智慧の言葉
 
内在の宝の見つけ方‐ 1/4 一九九四年十二月四日、タイ チェンマイ(タイ語)    Part 3
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有り難う 有り難う

たとえ私が ちょっと悟っても 私の遺伝子 DNAは変わりません また体のサイズも 変わりません それで以前皆に見える ように私を担がねば なりませんでした 私が偉大な人であると 誤解しないで下さい 二本の足で歩けるのに あんな風に 神輿の上に座るのは やはり非常に 恥ずかしいです でも 人々の愛ゆえに 恥をしのんで 私の 主義をあきらめねば なりません 皆さん いかがですか 大丈夫  お元気ですか

サバディプロじゃなく ええ 同じです 同じね 分かりました いつかタイ語をよく 学んでこうした素敵な 人々と意思疎通できる ことを願っています 私は本当にタイが 大好きだからです 皆さん全員が 現在 大勢が知っています 私の大好きな国です たぶんチェンマイは タイで 私の好きな都市です タイの人々はとても 穏やかで 優雅です 彼らは急いで ことをしません それで 弟子が 「即刻開悟」の 標語を掲げても それがタイの人々に 訴えかけるかどうか 分かりません 「ゆっくり開悟」に 変えた方がいいかもと 思っていました

でも大勢来るのが 分かって驚いています 多分問題ないでしょう ほら実際 私達は 開悟するのに非常に ゆっくりして来ました なぜなら 多くの生まれ変わりで ある人々は数百 数千 または 何百万もの 生まれ変わりの間 物質的創造を楽しんで 来たからです それで 何人かは 疲れを感じていたり この物質界のドラマに 少し嫌気がさしていて 早くて迅速な方法を 持ちたいと願ってます 悟りを得るため または本来の家に 帰るため 仏土や神の王国に 戻るためにです これは 各々の宗教で使う 異なった用語です おそらく そういう 理由で人々は 即刻開悟を求めて 来るのです

私達の何人かは この世に必要以上長く この生涯より長く 留まっていたく ないからです 私はヒマラヤに 行く前に 同様に 感じました この世の多くの 苦痛と災難について 知った後 私自身も この世の人々の 苦しみや痛みを 共に感じ どんな手段を使っても 即座に救済したいと 願いました 私の命を 犠牲にしてでもです おそらく それで 神あるいは仏陀は私を 気の毒に思い 願いを 聞いてくれたのです ですから それは 世界中の何千もの 私達修行仲間も 同じです

彼らの心が泣いて 解脱を求めたとき 彼らの心が誠実に 真理を 究極の智慧を  切望していたとき 十方の仏陀 十方の仏陀 全能の神もやはり 彼らの願望をかなえ それで彼らも 悟るようになりました 彼らは悟るようになり 観音法門の 修行を通じて 日々 ますます 悟るようになりました そして 将来 他の人の誰でも また同じ祝福を 受けたければ 私たちはこれを皆と 共有できます 果実 悟りの種は 既に我々に 内在しているので どこかにそれを探しに 行く必要はありません

したがって 私たちは 昔の経典において 様々な仏陀や 様々なマスターが 様々な場所で 別の期間中に 別の修行努力で 開悟 したのを見てきました 彼らの何人かは 苦行をし また何人かは 在家で ゆとりある方法で 修行しました 完全な悟りに至るまで 非常に長い時間 数多くの生涯 かかったものもいます ただ数ヶ月のものも いれば 中には 多分 数年のものも また 即刻のものもいます それで 釈迦の 身近な仲間に その当時 一人の 菩薩がいて 彼は 仏陀の境地に達した 八歳の龍女の話を 私達にしました

ですから年齢や性別 例えば 男性女性とか DNAのような遺伝子  龍か人間か また 場所とかは 聖人の地位 悟りを得るのに 何ら 違いがありません ご存じのように 龍の種は 海の底に住んでいて そう考えられていて 彼女は八歳の子供に すぎません 蓮華経を読んだなら 分かるでしょう ところで 八歳の少女さえ 仏陀境地に達せるなら それは即刻か 最長でも二年で なければなりません 昔から今に至るまで マスターはより幼い 子供には 六歳以下の 子供には印心を 与えないからです ですから その龍女が 仏陀の境地を得るには 最長でも 二年でしょう

そしてよく聞きます 人間だけが 仏陀になれる 悟りを得られる 少年 男性だけが 仏陀になれると 今 それとは逆に 別の話があり 少女 女性 幼い子供でも 悟りを 得られるのです 私たちにも 同じ範疇に属する 沢山の子供がいて 彼らは非常に低年齢で 悟りを開きます それで人々は常に 幼少時から 真理を 探求してきた修行者を 賞賛するのです 若い時には 私達の心はより純粋で より高い理解レベルに 内面のより高い 意識レベルに自分達を 高揚させるのは より簡単だからです しかし こうした 昔の人は どのように 悟りを得て 最終的に仏陀の境地に 達したのでしょう

これは私たちが 知るべき問題です それは苦行を通して 或いはリラックスして それとも幼年期の 純粋さでですか おそらくこれら すべてでしょう でも こうした要素に 全面的に頼って 悟りを得るのでは ありません 昔からの秘密があり 最近になってこそ それは多少 公になっています なぜなら 大昔は マスターと共に この秘密の法門を 修行したければ 人々は川を渡り 山を越え その時代の マスターの 愛と受諾を得る為 多岐にわたる 重労働をしなくては ならなかったでしょう 理由は沢山あります

なぜなら 昔は こうした 霊的秘法の修行は マスターや弟子達に 多くの危険をもたらし 民衆や政府そして 自分達の信仰の外に そうしたことが 存在する事を信じない 宗教団体から 迫害を 受けたからです ですからマスターと 弟子達は自分達の身に 危険が迫らない様に 秘密を維持し 目立たないようにする 必要があったのです 例をあげると イエスや 預言者ムハンマド 釈迦でさえ 伝道している期間に 全員が大なり小なり 迫害を 受けました

私はインドで 様々な宗教の 多くの経典を研究し 様々な宗教の多くの 偉大なマスターが 真理を説いたせいで 迫害され 生きたまま 皮を剥がされたり 焼かれたりしたのです 釈迦でさえ 彼は非常に有名でした 高貴な貴族に生まれ 王子であり 彼の名声 慈悲と智慧は インド中 近隣諸国に まで広がりました その時でさえ 異なる宗派や教団に 属する多くの人々が 釈迦を迫害し暗殺まで しようとしましたが 失敗に終わりました もう一つの理由は 多分マスターは 弟子が辛い仕事や 苦行を通じて稼いだ のなら 与えられた ものに感謝して 欲しかったからです

マスターは人間の 心理はそんなものだと 分かっていたからです 懸命に働いたり 稼いだり 追い求めた物は何でも 非常に簡単に 何の不自由もなく 与えられた物より ずっとありがたい事を そのためマスターが 受け入れる前に 弟子達に沢山の試験や 試練があるのです 昔 マスターは マスターに従い 重労働をさせる目的で 弟子に出家させ 肉体の喜びや 贅沢な生活を 全て捨てさせました それはただ 弟子の強さと 誠意を試すためです 古い経典には 同じような話が多く 書かれています でも現代ではそんな 仕事は不要でしょう 多くの人はマスターの 試験を受ける時間が ないからです

テストするのが 悪い訳ではありません それはとても良い事で 高い価値があり多くの 有利な点があります 有利な事の一つは マスターが弟子の ため込んだ悪いカルマ (報い)を背負わない ことです マスターは その為に働きますから マスターは 様々な試験や困難を 使い 弟子を「磨き」 身口意をきれいに するのです そのようにすれば マスターは 印心時に弟子のために 懸命に働く必要も その様な重荷を負った 弟子の悪いカルマ (報い)に耐える 必要もありません ですから昔の マスターが弟子達に 与えた試験や試練には 有利な点が幾つか あったのです でもこの方法は 人類にとって多くの 不利益もありました

それで私達の地球は 未だにこんなにも 遅れているのです 他の多くの惑星 遠い宇宙の果てにある もっと文明化され 進歩した惑星と 比べてです それで今になっても 一宗教内でさえ なおも差別や 内紛があり また世界はなおも 餓えや多くの不当な 行為で苦しむのです 現在でも 多くの国では 私達の教理や 仏教やイエスの教えは 公的に容認されません 今はもう 二十世紀もすぎて 人類は 月にも上陸し火星を 探検したりしますが 人々の考え方と 人々の考え方と 精神面では まだ遅れています

しかしこの秘密を 公に公開することは 私達の予想以上に 容易ではありません 多くのマスターが 命を落としたのは 危険を冒して 人々に智慧は 私達の内面にあると 教えたからです 彼らは命と名誉と 快適さを失う危険を 冒してまで私達の 霊性を高揚したのです 今日における霊性面の メッセージは何れも 古代のマスター達が 残してくれたものです 私達は彼らに 借りがあります 知っている事の全てと たとえ本の少ししか 残っていないとしても 過去の全ての偉大な マスター達の恩恵です

だから人は 寺院や 教会やモスクを建てて 偉大な マスター達を記念し 世界の幸せのために 全てを失った 偉大なマスター達に 感謝の気持ちを 表しているのです 寺院や教会を建てる だけでは不十分です 十分にマスター達に 対する感謝の意を 表せません マスター達が残して くれたメッセージを よく運用することです これは彼らが この世界にきた 目的で  要するに 私達の仏性と 智慧と神の大国を 思い起こさせる ためです 私達は 必ず全力で それを見つけ なければなりません なぜならマスター達が この世界に来たのは 人々に尊敬され 崇拝されるため ではありません 私達にも マスターに なってもらい 自身の内面の偉大さを 思い起こさせること これがマスター達の 目的なのです

二〇〇九年 十一月十六日に 国際会議 「SOS地球温暖化 阻止への素早い行動」 メキシコベラクルス州 オリザバ市で 開催されました ここは「高山の地域」と して知られます
釈迦は言いました 「私はあなたに自身の 仏性を分かってもらう ために来た」と 仏陀と衆生は まったく平等であり 何の違いもないと 言っています 私達は仏陀を 信じているとしても 仏性というものを 分かっていません 教える人がいないか 私達自身それを 知る努力を しなかったからです 自分の仏性を 見つけた人は幸運で 素晴らしいことですが 大半の人は 無数の過去世において 失敗を重ね 困難は毎回 増していきます 一部の人は千里眼が つまり 第三の目が開き 時空を超えて見る 能力を持っています

彼らの目で見ると 世界の人は古い魂で 充満しています つまり この世界の人々は 絶えずこの同じ 地球上に生まれ変り 同じ状況で 同じ生活を繰り返す ということです それは私達が 最初に家に戻る 試みが失敗し 二回目も 三回目も 四回目も四千回も 失敗すると自分が 来た所を忘れます しかし 自分の仏性を 忘れたのであって 失ったわけではなく 随時見つけられます この世界で 数百万人もの人々が すでにその宝を 見つけています 私を含めてです だから貴方もできます 多くの人が私に 開悟した後 どうなりますか 個性は変るか 生活に変化があるか

生活に変化があるか 考え方は変るか 開悟し 仏陀になってから 何をするかと聞きます 皆さんもきっと そう思うでしょう 私はこう答えます 開悟した後も 寝て食べたりします お腹が空いたら食べて 疲れたら寝ますと ただこれは 私の肉体の部分が することです 別の部分 霊的面では つまりすでに 目覚めた仏性は 肉体の機能とは 別に他のことを します ですから 仏陀になった人を 外見ではおそらく その内面のレベルを 測ることはできません 肉眼や 頭脳の理解力では その人が開悟したか どうか仏陀になったか どうか分かりません

しかし霊的知覚力を 持っていたり 智慧が開いていて 瞑想修行している人 生まれつき霊性の 能力のある人は 知ることができます または 仏陀について学ぶと その人の偉大さを 分かります これは私達が英語を 習えば習うほど 先生が英語で話すとき いかにすごいか 分かるのと同じです でないと 少ししか分かりません 先生の指導に 従わず 先生と同じものを 勉強しないと先生の 学識を判断できません ですから最も大事な ことはやはり自分の 偉大さを発見すると 他の人の偉大さが 分かるということです

そうでないと私達は ただ仏陀もお腹が 空いたら食べるし 一日一食でもです 疲れたら寝て しかも病気だってする としか分かりません 肉体や 環境衛生の影響で そうなります 仏陀の ある部分は 永遠に病気せず 永遠に疲れず 永遠に空腹にならない それが真我であり 真の仏陀であり すべての人の内面に 持っているもので 生まれる前も 死んでも ずっと持っています これが今日 私達が ここに来た目的であり 他の所にも行く目的で 人々とこの良い情報を 分かち合いたいのです 要するに私達は 再び仏性 真我を 見つけられます

つまり永遠に死なず 生もなく病気もしない 永遠に存在するのです もちろんこれは 常に無料で与えます 皆はただが好きです これは珍しいものです 今では無料の ものはありません これは無料ですが 努力せねばなりません つまり 一旦智慧が開いたら 私達はそれを保ち 発展させて仏陀の 境地に達するために 毎日瞑想に励まねば なりません 毎日二、三時間 瞑想する必要が ある以外は すべて無料です 私の時間と助言 労力 私が随時提供する 助けはいつでも無料で なぜなら 私は自分で稼いで 賄っているからです 寄付を必要としません

リッチな仏陀も なかなかいいですが 私が仏陀であればです 皆さんが私を仏陀だと 信じていればです 沢山の人が私を 仏陀だと言っています 私は何も考えません ただこの世界での 責任を果たし皆の 恩に応えるだけです この世の人々の お蔭で 私は成長し 教育を受けることが できましたし 智慧眼も開くことが できました ですから私が自分の 時間と労力を貢献 するのは自然な事です 子供が 年老いた両親がいて 成長してから 両親の世話をして 親孝行の責任を 果たすのと同じです 従って 人々のために 奉仕できて光栄です ですから私は 自分のすべてを 貢献します 

財産や 同情心 愛と時間を含めてです 仏陀の教えと 私の開悟した後の 見解から見た場合 すべての衆生は皆 兄弟姉妹です ただ中には この世界で 肉体的 精神的に 苦しんでいる人がいて 先生も弟子達も 全力で彼らを 助けてあげなければ なりません もちろん私達が 霊的智慧と 解脱を渇望している時 無条件に 助けてくれる友人が 見つかった場合 私達がまだ 無知の段階にいる時は 大変ありがたく思い もちろんその先生 霊性上の友人を 崇拝したりします そのいわゆる先生は 時には弟子からの 尊敬と愛と 崇拝に辛抱しなければ なりません これは不必要です

皆が平等で 私達皆が内面に 仏性と神の品性が あるとしたら 誰も他の人がして くれたことに感謝する 必要はありません 最も重要でかつ すべき事は 自分が信じている 先生の指示に従って 修行に励むことです 先生と同じ水準に 到達するまでです これが学生の最も 良い感謝の表現です もちろん全ての人が 古代の聖人達の 生活方式を 好むという わけではありません ですから私達は 修行者の仲間入り するのを嫌っています 恐れることが多いです しかしこれは 口実にはなりません

私達は 悪い事をし 自分自身や 家族や国に害を及ぼす 事を恐れるべきで 良い事 高潔な事 正しい事 霊性上の事を恐れる べきではありません ある人は私に 菜食すると人に 笑われるのを恐れると 言っています 私は「なぜですか 菜食は誰も傷つける 事はない」と言います 仏陀に ならなくても 菜食は 健康にいいのです 私はランナ王国で 30~40%の人が ベジタリアンで チェンマイにも沢山の 菜食の店があることを 嬉しく思います いいニュースです 大分前のことですが 私は休暇で タイに来たとき 菜食の店を探すのが 大変だったのを覚えて います

バンコクでも それに 他の地方でもです 私がこの 「仕事」をする前に 貴国を数回訪れました つまり 開悟する前の話です タイは仏教国で 菜食の店を 見つけることは 容易いはずだと 私は思っていました 時には 私は寺院に行くと 菜食の食べ物があると 思いましたが なかったです 出家者でさえ菜食を 食べられません ましてや私は尚更です 僧侶達は外で 托鉢すると 人は何でも供養します 僧侶達の健康のことを 心配したからです 僧侶達が沢山の 鶏肉や牛肉を食べると 壮健な仏陀になれると 思ったのでしょう 可哀相な僧侶達は 選択の余地がないです チェンマイでは ましだと思います

ここでは多くの人が 菜食をしているから 私は来られたのだと 思います ここに来た時 とても良い感じでした それに宗教的な 雰囲気が濃いです 雰囲気は以前 私が訪れた所と 違います それを感じ取れます 感じられるのです

長い期間 修行した後 私達は生活などの面で とても敏感になります 以前感じなかった事を 感じることができ 以前知らなかった 沢山のことを 知ることができます これが修行の利益です そうでないと外見は 以前と何の違いも ありません 外見は以前より 若くなり 以前より綺麗になった かもしれませんが 修行者にとってこれは 基準ではありません 内面こそが 重要なのです 内面で私達は より智慧があり 過去 現在 未来を知り これらの範囲を超えて ずっと前に失われた 智慧の大きなパワーを 得ることができます

私達はここに来て 皆さんと即座に自分の 宝を知る方法を 分かち合いたいのです そして引き続き それを発展させれば 偉大な本性を完全に 分かるようになります 結果はすぐに 立証できます 多くの人は 初日に彼らの過去と 未来が分かります また多くの人は 数日後又は数週間後 数カ月後に分かります ただこれは 個人の背景と 誠意にもよります これは私達が皆さんに 提供する朗報です 皆さんに質問の時間を 残します でないと 長くなるからです 私はいつまでも 話すことができます 

仏陀の仕事は 偉大ですが 私は皆さんが 自分で見つけて 欲しく 毎日修行し  瞑想することによって それを発展させます スリルな映画みたいに 最後にどうなったか 内容はどうなのか 人に言ってもらうと もうスリルに感じず 映画を見に行く喜びも なくなるでしょう いいですか だから皆さんに自分で 発見して欲しいのです 経の講義の後皆さんと 秘密を分かち合います この秘密を知りたい 人は今日から 菜食をすることを 約束せねばなりません 秘密を半分または 三分の一を 知りたい人は 方便法を習うことが できます これでまずやってみて 好きかどうか 考えて下さい 異なるのは 全部の秘法を 習う人は 今生で 仏陀になることもでき 多くの先祖や 友人や愛する人が 超昇する事ができます 方便法を習う人は 自分だけが 解脱できます ご自分で決めて下さい ご清聴ありがとう ございました
彼が聞きたいのは 死後生まれ変わるか どうかいうことです というのは以前ある 出家者の講義を聞いて その出家者は まだ生きています 彼はどうやって生まれ 変ると分かるのですか どう信じますか いいでしょう 僧侶を疑っては いけません  彼らが言ったことは 仏陀の智慧だからです 彼らは仏教経典で 習ったのです または彼らが瞑想して 分かったかも しれません  修行を積んでいれば 死んでから 分かるというのでは ありません もちろん人は私に 死後どうなりますかと 質問します 私はまだ死んで いないので分からない と答えます

しかし瞑想すると 私達は色々な 異なるレベルの 意識の次元と 境界に入ります すると人が 死んでから輪廻するか どうか分かります これは簡単に 確認できます 問題ありません 確認したい人は 私達の所にきて 観音法門を習うと 自分で証明できます 聴いたことを全部確認 するのはいいことです すると盲目的に 信じたりしません これは賢明なことです あなたは とても賢明です ただ出家者のことを 疑ってはいけません 私達は自分で 調べたり 確認せねばなりません 印心とは 何ですか どのように 印心を行いますか

印心とは いわゆる マスターとあなたが 沈黙の中で瞑想する 事で先生が前にいても 数千里外にいても あなたの内面の 智慧と連結しようとし あなたの無明の門を 開こうとすることで あなたは光を見て 直接 神の教えを聴き 目覚めます マスターが会場に いる場合口頭による 指示があります 時には必ずしも必要な わけではありません それは 心から心 意思から意思 仏性から仏性の 疎通だからです マスターと 弟子の間で 言葉や行動は 必要ありません

多くの人は 誠意と 信じる心により 非正式な印心を 受けます マスターに 会ったことがなくても 数千里離れた所に いてもです 彼女は センターつまり マスターのセンターが あるかどうか 聞いています  何か問題があるとき センターに問い合わせ できるからです あります 世界各国に沢山の センターがあります タイにもあります 後で教えます またはサンプル本に バンコクセンターの 情報が載っていて 調べることができます 修行上の問題は いつでも私に手紙を 書くこともできます 私は一日三時間 連続九日間瞑想した ことがあって 何回も未来を 見ました

なぜこうなのですか 彼はそれが 真実なのか 幻想なのか 分かっていません どんな法門で 瞑想したのですか 何も言ってませんか 先生について 習ったとしたら 自分の先生に 聞いて下さい 私について習った人は 個別に私に 手紙を寄こして下さい 通常はこうです 瞑想して 光を見たり 天国の音楽を聴いて 気分がよく楽になり 愛に満ちて入れば それは事実です 興奮したり 恐ろしく感じたり 脅かされた感じだと それは幻想であり 魔によるものです それ以上 瞑想しないことです 内面の体験は 瞑想の時だけに あるのではありません

時には人が ドラッグを服用したり 極度の苦痛と酸欠の 場合錯覚が現れます ですから 経験深い先生を 探した方が賢明です よい導きがないと 霊修行の道のりは 長くて危険が 伴うからです 今宵は チェンマイで このような喜びの 体験をさせていただき 有難うございました 来てくださって 感謝します そしてあなたの優しい 笑顔にも感謝します 意義深い講義にも 感謝いたします あなたの本を読んで とても気に入ったのは あなたの開悟した人に ついての見解です あなたは開悟した人も 結婚できると 言いました つまり結婚できる ということです

とても嬉しく思います 今開悟した人を あなたのようなとても 普通だけど特別な人を 愛しています 私の全愛で 有難う どう致しまして 死後の人生は どういうものですか 私が知ってると言うと まだ死んでいないのに どうやって分かるのか と聞きます 様々な 宗教の経典によると 現世でどう 生きたかによって 「死後の人生」が 決まります 道徳的な生活をし 智慧の法門を 修行していれば 美しく平和な 喜びの境界に 行きます 私たちの人生が 愛と奉仕のない よくない生き方だと 低い境界に 行きます どれだけ高いか 低いかは どれだけ 道徳的で 智慧のある または有害な生き方を したかによります 現代では多くの 霊修行者による 臨死体験の本と 一般の人の 一定時間 死の体験をしてから 生き返った体験の 本が数多くあり 体験を語っています 図書館にその種の 本があると思います どうしたら誕生の 苦痛を止められますか

瞑想し観音法門を 修行することです マスターの 瞑想法と 仏教の瞑想法は どう違いますか 元々は何も 違わないですが 今は違います 現在において ほとんどの仏教の 瞑想法は 釈迦牟尼仏が 彼の弟子達に 伝授した瞑想法と 異なります 私達の瞑想法は 頓悟即ち 即座に悟りを 開くことです 現在殆どの 仏教の瞑想法には この種の保証は ありません 観音法門を 修行すると これを保証しますし 証明できます 数千万人の 弟子達が 現世で解脱できます 今生は私達が苦しみを 受ける最後の一世です これは仏陀の教えと 合致します

これは本来の記述で 本来の道です 釈迦が沈黙の中で 弟子達にこの覚醒の 法門を伝授した時 彼らは即座に 阿羅漢や菩薩や 解脱した衆生に なったのです そして私達の親戚 友人も解脱します 仏陀になって いなくても 解脱します 解脱と仏陀になる こととは違います 私達の修行法門は 印心を受ける瞬間に いち早く 悟りを開く感じを 味わうことができ しかもずっと続きます 現在のほとんどの 仏教の伝統的な 修行法は この種の保証は 提供しません 先生について 瞑想を習っても 何も得られません 自分が開悟したか どうかも 知るよしもありません

でも私達の修行法では それが分かるのです なぜなら証明が あるからです あなたは分かっていて 自分が開悟したことを 感じ取るのです 以前と違うのです 目覚めたのです 麗しい光と音楽が 覚醒と共に現れます これなしでは 開悟とは言えません 他にも素晴らしい 感じがし重荷が 降ろされた感じです 清々しく 軽々しく 至福を感じます これが開悟した という証です 印心を受けた後 引き続き 修行すると ますます日々 進歩します 私達は より智慧と愛に満ち より寛容的になり 別人のようになります 私達は聖人の 仲間入りしたからです 世俗的な生活を しながら 聖人の品性を持ちます

どんな法門であれ これらを提供できれば それは真の 開悟の道です どんな法門でも 修行できますし 利用できますが  ただそれは一時的で 基礎にすぎません それで究極の霊性の 智慧を得ることは できません 私は問題に遭った時 神に祈ります 時には 感応があります 私の質問は それが 本当の答えなのか 神の導きであるかを どう判断するかです 私達が深く祈りを捧げ 誠心誠意 祈るとき 内面の神の加護の力と 繋がることが できます その時 感応があります でないとありません 瞑想は最も深く 誠心誠意の祈り方です だから私達には いつも感応があります

印心を受けた後 マスターは私達の 内面の神のパワー または仏性と疎通する 力を開いてくれます だから私達は 毎日連絡を取り 祈りを捧げるたびに 感応を得られます そしてある日 もう祈らなくなり 私たち自身が 全ての祈る人に応える 者になるまでです これが霊修行の目的で 皆これに到達できます 有難うございました 日常生活の中で どう考え方を改めれば 早く開悟できる ようになれますか

まずどう改善するかを 知るべきです 印心の時に 私が教えます これは短い時間では 説明できません 長い修行の道のりで 霊性の発展の 各段階における 注意事項を教えねば ならないからです 観音法門でいう 解脱は 涅槃 (最高の天国)と どう違いますか 何の違いもありません それが涅槃 (最高の天国)です 観音法門を 修行すると 涅槃 (最高の天国)つまり 神の王国を得られます 沢山の名前が ありますが一つか 二つを使っています あなたが使っている 用語を使わなかったら お許し下さい 同じ花を 国によって別の名前で 呼ぶのと同じです しかし解脱は解脱です あなたが涅槃(最高の 天国)にいようと 浄土にいようと 神の王国にいようと 解脱しているのです

在家で修行すると つまり家族から 離れないで 修行すると 出家して修行するより 進歩が遅いですか

いいえ 遅くないです たとえ 出家したとしても やはり忙しいです 出家者は 一日のうち 特定の時間に 修行できます それ以外は 寺院の仕事をするとか 奉仕の仕事とか 他の世俗の 仕事をします 私達と同じです ただ場所が異なります 私達は家で 仏陀の家族の 面倒を見ます そして時間が あるときに修行します 朝早い時間とか 夜寝る前に 瞑想します これでいいのです 禅は日常の生活の中で 実践することです 座るも立つも寝ても 歩くも全て禅で なければなりません そうでないと 仏陀は何をしますか いつまでも座った 仏陀ではいけません

時には一週間や 二週間又は一カ月間 静修する事もあります それも結構ですが 常にはできません 出家しても社会に 対する義務はあります 仏陀は四十九日間 座っていましたが その後もその前も 彼は方々歩き 沢山の別の事を したのです フォルモサ(台湾)に 沢山の出家者がいます 彼らの殆どは 亡くなった人の 葬式に出席しなければ なりません 時には食べる 時間さえないのです 次から次へと 飛び回ります あなたが思っている ように出家すると いつも座って瞑想して いられるのでは ありません そうではありません

世界はどのように 創られたのですか 人間は生まれると 切りのない輪廻を すると知りながら なぜそれでもなお 生まれて 来るのですか 話すと長くなります それを述べる時間が ありません たとえ 今日から涅槃 (最高の天国)まで 語っても世界創造史は 語り尽くせません ぜひ聞きたいなら 私達二人は この苦しみの世界に もう一度生まれて 来なければなりません すると世界の創造史を 語り尽くせます これを好むでしょうか 最も早い答えは 開悟することです 完全に開悟すると 全てが分かります 無数の過去世でも 一瞬にすぎません なぜなら 開悟すると 私達は 時空の制限を超えて 時間の影響を受けず 時間を用いずに 沢山のことを 知ることができます 時には 数時間も 瞑想したのに 一分のように感じます そして沢山の 何回も輪廻しないと 分からないことを 知ります だから私達は内面の 智慧を探すのです 全ての答えがあります

世界で四番目に大きな 内海 ウズベキスタン カザフスタンの アラル海は 90%に縮小
なぜ世界には沢山の 宗教があるのですか どれが本物ですか 何でも一つ選びなさい 一つの宗教について 徹底的に分かれば 他の宗教も 分かります でないといつまでも 議論し論争し 宗教間で 戦争をします 全ての宗教は皆一つの 真理を指しています 自分の宗教を 信じていいですが 今日開悟すると どの宗教が 一番よいか分かり 沢山の宗教などなく たった一つしかないと 分かります 開悟しないと すべての宗教は一つで あることを信じるのは とても難しいです

私がどんなに 説明してもこれは 私の知識であって あなたのではなく 自分で知ることです すべての宗教人が 自分の宗教について 分かっていれば 今日の世界では 宗教戦争は 起こりません 同じ宗教の中での 戦争を含めてです 開悟した人だけが 誠心誠意100% 宗教を信じます

その人は 人間に対し 同胞愛を持っていて 人種や信条や宗教を 区別したりしません その人こそ 世界平和の保持者です 瞑想する前に 祈らなければ なりませんか 祈っていいですが 必ずではありません 瞑想自身深い祈りです 瞑想を通して あなたは欲しいものを 全て手に入れられます 何であれあなたの 精神面と物質面に 良いものはひとりでに もたらされます 祈っても 祈らなくてもです だから観音法門を 修行している人は 満足し充足した生活を 送っています 彼らは何も要りません 修行するほど 欲望はなくなり 修行するほど 祈りも少ないです

「先ず 神の王国を 見つけなさい そうすると すべてが もたらされるだろう」 祈りから何か功徳が ありますか あるいは 言うだけですか いえ 功徳があります 私達が 悟りを得なければ あるいは完全に 悟らなければ 悟り 解脱  またもちろん 必要なものに 私達は常に 祈願せねばなりません この生活の中で 不可欠なものにです 私達の祈りに応えて くれるかに関わらず 祈る時 心理的に既に なぐさめを得たので それも非常にいいです 真実の祈りは 常に必要です  なぜなら天国の衆生が 祈りを通して  天に送る私達の魂の 輝きを通して聞き そして 彼らは私達を 援助に来るからです

私達は他人の幸福の為 祈ることができます 私達が誠心誠意なら   すべての祈りは すぐ応えられます この人は十年間 瞑想を修行しており 二年間 菜食をしています 時々 夢を見て  それらは実現しました 彼は80% 実現したと言いました 理由は何ですか それは あなたの 霊修行と 菜食主義の 組み合せの結果です なぜなら  私達が菜食をすると 私達の体には 動物による負担が より少なくなり 私達の体と心は より純粋になります それで私達が霊性の メッセージを認める ことはより簡単です 特に瞑想するとき 私達が荒れ狂う心を 静めて それで霊性の メッセージを振るいに かけることができます

さもなければ 神  仏陀と霊的な衆生は いつも待機しており 各方面で私達を助け 祈りに答えてくれます しかし私達は あまりに忙しくて 頭脳が騒がしすぎて 全く受けられません  体と心が異なる物質 特に動物からの 低いレベルの振動力で 込み合っています それで私達は霊性の メッセージを受ける ことができません それでもう皆さんは 菜食と瞑想修行に係る 論理的な説明を 理解しましたね 低級と高級なものは 混在できません 物質的な領域に 近ければ近いほど 動物界に 近ければ近いほど 神の王国つまり霊的な 階層に近づくことは できません

印心と瞑想は 同じことですか 同じであれば 過去と現在の カルマ(報い)を 消せますか まず印心はあなたの 瞑想の力を開きます それで瞑想できます もちろん 瞑想を通じて蓄積した カルマ(報い)を 消すことができます マスターパワーは あなたのためにそれが でき そしてあなたの この世を続けるための カルマを少し残します さもなければ あなたは死にます たとえカルマ(報い)が 幻想であっても この肉体の中で生きて いる誰にとっても 必要なのです でないと私達には この物質界に存在する 理由はありません

でも瞑想の修行を するだけで 私達は カルマ(報い)の 幻想の性質を 理解します 従って私達はカルマ (報い)から自由で たとえ見かけ上は まだカルマの行動を 続けて この世界の 役割を果たしていても それは 解脱した人と 解脱しない人との 違いです 両者は同じカルマの 形態を続けますが 一方はカルマ(報い)の 幻想の性質を理解し もう一方はなお このカルマの機能の わなの中に 深く沈んでいるのです カルマ(懲罰)は 恐ろしくありません 唯一恐ろしいものは カルマ(報い)の 性質を理解していない 私達の無明さです

涅槃 (最高の天国)は 最高の意識 レベルですか それより高いレベルが ありますか  私の魂が最高レベルに 達することができれば 神と通じ合えますか はい もちろん 印心したその瞬間から 神と交流することが できます そして ずっと続きます これが「覚醒」で 神と交流を始めた 時なのです そして涅槃 (最高の天国)という 言葉に 執着しないことです 涅槃に到達すると 涅槃はなくなります 最高か最高でないか どうかに関係なく  比較する必要が ありません  なぜなら あなたが 涅槃になるからです マスターの 瞑想についてですが 私はどのように 第三の目を得ますか チベットのラマ僧が 第三の目と瞑想を 教えているらしい からです

第三の目は 唯一で 二つの「目」ではなく 一つの「第三の目」です

私達が第三の目を 教えます 「目」はありませんが すべてが見えます それを「目」と言います でも「目」でありません 第三の目は 頭のここに あります 皆にありますが 開いてないだけです 印心するとき 開ける お手伝いをします 解脱に達するまで なぜ出生 再生と 死の輪廻を続けねば ならないのですか 最初の 出生の理由は 何ですか 私達は創造のドラマに 参加したいので ここに来たのです 私達の参加なしで 創造はありません それと楽しみも それぞれこの世で 仕事を引き受け  達成しようとします それでもともと異なる レベルの人々がいて 異なる仕事があります

誰も気にせず 注意もしませんでした 低い地位か 高い地位があるか どうかに関係なく 豊かさに恵まれるか どうかに関係なく 通りで物ごいかどうか 関係ありません 誰も私達の劇の 最初は 気にしませんでした しかし数回後 私達は 役割に執着し始め それで私達は自己憐憫 とか自己傲慢になって このドラマの目的を 忘れてしまいました それが私達が 様々な欲望 世界の地位や財産の 競争のために 苦しみを 感じ始めた時なのです 私達は演じる役割を 現実だと見なし そしてその役に 執着すればするほど その劇の目的を 覚えていられません

自分の偉大さと起源を 思い出さなくなります それで役にとても 執着しているので 自分が演じている 物乞いや国王に 自分を位置づけ それが本当の自分だと 思い込んでしまい 運命を改善することや 高い地位を保つために 最善を尽くそうと します そして欲求を 達成するために どんな悪いことでも するのも恐れません それで楽しい劇の役が 苦しみになり それで運命を改善 しようとしたり地位を 保持しようとする時  欲望が浮かびます それで今生では 欲求を満足できず 私達はもう一度 戻って来ようとして 正義だと信じることの ために戦うのです

こうして私達は 劇を台無しにして こうして私達は輪廻し 苦しむのです ですから 元々 私達は同等に 神の天国 あるいは 仏土から来て そしてこの世に 王が生まれ この世に 物乞いが生まれ天国に 霊的な階層の等しく 偉大な天使が生まれ 今は地位と 富と名声のために 互いに 戦い始めます こうして私達は 苦しみ始めるのです こうして私達は 生死の輪廻から 逃げ出すことが できないのです 唯一悟ることだけが 私達を幻想の地位や 限界を切り捨てるのを 助け それで私達が 元々天国では 皆平等であることを 信じさせます 私達は戦う必要など 何もありません

恥じなければならない ことは何もありません この世で物質的な存在 地位を誇りに思わねば ならないことなど 何もありません ですから 悟った後 私達が国を統治する 王になろうが またはすべてを捨てて 通りで托鉢する 僧侶になろうが 皆同等なのです 悟ると 私達は国王として この世にいられ 国を 統治し それと同時に 解脱できます 開悟しなければ 出家者になっても ただ肉体にすぎません 私達に霊的な向上を もたらしません なぜなら 内面の理解と 認識だけが 私達を  自由にさせるからです 私達に真理をもたらす のは外的な力 外観 行動ではありません

彼は印心後に 生活が変わるかどうか 聞きたいのですが 生活の方法です はい そしていいえ 変化は内面で表でなく でももちろん外観も いくらか 変わるでしょう 多くの印心した人達は より若くなり もっと美しく寛容で より愛の心を持ちます でも一番重要で 有意義なことは 無明から智慧への 内面の変化です さもないと 私達は どんな生活方式とか 仕事 または宗教の 変化を要求しません マスターの瞑想修行に 従ったあと いつ自分でやって 良いですか  危険がありますか 問題や疑問が ある場合は 誰から情報をもらう ことができますか

あなたは指示に 従えば つまり   支持によって行い それは自身で行うと いう意味ではなく 危険はありません その上 マスターは 遍在します あなたは常に内面から 答えを得られます あなたが危険な時 マスターには 分かりますので 要求されなくても 即刻に助けます また知的な問題が あれば もちろん  私かセンターに 手紙を書くか センターに来て  先輩の修行者や 団体の出家者が あなたを助けます でも それは 始めだけです そのうち内面から すべてを知るでしょう もはや問題は なくなります 疑いや 願望もなく 愛の義務を遂行する ことと内面の加護を 受けることだけです

真の霊性のマスターは 必ず遍在していて 必ずすべての弟子達の 気分と願望を 知っています この世界や宇宙の どこにいてもです さもないと  マスターの肉体に 頼ったら問題がある時  緊急の時は 遅れてしまいます だからこそ私は弟子に 急いで出て行って 人々に教えないように 忠告するのです 弟子達をいつでも どこでも助けるために 少なくともマスターの 「遍在する」霊性の 等級に達するまで 待たねばなりません さもなければ 遍在の 境界に達していない マスターは危険を冒し 霊性領域に入れません すると他の人達を 危険に導くことに なります

ですから恐れないで 私があなたに教えれば 私が面倒を見ます 約束します 私達とここにいるか 私達に学ぶか  あるいは家へ戻るか  考えて どうか自身の 面倒を見て 神 仏陀 アラー ムハンマドに祈るのを 忘れないで下さい 誰であれあなたが最も 信頼するものにです 他人に害を 与えなないなら すべての欲しいものを 祈られます でも 先ずに 解脱を 祈るのを忘れないで なぜなら 祈りだけがあなたを 苦しい来世と他の 来世から救います 誠心誠意なら 過去 現在 未来でも あなたが死ぬ時 マスターがやって来て 解脱させます たとえ今生で  解脱できなくても 神はあなたの祈りの 面倒を見ます 来世も戻って来て マスターに会って それで学んで 解脱するでしょう では おやすみなさい ありがとう

 
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