それでは 中レキ市の 林換夫市長より この特別なイベントの ご挨拶を賜ります 敬愛する チンハイマスター 高僧の皆様 ご在席の皆様 こんにちは 本日 中レキ市 青少年 活動センターにおいて フォルモサ(台湾) 及びアジアで 最も有名な チンハイマスターをわが市にお招きして ご講演頂くことができ 大変光栄です 二六万の中レキ市民を 代表致しまして チンハイマスターに 対し心から敬意と 感謝の意を 表したいと思います 本日二時間の 講演の中で偉大な チンハイマスターは きっと私達に 仏教の教えである 因果のことや 善悪についての理解を 深めてくれるでしょう

講演を聴いた後は きっと どうしたらいい人に なって社会のために 国や家族のために 奉仕できるか 分かることでしょう 私はよくこう言います 私達は社会の 一員として 裕福な人は 経済的に貢献し 体力のある人は 体力を貢献するか すくなくとも良い 市民になるべきだと 私達には仏教の 堅固な基盤があるので 仏教の教えを よく理解できると 信じております 特に本日 チンハイマスターの 講義の後この教えが 更に広がると思います 本日集まった 聴衆の中には 年配の方もいれば 若い人もいて 子供までいるようです

これは 仏教が本当に 中レキ市の人々や フォルモサ(台湾)に浸透している証拠です 仏教が広く普及して いることを お喜び申し上げます そして市民が 仏教を尊敬している 事に対し感謝致します 最後に 素敵な夜であります ようお祈り致します チンハイマスターの 講演の後 皆様が悟りを開き 高貴になりますよう 皆様のご健康と 幸運をお祈り致します 有難うございました

徳のある皆様 有難うございました 徳のある市長 大変徳の高い方だと 感じます 彼は善や悪 社会の進歩を 気にかけています 政府で働いている 全ての役員達が 誠実に働いていれば 国はもちろん 強くなり 繁栄します 人民は堯舜皇帝の 時代に 回帰するでしょう 今しがた市長が 講演されましたが私は全面的に同感です 彼が言われた言葉に 全て同意します 各人が喜んで お金を寄付すれば 裕福な人はお金を お金がなくても 体力のある人は 体力を貢献し 能力がなければ 喜ぶ心で支援します なぜか  貧困者を助けるため これが 仏の道です 

この他に仏陀の道は ありません なぜ私達の世界は 未だに堯舜皇帝の 時代に回帰できないの でしょう なぜ私達が 求めている水準に到達 できないのでしょう 例えば 皆が幸せで 誰も貧しくなく 誰も裕福すぎず 誰も非常に苦しまず 誰も幸せ過ぎません こういう状態でなく なぜなら 皆が この状態を 好むとしても 誰もが努力する 訳ではないからです 例えば 市長が 市民一人一人に お金に余裕があれば お金を寄付し 体力のある人は 体力で貢献し 両方ともなければ 心で援助するよう 奨励するとします

奨励する事も いいことですが しかし誰もができる ことではありません 誰もがこれを好んで する訳ではありません とても簡単ですが できません なぜでしょう それは私達が 古代の聖人の言葉を 忘れているからです 例えば 老子はいいました  万物は皆一体だと 一人で生き抜くために 生まれてはいません 難しいでしょう 人には皆 両親がいます 両親がいなくとも 世間に頼って生きて いかねばなりません 老子の言葉の 奥深い意味が 分からないとしても この物質の世界 この地球においては 他人がいないと 生きていけないと 分かります これは確かです 数人の医学者が 一つの実験を行っているのを思い出します

赤ちゃんを別の部屋に隔離します その子はずっとそこに 置かれました 毎日 食事を与えて 栄養も足りています 空気も充分です いつも暖かく しました その部屋の 換気はよく 何も 問題はなかったのです ところが 誰も子供に 触られませんでした 人間の手で子供に 触ることも接触する 事も禁止されました その子はそれでも 成長するでしょう 栄養を もっと与えるだけでも 育ちはします しかし 成長すると 異常になるでしょう 他の子と違って 笑わないし 人間の感情を 表現しないでしょう

普通の人達のような 人間性が 彼にはないのです 古代  ある皇帝も同じような 実験をしました 何人かの子供を 山林に閉じ込め 人との接触を 禁じました 小さい時から 森に閉じ込められても 子供達は成長しました こっそり食べ物を 運んで食べさせました しかし 子供達は動物と 一緒に暮らしました 驚いたことに子供達は それでも育ちました

彼らが成長した時 動物に似ていました 振る舞いも話し方も 動物に似ていたのです ですから 教育しないと 人間にはなれません それは正しく私達は 社会に大いに借りが あるのでできる事を 本当に貢献すべきです 例えば お金があれば お金を寄付し 体力があれば 体力を貢献し さもなければ 心から援助するのです 他人が善行を行い 社会のためになって いるのを見て 自分にできることを することで また援助するべきです 沢山できなければ 貢献する人を 励ますべきです

良い行いをする 人々が多くの人達から 尊敬され愛されるのを 見て 妬んだり 彼らの仕事を 妨害したり 名誉を 毀損してはいけません 彼らを 励ますどころか 傷つけては どんな宗教の 教えにも反します 仏教にだけ反するの ではありません 私達の最新ニュースで 各宗教の金言を 皆の参考になるように 翻訳して流すように 頼みました 読みましたか (はい) それらは仏教 儒教 道教 ヒンズー教イスラム教 シーク教など 多くの宗教の金言です

教理はほぼ 同じではありませんか (はい) これはほんの一部で 誰もが互いに少し コミュニケーションを 取り他の宗教の概念を 多少知るためです もちろん 他の宗教を 理解したければ その経典を読むなり その宗教の教理や 開祖のマスターを 研究するのに 沢山の時間と労力を 要するでしょう

私の責務ではないです どの宗教を信じても いいのです 信仰している 宗教がなければ 自分の生まれながら 持っている善良な心と 智慧を信じるのです そして悪い事はせずに 良い行いをし 他人を助ければ 神や仏陀はまた 面倒を見てくれます

何故なら神または 私達がいう創造主 または仏陀 つまり 最高の智慧は 呼び名や役職名など 気にしないからです 私達が彼を 崇拝するかどうかなど 気にしません ヒンズー教にこういう 格言があります 神を 最高の智慧を 崇拝するには 先ずは隣人を 崇拝することから 始めることです イエスキリストも 自分を愛する如く 隣人を愛し 敵をも 愛せよと言っています そうでしたね 釈迦牟尼仏もまた 言いました 慈悲深く 博愛になれ 全て感情ある衆生には 仏性があると 彼は全ての衆生を 同等に扱うべきだ 全て感覚ある衆生には 仏性があるからだと 言わんとしていました

つまり全ての衆生は 私達と同等だと 意図していました 釈迦は自分も全ての 感覚ある衆生と同等だ とまで言いました 釈迦牟尼仏は 悟りを開いた偉大な マスターの一人です 最も有名な マスターの一人ですが 彼は 自分は感覚ある 衆生と同等であり 何の差もないと 言いました ですから私達凡人は いうまでもありません ですから 宗教を学ぶとき その宗教の 教祖の真意を 理解するべきです 互いに争い 中傷し 攻撃することは 教祖の 本意に反する ことです

加えて もし私達が 時間と 根気と 寛容な心を持ち 時間を費やして 他の宗教の教えを 研究すれば 彼らは同じ道徳的な 行いを順守すると 分かるでしょう 彼らも善行を行うよう 人々に教えています 釈迦牟尼仏は 人々に 善行を行い 施し 戒律を守り 侮辱を耐え忍び 熱心に禅定し  得度すると教えました 布施をすることは 最高の方法です そこで 釈迦牟尼仏はこれを 最優先に置いたのです 釈迦牟尼仏だけが これを言ったのでは ありません

ヒンズー教の経典で 私はまた布施をする ことは最も崇高な 行いだと読みました 金剛経の中で 釈迦牟尼仏陀は 法(真理)を 広める事は最高の功徳だと 言いました ヒンズー教の経典も 同じ事を言いました 奇妙なことです なぜそうなのでしょう

互いにオウム返しに 言ったのでしょうか あるいはヒンズー教が 仏教を真似したのか 仏教がヒンズー教を 真似したのか 皆はどう思いますか

私達が知らないのは 読んだ事がないからで ヒンズー教は邪道だと 言っているのです なぜなら 彼らの教理を 理解しないからです 経典を読んだことも なく 尊重しません 読まねばなりません

法(真理)を広めることは 最も重要です ヒンズー教の経典でも これを言っています はっきり言っています 法の時代の終わり 末法の時代に  つまり 今の私達の 時代のことです この世界が造られて から現在に至るまで 黄金時代を 含めて多くの 時代がありました 最初の時代が 黄金時代でした 黄金時代というのは あの時代 人々は善良で 霊修行をして 神を強く信じて いました 皆が自由で 穏やかで平和で 偉大な力がありました 障害から 束縛から 悪いカルマ(報い) からも解放され ほとんど因果の 妨害がなかったのです 人々は 数百年 生きられました 中には数千年生きる 人もいました 古代の経典を読むと はっきりと記載されて いるのが分かります ある期間が過ぎた後 大変長い時間の後 世界は銀の時代に 入りました 黄金時代の後は 銀の時代でした

銀の時代 銀の時代は 黄金時代ほどは よくありませんでした 人間の寿命は 短くなり 道徳は後退し 神通力も減少しました

彼らは身口意で あまり自由では ありませんでした もはや 天国や 地獄に容易に行く事が できませんでした もう行きたい所に 瞬間的に 移動することも できませんでした そんな具合でした まだ良い時代でした 人類はまだ 数百年も数千年も 生きられました とうとう私達は 末法の時代に 至りました これは鉄の時代と 呼ばれます

現在の私達の時代の ことです この鉄の時代では 人々は鉄製のものを 沢山使います それが意味する所です 黄金時代では 宮殿はみな 金で造られ 宝石で 装飾されました この鉄の時代では 経典を 読まなくても 私達の家は鉄と 石で作ったことが 見て分かります

ですから私達の心も 多少 鉄のように なりました

頭脳と心だけがそうです 私達の魂はなおも 黄金時代と 同じです 私達自身のマスターは 永遠に純粋で 世々代々 永遠に存在します それは心ではなく 心は頭脳のことです 頭脳はもちろん 影響されます それは 機械だからです 適度に 潤滑油を与え 手入れをすれば 長持ちし 順調に動きます それを無視し それに 見合った油を入れず 定期的に手入れも しないと すぐすり減ります 他の機械と同じです それを私達は 人間の心または 人間の頭脳と呼びます それは同じです

私達自身のマスター 即ち 魂 真我は 違います これは手入れを 必要としません 外部の影響も 受けません しかし それは肉体に くっついていると 苦痛を感じます この肉体が 苦しいと 魂も苦痛を感じます その二つはくっついて いるからです 例えば 私は この服を着ています

私は服の中で 何の問題もありません しかし もし服に火がついて 燃え始めると それは熱くなり 服の中の私も 熱く感じるのです

もともと 私の体は熱くないのに この服に火が ついたので その中の 私も苦しく感じます それは同じ状況です 私がこの服を 着ていなければ 私とは関係ありません

この服を火にくべて 燃やしても 私はここに立って 何も感じないでしょう

同じ意味で 私達の魂が この肉体という服に くっついていれば 何かが体に 触れると 魂は感じるのです 魂はこの 「肉体の服」を着る前は 何も感じません 幸せも哀しみもなく 何も感じません 魂はもともと光を放ち 幸せな存在です つまり 魂は極めて明るく 至福で 苦しみとか悲しみを 決して知りません

ヒンズー教の経典では 末法の時代と 言わないで 鉄の時代と言います 今の私達の 時代のことです 現代のことです ヒンズー教の経典も 同じ事を言っています 法(真の教え)を広める事は 最も重要な事で 最も価値ある事だと 釈迦も同じ事を 言っています 法(真の教え)を広める事は 最も重要な事だと イエスも弟子達に 彼らが聞いた 秘密の法門を 人々と分かち合うよう 激励しました ただ この種の提供には 問題が一つあります 法(真の教え)を広める 前にそれを手に 入れねばなりません お金は簡単ですが 法(真の教え)は どうでしょう

お金は皆分ってますが 法は何でしょう どうやってそれを 与えられるでしょう

(人々に教理を 説明することです) 教理を説明しますが それは法ではなく それは教理です 法は道という意味で 説明できないものです 法は教理とは 異なります 私達はまず この例えようのない道 説明しようのない法 名づけられない名 目に見えない 無形の 触れる事のできない 力を得て初めて法 (真の教え)を広めます 経典にもありません 法(真の教え)は経典では 見つけられません ですから 昔から 偉大な 霊修行者はいつも 法(真の教え)の伝授を 以心伝心で行い 教理や経典を通して ではありません

老子も 「道は道に あらず」と言いました 説明できる道は 説明できる道は 永遠の道でも 本物の 道でもありません ですから 道は言葉で 説明できるものでは ないと指摘したのです 仏教でも言います 禅は言葉を用いないと これが法(真の教え)です 言葉でもなく 説明もできなければ どう伝授しますか 伝授できるでしょうか できます

今日 中国の 昔話を読んでいて 大変意味深い話を 偶然見つけました 時間がきて ある人が 死んでしまいました すると 黒と白の 死の使者が 彼を迎えに来ました 皆さん 黒と白の死の使者が 何だが分かりますか 分かりませんか 後で分かります 遅かれ早かれ それを 知ることになります 観音法門の 修行者だけが彼らに 声をかけずに済みます 死の使者が来て 閻魔王に会わせるため 彼を連れていきました

閻魔王は彼の人生の 記録を調べました 「まあ 悪くはない どんな罪も 犯してないし 徳を沢山 積んでいる お布施をし 戒律を守り 屈辱も忍従した だが瞑想に精進せず 智慧がない でも いいだろう お金と 力を布施し 非常に支援もし とても慈悲深い いいだろう もう一度人間界に 戻して富と権力と 高い地位を楽しんで もらおう」と 閻魔王の 宮殿の皆が 彼の事を喜び 拍手を送りました しかし彼は言いました 「お断りします」と 閻魔王は言いました 「おかしなやつだ なぜ断るのかね」と 閻魔王も 英語が解りました その人は言いました 「以前 私は 高官で 権力も 富も何でも 経験しました これらはいずれも 私の頭を痛くする だけだと分ってます」 市長に聞いたら彼も 答えるかも知れません 「そうだ そうだ」と 大半の人が市長で あることは喜ばしい事 だと思いがちですが 嬉しくはありません

それは責任重大で 両肩の重荷は 重いのです 人々には沢山の 意見があります 時には不愉快なものも ありますが 人々を 助けるために 私達は やらねばなりません

誰かがやらねばならず したがって その人は 言いました 以前 高官だったので 二度とそれを やりたくないと 以前 裕福だったので もうそれが欲しく なかったのです 彼には奥さんも子供も 沢山いたので もうそれも欲しく なかったのです

閻魔王は 彼に聞きました 「では何が欲しいのか」 その人は言いました 「私は普通の人間に なりたいだけで お金は自分が使うのに 足りればいいのです 小さな家を下さい そうすれば 線香を焚いて 修行し 仏陀を拝みます 私はただ平和に 暮らしたいだけです それで幸せです 私に必要なのは 心穏やな 平和な生活と 安心した暮らしです もはや地位やお金は 要りません 欲しくありません」 閻魔王は何と言ったか 分かりますか

承諾したでしょうか しません 閻魔王は人に 押し付けはしません ため息をつきました ため息をついてこう 言いました 「お前の 気持ちはよく分かるが これは私の 権限を超えている お前にお金や権力を 与える事はできるが 心穏やかな 平和な生活 平和な暮らしは 与える事ができない」 分かりますか これを得るには法 (真の教え)が必要です

心穏やかに 平和に暮らし 自由自適に生きるには 法(真の教え)が必要です ですから 法(真の教え)を 広めることは 最高の施しの形です そうでなければ お金や権力や 名利だけで 十分いいはずです 違います

それらは私達に 幸せをもたらせず 内面の満足感も もたらせません しかしこれは 高官になるべきでは ないという意味では ありません

修行仲間の中には 高級官吏もいれは 下級官吏も 中級官吏もいます また あらゆる商売の 人もいます 商売で忙しい 人もいれば 平凡な暮らしを 送っている人や 農業を営んでる人も 労働者 工場労働者 医者 弁護士 聖職者など あらゆる 職業の人がいます タクシー運転手もいて 様々な人がいます 裕福な人 そうでない人もいます この説明できない法 この説明できない法(真の教え)を得てから 彼らは皆 安心し 平和になります これこそが私達に 本当に必要なものです 私達は皆 自由を愛するからです

私達は皆 真に自由でいるために 解脱を愛するのです お金だけが必要なの ではありません 心の奥では皆 それほどお金が 好きではありません 自分はお金が好きだと 思っているだけです ですから 見ての通り ある人は裕福なのに お金を銀行に預けて おくだけです 毎日それを数えるかも 知れませんが そのお金を 使ったりしません 本当に お金が好きなら きっとそれを使います 彼らは使いません ですから ほら 裕福な人ほど 倹約します

お金で何をしたら よいか分からないかの ように ただ集めて 銀行に預けています 彼らは皆 お金は 裕福と幸せを もたらし 何でも買えると 思っているからです 結局 彼らはお金が あっても 面白くない ことが分かり それで そこに置いておきます ある裕福な人が ある裕福な人が 非常に倹約し 何事でも節約し 質素なのを見て とても欲張りで ケチだと思うでしょう しかし違います ただお金の使い方が 分からないのです それが分かったら 使うでしょう

したがって 彼は お金を稼げば稼ぐほど もっと商売をして もっと稼いで そしてもっと 商売を始めて 更に もっと稼ぐでしょう 最後には お金の 海で泳ぐでしょう しかし お金は大変 役に立ちます むかし 孟嘗君主は 大変裕福で 彼はお金を使って 良い事をしました 彼は多くの人に 施しました

この場合 お金は 大変役に立ちます それで お金は良いと 言っているのです 時に 私に 沢山のお金をあると 私は経典や 本を印刷して無料で 提供したり 慈善事業をします ある弟子は私に 「マスター お金を 使い切ってしまって 後でなくなったら どうしますか」と 言います 私は彼らに言います 「お金は使ってこそ 価値があります」と お金は使ってこそ 意義があるのです その時のみ お金が 有益だと分かるのです そうでないと お金は 何のために必要ですか 私達は皆 お金や権力よりも 自由を愛します 私は証明できます 非常に裕福な人は皆 幸せではありません

彼らはどんなに 忙しくても 時には休暇を 必要としますね 彼らは一人になって 商売のことを 忘れたいのです 西側の国の社会では 皆が夏と冬に 休みを取ります 皆逃げるのです 例えば フランスのパリは 休みのシーズンには 都市全体がほとんど 空になります お化け屋敷みたいに なります 皆出かけていません パリは最も 賑やかなところで 世界的にも有名で皆が そこに集まりますが パリに住んでいる人は 休みの時には皆が パリを出ていきます 金持も金持ちでない人 高官も 低い位の役人も 皆 辺鄙な開発されてない 荒地に行きます

彼らの心の中では やはり新鮮な空気と 自由を渇望している ことを物語っています 彼らは 社会と仕事に 縛られています 彼らは裕福なことと 高い地位はいいものと 思っているのです しかし心の奥では 真我ではありません ですから裕福ですが 幸せではなく 権力を持っていますが 幸せではありません ますます縛られてると 感じるのです だから法(真の教え)を 広めなければならないのです お金を寄付することは 重要です 私達がみな 孟嘗君主に 見習えば 世界はとっくに 天国になったでしょう 残念ながら 私達は古代の聖人の 本を読むだけで それを実践しません 今は大分よくなり フォルモサ(台湾)の人は とてもいいです

多くの宗教宗派が 立ち上がって 人々にお金で 慈善事業をするよう 呼びかけています 例えば 一貫道団体に 感謝せねばなりません

修行者は本当のことを 言うべきです 誰かが 良い事をした場合 たたえるべきです 人が悪いことを するとそれを 非難し 良い行いに対して 沈黙するのでは いけません これは不公平です 人が悪いことを した場合 それを 非難するのではなく 二度としないよう 諭すことです 人が良い行いを した時には 公に褒め称え 激励すべきです さっき市長が おっしゃったように 私達にできないことを 誰かがやっているのを 見た場合 誠心誠意 応援することです これはいいことです これは歓喜の心と 応援の気持ちです

フォルモサ(台湾)や 他の国にライオンズ クラブがあります 彼らは皆 裕福な人たちです 彼らは言います お金を寄付して下さい それで私達は良い事を します 社会を助け 国を浄化し人民に 福祉をもたらしますと 大変いいことです 私達仏教団体も 多くの 慈悲深い行いを やっています 多くの寺院では 募金しています

お金を集めては 貧しい人々に 与えています 大変良いことです キリスト教も もちろん 彼らが社会に対し 多く寄与してきた事は 皆が知っています 多くの よい病院と よい学校は 彼らが建てたものです 花蓮で私は出産しよう とするある女性の お見舞いに行きました 皆この話を 知っていますね 赤ん坊は私が行くまで 生まれませんでした 厄介なことですね 私が見舞いに行った 病院はカトリックの 病院でした

花蓮の市議会議員が 私をそこに連れて行き 私にマスターここは 大変いい病院ですと 教えてくれました 世間話をして待って いたのです 外でする 事がなかったので その病院は キリスト教徒が建て どんな患者も 拒否しないのが 決まりだそうです どんな患者も 拒否しません 良い人も悪い人も 金持ちな人も貧しい 人も受け入れます お金があれば支払って もらい なくても 受け入れます 彼らは 真にイエスの 博愛の精神を実践し 示したのです これこそが 真の宗教団体が することです

宗教はこういう良い ことをすべきです 全ての宗教が自分の 責任を全うすれば その国は 平和になるでしょう どの宗教が良くて どの宗教が良くない などという 必要もありません 全ての宗教が自分の 責務を全うすれば 素晴らしいと思います

私が教えている事も 他の宗教と同じです 私は仏教と 他の宗教との間に 区別をつけません なぜなら 人々の心は すでにばらばらに 分離しています 私はこれ以上分離して 欲しくありません 一緒に力を合わせて 働くと 強くなります

皆さんは素晴らしく 良き仏教徒です 誰であれ 万物は同一体である という真理が分かれば 良き仏教徒です 仏教徒であろうが なかろうが善意があり 良い事をし 人々を助け 衆生を傷つけるような ことをしなければ それは仏教徒です 宗教の目的は 人々に平和になる ことを教え 善行を行い 人に施し 世界に寄与し この世界に於いて 富と幸せを 等しく分かち合うよう 教えることです ですから 全ての宗教団体は皆 同じ夢を持っています 賛同しますか (はい)そうです またもう一つの 理想があります 

人々に悪事を避け 改めるよう 教え導くことです 誰かが悪い事をして いるのを見ると 正すように 指摘することです このように 全ての宗教は皆同じで 同じ理想があります ですから時々私は なぜ言い争うのか 驚くことがあります なぜ互いに 理解しないのでしょう なぜ友人を 敵にして しまうのでしょう これは盲目的な 信仰のためです その宗教の教祖が そう教えたわけ ではありません それらの教祖たちは 私達がケンカするのを 見ると心を痛めます そうですね 

(はい) そこで私は至る所で いつも皆に自分の 宗教を変える必要は ないと勧めます 自分が 信仰している宗教の 良き信者のままで 社会や国のために 利益をもたらし たとえ宗教信仰が ないとしても 善行を行い 悪事をせず 国に対し忠実で 国を愛し 親孝行し 友人や隣の人に 親切にしていれば 十分にいいのです そうすれば神も 認めてくれるでしょう 有難うございました

二〇〇九年 十月二二日の 「有機ビーガンで 繁栄し 気候変動から 地球を救う」という スプリームマスター チンハイ国際団体が 主催する 会議の中で 貴賓として スプリームマスター チンハイは気候変動 から地球を守るために 有機ビーガンになる ように奨励しました この共有している島で 「地球」と呼ぶ空間で 必要なものはすべて 豊富に与えられて いますが まだ機会が あるうちはその面倒を 見なければなりません

スプリームマスター テレビジョンで 今週土曜日一月十六日 テレビ会議の再放送 第一部をぜひ ご覧下さい 題して 「有機ビーガンで 繁栄し  気候変動から 地球を救う」は 智慧の言葉にて

本日のスプリーム マスターテレビで テレビ会議の再放送 第一部をぜひ ご覧下さい 題して 「有機ビーガンで 繁栄し  気候変動から 地球を救う」は 智慧の言葉にて
私が初めて フォルモサ(台湾)に 来たとき 大変感動しました この話をするのは さっき言ったことと 関連があるからです フォルモサ(台湾)に来たとき 私は本当にお金がなく 私は中国 仏教教会に行って 彼らと連絡を 取りました 私も 仏教徒で尼僧でした 私は受戒するために 来たと言いました

彼らは大変歓迎し 外国人が遠いところ 受戒に来てくれた事で 大変喜んでくれました そして私を大変 大事にしてくれて いたわってくれて 手厚く世話して くれました 色々な面で私を助け 世話してくれました 彼らにできることは 全部してくれました ですから フォルモサ(台湾)に 対する第一印象は フォルモサ(台湾)の 仏教教会に対する 印象で とても親切で 責任感が強く 友好的でした 当時 私は 仏教の僧侶に 会ったのではなく ある女性と 仏教教会で 事務の仕事をしている 中年夫婦に 会いました こういうことでした 彼らは大変親切に してくれました そこで後に 私は恩返しに英語を 教えてあげました

後で その女性は私を 他の寺院の法師に 紹介してくれました 私はそこに移り 他の人と住むことに なりましたが 彼らも 大変よくしてくれて よく世話して くれました 受戒するために たった二ヶ月 滞在しましたが 彼は私が他へ行くのを 惜しんでいました この愛は今でも私の 心に保ち続けています ただ簡単にこの話を しましたが その時私は自分が 観音法門を修行して いることを誰にも 言いませんでした ただ毎日床を拭いたり お手洗いの掃除を したりしただけです とても平凡な日々で 何の問題もありません

そしてこの縁で 私はその法師を 知ることになりました

彼は私に アメリカに行って 彼と一緒に法を広め 彼について学んで 欲しいと言いました 私は承諾しました 大変嬉しかったです その時私のフォルモサ (台湾)のビザが すぐ切れるところで 延期できません 延期は難しいのです

なのでその法師が大変 ありがたかったのです 私は言われた通り 直ちに行きました

僧侶と尼僧は どこにも 執着しません オゥラック(ベトナム)人の 法師と 中国人法師は同じです 私は彼らについて 学ぶ機会がありました 彼らの智慧と 違った仏教の法門を 学んだのです とても良かったです 私はすぐに荷造りして そこで一年住みました 彼も私に大変親切に してくれました 余りにも よくしてくれて 言葉では表せません

その後パスポートの 件で私は滞在できなく なりました

その法師は私に 行って欲しくなくて すぐに弁護士を探して 私を助けてくれました そして私を連れて 法務省に行き 沢山の書類を用意し 沢山の保証書などを 書きましたが 結局だめでした 仏陀が私を離れさせる ので そうなりました それでも彼は 私に戻って来て 三カ月滞在してから 離れることを約束して ほしいと言いました これは彼が私のことが 大変好きだから 留めたことを示します

社長は社員が 気に入らなければ 留めますか すぐ首にするでしょう

違いますか

そういうことです

私が再び渡米した時 彼を訪ねました 彼に招かれたからです その後私がアメリカで 住んでいた頃 私は突然 有名になったのです 私のせいではなく なぜだかアメリカの 修行者達が私のいる 所を見つけたのです ずっと探し続けて 最後に見つけました 彼らの内面の体験が 彼らを私の住んでいる 寺院に導いたのです 私を掘り出しては こう言いました あなたは私が探してる マスターですと 私は おかしい 何かの間違いでしょう

ここに確かに法師は いますが今は留守で 戻って来るまで 二ヶ月待たなければ なりませんと言うと 彼は いいえ違います 貴方ですと言いました 私はどんな法門も 伝授しないし 教えることもなく ただここで床を拭いて いると言いました

ご存じのように彼は フォルモサ(台湾)に行っていました 彼の他にも 多くのアメリカ人が 私を訪ねて 来たのです 彼らが「匂い」を嗅ぎ 私は有名に なったのです

離れねばならなくなり その後 私はアメリカに戻り その法師を訪ねました 彼に来てほしいと 招かれたのです 行って彼を訪ねました フォルモサ(台湾)に 戻ってからも 私は彼を訪ねて行き お土産を上げました 毎回仏教協会にも 行って 声をかけました

ここに帰ってくる度に 手土産を提げて 仏教協会のスタッフの 所に持って行きます 大変親切にして いただいたからです

私の彼らに対する愛と 感謝の気持ちは依然 強く心に残っています

さっきも言ったように 全ての宗教はみな 同じ事を教えます 善行をし よい事をし 国や社会を 助けるよう教えます 私も同じことを 教えています そうですね (はい) あるマスターは人々に 数を数えることを教え 一二三四というふうに そうでしょう 呼吸法門です 一、二、三、四 五、六 十まで数えます このように数えて いけば 禅定に入ります また人に 南無阿弥陀仏と唱える よう教える人もいます

これも禅定に入れます 私はただ別の法門を 教えているだけです

時々何をしたらいい 人なのか分からない 事があります 最善を尽くすのです 優しさ 正義 礼節 智慧  誠実を実践するのです たとえこれに最善を 尽くしたとしても それでも十分でない ように感じます または 布施をして 道徳的で侮辱を忍従し 精進して 禅定を得たとしても まだ足りません 何か物足りない感じが するわけです 智慧が欠けています 法(真理)がないのです いったんこの法 つまり 「一」「道」を得ると 心は安らかになります すると何事も 気にならず 誰に対しても 何も求めません

人と争ったり けなしたりしません また誰かを 攻撃したりもしません ただ讃える 言葉だけです 全ての人は 智慧があることを 知っているからです 智慧が開いたか どうか 智慧を使っているか どうかに関わらず 内面にあるのです これを 釈迦牟尼仏は 仏性と言いました カトリックでは 神の王国と言い 老子と荘子は 「道」と呼びました これを得てこそ 私達の心は安らかに なれるのです

ですから私は フォルモサ(台湾)に いても 他の国に 弘法に行ってもこれが 私にできる全部です 真摯にできることは この「法門でない 「法門」を皆に 提供することです これを皆で分け合えば 平和な心と 憂いのない 寛大な心 良し悪しを区別しない 心が得られます ただこれは その国の功徳と 関係があり 出会う人々との 因縁と関係がある事を 私は知っています 誰がこの法門に ついて習いたいと 思っても結構ですし そう思わなくても 構いません 人はみな自分の 計画があります

私はただ自分が 持っている良いものを 提供したいだけです 皆さんが お金のある人は お金を寄与し 力のある人は 力を出し 力もお金も なければ喜んであげる ことと同じです 私はこの法門しか 提供できません 私はお金もないし 力もありません

ご覧の通り この小さな手を 見れば力がないことが 分かると思います しかし私には 皆さんが 善行を行い 全ての宗教をたたえ 人々を助ける団体を たたえ 隣人に優しくし 人を 傷つけない事をたたえ 激励する心があります 喜ぶ心で人をたたえる 心を持っています それで また皆さんに 提供できる 宝物 私の命よりも大事な 観音法門があります これを提供したいです これは私にできる 貢献です

それ故に 観音法門は無料で 提供します 法(真理)を 広める事は 僧侶や尼僧の務めです だから 皆さんは私に 感謝する必要も 恩に思う 必要もありません これは私の務めです 受け入れて下されば とても嬉しいです なぜなら私の義務を 果たせるからです

こういう事です 私達は「道」の 真髄が分らないため バランスが取れず 一つになっておらず 私達は心と心が 繋がっていないのです

それで私達はそれぞれ 異なった方向で 違う事に取り組み もがくのです

親愛なるマスター 阿羅漢や菩薩の レベルに到達するには どの程度まで 行かねばなりませんか ある人が菩薩の レベルに 到達した場合 もう 後退しないのですか

菩薩にも沢山の レベルがあります 阿羅漢のレベルに 達することは とても簡単です 皆ができることです 私達は無数の 人生において修行し 今は観音法門を修行しています 印心を受ける時 自分がどのレベルに いるかすぐ分かります それから 引き続き修行して 今生で 阿羅漢のレベルを 最低でも得ます  最低限で 一生懸命修行し 明日死ぬという 運命でなければ 私が保証できることは 今生で 阿羅漢のレベルに 到達することです 自分で分かります

どのレベルかを 測れますが 阿羅漢に到達したら 一、二、三、四の 様なものではないです 私はこんな感じと 知っていますが 皆さんは知りません 描写できるものは 永遠の「道」では ありません でもそれを知らない 訳ではありません 簡単に説明できません 観音法門を習う べきです そうすれば 自分でこれが 分かるのです また 菩薩という言葉を 私達はあまりにも 気軽に使っています だから 人々が 混乱するのです

ボディサットバは サンスクリット語で 人を悟らせることが できる 悟りを開いた人を 意味するもので 感覚ある衆生を助けて 解脱させることが 出来るという意味です 彼らの仕事は衆生の 解脱に関係していて それで菩薩と 呼ばれます 菩薩のレベルは 阿羅漢より高いとは 限りません 菩薩と呼ばれるのは ただ単に 衆生を解脱させる 仕事に関わってきた からです そうは言っても 菩薩と呼ばれるには また悟りを開いて いないとなりません 菩薩の菩提は 悟りを開いたという 意味なのです 「菩提」とは何か 知っていましたか 悟っていて 智慧があることです サットバは 衆生という意味です つまり悟りを開いた 衆生という意味です 悟りを開いた衆生は 大抵人を助けることを 期待されます だから 菩薩と 呼ばれるのです 悟りを開いた人が 人を助けなければ 阿羅漢と呼びます

こういう意味なのです 阿羅漢も 菩薩になれます アラハトは梵語です 阿羅漢は もう二度と 輪廻はしないレベルに 達したという意味です 二度と人間に生まれ 変わりはしません 発心して衆生を解脱 させるために戻ると 誓約しなければ これが阿羅漢です 菩薩の中には この俗世に戻らない 菩薩もいます 阿羅漢のレベルを 超えている菩薩も 阿羅漢よりレベルが 低い菩薩もいます 阿羅漢よりレベルが 低い菩薩は 第一界の菩薩と 呼ばれ 法(真理)を 広める助けを始めたばかりで ポスターを貼ったり 剥がしたり お花を生けたり クラスに講義用の コップを置いたり そんなことをします これを第一界の 菩薩と呼びます もっと高い次元に いる菩薩は 第八界 第十界という ように仏教用語で 表され 人々に彼らのレベルを 知らせます 私達の大学のシステム 一学年二学年三学年に 似ています

不退転の 菩薩のレベルに 達していれば これは後退しないし 滑り落ちないし 後戻りしないし 落ちない次元にまで 悟っているということ 不退転の 菩薩のレベルに 達していなければ 落ちる可能性が あります 親愛なるマスター 主要な宗教の 教祖達の教えと 修行体験は 全て同じで しょうか 沢山の宗派が ありますが 真理は一つなのですか そうです 皆さんはすでにこれを 分かっているのです 親愛なるマスター 私はよく あなたの弟子から あなたが恋しいと ちょうど数年前恋に 落ちた配偶者のようだ と聞きました あなたに無性に 会いたがる気持ちは 何年も前に恋に落ちた 夫とか妻の 会いたい気持ちと 同じです

とにかく フォルモサ (台湾)には多くの 大師や聖職者がいます 多くの人は他の大師に 従いましたが こんなに強く大師に 会いたがる話を 今まで聞いた事が ないのはなぜですか

たぶん 彼らの時機は まだ来ていません 適切な時機に愛とは 何かが分かります

大人になっていないと 幼い時のように 愛が何かが 分かりません 大人になったら 分かります フォルモサ(台湾) の 人々はたぶん 今は 成長しているでしょう

私が好きなのでしょう 互いに縁があるのかも しれません

親愛なるマスター 釈迦牟尼仏が 悟りを開いた時に なぜあえて感覚ある 衆生に真理を広めよう としなかったのですか 涅槃(永遠の至福)に 入りたかっただけです 梵天が降りてきて 彼に 法(真理)を広めて 感覚のある衆生を解脱させるように 懇願したので ついに 勇気を 奮い起して 法(真理)を広めます それは 仏陀が 衆生は解脱させる事が 難しく 彼らは 真理を信じずに 誹謗するだろうと 懸念したからですか そうです 

経典に 書いてあります 理由はそうでした 親愛なるマスター 母はクリスチャンで 以前は全然 仏教音楽が好きでは ありませんでした でも ある日 偶然にマスターの 仏讃を 聴きました そしたら突然 母はもう一度 テープを繰り返す事を 欲し マスターが 詠唱したお香の讃歌が とても美しいと 言いました 以前聴いたことのある 仏教音楽とは 全然違います もっと不思議なことに 母がマスターの仏讃を 聴いて以来  母は私に毎週日曜日 マスターを訪れさせて くれるばかりでなく 大晦日の夜でさえ 私はまたマスターに 会いに行け 七日間の 瞑想会への参加も 出席できています これは本当に 大きな変化です なぜマスターの 仏讃にこんな 偉大な力がありますか マスターの歌声が とてもきれいだから でしょうか それとも マスターの歌の中に ある大きな慈悲と愛に 母は心を打たれたの でしょうか

彼のお母様なのに 私に聞くのですか 彼はお母様と長く同居しているのに 知りさえ知りません 一度もあった事のない 私がどう分るでしょう 彼女が好きなら いいでしょう 多くの人が同様です

多くの人も仏教 カトリック教 あるいは一貫道が 好きではありません 道教徒は仏教が好き ではないのですが 私の仏讃を一度 聴いたら 好きになり始めました

一曲の歌だけで 全ての人をこんなに 結びつけられるのなら これからはもっと 歌うつもりです マスター 私は靴デザイナーです この手の仕事は 殺生と見なされないと 言われました 仕事を変えなくても マスターの印心を 受けられますか はい 出来ます

マスター 観音法門を 修行すれば 将来 私が死んだら マスターの浄土に 行けますか そうとは限りません あなたの 誠実さと 努力によります

でも 遅かれ早かれ そこに到達しますよ 例えば この人生では 十分に修行をせず 修行が遅れていて 怠けたり のろのろ修行していて また戒律もしっかり 守れないなら 私は保証できません 正義は親類関係を 超越するからです 浄土は 善良で優しい 人々だけが 身口意が清い 人々だけが 高い次元と偉大な 智慧を到達する人々 だけが滞在します 皆さん全員が 肉や酒が好きで それらを 手放せなければ まずは阿修羅界に 住むことになります

そこに行き しばらく訓練を 受けます もっと多く修行し もっと多く 教理を学んでから 皆さんはみな 阿羅漢レベルに上がり それから梵天の次元に 上りその後マスターが いる所に行きます

親愛なるマスター 修行と感覚ある衆生の 済度を同時に するべきですか それとも まず 修行をし あの次元に到達して から他人を解脱させる ために現れますか それは済度の仕方に よります 例えば 感覚ある衆生を 解脱させる二つの やり方があります 直接的な解脱と 間接的な解脱です 例えば 今 私が公に講演に行き 皆さんの役に立つのも 他人を解脱させて います 後に あなたが 高次に到達した 偉大なパワーを持つ マスターになると 直接 感覚ある衆生を 解脱させられます あなたはどの方法で やってもいいです 親愛なるマスター 完全に得度した 仏陀は三身 全てが完全です 親愛なるマスター 完全で完璧な 報身体を持つとは どんなものですか

報身体はつまり 肉体のこと でしょうか(はい)

ほとんどの人が それさえ見えません

広欽老和尚を見ると 彼はとても小さくて 痩せていて 崇高でも荘厳でも ありません 釈迦について聞いて いたのとは違います とても大きくて 背が高く 偉大だと そうとは限りません 完璧で完全な 報身を 持つということは その人には 何ら特徴があっては いけないのです 手足が不自由だとか 骨の造りが異状だとか どんな重い病気も あってはいけません 五感が全て完璧で 完全に無傷でないと いけません 例えば 目や耳や口が 不自由ではいけません

彼がそうならそれが 完璧だと考えられます

障害がある人や 醜い人のように見える 本物のマスターは 一人もいません 少なくても やはり彼は とても上品に見えます

マスター なぜ心が愛で いっぱいの人が 青春の真っ只中で 自動車事故で 残酷に死ななければ ならないのですか 悪いカルマ(報い)の せいですか

もちろん 悪いカルマ(報い)のせいでもあります しかし本当は それだけではないです もうすこし 複雑になります 不公平な死もあります

そうでなければ 昔 車はありません でしたから 誰も自動車事故には 遭いませんでした それは違うのです したがって 時に悪いカルマ(報い)のせいで 時に それを 取り除くためです 時には 社会と環境の せいです 時には 不公平な 死もあります

マスター マスターが話された お腹が空いたら食べ 寝る時間になったら 寝て 時間があったら働くその境地に達するには どういう風に 修行すればいいですか 観音法門を 修行すればいいです マスター 最近 台北には 中国禅学 印心法研究会と 呼ばれる 非営利団体が できました その設立者は 妙天法師です 彼はマスターを 道に達してる方として 尊敬しています マスターの講演の度に 弟子達にマスターの 教えを聞きに行く ように言います 彼も印心を伝授します 妙天法師の 印心の伝授と マスターの印心の 伝授が同じものか 私には分かりません ですが彼は弟子達に菜食を勧めていません

新しい団体ですか

(はい) 中国禅学 印心法研究会は 非営利団体で つい最近 できました

彼の印心が良かったら その人に教わりなさい 自分で判断して下さい

マスター ある人が 人とか物に対して 感情豊かだったり 物質に対して 沢山の欲求があって そのせいで とても苦しんでいたら その人はどうしたら いいですか 修行すべきです 自分の 問題を内側から 正すべきです それは心ではなく 悪いカルマ(報い)です 時に それは前世からの 悪いカルマ(報い)です 残された悪いカルマ(報い)です 時には 社会的 影響のせいでも あります それが何であれ 私達はなおも 苦海の中にいます 多かれ少なかれ 私達は心配があります 苦海を乗り越え 生死から解脱する 唯一の道が あります いったん観音法門を 修行すると 二度と 戻ってきません

マスター 生死からの解脱とは どういうことですか こういうことです 私達人間は生まれ また死にます 生まれる時 生まれることを 望んでなくても 強制的に生まれて それで無理やり 生まれさせられたと 感じることもあります ある人は 生まれたくなくても 生まれてきます 生まれてから 無知のまま生きてきて そう生き続けます 他の人がする事を 何であれ私達もします それだけです そうしてから 自問します なぜと 死ぬ時も ほとんど同じです 誰も言えません「まだ 準備ができてません」 そして黒と白の 死の天使に尋ねます 「待てますか」と 私達が死ぬ時も 強制的に死にます 時が来たら 私達はただ死にます そういうことなのです

それで私達は非常に イライラさせられます 生死から 解放されるためには 私達は今生で 解脱する方法を 知るべきです

例えば 私達は生きている間に 死に方を 修行できます

死ぬ前から私達は既に この宇宙のどの片隅が 私達にとって 住みやすいか探索し 知っておくべきです

そうすれば 私達は 向こうに特注の家を 注文できます

私達は毎日 そこへ行き 家を建てます そして 時が来たら そこへ行き住みます これがいわゆる 生死からの 解脱です 簡単に言えばです

経典に沿って 言うなら 「極楽浄土へ行く」とか 「涅槃に入る」です 今 私達は涅槃 (最高の楽園)を 見つけられます 例えば 観音修行者には常に 涅槃(最高の楽園) を訪れてる人がいます 常に極楽浄土を 訪れる人も いるでしょう 常に自分の この肉体から離脱する 人もいます 出て行っては 戻ってくるのです 例えば 台北に 家があっても 台北が好きでは なかったとします 人口が多すぎたり 複雑すぎたりして 公害がひどかったり 生活費が高いからです むしろ高雄の方が 好きです 人口も少なく土地も あり色々な事が可能で 人々も単純です

これは単なる例です 台北が良くないとは 言っていません 私達はなおも台北に 住まねばなりません さしあたり 高雄の状況が 分かりませんから 私達にはそこに 家もありませんしね そこへ行き 路上で 生活はできませんから そこで 台北から 高雄まで電車で行き そこの土地を 調査して 家を買うか 建てるかします 家が建った後も まだそこに毎日は 住めません 仕事は台北ですから 私達はお金を稼ぐ為に 戻らねばなりません

時間がある時はいつも 高雄を訪れます ですから 常にそこに 通う事になります 家が建ったら 私達は別の仕事を 見つけねばなりません そして台北から高雄に 引っ越します 同様に 私達にはこの体があり それは非常に役に立ち 私達が一時的にそこに 住む事を許します そこに住んでいると 安全な感じがします ですが 私達は毎日 他の惑星に行けます それは仏教用語の 「境堺」と同じものです 他の宗教でもまた 同様に言及していて 神の王国のことです 私達はそこへ行き どの場所がより良いか 確認できます 永遠に続き いつか破壊される ことのない所 いつか 破壊されてしまう 体のない所 百年しか生きられない 体のない所です そしてその場所を 予約できます 死後 この体を 離れて そこへ行き 生きられるのです これが生死からの 解脱です

あなたはこの世に再び 戻っては来ません 生も死も 強要されません まるで牛のようです どこへ行こうと 人々に引っ張られ 全く権利がないような 不公平です 人間は宇宙で 最も偉大な 存在です 全宗教がそう言います なぜ偉大なのでしょう 私達は 自分達の住む所を 選択できるからです 動物にはできません 天使もできません 彼らには肉体がなく ただ周りを 飛べるだけですから それで私達には 肉体があり 宇宙を探索でき 戻ってもこれるです 観音法門はその機会を 提供していて それで私達は 生死から 解脱できるのです
マスター 仏陀の境地に到達する 機会を得るために 私達は人間の体を 持つべきでしょうか

どちらとも言えます 私達がこの人間の 体でいる時には 開悟したマスターを 持ち 良い法門を 学ばねばなりません 仏陀の境地に 一生涯で 到達するなら 私達には人間の体が あるからです 天使は人間の体を 持ちません それで 仏陀になれません それは確かです でも私達がこの体から 離れる時 まだ仏陀の 境地に到達していない 可能性もあります

しかし私達に在世の マスターがいれば たとえ阿修羅界か より低いレベルにしか 到達していなくても マスターは引き続き 私達がどこにいても 教えてくれます 後に 私達はなおも 仏陀になれるのです その時 私達は言えます 人間の体がなくても 人はなお仏陀の境地に 到達できると マスターどうか手短に ヨガ修行と到達できる 霊的レベルについて 説明して頂けますか

ヨガは大きな話題です クンダリーニは ヨガ修行の一種です

ただ修行の一種です このようなものです ミラレパの物語で クンダリーニの力に ついて聞きました それは背骨の 下部にある 力を蓄える 6ようなものです 背骨の底部近くです ヘビのようにそこに とぐろを巻いて 待っているのです 私達が霊修行をすれば ある方法が 多くのヨガの流派が 自然に飛び上がる ことを教える 特別な方法があります するとここまできます そうしたら一種の力を ある強い力を 持ちます そしてある程度は 悟ります 神通力を沢山 得るでしょう

しかしとても痛いです クンダリーニの力が 開かれ 急に発現したら それはとても痛くて 危険なのです 修行したいのなら 気をつけて下さい 良い教師を見つければ 何の問題も ないでしょう そうでなければ  障害を持ったり 精神不安定になります その修行は危険です ですから私は皆さんに 観音法門を提供します なぜなら 何も問題を 起こすことは無く 全く危険にさらす ことはありません 悪い状況は無く あなたに良い利益を もたらすだけです マスター 以前に ヨガを修行しました

その中に倒立する アーサナ(ポ-ズ)が あります それが瞑想に役立つと 言う人もいます 他の人は瞑想の妨げに なると言います 観音法門をしながら それをして良いですか 「逆さま」と言う 言葉を聞くだけで 目眩がしました どう言う意味でしょう 体を逆さまにすると いうことは足を 空中に上げることです それを観音法門と 一緒に修行をして 良いのでしょうか それはハタヨガです

あなたはハタヨガを 練習してもいいです それは霊修行でなく ほとんど体の 運動です 中国人は長い間 逆さに立つ この方法を 知っていたんでしょう オゥラック(ベトナム) 人も知っています ひっくりかえることは いいことです 時々 それは私達の頭と体の 循環を助けます 悪くなくていい事です それは運動です あなたはそれを 練習したらいいのに しかしハタヨガに 呼吸法があります それを練習しては いけません 他の全ては練習しても いいです

呼吸法を 練習すれば 三界の中に 束縛されるでしょう マスター 個人的に ガールフレンドと 結婚しましたが正式に 届けませんでした 印心を受けられますか 私は印心を 望んでいます 私を許してください なぜ結婚しているなら 印心を受けられ ないのでしょうか 彼は正式な過程を経て いなくて結婚する前に パートナーと 同棲しています できます 両方が同意する限りいいです なぜそれが 私と関係が あるのですか 私は人々に一緒に 暮す事を禁止しません つまり一度に一人の パートナーを持つこと あなたは正式に 結婚していません しかし両方は同棲する ことに同意しました

後に 結婚する時に あなたは一組です 一人の夫と一人の妻 あなたが走り回って 他の人を探すべきでは ないと言っています それ程厳しくないです 時代が違います マスター どのように 観音法門を私の日常 生活に応用しますか これは良い質問です 私達は社会のために 観音法門を修行するの ではありません しかし それは社会に 非常に役だちます 修行すればするほど より賢くなります より速く行動します より良い決断を します 私達は智慧を持って すべてをします 悪いことをしません

私達は常識で 正しく そして速く 物事を行います したがって もちろん 毎日 観音法門を 修行すれば するほど より私達の国 私達の商売と 仕事の利益になります これは確かです また私の教えは 毎日どう行動したら よいかを教え それを日常生活に 適用できます マスター 出家者になるには 年齢制限はありますか マスターに従い 出家したいと 思う理由が あまりに多くの時間と エネルギーを困難な 仕事をしたり 生計を立てるのに 費やす必要はなく 霊修行に 集中するという事なら 構いませんか 彼の言う意味は 彼は苦労を 恐れていません しかし人生で 霊修行できる 時間を持たないのを 恐れていて 彼は速く菩提に 到達したいのです あなたはできます でも耐えられないの ではと危惧します 毎日足を組んで 何になるのでしょうか

四種類の恩人に恩返し せねばなりません

もちろん 時には 夏の禅会等に 行ったりします その間 私達は中に 三カ月滞在します 外出せず 私は講義さえしません

時に 七日間の 禅会とかを 自分たちで 開催します 皆テントにいます 私達は中に五日 六日 一週間や二週間 いますが 私達は 働く必要があります

私のところでは 水を汲みに行ったり 薪割りのように 疲れる仕事は無いです そんな仕事は無いです 現代 私達はガスを 使うので何も 心配しないでいいです 掃除する床も ありません

拭く窓が ありません テントにいるからです 心配しなくて良いです 私達に参加するのを 歓迎します マスター 私はとても 道理的な人です 悪い人を扱うには どうすれば良いか 教えて下さい

彼らの心配をしないで 言葉を使って  彼らの心を動かし 変えられます その方が良いのです あなたが彼らを扱う 必要はありません 例えば 彼らに 私の講義に 参加するよう言います 良い話をし 道徳的な振る舞いを  教えるマスターを  知っていれば 彼らを講義に連れて 行けばいいです または 彼が特定の 宗教または良い団体が 好きと知っていれば それに参加するように 勧めればいいです 私の教えが良いと 思うのなら 彼に来るように 勧めるのもいいです この方法で 彼自身が変わります いつも人を動かすには 愛を使うべきです それが最善の方法です

マスター禅宗の 第六祖の経典には サマディに入るために 瞑想をする必要は ないと言われています マスター 観音法門は毎日 二時間半の瞑想が 必要とされています

その目的は何ですか

では眠りに行けばいい 私達が彼を誤解して いるからです 彼は瞑想をしました

神会が尋ねました 「マスター 瞑想中に何かが 見えますか」 彼がこう聞いたの (はい) そうです 彼が瞑想したことを それは証明します それで慧能は何と 応えたのですか 「瞑想ではものが 見えますが 何も見ません」

この話題について 話は続けません 彼が瞑想したと知って もらいたいだけです 彼が言う意味は 足を組むだけで 悟られないということ どんな無意味な方法で 修行しても悟る事は できません いいえ 不可視の法脈が あるはずです

悟るためには正しい 方法で修行しないと いけません 足を組むだけで 悟りは保証されません 静かに座るだけで 悟りは保証されません それが彼の意図です 瞑想してはだめという 意味ではないです 釈迦牟尼仏は どうですか 彼は一日中 寝ているのですか どの経典にも 釈迦牟尼仏は 瞑想をし 三昧に入ったと 言われています 彼が三昧から出て 弟子に あれこれと説法を したのですね (はい) はい 慧能は 同じ事をしました 彼は座っている時に 昇天しました 彼が毎日 瞑想していなかったら 座っている間に 天国へ昇天できるほど ひざが自由自在に なり得ますか 横になっている間に なぜ昇天しなかった のでしょうか

皆 瞑想していました 瞑想を通してだけ 心は静かになります

しかし 瞑想は 脚を折り畳んでする しかできないとは 言っていません 立っている間に 瞑想でき 横になっている間に瞑想できます お茶を飲んでいる間や 王様のように 椅子に座っても それでも瞑想できます つまり その時に  私達の中にある仏性を 見つけるために特別な 時間を取っておきます

それが瞑想です そして その後 それに慣れて 歩きながら生きながら 座りながら横たわって 瞑想できます だから 禅宗の 六祖慧能は 言いました 「禅は座禅に頼って いません」 彼を誤解しないように マスター 仏教の それぞれの戒律には 深い意味がありますか そうなら  なぜ尼僧は修道僧より 九八多く戒律が あるのですか 不公平ではないですか それは公平です 不公平だから 公平なのです 男性と女性は 違うからです なぜ男性より 女性の方が戒律が 多いのですか 当時の社会的 風習のせいです 人々の習慣は女性より 男性を優遇しました また 男性と女性が 一緒に住むとき 厳しい戒律は無く お互いが恋に 落ちているのです

その上 男性の体は 女性のとは 異なります

一つだけ例えましょう あなたは出家して いないので修行僧と 尼僧の戒律を 言うことはできません それでも 例えをあげましょう 仮に 戒律には こう言われています 本物ではありません 例として私が 作っています 男性は入浴中 短パンとTシャツを 着てもいいです それが戒律の一つだと しましょう 私達の戒律は とても似ています 衛生状態を 維持するものもあり 肉体や振る舞いに 気をつけます

どの戒律もそんなに 真剣ではありません 最も真剣なのは 殺さない 盗まない 邪淫をしない うそをつかない 飲酒をしない 化粧をしない 音楽を聴かない 踊らない 歌わない これはとても 重要なことです 僧侶の戒律であれ 他の戒律であれ 体や風習と 関連します

ですので 釈迦牟尼仏が 僧侶達に短パンを はいて 沐浴し泳ぐことを 認めたとすると 女性はどうでしょう 彼女達は ショートパンツの他に 長ズボンと 外側にローブまで 着なければなりません だから体は 露出しないのです

だから 沢山の規則があります そうでなければ 大差ありません 特別な意味は ないのです

マスター 人が 神々の像を 拝む場合 普通は法師を招いて 開眼してもらうのです 法師に開眼してもらうと 本当に効き目が あるのですか

または誠心誠意祈ると ご利益があるのですか なぜ法師に あなたの智慧を開いて もらわないのですか その方がいいでしょう 考えてみてください 木切れで彫ったものが 法師に触れた後 神になれるとしたら 私達人間が触れられた 後神にならない はずはありません この方が簡単でしょう なのになぜ木で彫った 神を拝むのですか しかし この問題の答えを このように言うと 皆さんは納得 しないと思います 私は分かっていますが 皆さんよく 分からないでしょう 説明しますと こういうことです レベルの高い マスターは 石ころを金に変えたり 何でも仏陀に 変えることができます これは本当です 嘘ではありません

だから皆さんは ある法師は石を金に 幽霊を仏陀に変える などの話を聞きます 何でもできるのです 造物主だからです 彼は創造の パワーを持っています 造物主を代表するので 何でもできます ただその種の法師を 先ず見つけることです そうでないと 木切れはあくまでも 木切れです パワーがないからです ただ低いレベルの 魂を招いて くるだけです 仏陀が来るのは 見かけません 悪魔がきます 悪魔が中に入ります なぜなら私達が中へ 招いたからです ですから 木で彫った神々に 開眼してもらうことは 役に立つ事もあります ただ高いレベルの 法師にしてもらって 始めて高いレベルの 神を招く事ができます

そういうわけで ほとんどの場合私達が 神々に祈っても 効き目がないのです またはあるにはあるが 僅かなご利益です 三界以内の世界の 福報くらいです 私達を生死から 解脱させてくれません それらの神々は それだけの力が ないからです それらの法師には 高いレベルの神を 招くだけのパワーが ないのです だから何のご利益も 得られないのです

マスター 人は皆 仏教は悲観的で 迷信的だと言いますが 私が見るからに あなたの弟子の中には 博士の学位や 修士の学位を 持っている人もいるし 病院の医師も 沢山いて エンジニアや 建国高校の 教師や 台北第一女子学校の 英語の先生もいます 彼らは教養があって 科学的教育を受けた 人達です これは仏教は 大変科学的だという 事を証明するのですか そうです ただ真の仏教は 仏陀の法を 含めていなければ なりません そうでないと仏教の 道理に過ぎません

仏教は仏陀の 教理です その教理は 釈迦牟尼仏が説いた 教理を言い伝えた ものです 私が今話を しているのと同じです

法を伝授してこそ 法を伝授してこそ はじめて その時点で本当の 仏法(真の教え)を 習うことになります 私の弟子は 仏法(真の教え)を 習っています

彼らは科学的で 論理的で最先端の ものを信じています

マスター 印心を 受けた後 五代の先祖が 超昇するとあなたは 言いましたが なぜ 八代とか 十代の先祖では ないのですか 私が沢山の数字を いうと信じてくれない 恐れがあるからです 五代の先祖といっても 皆は信じないのです 八代も九代も 十代も 問題ありません 無数の先祖が 解脱されます あなたの 親戚友人や どなたでも皆さんが 愛する人なら 皆超昇します 五代 六代 七代 だけではありません 数を言っただけです 五、六代でもいいです

八代の先祖というと 後から人はまた なぜ十代ではなく 八代なのかと聞きます 十代というと人は またなぜ十代なのかと 聞くでしょう なぜ百代ではないかと それでこの質問は きりがありません マスター 軍人と警察は 敵を殺し 農夫は農薬を使い 病人は薬を 服用し 薬を塗ります いずれも殺生 しなければなりません マスター これらの 人達も印心できますか 彼らは障害もなく 順調に修行できますか 彼らは解脱できますか できます 肉のために殺した わけではないからです

区別することです 憎しみのために殺した わけではありません それは彼らの任務です 他の人と 違うのです 彼らは自分の体を養うために他を殺します これは違います

私達は動物を殺さなく ても死にません

動物を殺すよう 強制されていません

動物を殺さなくても 生きていけます

医者も同じです 薬を使って患者の 病気をしばらくの間 治さねばなりません 殺生が好きでやった のではありません 味覚を 満足させるために やるのではありません これは違うのです

軍人や 警察は 修行者を含めた 国家を守らなければ なりません 国が戦争でも 国が戦争でも した場合安心して 修行できません なので軍人は殺生を 強制されたのです

好んではいません

これは状況が 違うのです ですから彼らも 印心できます マスター 極楽世界 究極の レベルに達するには 必ず菜食しなければ なりませんか 菜食することです 霊修行者だからです たとえ観音法門を 修行しなくても あるレベルに 達すると 肉食者が 修行者で肉食している 人を含めて罰せられて いるのをはっきり 見ることが出来ます その時は 恐ろしくなって 肉食をやめるでしょう そうでないと因果から 脱出できません

原因があれば 必ず結果があります 私は嘘を言いません マスター 印心した人と 本性を知った人は どう違いますか 音流と仏性は 同じことですか

そうです 印心を受けると本性を 知ることになります この二つは一緒に なっています マスター 私は 小学校を出たのですが どういうわけか 詩を書くことも 人々に善行をし よい事をするよう 勧める歌が作れます なぜだか教えて いただけますか 私の内面に何物かが 入っているのですか 私に良くないですか なぜ良くないですか 人々に善を勧めて なぜ悪いのですか 彼は自分には才能が ないのに 内面に一種の力があり 詩を書くようになった と言っています 彼に悪影響が及ぶのを 恐れています

良い事をするのは いいことです これに執着しないこと 自分がやったと 思わないければ 悪いカルマ(報い)は ありません 傲慢にならなければ 悪くありませんが 傲慢だとよくないです 必ずそうです 傲慢だと 問題が生じます マスター 一生懸命 菜食料理を研究し 美味しい 菜食料理を作ると 家族が一緒に 菜食をすることに 役立つでしょうか 助けになるでしょう やってみて下さい もちろん 美味しい料理なら 人は食べるでしょう 美味しくないと 誰が食べますか ほとんどの人が 菜食できないのは 彼らに合った料理を 作る有能な料理人が いないか料理法が 分からないからです 彼らは 菜食とは青物を食べる ものだと思っています 彼らは心配なのです 栄養不足になるのを 恐れています

出家者達を見て下さい なかなかいいです 顔がつやつやで 健康そのものです 色んな料理法を知って 人々が美味しく 頂くよう作らなければ なりません マスター一般的に 言って霊修行者に とって慈悲心を 培うことは大切です 慈悲心は 大変重要だと 言えますが 家に 害虫がいたり 毒性のある虫や 伝染病を移す 害虫がいるとしたら どうしたらいいですか 撲滅しますか それとも保護しますか よく分かりません 観音法門の修行者には そんな問題は ありません 害虫は 自然にいなくなります

自分で対策を 考えて下さい マスター 全ての人は死ぬとき 光を見ますか なぜ彼らは時々 戻ってくるのですか つまり何が彼らを 戻らせたのですか どんな光と 色ならいいものですか その光は魂の光です 私達の主たるものです この世界に戻って 来させる力は 私達の磁場であり カルマ(報い)です 私達のカルマ(報い)は磁場に しっかりついて 一種の力を形成します

そしてひとりでに 一種の力に変化します 自分の 認識と過去に 記録された行為に よって変化されます

そして私達は 今のようなったのです 私達の主たる魂は 前世からの魂は 別の所へ行き もう一度肉体に 戻ってきては 苦しみや悲しみ 善悪を経験します 全てカルマ(報い) なのです マスターキリスト教は 人間が輪廻することを 信じません なのになぜ仏教と類似 するというのですか

似ています 聖書にはこう言います 蒔いた種は 刈らねばならない その意味は 何をするにしても それ相応の結果が 出るということです 彼は全ての人が 神の王国に行くとは 言っていません 皆さんは完全に 研究していないから そう思うのです

マスター 観音法門は 本を読んで修行する ことができますか

冗談でしょう 本を読んで 観音法門を習うなんて できるはずありません 法脈は 教理とは別に あります

法を伝授するとき 法を伝授するとき 私は言葉を使いません 皆さんはそこに 私は ここに座って黙ります 本を読むなんて ことはありません マスター 人生の意義は 肉体的な感情を 断ち切り 快楽や悲しみに 対する執着を 断ち切ることですか

そうです しかし そうでもありません そうすると 石になってしまいます これはいいでしょうか

私達は 喜怒哀楽に対し 執着しませんが まだ 感情は持っています そうでないと 人の気持ちに同情する ことができません

修行した後何もかも なくなってしまう わけではありません それは違います 依然持っています ただそれを気にかけず 執着しないだけです できるだけ人を助け 人の考えや気持ちを 理解しようと 努力します マスター なぜ済公生き仏は 肉を食べ  酒を飲むのですか  特権があるのですか 彼は極楽世界に 行けますか

彼の本にはっきり 書いてあります 済公生き仏は自分で はっきり説明してます

自分は肉を食べないと 神通力で肉を 作り出して人を 楽しませるためです そうですね(はい)

済公生き仏は 決して肉を食べないし 酒も飲みません 酒も飲みません 彼の話を読むと 時々出家者が 彼が持っている酒の ボトルをひったくり ますが何もないです 肉をひったくりますが 瓢箪に変ります 肉のついた骨が 瓢箪に変ったのです 彼にはあらゆる種類の 神通力があり 途方もない 神通力があります だから 生き仏なのです 彼が食べているものは 本物でありません

二〇〇九年 十月二二日の「有機ビーガンで 繁栄し 気候変動から 地球を救う」という スプリームマスター チンハイ国際団体が 主催する 会議の中で 貴賓として スプリームマスター チンハイは気候変動 から地球を守るために 有機ビーガンになる ように奨励しました