尊敬すべき来賓の方々 修行仲間の方々 こんにちは皆さん 私がどのように 観音法門を見つけ 印心を受けたかを 皆さんと共有できる 機会が得られ 非常に嬉しく思います フォルモサ(台湾)では 仏教の浄土宗と禅宗は 非常に人気があります ここにいる来賓の方で 私と同様の体験を持つ 方もいらっしゃると 思います または皆さんの親戚 友人の中に 既に 修行をしていたり 開悟したマスターを 知らずに探している 方々もいるでしょう 人々の運勢を 一切言わないことで 有名なマスターが かつて私に言いました 私はきっと短命で それでもっと功徳を 稼ぐ努力をすべきだと 私の福報を増やすには 捕われた動物を放生し もっと慈善を行い 他者に与えれば 寿命を伸ばし つまり 長寿を助けるのだと 更に 占いが得意な 霊修行者がいて そしてその人は 「易経」や 「八卦」について よく知っていましたが 彼は私の未来を予言 するのを拒否しました その代わり 私には非常に重い悪いカルマ(報い)があり 仏号を唱えるべきだと 言いました

子供の頃 私は教会へ行きました ビスケットや 飴がもらえたからです 教会がカトリックか プロテスタントかは 覚えていません 中学生の頃 先生が私に 聖書の写しをくれました 学校の手伝いを したからです 後に 他の先生も 私に贈り物をくれて それも別の聖書でした それで聖書には二種類 あると分かったのです 「新約聖書」と 「旧約聖書」です その当時 私は 理解できませんでした ただ読み終え 文章を読んだだけです まるで おとぎ話のようでした 私の母はよく 関帝廟へ礼拝に行き 家族全員の無事を 祈ったりしました 私達子供も楽しみで ついて行きました この廟には 関羽 孔子 観音菩薩が 祭られていました 地元の伝統に従って 私達家族も そこでの礼拝の仕方を 学びました 十九歳で学校をやめて 同僚と一部屋で一緒に 暮らしていました 彼女は毎日 朝晩 瞑想をし 「白衣大士神咒」を 唱えていました それを十分に唱えると 人の願いと理想が かなえられると 言われていました それ以来私は初めて 真言を唱え始めました 当時 台中に 在家の修行者で 李炳南教授という 非常に修行の進んだ 方がいました 彼は間もなく他界する と言われていました その当時 友人と私は 李炳南教授の全講義を 毎回聞きに行きました 私達は 国立中興大学での 彼の詩の授業さえも 見逃しませんでした

私はそれらに 参加しました なぜなら ただ人々が 私達の智慧と福徳は 良い霊修行者が行う 講義を聞くことで 成長すると 言っていたからです これ以来 私はまた 仏教徒の礼儀について 学び始めました 仏陀への平伏や 礼拝の仕方などです 私は念仏し 瞑想会に 参加し始めました それはほんの 数回でしたが 毎回人々が共に 念仏するのを聞くたび 私はいつも感動して 涙を流しました その時 理由は 分かりませんでした 私には重いカルマ (報い)があるのだと思っていました なぜ私は泣くのか 仏陀の恩恵に違いなく 菩薩が私の 悪いカルマ(報い)を 浄化するので 涙が流れるのだろうか 短大生だった頃 クラスメートの一人が クラスメートの一人が ビーガンでした 彼女とは学科について 一度も 話をしませんでしたが 正しい理論で私を 洗脳してくれました 私は時間があると 数珠を手に持って祈り 阿弥陀仏とか 観音菩薩の名を 私の智慧が 開くように 唱えました 彼女は宗派に関わらず 元々全ての宗教は 同じ源から来ると 教えてくれました 釈迦牟尼仏 老子 孔子 イエスキリストなどを 礼拝する目的は 実は 最高の教えを 開悟したマスターから 求めることです 私は全宗教が一つの 家族であるという 考え方が好きです その後私は彼女に従い 彼女の仏堂で 彼女のマスターから 印心を受けました 少しだけ感電した 感じがしました 私は帰宅後 智慧が開いたのだと 思いました 私は帰宅し 家族と 至福を共有しました 当時 私の家族は 仏教の正統派 浄土宗でした 毎朝 毎晩 彼らは日課として 念仏し 決まった回数だけ 読経していました

しかしなぜそれほど 多くの宗教団体が 仏教の仏教経典と教義 仏陀についての全てを 話しているのでしょう 私の最初の経典は 聖書だったのに クリスマスの日 十二月二十五日に 私はクリスマスの 夕食には参加せず その代わり教会へ行き 子供達の合唱による 讃美歌を聞きました その牧師の説教と 賛美歌に感動して 私は涙しました 本当にどちらの宗教が 私に相応しいのか 混乱してしまいました 自分が敬虔な仏教徒か 疑わしくなりました でも真の仏教徒として 確実な証明とは 何なのでしょうか 私の母は私に 彼女と共に 高雄の仏光山へ行き 短期間の仏教の 基本講座に参加すれば 仏教の理解の助けと なるのではと 提案してくれました 仏光山の 仏教の講座中 人間が仏陀の境界に 到達するためには 三界を超えなければ ならないということを 私は認識しました そこで三界について 説明を受けました 三界内には いくつの天国が 存在するのか 天国の状況について 弥勒菩薩が住む所や 兜率天はどこにあるか などなど その時私は思いました なんと 古代の高僧や 高潔な修行者らは これらの天国に 到達する前に とても懸命に 修行したのだ」と 私には唯一の 結論がある このような重く悪い カルマ(報い)を持つ普通の人間が 三界を 超越するために 天国に到達するのは とても困難 仏陀の 境界は言うまでもない それで私は自分が 満足するように福報を 稼ぐため 更に布施を すると決心しました 私の仕事は不動産と 家屋の売却を 扱うものです

不動産事業について 幾らか避けられない 習慣があります 土着の神を 毎月の二日と 十六日に拝むことです そして基本の神々は 時に十八体だったり 大木の神々だったり します その建物の敷地の 160キロ以内の 全ての神々を礼拝する 必要があります ある神を無視して 神々の保護が欠ける のを恐れるためです 建設工事の開始は 確実に縁起の良い日に 行われねば なりません 時にその場しのぎの 崇拝もありますが その家は購入後 戻されたりもします それで私達は土地の 基本の神と精霊に 助けを求めるのです 私達の売上高が特定の 閾値を上回るなら 彼らと交渉し 感謝としてあらゆる 事を提供すると 約束するでしょう 時には効果ありますが 私は一度もしません 建設終了までに ある人々は常に 数百千ドルの賞与を 受け取りますが 私の番は一度もやって 来ませんでした 良い設備が必ずしも 私を儲けさせる訳では なく 一方 悪い設備が早く 売れることもあります 恐らく私の占星術に 関連すると思いました それで私は人々に 相談し始めました 紫微斗数 紫平易経の 「易経」 「八卦」 風水にです 例えば 建設現場の場所 テーブル 椅子の 位置やそのような 全てのことについて 専門家があえて 何かする前に私は 検査し 指示せねば なりませんでした

一九八六年の初め 私に霊修行を 教えてくれた友人に 会いました その当時 瞑想は ファッションでした 人気のある霊的法門は 座っての瞑想を含め 立っての瞑想 ヨガ 手印などでした 彼らの全ての主張は 病気を治すためでした 多くの現象は完全に 自動的に起こり 従って理解するのは 非常に困難でした それで私は霊的体験を 幾らか持つ修行者に 相談をし始めました 太陽叢とナディの 専門家は私に自らの 心の制御で生命 エネルギーに集中する ことができる限り 方向を誤ることはなく 安全でいられると 言いました 密教徒は自分の身を 守るために何回も マントラを 確実に唱えるように 私に言いました 第四界から 人と交信することが できる 運命を教えてくれる 占いに熟練していた 道教信奉者は  私はすぐに修行を 停止すべきだと 教えてくれました 私は危険な否定の力を 保有していたからです その後 私は私達の 霊修行の効果を 高めるために 瞑想に適した 特別な時間があり 天と地 太陽と月の エッセンスを 吸収することが できると 聞きました

ですから私は 昼は 太陽のエネルギー 夜は 月明かりから 吸収しようとしました 時々私は 吸収しすぎて 眠れませんでした その後 頭が真っ白になって 考えることができず それでも私は諦めず なぜこの空白の状態が 発生したのか 修行の進んだ人に 聞きました この結果のせいで 私は働けませんでした 昨年の新年の後 私は仕事を辞めて 密教徒の団体に加わり 神秘的なネパールや インドの聖地に インドの聖地に 旅行しました 私に印心を与えた 密教マスターは 有名なリンポチェと 多くの生涯を 生まれ変わった 在世仏を 信じていたので 私は霊的な問題の 答えを見つける この機会を 利用したかったのです 私はそれらから 私が問題を 解決するのを助ける 必要のある 答えの痕跡を見つける ことができるはずです しかしながら 私はあることで外国に 行く望みを妨げられて 実現できませんでした とても残念でした 六月八日にマスターが 台中に講義に くることになり 沢山の宣伝が ありました

そして彼女は偉大な マスターが修行をした 世界的に有名な聖地 ヒマラヤから来ました また多くの良い友人が 講義に出席するように 私に電話をくれました 文化センターの外には 多くの人がいて マスターの言葉が はっきり聞こえないが いくつかの言葉が私の 心を十分に明確にし マスターは言いました 「宗教の信仰は 霊修行と関係なく 霊修行だけが 菩提に導くことが できます 私達仏教徒が仏陀に ならないと何者に なるのでしょうか」と また 私達は 三界を超えて この生涯で 仏陀に到達できます 素晴らしいですね 本当にすごい事です 「これは私が 幼少の頃から今まで 聞いた中で最大の ファンタジーです」 「それが本当に 神からならそのとき 私はなぜそれをやって みないのか」と思い 私は印心を受けて その結果私の 霊修行を始めてから 私は疑問の 全ての答えを 見つけました 多くの人が 私の行く道を 同行しました 霊修行に関する考えを 私に与えるか 実際の修行に関して 私に教えるか 彼らは私に異なった 宗教を探究するように 導きました

これは私が観音法門を 修行するために しっかりした土台を 築くのを助けました 私が宗教宗派に関して 真実を理解するのを 認めます また私にマスターを 教えてくれました 私は彼らにとても 感謝しています また私は私と同様の 道を歩いた全ての人に 祈りを送ります 霊修行のある段階で 行き詰まって 進むことが できない人だけでなく それらを 十分に修行している 人も考えるものです 今日 悟りを開いた マスターが 私達の目の前にいます 至る所を 山や海を 悟ったマスターと 真理を求めて冒険する 私達の苦労を 救ってくれます またこれは長い間 真理を渇望している フォルモサ(台湾)の 人々にとって 素晴らしい 神の加護です 最後に私は 真の仏陀とは何か 話したいと思います 私達はこの生涯で 前世からの蓄積された悪いカルマ (報い)を削除する ことができますか それとも悪いカルマ (報い)を持ったまま 天に行けますか 私達はこれらの答えを マスターの本や テープから 見つけられます ここに私は皆さんの 参考に霊的な旅を 提供しました また私達のマスターと 観音法門についても 共有するためです ありがとうございます 印心の前に私達に 真理を探す あなたの経験を 共有してくださって ありがとうございます では最も温かい拍手で 講演を 始めるために 謹んでマスターを 歓迎致しましょう 親愛なる修行仲間 同国人の皆さん

私達は本当に一つです ただある人は知って ある人は知らないだけ 同じパワーが 私達を創りました 同じパワーは私達の 中に心に住んでいて 私達の仕事私達の日常 生活及び私達の生命の 世話をしています 私達は神がいると 聞いていました どう(聞きました) 天国の造物主 私も耳にしました 造物主がなぜ私達を つくったか  なぜ人類を創ったか 私達が疑問に思います 私は二種類の答えを 聞きました ある人は「神は いません」と言います ある人は「神が います」と言います

神がいないと言う人 彼らの理論は 「神がいるなら 神はある起源から 生まれて 自然から生まれました 神が自然から生まれる なら それは神にも 自然に支配される 生死があるとの 意味です 神が自然に 支配され自然から 生まれたとしたら 神も創られたのです 神も創られたのです この神が創られるなら 神は自由ではないです 神が自由でないなら いかに自由にするか」 これは彼らの考えです 彼らはもう一つの 理論さえ加わります 彼らは「この宇宙は 神が創ったのでない」 神も私達のように 縛られるなら  神は自由ではない なら神が完璧であると 言うことはできない」 彼らも言います 「完璧な神が本当に いるなら 神は非常に 自由で穏やかで なければならない 神は制御するために 宇宙を創るとは 考えないだろう」と 彼らは神について これらの理論は実際 不必要だと言います 私達が神がいるとは 思ってはならない ことを意味します これは一つの理論で 私のではありません 本で読んだことを 話しているだけです

これらの理論は インドからのもので インドの人々には 沢山の理論があります 彼らに尋ねました 「その場合 誰が 宇宙を創りましたか」 それが霊修行において 完全に達してなかった まだエゴを持った 人々に創られたと 彼らは言いました

最終的なレベルに 到達しなかった まだ少しエゴがある それらの不完全な 霊修行者が この世界を築きました それで彼らは神になり 各々が宇宙の片隅を 支配しています これは彼らの理論です もう一つの理論は 最高の神がいると いうことです 神は全てを作り出し そして結局全てが 神がいるところに 戻ります 私達凡人は これらの二つの理論を 区別することが できません たとえ神がいると 言っても私達には それを証明できません 神がいないと言うなら 私達は神を傷つけ 異教徒として 非難されるのが 怖いのです そうではないですか 今何をすべきでしょう あなたは何か解決策が ありますか 神はいますか

誰か特別な意見が ありますか

マスター私達は 神を見れないので 神はいません 彼は神を見れない ことを意味します それは神がいないと 同じことです あなたはどうですか 前の人と一緒 私達が望めば神はいて 私達が望めば神はいる そんなに簡単ですか 発電所 彼はいわゆる 神は発電所であると 言っています 私達自身が神です 私達には マスターがいる限り 神がいるかどうか 気にしないで下さい

冗談でしょう 他の人は 神の真意は私達を 生死から 解脱させることです それが私達に 神がいる理由です 従って今日ここで 私達に講義をしている 神がいます・・・

冗談でしょう そんなこと

後ろの人も非常に 勇敢です  彼は彼が神だと思い そして 前の人は 私が神であると 思っています

神がいるかどうかは 悟りと関係が ありません 神がいるかどうかは 悟りと関係が ありません ほかはには 自分の意見を述べて 皆が神です 皆は神ですか ええ これはさらに 世界を揺るがします 恐らくそれで全部です もうないですか

私達は皆神です それはほぼ同じです 大体同じ意味です 神は愛の指標です それは私達を 感動させます もうないですか それで全てですね これらの人々だけが 悟りを開きました 残りはどうですか わかった いいでしょ 皆も類似した意見が あると思います おめでとう 少なくとも 皆は興味を持っていて 宇宙についての 少し考えがあります 私も同じ事を考えます 私達は神がいるか どうかにそれほど 気にしません 私達はここで良い人に なろうと努力します 私達の義務を果たして そして人生を浄化する 方法を見つけます それをより快適にして 私達の精神をより 幸せにしようとします その時 たぶん 神自身が見えます そうではないですか 時々 私達が大変な 困難がある時  神は私達の祈りを聞き 入れないようです 神が存在するかどうか 非常に私達のために なると思えません しかし 観音法門を 修行するなら 困難がある時 私達の 祈りは効果的です そうですね(はい) 奇妙です それは神が本当に 存在するなら 神が観音法門と 関連があるようです 恐らく 天国の主も 観音修行者で 私達の印心仲間です さもなければ なぜ 観音法門を修行した後 神が私達の祈りを 聞き入れられすか 以前 まるで十分な力がない ようで神は私達の話を 聞くことができません

そうでしょうか それで 神がいるか どうか討論する 必要はありません 私達が誰であるか どのように今私達の 前にある人生と問題を 扱うべきであるかを 理解する方法を見つけ なければなりません 私はこれで 十分だと思います 私が頑張る理由 講演のために旅する のは 皆さんにこの 方門を提供する事です 人生を扱う事ができて 神に祈る必要なしで 自ら智慧を見出します 自立します 修行すればするほど 私達はより感謝を 感じます 私達は神に 感謝も感じます 必ず神が人間であると 認めるというわけでは ありませんが 毎日私達の 世話をして  いつも私達を助けて 私達の人生を保護して 私達の仕事の 世話をして  多くの問題を 解決する愛情深い パワーを認めます その時たとえ私達が 神を知らないとしても 私達は 神に感謝します 私達は言います 「神が本当に存在する なら 本当に素晴しい 私は大変感謝します」

このように実際に 体験していないと 天の神さまとか 神が いると教えられても 私達はあまり ありがたく思いません 私達の祈りがほとんど 神には聞こえない ように思えて 私達が燃やした 沢山の紙銭も 神は受け取っていない ように思えて 沢山の果物や食べ物を 供養しても

神は何も食べて くれなく私達の 誠意が分っていない ように感じます 神は山積みされた お菓子には無関心です そこで私達は天の 神様などいないとか 存在しないと思います 観音法門を 修行した後 私達は 花一輪も 供養せず 線香一本も 果物一つ又はお菓子 一つ供養しなくても 神は自ら私達の所に 来て 進んで真剣に 私達の面倒を 見てくれます その時は 神の世話を 望んでいなくても 無駄です そですね 私達の修行仲間は 皆知っています 一体誰が面倒を見て その力を何と呼ぶか 分りません それが神なのか 仏陀なのか 関係ありません とにかく本当に私達の 面倒を見ています この世界では暴力で 騙して私達から ものを取ろうとし この世界や 一般の人に与えるよう 強要したり 私達の 善意を悪用したりして 神または この愛のパワーは これと違います これと逆です 神はいつも私達を助け 私達の面倒を 見てくれています 同じではありません いいですか それが神かどうかは 構わないで下さい

もっと科学的に 話します どうやって この力を発見し 使うことができるか この力は 私達のものだと私は 言いました  神がくれたのでもなく 仏陀や菩薩が 与えてくれた ものでもありません それは私達が 元々神の性質を 持っているからです 私達には仏性があると 全ての経典が 同じことを言ってます さっき多くの聴衆の 皆さんが 私達は 神であり 仏陀だと 言いましたが 私も賛成です 皆は開悟しています しかしそれを 知っているのと実際に 体験するのとでは 大きな差があります 本当に私達は 神であり仏陀で あることを知るには やはり観音法門を 修行すべきです 皆は 私達は神と同じで 神の子だと聞いていて 皆には仏性があると 聞いているだけで 実際私達が自身 それが分っている わけではありません それを知ってこそ 私達は開悟したのです 人から聞いた話では 十分では ありません 例えばこの キャンディーの場合 私はこれを食べて これは甘いとか 美味しいと言います 皆さんは聞いただけで 食べた人は私です

そして皆さんは そこで想像します キャンディーの中に チョコレートが入って いるかな 色が黒いと 想像したりします ある人は黒砂糖で できたかもしれないと 言いある人はモルトの 味だとか コーヒーの 味だとか言いますが 一番知っている人は 誰ですか(マスター) 私は食べたからです

これはただの比喩です 観音法門の修行は 体験することを 重要視しています 何をするにしても 体験は不可欠です 従ってキャンディーを 食べてこそ違いを 人に見せられます 私は食べていて あなたは食べてません 従ってキャンディーが 何でできたか分らない のは当然のことです 同様にさっき私達は 神について二つの 意見を聞きました 一方は 神がいるといい 一方はないといいます 両方とも実は 分っていません 本当に知るためには 科学的な方法で 説明できます 私が 観音法門を 修行すると この愛のパワーを 知ることができ 救済のパワー 無条件で与えてくれる 力が分るというのは 私達は元々その パワーは持っていて 引き出して使うことが できるからです 本々 私達のものだとすると なぜ私がそれを示し どう修行するか   どうそれを引き出すか 教えないと分らない? それは 忘れているからです 皆さんは忘れています