智慧の言葉
 
天なる父と一体になる 第一部/2 1992年2月24日 マレーシア(マレー語)    Part 1
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ある夜 夢を見ました (そうですか) 仏陀に会う夢でした

彼はまばゆい光の中で 大きな家の中で 巨大な身体でした (そうなら本当です) マスターのおっしゃる 「弟子」が二列になり 数千人の弟子です ええ ええ そして仏陀は私を招き 前に来るよう言い 私は前に行きました 怖かったです 私が見たサイズは (とても巨大で) 降りて風呂に入ると 上から声がして 私にこう言いました 「お前は上手く 井戸から降りてきた 井戸の底で 生き残るだろう」 中には悪魔が 生き物か 悪魔か何かがいました 風呂で清めた後 生きて出てきました

弟子が入ってきて 私に服を着せました 頭を丸めました 頭を剃りました はい  そして私は完全に 落ち着きました 出家すべきと いう意味です あなたは今世で 僧侶になるはずです でも夢で それを果しました だからもう済みました (私は幸運です) 彼はイエスの夢も 見ていますよ ええイエスや仏陀皆が あなたを愛しています 当時 私は八歳でした 四〇度の 高熱におかされました

意識を失いかけました 死にかけたのです 私は人ごみの中に彼と 机を見ました そこに立って私を 秤にのせました 悪魔が言いました 「軽すぎだ 帰れ」 私は雲の上を歩き それで彼らは言います 「お前は生きている」 最近まで まだ五十過ぎですが また仏陀を見ました 仏陀もイエスも両方 強力だと思います 二人の神に祈らねば なりません多過ぎです 彼も仏陀にも 祈りますね  ええ いけませんか 両者とも仏陀です なるほど 前に言いましたが どちらも悟った仏陀で 神の悟った息子です いずれにせよ 

私は祈り続けるべきですか(イエスに) 仏陀かイエスに両方に祈りなさい それはどうですか 彼らはどちらもきて 彼らが同一体だと示しそちらも全く同じです開悟した神の子です つまり教師なら誰でも仏教かキリスト教を教えます 仏教とキリスト教は 似ていて同じなので 受入れるべきです それがあなたの夢の 意味です だからあなたに仏陀と イエスの両方が 現れたのです あなたは加護されて 病気が 治ったのです それは吉兆です キリスト教徒で い続けるなら 教会へ行き 祈るのです

仏教徒になりたいなら 寺に行って 祈るのです 両方を 信じたいなら  交代で 教会に行き 寺に行くのです 両方を上手い具合に 合わせたいなら 私達と共に観音法門を 修行できます

イエスに会いに 行きたいなら 私は 居場所を知っています 仏陀に会いに 行きたいなら 仏陀の 居場所も知ってますよ 両方に会いたいなら 私は両方の場所に 連れて行けますよ 父なる神に 会いたいなら イエスと仏陀に 会いたいのなら あなたが死ぬ 最後の時 キリスト教 或いは仏教のどちらに 私達は行くべきですか

私達ではなく 誰かが 私達の為にすべきです

儀式のことですか お葬式ですね これは厄介です これが厄介の元です

ええと はい 複雑です 誰も今までそんな 葬儀を見ていません ええ 厄介 厄介です こんなのはどうですか 交代で ある日は 仏教の葬儀にし 翌日は キリスト教の葬式です

ほらね 私達 観音法門の 修行者は気にしません 私達はイエス 仏陀を イエスも仏陀も 皆が神といると 知っていますから だから私達が父の所に 行く時 両方を見ます 葬式に関して もはや大騒ぎしません それは自分の行き先を 前もって 知っているからです 自分のために他の人が 祈る必要はありません するとしても 真の修行者に 来て 座って 瞑想し 私達のために祈り 神の家へとより高く 押上げる力を足して もらう必要があります それだけです 私達は沢山の 準備をしません 騒ぎません 大声で祈ったりせず ただ内面で祈ります 神は分っています

聖書にこうあるから 「汝は祈る時 納戸の中で 秘密裏に祈るのだ そうすれば天なる父は わかるであろう」 「秘密の部屋」とは 内面です 「納戸」で祈るとは 内面のことです 神は皆さんに 納戸の中に入って 閉籠りなさいとは 言っていません そう「納戸」は 秘密の場所であり 皆さんが祈る所です 私達が祈る場所です 私達は「納戸」で祈り 神は分っていますし 神はご存知と分ります 私達は毎日 神とつながり 私達が到着する時 即ちこの世を去る時に 神がそこにいると 確かに感じるからです だから殆んどの人達の 様な祈り方はしません 私達はそうできますが 見る事で内面を理解し 分かっています

あなたのこの質問に 対して答えられるのは この解決法だけです 交代でやってみなさい ある日 仏教の葬式をしたら 翌日はキリスト教です その逆でも構いません 私達には この問題は 省かれます 花や線香 その類の物 それから肉  ありとあらゆる物を 省きます 静かに祈るだけです

私達が神を語る時 形はありますか (いいえ ありません) でも聖書には 私達は 神の姿に創られたと あります 神の ええ ええ なぜこうなのですか 聖書は間違いですか いいえ 違います 形はありますが 人間の姿ではないです 例えば 神は私達の考える様な ものではありません 神は自身の似姿に 私達を創造します つまり私達は光であり 力であり 智慧であり 愛であり ただ 神のように全能です それでは神は 光の形ですか ええ あなたが神を 見たければ光だけを 見なければなりません なぜなら聖書に神が モーセに現れた時にも 記されているからです

神は炎のようだったと さあ 私の言う事が 分かりましたね ええ 神の姿とは 普通のいわゆる想像の 姿ではありません 神は美です 神は栄光であり愛です あなたが神に会う と言う時 本当に 神を感じる時 どう感じますか

恋人に会ったら どう感じますか 本当に恋人に会ったら 心が溶けます そうですよね とても素晴らしく感じ 有頂天になりますね これが神と会った時の 感じ方です でも恋人との時に 比べたら 一千億倍ですよ あなたがこの世で 一番幸せな瞬間の 何百万 何兆 無数倍の 強さです これで 神に会う時にどう 感じるか分かりますね ですから誰もが 修行したがるのです 誰もが神を 見たがるのです とても卓越し美しいと  知っているからです だから神を愛する者は 皆決して修行から 離れたがりません 分かりますね

本当に心底愛する人に 会う時のように 離れたくは ありませんし 一緒にいると 気分が良いのです 何が起きようが 構いません ただその人から 離れたくないのです あなたがこの瞑想法を 話された時 実際には どれほど必要ですか 修行せねばだめですか 毎日 瞑想しないとだめです それは魂の糧です どれぐらい時間が かかるものですか 二時間半です 二時間半ですか はい ですが習慣で 日々増やせます 初めはできないかも しれませんので 一時間にしてもいい ですが 一度に続けて する必要はありません 分けてもいいです

ここで三十分 あっちで三十分 それで構いません ですが長い間 修行した後は あるいは いつか とても慣れるでしょう それにサマディにも 入るでしょう 深い至福の境地の様で あなたは出てきません 時には 六時間経っても 気づきません 瞑想法を学ばれた ことはありますか 私達は皆 瞑想の 方法を知っていますが 忘れているだけです 私が思い出させますよ 瞑想中 頭脳は 何を考える ものなのですか (何も) 何も 自由です 静かに座るだけですが 後で詳しく話します そんなふうにただ聞き 家に帰って 座って 独りでやって 問題を起こさないで 学びたいなら 正しく学ぶことです

私がゆっくり 教えます 学ぶ時間を 取りたいなら すべてを知るには 数時間の 説明が必要です そうでなければ  無言で座るという 一文だけ聞いて ただ無言で座っても 静かにならず 厄介なことになります 分かりました 明後日 印心があります 完全に 学びたいのなら 申し込めます しかし 今から 菜食になる必要が あります まだなって いないのなら 美味しい飲み物を 入れたいのなら コップを洗います コップが汚いと 飲み物が台無しです

そうしたら美味しい 飲み物になるどころか 中毒を起こすでしょう それで多くの人々は 精神に異常があり それは彼らが 神と接触する 正しい方法を 知らないからです 神のそばに行くには 私達は行動 言葉と 思いを浄化せねば なりません でも実際に体験して 学びたいのなら 弟子が説明できます その方が早いです いつでもここに来て いいです 瞑想方法を あなたに教えます 何かを学ぶには 時間が掛かりますが その方が安全です

悟りに時間がかかる 訳ではなく 沢山の情報を 知る必要があり 天国への道は 長いからなのです 毎日行くべきで 毎日 一インチ 神の王国に 近づくのです ほんの少し知る事は できません それは 問題に出くわす場合に 自分で対処する方法が 分からないからです

従って 責任は私達が とらなければ 私達が教えたら貴方は 完全に独りでも自分を 面倒見ねばなりません そうしないと 悪魔の 罠とかに 遭遇する時に 誰が助けますか それは良くありません 印心には何が 含まれますか 多くは含みません 私達は先の道について 時間をかけて 以下を説明します  問題に出くわしたら 何を見て それに どう反応し  どう理解して  どんな光が神の光か そして どんな音が 神の音で どんなものが 違うのか 何を避けるべきで 何に注意するべきか 印心は 公式な儀式では ありません

内的な伝達ですが 外面的な指示が この先の修行のために 必要なのです それは 一日だけの 修行ではないからです ただここまで進んだら 終わりではないので あなたはもっともっと 先へ行くのです それで私達は基本的な 情報をいわば 説明せねばなりません それだけの事です   だから時間が多少必要 悟りに時間は不要です 開悟はとても 速いのです 印心を受ける時は 接続するようなもので すると 光を得ます

マスター 私達が 自らを創ったと言われ ましたが 聖書には 神が創ったとあります その文について 説明して頂けますか はい その通りです しかし神は誰ですか 「汝は神の寺院 ではなく 聖霊が汝の中に宿る ことを知らなのか」 だからあなたは神です 神を実現するまで それは分かりません 父なる神と一つに なるまで そうしたら あなたは叫べます 「神と私は一つだ」と あなたが神という意味 聖書には 沢山書かれています 一つではありません それで 違うレベルで 違う質問に 答えるために 私は 違うことを言いますが 全て聖書にあり それから外れてません

あなたが神の神殿で 神があなたの内に 宿るなら ここに 神の他に誰がいますか 聖書で神が貴方の内に 宿ると言ってるなら それは「私達」ではなく 神なのです マスターは私達は神の 神殿だと言いますが それでは 私達は神の 一部だと言えますか すなわち 神は 一つの単位であり 私達は多くの単位に 分けられたと 神は大きな単位であり 私達は小さな単位だと そう言えますか そう言う人もいます でもそれも本当です

私達が父なる神と 一体でない限り 私達がまだ悟りを得て いない限り そして イエスがしたように 神の子の位置に昇って いない限りはそうです いったん その位置に昇ると 父なる神と一体だと 主張できます その時 私達は全体で 神であり 神と一体で あり 分離しません 今のところ 私達は離れています

離れているのを知って 離れていると思うから 私達は神から離れてる ことより良いものは 何も知りません しかし後日 私達が 修行すると 修行して父なる神と 一体だと 分かります それでイエスは生存中 こう言ったのです 「私は神の子であり 私と父は一体である」 人々は彼を 信じられず 「あなたは神聖冒涜で 神を侮辱しています よくも自分と神が一体 だと言えたもんだ」と でもそれが彼の水準で それで彼は知るのです でも私達は知りません それは私達が イエスでないからです それで彼を崇拝 するのです 彼はその レベルに達し 私達は 達していないからです

でも私達も出来ます イエスが約束しました 「私のする事は何でも 皆もできる 一層よくできる」と そう言ったでしょう また彼は言いました 「皆 神の子である」と 自分だけが神の独り子 だと言いませんでした マスター イエスと 私達の間には違いが あると感じています イエスは神と決して 離されませんでしたが 私達は離されています それでイエスを神の子 だと皆は言います そう私は信じています あなたが言いたい事は 分かります イエスが 悟りを得る前 彼は 自分が神の子だとは 主張しませんでした 砂漠で四十日間 瞑想に沈んだ後に彼は そう主張しただけです

その時 彼は悟りを開きました その時 彼は自分が 誰か悟りました その前は 私達の様に凡人でした 自分が神の子だと 知りませんでした ね 彼はその前 三年半は 説教しませんでした 彼は自分で何も   主張しませんでした でも 聖書によると イエスは生まれる前に 神であったと 述べています ええ 彼は 生まれた時 神でした それ以後 永遠に 彼は神でした それは 彼は常に神という意味 でもマスターによると 彼は修行して ようやく神になったと  おっしゃいました

いいえ 彼はいつも 神の子でした 常に神といましたが 彼は悟りを得るまでは 知らなかったのです 同様に 私達は いつも神と一緒でした 私が 皆いつも神と 共にいて神は皆の内に 存在すると言っても あなたは信じませんね

あなたの神 私の神 それは同じものです あなたと私のレベルは 同じで 等しいです でもあなたは決して 信じないでしょう 私達の観点が異なり 理解が 異なるからです でも 私達は神の子で あり 私達と神が一つ であることは本当です そう言う他ないです それは百%真実です 自らそれを悟るまで 私を信じるのは 難しいです イエスが 在世中 弟子に こう断言した時 イエスを信じ難かった のと同じです 「私のする事は何でも 皆もできる」 「私の父なる家には 沢山の部屋がある」 「私を信じる誰であれ 父の下に行き 決して 暗闇を歩きません」と しかしそれでさえ 彼が生存中に彼を信じ 彼が歩いた道を歩く事 それが彼を 信じるという事です

さもなければ 皆は今 彼を信じていますが 皆が父なる神の下に 行く訳ではありません 誰も戻って来て貴方に 父なる神の下に行った と言いませんでした しかし 私達の弟子は 毎日戻って来て 言います 「たった今 天なる父と共にいた  私は面と向かって 神を見ていた」と そういったことをです 私達は死者を信じ られません 生者を 信じるしかありません 私達は今 証明する しかありません 二千年前の事を証明 するのは難しいです

マスター引続き貴方の  歴史的背景について お伺いして良いですか 今までどうたったかね 私は観音法門を 修行してきました それは何が きっかけですか 調べたのです 私は神と一つに なりたかったのです 仏陀は何かを 知りたかったのです なぜ仏陀は 仏陀になれて 私はなれないのか 知りたかったのです その違いは何か 私は次から次へと マスターを探しました ある寺院から 別の教会まで探して 至る所を探して 最終的に 一つ見つけたのです 正しい所をです

あなたが今 探して いるようにです 多くの教会や 多くの寺院 いわゆる 多くの師の所へ 本当の師の所へ行った かもしれませんが でも満足できず それで いつか あなたが望む誰かに 出会います 彼が

真理を話してると思い 学びたくなるのです そういうことです はい 神が とても純粋でも 私達が罪を犯すのは なぜでしょうか 神はどう私達の中に 存在するのですか 神が私達の内に 宿ったら間違いなく 罪はもうないからです はい それは 聖書の言う 逆説的なことです 一方で 私達は罪深く とても悪いと 言われています もう一方で 神は内に 宿ると言います ですから 直接神に 理由を聞くことを 勧めます

私達は罪深くないです 元々 罪深くなく 決してそうでないです それはただ 私達の人生の経験が 人生での他の 生き物との交流が 状況によって 私達に異なった 反応をさせます その時の判断に 誤った判断か良い 判断かによってです それに応じて それを失敗したとか 間違ってやったと 感じて 罪を犯したと 言うのです また それに応じて とても上手く 良く出来たと 感じれば 福報が あると思うのです 恐らく神によれば 両方に福報と 罪深さがあります 神を知って初めて 神が分かるのです

一度神を知ったら 違って見えるのです 私達は 神の目で見て 無差別の目で見て 愛情の理解の目で 見るからです 悪霊がいないと言う 意味でしょうか 悪霊は罪だからです それは実際 錯覚なのです はい 悪霊はいますが 錯覚はあります 従って 罪はなく 罪はすべて錯覚です しかし この世界に 住んでいる限り こう言えないのです 「すべて錯覚だから 好きな事ができる」と それでも良心の 呵責があるからです 後ろめたい感情です いずれにせよ たとえ  錯覚の世界に住んで いてもそれに合わせて 行動するべきなのです

なぜ他の人を殺す 必要がありますか 私達がそれは錯覚だと 知っていても 彼は知らず 苦しみます 従って 他の人や 他の生き物の感情を 取っておくのです それが錯覚だと 知っていてもです

そして悪を避け 善行をします 他の人に良いからです あなたが開悟しても しなくても 私達は 一緒に暮らすのです 分かりますか (有難うございます) 例えば あなたは父親ですね 子供はいますか (はい) 分かりました

子供がおもちゃで 遊んでる時 あなたは 叱ったり おもちゃを壊したり しません それは 無意味なことです それはおもちゃであり プラスチックであり 子供向けのものです 子供と遊んで言います 「わあ この車は キレイで 速い」とも 小さなプラスチックの 車なのに走らせます 「ブーブー」と そして言います「わあ  カッコ良くて 速い 競争しよう」と そうしたら 子供は喜びます すべては子供の 遊びだと知っていて 責めたりはしません 子供と遊ぶ時は それに応じた 振舞いをします

満足しましたか はい 満足です ありがとうございます

印心を受ける 状況としては 他の人々と比べて 非常に厳しそうですね (はい そう信じます) 一〇〇%従えない 人でも おそらく 五〇%や六〇%でも 印心を受けれますか

ええ 印心の五〇% いいですか そして五〇%の 開悟ですね 神の家に五〇% いるのです では 五〇%は 地獄へ行き 五〇%は 天国に行くのです それでいいですか 取り決めをしましょう 何かをしたい時 何かをしたい時 それを完全に 心をこめてします そうでなければ 事業でさえ 成功しません 英語を学びたい時 先生が教えた すべての文法上の 規則に従いますね そうでなければ 中途半端な英語を話し 同じ時に 同じ時間 学んだのに 無駄にし 文法の規則を 尊重していません それでなぜ英語を学ぶ 必要があるのですか あなたは失敗せずに 毎日二時間半の 瞑想を主張しますか 最善を尽くして下さい 申込用紙では最善を 尽くすよう言ってます

つまり 先生ではなく 自分自身を ごまかさないことです 私はそこにいて貴方が 瞑想に失敗したか どうか言いませんが でも貴方はいるのです どんな事を学んでも どんな事を学んでも 努力をし 正しい 時間を費やすのです 英語を学ぶのに 数ヶ月 数年かかり 毎日かなり学ぶ 必要があります そして 神の近くに いたいのなら 努力すべきです 二十四時間 神から 与えられ 神のために 二時間半しか置かず 多過ぎると感じます 体だけのために 働くのなら この体は短命で ある日それを持ったら 翌日なくなり 毎日八時間 十時間 それに費やし 服を着て 食べます

それで たった 二時間半を 神に費やすのです それが駆け引きだとは 思いません それを考えると 天国に行きたくなり それは難しい仕事です 長い道のりです 長い道です 永遠の命に二時間半は 少なすぎて 儚い命に 八時間は少ないです 考えてみて下さい 論理的ですか キリスト教と仏教を 比較するなら なぜ キリスト教は簡単で 仏教はなぜ 沢山の違う道を行く 必要があるのですか 観音法門のように これらはとても 難しいことです 両方を比べると ほとんど共通していて 結果的には 同じなのです その通りです 私達が 同じ事を得ればです

ご覧のように 私は仏教徒だけでなく キリスト教徒でもあり 仏教徒の 伝統に生まれて 仏教徒のような 生活を送って いましたから 私が仏教徒だという 意味ではなく 本当の キリスト教徒の生活も こうあるべきです ただ私達が仏教 キリスト教を切り離し そして混乱するのです 私は講義で説明した ことがあります 「キリスト」はヘブライ 語で「仏陀」の意味で インドの梵語では 「仏陀」は[キリスト]を 意味します それは「グル」が 英語での「マスター」 英語「マスター」は インド語での「グル」 であることと同じです いいですか 

素晴しい さて永遠の生の方法は 生命を尊重しなければ ならないことです 私達がどんな生命でも 切れば 自分のを 全体の一部を切ります 永遠の生が欲しければ 生命を尊重すべきです そういうわけで 私達は菜食するのです 聖書では 常にそれを言いますが あなたが読まないだけ 聖書で神は言いました 「誰が言ったのですか  これらの雌ヤギと 雄牛を全て殺して 私にささげよと 汝らはこれらの罪を 後悔せねばならない さもないと私は 決して汝の祈りを 聞かない 汝らの 手は無垢なものの血に まみれているから」 ある箇所で神は全ての 人を殺されました

彼らは神にマナの代り 肉を与えることを求め 神は砂漠で常に マナを彼らに与え ある日彼らは 「なぜ肉をくれないの ですか」と言いました 神は肉を与えましたが 彼ら全員を殺しました 覚えてますか なぜ 神は言われました 「飲酒する者 肉食を する者と交わっては ならない」違いますか 聖書にありますね はい 私が仏教徒であると 言わないで下さい 仏教徒の生活様式が キリスト教徒のと違う と言わないで下さい 違いはありません ただ私達のある人は 本当のキリスト教と 仏教の生活を送らない それで 私達は違うと 思うのです

私には 私は 本当のキリスト教徒で 本当の仏教徒で あなたが呼ぶ いかなる本当の宗教の 本当に聖書を よく読めば 同じものです 

今 こうしていることは 仏教徒の生活様式 ではなく 悟りの方法です それは菩薩の方法です 聖人の方法です あなたが常に 人間でありたければ あなたは自分の生活 様式を守ります お金を儲け 子供を産み この世に生きます 世々代々 来世も それに満足すれば それでいいです 天なる父のもとに 帰りたければ 私は本当のキリスト教 及び仏教の方法を 提供します それだけのことです どこへ行きたいか  何をしたいか あなたは選択します

あなたのこれらの 話を聞いて 私は 同意します 好きです でも 一つ質問が あります(どうぞ) これですが 私が この種のレベルに達し たければ 私は尼僧に ならねばならない 印象がありますが (いいえ) あり得ませんか 私は仏教について 学んだとき 強い宗教的な背景を 持ちませんでしたから 私は学んで 探し続けました 私の印象ですが 非常に霊的な 昔の人は 送りません (世俗の生活) そうです 世俗の 愛を有していて 子供もいます しかし 修行生活をするには 世俗的な生活を 放棄せねばなりません 私にとってこれは 霊修行の生活をする ことを意味します

ただ全ての人がこの レベルに至るとしたら 生命は続けられません 私の考えは正しくない かもしれませんが 子供を持たなければ 命は続けられません 霊的な面で ええ 私達は霊修行を続ける 体が必要だと思います よくわかりませんが つまり 子供を持つと 世俗的な生活を営み 高い意識レベルに 到達できないという 意味ですか そうです 子供がいれば 必ず彼らの 面倒をみることですね (そうです) 負担になるという ことですか こういう意味ですか そうです 完全に 自由ではなく 修行生活を送る事です 講義を聴きながら 感じた印象です

釈迦牟尼仏も 家族を離れて 悟りを開きました 彼は出家する前に 子供と妻がいました 前に子供がいました 分かります しかし開悟した後 妻も子供も いません(そうです) 私の質問は 世俗の生活を しながら同時に 修行し開悟できるか ということですね そうです (できます 可能です) でも もちろん 世俗的な欲望を 最低限にできる限り 減らすことです けれど誰もが子供を おいて出家できる わけではありません 心で出家する ことができます 戒律を守り 妻や 子供を 修行仲間として または仏陀の子供 として見なし仏陀や 神の子供の世話を 責務とするのです 尼僧になって 尼僧になって 慈善の仕事をし 他の人の世話をする のと同じようにです 縛られてはいますが 超越します

家庭を持っていますが 自分と 家族を 神に任せます 神の代わりに家族の 面倒を見るのも 一種の出家です この種の出家は 剃髪して 寺に隠れるよりも 難しいことです これができれば 真の聖人です 泥の中にいながら 汚れない 蓮の花のようにです あり得ることです 釈迦が在世の時に 偉大な菩薩が いました 維摩大師です 彼は 在家の人でした 彼は富豪でした 妻も子供も 友人も 何でもありましたが 悟りを開いています 多くの出家者よりも 勝っていました 皆が彼を畏敬しました 彼はとても賢明で 雄弁家だったからです 皆は彼に会うのを 恐れていました

ですので 出家して始めて 悟りを開けるかどうか 言えません 自分次第です 人生の見方によります 超越して この世に生きながら 世界に流されません これはあり得ます すべては心によります 見ての通り 釈迦牟尼仏は 悟りを開いてから 息子を連れて 行きました 息子のラーフラは ずっと彼のそばにいて 彼の妻も後に 尼僧になり 釈迦のそばにいました 近い所ではありません そうです 肉体関係は 肉体関係は まったくありません しかし愛し合っていて 子供に対する責任を 果たしていました できない事はないです こんな形で 世界に留まり 自分の責任と 国に対する義務を 果たすことができます

しかし執着しません これは責務であって 国も家族も 捨てる事はできません 子供を捨てたら 誰が世話しますか 子供がない場合 または持ちたくない 場合はいいのですが すでに子供がいれば 面倒を見るべきです 状況がそうだからです もちろん 誰かがあなたの子供の 世話をしたいとし あなたも納得し 子供も納得した場合 出家することを 決めてもいいのです ただ人それぞれで 子供は霊修行の 妨げではなく 家庭生活も 知っての通り 障害物ではなく彼らは 責務と愛なのです あなたは人を愛する こともできます 修行すると もっと多くの愛を 得ますので ならもっと家族を 愛することができます 

彼らはより早く もっと必要とします 私達の心は大きく 皆を愛します 家族を含めてです 家族を捨てる必要は ありません 悟りを開いた後は どっちでもいいのです ただ開悟した人は 肉体的な 関係にふける ことはありません しかし妻や 夫がまだそのレベルに 達していなければ 二人は徐々に 調整することです できるだけ 避けることで もっと多くの時間と エネルギーを 霊修行に集中できます そういうことです しかし出家した からといって いつも霊修行の ことを思うとは 限りません 正直に言います 皆が来て 付きまとい困らせ 皆が来て 質問します そこでまた悩むのです 他の事も皆同じです 自分が一番いいと思う 事を選択して下さい
マスター 今日の午後 私は即刻開悟について 質問をしました (はい) あなたは 印心の時 弟子は即刻開悟を 得ると言いました しかし彼らに毎日 瞑想を二時間半する ことを求めています それは彼らは 一時的に開悟した ことを意味しますか それとも・・・ よく理解できません (はい 分かりました) この質問をしてくれて うれしいです こういうことです 子供がいるとして 子供は生まれましたが まだ成長していません そこで毎日彼らを 養わねばなりません 成長するまでです 一旦開悟すると あなたは開悟してます

しかし自分をもっと 知らねばなりません 開悟して 一日経てば 自分を少し知り 開悟して 二日経てば 自分をもっと知り 神を知ります 神は一日で分かる わけではありません マスター たとえ少しでも 世界の苦しみの本質を 知ったことでも 開悟したことを 意味しますか 世界の全てのことを 知っていることは 開悟なのですか この世界の 苦しみの本質を 少しでも 分かったことも 開悟したと 言えるのですか それは理解であって 開悟ではありません 開悟は 光を意味します あることを通して この世界の 無常を見た時  この世界は苦しみで はかないと分かります

私達は知っています 皆が分かります 子供でも分かります ですから 「開悟」という 言葉を使っても 誰も止めません でも開悟の真の意味は 「光」を意味します ですから光 つまり 神の光を見て始めて 開悟したと 言えます もちろん 開悟には 色々なレベルがあり 開悟の初日は 二日目と異なり 一年目は 二年目と異なります

あなたがなぜ この印象を受けたか 私には分かります ある人は 花の中心を見て 開悟したと言います そうですね しかしそれは彼が 開悟の仕方を知った後 得た開悟なのです すると たとえ 遊んでいる時でも 開悟することが できます 昨日 私の アメリカ人の弟子が 美しい体験をしたと 話してくれました ドラムを叩いている時 別の世界に行きました これは印心後 彼に起きたことです もしくは たとえ 印心していなくても 偶然マスターに 一人の大変 開悟したマスター 真のマスターに会うと たとえその人について 学んでいなくても 彼はやはり加護します

そして突然 家に帰った時 色々美しい夢を見ます 美しい所を見たり 禅定に入り 至福を感じたりします その人はこれが どこから来るか知らず 実際 この祝福は開悟した マスターからのもので その人には分りません ちょうど たまたま お菓子屋かコーヒー ショップを通った時 またはあなたに ロンドンの道を聞き 彼の目を一回か 二回見ただけです これは一種の 非公式の印心で それであなたは 加護を受けます そして 時々 花を眺めていると 花の芯から 美しい世界が 見えてきたり 花の芯から 光が見えたりすると あなたは開悟は自然に 来たものと思うのです

アメリカから来た 私の弟子は 印心を受けた後 誠心誠意 熱心に 修行していたので 私は彼女に 一分二分でも瞑想 できると教えました 道を歩く時 頭を使う必要のない 仕事をする時 目を閉じて 私が 教えた通りにしなさい と言いました これは一分間瞑想 二分間瞑想と言います しないよりいいです 例えば 一ポンドか 二ポンド または 一ドル稼ぐのと同じで 百ドルではないですが やはりお金なのです 私は彼らに 日々の暇を利用して 瞑想するとより強く 力がつくと教えます とても簡単です 電車に乗るとき ぼうっとしていないで 瞑想するのです トイレでぼうっと 座っていないで 瞑想できます

飛行機に乗るときも 雑念を出さないで 時間を瞑想して禅定に 入るのに使います 皆にとって 瞑想はとても便利です いいですか 彼女は印心を受けた ばかりの時 とても熱心でした 家に帰ったから 時間がある時はいつも 瞑想しました とても高い境界でした 大変高い境地の 体験をしています 彼女は様々な 違う世界を見てきて 見方も違ってきました 彼女はあまり教育を 受けていませんが 彼女の話を聴くと まるで聖人や菩薩が 説法するようです 彼女は自身の 体験から話しますので 知っている世界は いわゆる聖人より多く「聖人でも 不案内な世界」を 彼女は知っています

ある日彼女は 髪を洗っていました 知っての通り 女性は髪を洗う時 このように 頭を下げて このように洗います 彼女は目を閉じました これも一種の瞑想です 彼女は「ああマスター 光を見ました 下からです なぜ光が 地獄からくるのか」と 私に聞きます 彼女は 上は天国で下は 地獄だと思ったのです 彼女は「マスター なぜ光が地獄から くるのか」と聞きます 実際 光は地獄からではなく 彼女自身の 神の王国から来ます 逆さであっても 裏返ししてもです 彼女はとても純真です 彼女は 無学な女性だからです 彼女の人生は 六人の子供を設け 夫の世話をし 子供の世話する以外は 何も知りません

何の 宗教的な背景もなく 何もありません ただ 信心深さと純粋さです だから聖書に曰く 「心が純粋な人は 幸いである 神の王国は彼らの中に あるからである」と また「子供のように 無邪気にならない限り 神の王国には 入れない」と マスターがやりたい 事は必ず成し遂げます ただ私達が考えている 世俗的なことではなく 霊性面でです マスターは人々の 目に見えない面の 世話をします だからインドの人は グルつまりマスターを 大変尊敬します 彼らはマスターを 一目だけでも 見たがっています 時にはこんな感じです 私は一人のインドの マスターを知っていて 彼は一九五〇年に往生 しました

彼が在世の時 汽車で旅をしました 農夫が右側の 外の畑で農作業を していました そのマスターが 窓の外を眺めた時 その瞬間 その人も たまたま見上げました そういう感じで 一秒で 通り過ぎました その三日後 その農夫は死にました 彼はそのマスターが 現れて彼を連れて上に 上がるのを見ました 亡くなる前 彼は 周りの人に言いました 彼は 「そのマスターを見た こんな顔をしていて 今やって来て 私を連れて上がる」と 言っている ちょうどその マスターの弟子が 彼のそばにいました 彼の説明を聞いて その弟子は この写真と 同じ人ですかと聞くと そうだと答えました

一目見ただけで 彼は解脱したのです 仏教の伝統にも この種の話が 沢山あります 例えば 地蔵菩薩は 在世の時 誰でも彼の名前を 耳にすると面倒を 見ると誓いました ですから 菩薩や聖人の力は 無限です 私達の 判断や理解や認識を 遥かに超えています マスター あなたは 印心後 毎日少なくとも 二時間半の瞑想が必要 だと言いました(はい) なぜ瞑想を強調するか 私は知っています 瞑想は 神と連結する 時間だからです 一日は 二十四時間ありますが 私達は二時間半しか 瞑想しません 睡眠時間と普段の 責任を 履行する時間を 除くと残りの 時間はあまりないです

これらを前提として 瞑想すればするほど 高いレベルに至ります あなたが 本当に 真の印心と法門を 得たのであれば さてあなたはさっき あなたの 最も素晴らしい弟子が 起きている間の時間を 起きている間の時間を 十分に利用して 瞑想すると仰いました 今 私が推測するには 仏教の伝統では 専念といいます (そうです) 歩いても食べても 寝ても専念します そこでですが この種の専念は 観音法門とある程度 関連がありますか そうです ただ やり方が違います 

違う方法ですか 例えば 他のいわゆる禅宗では 歩くときは自分が 歩いていると分かり 歩く事に注意を 払います 食べる時は食べる事に 注意を払います 皿洗いをする時は それに注意を払います それも結構です もちろん私も弟子達に この方法を教えます 運転する時は 運転に専念し 皿を洗う時はそれに 専念します でないと 皿を割ってしまいます それとは別に 同時に瞑想する 魂があります

暇がある時はいつも それに集中するのです つまり内面の光と 内面の音に集中します しかし時間が ない場合は 手元のことに専念 しなければなりません では 内面の光に 集中しますか それは意識と 関係ありますか 自分が何をしているか 分かっているのですか 内面の光に 向かって行く時 意識ははっきりして 自分が何をしているか 分かっていますか 完全に意識しています それは 起きている間いつでも 瞑想できるということ ですか 座ってする 二時間半以外にです それができれば たぶんそこまでは集中 できないと思います

おそらく 二時間半以上は 瞑想できないでしょう 多忙の中では もちろん瞑想は沢山 するほどいいのですが 最低限の時間です それは 座って集中して 瞑想する最小限の 時間ですか 日常の仕事をする時 集中してやると 瞑想と言えますか ええと それは違います 仕事をする時は 働いているのです 瞑想とも言えますが 瞑想も様々で お金や女姓や 男性や色々な事に対し 瞑想します これも瞑想と言えます 私が言う瞑想は神です これは異なります それは 人が高い意識 レベルに至るのに 有益ですか 例えば 完全に 自分がやっている事に 集中し他の事はすべて 除外する場合です そうです 

様々な 種類の開悟と 様々な種類の 集中があります いったんマスターの 水準に至ると何を するにしても瞑想です その前は何をするに しても世俗の仕事です 少なくとも 世俗の流れをカットし 二時間半瞑想した方が いつまでも 世俗の流れに おかれるよりましです もちろんマスターは 食べている時も 目に見えない仕事をし 寝る時も私達のように 寝るのではありません 例えば 真のマスターはここに 座ってお茶を飲んでも 数千里離れた所に それぞれ異なる 弟子の前に現れます 弟子が助けを求めた時 事故に遭った時や 問題が生じた時です これが 食べていても寝ても 禅だということです

完全に起きています この場合はそうですが その前は違います 以前私も瞑想しました 釈迦も 仏陀になってからも 瞑想しました どうして分かったか というと 仏典を読むと 冒頭は皆こうです 「釈迦牟尼仏は 瞑想三昧から 目を覚まし このように言った」と いずれもこうです そうですね ですから釈迦は 成仏してからも瞑想 した事が分かります ただ彼の瞑想は 一種の付加的なもので 休憩であり 弟子のための手本です 実際 彼がする全ては 神の力の中にあります

神の中に涅槃 (最高の天国)に あります そうです それは私達の レベルを遥かに超えて いるという意味ですか この次元の瞑想を 得る道はないですか それを得る道は あります それを得ればできます 私の意味は 二時間半瞑想する 以外の時間のことです それを願うなら いつでもできます

ただ二時間半は 最低限の時間です これさえ できないとしたら· ある人は 時間がないと言います しかし実際 最低限の二時間半は あなたが その利益を知り 感じる時間なのです 例えば 一定分量の ご飯やパンを食べて 始めて空腹感が なくなります

食べたくなければ 食べなくていいです 空腹でよければ それも結構です 瞑想を学ぶには マスターが必要だと いうことですか 一人のマスターに ついて学ぶ時 そのマスター自身が 力に限界がある場合 どうなりますか 沢山のマスターに ついて習いながら 自分の道を探した方が 一人だけを認めて受け 入れるよりいいですか いいえ  不満足なら何も受け 入れる事はありません ほとんどの私の弟子は 印心を受けた後 満足しています 彼らは自分が 探している人は ここにいると知り 自分が求めている 法門をすでに得ていて 充足感を感じています

彼らは他にマスターを 探す必要はありません 彼らが他のマスターに 学びたいとしたら 決して反対しません 私達は イエスや釈迦の生涯 からも分かるように 最終的な道は 自分で探さなければ なりません もちろんです 私は皆さんに どう探すかを教えます 私が代りに探すことを 教えるのではないです それで私は教えます でないと私が代わりに 全部やればよく なぜ印心が必要ですか

自身に頼ることです でもマスターは 案内者で あなたが 途中でつまずき失敗し 時には道中 あなたの知らない事が 起きたりします 見知らぬ道だからです マスターがあなたの 手を取り問題に遭った 時に助けるのです そしてもっといい道を 教えてくれます マスター マスターが弟子に あらゆる辛酸を 舐めさせる代わりに 皆を連れ上げて それで世界の問題が 終われば それは 理想的な世界では ありませんか マスターが皆を連れ 上げるという事ですか (そうです)

ええ 私も賛同します でも昔から それができた師は いませんでした 師に出来ない訳でなく 師に出来ない訳でなく 私達が師について いけないからです 仏陀を誹謗し ムハンマドを 傷つけたりなど それで だいぶ歳月が 経ってから他の人が あえて降りてきます その間退歩しています 師に会わなかった人は 皆 師がいないまま 死にました そうすると彼らは再び 戻って来てどこかに より低級な生命に 生まれねばなりません ですから 師は戻って 来なければなりません すべての師がこれらを 救いに戻るべきです

マスター精神が 伝わって行ったら たとえ信じなくても マスター精神が伝わり あるマスターから 次のマスターへと 教えが伝わったら すぐに全世界が 悟って ここは涅槃(最高の 楽園)になります 他へ行く必要がなく もう修行する必要が ありません いろんな導師に印心を 受けるのは悪いですか 最高の導師が 怒りますか

良い導師は怒りません あなたの動機が 重要なのです あなたが本当の マスターを探すのが ただ悟りを望み 神に近づきたい だけなら どのマスターも あなたを励まします しかしもちろん このマスターが 良い師で この師に長く従ってる 他の弟子の証明により 師が本当に開悟した マスターだと 思ったら またあなたが得る 教えが真実で 本当だと思えば 進歩するために その師にしがみついて いるべきです しかしそのマスターに 疑いを持ち 何か反対の 証明があれば 離れてください

そのマスターが実は 開悟してないことや 自分の教え通りに やってないことや 約束したことを 実現してないことが 証明できて また師が約束どおり あなたに 心の平和を与えず 愛を与えず 修行をしても 安全で 愛されて 進歩しているように 感じなかったら その時 あなたは分り感じます 他のマスターに会う 権利があることを 目的は神を探すことで 師ではありません どんな師も神を 見せられないなら 捨てても構いません ですから神は あなたに怒りません 本当の師なら 理解するはずです

あなたに証明もなく マスターを疑い 他のマスターの所に 行きたいことを あなたが彼と同じか 彼より良い師に会える よう祈るだけです あなたともっと 縁があり 修行の道を後押しして くれるような師にです どちらも同じことを しているからです 弟子達を支え 神を見つけるよう 導いているのです ですから 師が怒る はずがありません 残念だと思うだけで 怒りません 個人的な質問です あなたは自ら 自然に悟りましたか 師に導かれましたか 自分で悟りましたが 良い師の導きも 要ります 個人的にあなたは どうですか 例外はありません

私は悟っては生まれず 誰も悟った状態で 生まれてきません たとえ以前 悟っていても 前世でそうだとしても 私達は再び始めねば なりません しかし より早く悟る でしょう 既に私達が 悟っていたなら 高次の世界から ただ降りてきたなら 数千年も この世の輪廻で 走り回っている 代わりに ある人は直接 天国から来ます 彼らが多くの生涯で あるいは前世で もう開悟し解脱して いたなら 今彼らは 喜んで再び戻って来て 無明な人達を 教えるのです イエスとか仏陀の ような場合はとても 早く悟ったでしょう

他の人達はゆっくり 得たり いつも彼らが するのと同様に得たり それは彼らの信心と 修行と蓄えてきた 福報によります 何より神の恩恵ですね 神の恩恵は重要です マスター 人が死ぬ時 何が起こりますか 魂が解放されたり 死後 一般的に 何が起こりますか 死んだ後ですか 通常人々は 阿修羅界に行きます 彼らが何か悪い行為を しなかったら 阿修羅界と呼ばれる 世界に行きます 魂がしばらく休むのに 良い世界です それから 再び 肉体を備えて この 世界に来るでしょう この間の時間が 長いか短いかは その人のカルマ つまり行いの蓄え 次第です

しかし 罪が重過ぎる 他の人たちは 地獄と言われる所で 彼ら自身を罰します それはそうすべきと 彼らが考えるからです したがって 彼らは 罪を清算し終わるまで そういう世界に 落ちていて その後 彼らも再び生まれます 良い行為をした 人々はもちろん 彼らの良心がそれを 覚えていて 自分達が 良いと知っています それで彼らは自分達が 天国に値すると考え したがって 彼らは天国へ行きます それでいわゆる天国と 地獄があるのです 天国により良い世界も 地獄にはここより悪い 世界もあります

「地獄」とは 苦しみの世界で 意識の苦しみの レベルで そこで 私達は罪意識を全う しなければなりません 私達は自分を罰します 神はそれをしません 私達に内在する 神が何が良くて何が 悪いかを知るからです いわゆる悪いことを したと思ったら 私達は自分自身を 罰しねばなりません 神は正義だからです 私達はいわゆる 間違ったことをしたり それが間違った事だと 思うがゆえに 自分自身を許せません そこでいわゆる地獄で それを直すのです 世界の終わりが 来ているとの 予測があります あなたのご意見は それは世界の終わりが 来ているかどうかが 問題ではありません

問題は世界の終わりに 当たって私達の準備が 出来ているかです あなたが死んだら 明日でも終わりが 来ます あなたが死ぬ時  世界の終わりが来ます 少なくてもあなたには だから準備して下さい 私がインドで聞いた 狼とリスの 物語があります 狼はリスを食べた かったのですがリスは 言いました 「待って あなたは食べられない 私を食べたら 世界は終わります 私を食べないで 食べないで」と 狼が言いました「なぜ お前は一体誰だ お前を食べたら 世界が終わるなんて」 リスが言いました 「私を食べると 私の世界が終わります 私の世界が終わって しまうんです」

私達は世界の終わりが 来ることを心配する 必要はありません 私達自身の終わりを 心配すべきです 結局いつか来るその日 最後の審判の日のため 私達は準備を しなければなりません 誰にも最後の審判の 日があります 有徳の者は 生命を得て 不徳の者はそのまま 死にます 私達は自身を罰すると あなたは言いました ええ 自分を罰します しかし この世では 子供達が 間違ったことをしても 自分を罰することは 決してありません 子供を罰するのは 両親です 更に私達が交通規則を 破っても 私達自ら 警察署に出向いて 私がスピード違反を したとは言いません 私達を逮捕して 罰するのは警察です ですから 私達の 善悪のカルマ(報い)を 目撃するより 高次の証人がいて 私達がした事によって 彼が報酬と罰を与えて るような感じがします

私達が自分自身に 報酬と罰を 提供していると 思うのは難しいです もちろん この世界の 法律と内面の法律は 異なります 私達自身は 意識であり この世ですることは 何でも物質的です 見るためには 肉眼が必要であり 人を捕らえるためには 手が必要です 私達が物質的なことを する限り 物質的な 法律に支配されます

しかし 物質的レベル より更に深いものが あります 私達が故意に人々を 傷つけたとき 私達が 人々の物を奪ったとき そうすべきでないと 分かっていたら警察に 逮捕されなくても 私達自身が常に 二十四時間 自分の 犯罪の証人なのです 私達は良心から 逃げられません したがって時々 私達がこの世で 罪を犯して 警察に 逮捕されなくても 私達は自分が誤ちを 犯した事を知ってます そして 誤ちを犯した 感覚がずっと私達に 付きまといます 私達が何をしても 何を考えても それは一種の エネルギーを形成し 私達を囲み 私達の霊体に くっついています

それで私達は 物質的存在のこの世を 去った後もそれに耐え ねばならないのです 幾つかの犯罪は報いを 超えているからです 例えば 私達が 誰かを殺して 警察が私達を逮捕し 刑務所に入れたと します 私達は 懲役に服します 十年か二十年 または 一生涯の間です でも それは良心の 不安を消せません 私達が刑務所に 入っても その人は 生き返らないからです 彼が死んで 彼の子供達や妻や 最愛の人々が彼を求め 泣き 恋しく思い 寂しくて苦しみます この苦しみがやはり 私達に向けられる一種 エネルギーをつくって 私達は逃げられません

思いに形とエネルギー がある事を知ってます それで催眠術を かけられるのです したがって 思いが 死んだ人と 彼の愛する人々の 憎悪が ずっとあなたを傷つけ 付きまといます そしてあなた自身の 良心がこの種の 後悔のエネルギーを 作り続けてあなたは 厄介だと感じます 刑務所に入っても 取り除けないのです それで私達は 神としてエネルギーや 智慧や魂として パワーとして自分の 犯した誤った行為を 大目に見れないのです ですから良心を 楽にするために 償う方法を 探さねばなりません それで 私達は この種の意識レベルに 落ちるのです そこは 非常に暗くて光のない 苦しみの世界 いわゆる「地獄」です

さもなければ 地獄は存在しません 私達自身の良心を 別にしたら 誤ちを犯した人の 意識を別にしたら 地獄はありません 物質的レベルは 精神的レベルとは 異なります 内面的に 私達は何か 誤った事をしたと 分ります たとえ他の 人が知らなくても 人々が知らないことが 沢山あります 例えば とても邪悪な人々が 沢山います 彼らは人々を呪って 彼らを呪って 病気にもできます 物質的証拠なしでは 警察は彼らを 逮捕できません しかし 内面的に その邪悪な人は 常に知っています そして私達は 演じるどんな良い事や どんな犯罪においても 最高の目撃者です

それで私は 自分自身を罰するとか 自身に天国を与えると 言ったのです それは確実により高い 規則だと言えます それは より高い自分 より高い意識 私達の正義 私達に この審判を記録します それが私達自身です 分かりますか 本当の私達自身です 私には違う 質問があります 私はおよそ七カ月前 アジア マレーシアに やって来ました 以前は 西洋の寺院に 住んでいました アジアに来て私は 寺院で常に家族のため 健康のため あるいは ビジネスのために 天の加護を もとめている 人々に出会います そう そうです 何でも求めます 開悟だけは求めません そうです 

本当です あなたはこれらを どう扱いますか 通常ある人は そのために来ますが 大部分の人は すでに知っています 開悟のために 来たのでなければ 私は何も 与えられないと 私は「店」の外で 広告します 「開悟を売っています」 とね たぶん外で こう言うべきです 「即刻開悟」と すると 彼らはその為に来ます 彼らはよく 様々な寺院に行きます これは人々の 非常に習慣的な 行動と印象で 通常寺院に行って 木の仏像に 加護を求めます だからあなたが そこに座っていて 上品で優しく誰をも 叱らないのを見て やはり木の仏像だと 思い 彼らは 加護を求めます 手を置けるので 木の仏像より良く 彼らはあなたにもっと 多くさえ求めます しかし私の「店」の 外には ただ 外の看板は 開悟だけのためです ですから来た人々は すでに準備が できているのです

開悟したい人だけが 私のところへ来ます もちろん加護や 病気を治す等々の ために来る多くの 場合もありますが 私は言います 治るなら治る 治らなければ 治らない 私は医者ではない 私はあなたに 富を授けられるような 富の神ではない でもまだしています はい でも富の神に 求めるような富では ありません それで私は言います 「あなたは騙せない 富を与えられません あなたは不可能な事を 求めています 裕福になりたかったら より多く布施し 貧しい者と病人を 助けなさい そしたら 将来または未来で 裕福になります

健康を望むなら 病人に 薬を上げなさい 医者になって 自分自身とすべての 患者を世話しなさい 息子を試験に合格させ たかったら一生懸命 勉強するよう言います 私は言います「でも 最良のを提供しますよ 即刻開悟です いかがですか」 いかにしてある人の 足を元に戻せますか 二十年前 戦争中すでに 切り取られた足です 私は彼を騙せません 私は彼に言い続けます 「再び健全に なりたかったら 善を行い 瞑想修行して 肉体から 解放されなさい あなたの本性は常に 健全で美しいです 心配する必要はない これら肉体の足など」 このようなことを 私は彼らに言います

機会を捕えて 彼らに悟りを開かせ 彼らが望むものを 手に入れるため いかに生活すべきか 概念と人生における 方向を与えます 彼らが信じないか 従わないなら それまでです 少なくとも出家者と しての義務を果たし 厄介だと分かります それであなたは どうしますか 人生のすべてに 感謝しなさいと 彼らに教えます (それはいいですね) 神の恩恵として全てを 受け入れて下さいと そう彼らは変われる 彼らは生活様式を 変えてより多くの 恩恵を得られます すべてが神の 恩恵だと見なしたら 苦しむ代わりに すべてが喜びのもとに なります そうです 

でも彼らが 生活様式を変えれば あまり苦しみません 例えば 大量のタバコを吸い 大量の酒を飲んで 健康を期待するなら それを神の恩恵と 見なすと言わないで 彼らにこう言います 「それは自分のせい かわいそうな神を 何でも責めないで 罪のない とても無邪気な神を」 あなたの講義の方法に 関係する 今夜の環境を どう感じますか 会場は素晴らしく 気分良く祝福を感じて 特別な感じは 私はただうれしく マレーシア人からの 祝福を感じました キリスト教の伝統では 常に魂の存在を信じる 間違っていたら 指摘して下さい そう それは事実です 仏陀は常に 魂というものはないと おっしゃいます

それは五つの 元素だけで 死んだらもうないと 私自身は 魂の存在を信じます 私は常に私の心 私の体と言いますから それはつまり 私の言うことに 何か根拠があります 誰もが言います 私の心 私の体 仏陀は魂がないと 言いましたか あなたは間違ったか 違う語を使ったのです 多くの聡明な人たちが 彼に立ち向かいました 彼は常にこの魂の 問題を回避しました ただ知識の論争に 巻き込まれないように 私はそう思います あなたの言った事から すでに魂の存在を 暗示していると 思います

あなたが意識で または良心 または 考えていることは 何でも 魂と 悪いカルマ(報い)と すべてこれらを 述べたとき それは魂を伴います さもなければ悪い カルマ(報い)を心配 する必要ありません だから確かに 魂があるかどうか そうですね はい私は信じます あなたの会話は 魂があることを 暗示しています(はい)

おそらく彼は 人々の 「魂」に関する先入観を 打破しょうと したのでしょう 魂はこんななのか あんなようなのか こんな風に出現するか あんな事をすべきかと 彼らは思うからです 魂には形があると 彼らは思っていますが 実は形がありません 一種のエネルギー 愛 神のようです そしてまた同じように 彼は「神がいない」 彼もまた同じような ことを言いました それは当時 人々の 神と魂に対する概念が 非常にゆがんでいた からです それでゆがんだ概念を 彼は否定したのです それだけです

でなければ なぜ彼は「一つの 源から万物が生まれ 万物はそれに戻る」と 言うのですか それは何ですか 神でないなら それは道か神です 人々は「道」と言い 人々は「梵天」と言い 人々は「神」と言い 人々はそれを 「仏性」と言います だから私達には 多くの争論があります 仏教がより高いか あるいはキリスト教が もっと良いか 仏陀が神より高いか あるいは神が 仏陀より良いかと いつも私に 問題を与えます どこに行っても人々は 同じ質問をします

これ以上 何人の人が 死ぬべきですか

島や国があといくつ 沈まねばなりませんか 私達の口に入る 肉一切れのために あと何百万の 気候難民を 見たいのですか 私達の口に入れる 一切れの肉のために あと何数十億の動物が 小さい木枠の工場で
すし詰めになって 苦しむのを 目にしたいのですか 私達の口に入れる 一切れの肉のために それは交換できるのに 何人の患者が病院で 苦しんだりするのを 目にしたいですか 生死の間をさまようか 死ぬのを 私達の口に入れる 一切れの肉のために あとどれほどの家族が 肉が原因の 病気と死によって 別れ別れになるのを 望んでいるでしょうか

あと どれだけ多くの エネルギーを浪費して 肉を生産したいですか どれだけ多くの穀物 食物を 動物を育てる ため浪費したいですか 何百万もの人々の 飢餓を犠牲にしても 今 すでに十億人が 空腹のまま 一日を終えます 五秒ごとに子供が 飢えで死んでいきます

あと どれほど長く まだ取引を続ける 余裕があるのですか 私達が人類や動物の 苦痛や 環境被害に 直面しても その価値はありません 肉食は本当に 肉食は本当に 恥ずべき選択です

同類の この地球の 他の衆生の苦しみを  無視することを 選択するのは 人道的ではありません 私達が直面している 危機 つまり 気候変動は 地球全体や たぶん地球上の 大多数の生きものを 簡単に滅ぼすでしょう

 
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