神とは何ですか 神とは全宇宙の 善良さを集めたもので それは誰でも使える 共有財産です でも善良さに照準を 合わせるべきです 邪悪さではなくね そうすれば望むものを 得られます 自分の足が導く先に 進むのです 北に行くなら 北を見るでしょう 南に行くなら 南を見るでしょう 分かりますか ですから 神は善良さ 神聖さ 人類の智慧であり その全ての統合です 私の言う意味が 分かりますか 神とは 私達の最高の願い 最高の意図 智慧 最高の慈悲全てです 人類全体 宇宙全体の霊性を 統合したのが 神のパワーです それこそが神です そして今 私達は それを使うのです なぜなら全ての人の 共通の善ですが 誰もがそれを望むとは 限りません 一方では悪があります 一方では悪があります悪とは何ですか

組み合わさった力で 私達の悪い考えや 行いと理解の 集合した力です 分かりますか そして私達は必ずしも 良く考えませんね 私達は必ずしも 悪く考えませんね ですから 私達が神の力と 呼ぶものは良い力で 悪の力もまた 私達自身から 全人類から 全宇宙から発生します それが邪悪です この二つは 絶対に分かれず 一つが存在し 片方は存在しないとは 決して言えません 私達は悪事もするから でも私達は後悔し しないように務めます でもそれでも 否定的なものがなく 肯定的なものだけが 存在する世界以外 宇宙全体は こんな状態なのです けれどこの世には 陰と陽の 両方があります 今 私達が 陽だけの全なるものに 戻りたければ ここの善きものに 合わせることが必要で そうすると 善きものから 宇宙の 善きものの側面のみへ 押し進めるのです そして この闇の世界 光と闇が一緒の世界を 離れられます もう分りましたね 悪が変化し善きものと 共に存在できると 期待してはなりません 善と悪は 結びつかないからです 善きものは善きものと のみ結びつくのです

ですから 善きもののレベルに 行きたいのなら まずはこの世の 善き部分に入れば そこからその上階の 全ての善きものへの つながりが できるのです 理に適っていますね 分りますね 結構 ですからこの世では 神の力 善きものが 悪の力のすぐ傍にあり 私達の避難所に なっているのです それが地上の神 地上の神の国と 私達が 呼んでいるものです 自らの善良な部分に 内なる善きものに 波長を合わせることに 慣れていくのです 常にそうすることで 善きものを引き寄せる 類は友を呼ぶのです ですから善き力と 共にいれば 自分も その中にいるのです すると この世を離れてからも すでに善き力の 中にいるため 善き所にだけ 進めるのです もうすでに 悪の部分 闇は 置いてきたのです ですから神の存在 それは人類の善の 全ての集合なのです それらのレベルでは 悪く考える人がおらず 悪の力を生まないので 純粋なる神と その他のものが 存在できるのです この世では人の レベルに違いがあり 善悪の両方を私達は 生み出しているのです ですから苦悩と幸福が あるのです

他の世界では 人々が善きものとのみ 関わるように 進化した世界では 全てが善きものへと 変化するのです そこでは そういうレベルでは 善きもののみ存在 します それは ここの善きものが あちらの善きものに なるからです そして 善き人々のみ あちらへ行くので そこは善きもののみ 存在する事になります そして今それを 神の力と呼ぶのです それで 悪と断絶し 善くあるようにと  私は言うのです この世の宝の蔵に 自分の波長を 合わせたいならです それは役に立ちます 善きものは善きもの だけを引き寄せます ですから 瞑想をすると 行いを 身口意を清めるのです そうすれば 善いものしか来ません 病気が治るのも 事故が避けられるのも 良い夢を見るのも 瞑想が心地よいのも 不思議ではありません 理に適っていますね 自分が仏陀であるとか ないとか信じる必要は ありません 私が加護するか 否かにかかわらず 論理的に考えて 私の教えは 100%正しいと 分かるはずです しかし いわゆる教えには 二種類あります ひとつは話すもの ひとつは行うものです 私が善くありなさい 善くしなさい 寄付しなさいと言い 私が寄付しそれを見て 寄付をするのです 分りますね

それで 話にも力 パワーがあり 説得力があるのです そうでしょう 説得力があるから 進歩に繋がるのです 話すだけではだめです 車輪があるから 車が走るのでなく 石油があってこそ 力があり 車は走れるのです 運転手もしかりです 分りますね 車両だけではだめです 話すばかりでは 違うのです 例えば銀行に お金があるとして 小切手を切ります 誰か宛の小切手です 受け取った方は それを現金に換えて 使います 他の人はどうでしょう 同じような 小切手を印刷し 自分の名前を記入し 誰かさんに 上げるとしましょう 彼の得にはならず 彼の口座には残高が ないかもしれません でも小切手帳はある 小切手を切れば切る程 彼は貧しくなり 厄介な事になります 分りますか 同じに見える小切手も 実は中身が違うのです 話にも違いがあります 多くの人は 理解できず 本物と偽の教えの 区別がつきません 私達は話して この力を利用できます 分っているのです その内のいくらかを 使えるのです それが持つものの内の いくらかを見られます 光を見て 音を聞きます かすかでも ほんの少しでも とても近くにあると善きものの端っこに いることが分り 出たり入ったり するのが分ります 少しでも味わっている それで話せるのです 話に力があるのです 分りますか している事を話し 自分が持つものを 持つと言うのです 違いなのです

技術的な意味で ではありません マスターが 伝達のパワーを 送ってくれなければ 内なる眼を 開いてくれなければ 障害を取り除いて くれなければ 無知と カルマ(報い)を過去の悪い影響を 消してくれなければ 決して光は見えません 百年間 目を閉じ 瞑想をしても千年もの長い間  目を開けてもです 意味が分りますか 技術ではないのです 動かずじっとして 百年そこに座ってても 何も見えないのです マスターの恩恵が なければかないません 女の人がいて 髪を洗っていました 彼女はそこで 髪を洗っていて 光を見ました 仏陀のように座っては いません 真面目に堅苦しく 悟りを得ようとして いた訳ではありません 皿洗いをしていて 皿洗いをしていて 集中していません それでも事が起きます 意味が分りますね マスターの恩恵 神の恵みです それが重要なのです 何年も長い間ずっと 人々は 主を讃えています 慈悲の主を 無知の鎖を 断ち切る主を 転生輪廻の鎖を 断ち切る主を 讃えています

それはその当時の 存命のマスターゆえで 他の神ではないのです もう分りましたね マスターなしでは 神を知ることはなく マスターを通してのみ 神を知るのです マスターが神を知る 方法を教えるからです そうして自分も マスターであると知り 神である事を知り マスターの慈悲を 称賛するのです マスターなしでは 私も神を知りません だから人はマスターを 神の前に据えます 自らの悟りなくして 神は非存在 だからです 自らの認識以外に 神はいません 分りますか だといいのですが 私の言っていることは 非常に抽象的です しかし論理的なのです