛び込んで助けます なぜ無視できますか 彼女は 溺れようと している仏陀です 仏陀は 他の仏陀を 助けるべきです もはや男女に 関係ありませんね すでに話しました 規則は人間を 守るもので 人間が規則を 守るのではありません どんな尊い僧侶でも 溺れかけている 女性を助けなければ 地獄に行きます 彼らは全く 霊修行をしていません 分かりますか 修行していれば なぜ人を助けませんか

「男女は接近したり 交わりを避ける」とは 欲望への刺激を避ける ためです 分りますか 従って 美しい女性を見ず 彼女の手を取らず 肩をさすりません 欲望を減らすために それで私達は 平穏に修行できて 智慧が持てます あまり修行を してない人々や 修行しない人々の 問題を解決するための それで 私達は 彼らを助けられます どの状況も同じでは ありませんね 尊敬する聖人の尼僧様 私の法名はデユニュム あなたの回りに 後光を見ました 私の魂は私が前世で あなたのそばにいたと 私に話します ダルマ(真の教え)を 広げるためにあなたに 従ってもいいですか

それは大丈夫ですか そうしてもいいです 誰でも歓迎です 誰でも私に従うのは 大丈夫です あなたが家族に対する 義務を果たしたなら そして誰も反対しない なら大丈夫です 誰にでもダルマ (真の教え)を広げる 義務があります 私だけではありません 尊敬する聖人の尼僧様 私は無為方法で 修行を行います それはよいですか 第三の目を開く方法が ありますか あなたの第三の目が 開いていないなら それは無為瞑想が よくない意味です 他に尋ねる事は? 観音法門を修行すると 開きます 無為には沢山方法が ありますが あなたは どちらをですか

第三の目 そして 聴覚器官を開く ことができる 無為瞑想の多くの 方法があります それは正しい 「無為」瞑想です それは観音法門と 類似しています どんな方法でも 「非動作」(無為) 「動作」に関らず 智慧眼又は智慧耳を 開けないなら それは誤った 無為方法です 尊敬するマスター これで私達の 質疑応答の部を 終わります おばさんがいます 名前はドゥーホアで 彼女は考えを 表したいと思います ありがとう マスター 南無釈迦牟尼仏 尊敬するマスター ここダルマ講堂で 出席している全ての 修行仲間を代表します

僧 尼僧及び功徳高い 年配の方がいるので 私はここで皆の 代表をする 勇気がありません 従って 私はこれらの 方々を代表する 勇気がありません 私が誰も差別すると いう事ではありません 理解して頂きたいです 私達は誠実と崇敬する 心をもって謹んで マスターを紹介します 受け取ってください 尊敬するマスター 悲劇でいっぱいの 現世の人生で 罪の暗い森で 不幸の海で 不幸でいっぱい 今 私達は悪夢から 目がさめました あなたが伝えられた 貴重な金色の 教えのため 彼らが非常に高貴で 十分に称賛する 方法を知りません

これは2回目です 私たちはアメリカ サンタアナ市で貴方の 功徳に感謝します あなたは現世の岸から 出るために 経路を 私達に示しました あなたは幻想の森から 私達を連れ出しました 私たちを縛る 五感の鎖を ばらばらに切るために 智慧の剣を私たちに 下さいました 私たちの心の中で再び 灯明を灯すために あなたは慈悲の光に 火をつけました 今まで 無限の生まれ 変わり以来 無明の ベールが私たちを 覆っている世間の 汚れを自浄することが できるように あなたは 素晴らしい聖水を 私達に持ってきました

尊敬するマスター あなたの素晴しい 慈悲深い心 私達は どのように 称賛したり恩返し できるか分かりません 私達は最善を尽くして この教えに従うことを 誓います 例えば 菜食になり五戒を守り 三昧に入り瞑想します 私達は仏陀の恩恵を 無駄にさせないため  仏陀にならなければ なりません 尊敬するマスター もう一度私達は謹んで 三宝を尊敬する 私達の誠心を あなたに献呈します そしてあなたの教えに 従うことを誓い あなたの高貴な任務と 永遠の素晴らしい 最高悟り境地を すぐに達成するように 祈ります 南無 釈迦牟尼仏 個人的には 私はマスターの努力を 返す方法を知りません

私の限られた知能と 才能にもかかわらず 私は詩を書きました 承諾を頂きたいです 説法の会場で 私達の心を静め 花のランタンと いい匂いの水を作り 神に捧げ 仏法が永遠に 続くように祈り 誰も平和に 喜んで 経典を勉強し 謹んで 三世十方の諸仏に お辞儀致し 私の心の線香で 謹んで 阿弥陀仏にささげ あなたの深い慈悲で 偉い智慧を浄化し 世界を救うため マスターは観音法門を 伝え 混じり気のない エメラルドのように 清く(チン) 海(ハイ)の灯台は 遠くて広く光を放ち 存在と 無存在(ウー)は 永遠にこの無常な 世界に残り 無上(シャン)の レベルで 智慧を見守り 阿弥陀仏に 開けられ 用いられ マスター(シ)は 如来の法を伝え 全世界に普及させ 世俗の意識を 目覚めさせ 妙法が 遠くて広く流布し 道を開き 良い種を拾い 愛の松明の光で 人を哀れみ 妙音が悪いカルマ (報い)を洗浄し 世間の塵を減らし 明確に真理を理解し 咲いている花を取得し 衆生が 意味深い仏法 (本当の教理)を悟り 仏土に生まれ 蓮の王座に座る ありがとうございます デェウホアさん 穏やかで(デェウ) 調和してます(ホア) あなたの無限の 平和と満足 すぐに悟りに到達し 仏性を見つけますよう 祈ります 阿弥陀仏 お幸せに

皆さんの幸せと 菩提の早期達成を 祈ります 阿弥陀仏