私は開悟について 混乱しています 開悟はただ自分が 開悟したと分かって いればいいのですか いいえ 実際に開悟しなければ なりません 開悟すること自身に 重要な意義があります 開悟とは光を意味し 光があり光を発する ことであなたの内面に この光を持っていて この光が発すると 開悟したのです 開悟とは 神の光を見たとか 神の声を聴いたという 意味です 神の声は 人間の言葉では ありません 人間の言葉とは 違います 内面の声です 観音法門の修行は 世界中で横行している 暴力を減らすのに 助けになりますか この質問をするのは 歴史的にみて 私が瞑想をしていても 暴力は 増えているからです この質問をするのは より強い信念が必要で 世界は改善された という証拠が欲しい のです ありがとう あなたは観音法門を 修行していますか どなたの質問ですか 名乗って頂けますか どんな法門を 修行していますか 呼吸法ですか 呪文を唱えますか ごらんの通り 好きな法門を修行し それに専念した方が 早く効果を得ます すると強い信念を 持つことになります 多分 あなたはまだ 探し求めている段階に いると思います まだ試している段階で 確定しておらず 心の平和と信念を もたらす良い法門が 見つかって いないのでしょう 観音法門を 試してみて下さい

実に素晴らしいです 他と比べてください 他の法門の 良し悪しは 言えません 時にあなたに合わない ことがあります 私にとって観音法門は 一番良く 速いです 仏陀も こう言いました 仏陀はこれは最も早い 法門だと言いました というのは 内面の 神の光と音と 繋がっていなければ どんな法門であれ 光と繋がって いなければ 確信できません そうでないと 神に救われたと 保証できません よろしいですか 悲しいことに 私の話を聞き入れる 人はあまりいません イエスの話を 仏陀の話を聞き入れる 人は少ないです ご覧の通りです だから世界は 問題だらけなのです 試してみて下さい 誰も修行しないよりは ましです この道に明かりが 幾らかあった方が ないよりましです 高速道路に薄暗い 明かりでもあった方が ないよりましです

この世界で 観音法門を修行する 人がいなければ 開悟した人や 道徳的な人 神に対する揺ぎない 信念をもって人に 影響を与える人が いなければこの世界は 地獄になっています 少なくとも世界は まだ現状を維持でき まだ住みやすく 耐えられる所も あるわけです 修行する人が 誰もいないと ラーマクリシュナや ヨガナンダ または彼らの弟子達の ような人がいなければ この世界はとっくに 地獄になっています 世界がまだ地獄に なっていないことを 嬉しく思います 観音法門は心の平和を もたらしてくれます 世界平和までは いかなくともあなたを 穏やかにしてくれます 平和は私達一人一人 から始めましょう 自分の子供を 暴力的な人から どう 守ったらいいですか 暴力的な人ですか 神に祈ることです 在世のマスターに どんな人であれ 彼に祈り  子供を 彼に任せてください 子供に印心を受けさせ 神聖な教えで導き 道徳的に生きると 神は守ってくれます 他に方法はありません

ある人は 観音法門を 修行すると 世界平和に影響するか どうかと聞いています 私は 世界平和まで いかなくとも 自分を平和にできると 言いました 平和は自分自身から 始めましょう 家族の面倒を よく見て 国を治めると 天下は安泰ですね 長い間瞑想した 女性がいましたが 効果はありません たぶんその法門は 彼女に適して いなかったと 私は言いました だから彼女は まだためらい 疑問を持つのであって 仏性を見つけていない ということです 彼女は他の違った 法門に切り替えました 別の瞑想法に 変わったのです たとえ世界が 平和でなくとも 少なくともまだ 地獄にはなってないと 私は言いました たとえごく少人数でも 修行する人がいないと さっき私が 言ったように 世界はとっくに 地獄になっています 世界は地獄と天国が 半々だと思います ある所は いまだ住みやすい所で ある所は 住みやすくありません しかし全部が 地獄ではありません 例えば 大通りに幾つか 明かりがあった方が ないよりましです 完全な暗闇より ましです 従って 私達が修行する時 注意を他の人に 払うべきではなく この世界を 見てはいけません 明かりを点すことです 小さな明かりでも ないよりましです

私は毎朝 数時間瞑想をすると 心が 穏やかになりますが 社会で奔走していると 落ち着かなくなります  奔走する時 冷静を 保つよう言われました しかし 私は瞑想の時 以外はできません 私は出家すべきですか 開悟すべきですか 自分で決めて下さい 全ては自分次第です 私達は二十四時間 穏やかでいられません 仏陀と同じ水準に なる以外はできません あなたが 穏やかでも 平静ではありません 穏やかなのは 高い意識レベルに いるからで  平静ではないのは 人と接するからです その瞬間は 落ち着いた状態でも 落ち着かない状態でも 皆無常です 涅槃(最高の天国)こそ 永遠の平和です しかしこの世界には 必ず起伏があります これは ごく普通の事です 出家するのも 出家するのも いいことです 自分の進むべき方向が 見つかったからです これも称賛に値します 誰でも神のために 世界を手放すことは 高尚ですがごく少数の 人しかできません 申し訳ありません 彼らは生きた神です 私達は何も手放す事が できません ラーマクリシュナの 妻は 彼らは  結婚していますが 友達のような関係です  彼女は「人々は古い 杯さえ手放せないのに どうこの世界を手放す のか」と言いました それらの神のために 世界を手放した人達は 確かに神聖です

自分は何が欲しいかを 突き止めると 心は平和で 落ち着きます あなたが瞑想で 落ちつくのであれば それはいい結果です つまり 瞑想の効果があると いうことです 社会で 奔走していると 少し気が散ったり 障害が あったりしますが それは構いません 混乱しないように これは一日中瞑想 していても落ち着きが ないよりはましです 分かりますか これは 例えば 朝お腹いっぱい食べて 満足していても しばらく働いた後は またお腹が空くのと 同じです それは大丈夫です 帰ってまた 食べればいいのです こうすることで 私達は食べ物を楽しみ 瞑想をありがたく 思うのです 問題ありません この世界に 居残りたければ 居残って 穏やかさと問題を 楽しむのもいいし 出家したければ 真の出家者になって 神に捧げ 人類に奉仕して下さい 出家の動機が 利己的でなく 神のために 人々に奉仕する ためであれば ためであれば それは称賛に値します 誰もこのような志を 責めたりはしません なぜなら 動機が無私で 崇高な目的だからです

ある人が私に 座って 瞑想するととても 平和を感じますが 外にでるとまた 気が散ると言いました 私はそれでいいと 答えました お腹いっぱい食べても 働いていると またお腹が減ります お腹が空いたら 家に帰ってまた 食べればいいのです そのように私達は 食べ物を楽しみます 従って 私達が 瞑想して落ち着きを 感じたときそれは 素晴らしいこです それは瞑想しても 落ち着きがない よりはましです これはちょうど 私達が少し食べては 働き 少し瞑想をしては 落ち着きを得て 一日中様々な事に 対応でき この世界に挑戦できる のと同じです 彼はまた出家しても いいかと聞きました もちろん出来ると言い 出家することは 崇高な志です 誰もがこの世界を 手放せるわけでは ありません 献身的に衆生に奉仕し 神に捧げたいという 立派な志がないと できません そういう人は 実に立派です そのような人は 多くありません あるインドの先生は 言いました 「普通の人は古い 杯さえ手放せないのに ましてや世界を手放す ことは出来ない」と 従って 世界を手放し 人類や社会に 奉仕する人達は 私達の称賛と 支持と尊敬に値します 従って 古代より皆が出家者を 尊敬しているのです そうですね そのような立派な志が なければなりません それができた人に対し 尊敬しなければ なりません

天国とは何ですか どう見つけますか 印心の時 私が見せます あんな輝かしいことは 表現しにくです しかし見せられます 神の王国は 平和で 調和の取れた 智慧とパワー 慈悲と愛です 神の王国を見つけると あなたは全てを所有し 今まで欲しかった事や  考えた事もなかった ものを得ます 「まずは神の王国を 見つけなさい  すると全てが汝に 与えられる」のです 私がまだ 在家の時私には よい夫がいて お金もあって 地位もありました 全てのオゥラック (ベトナム)難民は 私を愛していました 私が詩や 文章を書いて 彼らを助けたからです 私は数千人の 人々に 奉仕したのです 数人でなく 数万人の人が  私を知っていました あのころ私は 世俗の全ての事に対し 十分満足していました しかし今 私は開悟しました 人は開悟すると 状況は違ってきます

数億円の財産を 持つようになり あらゆる  有形 無形の財産を 持つようになります 人はお金をむりやりに 私にくれます 私は 不正に得た汚いお金を 拒否せねばなりません 私は 自分で稼ぎます 以前私は一日十時間 仕事してどれぐらい もらったと思いますか 大企業家でない限り 皆さんは一日十時間 働くとどれぐらい 稼げるか分かって いると思います これらのお金は神が 衆生に奉仕するよう くれたものです だから無料で 皆に印心を与えたり サンプル本の印刷や 宣伝ができるのです 欲しがったのではなく 神が無理にくれました 分かりますか でも私は懸命に働き そんな多くの お金は欲しくないです 私は人に与えました いくらでも 人にあげました 従って皆さんが得た 利益は純粋で 全部神からであり 同じ信仰を持つ 人達からです

ある人が天国とは 何かと質問しました 私は表現しにくですが 印心の時に見せられる と答えました 神の王国を 見つけると 全てを所有します 例えば 以前 私がまだ開悟して いなかった時 神の王国を見つけて いませんでした 多くの場合 私は人を 助けられません お金がないからです 今私は手芸の 仕事をします  人々は我先にそれを 買ってくれたので 沢山稼ぎました お蔭でそのお金で 私は世界を回ったり 飛行機の切符を買い 贈呈本を印刷して 人々に美徳や道徳を 学んでもらい 無料で 印心するなどします これらの費用は全部 神や仏陀からのです これは 私が望んだ事では ありません 時々欲しくないのに それは私のドアの前に 置かれているのです 以前は人々に 奉仕できるお金を 十分稼げませんでした 今は欲しいものは 何でも手に入ります 私達が誠心誠意神や 仏陀を見つけたい時 神や仏陀は私達を 援助してくれます

あなたが開悟して この世界を見たとき 良し悪しの区別は ないのですか 全ては神からきたもの だからですか そうです しかしトラが来たら 私は逃げます 私の見方と トラの見方は 違うからです 分りますか  私が彼を良く思っても 彼はそう思いません 私は皆が仏陀であると 知っていても 皆さんは分かりません 皆神だと私は分っても 皆は分かりません だから自分の神を 見つけることです これは私は 手助けできません 私が知っていることは 助けられません それは残念なことです

ある人が私に聞きます 開悟すると 物事の見方は 良し悪しの区別もなく 良い人も 悪い人もなく 善悪もなく 全ては一つなのかと そうだと答えました 全てのものは 仏性を持っています しかしトラが来ると 私はすぐに逃げると 言いました 私は トラが仏陀だと 分かっていますが トラは分りません

私は皆さんが仏陀だと 知っていますが 皆は分っていないのと 同じです 自分自身を 知らねばなりません 私は手助けできません 私が開悟したことは あなたには重要でなく あなたが望んでこそ 私はあなたが開悟する 手助けができます 分かりますか

過去に自分が犯した 罪を思い起こした時 どうやって 平静でいられますか その罪をきれいに 洗い流すことです 誠心誠意懺悔し 生活様式を 変えるか または慈悲深い マスターに 過去の全ての罪を 洗い流して もらうことです つまり原罪です すると過去の罪を 思い起こすことがなく あなたは二度と 悩まされません 赤ちゃんのように 純粋に感じます だから聖書に 再び子供になって 初めて神の王国に 踏み入ることができる とあるのです 私達は罪意識の負担で 神の王国にも踏み入る ことができず神を見る こともできません 従って開悟した マスターの恩寵により 私達の罪と罪意識を 取り除き燃やして もらうと 無邪気で 自適に感じます たとえ自分が過去に 罪を犯したと分っても プレッシャーを 感じません  自分を許します 私達は神の慈悲が 分るのです 完全に分り それを感じるのです 人から聞いた話では ありません これがその違いです 誠心誠意懺悔すると 意識が高揚するのを 感じます 生活を変えるとしたら 例えば 前世でまたは以前 あなたは麻薬を使い 人を騙したり 誰かを殺したとします 今 神に祈ることです どうか許して下さい 過ちが分りました 二度としませんと これで十分です 神は許しくれます 効き目がなければ あなたに再び斬新で 無邪気を感じさせて ことができる慈悲深い マスターを探して 助けてもらうことです

ある人は私に 自分が過去罪を犯した ことを覚えている場合 今どうやって幸せを 感じるかと質問し 私は誠心誠意 懺悔し神や仏陀に 祈ることだと 答えました「私は  過ちを犯したと 分っています もう二度としません いい事だけをして 悪い事はしません」と すると神や仏陀は すぐに許してくれます あなたが 神や仏陀からの許しを 感じていなければ 魂がまだ罪を感じて いるのであれば 私達に圧し掛かってる 罪の意識を 焼き尽くしてくれる 慈悲深いマスターを 見つけることです 彼は智慧と 慈悲の力でそれを 取り除いてくれます 私達の罪を焼き払い 私達は無邪気な 子供のように感じます 赤ちゃんのようになり もう罪を感じません このようにいい事です

あなたはキリスト教の 神や仏陀やイエスや 道を知っていますか 自分を信じているだけ ですか あなたは神? 神は宇宙ですか 個人ですか両方ですか 答えが分からず 混乱しています 私は キリスト教の神や 仏陀や道を信じ 自分を信じています 私は神でもあります 少なくとも神の一部 だからです神の存在は 疑う余地がありません 神は一個人でもあり 非人間でもあります 神は形があり  無形でもあります 神は形がないですが 形が必要な場合 形を創ります 私達がある種の神を 見たいと望めば そのような形で現れて 私達が触れて 見ることが できるようにします

ある人が私に あなたは神や仏陀や イエスや老子の道を 信じているか 自分を信じているか 神はある存在なのか 無形なのか 神は どんなかと聞きます 私は神は形があって ないものだと答え 神が形で 私達に見せたい場合 神はある種の形で 現れます 私達の仏性は 通常は見えません しかし神が私達に 自分を見せたい場合 釈迦牟尼仏や 観音菩薩 または阿弥陀仏の形で 私達に見せます または輝く光で 見せることもあり またはメロディーに 聞こえたりして 私達の魂を高揚します 何も見えないと 私達は神を知ることが できませんね 私達人間は 仏陀ではありません 何も見えないと どうやって それを信じますか 私は有形 無形 両方の神を信じます また自分をも 信じます というのは 私も神から 仏陀から 来たからです 私は神から 仏陀から 来ました 少なくとも 神や仏陀の一部です

即刻開悟の法門とは 何ですか それはあなたの内面の 目に見えない力で それを開くと あなたは開悟します 実際それは 法門ではありません これは無形の法門と 言っても構いません マスターは この内面の 無形の宝の力を開き  あなたを 永遠に平和にさせます これは法門ではなく パワーです あなたの内面の神が 目覚めることを望み 専門の人に助けを 求めているという事で 例えば イエスは 存命の時 彼は神の 息子でありながら 色々な 訓練を受け 様々な 先生について学ばねば なりませんでした そして洗礼者ヨハネに 洗礼を受けたのです 彼は法に従うのは 当然だと言いました 従って それは水で彼を 洗礼したのではなく 彼の内面の神が 目覚めることを認め 開悟するのを 認めたのです 印心を望むとしたら それはあなたの 内面の潜在の神が 目覚めたい 呼び 起こしてもらいたい ことを意味します 分りますか それはあなた自身が 目覚めたいのあって 私はただきっかけを 作り 木の内面の火を 点すだけです 分りますか

ある人が私に 印心とは何か 即刻開悟とは何かと 聞きました 私はそれは 実際は法門ではないと 答えました  法門でないというと 一般の人には 分りません それは法門でないと いうと誰も 来てくれないでしょう そこで一応法門と 呼ぶしかありません しかし実際それは 法門ではないです 名前をつけるとしたら それを無相の法門と 呼ぶことができます しかし実際は 私達の内面の 仏性が目覚めることを 望み 今この時 開悟したい 今目覚めてこの世界を 助け 自分を助けたい という意味です 通常 仏性は 眠っています  印心を受ける瞬間は 私達の仏性が 目覚めるときです 言い換えると目を 覚ましたい 寝たく ないとうことです 衆生を助けるために 目を覚ましたいという ことで これは自分を 助けるという意味です だから仏陀は 衆生は自分で自分を 助けたのだ 仏陀が 助けたのではないと いいました 仏陀や マスターはボタンを 押す人に過ぎません 分りますか 電気はすでにそこに あるのです マッチには中に 火があります

擦るだけで 火がつきます 私がこれを擦っても 火は点りません 火はすでにそこにあり 誰かが火を点す 手助けをするだけです 分りますか マスターは 私達の仏性を眠りから 引き上げただけです そして彼の顔を洗って 起きろ 働くんだと 寝すぎだぞ  もう何千年も眠って いるのではないかと 言います 分りますか 従って法門など ありません 私達の内面には 仏陀がすでにいて 法門は必要ないです 仏陀は眠っています ある人が仏陀を目覚め させる方法を知って います 顔に水を かけると目が覚めます こういうことです 私達が寝ている時 自分の顔に水をかける ことはできません 必ず誰かが 顔に水をかけて 私達を起こさなければ なりません それがマスターです マスターには水を かける権利があります

人は寝ている時 自分で自分を起こす ことはできないのと 同じで ある人が あなたが深い眠りに 入っているのを知って 顔に水をかけて 大きな声で 起きろ 怠け者 起きて自分を助け 人々助けるんだ そこで寝てばかりで 夢の中で 誰かに打たれて何になる 起きろ 起きるんだ と言ってくれるのが 仏陀 マスターの 仕事です あなたの 顔に水をかけて 仏陀を呼び起こし 内面のキリストを 呼び起こし あなたもそれを 望んでいます  あるいはまた 戻って寝ても 構いません

観音法門とは 静かに音流を観ずる 法門ですか そうです それは楞厳経に 載っている法門ですか あるいはあなたが 瞑想の時 観音菩薩が 内面であなたに 伝授した 秘法ですか これは瞑想中に 授かって法門で 観音菩薩も この法門を修行し 楞厳経にも この法門について 言及しています これはとても 古い法門で 静かに内面の 音を観ずる法門です 瞑想の時どうしたら 雑念をせずに 集中できるのですか 瞑想の時本当に 経典で言ったように 仏陀を見れば 仏陀を切り魔を見れば 魔を切らなければ なりませんか それを見たら切っても いいですが 魔さえ 確実に見られるのでは なく ましてや魔を 切るのは尚更不確実 瞑想の時 雑念をしたくなければ 仏陀や魔を見たとき 興奮しないで 怖がらないことです 仏陀の名号唱える ことに専念するか あなたが修行している 法門にひたむきに 集中してください すると雑念をしなく なります 分りますか 瞑想の時でも 瞑想しない時でも 自分の  身 口 意を きれいに保ち できるだけ 菜食をすることです

良い事をし 悪い事を避け 良い事はすぐやり 悪い行為はすぐに 止めることです いつも心を専念し 神や全ての仏陀 最高の衆生を 覚えていることです 名声と利益の 事を考えず 修行を通して 超能力を得たいとか また修行を通して 裕福になりたいと 思わないことです

これらの考えが魔を 招きます 分りますか 考えが純粋であれば 魔は逃げます あなたに切られるため 寄ってきたりしません よろしいですか 仏陀や魔を見た場合 怖がらないで 引き続き仏号を 唱えることです あなたには本物と 偽者を見分ける 方法を教える 先生がいないので ほっておいた方が いいでしょう でも観音法門を 修行すれば 私が本物と 偽者を見分ける 方法を教えます 観音法門を修行して いない人は 本物とか偽者のことは 考えないことです すると 問題は生じません 本物の仏陀を 見た場合  とても楽に感じます というのは とても 慈悲深く愛に満ちた 感じだからです しかし魔を見た場合は 違います とても獰猛で 肉を食べ 酒を飲む よう 悪い事をする よう仕向けます すると魔である ことが分ります

どうしたら自分を知り 自分に苦しみを与えた 人達を許すことが できますか これは素敵な志です 神や仏陀に祈り 自分がそのレベルに 達するよう 助けを求めてください ただいつも無茶な 人がいて わけもなく 私達に苦痛を与える 人がいます 彼らが 少しは目を覚ますよう 手立てを講じるべきで いつも頭を下げては いけません 思いやりはあるべき ですが 彼らが 正しくないことを すると私達は厳粛に 指摘せねばなりません 分りますか いつも頭を下げて いると結局 自分にも彼らにも 害を及ぼします 私達は状況に応じて 反応せねばなりません 私達は真に人を愛し 平和を愛しますが 尊厳をもって 対応してこそ彼らも 私達を尊重します でないと いつまでも 人のいいなりになると いつまでも 彼らに苛められます 分りますか

慈悲心は 愚かを意味する のではありません 慈悲と智慧を 同時に運用する ことです こんな忙しいのに どう修行しますか 時間がある時いつでも 修行すればいいです 仕事しながら心の中で 仏陀の名を唱えます 菜食しない人は 死んだら 涅槃(最高の天国)に 行きますか  それとも低い衆生に 生まれ変わりますか 強い信仰心があれば それは可能です もしくは 高いレベルの 開悟した聖人に会って その人その在世の仏陀を信じ  彼に助けを求めると 死ぬ時 その仏陀が来て 助けてくれます でないと肉を食べると 解脱しにくいです 分りますか 重くて悪いカルマ (報い)で 下に落ちてしまいます しかしあなたが 在世の仏陀を信じ  彼に助けを求めれば 助かります

竜神大会は いつ始まりますか 阿弥陀仏はいつ 降りてきますか どこに降りてきますか それは大分前の話で この世界が平和で ない限り彼は 降りてきません 皆が霊修行し 道徳的で 菜食し  仏陀の名を 唱えるように なった時に 仏陀は降りて来ます 今降りてきても 私達が余りにも頑固で 教えられません 彼は傷つき 監禁 されるかもしれません この世界は 実に危険です 降りてきた仏陀は 多くありません 敢えて来きません 私の話を信じなければ 自分で上がって彼らに 降りてくる気はあるか 聞いてみてください たまに一人くらい 降りてきます 仏陀は恐れています 降りてくると 世間の人々を 助けるどころかカルマ (報い)に絡まれたり 傷つく事さえあります

なぜ男性マスターと 女性弟子の関係は 自然に反するのですか たぶん この質問をした人は その・・・ 私にも分りません なぜ男性マスターを 崇拝することが 自然に反するのですか 例えば ヨガの修行法では エゴを捨てることを 強調しています しかも男性本位です 私は男性と女性の エゴは違うのだと 思いました というのは 女性は妊娠し・・・ 脱線しないように あなたの意味は女性の 弟子が男性マスターを 崇拝するのはなぜ 自然に違反するのか ということですね それはあり得ません イリナツウィーディが 書いた本に 彼女には 一人のマスターがいて 彼女が一連の 苦行をしていたとき もう少しで死ぬ ところでした 真理を求める道ですね 彼女にはチベットの マスターもいました 女性がヨガ修行を することは肉体に 大きなダメージを 受けるということが 私の質問です ならその種の 法門に近寄らない ことです 私達の法門で死んだ 人は誰もいません 皆が守られ 愛されています 男性も女性も 皆平等です 修行中 死んだりしません 危険性もないです 皆が第一歩を踏み 出したとき すでに開悟し その後 どんどん進歩します 誰も死なないし危険も ないです そんな  複雑な問題もないです そんなに怖いとしたら そのような法門には 近寄らないで下さい 恐ろしいです

女性の弟子が 男性マスターによって 不注意で死ぬような ことがあるのですか (分りません) あなたの質問は はっきりしていません 皆分かっていますか 皆もはっきりしません 新しい事もあります 女性が男性マスターを 男性が女性マスターを 受け入れられないと いった事は考えません それは ごく自然なことだし 問題になりません 自然にも反しません 男性と女性は 個性の違いが あると思います 個性は違いますが 仏性は同じです たぶん危険性の高い ヨガ修行法の場合 男性と女性は 異なる修行法が あるかも知れません 私達の法門は 男女の区別はないです 私達は最高の所に 集中し 自分自身の 最高の可能性を 引き出します 男性も女性も 利用できます 神は 私達の内面にあるので 私達はそんなに 複雑でもなく 男女の区別もないです ヨガの 修行法のように人を 苦しめたりしません 意識を高揚するため だけです 楽に感じ 苦痛はありません イエスはニコデマスに なぜ生まれ変わらねば ならないといいますか これは私がすでに 言ったことです

罪の意識が浄化 されると赤ちゃんの ように無邪気になり あなたの 内面の神のパワーが 呼び起こされた時 全ての罪の意識が なくなります 本々私達には 何もありませんでした 罪意識を持ったのは 頭脳が常に 良し悪しを 記録したからです 神は頭脳による 評価を必要としません 従って私達の 内面の神が目覚めた時 私達は生まれ変ります 分りますか 本当に 無邪気な感じです そして大きな荷物が 肩から降ろされた 感じです 私が保証します 私は体験しています 全ての観音法門 修行者は これを感じています 彼らは罪意識が永遠に 浄化されたことが 分っています だから彼らは 魂が救われたことを 確信しているのです 開悟するのに 必要で役に立つ 優先条件は 何ですか 最も重要なのは 開悟した先生です その人はあなたに 開悟する門を開けて 内面の神を揺り起こす ことができます これが 最も重要なことで 他はその人について 学べばいいです 例えば菜食するとか 毎日瞑想するとか 道徳的な生活をする などで これらの事は 聖書にもあります