何か質問があるなら 今聞いてもいいですよ それでもう少し説明が できます 話したい ことはすべて話した ように思います

あなたには今まで 尋ねなかった 個人的な問題か 長年尋ねたかった 質問が ありますか 今日質問できますよ

今日マスターに 会える機会があり とても嬉しいです 七日間禅会に来るため ここに来ました 一九六八年尼僧になり 私はこの世界に多くの 苦難があるのを見て 尼僧になりました 当時私の父の事業が 行き詰まりました 多くの債権者がお金を 求めて家に来ました 私達は皆一生懸命 働いていたので私は とても悲しく感じたが 得るものは痛みでした

私は仏教の教えを 学んだ後 尼僧に なることを決めました 出家する目的は 何でしょうか それは心配を取り除き 生死から解脱し そして悪いカルマ (報い)を 取り除くことです 私は尼僧になって 約二十年になります 私は先ほどマスターが 話したお話の 小鴨のようです

つっつき続けますが 殻の中から 出ることができません 殻の中のヒヨコですね はい私は殻の中にいる ヒヨコのように感じて 抜け出し方を見つける ことができません 幸運にも先月宜蘭で ある法師の家で一人の 仏教徒に会いまして 彼がオゥラックからの マスターについて 話してくれました 彼女はヒマラヤの マスターに近い弟子で 観音法門を 教えています この話を聞いた後 私はこのオゥラック人 (ベトナム)マスターを 探し始めました 私は彼女を探し続け 最後にこの山で彼女を 見つけ出しました 今日私は慈悲深い マスターから印心を 受けられ非常に幸運で 私は幸せです また七日間の禅会にも 参加でできます

皆さんは既に 仏陀です とても残念なのは 気づいてないことです 皆さんは 既に仏陀です ここにいる皆さんは 既に仏陀の境地に 到達しました 皆さんは仏陀であると 信じることができない 自信がありません 皆さんは自信が ありません そして 自分を信じていません 皆さんは全員 印心の間に 仏陀になっています 分かりますか それを認識する 必要があるだけです あなたは内面と外面の 経験で認識する 必要があります ゆっくり 多くの人と 対話した後に皆さんは 仏陀であることを 理解するでしょう

それがすべての衆生が 非常に重要である 理由です 衆生なくして 仏陀はいません ある日洞窟の中で突然 悟りが開きあなたが 仏陀であると分かると 仮定してください しかし異なった 状況によって テストされないなら 人々と対話することで 色々経験してください あなたの認識は長く 続かないでしょう あなたが悟ったとき あなたが 獲得した認識を 信じないでしょう それで衆生なくして 仏陀はいないのです いったん印心すると 既に皆さんは 仏陀です 霊修行を すればするほど もっと理解します

それは霊修行を 続けるべき 理由なのです 修行を 続けないと 印心の日仏陀だった だけです そして 皆さんは 後でそれを忘れます ある人が卒業の後 医師になるはずが 彼は少しも患者も診ず そして器具や 医学用語を使わないで まったく経験を 増やしてないとします 分かりますか 彼が少しも患者を 診なければ 彼は何十年後 学んだこと全てを 忘れてしまいます めったにその知識を 使わないので彼は 少ししか 覚えていないでしょう 同様に 例えば 彼女はとても美しい 音楽を演奏します

しかし彼女は長年 練習をしていません それで今彼女が 演奏すると その音は 滑らかではありません 人が英語を 勉強するのも同じです 英語をよく勉強した はずですが 彼は三〇年間 それを使わなかったら 今では流暢に 話すことができません 私でさえオゥラック (ベトナム)で生まれ オゥラック (ベトナム)語を 十年以上も話して いたのに今はそれほど 上手に話せません

私はオゥラック (ベトナム)語を たくさん忘れています これは最悪の 事態ではなく 私はまだ時々 オゥラック語を 使用しています 人が三十年以上 島に閉じ込められて オゥラック語を話す 機会が全くなかったら 彼はその言葉を 話せないかも しれません 違いますか 私達が学校で 英語を習うとき 英語が少し話せます しかし卒業後 英語を使わなければ もう話せません それで即座に悟り すぐに仏陀になれる のは本当です 仏陀の光を見るとき 仏陀と一体になり 既に菩提に 到達したのです

天国の音を聞くとき 既に仏陀と 一体になります 例えばマスターの足は 彼女の体の部分です それをつかむ時  マスターを掴みます マスターの手を掴む時 マスターを掴みます 彼女の手 頭など等は いずれも彼女の一部 同様に たとえ 低いレベルの音しか 聞こえなくても 依然天国の音です たとえ低いレベルの 光しか見えなくても 依然仏陀の光です 仏陀の足を掴むとき 仏陀になります 仏陀が見えるとき 仏陀を掴みます でも まだ彼の顔を  見ていないので それは十分に良くない です それで自信を 十分に感じません それは まるで象を 触っている四名の 盲人の物語のようです 一人は象の耳を触って 言いました「象は お皿のようです」 一人は鼻を触って 「象は柔らかい ホースのようです」と 言いました

一人は足を触って 「象は柱のようです」 と言いました 彼らみなが 象に触りましたが 象について 違う考えを 持っています 同様に皆さんは印心を 受けた時 既に 仏陀になりました しかし 自分の仏陀の品性 即ち無限の力と能力を 十分に認識しないので 自分が仏陀である ことを信じません それだけです ですから仏陀になる ことを待つ必要はあり ません 既に仏陀です ただ自信と経験が 欠如しているだけです その後 高いレベルに なれば 衆生を済度する力を 十分に持てます そのとき 自分がどんな仏陀で あるか 分ります

しかし 衆生を済度するため 弁才も必要とします 衆生を済度するには 内面の智慧と経験を 別として 外在の知識と経験も なければなりません ただ仏陀になるのは 大した役に立ちません そういうわけで 縁覚仏(独覚仏)は 他人を教えられません 彼には 先生がいなく 自分で悟りに 到達しました 例えば 彼は先生に 従って 観音法門を 習ったことがあるかも しれません その後 先生は亡くなったので ある日彼は自分で 悟りに到達しました 彼は印心のとき 悟ったのですが

その後指導して くれる先生がないので 彼には衆生を教える 体制がありません 彼は口頭の教理を与え たり他を彼の説法に 引き付けたり 他人の 注意と尊敬を得る事が できません それで たとえ深い 悟りを開いても 弁才がなければ 自分所有の智慧を 悟ってない人に与える ことができません それは 最も難しいことです 難しいのは 悟りを開く事ではなく 衆生を 救済することです そういう訳で 釈迦牟尼仏が 仏陀になった後 宇宙中の全ての 仏陀が彼を賛美し 彼がこの堕落した 世界に衆生を教える 能力を持つと言います

世間の言語で 仏陀の境界と 内面で到達した霊性の レベルを述べるのは 簡単ではありません それでそれらの事を 述べる能力は重要です 口頭の説明が なければ 賢い者を除き 衆生は私達を理解する ことができません 良い霊性の背景と 多くの功徳を 有している人以外 誰も私達を理解する ことができません そうではありませんか 従って 一方で  自分の内面の力を 深めなければならず 他方では 自分を 導く良い先生が いなければなりません 大部分の人は自分で 霊修行を行います

例えば仏陀の名を 唱え 経典を読み またはマントラを 唱えるかもしれません 彼らは特定の日に 内面の音を聞くかも 知れませんが いつも ではなくまたは数日間 この音を聞いてから 決して二度と聞かない かもしれません 例えばそのようです たとえ毎日この音が 聞こえても それも あまり役に立ちません  不思議ですそれはなぜ 彼らは どのような音が良いか  どのよう音が悪いか  どのような光景が良く どのような光景が 悪いか 分らないからです

彼らには 相談できる 人も誰もいないので 最後に 魔により 馬鹿にされます 容易ではありません だから多くの修行者は 道に迷ってしまって 誤った道を歩みました 印心を受けた時 即座に悟りを 開くことができます 智慧眼を開けば 私達の自性を 理解することができ すぐに仏陀になります 本当にそうなのです しかしながら 私達は 智慧と自信がないから 悟りを開いても どうすれば良いかが 分かりません そうでしょうか 私達は何をしたら 良いかが分かりません 全ての偉大なマスター 全ての衆生に仏性が あると言いました

けれどこれを分から なければ だめです 牛には仏性があります けれど彼はそれを認識 できないから無用です 宝物を持っていても 宝物はどこにあるかを 知らない人と 同じようです 彼はまだ貧乏です それゆえ 仏陀に なるかどうかは 私達の考え方と 自信によります 長く瞑想することが 仏陀になること ではありません あまりにも長く 座っていると 「坐仏」になります あまりにも長く 横たわると「寝仏」に なります

そういうことをして 仏陀にはなりません だからこそ 印心の時 あなたは既に 仏陀になったと 言ったのです しかし本当の自分を 認識するため 熱心に 修行して 心を 落ち着けるべきです そういうことです あなたが仏陀でないと いう訳ではなく あなたは既に仏陀です あなたは既に仏陀です 二百万年という 長い年月にわたって 仏陀になり ある国に生まれて ある衆生を救う というようなことを 定めるべき ではありません

長い年月がかかるし 誰が長生きできますか 一方で  何をすべきでしょうか 私達は多くの時間を 無駄にするでしょう 仏陀になるまでに 長い年月を待って 多くの生涯を通して 行かないと 私達は キリンになるでしょう

そうはいきません あなたは既に 仏陀です 約束します

誰でも仏陀になる ことができます 仏陀というのは 悟りを開いた人 偉大な智慧を持つ人 悟りを開いた偉大な マスターであります 全てのことを完全に 理解できるなら 私達は仏陀のレベル 偉大な マスターのレベル  解脱のレベルに 達しました そういうことです 他に何もありません 誰でもできます あなたは瞑想を通して 毎日少しずつ 分かります そうですね 毎日ますます悟りを 開くことができます 毎日天国へ行って 戻ってきます 時々 覚えていますが 時々覚えていません

死ぬのと同じです 仏陀を訪ねる時 私達は仏陀です 仏陀だけ仏陀の境界に 住むことができます 仏陀と一緒に いることは 仏陀の 品性があるべきです 仏陀の境界に 行けば 仏陀になります 仏陀の光を 見ると 仏陀になります 私達の内在する仏光が 輝く時 仏陀になります 私達の内面の仏音が 現れた時 私達は仏陀になります 仏陀とは そういうことです 仏陀には千手と 千の眼はありません それ以上があります 単に千手と千目でなく 無限の数の手と 目があります

しかし観音菩薩は 無限の数の手と目が あるというなら 人々は混乱します 彼らの想像力を 超えています だから千手と千の眼と 言うだけで十分です 彼らはそれを数える ことができるし 「わあ すごい」と 三つの頭と六本の腕を 持つ神のような人は 既に信じられないほど それで更に 千手と千眼と言うなら 人々は驚くでしょう 彼らは満足して 頷いて こう言います 「彼女の力は計り 知れないに違いない」 千手と千の眼は既に 沢山あります それで観音菩薩に 千手と千の眼があると 言うのです 

けれど 彼女にはただの千手と 千の眼ではありません 千手と千の眼では すべての衆生を 助けるには不十分です 仏陀になるのを 七時まで 待つ必要がありません あなたは七時までに 仏陀になると 約束しました 今あなたは本当に 仏陀になりました そもそもあなたは 仏陀なのです 印心を受けた後 仏陀の力との 繋がりができ  あなたの本来の源に 戻ることが 保証されます 私達は既に 振向きました それで十分です 仏陀になる日まで待つ 必要はありません しかし今はまだ仏陀の 力を使えません まだ勉強中です

ですから 暫くとって置きます 後からその使い方が 分かってきます 例えばある人が 仕事をし始めると すぐお金が 得られますね 社長は彼の給料を 取っておいて 月末に彼に払います 実際 仕事をし始めた時点で お金があり その工場の従業員に なっているのです 月末になってから 従業員になった 訳ではありません 仕事を始めた初日から 従業員なのです 同様に工場の 社長も初日から 社長なのです 二、三十年働いた後 社長になるわけでは ありません

しかし 社長になった初日から 社長としての自覚が あるわけではないです それはまだ 従業員のことや 仕事のことがよく 分っていないからです 工場はとても大きく すべてに詳しい 訳ではありません 彼は工場のことを 詳しく隅々まで 勉強する必要があり 時には従業員に どこにどんな機械が おいてあるか どこにどんな人が 配置されているかと 聞いたりして まるで 見習いのようです 自信満々の社長の 雰囲気はありません そうですね

でも彼は社長でない 訳ではありません 彼が署名した時点で すでに社長なのです しかし  まだ新米で学ばねば ならない事が多いです 工場のシステムや 状況について把握し なければなりません 徐々に自分は社長で あることを認識し ますます自信を 持つようになります そして社長としての 自覚を持ち社長の 振る舞いをします そうですね 同様に 印心を受けたら 仏陀なのです ただまだその パワーを使う機会が ないだけの話です 私がここにいるので 皆さんは使う必要が なく どこかに しまっておいて 後で必要な時に使うと 分かります

私は仏陀なんだと 分かりますか 他の何者でもないと 分かるのです その時は 全世界が あなたは仏陀でない と言っても それを信じません 高慢だから信じない のではありません 仏陀になることは 食べて寝るのと 同じぐらい自然で 大したことではなく 自慢することでも ありません

仏陀になるのは 卒業して 医者になることや 高校を卒業したのと 同じです 全ての科目を 習い終わったら 高校を卒業する わけです 何もおごることは ありません 例えば 彼女は長い間 音楽を習いましたので 楽器を演奏することが できるのです 彼女は毎日楽器を 楽します そういう ことで 彼女はこれを 鼻にかけません 世界には多くの人が 音楽の演奏が できます 誰でも習えば彼女の ようにできるものです 当然のことです そうですね 誰もこれを 鼻にかけたりしません

ただ全世界で この 簡単な真理が分る人が 少ないので 簡単な真理は極少数の 人が分かるために 誰かが自分は 仏陀だというと 人は 彼は 魔に取り付かれたとか  高慢だとか 頭が おかしいとか言います しかし仏陀になった 人にとっては これは 大した事ではないです ごく自然なことです 先日私は 私達 観音法門を修行して いる人にも同じ力が あることを話しました 彼が家にいると 彼の舅の病気は よくなります

彼は他の修行仲間と 病院で瞑想すると その修行仲間の息子の 病気がよくなりました また ある人は 私の教の講義を聴き 私の本を読んで 開悟したのです これらはいずれも 些細な事であり ごく普通の事です そういう人は 阿羅漢や 菩薩のレベルに達した 人です 分かりますか 私達は過去の某菩薩は その種のパワーを 持っているとか ある阿羅漢は自然に 病を治す力があるとか それら阿羅漢や菩薩と 一緒に住む人は祝福 されると聞いています

また私達の 観音法門の 修行仲間の 親族が亡くなった時 親族が亡くなった時 その親族は印心を 受けていなく修行して いなくても超昇した のです これは私達の 修行仲間が菩薩である ことを意味します 分かりますか 阿羅漢にだけ 彼に近づくと 超昇する力を 持っています 私達の観音修行仲間は 何も自慢に 思っていません 彼らにとってこれは ごく自然なので 自分が菩薩である ことも知りませんし 自分はすごい阿羅漢で あることも知りません そうですね

だから金剛教に 誰かが自分は 阿羅漢で菩薩で 仏陀であると主張する 人は実はそうでなく それは違うと あります 経典を拠り所にすると 私達の修行仲間は皆 仏陀なのですが 彼らは自分でも 仏菩薩の意味が 分かっていません 彼らは決して 鼻にかけません 私はきっと仏菩薩だと 自慢したり そんな 態度はとりません 偉ぶりませんが 知っていますが 同時に分かる訳では ありません 分かるのは 彼らは 道具になったからです 体はありますが エゴはありません 仏陀のパワーだけ あって 言われた事を するだけです

仏陀の言われたことを 聞くだけで 他に 何もできません ある人は私のことを 仏陀だと言いますが 仏陀とは何か 私は 述べられません 分かりますか しかし仏陀でないと 言うのも 正しくありません 私が 自分が仏陀だと 言うのも正しく ないです 分りますか 私が自分は 仏陀でないと 言うのは もっと正しくないです 経典を拠り所にすれば この人 とかあの人は 仏菩薩になったとか 仏菩薩のレベルに 達したと分かりますが 彼ら自身は解釈できず 説明するのは 簡単ではありません

同様に 釈迦は 自分が如来であり 如来になったと言い 父親に言います 「私はもう あなたの息子ではない 仏陀だ 伝統に基づいて 自分のことを 呼んで欲しい」 彼は父親が状況を 知らず 彼の手を 握ったり「息子よ」という風に 彼を呼んで仏陀の 風格を損なうのを 恐れたからです 釈迦は父親に 自分は仏陀の道を 成就し仏陀になったと はっきり 言ったのです そうでしたね

釈迦は仏陀に なってから父親に 会いに行きました

釈迦は父親に礼拝して もらいたいとか 何か して欲しいわけでは ありません 事実を 言っただけです 医者が自分はもう 卒業したというのと 同じです また彼女が 線香をあげては 私は尼僧になりました と言うのと 同じです こういうことです 出家する前と 同じです 彼女は前と同じように 演奏が好きです 何も特別なことは していません 仏陀になることも 同じです ただ事実を言った だけです 鼻にかけて いるのではありません ある人は自分は仏陀 だとは言わないものの 態度が傲慢です そうですね

自分に礼拝するよう 求めたり 寄付するよう 求めたりして それこそが傲慢です 私達が仏陀になって 人にこれを言うのは 何がいけないですか これは決して 傲慢ではなく ただの事実なのです 満腹になった時満腹 だと言うのと同じで 何が偉いですか 仏陀になったから そう言っただけです 自分の仏性を 知っていて 自分は仏陀であると 分かったのです 自分が仏陀であると 分かっただけでなく 全ての衆生も仏陀だと 分かっています これは鼻にかけること ではありません

自分は仏陀であると 分かっていますが 人はまだそれが分って いないだけのことです これが唯一の 違いです 仏陀になった人に とっては全ての衆生は 自分と平等なのです 鼻にかけたりしません 自分は他の人と 同じだと感じます 驕ることはありません 仏陀になることは ごく普通の事であって 印心を受けた時点で 仏陀になっています 私達は仏陀のパワーの 海と繋がっていて 私達はその海の一部で 一滴の水が 海に落ちると 海の一部になるのです 分かりますか いったん海と繋がると もう海なのです 海の一部になって いるのです その時には 私はいつ海辺に 行くのかと聞く必要も ありません あなたは すでに海の中です その一滴の水は次第に 姿を消して 海の一部になります