私にとって 神や仏性を 見つけることは わりと簡単でした 世事を処理する方が もっと大変です ですから 内面の神の王国や 自分の仏性を 見つけることは とても簡単だと 思います しかし車の運転は 私にとって とても難しいですし 彼のように通訳する のは難しいです なぜ内面の天国 つまり仏性を 見つけることは 簡単なのでしょうか なぜなら聖書に 神の王国は汝の内面に あるとあります そして 仏典にも仏陀は 汝の内面にあると または汝の心にあると 書いてあるからです 誰もが神は私達の 内面にあることを知り 耳にしていますが 時々私達は これを疑うのです 私達はこう考えます 「神が私達の内面に あるとしたらなぜ 見ることが出来ないか 仏陀が内面にある としたら なぜ 見えないのか」と 原因はとても簡単です

私達は常に 外を見ていて 内面を見ないからです ではなぜ外ばかり 見るのでしょうか それは私達がこの世に 生きているからです 色んな仕事をせねば ならずそれに専念 せねばならないのです 例えば 花を切り取る場合 まず花がどこにあるか 見なければなりません そして注意深く 折れないように 切り取ります またはエンジンや コンピュータを修理 するときも注意力を 集中して修理せねば なりません 私達はこの非完璧な 世界を受け入れねば なりません この世界が完璧で ないのではなく とても完璧です 完璧な人の目には 完璧です 完璧な見方で 見た場合 この世界は完璧です メガネをかけた場合と 同じではっきり見え メガネをかければ この世界が はっきり見えます 黒やピンク 黄色の メガネをかけると 世界は黒にピンクに 黄色く見えます ほとんどの場合私達は 神を忘れています 悩みや苦しみや悲しい 場合を除いてです でもほとんどの場合 それを思い出すのは もう遅いです ですから多くの人は 私と同じように 常に神または仏陀を 覚えていると 決して 間に合わない事はない と分かったのです どのようにするかは とても簡単です 私はインドの経典で こんな話を 読んだことがあります ある偉大なマスターの 神が いかに出家者や 在家の人を愛している かについての話です

両方とも神を崇拝 しますが神はどちらを より愛するでしょうか それで神は「在家者を より愛している」 と言いました なぜ在家者をより 愛していたり 彼らの敬虔さに 出家者より感動させ られるのでしょうか 私が出家者と言うとき 尼僧や僧侶を意味し 人と言うとき 男性と女性を 意味します 私達は男性主導社会に 慣れているので この 考え方を使っています 女性がこれで傷つか ないよう願いますね 神は言いました 出家者が全てを手放し 私を崇拝することは 神を崇拝することは 当たり前のことだ 彼らには時間があり ごく自然なことだ そうすべきで そうあるべきで その義務がある 彼らにとって問題なく しかし在家の人は 沢山の負担や 多くの誘惑に囲まれ その中を泳いでいる 彼らは誘惑の中で 泳ぎながら 私を 神を覚えて 私を崇拝するために 現実と闘っている 従って 彼らの献身的な精神に 感動するのだ 私を覚えてる事は中々 できることではない」 分かりますか 神が彼らを 区別するのは こういうわけなのです この話が私達に 教えていることは 神にどれ程供養したか ではなく どれだけ誠意があるか だと思います 誠心誠意崇拝し 内面の神や仏陀を 覚えていることです

その場合 私達は 毎日何をしますか 私達がそうする時 それは神や仏陀を 覚えていることです 神や仏陀は私達の 内面にあるからです これを覚えていない ということは凡夫だと いう意味です 覚えていれば それは 聖人だという意味です こういうことです この話は私達に 神や仏陀は私達に 出家者になって ほしいとか いつも神を覚えていて 欲しいわけでもなく たとえ一分でも彼の 名前を覚えてるべきだ と教えています 忙しい合間でも ほんの暫く神や仏陀を 覚えていられるだけで 重要なことです ちょうど私達に 沢山のお金があって 十万ドル寄付したとし お金が少ないのに 一万ドル寄付したとし 両者を比較した場合 一万ドルの方が 十万ドルより 偉大なこともあります

従ってこの物語の 結論としては どれだけ神に供養し どれ程長く神を覚えて いたかでなく どれ程 敬虔かによります これは 私達がお金持ちで 十万ドル寄付しても 誠意がないかも しれません  お金持ちにとっては 十万ドルは 大した金額では ないからです しかしある人は そんなにお金を持って いませんが 真摯に 人々を助けたいと願い 敬虔な心があれば 一万ドルの方が そのほうが もっと価値あります 従ってこの話は私達に どんな状況でも 常に神と内面の仏陀を 覚えているべきだと 教えています もちろん尼僧や僧侶は もっと努力し誠心誠意 奉仕しなければ なりません 在家の人は 忙しい日常生活で たとえ一時でも おいて例え一時でも 神を覚えていれば それは得がたいのです 私は皆に保証します 神のメッセージは 誰であれ神を ほんの一時でも 覚えていた人は 特にこの世を 離れる時 この世界は離れるとき つまり死ぬ時 神や仏陀を 覚えている人は 必ず天国に行きます これは神と 仏陀の約束です

神と仏陀は私達に 誰であれ たとえ ほんの短い時間でも 彼らを覚えている人 特にこの世界を 離れていく時 依然として神と仏陀を 覚えている人 誠心誠意祈る人は 必ず解脱します 「解脱」とは 仏陀の浄土に行くと いう意味です そこはとても 幸せな場所で人生の 苦しみはありません クリスチャンは それを天国 または 神の王国と呼びます 仏教では 涅槃または 西方浄土と呼びます 地域によって異なる 呼び方をしています 例えば私達はこれを 「ボン」と言いますが

彼らは「花」と言います

従って涅槃または 神の王国は 同じ意味です ただ異なる国で 異なる言い方を しただけです 従って 私は神と仏陀を 同時に崇拝することが できます そして誠心誠意 神と仏陀を 同時に拝んだあと 自分が神や仏陀と 一つになって 自分も 偉大な存在になります これが 仏陀や イエスや クリシュナが 偉大になった方法です 秘訣はとても簡単で 誰でもできます

私達が常に神や仏陀 などを覚えていれば とても敬虔な心で 崇拝すると いつかは 神や仏陀と一つになる 感じを得ます そして

私達は偉大な存在 仏陀やイエスや他の 聖人のようになります これが仏陀や イエスのような存在に なる秘訣です

誰かインドのスリ ラマクリシュナの話を 聞いたことが ありますか  今は仏陀やイエスの 話はしません 私が 皆をキリスト教徒や 仏教徒になるよう 勧誘していると 思われないようにです 私は小さい時から 両方影響を受けてます 勧誘しません 皆さんはすでに 仏教徒で すでに キリスト教徒です 生まれながらそうです 生まれ変わって再び そうなる必要はなく 生まれつきです ええ キリストの力で 生まれ キリストの力から 生まれたのです 生まれ変わる必要なく そのままで  自分の偉大さを 覚えていればいいです

次は 少し インドの宗教について 話したいと思います いつまでもイエスや 仏陀の話をすると 私が皆に仏教徒や キリスト教徒になる様 強要していると 思われるからです 皆さんは私が仏教や キリスト教 二つの 信仰を持つ家庭だと 聞いたので 私が皆を 仏教徒やキリスト 教徒になるよう強要 していると思われる 恐れがあるからです その必要はないです 私達は 生まれつき キリスト教徒で 生まれつき仏教徒で 仏性から 生まれたのです 私達は仏性から生まれ キリストから 生まれたのです 従って私達は小さい 時からクリスチャンで 仏陀の子なのです 私達は仏陀になるため またはキリストの子に なるために 生まれ変わる 必要はありません それらの人達はそれが 好きで 笑っています

スリラマクリシュナは 初めはバラモンでした

ラマクリシュナは インドで大変有名です 彼はバラモンの家庭に 生まれ ヒンズー教に 属していますが 元々はバラモンでした

最初は 彼には 先生がいませんでした

彼には教えてくれる 先生がいませんでした 最初は 先生はいませんでした 彼は寺院に通いました ヒンズー教の 寺院に行って 礼拝したのです 仏像に ヒンズー教の仏像に 礼拝しました

彼は毎日寺院に行って ヒンズー教の カリ聖母を 崇拝したのです カリ聖母は 破壊と 恐怖と否定の象徴で 彼はずっと 彼女を崇拝しました インドの人たちも 彼女を崇拝しています 彼は誠心誠意崇拝し 盲目的に崇拝しました ある日 聖母が彼の前に現れ 彼に色んなことを 教えました そして彼は聖人になり もっと智慧に満ち いろんなことが分かる ようになり 宇宙の 全てのことが分かる ようになりました

彼は誠心誠意 その仏陀を拝みました 一人の聖人 その女神は 死と破壊を 象徴するもので でもインド人はこれを 区別しません 破壊神も創造神も 崇拝します 彼はとても敬虔で 心は純粋でした 従ってその女神を 崇拝する時も 大変敬虔でした 大変敬虔でした ある日その女神が つまりその仏陀が現れ 彼に聖人になるための 道を教えました その後 彼は生命の 全ての秘密が分かり 聖人に 仏陀になったのです

彼はとても有名な 現代の聖人の 一人になりました 彼の話は大半の人は 聞いたと思いますが 聞いていますか 大分前に往生しました しかし いまだに とても有名です 知ってますか ええ いい事です 先生がいなくても 敬虔な心によって 彼は神を知りました 彼は神と繋がり 面と 向かって見ています 私達もそれが できればいいのです しかし できない人もいます できない人は 別の方法があります 私達は すでに神を見ている人 神と繋がっている人を 見つけて 彼らに 恵みと助けを 求めることです

ある人は仏陀を拝んで すでに仏陀から 世話になっていて 仏陀と面と向かって 見ることができ 仏陀になっています これは大変 素晴らしいことです

しかし大多数の人は そう幸運ではなく 彼ほど 敬虔ではありません 恐らく彼は世々代々 修行したと思います だから先生が いなくても仏陀になり 聖人と面と向かって 見る事ができたのです 私達の大多数は 心が粗く 気が散っているため そんなに速くは できません でも方法があります 私達は神や仏陀の 加護を得ている人を 見つけて 彼らと面と向かって 座り または時々 彼らを訪ねて行って 彼らの加護に 少し頼ることです これを 影響を受ける 分かち合うと言います 香水をつけている人の そばに座ると 自分も 香水の香りがするのと 同じで 森の中に 白檀の木を植えた場合 一本か二本の木でも 森全体は 白檀の香りで いっぱいになります 他の木も 白檀の香りが するのです 本当に奇跡的です 白檀の木のように 貴重な木に 思われるのです これはその特別な 品性のためです 分かりますか この世界で極少数の 人がそのような 特性を備えています さっき言った バラモンの人です この人はインドで 大変有名で世界的にも 有名な人です 彼が存命に時はあまり 有名ではなかったです 往生してから 彼の弟子達が 彼の教えを広めました 今は皆に知られていて さっき彼を知って いるかと聞いたら 皆が知っていたのです 私は一部のオゥラック (ベトナム)人が アメリカまたは他の 西側の国に来たことを 大変嬉しく思います この国は文化や 精神面で 大変開かれています 強いられることもなく 見解も狭くありません

私はオゥラック (ベトナム)人に 一部の人がアメリカや ヨーロッパの国々に 来たことを 大変嬉しく思うと 言いました それらの国では 教育体制や 宗教の信仰は とても開放的で 人々は色んな 宗教を学び 様々な考え方や 異なる学派の思想を 学ぶことができます これは素晴らしく 人々に有益です

私はフォルモサ (台湾)に六年か 七年間いましたが 最近になって 有名になったのです 約二年前です 私は突然 有名になりました 訳が分かりません 私が望んだわけでは ありません しかし 五、六年後に突然 有名になって 私は 驚きを禁じえません これはどうでもよく コスタリカに行くまで 私は驚きませんでした コスタリカで 私は初めて経の講義を したのに一夜にして 有名になりました フォルモサでは 六年もかかりました

コスタリカでは一日で 私は生ける神と 呼ばれたのです 私は前と何の 変わりもないのです 私が驚くのは 国によってこんなにも 違うということです 生ける神と呼ぼうと 生ける魔物と呼ぼうと 私にとっては 何の違いもありません 自分は自分の価値を 分かっているからです 私は人の評価に 頼りません

私はアメリカに来た オゥラック (ベトナム)人に アメリカの教育制度や 宗教信仰に対する 観念がやや開放的で 「気前がいい」 と言いました

私は台湾に六年か 七年もいましたが 有名ではなかったです ですが中央アメリカに 行った時は一日で たちまち 有名になりました 彼らは私のことを 生きた聖人とか 活き仏と呼びました 台湾では五年、六年 七年もかかりました 私のことを活き仏と 呼ぼうと 生きた魔物と呼ぼうと 私にとっては 何の違いもないと 言いました 私が驚いているのは 物事は国によって こんなにも違うのか ということです その違いはこんなにも 大きいのです ある国では 一日で 彼らは 私の前の経歴も 知らない状態で 私が少し 言葉を発しただけで  私を活き仏と呼び 別の国では五年も 六年も七年も 懸命に仕事しても 成功できませんでした そこで私は 西洋の人達は より 大らかだと思いました

私はアメリカに このような開放的な 国土に戻って来て とても嬉しかったです 大きく深呼吸をし 解放感を感じました けれども困難に 遭ったからといって 中国やフォルモサ (台湾)を諦めた わけではありません ただ皆さんに国に よって大きな違いが あると言いたいのです 皆さんの国が 開放的で 自由な国であることを 祝福します 生命は尊重され 全ての宗教は各々 自分の可能性を十分に 発揮しています

私はアメリカに このような開放的な 自由な国土に戻って とても嬉しかったです 人間の価値が尊重 されるところで 全ての宗教は 人類に貢献するために その力を発揮していて 私は呼吸しやすく 感じるのです 私はフォルモサ (台湾)とか中国を 去る理由は 決してその国が 開放的でないからでは ありません

アメリカ人や ご在席の皆さんが よく分ってくれたので 嬉しく思っている ということです 皆さんがこんなに 自由な国に住んでいる ことを嬉しく思います

さて 私達は神から 人間まで話しました ここで終わるのでは ありません 今朝ステージに 上がる前私は 「神様 あなたについて 何を言えば いいのでしょう 全てご存知かも 知れない」と考えて しかし私はやらねば なりません 既に今日 手配されている事です 私の弟子と 修行仲間たちは 私の出席が どうしても必要だと 思っているのです もしかしたら 皆さんの善良な本性と 潜在能力と 最高のパワーを喚起し 希望を捨てないよう あなたがすでに この道にいるとしたら 二度と忘れないよう 喚起できるかもしれず なぜ是非 神を覚えている必要が あるのでしょう これは 唯一の あらゆる 苦悶と全ての圧迫感と 意気喪失 悲しみ 苦しみを離脱する 方法です いったん神を知ると 私達はどんな事にも 動揺せず 私達を恐れさせる事は 何一つなく 非常に安全感があり 愛され守られます

ここに来る前に 私はこのステージに 上がって何を話したら 良いのかと言いました 観衆の皆さんはすでに 分かっているかも 知れません 彼らはすでに自分の 内面の仏性や神の 王国を見つける方法が 分かっているかも しれません 壇上で何を言えば 良いのか 退屈したらどうしよう

しかし私はやるしか なかったのです この国の弟子達が 私を招き 私はそれに 応じて来ているのです 壇上に上がるだけです 私が壇上に上がり 同じ事をもう一度 話すのも悪くないし 場合によっては まだ自分の仏性や 神の王国を見つけて いない人がいても 再び思い出し 二度と 忘れずにいられるかも 知れないと思いました 皆さんが すでにその過程を 見つけた人は 後ずさりしないで 忘れないで欲しいです 神に感謝することです なぜ神を覚えてないと ならないのでしょうか それは 神を覚えていないと 私達は孤独で あらゆる生活の 惨めさに圧倒されます 堪えられなくなるまで 圧迫されます 神を覚えていれば ある日私達が開悟し 自分の仏性や 神の王国を知ると 私達を圧迫するものは 何もありません 何も私達を怖がらせる ことはできず  後ずさりさせられず 苦しみもなく そう簡単に私達を 揺さぶれません 従って 幸せになり 自由自適な感じを 得たければ必ず 神を覚えている事です 常に神が私達を助け 守ってくれていると 思うことです しかしそう考える事が 難しい時があります 私達が自分の内面の 神がどんなものか 仏性がどんなものか 実際に見なければ 時には 少し動揺することも あります 従って私達は毎日 瞑想して仏性の特性を 研究せねばなりません

私たちがこの目で 自身が持つ神や 仏性を一回か二回 見ていない限り 少なくとも時々 いわゆる 神や仏性の最高の パワーを一見しない 限り 神を信じるのは 難しく 神や 仏性に対し 揺ぎない 信念を持つことは 難しいと思います だから私達は 神を忘れたり 信念が揺らぐのです だから 開悟が必要で  神と直接につながる 必要があるのです 信念は神と接する 第一歩です 第二歩は 最も重要で 直接神と繋がる事です これは私達の両親が 私達に沢山の財宝を 残してくれたことを 知っていますが  見ていないと信じられ ないのと同じです 人にこれを話す時も 慎ましやかで  依然として貧しく 一文なしで自信もなく 立派でもありません 自分に財宝がある事を 人に 信じてもらえません

これは私達に沢山の 財宝がありますが それを見ていないし 開けて見ていません 従って人に これを話す場合とても 慎ましやかで自信も ありません 自分には 金があると言っても 大富豪の振る舞いは できません 大富豪は自信に 満ちた口調で話し 人々は彼の話を すぐ信じます しかしお父さんから 財宝を受け継いで いることは 知っていますが 見たことがない場合 その話をしても 説得力がありません 説得力がありません 従って自分の財宝を 必ずみてこそ 少しは自分のために 使うこともできれば 違った振る舞いも できるのです

いったん 両親が残してくれた 財宝が見つかると 私達は自信に満ちた 振る舞いができる だけではありません 人と接するとき自信に 満ちた態度をとる ためではなく 財宝は 私たちに役立ちます 様々な面で役立ちます 宝物を 奥にしまっておくと 何の役にも立ちません 飢えて少しばかりの お金のために毎日 働かねばなりません 同様に 財宝の偉大な力は あなたには想像も できません それは 内面にあり 私達が 使うのを待っています この世界で ごく少数の人しか このパワーを使わない としても この世界を すでに天国に することができます ただ極々少数の人しか この力を使いません ごく少数の人しか 使っていません仏陀や イエスやソクラテスや クリシュナ ムハンマドなどです ごくわずかです 近代にも 何人かいます スリラマクリシュナ ヴィヴェカナンダ パラマハンサ ヨガナンダなどです これらの偉大な人は 自分の偉大な力の 使い方を知っています それが一般人と 違うところです 大多数の人はそれの 使い方が分かって いないために 凡夫で 不幸で 無力なのです 自分も他人も助ける ことができません 違いはこれです

私達と仏陀 その他偉大な人達の 違いは 彼らは自分の仏性を 運用でき 神が いわゆる内面の 神の王国が または 内面の仏性が 私達に与えてくれた 力の運用方法を 知っているのです でも私が言ったように この世界で何人かの人 一部の人だけでも その力の運用方法を 知っていて その智慧の運用方法を 分っていれば 私達の 世界はとっくに天国に なっていたでしょう この世界の人が全員 その力の使い方を 知る必要はありません ほんの一部で十分です 残念ながら余りにも 少ない人しか自身の 本性の運用方法を 知りません ほんの 一握りの人だけです 例えば 仏陀 イエス ラマクリシュナ 近代では ヨガナンダ ヴィヴェカナンダ ラマクリシュナです オゥラック(ベトナム) にも何人か聖人がいて 例えばつい最近の カオダイ聖人です 以前にも 仏陀がいました つい最近 預言者 フイン フー ソーや その他の聖人ファム コンタックがいます つい最近の預言者で もっといます 他にもいますか ココナッツ聖人です ココナッツ聖人ですか 素晴らしいです ココナッツ聖人は既に 仏陀になったのですか

素晴らしいことです オゥラック(ベトナム) 人で仏陀になった 人がいて大変 素晴らしいと思います 彼はとても有名だと 聞いています 素晴らしいことです 嬉しく思います

オゥラック (ベトナム)にも 在世の聖人が何人か います その一人を 現代のココナッツ聖人 と呼びます なぜココナッツ聖人と 呼ぶかというと 彼はココナッツの 木の下に住んでいて 社会との交流が ありません 自分を分かる人は誰も いないと思ったのです そうですね

たぶん彼は誰も自分を 分かってくれないと 思い ココナッツの 木の下で孤独に 座っていたと思います 私達が 道を得た場合  本当に孤独を 感じます この世界で 道を得た人は そう多くはありません 何を言っても 分かってくれる人は 多くありません 中傷しないだけで もう良い方です

だから私達の世界は いまだに深い苦難と 紛糾でもがいています 私が皆さんと 自分が学んで 熟達している秘法を 分かち合えば 皆さんが自分の偉大な 力を運用する方法を 知る手助けができて 皆さん自身と友人 皆さんの国の助けに なるかもしれません 最も重要なのは 宇宙全体にも 有利です 私の開悟の目で見ると 全宇宙は 宇宙の全ての存在は 互いに関わりあって いるからです 私達の本質は同じで 私達の本質は同じで 私達は一つなのです 私は本で読んだのでは ありません この目で見たのです 従って あなたが 苦難の中で生きてると 思うとしたら 生活がうまくいって いないと思うとしたら 神に見捨てられたとか 自分の目でまだ神を 見たことがなければ 助けさせて下さい 私達と共に神を見ると 神が見つかり あなたも私や 私達の修行仲間と同様 幸せになります これを私たちは 複数回試しています すでに数千人が 試していますが 失敗者はいません 私達が伝授した法門で 失敗した人はいません 従って私はますます 誰でも信念をもって 私達の所に来て 修行すれば 数日で ひいては 一日で大きく 変わると 確信しています あなたにはすでに 良い法門と 良いグルがいて すでに開悟して 神を見ていれば それは素晴らしい事で めでたいことです まだなければ まだ疑わしければ 私達の法門を試して 見て下さい 以上です

私は自分の目で 仏陀の目で第三の目で 見たと言いました 全ての衆生は一つだと はっきり見ています 私は経典を読んで 皆さんに 話しているのはなく この目で見たのです ですから私は 人を助けることは 自分を助けることだと 信じています 人が苦しんでいれば 私も苦しいのです 全ては互いに 関わり合っています 数千人の 私の弟子達が この法門を修行して 開悟し 利益を得ています 初日に 二日目に 三日目に たった数日で ひいては一日目に すでに利益を 得ています これは彼らの レベルによります 利益を得ない人は 誰もいません 苦痛が少なくなって いない人は 誰もいません 開悟していない人は 誰もいません 従ってこの法門は 素晴らしい法門だと 私は信じています どなたでも すでに開悟し すでに真理を得て すでに内面の祝福を 得ていれば  嬉しく思います あなたは自分の先生や マスターのことを 研究する必要は ありません  自分がすでに 開悟したと信じ 幸せで 満足していれば それは素晴らしい ことです あなたが開悟してなく 依然として 自分の仏性を疑い まだ苦痛を感じ 内面の平和に 欠けていて 開悟していなく 仏陀の光と 仏陀のメロディーを 聞いていなければ 私達と学んで下さい 私達はあなたと幸福の 瞬間を分かち合い あなたの苦痛を減らし あなた自身を助け すでに他界した両親や 先祖を助ける ことができ あなたの 将来をも助けます またあなたの国や 宇宙に平和をもたらす 手助けもできます 私の話は 以上で終わります

これで終わります 私の話はここまでにし 質問を待っています ありがとうございます 結婚は夫と妻の 神聖な結びつきで あるとしたら そして夫は あなたの霊修行に対し 協力的であれば また多く聖人や マスター達は 結婚していながら 開悟しています なぜあなたはご主人 から離れたのですか 彼はあなたと共に 開悟することは できないのですか 結婚の形ではなく 少なくとも兄弟や 協力的な 仲間の形では いけなかったのですか おっしゃる通りです あの時私はまだ 開悟してませんでした 私は神を求めることに 夢中で 世間の苦痛を 減らしたかったのです 私は夫や多くの責任を 抱えては達成できない と思ったのです 全てを手放すと 神は私を同情し 私の誠意を分かって くれると思ったのです 全てを手放さないと いけないと思いました 皆さんはそうしなくて いいです心配ないです 手放さなくていいです さっきも言いましたが それでいいのです 私はこれでよくて 彼は彼で よかったのです 彼には彼の仕事があり 私には私の仕事があり 私はこれで人々に 奉仕するのが最良です 赤ちゃんがいると 皆はどう思いますか 経の講義をしながら 赤ちゃんにミルクを 飲ませるのですか それに夫の協力が あるとしても 夫としての要求が あるわけです 分かりますか

私は日夜 世界中を飛び回り 人々に奉仕することは できません 他のマスター達の ことは分かりません 私の場合は違います 人によって違うのです 在家の人でよければ 在家でいいし 全てを手放したければ 全てを手放して いいのです 世界には様々な人と 様々な異なる分野の 人達がいて 奉仕を待っています 夫と別れたのは 人々に奉仕する ためです 嫌だから ではありません 悪い動機では ありません 分かりますか 動機をみることです 何をしたか そして結果はどうかの 問題ではありません 私の夫は私を誇りに 思っていると思います 彼はそう言いました 今 彼は幸せだし 私も幸せです 一人や二人だけを 世話する生活は 私は好きでは ありません 私は 全人類に奉仕せねば なりません 彼は協力的ですが 今私一人の方がより 多くの事ができます 分りますか 在家ではどんな所でも どんな国ででもいつも やりたいことかできる わけではありません  在家の人の限られた お金ではできません 義理の姉妹や 姑に誕生日の プレゼントを用意する など こういった 雑事をしていると 皆さんに奉仕する 時間はあるでしょうか 私は有名になってから 毎晩仕事をしています 時には午前 二時三時まで 印心したり 人々の世話を しています そして五時には 起きて瞑想します 夫の世話をする暇も ありません 昼間は家にいないし 夜はずっと人々と 一緒で 朝は瞑想です 子供が欲しく 妻の世話を 求める夫にとっては これはいかがな ものでしょう 私は完全に人々に 奉仕したいのです

ええ菜食になることは この大問題に大きな 影響を与えられます それは生物多様性の 損失のことです
私は開悟について 混乱しています 開悟はただ自分が 開悟したと分かって いればいいのですか いいえ 実際に開悟しなければ なりません 開悟すること自身に 重要な意義があります 開悟とは光を意味し 光があり光を発する ことであなたの内面に この光を持っていて この光が発すると 開悟したのです 開悟とは 神の光を見たとか 神の声を聴いたという 意味です 神の声は 人間の言葉では ありません 人間の言葉とは 違います 内面の声です 観音法門の修行は 世界中で横行している 暴力を減らすのに 助けになりますか この質問をするのは 歴史的にみて 私が瞑想をしていても 暴力は 増えているからです この質問をするのは より強い信念が必要で 世界は改善された という証拠が欲しい のです ありがとう あなたは観音法門を 修行していますか どなたの質問ですか 名乗って頂けますか どんな法門を 修行していますか 呼吸法ですか 呪文を唱えますか ごらんの通り 好きな法門を修行し それに専念した方が 早く効果を得ます すると強い信念を 持つことになります 多分 あなたはまだ 探し求めている段階に いると思います まだ試している段階で 確定しておらず 心の平和と信念を もたらす良い法門が 見つかって いないのでしょう 観音法門を 試してみて下さい

実に素晴らしいです 他と比べてください 他の法門の 良し悪しは 言えません 時にあなたに合わない ことがあります 私にとって観音法門は 一番良く 速いです 仏陀も こう言いました 仏陀はこれは最も早い 法門だと言いました というのは 内面の 神の光と音と 繋がっていなければ どんな法門であれ 光と繋がって いなければ 確信できません そうでないと 神に救われたと 保証できません よろしいですか 悲しいことに 私の話を聞き入れる 人はあまりいません イエスの話を 仏陀の話を聞き入れる 人は少ないです ご覧の通りです だから世界は 問題だらけなのです 試してみて下さい 誰も修行しないよりは ましです この道に明かりが 幾らかあった方が ないよりましです 高速道路に薄暗い 明かりでもあった方が ないよりましです

この世界で 観音法門を修行する 人がいなければ 開悟した人や 道徳的な人 神に対する揺ぎない 信念をもって人に 影響を与える人が いなければこの世界は 地獄になっています 少なくとも世界は まだ現状を維持でき まだ住みやすく 耐えられる所も あるわけです 修行する人が 誰もいないと ラーマクリシュナや ヨガナンダ または彼らの弟子達の ような人がいなければ この世界はとっくに 地獄になっています 世界がまだ地獄に なっていないことを 嬉しく思います 観音法門は心の平和を もたらしてくれます 世界平和までは いかなくともあなたを 穏やかにしてくれます 平和は私達一人一人 から始めましょう 自分の子供を 暴力的な人から どう 守ったらいいですか 暴力的な人ですか 神に祈ることです 在世のマスターに どんな人であれ 彼に祈り  子供を 彼に任せてください 子供に印心を受けさせ 神聖な教えで導き 道徳的に生きると 神は守ってくれます 他に方法はありません

ある人は 観音法門を 修行すると 世界平和に影響するか どうかと聞いています 私は 世界平和まで いかなくとも 自分を平和にできると 言いました 平和は自分自身から 始めましょう 家族の面倒を よく見て 国を治めると 天下は安泰ですね 長い間瞑想した 女性がいましたが 効果はありません たぶんその法門は 彼女に適して いなかったと 私は言いました だから彼女は まだためらい 疑問を持つのであって 仏性を見つけていない ということです 彼女は他の違った 法門に切り替えました 別の瞑想法に 変わったのです たとえ世界が 平和でなくとも 少なくともまだ 地獄にはなってないと 私は言いました たとえごく少人数でも 修行する人がいないと さっき私が 言ったように 世界はとっくに 地獄になっています 世界は地獄と天国が 半々だと思います ある所は いまだ住みやすい所で ある所は 住みやすくありません しかし全部が 地獄ではありません 例えば 大通りに幾つか 明かりがあった方が ないよりましです 完全な暗闇より ましです 従って 私達が修行する時 注意を他の人に 払うべきではなく この世界を 見てはいけません 明かりを点すことです 小さな明かりでも ないよりましです

私は毎朝 数時間瞑想をすると 心が 穏やかになりますが 社会で奔走していると 落ち着かなくなります  奔走する時 冷静を 保つよう言われました しかし 私は瞑想の時 以外はできません 私は出家すべきですか 開悟すべきですか 自分で決めて下さい 全ては自分次第です 私達は二十四時間 穏やかでいられません 仏陀と同じ水準に なる以外はできません あなたが 穏やかでも 平静ではありません 穏やかなのは 高い意識レベルに いるからで  平静ではないのは 人と接するからです その瞬間は 落ち着いた状態でも 落ち着かない状態でも 皆無常です 涅槃(最高の天国)こそ 永遠の平和です しかしこの世界には 必ず起伏があります これは ごく普通の事です 出家するのも 出家するのも いいことです 自分の進むべき方向が 見つかったからです これも称賛に値します 誰でも神のために 世界を手放すことは 高尚ですがごく少数の 人しかできません 申し訳ありません 彼らは生きた神です 私達は何も手放す事が できません ラーマクリシュナの 妻は 彼らは  結婚していますが 友達のような関係です  彼女は「人々は古い 杯さえ手放せないのに どうこの世界を手放す のか」と言いました それらの神のために 世界を手放した人達は 確かに神聖です

自分は何が欲しいかを 突き止めると 心は平和で 落ち着きます あなたが瞑想で 落ちつくのであれば それはいい結果です つまり 瞑想の効果があると いうことです 社会で 奔走していると 少し気が散ったり 障害が あったりしますが それは構いません 混乱しないように これは一日中瞑想 していても落ち着きが ないよりはましです 分かりますか これは 例えば 朝お腹いっぱい食べて 満足していても しばらく働いた後は またお腹が空くのと 同じです それは大丈夫です 帰ってまた 食べればいいのです こうすることで 私達は食べ物を楽しみ 瞑想をありがたく 思うのです 問題ありません この世界に 居残りたければ 居残って 穏やかさと問題を 楽しむのもいいし 出家したければ 真の出家者になって 神に捧げ 人類に奉仕して下さい 出家の動機が 利己的でなく 神のために 人々に奉仕する ためであれば ためであれば それは称賛に値します 誰もこのような志を 責めたりはしません なぜなら 動機が無私で 崇高な目的だからです

ある人が私に 座って 瞑想するととても 平和を感じますが 外にでるとまた 気が散ると言いました 私はそれでいいと 答えました お腹いっぱい食べても 働いていると またお腹が減ります お腹が空いたら 家に帰ってまた 食べればいいのです そのように私達は 食べ物を楽しみます 従って 私達が 瞑想して落ち着きを 感じたときそれは 素晴らしいこです それは瞑想しても 落ち着きがない よりはましです これはちょうど 私達が少し食べては 働き 少し瞑想をしては 落ち着きを得て 一日中様々な事に 対応でき この世界に挑戦できる のと同じです 彼はまた出家しても いいかと聞きました もちろん出来ると言い 出家することは 崇高な志です 誰もがこの世界を 手放せるわけでは ありません 献身的に衆生に奉仕し 神に捧げたいという 立派な志がないと できません そういう人は 実に立派です そのような人は 多くありません あるインドの先生は 言いました 「普通の人は古い 杯さえ手放せないのに ましてや世界を手放す ことは出来ない」と 従って 世界を手放し 人類や社会に 奉仕する人達は 私達の称賛と 支持と尊敬に値します 従って 古代より皆が出家者を 尊敬しているのです そうですね そのような立派な志が なければなりません それができた人に対し 尊敬しなければ なりません

天国とは何ですか どう見つけますか 印心の時 私が見せます あんな輝かしいことは 表現しにくです しかし見せられます 神の王国は 平和で 調和の取れた 智慧とパワー 慈悲と愛です 神の王国を見つけると あなたは全てを所有し 今まで欲しかった事や  考えた事もなかった ものを得ます 「まずは神の王国を 見つけなさい  すると全てが汝に 与えられる」のです 私がまだ 在家の時私には よい夫がいて お金もあって 地位もありました 全てのオゥラック (ベトナム)難民は 私を愛していました 私が詩や 文章を書いて 彼らを助けたからです 私は数千人の 人々に 奉仕したのです 数人でなく 数万人の人が  私を知っていました あのころ私は 世俗の全ての事に対し 十分満足していました しかし今 私は開悟しました 人は開悟すると 状況は違ってきます

数億円の財産を 持つようになり あらゆる  有形 無形の財産を 持つようになります 人はお金をむりやりに 私にくれます 私は 不正に得た汚いお金を 拒否せねばなりません 私は 自分で稼ぎます 以前私は一日十時間 仕事してどれぐらい もらったと思いますか 大企業家でない限り 皆さんは一日十時間 働くとどれぐらい 稼げるか分かって いると思います これらのお金は神が 衆生に奉仕するよう くれたものです だから無料で 皆に印心を与えたり サンプル本の印刷や 宣伝ができるのです 欲しがったのではなく 神が無理にくれました 分かりますか でも私は懸命に働き そんな多くの お金は欲しくないです 私は人に与えました いくらでも 人にあげました 従って皆さんが得た 利益は純粋で 全部神からであり 同じ信仰を持つ 人達からです

ある人が天国とは 何かと質問しました 私は表現しにくですが 印心の時に見せられる と答えました 神の王国を 見つけると 全てを所有します 例えば 以前 私がまだ開悟して いなかった時 神の王国を見つけて いませんでした 多くの場合 私は人を 助けられません お金がないからです 今私は手芸の 仕事をします  人々は我先にそれを 買ってくれたので 沢山稼ぎました お蔭でそのお金で 私は世界を回ったり 飛行機の切符を買い 贈呈本を印刷して 人々に美徳や道徳を 学んでもらい 無料で 印心するなどします これらの費用は全部 神や仏陀からのです これは 私が望んだ事では ありません 時々欲しくないのに それは私のドアの前に 置かれているのです 以前は人々に 奉仕できるお金を 十分稼げませんでした 今は欲しいものは 何でも手に入ります 私達が誠心誠意神や 仏陀を見つけたい時 神や仏陀は私達を 援助してくれます

あなたが開悟して この世界を見たとき 良し悪しの区別は ないのですか 全ては神からきたもの だからですか そうです しかしトラが来たら 私は逃げます 私の見方と トラの見方は 違うからです 分りますか  私が彼を良く思っても 彼はそう思いません 私は皆が仏陀であると 知っていても 皆さんは分かりません 皆神だと私は分っても 皆は分かりません だから自分の神を 見つけることです これは私は 手助けできません 私が知っていることは 助けられません それは残念なことです

ある人が私に聞きます 開悟すると 物事の見方は 良し悪しの区別もなく 良い人も 悪い人もなく 善悪もなく 全ては一つなのかと そうだと答えました 全てのものは 仏性を持っています しかしトラが来ると 私はすぐに逃げると 言いました 私は トラが仏陀だと 分かっていますが トラは分りません

私は皆さんが仏陀だと 知っていますが 皆は分っていないのと 同じです 自分自身を 知らねばなりません 私は手助けできません 私が開悟したことは あなたには重要でなく あなたが望んでこそ 私はあなたが開悟する 手助けができます 分かりますか

過去に自分が犯した 罪を思い起こした時 どうやって 平静でいられますか その罪をきれいに 洗い流すことです 誠心誠意懺悔し 生活様式を 変えるか または慈悲深い マスターに 過去の全ての罪を 洗い流して もらうことです つまり原罪です すると過去の罪を 思い起こすことがなく あなたは二度と 悩まされません 赤ちゃんのように 純粋に感じます だから聖書に 再び子供になって 初めて神の王国に 踏み入ることができる とあるのです 私達は罪意識の負担で 神の王国にも踏み入る ことができず神を見る こともできません 従って開悟した マスターの恩寵により 私達の罪と罪意識を 取り除き燃やして もらうと 無邪気で 自適に感じます たとえ自分が過去に 罪を犯したと分っても プレッシャーを 感じません  自分を許します 私達は神の慈悲が 分るのです 完全に分り それを感じるのです 人から聞いた話では ありません これがその違いです 誠心誠意懺悔すると 意識が高揚するのを 感じます 生活を変えるとしたら 例えば 前世でまたは以前 あなたは麻薬を使い 人を騙したり 誰かを殺したとします 今 神に祈ることです どうか許して下さい 過ちが分りました 二度としませんと これで十分です 神は許しくれます 効き目がなければ あなたに再び斬新で 無邪気を感じさせて ことができる慈悲深い マスターを探して 助けてもらうことです

ある人は私に 自分が過去罪を犯した ことを覚えている場合 今どうやって幸せを 感じるかと質問し 私は誠心誠意 懺悔し神や仏陀に 祈ることだと 答えました「私は  過ちを犯したと 分っています もう二度としません いい事だけをして 悪い事はしません」と すると神や仏陀は すぐに許してくれます あなたが 神や仏陀からの許しを 感じていなければ 魂がまだ罪を感じて いるのであれば 私達に圧し掛かってる 罪の意識を 焼き尽くしてくれる 慈悲深いマスターを 見つけることです 彼は智慧と 慈悲の力でそれを 取り除いてくれます 私達の罪を焼き払い 私達は無邪気な 子供のように感じます 赤ちゃんのようになり もう罪を感じません このようにいい事です

あなたはキリスト教の 神や仏陀やイエスや 道を知っていますか 自分を信じているだけ ですか あなたは神? 神は宇宙ですか 個人ですか両方ですか 答えが分からず 混乱しています 私は キリスト教の神や 仏陀や道を信じ 自分を信じています 私は神でもあります 少なくとも神の一部 だからです神の存在は 疑う余地がありません 神は一個人でもあり 非人間でもあります 神は形があり  無形でもあります 神は形がないですが 形が必要な場合 形を創ります 私達がある種の神を 見たいと望めば そのような形で現れて 私達が触れて 見ることが できるようにします

ある人が私に あなたは神や仏陀や イエスや老子の道を 信じているか 自分を信じているか 神はある存在なのか 無形なのか 神は どんなかと聞きます 私は神は形があって ないものだと答え 神が形で 私達に見せたい場合 神はある種の形で 現れます 私達の仏性は 通常は見えません しかし神が私達に 自分を見せたい場合 釈迦牟尼仏や 観音菩薩 または阿弥陀仏の形で 私達に見せます または輝く光で 見せることもあり またはメロディーに 聞こえたりして 私達の魂を高揚します 何も見えないと 私達は神を知ることが できませんね 私達人間は 仏陀ではありません 何も見えないと どうやって それを信じますか 私は有形 無形 両方の神を信じます また自分をも 信じます というのは 私も神から 仏陀から 来たからです 私は神から 仏陀から 来ました 少なくとも 神や仏陀の一部です

即刻開悟の法門とは 何ですか それはあなたの内面の 目に見えない力で それを開くと あなたは開悟します 実際それは 法門ではありません これは無形の法門と 言っても構いません マスターは この内面の 無形の宝の力を開き  あなたを 永遠に平和にさせます これは法門ではなく パワーです あなたの内面の神が 目覚めることを望み 専門の人に助けを 求めているという事で 例えば イエスは 存命の時 彼は神の 息子でありながら 色々な 訓練を受け 様々な 先生について学ばねば なりませんでした そして洗礼者ヨハネに 洗礼を受けたのです 彼は法に従うのは 当然だと言いました 従って それは水で彼を 洗礼したのではなく 彼の内面の神が 目覚めることを認め 開悟するのを 認めたのです 印心を望むとしたら それはあなたの 内面の潜在の神が 目覚めたい 呼び 起こしてもらいたい ことを意味します 分りますか それはあなた自身が 目覚めたいのあって 私はただきっかけを 作り 木の内面の火を 点すだけです 分りますか

ある人が私に 印心とは何か 即刻開悟とは何かと 聞きました 私はそれは 実際は法門ではないと 答えました  法門でないというと 一般の人には 分りません それは法門でないと いうと誰も 来てくれないでしょう そこで一応法門と 呼ぶしかありません しかし実際それは 法門ではないです 名前をつけるとしたら それを無相の法門と 呼ぶことができます しかし実際は 私達の内面の 仏性が目覚めることを 望み 今この時 開悟したい 今目覚めてこの世界を 助け 自分を助けたい という意味です 通常 仏性は 眠っています  印心を受ける瞬間は 私達の仏性が 目覚めるときです 言い換えると目を 覚ましたい 寝たく ないとうことです 衆生を助けるために 目を覚ましたいという ことで これは自分を 助けるという意味です だから仏陀は 衆生は自分で自分を 助けたのだ 仏陀が 助けたのではないと いいました 仏陀や マスターはボタンを 押す人に過ぎません 分りますか 電気はすでにそこに あるのです マッチには中に 火があります

擦るだけで 火がつきます 私がこれを擦っても 火は点りません 火はすでにそこにあり 誰かが火を点す 手助けをするだけです 分りますか マスターは 私達の仏性を眠りから 引き上げただけです そして彼の顔を洗って 起きろ 働くんだと 寝すぎだぞ  もう何千年も眠って いるのではないかと 言います 分りますか 従って法門など ありません 私達の内面には 仏陀がすでにいて 法門は必要ないです 仏陀は眠っています ある人が仏陀を目覚め させる方法を知って います 顔に水を かけると目が覚めます こういうことです 私達が寝ている時 自分の顔に水をかける ことはできません 必ず誰かが 顔に水をかけて 私達を起こさなければ なりません それがマスターです マスターには水を かける権利があります

人は寝ている時 自分で自分を起こす ことはできないのと 同じで ある人が あなたが深い眠りに 入っているのを知って 顔に水をかけて 大きな声で 起きろ 怠け者 起きて自分を助け 人々助けるんだ そこで寝てばかりで 夢の中で 誰かに打たれて何になる 起きろ 起きるんだ と言ってくれるのが 仏陀 マスターの 仕事です あなたの 顔に水をかけて 仏陀を呼び起こし 内面のキリストを 呼び起こし あなたもそれを 望んでいます  あるいはまた 戻って寝ても 構いません

観音法門とは 静かに音流を観ずる 法門ですか そうです それは楞厳経に 載っている法門ですか あるいはあなたが 瞑想の時 観音菩薩が 内面であなたに 伝授した 秘法ですか これは瞑想中に 授かって法門で 観音菩薩も この法門を修行し 楞厳経にも この法門について 言及しています これはとても 古い法門で 静かに内面の 音を観ずる法門です 瞑想の時どうしたら 雑念をせずに 集中できるのですか 瞑想の時本当に 経典で言ったように 仏陀を見れば 仏陀を切り魔を見れば 魔を切らなければ なりませんか それを見たら切っても いいですが 魔さえ 確実に見られるのでは なく ましてや魔を 切るのは尚更不確実 瞑想の時 雑念をしたくなければ 仏陀や魔を見たとき 興奮しないで 怖がらないことです 仏陀の名号唱える ことに専念するか あなたが修行している 法門にひたむきに 集中してください すると雑念をしなく なります 分りますか 瞑想の時でも 瞑想しない時でも 自分の  身 口 意を きれいに保ち できるだけ 菜食をすることです

良い事をし 悪い事を避け 良い事はすぐやり 悪い行為はすぐに 止めることです いつも心を専念し 神や全ての仏陀 最高の衆生を 覚えていることです 名声と利益の 事を考えず 修行を通して 超能力を得たいとか また修行を通して 裕福になりたいと 思わないことです

これらの考えが魔を 招きます 分りますか 考えが純粋であれば 魔は逃げます あなたに切られるため 寄ってきたりしません よろしいですか 仏陀や魔を見た場合 怖がらないで 引き続き仏号を 唱えることです あなたには本物と 偽者を見分ける 方法を教える 先生がいないので ほっておいた方が いいでしょう でも観音法門を 修行すれば 私が本物と 偽者を見分ける 方法を教えます 観音法門を修行して いない人は 本物とか偽者のことは 考えないことです すると 問題は生じません 本物の仏陀を 見た場合  とても楽に感じます というのは とても 慈悲深く愛に満ちた 感じだからです しかし魔を見た場合は 違います とても獰猛で 肉を食べ 酒を飲む よう 悪い事をする よう仕向けます すると魔である ことが分ります

どうしたら自分を知り 自分に苦しみを与えた 人達を許すことが できますか これは素敵な志です 神や仏陀に祈り 自分がそのレベルに 達するよう 助けを求めてください ただいつも無茶な 人がいて わけもなく 私達に苦痛を与える 人がいます 彼らが 少しは目を覚ますよう 手立てを講じるべきで いつも頭を下げては いけません 思いやりはあるべき ですが 彼らが 正しくないことを すると私達は厳粛に 指摘せねばなりません 分りますか いつも頭を下げて いると結局 自分にも彼らにも 害を及ぼします 私達は状況に応じて 反応せねばなりません 私達は真に人を愛し 平和を愛しますが 尊厳をもって 対応してこそ彼らも 私達を尊重します でないと いつまでも 人のいいなりになると いつまでも 彼らに苛められます 分りますか

慈悲心は 愚かを意味する のではありません 慈悲と智慧を 同時に運用する ことです こんな忙しいのに どう修行しますか 時間がある時いつでも 修行すればいいです 仕事しながら心の中で 仏陀の名を唱えます 菜食しない人は 死んだら 涅槃(最高の天国)に 行きますか  それとも低い衆生に 生まれ変わりますか 強い信仰心があれば それは可能です もしくは 高いレベルの 開悟した聖人に会って その人その在世の仏陀を信じ  彼に助けを求めると 死ぬ時 その仏陀が来て 助けてくれます でないと肉を食べると 解脱しにくいです 分りますか 重くて悪いカルマ (報い)で 下に落ちてしまいます しかしあなたが 在世の仏陀を信じ  彼に助けを求めれば 助かります

竜神大会は いつ始まりますか 阿弥陀仏はいつ 降りてきますか どこに降りてきますか それは大分前の話で この世界が平和で ない限り彼は 降りてきません 皆が霊修行し 道徳的で 菜食し  仏陀の名を 唱えるように なった時に 仏陀は降りて来ます 今降りてきても 私達が余りにも頑固で 教えられません 彼は傷つき 監禁 されるかもしれません この世界は 実に危険です 降りてきた仏陀は 多くありません 敢えて来きません 私の話を信じなければ 自分で上がって彼らに 降りてくる気はあるか 聞いてみてください たまに一人くらい 降りてきます 仏陀は恐れています 降りてくると 世間の人々を 助けるどころかカルマ (報い)に絡まれたり 傷つく事さえあります

なぜ男性マスターと 女性弟子の関係は 自然に反するのですか たぶん この質問をした人は その・・・ 私にも分りません なぜ男性マスターを 崇拝することが 自然に反するのですか 例えば ヨガの修行法では エゴを捨てることを 強調しています しかも男性本位です 私は男性と女性の エゴは違うのだと 思いました というのは 女性は妊娠し・・・ 脱線しないように あなたの意味は女性の 弟子が男性マスターを 崇拝するのはなぜ 自然に違反するのか ということですね それはあり得ません イリナツウィーディが 書いた本に 彼女には 一人のマスターがいて 彼女が一連の 苦行をしていたとき もう少しで死ぬ ところでした 真理を求める道ですね 彼女にはチベットの マスターもいました 女性がヨガ修行を することは肉体に 大きなダメージを 受けるということが 私の質問です ならその種の 法門に近寄らない ことです 私達の法門で死んだ 人は誰もいません 皆が守られ 愛されています 男性も女性も 皆平等です 修行中 死んだりしません 危険性もないです 皆が第一歩を踏み 出したとき すでに開悟し その後 どんどん進歩します 誰も死なないし危険も ないです そんな  複雑な問題もないです そんなに怖いとしたら そのような法門には 近寄らないで下さい 恐ろしいです

女性の弟子が 男性マスターによって 不注意で死ぬような ことがあるのですか (分りません) あなたの質問は はっきりしていません 皆分かっていますか 皆もはっきりしません 新しい事もあります 女性が男性マスターを 男性が女性マスターを 受け入れられないと いった事は考えません それは ごく自然なことだし 問題になりません 自然にも反しません 男性と女性は 個性の違いが あると思います 個性は違いますが 仏性は同じです たぶん危険性の高い ヨガ修行法の場合 男性と女性は 異なる修行法が あるかも知れません 私達の法門は 男女の区別はないです 私達は最高の所に 集中し 自分自身の 最高の可能性を 引き出します 男性も女性も 利用できます 神は 私達の内面にあるので 私達はそんなに 複雑でもなく 男女の区別もないです ヨガの 修行法のように人を 苦しめたりしません 意識を高揚するため だけです 楽に感じ 苦痛はありません イエスはニコデマスに なぜ生まれ変わらねば ならないといいますか これは私がすでに 言ったことです

罪の意識が浄化 されると赤ちゃんの ように無邪気になり あなたの 内面の神のパワーが 呼び起こされた時 全ての罪の意識が なくなります 本々私達には 何もありませんでした 罪意識を持ったのは 頭脳が常に 良し悪しを 記録したからです 神は頭脳による 評価を必要としません 従って私達の 内面の神が目覚めた時 私達は生まれ変ります 分りますか 本当に 無邪気な感じです そして大きな荷物が 肩から降ろされた 感じです 私が保証します 私は体験しています 全ての観音法門 修行者は これを感じています 彼らは罪意識が永遠に 浄化されたことが 分っています だから彼らは 魂が救われたことを 確信しているのです 開悟するのに 必要で役に立つ 優先条件は 何ですか 最も重要なのは 開悟した先生です その人はあなたに 開悟する門を開けて 内面の神を揺り起こす ことができます これが 最も重要なことで 他はその人について 学べばいいです 例えば菜食するとか 毎日瞑想するとか 道徳的な生活をする などで これらの事は 聖書にもあります