智慧の言葉
 
福報を得る方法 1/2 一九八九年七月三日 香港(広東語)    Part 1
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印心を受けてから 一年以上経っていると お伝えします

私も以前 教師でしたが マスターとは 全く比べられないと 認めねばなりません マスターは 大小の事柄を沢山 教えてくださいます マスターは 最も慈悲深い人です 例えば 今回の 海外講演ツアーでは マスターはアメリカ コスタリカ ブラジル  アルゼンチン 香港を 回ってきました マスターは 何千キロ旅したかは 数え切れません マスターは他にも 骨の折れる仕事を 沢山なさっているのに

マスターは講演をし 印心をなさいます フォルモサ(台湾)では もっと大変でした 修行仲間と共修に 参加したり

講演をしたり毎日 とても忙しいです 時には寝る時間さえ ありません マスターからの愛と慈愛を感じられます

マスターの純粋さにも 触れたいと思います マスターは一切 寄付を受けつけません

マスターにお辞儀をしたらマスターも返礼 します マスターには 私達は皆平等で すべての衆生が仏陀に 見えるからです マスターの自在さにも 感服しております マスターは毎日 とても少食です またとても質素な 服を着て  テントに住んでいます 夏の季節には ハンモックで 寝たりしています マスターはとても 簡素な生活を過ごし ますが自由自在です これら小さなことから 偉大なマスターの 生活を垣間見られます マスターの智慧を 見ることも出来ます

昨夜マスターの講義を 聞きに来たら 既にマスターの無限の 智慧を体得しただろう と思います マスターはとても 簡単に聞こえる 一言で 私たちの深い懐疑を 払拭したり 多くの疑問に 答えを与えたり なさっています さらにマスターは 言語も言葉も使わず 智慧を見せて くださいます マスターは一つの 動作 つまり 体の動きで私達に 悟りを開かせます たぶん多くの方々も 同じことを感じてます フォルモサ(台湾)の 多くの人たちは マスターを見ただけで 多くのことを学べ 多くの収穫を得たと 感じています マスターはそれ以上 何も話す必要は ありません 私が知るマスターは このように完璧です

マスターから印心を 受ける機会があれば 私が言ったことは 確かに 決して 誇張ではないと 分るでしょう もう一人の修行仲間に 私の言葉を証明して 頂きましょう 台湾の修行仲間を ご紹介致します 彼も一年前マスターに 印心を受けました 彼は多くの外面的な 体験があり 沢山の ことをマスターに 話したがっています マスターから 印心を受けてから 彼が体験した変化を 紹介して 頂きましょう どうぞお迎え下さい

マスター 会場の皆様 こんばんは フォルモサ(台湾)から 美しい香港に 参りまして 皆様にお会い出来て ご光栄に 思っております 楽しい講演会です 去年の四月に 縁があって マスターを知りました

その時 自然に マスターを親戚か 友達のように感じ  講演会に行きました 講演会の一、二週間後 ある夜  マスターが 夢の中に出て来て  私に「観音法門を 修行することは いいことです」と 話しました なぜマスター チンハイが夢の中に 来てこれを教えたか 不思議でした 夢のようですが  夢ではなく真実の ように感じました 数日後 またマスターの 講演会に参加している 夢を見ました 前列に席を見付け 真剣にマスターの 講義を聞いていました それで 偉大な マスターだと 悟りました 印心の後  五つの戒律は 殺生せず 盗まず  邪淫をせず  嘘をつかず お酒 ギャンブル 麻薬など体を毒す ものは摂らない ことだと知りました

霊修行に 誠心誠意であれば  マスターは 自然と私たちを助け 私たちの環境を 変えてくださり  無上の観音法門を 修行する自信を 与えてくださいます

世界の一六〇カ国の 中からマスターは 香港を選ばれました

私達の祈りに 答えて下さったのです

皆さんにとって ここに座りマスターの 講義を聴けることは 幸運であり 素晴らしい恩恵です 恐らく 私達の魂は むしろ頭脳よりも 探求しているでしょう 私達に内在する魂はその小冊子を読むと 私達はマスターに 引きつけられます 私達の魂は 彼女こそと言ってます 彼女は私達の友人で 彼女は開悟した マスターで 私達がずっと 捜し求めていた方です 観音法門は 釈迦牟尼仏が修行し 開悟に到達した 法門です それはまた保険の法門 でもあります どういうことでしょう 印心を受けることは 保険を購入するような ことだからです その時 マスターは蓄積された 何世代にも渡る 私達の悪いカルマ (報い)を消し 即座に私達を 護衛する化身を 送ってくれます

従って 観音法門は 真の宝物です ありがとうございます

では 偉大なる マスターにお話頂ける ようお招き致します

今日少し遅れました 多くの人々が外で 入ることができずに いたからです それで私は彼らと しばらく話をして 少し飴を配りました お許し下さい

この世界は完璧でなく 私達がこの世にいる間 何かが欠けています 昨日 私が去った後 ある女性が車に近寄り 私に質問しました 彼女は「なぜこの世は これほど苦しみが あるのでしょうか なぜ仏陀は私達を 助けないのですか」 私は「彼は助けました」

仏陀は私達を助けます ですが私達凡夫は 違った風に物事を 見ているのです いかに仏陀が救ったか 明確に理解できません 例えば今 貧困 病気に 苦しんでいます 私達は仏陀にイエスに いかなる聖人に 神に助けてくれるよう 祈り続けています でも彼らは聾唖者の ように思えます 私達は未だ病気貧困で 困難を抱えています でも仏陀が私達を 救っていない訳では なく ただ仏陀は違う 方法で助けています また私達の誠心誠意が 十分ではない時もあり 本当に真摯になったら 私達の祈りは 常に答えられます いかに私達の真摯さを 進化させるのでしょう

簡単ではないです 時々 私達は仏像の前で ひざまずきます あるいは教会で イエス キリストに 祈りますが私達の心は 混乱しています 一点に集中して 祈ることができません それでもちろん私達は 何の結果も得ません ですから私達は助けて くれないと言って 仏陀を非難できません この救いの力を 受け取るために 私達はまず自身を 救うべきです 例えば この世に 生きている間 私達は全ての衆生と 協力し合うべきです 孔子の言葉で 「己が欲せざる所 人に施すことなかれ」 とあります

しかし私達はよく 他の人々に対し 自身には望まない事を 行ったりします これがいわゆる カルマ(報い)であり 私達の 体にまとわりつきます 多くの キリスト教徒は私に カルマ(報い)の法則に ついて言いますね これは仏教経典 キリスト教経典 だけではありません 実際そこに 言及しています 聖書に記載されて います「蒔いた種は 刈り取らねばならぬ」 あなたは正直に蒔いた 物を刈り取ります 「蒔いた種は 刈り取らねばならぬ」 これが因果の法則で いわゆる 英語の カルマ(報い)で 原因と結果のことです

私達は実際この カルマ(報い)の法に気がついています この意味は私達が 蒔いた種はその果実を 収獲するという事です 例えば リンゴの木を植えれば リンゴを収穫し オレンジの木なら オレンジを収穫します 私達は「種を蒔く」時 注意せねばならず 私達は良い種を 蒔かねばなりません 例えば 私達が裕福になったら 私達は人々に 施すべきです そして後に 富とお金が私達の道に やってきます 美しくなりたいと 思えば来世生まれて きた時 私達は可愛く 今生においては 変えられません 今生において物事を 変えるのは困難です

しかしながら 後で変えられます 来世で私達は 美しくなりたいと 願ったとします それなら私達は人々に 優しく話しかけるべき で 私達は美しい 言葉を使うべきで 人々を叱ることは 控えるべきで そう すると醜くなります 私はこれらについて あまり言及したくは ありません それらは すべての経典に記載されていますから 私がただ言いたいのは 全ての教理 経典は 役に立つという ことです 仏教経典は 役立ちます キリスト教徒の場合 聖書を読むことも 役立ちます しかしながら殆どの 人々が経典を理解する ことがありません

彼らは私の教えは 新興宗教と考えます 例をあげましょう 金剛経には非常に 有名な記述があります 金剛経は とても有名な 仏教経典です 皆が知っています 「私達が光と音を通じ 神を探求するなら 私達は決して 神を見つけられない その意味は私達は 仏陀になれないです」 それで誰かが私に 「なぜあなたは人々に 光と音を静観し 内在の映像を 見ることを 教えていますか それは光と音では ないのでは」と尋ね 私は「いいえ その光と音は物質的な 光と音の事を示して いるのです」と 例えば これは花で これはティッシュです それらに触れ  見ることができますね あるいはそれらは 物質的な光で ライトの光で 太陽や 月からの明かりです これらは物質的な 映像です 外側からの音楽 鐘の音 教会の鐘 あるいは寺院の 銅鑼は 物質的な音なのです

しかしながら 私が教えている 静観する光と音とは 異なる種の 映像なのです 一種の光と音では ありますがこの世界を 超越したものです なぜならこれらの種の 音と映像は目で見る ことはできません または耳で聞くことが できませんが 内在の 智慧から来るものです 私達がこの内在の 智慧を得た後 私達は何もかも 理解できます 私達は何でもできます

非常に便利でもあり 私達は飛行機を 乗らずにどこへでも 現れることができます 現代の交通機関は 非常に便利です 米国へ行くのにほんの十時間ちょっとですね 以前なら 飛行機など想像を 超えたものでした この時代は違います 皆にとって 非常に便利な時代です 望めば月にさえ 行けるのです しかしながら 月よりも高次の 世界があります 月より更に 美しい惑星も 存在します そこに住む人々は 私達のようではないが 超越した世界には 他の種の 衆生がいます 私達は彼らを 天の衆生 仏陀または 天使と呼びます それらの世界は 私達の世界よりずっと 文明的で この世界 より文明化しています 例えば この地球には 多くの国々があり ある国はより進歩し ある国は 遅れています

仏陀が人々を救いに やって来てもそれも あまり容易ではなく なぜなら この地球の衆生は 本当にあまり進歩して いないからです 私達が他の種の惑星を 訪れる機会を得たなら 私達はそこでずっと 優しい種の生活を 見るでしょう 彼らの優れた文明を 見て戻って来たら 私達は非常に恥じ入る ことでしょう もうこの世界に留まり たくなくなるでしょう 米国の博士で 死亡した患者が 再び生き返るという 現象を専門に 研究しておられる 方がいます 彼によれば 臨死の体験を持つ 人々は他の境界に 行ったとのことです

そこで天使が 彼らに告げます 「まだ時間が来てない」 と それで彼らは 地球に戻されます 彼らはこの人生に 戻って来ると 毎日 泣き続けます 大きな悲嘆に暮れ 何週間も泣きます そう彼は言いました なぜ彼らは泣くのか 彼らは非常に美しい 世界を見たのですが またこの汚い世界に 戻って生きねば ならないからです 耐えられないのです しかしながら 命の終わりの時が まだ来ていないので 再び戻らねばならず これらの死から戻った 人々はそれ程高次の 高い文明的な世界へ 行った訳では ありませんが それでも非常に幸せで 留まることを願います

いわゆる霊修行者と 呼ばれる人達も 更にそうです 彼らはもっと強力で 優れた世界へ行く 能力があります もっとずっと美しく ずっと文明的で 信じられないほどの 想像を超越するほどの 世界です どのように彼らがこの 世から切り離されるか 私達は想像できます これらの人々にとって 全ての善悪 痛みと喜びは彼らに 影響を及ぼしません

観音法門を修行する 私達には 高次の境界に 行くことが許されます それで私達 修行仲間はこの世界に もはや しがみつく ことがありません 彼らは自然に放置でき 何の心配もしなくて よくなります 自然に 悩みの種 障害が 気にならなくなります 悩みや障害がない という意味ではなく 私達は成長し強くなり 悩みを無視することが できるようになります 例えば 私達が小さかった時 私達は大きな荷物を 運べませんでした 成長してから 必要なら私達は どんな大きさの 荷物でも運べます 同様に多くの人々が 私に尋ねます

なぜ仏陀は私達を 苦しみから救い幸福な 世界を作らないのかと 私は彼らに言います 仏陀は私達を助けて いますが私達の殆どが 気がつかないでいます では本日私は苦しみを 最小限にする方法を お教えしましょう

幾つか方法が あります 一番簡単な方法は 素晴らしい霊修行者を 見つけます いわゆる 聖人と呼ばれる人を そして彼らに奉仕して 彼らに供養し 崇拝するのです 彼らを崇拝するために 彼らの写真を撮って 家に持ち帰ります その聖人 霊修行者は 私達がそのような事を するのを好まないかも しれませんが でもそうすることで 恩恵の報いがあります 分かりますか

皆がベジタリアンに なりたい訳ではなく 皆が観音法門を 修行したい訳では ないからです 瞑想し智慧を得るとか 仏陀になるという ようなことです 他にも 簡単な方法があります ただ ある霊修行者を 信じます それから 彼に布施をして 皆さんを救ってくれる と信じています それで彼は確かに 多少私達のカルマ(報い)を 担います それで私達の悩みは 減ります そして 危険な状態にある時 彼は必ず私達を 助けに来ます 彼に供用する際に 私達は多く供える 必要はありません 一輪の花でも 一個の キャンディでもよく 重要なのは真心で お金ではありません 多くの人々は 分かっていません

彼らは より多くのお金を 与えるほど 多くの 福報を得ると思います 必ずしもそうではなく より多くの真心が 多くの福報を受けます これは最も安全な方法 私達は何も変える 必要はありません 私達は瞑想する 必要さえありません 毎日私達はただその 人のことを考えます いつでも 思い出すことができて ただ彼のことを考え 援助を祈願できます あなたの心には 彼に対する尊敬と 信用が大いにあります 分かりますか でもその人への信頼が なければなりません 彼は本当の聖者であり 本当に高いレベルの 霊修行者であり 彼には大いなる 加護とパワーが あると信じるべきです そうしてこそ始めて 内面で自然な尊敬を 持つことができます このような信頼が なかったら 尊敬しにくいです

またはこうする必要は あってはいけません 霊修行においても より進んだ 聖人がいます 彼らはとても高いです それで私達は彼に 供用することなく 福報を得られます 私達が心で 彼を信じるなら 毎日彼を考え続けて 彼に祈り 困難な時 彼を信用して 尊敬していれば それで私達は沢山の 援助を受けられます 彼の修行レベルが 高いなら 彼は現れて 私達を助けます それは私達の 誠実さによります

誠実であるべきです 私達が誠実である時 エゴは小さくなります それから 私達の無知の壁が 開きます それで 多くの異なる境界を 見ることができます または本当の体験を 得ることができます 誠実でなければ 私達は無知 傲慢 貪欲 怒りと のぼせあがりによって 覆われてしまいます それでその 偉大な修行者が 私達の前に化身で この肉体ではなく 現れても 彼を見ることが できません 彼の光は天空に溢れ それでも 私達は何も 見ることができません

恐らく私達は彼を 普通の人間とみなし ですから神や仏陀の 加護の力を見つける のは簡単でありません 時々 仏陀 菩薩 または聖者 例えばイエスキリスト 釈迦牟尼仏 または観音菩薩は しばしば化身で この世界に現れ 真理を説いて 人々を 救うことがあるのです 時には 彼らは真理を説く 必要もありません 彼ら自身が 祝福なのです どこに現れようとも その場所は加護を得て その国は 自然に利益を得ます 彼らは霊的な高揚と 物質的な向上を もたらします

しかし 時々 これらはむしろ 無形で捕えにくいです 私達人間の心は それを測ったり 知覚することが できません 時々 私達は注意しません

たとえば 仏陀 聖人 またはキリストが 生まれるか 特定の国に生まれ 変わった時 五年ないし十年後 突然変わりますます 良くなり 文化化し 安定します または何か 良いことが起こります 私達はこの人や あの仏陀やキリストが そこに生まれたことに よって 国のためになったとは 考えません そうだとは 考えません

感謝しません 私達が仏陀 聖者に 必ず感謝する 必要があるという わけではありません しかし 感謝すればするほど より彼らを知り 信用すればするほど もっと多くの福報を 得るでしょう これは問題です イエスキリストが 生きていた時 彼は 沢山の弟子を受け入れ 弟子が大いに利益を得 精神性を発展させ 智慧や内面の 不思議な力を大いに 高め また 彼らの生活も 向上させました しかしある人々は 彼を信じず 彼を中傷し 十字架に はりつけたのです そういった人々は 加護を得られません わかりますか たとえイエスに 会ったとしても 加護を得られません イエスは彼らを助け たくても できません

彼らはイエスの言葉を 信じないので 何もできません 「信心こそ全ての 功徳ある法門の基礎 である」と仏教では 言っています その通りだと思います 信心がないと 信心がないと 仏陀 聖人からの 加護を得ることは 難しいです インドに ある修行を高く積んだ 人がいました とても有名です しかし彼は人に 法門など教えません 何人かの弟子には 教えています しかし 多くの人が彼に会いに 来ると彼は飴やお菓子 ビスケットなど 手元にあるものを あげるだけです それでも皆はそれぞれ 自分が欲しいものを 間違いなくもらいます 沢山の逸話があります ただまだ書き記されて いません

例えば ある大変貧しい 女性がいました 夫はアルコール中毒で いつも酔っ払って 家に帰ってきます 夫はお酒を飲むのに お金を全部注ぎ込んで 家族は貧困状態です 奥さんは 一日中懸命に くたくたに働いても 家族の 生計を維持するのに 十分なお金が ありません 隣近所の援助が なかったら生きて いけない状態です ある日その 大修行者が弟子達に 会いに 彼女が住んでいる 村にきました 多くの人がその貧しい 女性に彼の経の講義を 聴くよう言いました 彼女はこう言いました 「何で 経の講義に 彼に会いに行けと?」 会うだけで 講義は聞きません 彼は経の講義をせず 何も語りませんでした 人に会うだけでした 何かを 言いたい場合 弟子に言わせました 決して話しません 以前彼は話もしました

数年間説法もして 経典も数冊書きました その後停止しました

ただただ口を閉じ その後は手振りで 言いたいことを 表現しています そして弟子たちが 彼のメッセージを 人々に訳してあげます ですからその女性は こう言いました 「彼を見たくないね 仏陀や聖人など 信じられるもんか  誰も助けてくれない 私は一生貧しかった そこに行くと何の ご利益があるだろう 何も得られず 一日の日当を 失うだけだ」と 彼女はそう言って 行きませんでした しかし彼女が 他の所に行った時 ある人が同じことを 彼女に言いました 「あなたはその聖人に 会いに行くべきだ ご利益があります」と 多くの人が彼女に こう言いました 結局彼女は行きました

彼女は大勢の人がその 聖人に会うために列を 作っているのを見て 並びたくなかったです しかしすでに来たので 列の中に入りました 彼女はためらったため 一番後ろに 突っ立って いました 彼女はその聖人が そこに座っていて 皆が一列に並んで 平伏して 加持物をいくらか もらってから 家に帰るのを見ました それだけのことです 彼女は心の中で 変だと思いました 「不思議だ これだけのことか」 だれが労を厭わず ここに来て 一握りの飴やお菓子と ビスケットをもらうの だろうかと 彼女は こう思いました

でももう来たからには 列に加わりました 最後に その大修行者は 彼女に加持物を 一袋あげました 彼女はそれをもらって 出て行きました しばらく歩いてから 彼女はその袋を開けて 中を見ました わあ 中に何があったと 思いますか お金です 数十万台湾ドルでした 数十万台湾ドルでした その聖人は人に お金を与えたことが ないと弟子は言います ではなぜ その女性はお金を もらったのでしょうか 彼女が一番必要なのは お金だと彼は 分かっていたからです 彼女はこの もらったお金で 家に帰って食品 雑貨店を開きました

それ以来 彼女はお金に 困らなかったのです その日以来 その女性は 毎年行ってその マスターに会いました もちろん皆が マスターに会いに 行ったり 経の講義を 聴きに行くのはお金の ためではありません そうしないことです しかし私達は 多くの他の 利益を得られます 好きなものは ただ誠実に祈れば それを得られます 誠実であることです でないと役に立たない 皆さんはその女性は 少しも誠実でなかった と言うかもしれません そうですね なのになぜお金を もらったのでしょうか 彼女は誠実でした 彼女の状況からすると 誠実だったのです 彼女は一日の仕事を 止めたのです 彼女の家庭には元々 お金も食物もなく 彼女にとって一日の 日当を失うことは 大きな犠牲でした

その上 彼女のお金に対する 渇望は強烈です そうですね ですから彼女は誠実で ないとは言えません 誠心誠意でした 誠実さとは決して 形式的に 平伏して大声で 私達はとても 誠実ですと宣言する ことではありません これは役に立ちません 誠心誠意とは とても自然で 強い考えのことです 意味が 分かりますか 求める物に関係なく 内面で強く切に 望むのであれば それが得られます これが誠心誠意です 人に見せる 必要はありません ですから仏陀の 助けを求めたい場合 経典を唱える 必要はありません

自己流でやることです

仏陀と意思疎通をして 彼に自分の要望を 話すのです 誰かによって 書かれた経典を 読み間違えないように 気にしながら暗誦する 必要はありません  それでは心は 誠実にはなれません 皆がすらすらと読み 上げているのに自分は ゆっくりはできません ですから私達は 自分なりの祈り方で 欲しい物を求めた方が 一番いいのです

すると本当に集中でき 誠心誠意になれます いつもすでに 書かれた内容を 読み上げると 気が散ります

すると私達は 一心不乱の状態 真の誠実さの状態には なれません

ですから私達が いつも何かを祈っても 失敗するのです 祈りによって最も 良い結果を得るには 在世のマスターを 見つけることです 彼らは生きているので より効果があります
この世界には確かに 偉大な加護のパワーを 持った霊修行者や 聖人がいます 大抵はインドにいます インドの人を称えて いるのではありません 私は真実を言います なぜインドに 偉大な霊修行者が 多いのでしょうか それは 彼らは ベジタリアンで 善良で 殺生が少ないからです 彼らはめったに殺さず 人が殺した肉でさえ あまり買いません

ヒンズー教徒は

ほとんど菜食者です それで彼らは殺生の 悪いカルマ(報い)がないのです 世々代々 この国は 霊修行の伝統を 受け入れてきました ですから 彼らは小さい時から 加護のパワーの 雰囲気や良い雰囲気に 馴染みがあり 真理を求める 精神があります

ですので彼らは マスターに会うと すぐ悟りを 開きます 彼らは聖人や 悟ったマスターに なりやすいです 彼らはあまり先入観を 持っていません 心は開放的です 例えば ブッダガヤという 釈迦が仏陀になった 場所には

寺院を建て 世界中の人々が 巡礼にくるように しています しかし巡礼に来ている

ほとんどの人は インド人です ヒンズー教徒の方が 仏教徒より多く来て 巡礼しています ヒンズー教徒が この寺院を再建し ヒンズー教徒が 釈迦の仏像を施し ヒンズー教徒がきて 巡礼しています 毎日 数え切れない人が来て 巡礼していて 殆どが ヒンズー教徒です

というのは 今インドでは 仏教徒が少ないのです 仏教はそこでは 栄えていません 分かりますか 仏教は外国では 繁栄しましたが インドでは違います しかし ブッダガヤや すべての 仏教寺院は ヒンズー教徒の 巡礼者で一杯です それにまた ヒンズー教徒でも モスクを建てイスラム 教徒に巡礼させます

あなたが私達の宗教を 信じなければそれも 結構で あなたの神を 拝むよう教会を建てて あげようと考えます インドには数人の イスラム教マスターが いました 彼らの 霊修行のレベルは とても高く ムハンマドと同じ レベルに達しています しかしインドでは それらのマスターを 拝むイスラム教徒は 少なく殆どの礼拝者は ヒンズー教徒です 彼らはマスターを訪れ 彼を供養し 彼を信じ 彼らの世話をし 寺院を建ててあげます これは心が大変 開放的な精神です ある人が心がとても 開放的な場合 彼は偉大な智慧が あると分かります あまり傲慢でなく 度胸があるのです

それは 彼が聖人や仏陀の レベルに大変近い ことを示しています というのは 仏陀や菩薩は 誰がどんな宗教を 信仰しているかなど 気にしないからです どんな宗教を 信じてもいいのです 肝心な事は 善良で 誰にも 害を及ぼさないことで すると仏陀や聖人 イエスらは彼らを 受け入れてくれます 従って 人の寛容の態度で その人がどれだけ 開悟しているか 判断できます 開悟には 色々なレベルあり 家でもどこでも 開悟できます 地位や宗教に 関係なく 誠意さえあれば 開悟できます 仏教徒でなくても キリスト教徒で なくても 牧師でなくても 開悟できます 牧師でも在家の 信者よりも開悟しない こともあります または仏教の僧侶が 在家の信者よりも 開悟しているとは 限りません 決まっていません

あなたがすでに 開悟しているなら おめでとうございます 自分はまだ開悟 していないと思ったら 私が手助けできます 私には 観音法門があります とても便利で 誰もが開悟できます 問題ありません 私達は本々悟りを 持ち備えているのです

私達は元々 神性を持っていて 内面には神の王国が あるのです 私はただこれをどこで どう探すか 教えるだけです とても簡単です あなたが 門を開けられなければ 私が大きな力で バタンと開けます

ですからこれは 専門的な問題です

例えば向こうにある ランプを見て 私達は 「ねえ 信じられない それらを修理できる 人はどんな人だろう 私には無理だ思います 彼にきっとできません 専門家はできます

専門家には簡単です

悟りを開くことも 同じです 私達の無明の扉を 明けるのと同じです まったく同じです 専門家が 必要なだけのことです 神秘的ではありません 以前私達は 多くの人が 即刻開悟の法門を 教えたと 聞いています 「即座開悟」とは

即座に開悟する という意味です マスターは 語ることで

または杖を使って

または一言だけで または大声で笑う事で 雷のような叱責で 人を開悟させます 沢山の方法があります 私はこの観音法門を 使っていますがこれは 最も安全で最も早く 複雑でない法門です

マスター 観音法門を習うには どんな条件が 必要ですか 規則がありますか どれほど時間が かかりますか 最も重要なのは 菜食をすることです 苦しんだ衆生の肉を 食べないことです それから毎日瞑想 しなければなりません 私が瞑想の 仕方を教えます 私達は 仏陀の名や 呪文を唱えるとき 反応が あります これは印心と どう違いますか 違いがあります 例えば 呪文や 仏陀の名を唱えて 反応がある場合 反応は遅いです 印心の場合は即座に 反応があります 呪文を唱えたり 何かをする必もなく 手振りも必要なく

何も拝む必要もなく 線香も 花も供養も必要なく 他に何も 必要ありません これらすべては 必要ありません  自分で智慧を開くので とても早いです 自分のものだからです 例えば私にティッシュ ペーパーがあるとして 私がそれを引く抜く ことは早いですね 人に引き抜いて もらうと 遅くありませんか 私達が呪文や

仏陀の名を 唱えることは 他力本願です ですからより遅く 効果が少ないのです 億万長者がどんなに お金持ちでも 私達は毎日 彼に布施を請う わけにはいきません 自分のお金を 取り出して使った方が 自由自適で早いです ですから 私が印心する時 あなたの心に 直接伝授して あなた自身の智慧と 仏性と自身のパワーを 再発見させます これはとても早いです それから 私達はそれを毎日 取り出して使えます 誰かに聞く必要もなく 呪文を唱えなくても 人を崇拝したり お願いする必要も ありません 自分のお金なのです

マスター仏教徒が 人に非難されたり 打たれたり 侮辱された場合 どうしたらいいですか すぐに身を伏せて 私達を非難した人に ありがとうと言います こうするとあなたは 大きな福報を得ます その人は自分の福報を 全部あなたにあげます ですから彼らに感謝 しなければなりません

観音法門を 修行する時 不注意で肉を食べて 戒律を破ったら どうしたらいいですか 不注意でならいいです 故意に食べない事です 線香をともすことは どんな意味と 目的があるのですか 線香をあげるのは 私達人間が 仏陀や菩薩に 礼拝するとき 何も持たず手ぶらで 礼拝するのは あまりよくないように 感じますので お花とか

甘いお香とか きれいな果物を備える べきだと思うのです これら物質的な 供養をすることで 私達は自分の義務を 果たしたと感じます 線香は甘い香りが 漂うので 空気を浄化し 仏陀を 楽にさせると 私達は考えるのです 自分が好きなものは

仏陀も好きだと 思いがちで 私達は 甘い香りを好みます

そうですね 私達は自分に香水を かけます それで仏陀も 甘い香りが好きだと 思うのです 私達は仏陀を見る事が できないので 仏陀に香水をかける こともできません そこで一番高い 線香を買って燃やして 空中に香りを 空中に香りを 漂わせるのです 私達は この香りが仏陀との 交信を 手助けしてくれると 思うのです これは私達の内面の 誠意を表す方法です しかし 観音法門は基本的に これらを 全く必要としません なぜなら私達は 自分の財産を使い 自分の智慧と自分の 加護を使うからです 私達は 線香を燃やし 仏陀を 拝む必要もありません 私達が仏陀になります

私達は自分自身の 仏陀のパワーを使い 毎日使い 毎日発展させます するといつかは私達も 仏陀と同じように なります  今生で仏陀になる ことは可能です ですから拝む必要も 祈る必要もなく 人から布施を請う 必要もありません

インド人は とても善良で 多くの修行者が いますが

なぜ貧しいのですか 貧しいことと 慈悲心は 関係があるでしょうか 皆さんは裕福で非道の 方がいいのですか 正確に言って 彼らは善良だから 貧しいのです 彼らはあまり人と 争いません 彼らは地位を 競争したりもしません お金があれば それを供養したり 巡礼したり 寺院を建てたり 他人や 隣近所を助けたり 霊修行者に 供養します 彼らはお金を稼ぐのに 関心がありません 生活に足りれば いいのです 彼らはとても純真で 満足していて だから 裕福でないのです これは決して 懲罰ではありません そうではありません

マスターカトリックに

断食と禁欲があります でも魚を食べるのは 許されます これは仏教での 菜食とどんな違いが ありますか それは異なります 私達仏教での 菜食は

野菜だけを食べます いかなる衆生の肉も 食べません 魚も魚でないものを

含めて食べません

マスター  日本の日蓮正宗は 仏教と何の関係が あります 仏教と何の関係も ありません 仏教は心にあります

すべての外部の言葉は 仏陀と何の関係も ありません いずれも偽者です

仏陀こそ 真の経典であり 真の宗教です 仏陀は私達の心であり 私達自身の 偉大なパワーです

私達は無数の 化身を持っていて 無限の神通力があり 人を地獄から天国に 救い出す事ができます 私達の内面にすでに これが備わっています

経典は私達を仏陀に することができません 全ての宗教も 同じです

前世のカルマ(報い)を 変えられますか 自分の罪を どう消し去りますか 前世のカルマ (報い)には 二種類あります 一つは倉庫に 入っているもので

これは使えないか 使ったことがないもの もう一つは今生で 私達が見つけ出した ものでこれを 定まったカルマ(報い)と言います まだ使ったことのない カルマ(報い)は 前世から倉庫にある 「カルマ」(報い)と よばれます つまり 蓄積カルマ(報い)です 私達が来世 ここに戻って来た時 それを取り出して 使います この種のカルマ (報い)は将来使います でも将来これを 使いたくなければ それを取り除くか 横において 待たせる事ができます カルマ(報い)を 取り除くには唯一の 方法しかありません それは在世の マスターを探して 私達の悪いカルマ (報い)を取り去り 助けてもらうことです しかしマスターにも 二種類あります 偽者と本物です 偽のマスターも 悪いカルマ(報い)を消してくれます 彼を完全に信じると 私達の悪いカルマ(報い)は 彼に移ります 分かりますか 彼はカルマ(報い)を完全に

持っていけますが ただそれを持って 横においておきます 消すことはできません 真のマスターは倉庫に 保存された悪いカルマ (報い)を持って行って 消し去る事ができます すると私達は来世で 苦しむ根拠が なくなります

ただ今生で私達が 悪い事をした場合 死ぬ時に その悪いカルマ (報い)を消さなかった場合 再び戻ってきて それを償うことに なります 今生の定まった カルマ(報い)は そんなに早く 消せません しかし真のマスターが いれば

私達を助けて大きな悪いカルマ(報い)を 小さくし 小さいカルマ(報い)を なくしてくれます

現実であるはずの事を 夢に変えてくれます こういうことです これがカルマを 消す方法です 私達には十分な 功徳がないため ただカルマ (報い)を集めるだけで 消すことができません 観音法門が最良の 法門だとすると なぜ釈迦牟尼仏は 当時別の法門を 教えたのですか それは多くの人が

観音法門を習いたがら なかったからです 私も観音法門を 教えていますが 皆が習いたいと思う 訳ではありません そこで私も皆に 仏陀を拝み 経典を唱え 真摯になれと言います そうですね

私も苦しみを縮小する 方法を教えました

これも法門です ただこれは観音法門と 関係ありません 私も色々な法門を 教えますが観音法門は 仏陀になる 唯一の法門であり 解脱する法門です 福報を積む法門 ではありません 私が昨日と今日教えた 法門は 福報を得る 法門で  それは私達の 悪いカルマ(報い)を減らし 幸せにする法門です しかし偉大な 霊修行者を信じれば 死ぬとき解脱できます 臨終の時 その人が来て 私達を連れて行きます 解脱するのと 仏陀になることとは 違います

仏陀になることは 解脱するだけでなく 智慧がある という意味です 解脱することは 智慧があるという 意味ではありません 智慧ある修行者により 上へ引き上げられた からです

法名はどんな 意味がありますか 法名を与えることです あなたは仏陀に 帰依する時に 与えられる法名を 知ってますか(はい) インドの伝統です カトリックでも同様に 多くの聖人の 名前があります 洗礼を受ける時 聖職者はあなたに 聖人の名前を与えます 仮にあなたの名前が 王夫人だとします それで聖職者は マリアとかテレサの

名前を与えるでしょう これらは過去の 聖人の名前です これらの名前には別の 使い方があり日々その 名前を使うことにより その祝福された福報や 力 長所などを 思い起こさせるのです

上手くいけば私達は それによって少しずつ 変っていけます あるいは彼らのような 聖人と同じように 純粋で偉大になる ことを期待できます

同様に仏教にも 多くの名前があります あなたの元の名を 劉さんとして 自分の師に帰依した後 もう一つの名前を 与えられるでしょう 「明徳」とか 「明道」 など 彼はこの名前を 想起することによって いつかその道において悟りを 得たいと望みます 分かりましたか このようなものです 一種の祝福です 一種の善なる望みです 本物になるか否かは 関係なく 別の話です 私達は修行をし全ての 煩悩を越えるべきです なぜ西方浄土のような 七情六欲の世界が まだあるのですか マスターは七情六欲は 感情だと思いますか 欲望だと思いますか いいえ この幸福は異なります この世で得る幸福とは 違うのです ここで得る幸福は 食べた時 幸せです ギャンブルをして 幸せです 飲んで幸せ 口論して 幸せです 他者を叩こうにも 彼らは私達を叩けない 私達も幸せです それらは完全に 異なります

人々が西方浄土で得る

幸せは 本当の幸せです 私達がここで得る 幸せはありません 全く比較することが できません 私達が取り除こうと している欲望はこの 物質世界の欲望です

それらは西方浄土には 存在していません この世界とそれを 比べられません あまりに違っています それは私達が 子供時代に プラスチックの玩具で 遊ぶのに似ています とても好きですね あなたは泥から ビスケットを作り 葉っぱをお金に真似て 遊びました そして その「ビジネス」が とても上手く行き 誇りに思い 沢山の 「お金」を作りました しかし成長した後は 本当のお金を稼ぎます 私達が成長した後に いる世界では この子供の遊びとは 比較にならない程の 「ビジネス」をします

人々はこの世俗的な 世界でしばしば 過ちを犯します 懺悔することで その罪を消せますか 後悔は助けになります しかし私達が無限の 恩寵を持つ偉大な 修行者に懺悔するなら 彼は私達の悪いカルマ (応報)を失くせます 誰にも懺悔しないと 悪いカルマ(報い)を 消すことは難しいです 例えば 私達が囚人で毎日 不平を言うとします 「ああ 本当に 外へ出たい この刑務所は嫌だ 自分は無実だとか あるいは有罪なら 自分は後悔している 懺悔して 変りたいんだ チャンスをくれ」と 良いことです しかし 誰が聞いていますか あなたは弁護士に 話すべきですし

あるいは刑務所の中の 役人に話すべきです 彼らに話した後で あなたもまた 変化 しなければいけない  本当に懺悔したのだと 証明できるくらいに その時懺悔は役に立ち 獄中にいて誰とも 話さないなら効果は どんなものでしょう ベジタリアンの食事を 食べる時 私達は お湯を沸かしたり 野菜を調理したりして たくさんの バクテリアを殺します それも殺生でしょうか 殺生を避けるために 私達はバクテリアを どう見たらよいですか そう それも殺生です ですから何も食べない ことを勧めます 菜食でさえ 食べないこと それで どんな生物も殺さない

シンプルに それに呼吸もだめ なぜなら呼吸の度に 殺生するから 皆に言います もうこれ以上お湯を 沸かさないでください これでは極端すぎます 狂信的です そのように修行する べきではありません 原則は私達が 思考の中での殺害を 取り除くことです

避けられないなら 避けられません 私達が避けようと すべきなのは 殺害の願望です

殺生という考えです それは殺生になるから これが出来ないとか それもまた殺生なので 行えないとかではない そうでなければ私達は 歩くことさえできない 歩行は多くの 衆生を殺します 床を掃くのも 手を洗うのも 衆生を殺します でないとなぜ手を洗う

必要がありますか 細菌を殺すのは 衛生のためです 戒律を守るのこと 良いですが 極端にしないで下さい

昨夜 マスターの 講義を聞きに来ました 何回も植物のある ステージ全体から 金色の光が 放射するのを見ました スプリームマスターは 仏陀のように 金色の 光も放射していました その意味は 何でしょうか

私に光があるという事 修行者に光がないなら 他に何が あるべきでしょうか 暗黒ですか 修行者には光があり そういう訳で仏陀  菩薩 聖人 イエスやマリアには その絵にすべて光が 描かれている理由です 私も修行者です 私は彼らと同じで ですから光があります あなたが見れるのは 良いことです 多くの人々は見えず 普通の人の目はそれを 見ることができません あなたは見ました おめでとう レベルは悪くないです 高いレベルの人だけが 見ることができます サマディとは魂が 体から離れることを 意味しますか 恐らく 魂は戻る ことができませんか 可能です サマディとは私達が 暫くこの肉体を離れる ことを意味します 離れずに離れる 私達が離れるのは この幻覚の世界です

私達はこの体 この世 人々の存在を 感じません そして私達は心が 非常に満足な状態で 人生を送ります でも私達は戻ります

良い方法を 修行するなら 戻って来ます ある人々はサマディに 入って戻られない事が 起こります そんな多くの法門が インドにはあります 私達はサマディに入れ そしてまた 戻ってこられます 私達のように 観音法門を修行する 人々が行きたいと 思うなら行き  戻りたいと思うなら 戻ります いつでも 簡単にできます

ドアを開けて出て  そして戻る時ドアを 閉めるのと同じです とても簡単です ある方法では全く 戻ることができません 例えば  呼吸方法 または ヨーガを 修行する人達が サマディに入ります それで 彼らが サマディの中に居る時 死人のように見えます あなたは彼らを 地下に三カ月間 埋めることができます 問題ありません それで彼を掘り出して 特別の方法で 彼をマッサージして 彼を起こします 誰もマッサージして 起こさないと 決して 戻らないでしょう その状態では 彼の体はたぶん永遠に 腐敗しません それは いわゆる銀線 つまり 彼の意識とも言います それがまだ彼の身体に 接続されているから このケーブル線が このマイクと この電源に接続する ことと同じです

この線が切られないと このマイクは まだ作動します 時々切る必要もなく ただここから消せて するとあなたは 私の声が聞こえません 私が話しても マイクは 私の声を伝えません 同様に その種の サマディはさきほど 私が言った後者の 状況に似ています 彼は戻れません 誰かが起こさないと 彼は戻れないでしょう 彼の肉体が 腐敗しないことは あり得ます 彼は何百年または 何千年間も ただそこに横たわり なんの問題も ないでしょう

マスター誠意は自然に 出てくるべきで私達は 強い意志を持つべき だと仰いました 誠意と 願望の違いは 何でしょうか ほとんど願望と 同じです しかし 多くの 種類の願望があります ある種の願望は 非常に悪く あるものは非常に良く 願望が良くないとは 言えません 悪い願望だけが よくない願望です 私達を助けてくれる ように仏陀と菩薩に 祈るべきです

何も悪いことは ありません 私達は弱いので いかなる場合でも 自分を助けることが できないからです 仏陀と菩薩の助けを 祈るのが悪い願望では ないのです 人を殺したい 傷つけ  盗みたいと思うなら

これらは悪い願望だ

観音法門の「観音」とは 観音菩薩を 意味するのですか もしくは他の意味が

ありますか

いいえ 観音菩薩の 意味ではありません しかし 私達が 観音法門を修行すれば 私達も観音菩薩と 同じレベルに 到達でき 同じ事ができます 彼女と同じような パワーを持てます 誰かが私達に祈れば どこでも出現できます 観音菩薩は 数百万年前に 観音法門を 修行したので それで彼女は そのレベルに達し その当時の人々が 彼女を観音菩薩と 呼んだのです 仏教の経典に 様々な浄土が 述べられています マスター これらは 宇宙のどこですか ここです それらは全てここです 全ては 心で造られました いかなる境界も全ては 私達に内在します イエス キリストは 天国は私達の内にある   仏陀は浄土は純粋な

心の中にあると言った 私は仏教徒です 私の家族がいつも家で 仏陀を礼拝しています 印心した後

それらの仏像は どうしたらいいですか 礼拝し続ける事もでき あるいは他の人に あげてもいいです 私達は礼拝せずに 礼拝します それは 本当の礼拝です

私の言う意味は あなたがまだ印心して いなければ  まだそれほど開悟して ないかもしれません それで 仏像に 執着してしまいます 礼拝できますが あまり良くない事です あなたは開悟した後 礼拝する時 仏像ではなくて 昔の偉大なマスターを

昔の偉大なマスターを 礼拝していることが 分かるようになります それはもっと良いです 石を礼拝することさえ できます 仏像を礼拝することは もちろんですが でも私達が理解して やるかどうかが 違います 私が仏像を見たとき

礼拝する事もできます  

私が仏像を拝むことが 決してない訳ではなく ある時はしますが ある時はしません

仏像を拝むことは 何も悪いことでは ありませんが 仏陀がどこにいるかを 知ることが大切で それからは礼拝する時 より良く 結果もより良いのです 仏教徒が餓鬼に 食べ物を与えることは 何か役立ちますか

それは皆さんが 夜の礼拝の時にする 蒙山布施の ことでしょうか (そうです) あまり役立ちません 私達にはその食べ物を 無限の量に変える

パワーがないからです

経を読むだけなら 役立ちません 私達は内面のパワーを 持つべきです

どのように使うかも 知るべきです 親愛なるマスター 解脱する一番良い 方法は何ですか 観音法門です 親愛なるマスター 印心と密宗の灌頂との 違いは何ですか 大きいな違いが あります 灌頂のとき 彼らは あなたを少し加護して 仏陀を観想する 方法を教えます 印心はあなた自身が 仏陀に会います 観想する必要が ありません

どうして沢山瞑想する 必要がありますか 印心した後は 毎日二時間半ですね 分かりました では寝たらいいです お金を稼ぎたいのに 仕事をしたくない それは可能でしょうか ベストを尽くして 出来るだけ瞑想すれば あなたは徐々に もっと長く瞑想 出来るようになります

あなたがお店を長く 営業すれば より沢山 お金を稼げます お客が来れば来るほど もっとお金を儲けます

もっとお金を儲けます あなたが怠け者で お店を半日しか 営業しなければ  もちろん半日分の お金しか稼げません 本当にそうです 私が厳しいのではなく 私はもうあなたに 速く仏陀になれて 不思議なパワーを 早く得られる方法を 教えておきました それを望まなければ ゆっくり修行しても 構いません でも必ず 菜食を続けてください 真剣に 誠心誠意で修行して 最善を尽して下さい そして毎日一分ずつ 足して増やして下さい

今日あなたは 一〇分瞑想して 明日は十一分 明後日は十二分 十三分 十四分  十五分 十六分 その後 二時間瞑想 出来るようになります それはとても速いです 数年前に私は脊椎を けがしましたので 座って瞑想することは 容易ではないのですが 横たわって瞑想しても 同じ効果がありますか はい 眠らなければですが なぜでしょう なぜ座るのでしょう 座っていると 眠りに落ち難いから ですから 時には

座っても眠ってしまう ほどですから 横に なると言うまでもない

私は密教を修行して います 密教では肉を食べても いいです 印心を受けたいですが マスターは肉食を 許してくださいますか

いいえ 仏陀は肉を食べません 瞑想すれば すぐ仏陀と菩薩を 見る人もいれば 全く何も見えない人も いますが なぜでしょうか 

仏陀と縁がないから でしょうか 原因は自身の悪い カルマ(報い)です 仏陀を見る必要は ありません 瞑想すると 喜びを感じ 瞑想した後 魂は喜びに満ち 体は健康になれば これも 良い体験あるいは 良い結果と言えます 毎日瞑想すれば もっと慈愛の心を 発展させられます 家族にもっと 優しくなり  他人をもっと 理解でき 社会にもっと 有益になり 私たち自身ももっと 幸せで気楽になります これもいいことです 仏陀を見る必要は ありません 仏陀を見るのはいい ことですが 見えなく ても構いません 執着しないでください 仏陀を見るのは大した ことではありません 仏陀になるのが もっと良いでしょう ですから一番良いのは 仏陀になることです 親愛なるマスター あなたが教えている 観音法門は内面の光と 内面の音に集中し それによって 智慧を獲得し 開悟出来る ものですか はい そうです 瞑想すると 足が痺れますが どうすればいいですか 放っておいてください 忍耐するよう頑張って

少し時間が経てば 痺れは消えて しまいます 動かないでください 動かないで もう往生 しそうにったら 初めて動いてください 耐えらるなら 耐えてください 少し時間が経つと体 さえ感じなくなります 縁とは何ですか なぜ人は運命に 管理されますか (縁ですか) 縁とはカルマ(報い)です 前世で 何かの関係や 何かの縁を作ったら 今 戻ってきて その結果を 受けなければ なりません 例えば 私たちは バラを植えました 時間になると 花が咲き バラになります 変わって ほかの花になることは 出来ません

いわゆる「因果」です 仏陀とは何ですか 菩薩も仏陀ですか 菩薩は 仏陀ではありません 菩薩は仏陀より 一つ下のレベルです でも 時には 仏陀は菩薩になる ことが出来ます 時には 仏陀は 一つレベルを下げて 菩薩になることにより もっと衆生に近づく ことが出来ます 例えば 釈迦が 生きている時 観音菩薩と 文殊師利菩薩は 釈迦を 手伝っていました 釈迦の弟子で 彼を助けていました 元々  文殊師利菩薩は 釈迦の マスターでした 遥か昔の ある前世では 文殊師利菩薩は 釈迦のいわゆる マスターでした しかしその日 そのときに ちょうど釈迦牟尼仏は 使命を負って この世界に 降りて来られました それで全ての仏陀は 来て明らかにまたは 影で手助けしました それは彼が自分の レベルを落して 菩薩か仏陀の 弟子になることです 彼は菩薩として 働きました 菩薩の仕事は 例えば出て行って 講義の広告をしたり ポスターを貼ったり 人々を講義に 招待することです まあそんなことです 仏陀の仕事は 講義をして印心を 授けることです 分りますか 実際

文殊師利菩薩 観音菩薩は 遠い昔すでに 仏陀になりました 彼らは

過去の仏陀です しかしちょうどその時 釈迦牟尼仏は 「王」であるべきでした それで彼らは

援助に降りて来ました

例えば ジミーカーターは 前のアメリカの 大統領でしたね その時レーガンは 彼の知事でした 高級官吏でしか なかったのです でもジミーカーターが 退き レーガンが 上がって来た時 ジミーカーターも また彼を 助けるべきでした 私の言いたいことが 分りますか 彼らは同時に 王にはなれません 複雑すぎます この世に 生きている時なぜ 私達は苦しむのですか 自分自身でトラブルを 引き起こすからです 地獄は本当にあるか もちろんあります ただこの世界を 見てごらんなさい そうしたら分ります

私は 中国本土でマスターに 出会えますか 彼は中国本土で 開悟したマスターに 出会う可能性が ありますかと尋ね 私はあり得ると言い 多分と答えました 私はそこにはいません 彼は私に聞きました 観音法門と 般若波羅蜜多との 主な違いは 何ですか と 観音法門は私達の 波羅蜜多を見つける 方法だと私は答え 般若波羅蜜多は 完璧な智慧を 意味します 釈迦牟尼仏が この完璧を 紹介したとき それは最良で最大で 最高で最も至福の 精神状態だと 聴衆に言いました そして人々がいかに 達成するかと聞いたら 多分観音法門だと 言ったでしょう どのようにして 仕事の目標と同時に この人生の 目的を捜し また修行の進歩を 妨げないことが できるのでしょう それはとても簡単です リラックスしたら 良いのです ビジネスの時間は 仕事をします 修行の時間には 修行します 昼食の時間に昼食を 取り 朝食の時間に 朝食を食べるのと 同じです あなたは一度に一つの ことをして 一日に 多くのことをします 歯を磨きながら 考えることができます だから仕事 ビジネスの最中に 神を考え ある日神と 一体になるのを切望 することもできます こうして ビジネスと 修行の進歩を かねることができます 修行の進歩に 差し障りありません あなたは ビジネスマンです 誰でも何らかの 職業を持っています この世では 仕事のない者は 一人もいません すでに何も することのない 年金の受領者でさえ 常に忙しいです 来られますか と彼らに聞いたら いいえ 今日は忙しい と答えます 年をとった年金受領者 でもやはり忙しいです 子供も忙しいです 学校へ行くのに そして私は講義と 弟子の世話と 人々の願望に 対応するのに 毎日忙しいです みんな忙しいです 従って 「多忙の仕事」の中で 頭脳ではなく 潜在意識が霊的な 成長を世話します だから心配しないで 彼は私に聞きました ビジネスをしながら 悟りを開くことが できますかと ビジネスを経営して いたら 霊的な 成長が遅れますか いいえと言いました 誰でもあるビジネスを 経営していますから この世では

忙しくない者は いません すでにすることのない 引退した お年寄りでさえ やはり忙しいです 子供たちも 勉強で忙しいです 私でさえ 講義 弟子の世話 世界の要求に 応えるために 毎日忙しいです とても多くの ことがあります だからみんな 忙しいです しかし 忙しいとき 頭脳は ビジネスを世話し 潜在意識は 霊的な成長を 世話します だから心配しないで 第二の問題は 一世で 悪いカルマ(報い)を処置して 輪廻をさけることは できますか はい それは可能です 本当のマスターに 会えば その人は あなたを助けします 彼は悪いカルマ (報い)を取り除き  焼く方法を 知っています だからあなたは 戻る理由がありません 私達と観音法門を 修めたら 私は あなたの悪いカルマ (報い)が 焼かれることを 保障します 印心の時にです ですからあなたは再び 戻る必要ありません 彼は私に聞きました 過去世において 積み上げた悪いカルマ(報い)を 消して 再び輪廻しなくても いい方法が ありますかと 私は言いました はいそれは可能だと 専門家を見つけたら それは悟りを開いた マスターのことですが 彼はいかに悪いカルマ (報い)を消すか 知っています 印心の時悪いカルマ (報い)は 焼かれるので あなたは再び 戻る必要ありません 私は彼の過去世に たまった悪いカルマ(報い)を 処理すると 約束しました 私について観音法門を 修めたらです それが私の約束でした

観音法門と 大乗仏教経典での 伝統の波羅蜜多の 主な違いは何ですか

観音法門は 波羅蜜多を見つける 法門です 「波羅蜜多」は 最大の完璧な智慧です 私達は観音法門を 使って完璧な自己を 見つけるので それは関係があります 仏陀が 波羅蜜多に言及した時 彼はただ 完璧な智慧を紹介し 観音法門を修めるよう 聴衆を勧誘しました 分りますか 私が今しているように 私は言い続けています 智慧は最高だと そして智慧は 完璧を見つけることが できるなどと すると皆は尋ねます 「どうやって」と 私は答えます 「観音法門です」と

 
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