仏菩薩は皆 小さい時から神聖で 行儀がよかったと 思ってはいけません 私達と同様に成長し 食べて 寝て 親の言うことを聞き 学校の先生から いろんな科目を学び 人から人間の 道理を学ばねば なりません そして人間の 立場から 仏陀に向かって 進みます 彼らが 良い機会に恵まれ 心の底から 自分の源である 真の家に帰りたいと 渇望するとしたら また神聖な全体と 分離したことを 苦しく思うとしたら 私達は自分の生活と 子供の頃を振り返ると 私達は仏菩薩や 聖人と 何の違いもないことが 分ります そこで私達も仏陀に なれると分かります 本当にそれを望み 目的を達成したいと 願えばできることです

釈迦は三十歳まで 何もしませんでした とても聡明で 何でもすぐ飲み込み 何でもよくできた以外 理想的ではありません 社会に対しあまり 貢献もなかったです というのは 彼は両親に溺愛された 唯一の王子だったから 一人っ子で 両親は彼を溺愛し 何でも 彼が欲しがらない ものまで与えたので 彼が欲しくない 妻まで与えては 彼を家庭に縛って おきたかったのです 出家して僧侶に ならないようにです こうだったんです しかし彼はやはり そこを離れました 彼は人間と 衆生の苦しみを 目の当たりにし 解脱したいという 気持ちになったのです

彼は 命はこんなにも短く 苦しくものかと 考えたのです そこで人間の苦しみを 理解し始めました 彼は自分は 元々仏陀で この世界に降りた来て 王宮に入ったことを 知りませんでした 仏土のいた時も彼は 苦しみは何か分らず 王宮にいた時もそれが 分らなかったので 彼は 生活は豪華で 快適だと思っていて それは彼に慈悲心が ないからではなく 苦が分らないのです 宮殿以外にまだ 他の生活があることを 知らなかったのです そこである日 彼が宮殿の塀の外へ 出た時 全ての人間が 耐えている苦しみ 即ち生まれの苦しみと 死の苦しみ 病の苦しみと 老いの苦しみを見て 自分もいつかは これを経験しなければ ならない 不死でないと分かり そこで彼は普通の 人間に帰ったのです

ご覧の通り 仏陀も凡夫に なることを学び あらゆる苦しみを 学んで始めて 苦しみが理解できます 凡夫になり あらゆる 衆生になった始めて 苦しみが理解できます この話から 私達は希望が持てます もしかしたら私達は 仏陀で 他の人を 救うためにここに来て いるかもしれません 自分が仏陀か そうでないかは 計り知る方法が あります それを「印心」 または「以心伝心」 と言います 印心の時 自分のレベルが 分かります

沢山の光を見て 素早く 引き上げられた場合 自分は仏陀であり ハイレベルの聖人で あることが分ります 印心の時  光が少なく 低く 薄暗く ぼやけて いる場合 それは かつて仏陀だったの ですが 余りにも長く 経ったため忘れていて ここに長く滞在して 仏陀の身分を忘れて いることが分ります 従って奮闘して再び 戻らねばなりません 今 なぜ奮闘せねば ならないのか どう戻るかは 私が教えます 私達は 高い所から 仏土から来ています 幾つもの異なった 物質の世界を通って 目に見えない物と 見える物 きめ細かな物と きめの粗い物を 通って最後に この世界に留まり この粗雑で 形を持った牢獄 つまり物質的いわゆる 体という服を着ました

今再び源に 戻るにはもう一度 この過程を 経験せねばなりません 粗雑な物からきめの 細かい方に進みます 分りますか だから奮闘し これを突破しなければ ならないのです なぜなら私達が 上から降りて来る時 集めた全てのものを 全部 脱ぎ捨てなければ ならないからです 容易ではありません 仏陀にとっては 上から降りて 来る時は簡単です 一つ一つ拾って 着ればいいのです しかし低い所から上に 上がる時これらを脱ぎ 捨てるのは簡単でなく 私達の魂 頭脳 血液 血管 考え方や 概念などが 付着しているからです  なぜなら降りて来る 時は何の荷物もなく 純粋で無邪気で 何の障害も なかったからです ただ次々と着て 新鮮に感じたのです

「大丈夫 これは 新しい体験だ」と この世界に留まった ばかりの時はむしろ 面白がったので ますます多くのごみと 荷物を集めたのです そこで日増しに 重くなったのです ですから 上に上がるためには まず荷物を 切り捨て 幾重もの 異なった物質界を 通り抜けて始めて 源に上る事ができます 従って再び仏陀になる ことは難しいです 再度仏陀になる事です 皆が昔仏陀でなかった 訳ではなく 誰もが過去は 仏陀でした ある人はここに 余りにも長く滞在して 栄光を失い ある人は一度も降りて きた事がなくパワーと 智慧に満ちていて ある人は ここに何世しか 留まっていないため  源に戻りやすいのです

ある人は余りにも 長く滞在し 余計な 荷物も沢山持っていて それに馴染んでいて 捨てがたいのです 大昔 仏陀だった人も 最近まで 仏陀だった人も 栄光の地位に 戻る方法があります この方法を 私達は 即座に開悟する 観音法門と いいます なぜ 即刻開悟かというと 私達は 即座に光と開悟を 体験できるからです 開悟は即ち光です 自分の内面の光を見て 輝く光を見たとき 私達の過去の天国又は 仏陀の国でも 栄光を思い出し  自分の本性を 認識し始めます

それは仏性とも 神の王国とも 私達の体の内面に宿る 聖霊とも言います 聖書に 汝は神の神殿であり 神聖な聖霊は汝の 内面に宿っている 事を知るべしと あります 従って聖霊は 一人の人間ではなく 神聖な光です 私達がその本性 自性 仏性を見たい場合 別の目で 特別な知覚力で 見なければなりません それを 智慧眼とか 仏眼とか 天眼といい キリスト教では 一つの眼といいます 二つの目が 一つになれば全身が 光輝くといいます

イエスは 二つの目が一つに なれば 全身が 光輝くといいました これは何の事でしょう 両目の目玉を ここにより寄せて  寄り目のように なることでしょうか それでは 光が見えません 従って 仏教の経典や 聖書や 他の経典で言及して いる目は肉眼ではなく 私達の 内面の智慧と 内面の意識の海の 第三の目です 実際 目はありません しかし 上は天国から 下は地獄まで この世界から仏土まで 全てが見えるため 目というのです この「目」を開ける ためには誰かに 開ける方法を見せて もらう必要があります

車を運転する ためには誰か 知っている人または 運転できる人に 教えてもらうのと 同じです 一日目は ジグザグですが 少し運転ができます 私が始めて 運転を習う時は 先生は即座に 私を運転席に座らせて 鍵でエンジンを かけるよう指示し 少し説明してから 「動かせ」怖かったけど 奇跡的に 運転出来ました  私は思いました 「なんて不思議 一日目ですでに 運転が出来るなんて でももちろん 先生がそばに ついていて ブレーキを踏んで くれたり道路状況を 見てくれたり 左へ進め 右へ進め 直行せよ バックせよ 止まれ などと指示するのです 分りますか

仏陀になることは 難しいかもしれません しかしやってみる ことはできます 多くの人がすでに 仏陀になっています なぜできませんか 私達は彼らと同じく 鼻と目がついていて 知性と誠意があり 渇望しているのです 本当に自分を改善したいと思えば 改善したいと思えば できるのです 誰でも英語を 学べるのと同じです 望むのであれば 英語の学校に行って 毎日勉強し 英会話と 書く練習をすれば できます  早い人と遅い人がいる かも知れませんが いずれはできます 仏陀や キリストの ようになるのは 一種の科学であり ノウーハウです

この世界の 他の学科と同じように 学び練習できます 私はそれを学んで 成功したのです 誰もできると信じます 私は普通に 知性を持った人間で 体も小さいし 弱くて そんなに 長く学んでいません 私の誠意は皆さんより 強いとは思いません 皆さんの方が 私より誠心誠意で 仏陀になることを もっと渇望し 私よりもっと神と 一つになりたいと 望んでるかも知れない 誰が一番 渇望しているかは 誰にも分りません 

ごく平凡な人でも この科目を学んで 成功したのです 意志と誠心誠意で もってできたのです 従って私より もっと知性に富み  私よりももっと 考え方が進んでいて 私よりももっと心身が 健康な人はもっと 早く仏陀になれるし キリストのように 神と一つになれると 信じています それが私の信念です ただ誠意と 意志は必要です これだけのことです 私達がどんな科学や 科目を勉強する時も 意志とやる気が 必要なのと同じです

マスター 私は 徐々にこの世界の 義務を遠ざけたほうが いいと思いますか 例えば 勉強や 友情や 商売や 社会奉仕から遠ざける ことで早く 上に引き上げられ 心が静かになり 気楽で落ち着きがあり 気持ちよく感じます 彼女が いいたいのは開悟の ことだと思います いいえそう思いません 短期間でそうする ことはできます 私達が一カ月か 二カ月 一年 二年 休暇を取るのと同じで それはいいと思います しかし後で やはりこの世界に戻り 人々を助けたり 負債を返済したり 恩返しをしなければ なりません 他の人達がいなければ 社会がなければ 私達は生きられません

いろんな所にも 行けません 食べる物もなければ 着る物もありません 誰もが社会に対し 貢献があるわけです 私達は一個人として 誰であれ何かを貢献 しなければなりません 出家者でも  出家者になりたい場合 同じです 一定期間隠遁した後 人と接しなければ なりません 一般人と変わりません 修行者として 人々に言動の 手本をみせ  修行の力で人々を 助けねばなりません 例えば 私は出家者ですが 今日の社会は 昔と違います 私は少し仕事をして 自分の生計を維持し 社会に迷惑をかけない ようにしています

同時に社会に 自分なりの貢献をし 私の肉体の需要と 体を維持しています だから私は皆さんに 無条件で 無限も愛を 与えることができます これが 私が皆さんに 伝えたいことです 私は自分が 出家者であることを 口実に 山に隠遁して 毎日寝て 極楽世界を 楽しんではいません 私は仕事しなければ なりません もっと 皆さんの愛と社会の 恩に報いたいのです 釈迦は 仏陀が凡夫として 世界に降り来てから 社会に借りがあり それを返さねば ならないと言いました 私達は 国王や政府 それら社会の面倒を 見ている人達に 報いることです 先ずは両親と 国王 政府 友人 先生 それから夫婦と その他の関係の 恩を返すべきです 少なくとも四つの 恩には皆が返さねば なりません 仏陀以下の四つの恩で これは仏陀の言葉です 神は存在しますか 神と仏陀にはどんな 違いがありますか 違いがありますか

あなたが 神は一個人ではなく 愛で 偉大な衆生だと 思っているとしたら 神は 仏陀とは違います 仏陀は神が 偉大な力 もっとも 偉大な神が私達の ニーズを把握する ためにこの世界に 送り出した存在です あなたが 仏陀は愛であり 慈しみ 慈悲に満ちた 存在だと理解している としたら神と仏陀は 違いがありません 仏陀がこの世界に 降りて来たときは 神の力をもっています キリスト教では神を Godと言います 仏教では神の ことを「阿耨多羅三藐 三菩提」といいます 即ち最高の仏陀で あるということです

キリスト教では 全能の者で 最も高い 者と言っています これは同じ意味で 翻訳がないだけです なぜ仏陀は神が 存在するという質問に 答えていないか というと 彼は当時の 弟子達の理解力で 擬人化した 神の概念に 執着することを 恐れたからです そこで彼は他の言葉を 使ったのです つまり「阿耨多羅三藐 三菩提」です キリスト教では 「神」と呼びます 分りますか 死後 魂はどうなりますか 輪廻とは何ですか これは本当ですか 誰が私の来世の形を 決めるのですか 死後 魂はどうなるか ということですが 魂があるとしたら 願っている事に 引かれて行きます

沢山の未実現の 願い事がある場合 死後再び 戻ってきて他の形の 体になって引き続き その願い事を 実現します これがいわゆる 輪廻であり 生まれ変わりです 誰が決めるかというと 自分が決めます あなたが 仏土に行きたいと望み 是非こうしたいとか 二度とこの世界に 戻って人間になったり 幽霊になったり 動物になりたくないと 望むとしたら 今日か  明日から決定的な 一歩を踏み出し 経典にある通りの 道徳的な生活をし 瞑想し 仏陀に祈り 毎日内面の 仏菩薩や 全能の神の指示を 受けねばなりません

真の家に帰る 方法を知り この苦しみに満ちた 世界を離れるためです 私達は肉を食べるため 一頭の牛を殺し 一つの命を終結します 私達がりんご食べて 種を捨てると 沢山の命の種を捨てた ことになります これは公平でしょうか (あなたは実に 慈悲深いです) あなたは植物には 感情や憎しみが ないと言いましたか いえ 言っていません 植物は憎みません 動物のように それほど強くないです 分りますか また植物は切り取ると また生えてきます 再び生えてきます

しかし牛の頭を 切り取ったら二度と 頭がもう一つ生えて くることはありません 「損する商売」です 中国語で 「クイボン」と言い 「損する投資」です 時々植物は 枝の一部を切って やるともっと よく成長します 分りますか 一部の枝を 切ってやると または樹の芯の部分を 切るともっと生えます 私は樹と野菜を作った ことがあり 分ります 実際私達は 何も殺していません 植物を助けたのです 植物達が怖がって いるのはただ幻想です 怖がる必要はないです もっと茂ります 怖がっていても 後に彼らにとって 有利だと分れば 怖がらないで 私達に 感謝します しかし動物の頭は 切取った時彼らは もう終わりだ  もはや お終いだと分ります 二つを同一視する ことはできません 植物を殺すのと 動物を殺すことは 同じではありません 人を殺すことは 動物を殺すより さらに悪いです 私達は最小限の罪を 選ぶことです

皆さんも知っての通り 種はまた成長します しかし牛は それを食べて何かを 吐き出したとしても 牛が生えてきません りんごの種を捨てて 芽が生えなかった場合 それはあなたの せいではありません 分かりますか あなたが故意に成長を 阻止したのではなく 多くの種は 酸欠や 栄養分と水分の不足で 成長しないのです ですから一粒の種が 成長するには 多くの無害な 条件が必要です  一頭の豚や牛を 飼育する場合 多くの穀物や 多くのエネルギーや 多くの水と電気と 抗生物質 食物と 蛋白質が必要です 一キロの牛肉を 得るために多くの 国のエネルギーと 資金と水 きれいな 美味しい水を浪費し これで得たものは 動物達の排泄物に よる水の汚染です 大牧場は汚水を排出し 私達はきれいな水を 動物達に飲ませたり 動物達を洗ったり 屠殺場で肉を 洗ったりしています これらの費用と 電気代などです

そのコストを 計算した場合 実に損する商売です 私達の食欲を満たす ために多くの天然の 食物を浪費しています

私達には沢山の選択が あります 食物を 牛に食べさせてその 牛を食べる二度手間の 食物を食べることと 直接植物を食べる ことです そうですね 私は直接植物を 食べた方がもっと 高尚だと思います 私達は最も高貴な 存在です 何故動物の 肉を食べるべきですか 穀物を 鶏に与えては  鶏を食べて それを消化します 人参と野菜を ウサギに食べさせては ウサギを食べます なぜ直接野菜や穀物を 食べないのですか 最高に新鮮なものです 食肉は時間を 浪費し 国のエネルギーと財産 資金を浪費するだけ ではなく 世界の 飢饉を引き起こします 私達は すべての穀物と食物を 牛に食べさせ 残りの 一部分を食べます これは統計数字から 知ることができます 皆さんは知ってますか 一キロの牛肉を 作るのにどれだけの コストがかかるか 一切れの ビーフステーキは 沢山の穀物と蛋白質と 水と電気と薬と 動物の世話をする 獣医の費用が必要で 皆に教えられません 自分で資料を読むと 良心で感じるものが あると思います

受精していない 卵は鶏の胚胎では ありません 永遠に生命に変わる ことはありません 受精していないから 何故食べては いけないですか 二つの理由があります 卵には 意識があります でなければ 精子は卵を鶏に 変えられません 半分の 意識を持っていて 半分はそこにあります 昨夜 これを皆さんに 話したはずです 概念がどうであるかに 関わらず これはすでに 決まったプロセスです 卵は自分が吸収したい パートナーを 選びます これは すでに科学者によって 証明されています

私に関連の資料が あります ですから卵には 感情も意識もないと 私に聞かないで下さい 卵はパートナーを 選び 命を作ります パートナーが 現れなかった場合 じっと待っています これは卵には感情も 意識もないという ことではありません これが一つ目の理由で 陰と陽の 原理によると 陰陽は必ず半分ずつ 占めています 分りますか 半分は陰で半分は陽で 陰と陽が 結合して 命を形成します こちら半分とそちらの 半分の命が結合して 完全な命を形成します

従って卵を食べると 半分の命を破壊します 私の話を 信じるまでもなく 科学者に 聞いて下さい 二つ目の理由は 卵は官能的な 欲望と怒りと 執着心を掻き立てます また卵は 悪い呪いにもよい 呪いにも使われそれで 陰即ち幽霊を引き付け 体の外に出したり 体の中に入れたりして 従って卵を食べると これらの物を 体の中に 胃や体の周囲に 取り入れる機会を 作ることになり 私達はよくない 雰囲気になりますね 人間の原罪について ご説明お願いします 原罪は仏教でいう カルマ(報い)の ことです

原罪とは 私達がこの低い世界に 降りてきたとき 体と頭脳を持ち よい記憶も悪い記憶も 集め始めたことす それで私達は繰り返し 生まれ変わって 新しい環境と 機会を見つけては 新しく得た願望と 知識を発展させ 実現しようとします これが原罪です 地球と他の惑星と 宇宙の万物は どのように 創られたのですか 大きい質問ですね 知りたいですか 聖書の第一ページに 書いてあります 世界の始まりは 音がありこの音は 神と一つである この音は神であり 全てはこの音から 創られたとあります この音 声はつまり 振動のことです この振動によって 創られたものでない ものは何もない あります つまり 振動 「道」は 万物の根源で エネルギーであり 振動の力であり この振動力は時には 速く時にはゆっくり 振動し具体的な形に なってその形が徐々に いろんな形の衆生に 変わったのです 例えば地球とか人間と

植物 動物 全衆生で 太陽も星もそうです これらも衆生で生命の ない物体ではないです いずれも衆生で 知性と智慧と 記憶とパワーを 持っています