智慧の言葉
 
自身の真我を知る方法 1/3 1989年2月22日, フォルモサ 台北 (台湾語)    Part 3
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マスター ある人には 先天的な障害が あります 脳に何か 問題があって 正常ではありません

これはその人自身の 悪いカルマ(報い)か それとも親戚の悪い カルマ(報い)ですか 彼らは一生そのように 生きねばなりませんか

彼らを正常な人に 変える方法が ありますか マスター どうか お教え願います

それは彼ら自身の悪いカルマ(報い)の為です ご存じのように 時々 両親がとても不道徳や

とても醜い人でも その子供はとても きれいで 倫理的な ことがあります

また 両親はとても きれいで 賢明で とても倫理的なのに 生まれた子供は 精神的に障害を 負っていたりします ですから これにより 確かに自身の 悪いカルマ(報い)の せいだと言えます 治療可能かどうかは 精神的障害の 程度によります これは医師に診察して もらえます 私はなぜ息子を完全に 愛せないのでしょう また息子の性格も 私達のカルマの 関係のためですか だとすればどうすれば 関係を改善できますか

はい 彼の性格と あなたとのカルマの 関係が 現在の関係に 影響を及ぼします 子供がとても親孝行で 私達も子供をとても 愛していたら 子供と良いカルマの 関係があるのです 子供が親不孝で 私達も子供が嫌いで 子供も私達が嫌いなら それは 子供と良いカルマの 関係がないのです

それは仏教による 説明です 一日でこの問題は 解決できません それには霊修行の パワーが必要で 忍耐と慈悲が 必要です 本当の慈悲は 内面から来るのです あなたが内面の愛を 成長させたければ 霊修行をすべきです 他の法門を勉強した ことがなかったり 他の法門を修行しても 別に役に立たないと 思ったら 観音法門を修行して みることができます マスター 観音法門修行者が 結婚式とか葬式など 行事を行うとき その場所と時間を 占ってもいいですか

風水を見るべきですか

見てもいいですよ 見る必要がないと 思ったら 見なくてもいいですし 見る必要があると 思ったら 見て下さい なぜですか 私達 観音修行者は一人では ありませんからです 時々 親戚とか 友達がいます 万が一あなたに 好ましくない場所だと 親戚や友達が毎日 困らせるかもしれず そうならあなたも 幸せにはなりませんね ですから場所を 占うのもいいです

それは全く 間違っていません でも言わせてもらえば 最高の場所は 仏国土です インド人は死んだら 焚き火で 身体を焼きます 火葬は最高の方法です ですから場所を占う 必要はありません 良ければ 灰を お寺に置くのもいいし 嫌なら 海とか川に 撒いてもいいです それで魂は自由になり 宇宙と一つになります それにフォルモサ (台湾)では狭い国土を かなり節約できます

マスター あなたは講義で 印心後は 五世代が

超生するので 先祖を拝む必要は 全くないと仰いました それはキリスト教徒も 同じですか 印心後 先祖を拝む必要が なければ これまで拝んでいた 位牌は どうすべきでしょうか そこに置いておけます

彼らは超生したのです あなたが拝みたければ 拝めます 拝むのを禁止する という事ではないです ただ彼らはそこには もういないのに 探して何の役に 立つのですか 私は真実を言ってます 記念として 位牌はそこに 置いておけます 沢山の恩恵を受けた 亡き両親を 懐かしく思い 写真や位牌を置いて なぜいけませんか

マスター 瞑想や霊修行の 目的は何ですか その目的は 私達の能力を見つけ  私達がいかに偉大で どんな新しい才能が どんな智慧があるかを 知ることです 私達の能力が人として 制限され過ぎていると 感じるからです

けれども取り出して 使える万能の力が 自分の内にある事を 私達は知っています

ですから 瞑想のとき 実は瞑想ではない 静かにすると 私達の智慧は開き 発展します

あまり動き回ると 全てのエネルギーを 失います

エネルギーは出て行き 静かにすると エネルギーは戻ります

その時 私達は 宇宙と 人生の意義を より理解できるのです そのあと 仕事に外に行くと より役立ち より速く  より多くの智慧を使い 日常生活に対処します

天国については 言うまでもありません 霊修行者は 多くの利益を 世界と社会にもたらし 私達は霊修行してない 人々の 何千倍もの利益を もたらします マスター 印心していない 人からの手紙です こう書いてあります

親愛なる マスターチンハイ 旧正月の前 西暦の一月二三日です 私の子供が突然 耕莘病院で 意識を失いました あなたの弟子は 人を救いたいという 思いやりと 誠実な望みで 不便にもかかわらず 病院に行き 連続して 三、四日瞑想し 息子の為に祈りました

息子を加護し 災難を払拭するため マスターチンハイに 祈りました 私が恍惚状態の時 マスターが 黄色の僧衣を着て 息子のベッドの前に 立っているのを 二回見ました

その時 私は感激して 涙があふれました しかし恐らく息子は 十分な福報がないか 重いカルマ(報い)が あったのか 仏陀の加護は 得られませんでした

でも彼が他界した時 眠っているように 穏やかに見えました

子供のように可愛くて 安らかに去ったと感じ あなたの偉大な慈悲と 息子を苦しみから 連れ出して下さった ことに感謝致します 息子を 西方極楽浄土へ 導いて下さるように マスターに祈願します あなたの恩恵と祝福に 私はひざまずき 必ずや恩返しします

必要ありません

ただ印心に来なさい あなたが印心したら もっと子供にとって 助けになります 私に頼るだけでなく あなた達には血の 繋がりがあるからです 私と彼は血統関係が あるとは限りません マスター あなたが外国へ 講義に行ったとき 弟子があなたを 恋しく思って 恋わずらいになったら どうしますか 恋わずらい なぜそうなるのですか

ばかげたこと あなたは泣いたの いいえ

あなたはそう感じない 私が外国へ行っても また帰って来ます マスターと弟子として 常にくっついている わけには行きません 他の人々の魂も 私を慕っています

想像できますか 彼らは私に会う機会は 一度もありません

皆さんは何回も 私に会いました 他の人々と 分かち合うべきです 修行したら 思いやり深く なるべきです 私の肉体に しがみつかないで 皆さんと私は 肉体ではありません 私はこの肉体では ありません 皆さんはこの肉体では ありません 伝達するものは 智慧によって 伝えられます 受け取るものは 智慧で受け取ります 私達の本性 仏性 天国の品性で 法(真の教え)を 受け取るのです 私達の肉体が 肉体の人から 法(真の教え)を 受け取るのではない だから私がいない時も 法(真の教え)は まだそこにあります

また皆さんも マスターの化身を 見ることができます ビデオテープも 見ることができるので 大丈夫です マスター 私はあなたの弟子では ありませんが 自分で瞑想している時 体も非常に 暖かくなります 寒ければ寒いほど より暖かくなります

瞑想を終えた後 全ての関節が 音を立ててるようです これは害になりますか

音を立てるのですか はい そして動きます 恐しく聞こえますね  どんな法門の修行か 私には分りません

あなたの先生に 尋ねたらどうですか

どんな法門の修行か 私にはっきり 言って下さい

害があるか分ります 暖かい感覚は 害がありません おそらく丹田に 集中しているのです

あなたは丹田から 熱を感じます

マスター 金剛経で仏陀は 法(真の教え)の伝授に とらわれないと 言っています  ではなぜ四九年間 彼は法(真の教え)を 説いたのでしょう

彼の言う意味は 与えても与えてない ようだということです それが本当の布施です 法(真の教え)を 伝授しても 伝授していない ようなのです

それが本当の伝授です 彼は仏陀になっても 自分が仏陀だと 気付かなかった それが本当の仏陀です

彼が言う意味です たとえ彼は説教し 法(真の教え)を 伝授しても 自分では 「私は法(真の教え)を 彼に伝授している」と 感じないという意味です さきほど私が言った 私達はこの肉体でない と同じです 私が法(真の教え)を 伝授している時 この「チンハイ」が しているのでは ありません それは彼女の智慧で 皆さんの智慧に 伝えているのです 受け取るのは皆さん 自身の真のマスターで 法を伝授できる人は そもそも 皆さん自身の 真のマスターです これが 理解できなければ 私が半年話しても 皆さんはやはり 悟れません

だから皆さんは自分の 真のマスターがあり その内面のマスターに私は法(真の教え)を 伝授しているのです マスターを 見付けるとはこうです だから私は決して 法(真の教え)を 伝授していると 誰かに言った事はなく 言葉を使うので こう言いますが 皆さんは自分で 自分を救うべきです

「マスター」は真我です

これが仏陀の言う意味 だから彼は 衆生を救ったが 救われた衆生はないと 言ったのです それが彼の言う意味 マスター 過去において 私が静かにして 目を閉じた時 多くの山と 夕暮れの美しい風景が 見えました 非常に美しかったです そうした風景を 見たい時はいつでも 見られます これは観音法門と 何か関係がありますか これには 二つの理由があります 第一の理由は あなたがたまたま 偉大な霊修行者の 目を見たからです ですから将来 他人の目を見る時 気をつけてください 偉大な師の目を見たら あなたは「危険に さらされ」ます

あなたはある境界を 見るかもしれません これが第一の理由です 第二の理由は 前世で あなたは 霊修行をしました ですからそれは 二つの理由の結合です マスター 印心後は 私は菜食すべきですが 家族のためにまだ 肉を料理せねばならず どうすればいいですか 構いません ただそれを食べる事に 誘惑されないで下さい

マスターのある弟子が 印心後 探偵事務所の 私立探偵に 付けられています

彼はどうすべきですか 前世でその人に 負債があったから 起きたのですか これは印心とは 関係ありません

過去に何か悪いことを したか調べて していたら 自首して その悪行を 清算してください

何も悪いことをして なければ マスターに 助けを祈って下さい そうすれば 自然に やって来た様に自然に 遠のいていくでしょう その人に注意を 払ってはいけません 彼に愛を送って下さい マスター 印心を受けなくても 瞑想ができますか ええ 出来ますよ でも 自分の好きな 師を見つけるべきです 指導者なしでの瞑想は しないでくださいね 危険ですから

一人で瞑想できるなら 素晴らしいですが 問題が起こり得ます 師を見つけるのが 最良です 自分の好きなどんな 法門でも師を見つけて 自分の好きな法門を 教えてくれる そうした師に 従って下さい それで より安全です マスター 身体を超えた境界で そこにはまだ性的な 喜びはありますか そこに性的な 喜びが何もないなら どうやってそのような 感覚や幸福が 育つのですか 性欲があるなら 人はどうやって 心を浄化し この欲を 取り除くのですか 要するに 性欲のない 純粋な心をどうすれば 維持できるのですか 性欲を減少させるのに 観音法門は 必要ありません

多くの人が エネルギーの経路を 開く練習をしています この方法で 人は 性欲も減少できます また人々が確かな 境地に達するまで 修行したら やはり 性欲を減少できます 幸福はそのような 類ではありません 私達は非常に高い 境界にまで行き そこで体験する 幸福は性的喜びとは 違うのです 性的喜びは非常に 限られた幸福なのです 無上の至福と 比較すると それはゴミのようです そうした至福を 知らないので あなたは性的喜びを 幸福と見なすのです それは実際 あなたの 活力を使い果たします

この種の喜びは 本物ではなくカルマ (報い)なのです 性的喜びを幸福と 見なすのは 私達が 高いレベルの至福を 知らないからですが 今は知っているので たとえ生じたとしても それはカルマ(報い)に 耐えるためだけです そこに幸福はないです

そして 多くの活力を 使い果たします あなたの活力を 最も消耗させるのは 性的活動なのです

観音法門の修行を 始めたら 分かるでしょう

マスター 誰かが 「世俗の人生への 熱望」話に関する 論争について 尋ねたとき あなたはただ微笑んで 話題を終えました

なぜですか

「世俗の人生への 熱望」に関する 議論は 人々の 誤解から生まれた からです

この問題が人々に 何をもたらしたかを 尋ねてくれたら 私は話したかも しれません でも あなたは 「世俗の人生への 熱望」について私の 意見を求めただけで それで私は言いました 「彼らの芸術です」と 彼らは人間の心理学を 説明しようと していたのです そういう事です

その話では 主人公は 幼少の時から多くの 病気になったのですね

子供のときに 病気がちで 三歳か四歳のとき 両親が彼女を お寺に住まわせました 後に彼女は ごく自然に剃髪し 尼僧となりました 彼女は理想の成就 生死からの解放 戒律の遵守とかを 誓ったから 尼僧になった訳では ありません

これらの意志がなく それをしました

そうした状況下で 尼僧になったのです

これが後年 思いがけず 彼女が寺を出て 再び普通の生活に 戻った理由です これは私の考えです

ですから仏教は とても寛大です

ある人が 逆境を克服して 尼僧になったなら 彼女を讃え激励すべき しかし尼僧になっても 悩み続け いつも 俗世間のことばかり 考えて家に帰りたいと 思うのであれば 家に帰った方が いいと思います 彼女が 寺院に留まって いつまでもこのように 思うと お寺の雰囲気を 汚染してしまいます 私の卑見ですが 他の人の 修行や他の人の 修行に対する決心に 影響を与えます 目に見えない考えは 人に影響を与えます 影響がないと 言わないで下さい ですから催眠術師は 欲しいがままに私達を 操っているのです これは私達が共通の カルマがあるからです

いわば 明かりの下にいれば 明るくなるし インクに浸かれば 黒くなるという事です

この意味は ある人が本当に 修行したいと願い 本当に 尼僧になって 仏陀がやった通りに 自分もしたいとしたら それは歓迎します しかし彼女が もう嫌だとしたら 家に帰して 自由にさせるべきです 彼女は罪はありません

彼女は自分に 誠実なだけです こういった事について 沢山話す必要はないと 私は思います 本当の話だとしても ただこれは フィクションで ただの劇です

本当の話だとしても 私はこの種のことを あまり考えません

尼僧が寺院を離れて 還俗したこともあるし 僧侶が寺院を離れて 還俗した事もあります オゥラック (ベトナム)にも チベットにもあります 何が悪いですか

在家の人もいて 出家者もいます

これが面白いのです あまりにも無意味な ことだと思います 私達の気持ちは時々 変ります そうですね 例えばあなたは医者に なるつもりでしたが 途中で もう我慢できないと 思います 体のせいかもしれない または根気と 思いやりが足りないか 病院で起きた事が 気に入らないとか

そうなら断念して タクシーの運転手に なろうと思います

もちろんこの職業は 医者ほど 栄光はありませんが しかし自身の選択です 出家することは 最高の志です 人に奉仕する ためであり 自分も 解脱するからです これは激励すべきです 持ち堪えられなければ 家に帰るべきです

人間は人間で 神ではありませんし 仏陀(悟った存在)では ありません 僧侶も人間で 尼僧も人間です

聖人だって間違いを します ましてや 凡夫なら尚更です

マスター 金剛経に 仏陀の地位を得るには 六つの徳を修行 すべきだとありますが 本当ですか

本当です やってみませんか 六つの徳とは 布施 持戒 忍従 精進 禅定と 智慧です これらを通して 仏陀(悟った存在)にならないはずはなく 全ての仏陀 (悟った存在)は これらを必要とします

マスター 開悟とは何ですか 道を得たとは何ですか どういった感じが するのですか 全ての経典は開悟に ついて語っています 沢山あります これら全ての経典は 悟りを開くことに ついて言及しています 光を見るとか 音流が聞こえるとか 境界が見えるとか 智慧が開いて 以前知らなかった事が 沢山の分かるように なったなどとあります これが開悟です

ある人は 道を得ることが 開悟だと信じています ある人は開悟したとき 道を得ると信じ ある人は 道を得ることは最高の レベルに達したと信じ つまり道を得て 完璧に道を理解した という意味です つまり宇宙と 一つになり 遍在できます 何億もの 化身を持ちます 道を得たというのは こういうことです

これが道を得た事だと するとその時は 何も感じません 最高の境界に 達した場合 何も感じません 普段と同じように 寝て食べたりします

以前 最高のレベルに 達する前は 何かを感じていて 自分がどのレベルに あるか分かっています しかし最高の水準に 達してからは 自分がどのレベルに あるか分かりません 全ての衆生は皆 平等に見えます その段階に至ると 「愚か者」に見えます

マスター 腹を立てる時と きつい言葉を言うと 修行に 影響がありますか

あります 一部の私の弟子は 沢山の 修行体験を持ち 高い境界に 達していますが この世界に 戻ってから試験に 落ちてしまいます 彼らは怒ったり 人を叱ったりすると 体験が 消えてしまいます レベルが落ちた感じが するので害があります マスター私は学生です まだ印心を受ける ことができません 毎日一時間半 瞑想してもいいですか 先ず先生を 探すことです 自分で瞑想すると 魔に取り付かれる ことがあります マスター 仏陀 (悟った存在)と菩薩(修行者)は レベルが 異なるとしたら なぜ 仏陀と衆生は 違いがないと 言うのですか 衆生が 仏陀より下だとすると どうして 差がないのでしょうか

仏陀は分別しません なのになぜ様々な レベルがあるのですか (そうです) 衆生と仏陀は 大いに違うとしたら なぜ差異がないと 言うのですか(はい) ええ こういう事です 区別するのは 衆生であって 仏陀ではありません ある人が仏陀 (悟った存在)になると 全ての衆生が平等に 見えます 彼は 肉体の服を見抜き 彼らの仏性を 見抜きます すると彼らは自分と 同じく見えるのです けれども衆生は 覆い被せられて 彼らは人と自分は 同じであることが 見えません だから私達は 観音法門を修行する 必要があるのです そうでなければ 習う必要はありません

太陽が見えないのは 覆い被されたからです

太陽が私達を照らさ ないのではありません 私達が目を 閉じているからです マスター 古代 仏教徒はよく動物を 放生しましたが 今やってもいいですか いいでしょう ただ問題なのは 放生すればするほど 沢山の動物達が 捕らえられます 時には昨日 放生したばかりの鳥が 今日また捉えられる こともあります

自分で考えて できればしてください ただ福報を積むために 旧暦の一日と十五日を 待って放生することは 止めて下さい そういう日は 鳥や亀にとって 一番苦しい時です 皆が放生用に これらの生き物を 捕らえるからです

こういうことです

できる事をして下さい この種の事を論じる ことは難しいです とても難しいです マスター自分で造った 悪いカルマ(報い)は 自分で背負うべきです 水に溺れた人を 救うことは悪いカルマ (報い)に反するのではありませんか その人の悪いカルマ(報い)は なくなりますか 救った人が代りに彼の 悪いカルマ(報い)を 背負うのですか

そうです けれども溺れている 人を見て助けない 訳にはいきません

修行者は ますます慈悲心が 大きくなります

たとえ それをすると 自分が傷つくと 分かっていても それでもやります

そういう訳でイエスは 衆生の悪いカルマ (報い)を背負い 十字架にはりつけ られたのです そういう訳で釈迦も 九九人を殺した人を 救い上げて 彼を阿羅漢のレベルに 引き上げたのです では 九九人を殺した人の 悪いカルマ(報い)は どうなったのでしょう なぜすぐに阿羅漢に なったのでしょう

彼の悪いカルマ (報い)はきっと釈迦に 行ったに違いないし またある人が ミラレパに毒を入れて 殺そうとしたとき ミラレパはその人を 憎まないばかりか 彼の悪いカルマ (報い)を代りに背負い ですから彼は大変 苦しかったのです その人はカルマ (報い)のパワーを信じず ミラレパにカルマ (報い)を返してと 言いました 彼はそれを自分で 受けて見たかったです ミラレパがカルマ (報い)を半分ほど 返した時彼は 苦しくて倒れました 彼は耐えられません ミラレパが悪いカルマ (報い)を持っていった ことが分かったのです これらは 冗談ではありません カルマは事実です

観音法門を修行する 人は皆知っています 実に恐ろしいです 一人人間の悪いカルマ(報い)は 全宇宙を満たすほどで 本当に恐ろしいです

禅七の時 私達の 修行仲間の一人が 自分の悪いカルマ (報い)に関する 話をしてくれました

瞑想を終えてから 横になって 瞑想をしていました

私達にとってどこでも 座っていても 寝ても禅です 私は一日中足を組む ようにとは言いません 横になっていても 体験があります 彼が横になった 瞬間 魂は体を離れ遠くへ 浮いていきました 半分ほど 浮いたとき 突然彼は重い毛布に 覆い被された 感じを受けました それは全身に 覆い被さって 息もできません 彼はしばらく もがきました やがて彼の魂は徐々に 体に戻ってきました 魂が戻ってから 彼は目が覚めました 毛布など 何もありません ただ彼の子供がそばに 立って彼を見ています 彼は言いました

なぜ私を見ているの びっくりしたよと 子供は 「パパが寝ているのを 見に来た」と言い 彼は「何を見るのだ」 と言うと 子供は 「パパの寝相は他の 人と違う」と言います 子供が彼の前に 立っていただけです 見てください カルマ (報い)がいかに強力か 子供は印心していない ので理解できません 子供はただ 彼の前に寄りかかって 彼を見つめていました こういう訳で道を 防いでいたためです

それで 彼は怖かったのです ですから 悪いカルマ(報い)は ないと思わない事です 自分の悪いカルマ (報い)は見えません 見えると恐怖で 死ぬかもしれません

ただ悪いカルマ (報い)は私達の 磁場に付着しています 私達の魂は永遠です ただ魂は私達の 体を認めているのです

体が苦しいと 魂も体の 苦痛を 感じとります 魂も感じ取ります

私達が 魂と体を分離する 方法を知っていれば 魂は全てが 分かるようになります するともう 体の影響を 受けません 魂は自由に 行き来します 私達が買い物に 出かけては 家に戻るのと同じです だから修行しなければ ならないのです 苦しみから離れ 苦海を離脱するのです

体があると 苦しみがあります 体から離れる 方法が分かれば いつでも苦しみから 離れます だから修行をし 体から離脱することを 修行するわけです こういうことです マスター 私が 人に誤解されて 叱られ 叱られ そして傷ついた時 マスターを思うと すぐに 私の口から何も 説明をしなくても 物事はすぐに 解決します 気持ちもすぐに 晴れます これが禅は無言だと いうことですか いいえ 違います 禅は無言とは その 意味ではありません 私は人の 中傷や打ちのめし 叱責などを 気にかけないため その種の力を受けます

皆さんが 私を思う瞬間 パワーが あなたの所に流れます そしてあなたの問題は 自然に解決されます

その結果あなたは ハッピーになります ですから私達自身 先ずは良い法門を 修行することです そして人に 法(真の教え)を 伝授するとパワーを 持ちます こういうことです これは 禅は無言と いうのとは違います 禅は無言とはこういう 意味ではありません

 
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