おはようございます ようこそ マスターチンハイとの この特別な朝の講義に 今朝 私は何を話すか 考えていたのですが たぶんマスターの 略歴をお伝えするのと 何が今日私達の所に マスターを導いたかを 話すのが一番だと 決めました マスターチンハイは オゥラック (ベトナム)で国を 荒廃させる戦争の 混乱の中で生まれ 非常に霊的な カトリックの家庭に 育ちました 家族は大変 信仰に あつい人々でした マスターの祖母は 仏教徒でした  これにより彼女は 自分が接する 異なる精神主義の 背景を理解することに なりました

このユニークな 背景により彼女は オゥラックでの 戦争における 全ての悲痛や苦悩を 見ることができました そこには非常に多くの 困っている人々がいて 彼女はそれらの人々に 個人的に深く関与し 援助をしました 十八歳の時 イギリスへ渡り そこで学びました  その後フランスに行き 学びました その当時 彼女は将来の夫を 紹介されました 医師で二つの博士号を 持ち歯科医でもある その男性がマスターを ドイツへ連れて行き これにより彼女は 非常に多くの文化を 理解し 霊的な面でも 多くの理解を 補足することが できました 真理を求める彼女の 探求は最終的に ヒマラヤへと導き そこで自身の 悟りに到達しました マスターの今の使命は 私達皆に人は既に いかに真理の近くに いるかを教えること すべての宗教は 基本的に 徳高い生き方と 真理への接近法を 教えていてマスターは 私達がその真理へより 近づくべきだと 思い出させるために ここにいるのです

マスター チンハイは 内面から自分自身の 愛を知ること そして それを信じることを 私に教えてくれました とても長い間 私は知的な追求を 大学で研究していて そして大学院へ 進みました この間ずっと 語学を学んでいて 幾つかの異なる 文化圏に住みました そして私はなぜ 人は自分のやり方で  他者を扱うのか 理解しようとしました 私達は個人が 周囲にいる全存在と いかに繋がっていて 関係があるかしばしば 見落としがちです 若い頃私は常にこれが 真実だと感じてました

しかしその方角を 見出すための 宗教指導者を探した時 私はよく感じたのです その原理は 教えられていたと 美徳や慈悲を持つこと お互いに 信頼 愛 理解を 持つこと これらすべてのことは 説かれていたのです また私が研究した それぞれの キリスト教の信仰では その道 それだけで なければならず 私がその特定の道に 従わないなら 天国として定義された ものへ昇れないのだと 私は教えられました それが何を意味するか 理解するのに とても長い時間が かかりました 

私は神は愛だと 教えられていたからで 神が愛なら 私達は たとえ彼らの 宗教上の視点が 異なっていても 全てを尊重すべきです 宗教は指示を与える為 私達の行動の指針や 生活の指針を 書式化し 私達に示すために 定式化されます しかし多くの 異なる文化があるので 多くの異なる方法で その行為が 表現されるのをみます それぞれの文化は 基礎の部分では どれも同じなのです あなたは世界の どの国へも行け その国の言葉を話すか どうかに関わらず その人に微笑み それが誰であっても そこには理解があり コミュニケーションが 起こります

これは人間世界にだけ 拡がるのではなく 動物との関係でも 起こるのです 私は荒野で幾つかの 魔法のような 体験をしました  鹿やバッファロー  野生の馬が次々と やって来ては 自分と 野生動物との間に アイコンタクトが 成り立つのです その人が脅威で あるかどうかを 彼らは一瞬で決めます しかし彼らは理解する そこに知性があると マスター チンハイは 自身の真理により 近づくように導きます そしてその真理を通し 私達が神の全創造物と どう関係するのか 理解するのです

これこそ 私達が 行う中で菜食主義が 非常に重要な 戒律である理由です 頻繁に 今日の 文化や現代社会の中で 行われる多くの事は 無意識でなされます 自分達の両親から する必要のあることを 学んだり する必要があることを 自分達の文化からも 学ぶからです しかししばしば私達は あらゆる行為において あらゆる教えにおいて 認識力を忘れがちで 時々不注意にもなり 知らない十人と一緒に エレベーターに乗ると 以前に一度も会って いない者同士なので 彼らを全く 見ることはありません

そわそわして彼らに 関与しないでいます 私達が繋がっていると 認識するのを内面で 理解する時 あなたの敬意の レベルは上がります あなたは  全ての人々が 彼らの人生の機制及び 彼らの人生の表現に 関わらず 彼らは 徳の高い生活と お互いに敬意に 向かって取り組んで いることを 理解するようになると 彼らは尊敬に値します 私は非常に 知識的なレベルで  多くの異なった 文化からの多くの 異なる人々と 無数の宗教や政治の 論争がありました

私はいつも なぜ彼らがその 特定の方法で考えるか 理解しようとして しばしば自分の信念を 押し通そうとしました 私は最終的に 理解したので もはやそうしません それらの人々が 彼らの愛の表現を 生きている限り 神の力であるように 決意するものは何でも 自動的に 現れるのです マスター チンハイは 私達に幾つの異なった 宗教が基本的に 同じ真理を 教えるかに関して 話しています 神のパワーと呼ぶ人や 仏性と呼ぶ人もいます ニューエイジ運動では それをあなたの 「高次の自分」 「内なる光」 「高次の真我」と呼び これらは すべて同じです

私達の生命の目的は 自分自身を知り  本当に重要なことに  できるだけ近づいて 生きるためです なぜなら 私達がしたこと 私達が達成したことを 振り返るために 命が終わるまで待つと よく考えると思います そして私達が行った 異なった物質的な 成長を全て破壊すると 私達は 本当に 重要な唯一のもの 私達が誰かを愛して いるのか 私達の家族 私達の子供達が そして彼らに どう関連したか どう 影響するか分かります 今日の講義の目的は 皆さんが 既に知っている 真理を教えることで 時々ただ皆さんが 既に知っていることを 思い出させ気づかせる ことが必要なのです

難しい話は抜きにして マスター チンハイを 歓迎します ありがとうございます

おはようございます こんにちは   皆さん

おはよう 皆さん

皆さんは皆 映画スターに見えます 映画スターですか そうですか 本当に あなたのサインが 欲しかったのです たぶんそうだと思った それならサインを もらえます

しかし私達もそう 私達も映画スターです この世界は最高の 舞台で 私達は スーパースターです 私達は世々代々 完璧に多くの役を 演じ  ある時は天使を演じ  ある時は人間を演じ  ある時は夫を演じ   ある時は妻 王 大臣 女王を演じ そして ある時は 幾つかの 望ましくない 役を演じるのです しかし問題なのは 知らずに 無意識に これらの全ての役を 演じることです それでよく自問します なぜこの役を 演じねばならないのか なぜ 私はこのように 行動すべきなのか なぜ他の誰かが王座に いるのに 私はただの 労働者なのかとか  ただの秘書なのかと 魂を知るために この世界は唯一の 舞台であり 私達は 学ぶために 自分の 願望と要求を実現して 完璧に成長するために 様々な役を勉強します

今私達はしばしば神や 仏陀が非常に慈悲深く 全知全能であり 遍在すると聞きます ではなぜ私達に何が 必要か知りませんか なぜ自動的に私達を 完璧をさせないのか なぜ 神は 私達をここに送って  非常に難しく非常に 苦しく見える課題を 学ばねばならないのか その理由は ええ私自身の悟りに よります それは苦しみではなく それ程の苦しみでなく それは皆 芝居です あらゆるものは 永遠に非常に速く残り わずかな間だけの ように続きます

従って 神や仏陀の 目には  実際多くの そして 長くて永続的な 苦しみがないのです 私達の目にだけ 私達自身の限られた 理解と時空の中で 私達はそれらを 認めるのです 私が自身を大いに 覚醒させた時 自分が遍在しあらゆる 生き物の中にいて ただその特定の 状況で楽しみました 蝶か鳥か 又は昆虫か 天使か 岩石か 木の中にいるのを見て すべては完璧に あるがままです 言葉ではこれについて 説明するのは難しく でも最後には  私達は皆 それを 望むなら ある日  私達は皆その理解に 達します 

そうして 自身を知るのです それが唯一の解決策 これは唯一の 短い人生に対する 幻想と間違った信念に 終止符を打つ時機で 唯一の解決策です というのは 人間の意識レベルと 理解力ではすべて 違って見えるからです しかし比較的 高いレベルの理解力と 意識レベルの場合 物事はみな 違って見えますが より気楽で 積極的です 従って神や仏陀 菩薩 要するに 「聖人」という意味です 例えばイエスは 菩薩であり 仏陀は即ち「聖人」です 聖人は西洋的な 用語です 仏陀は悟りを開いた師 グル聖人とも言います

ですから 聖人や仏陀や神は 高い意識レベルの 聖人で 彼らは苦しみが何か 分りません 理解できないのです しかし私達人間が またはいかなる衆生が 全能で パワーと智慧と 慈悲に満ちた 衆生に祈るとします 彼らに 誠心誠意祈ったとき 彼らは下の方を見て 聞きます 「何が欲しいのか」 なぜ苦しく思うのか」 なぜ苦しく思うのか」 彼らは困惑します 苦しみとは何だろうと ただの芝居のようで 映画を見ているのと 同じで または劇を 鑑賞する時 私達が舞台の役柄と 一体となって 泣いているのと 同じです

時には俳優自身も 泣きます  自分が 演じている役柄に 没頭したからです 没頭したからです しかし冷静で 落ち着いている人は 彼らはなぜ 泣いているのだろう ただのケチャップで 本物の血ではないのに ただの芝居ではないか 一時間か一時間 二十分かたぶん 二時間ぐらいの芝居で なぜ大騒ぎするのかと 時々その幻想から 目覚めた時 始めてそれが 芝居だと分ります 従って 仏陀や聖人達は 芝居から目覚めた 人達で 彼らにとって 苦しみはなく 喜びと 楽しい事しかないです

私達は様々な役を 演じては面白がり 自分もそれを楽しみ 人をも楽しませ 多彩な才能を 発揮するのです ある人は威厳ある 王様を演じ ある人は 冷酷な人を演じます とても残酷で 凶悪な役を演じます しかし 彼らが仮面を取り 服を脱ぐと 普通の人なのです とても優しい 良い夫  良いお父さん 良い  友人かもしれません 彼と握手もでき 困った時には 彼らに助けを 求めても構いません 同様に宇宙には このいわゆる 大きな幻覚から 目覚めた人達がいます

彼らは 人生百年が 彼らは 人生百年が 宇宙において 一瞬の閃きに過ぎない ことを知っています 悟りを開いた人に 取って来るもの 消えていくものは 泡のようなものであり 海の中の泡のようで 語るに値しないと知り そのため私達の 苦痛が分りません 仏教の経典 阿弥陀経に 極楽浄土の 生活について 書いてあります 経典には 西方極楽浄土の 生活は至福と 栄光に満ち愛と 平和に満ちています 不安の欠片もなく 苦しみという 言葉もなく 苦しい事を 聞いたこともないです なので苦痛を経験 することはありません

ですから 私達がこの世界で 苦しんでいる時 これらの聖人達には 理解できません しかし彼らが この世界に 降りてきて 一体何があったか 見た場合 始めて分ります そこで私達は誠心誠意 真剣にこれらの 聖人たち 仏陀  観音菩薩 イエス またはあなたが 心の中で最も 信じている方に祈ると 彼らは地球から 繰り返し絶え間なく 誠心誠意送られてきた 祈りが聞こえてきて 心を打たれ私達の 祈りを無視する訳には いかなくなり 降りて来るか 彼らの一部の意識を 地球に派遣して 確認するわけです

たとえ意識の一部を 地球に送るとしても 地球での問題を 把握するのに 道具が必要です 例えば海に潜って 魚や海の中に 生きている生態を 体験する場合 魚かカエルのような 服を着て 大きな靴とダイバー スーツと酸素マスク すべての器材と 懐中電灯を用います またそんなに長く海に 潜っていられません 酸素が足りないのです 暫く潜って上がって 来なければなりません それで今陸上で 歩く時は懐中電灯は 必要ありません 酸素マスクを つけなくても 問題ないし 力も要りません

しかし海の中だと 状況が違います 力も要り あらゆる器材も必要で これで始めて 海の中を発見できます 同様に仏陀や 聖人も同じです 例えばイエスや仏陀 釈迦牟尼仏 阿弥陀仏 観音菩薩が 地球に降りて来る時 または彼らの意識の 一部を地球に 送り込むとき 人間の体の道具が 必要で それで この世界を探査し 人間の言葉と 人間の感情を 理解するのです ですから時々私達は 幸運にも神や仏陀が この世界で 歩いているのを 見ることがあります

仏菩薩や聖人が この世界に来る時は 人間の体を 道具にして この世界を探査し 問題点を把握し なぜ人間と 他の衆生はあれほど 助けを渇望するかを 理解します 仏陀や聖人が 人間の体を道具にして この世界に 来た時 彼らは苦しみ始めます 暑さと寒さ 気圧や血圧 気候の変化や あらゆる膨張による 圧力と政治の圧力及び その他の似たような 状況に耐えて始めて 私達の苦しみとその 原因が分るのです そして「事務所」に 電話して 問題が分りました

私も助けが必要です それで自分自身に 助けを求めます 彼らは自分自身に 助けを求めるので どのように ここから 自分自身のパワーを 使って 神と繋げ それで 加護と助ける力を得るか 分っています 神は彼らを通して 無限の力を発し それを他の人にも 分け与えます 彼らはこう言います 「今皆の問題が分った ほら私も同じだ 私に 解決策があって分かち 合う事ができる」と それが私達も 仏陀になれる理由です

彼らは私達に 無限の宝庫を 与えてくれて 私達の病を治す薬を 与えてくれるのです そして新しい 世界のことや 天国 仏土の事を 教えたりして 私達は 新しいものを学び 活力を得ます 私達は知的になり 智慧に満ち 彼らと 同じようになります 彼らと同じ物を食べて 同じパンと水を 食べて彼らと 同じように 成長します 私達はよく素晴らしい 聖人達の物語を 耳にします 彼らが いかに神や仏陀に 捧げたかの話です そして彼らを手本に 尊い存在になる方法と 自分も貴い本質を思い 起こすことを学びます

そして私達自身の 内面の過去の記憶を 呼び起こす事によって 自分が誰か どこから 来たか思い出します だから 釈迦牟尼仏は 地球に降りて来た時 彼はすでに 仏陀であると仏典に 書いてあります 仏典には彼が生まれた ばかりの時すでに 七歩歩いたとあります 七歩いてから 倒れて普通の人間に なったとのことです そうあるべきです 彼は 二十九歳か三十歳で 悟りを開くまで 何もして いないのです 悟りを開いてから 彼は「私は元々 仏陀なんだ このような目的で 美しい仏土から 来ているのだ」 と分ったのです 今ここにいる皆さんは 皆仏陀かも しれません

そして生まれた時に 八歩歩いたことを 覚えていないかも 知れません または生まれた時に 何か変わった現象が あったことを皆さんは 覚えていないかも 知れません 仏陀は 皆生まれると七歩歩く 訳ではありません 仏陀によって 違ったことをします イエスは生まれた時 七歩歩きませんでした しかし他の事をします 彼は小さい時 とても賢く お母さんに自分の服を 貧しい人に与えるよう お願いしたそうです 口数が少なく 必要な時だけものを 言ったそうです 時たま人を驚かせる ような話をして お母さんをびっくり させたそうです

インドのもう一人の クリシュナという 聖人がいました 彼は小さい時とても 悪戯っ子だったそうで 我々の子供達と 同じだったそうです 彼に関する 可愛い子供の時の 話があります 彼はチャパティーに バターをつけて 食べていました バターのついていない ものは食べたがり ませんでした 硬くて 美味しくないからです そこで彼はバターを 盗んで食べている ところをメイドさんに 捉まりました 彼女は あなたが盗んだことを 知っていますと言うと 顔にバターがついて いるのに 彼はいや 私は食べて いません 

私では ないですと言いました そうです これは彼の 幼い時の可愛い話です 私達も子供の頃  皆これをやりました これでいいのです 仏菩薩は皆 小さい時から神聖で 行儀がよかったと 思ってはいけません 私達と同じように 成長し 食べて 寝て 親の言うことを聞き 学校の先生から いろんな科目を学び 人から人間の 道理を学び そして人間の 立場から 仏陀に向かって 進みます 彼らが 良い機会に恵まれ 心の底から 自分の源である 真の家に帰りたいと 渇望するとしたら また神聖な全体と 分離したことを 苦しく思うとしたら 私達は自分の生活と 子供の頃を振り返ると 私達は仏菩薩や 聖人と 何の違いもないことが 分ります そこで私達も仏陀に なれると分かります 本当にそれを望み 目的を達成したいと 願えばできることです