智慧の言葉
 
物語「極楽浄土」と「百の頭を持つ魚」1/2 一九九二年十月四日と十一日 フォルモサ(中国語)   
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子供達 長い間私は 皆さんのお世話をせず フルーツゼリーも あげませんでしたね 今日は必ず それらをもらえますよ 飴もありますよ どうしていつも 同じ物を買うのですか 彼らはこれが好きです 本当にこういった 種類が好きなのですか チョコは好きですか これはどうですか とっても好きです 彼らに尋ねましたか はい あなたは好きですか 素晴らしい あなたに フルーツゼリーと 大好きな飴をあげます では物語をしましょう

はい 子供達は物語を 聞くのが大好きです これは短い物語で 時間内に収まりますね 私はこのように聞いた 私ではありません 聞いたのは阿難です 阿難は物事を「嗅ぎ」 つけるのが専門でした

彼はとても敏感な 鼻を持ってたからです いえ「ウェン」の意味は ここでは「聞く」です それが観音法門を 修行する人達が 「声聞」と呼ばれる 理由です 聞き手です 彼らは 霊修行で内面の音を 聞くからです 私達はこう聞きました 法(真の教え)を 聞くのは 稀な機会であり 人の体を得るのは 難しく 仏陀に会ったり見たり するのは非常に難しい それはとても難しい ですが私達は既に 仏陀を見て法(真の 教え)を聞きました それでは私達は他に 何をすべきですか これは「浄居天」という 物語です

それは海と同じくらい 平穏で清浄な 清浄大海菩薩の天の 住まいを意味します 私は聞いた かつて 釈迦牟尼仏と私は― ―阿難のことですが 舎衛国の祇陀太子の 庭にいました やがて暗くなってきて そして私達は突然見た 誰が見たとは言わない ここは正しい文法では ありませんね 天からの 輝く長い光線が 祇園精舎に 仏陀の住まいに 入っていくのを 光の中に非常に美しく 崇高で ハンサムで 顔立ちがよく 巨大な存在がいました 彼の身体からは ダイヤモンドの輝き ほどに発する光が輝き 彼はその光線から 飛び降りてきて 仏陀に敬意を 表しました

彼は仏陀に三回 ひれ伏し 七回歩き回り ひざまずきました 背筋を伸ばして ひざまずいてそして 手のひらを合わせ 彼は仏陀に報告した「主よ 私は浄居天から 来ました そして あなたが現世に降りて きたのは一切衆生を 済度するためであり それで彼らが自分達の ために功徳を積む 多くの機会を持てる ようにと 功徳を積むのはまるで お金儲けのようです 分かりますか そして天と地の衆生に 恩恵を与えます 悟ったマスターに 出会うのは非常に 難しいと知ってます」 彼は悟ったマスターに 遭遇するのは難しいと 言っています 「醜い」と言っている のではありません」

私はあなたの中国語が あの人のより良いと 確信しています それで「仏陀は醜い」と 翻訳しないでください 「仏陀に会うのは 難しい」と されるべきです 「悟ったマスターに 会うことは非常に 難しいので どうか世尊と僧の皆様 私の最大の誠意を 受け入れ 明日私に 主を洗わせ ビーガン食を 供養させて下さい」 彼らを洗うためです このように 悟ったマスターで いることは偉大です 誰かがあなたを洗い たがってさえいます

彼が言ったことを 聞いて  釈迦牟尼仏は功徳を 求める彼の切望を たたえました 彼は入浴と ビーガン食の提供を 受け入れました 仏陀の同意を 受けたので 彼は喜んで浄居天に 飛んで帰りました 彼は天から最高の食物 最高の体を洗う 道具を取って来ました 入浴するのに 水以外に他に何が 必要だというのですか 彼は多くの物を持って とても変ですね 彼はパジャマのような 服を持ってきました また彼は 入浴する場所  たぶんサウナか プールを出現させた 彼は入浴場 水泳プールと 浴室を 出現させました 水の温度は 熱くなく冷たくもなく ちょうどよかったです 入浴にはとても 気持ちよかったです また彼は天から さまざまな優れた バスオイルや石鹸 衣服およびタオルを 準備してきました 全てが心地よく 準備された時 彼は仏陀に香りの良い そしてぬるま湯を 浴びるように 誘いました

これをすることは 彼にとって論理的です インドはとても暑く 水は不十分でした 彼らにはハイテクが なかったので 井戸は十分深く 掘られませんでした 今日でさえ インドの 状況はまだ同じです いくつかの所で

人々はガンジス川か 他の川の水に頼って 生活せねばなりません ガンジス川の水は 非常に不思議です あらゆる種類のごみが 川の中に捨てられます それでも水はまだ 非常にきれいです 水はあなたが三年前に それを家に持ち帰った 時と同じくらい純粋で あり得ます 恐らくその中で機能 してるのは灰でしょう はい それが水を浄化 できると聞きました それが理由でしょう そう聞いていますが

それにも拘らず  私はそこにいた時  毎日水を飲みましたが 問題ありませんでした

その水は不純物で 一杯でしたが 私は 飲まねばなりません ミネラル水が何か 分からなかいので 彼らにそれを求める 事はできませんでした 彼らの何人かは 以前 水道栓を見たことさえ ありませんでした ガンジスの水が なかったら 他に何を 私が飲めたでしょうか 毎日歩かねばならず 選り好みできません 水が汚いのを知って ましたが目をつぶって  聖名を唱え  内面のマスターに 助けを祈って それを飲みました 問題ありませんでした 水の中には加護の パワーがあるかも しれません  多くの霊修行者が 水浴びしたからです ある人々はガンジス川 から持って帰った 砂を販売しました そして 彼らの商売は 悪くないと聞きました

では 元の話に 戻りましょう それで釈迦牟尼仏は 風呂に入りました 天から持ってきた 水 せっけんや 香油を使うのは 素晴らしかったです バスタオルさえ 準備ができていました 水は温かく 彼は風呂に入るように 誘われました それは驚異でした たぶん彼は第二界から マナサロワール湖を 持って来たのでしょう この湖を通るとき 水浴びするなら 第三界に達する前に あなたのすべての カルマ (報い)は 洗われるでしょう それは素晴らしいです たぶん彼はそこから 水を持って来て 釈迦牟尼仏のために 彼のカルマ(報い)を 洗うために入浴させた 無数の衆生を 済度したので 彼は 悪いカルマ(報い)が 完全に積まれて いました 彼が時折 それを 洗うのは良いことです 釈迦牟尼仏は風呂に 入った後 彼は自分の住処に戻り その浄居天からの 天人は 彼に敬意を払うために 行きました 彼は「主よ 食事の 時間ですビーガン食を  どうか召し上がって 下さい」と言いました

仏陀と僧の集団は 風呂の後に きちんと装って 大食堂へご飯を 大食堂へご飯を 食べに行きました その後に 皆は  瞑想のために自分の 場所に戻りました 私 阿難は そこで 立ち上がって 右の肩を露出して 仏陀に跪きました 彼は肩を露出したが 片面だけでした 多聞第一の彼は 合掌して尋ねました 「主よ どんな功徳で 浄居天のこの方は 以前にこのように 美しい体を得ましたか あまりにも壮大で 素晴らしくて  りりしくて 光で満ちた体をです 主よ どうか理由を 言ってくれますか」

仏陀は言いました 「阿難 知りたいなら 注意深く聞きなさい 「はい 主よ  注意深く聞きます」 彼らはいつも同様に 話しました よしと仏陀は言った 「ビバシ仏が在世の時 この人は他の人のため 働くことによって 生計を立てる非常に 貧しい男性でした ある日  風呂の供養の功徳に 関して ビバシ仏が 話してくれる 加護がありました おそらく それは当時 インドで非常に重要で あったので皆は風呂の 供養で競争しました

ビバシ仏は仏陀や 僧団に風呂の 供養をする人には 無量の功徳があると 言いました 彼はそれを聞いて とても幸せでした 彼は自分が聞いた事を 実行に移しました」 これは非常に厄介です 彼は時折だけ講義に 行って その部分だけ 聞いたのに  家に帰ると 自分が聞いたことに 狂信的に従いました 涅槃(永遠の至福)か サマディから得られる 福報は知らなかった 彼が知るすべては 風呂の供養からの 福報だけでした 確実に全部聞くように しなさい いいですか 私が人々を叱る時 私が非常に激しいと 結論を下すのを ただ聞かないように または誰かに甘く 話すのを聞いただけで 私が非常に優しいと 思ってもいけません

私は人によって 違う話をします 実際 私がすべてですね 聞きたければ 叱責と歌を含めて すべてを聞いて下さい それで私がかいかに 有能かが分りますよ 「入浴の供養の加護に 関する講義を聞いた その日から 彼は非常に 幸せでした 彼は一生懸命に働いて より多くのお金を稼ぎ そして少しの石鹸と タオルとか 少し 食べ物を買いました すべてを手配した後 彼はビバシ仏と その出家した弟子を 彼の家に招待して 供養を行いました この福報で 彼は浄居天に 生まれ変わり とても輝かしく美しく 威厳があるよう見えた 仏陀は引き続き 言いました「阿難よ この人は 入浴と食べ物を私達に だけ供養したのでは なく シキ仏が 在世のときも この供養をしました」

まるで 仏陀と出家達が 入浴と食事以外 何もしなかったように 彼は毎回入浴と食物で 同じ供養をしたかも しれません 「迦葉が この世界に来たとき 彼は今日行ったように 同じ供養をしました この人は 過去七仏にだけ 供養しただけでなく 引き続き 彼らの後の千仏にも 同じ供養をします」 それで私達はここで 抜け道を見つけました それは何か分りますか 古い習慣は 変え難いのです 毎回 入浴と食物を 供養します ですから毎回同じ 供養をしないように いいですか 毎回同じく供養を しないで下さい

いいでしょう 発見したことで 他に 何を知っていますか

少なくとも  私が若かったとき  全てのマスターから 釈迦牟尼仏の前に 七仏があり 彼の後にはないという ことを聞きました それらの七仏の前にも 何の仏も ありませんでした 釈迦牟尼仏を含み 七仏があり それ以外 他の仏は ありませんでした 今彼はそれらの七仏の 後に千仏があったと 言いました それが想像できますか どんな時代にも仏陀が いるのを証明します それで人々は ばかげた事を言います 彼らを見付けることが できなければ それは私達の過失です しかし私達は 釈迦牟尼仏と七仏以外 他の仏はないこと または弥勒仏は 五千年後または 五十億年後にしか 来ないなどと言うべき ではありません 彼は何のために ここに来ますか そのとき私達は皆 もう死んでます

誰が彼を必要ですか 私達の子供はどうです 五十億年待つため 彼らはどこへ行くべき 仏陀に会うため 五十億年間 輪廻することは 価値がありません 彼が長い間 ぐずぐずするなら 全く来ない方が いいですね 彼が来たいなら 早く来るべき  さもなければ来ないで 誰が五十億年後に 彼を必要としますか そんなに経ってから 彼は長い時間後に 来ると約束したが 私達は現在激しい 苦しみを受けています 私達は死んで地獄に 行き多くの悪いカルマ (報い)をつくり 繰り返し苦しい所に 生まれ変わるでしょう

それでも彼はぐずぐず してゆっくり来ます 誰が彼を必要とするの もう来なくていいって 伝えてください 代わりになる人を 探します チンハイ仏陀は 悪くないと 聞いています 彼女を送ってください 皆さんから こう聞いたのです 「スプリームマスター チンハイ  古代の仏陀 チンハイがいます 彼女は最高です」 とりあえず彼女で 我慢してください 誰もいないよりは マシでしょう ほら 彼らの言葉から 抜け道を 見付けられるでしょう 彼らは徹底的に経典を 読んでいないから でたらめを言います

彼自身を含む七仏か 八仏以外に 仏陀がいない訳が あるでしょうか 宇宙は八仏しか 作れないなら 本当に 余りにも貧乏で加護に 欠け過ぎていますね ガンジス川にある 数えきれない砂の ように 宇宙には数えきれない 世界と惑星があります なぜ七仏か八仏しか 作れないのでしょう 八十仏でも 少な過ぎます そうでしょう 小さなフォルモサ (台湾)にどれくらい 教師がいますか 彼らは子供を 教育しています 新しい世代の子供を 教育するため新しい 教師が求められます 先輩の教師が 亡くなったら 新しい教師が来て 子供を教えています

何億万劫を経て 宇宙が七仏か八仏しか 仏陀を作り出せない 訳はあるでしょうか キリスト教徒に一人の イエスキリストだけ 神はそんなに創造力に 欠け またそんなに けちで 一人の 息子しか作れないと 思いますか 一人の人間が子供を 何人も産めるのに 神が一人の子供しか 作れないと思いますか 神はそんなに無用なの 経典を理解するため もっと読むべきです もっと読む必要がある だけではなく もっと 智慧を持って 経典を理解すべきです さもなければ  読むだけでは 真の意味は理解できず  全てを古人に 返してしまいます

そして 私達は以前と同じく 無知で 経典を 理解できません 自分自身と他人を 惑わせるだけです 人を惑わすことは 重大な責任があります 例えば  英語の分かる先生に  英語を習ってはじめて 勉強になります そうでしょう 英語が話せない人は 英語の先生になろう としたら それに もたらされる深刻な 結果を知りますか 彼自身はひどい英語を しゃべってもいいです でも 彼が何十人 何百人に英語を 教えたら 皆 彼と 全く同じように英語を しゃべってしまいます 分りますか ハウアーユーを アーユーハウと 言ってしまいます

何百人が彼に従って アーユーハウと 言ってしまいます 彼の学生がまた 人に教えるなら  もっとひどくなります アーユーハウ 意味が分りますか 能力がある時に限って 先生になるべきです さもなければ畑仕事を しても タクシーを 運転しても どんな 仕事をしてもいいです オゥラック(ベトナム) に軽いコミカルな歌を 歌う三人組が いました 彼らは 迷信 貪欲 復讐 執着など 人々の腐敗した慣習を 嘲っていました ある時大学卒業証書を 欲しがっている人を からかう歌を 作りました

その人達は勉強の 目的は卒業証書を 得ることだけではなく  智慧を発達させ社会と 人々に奉仕するためと 意識していないのです 分りますか 彼らは歌でその人達を 嘲笑っていました 「卒業したら 軍隊で 将校になります 就職したら 社長か経理に なります 苦労せずにいっぱい お金を稼ぎ 美人達が ぞろぞろやってきて 私を待つでしょう」 彼らの唯一の目的は 物質的な収穫です お金とか 肩書きとか 美しい女性とか あるいは 男を釣って 結婚するためとか 歌手達は社会の 間違った考え方を 諷刺したのです いいことです

人のことを嘲った後 彼らは「矢」を 自分達に向けました 「おお 卒業なんか 気にしなくていいよ 私はタクシー運転手 として卒業するよ タクシー運転手の 資格を取ります 最後には証書を手に 入れます どんな 証書でも構わないよ そんな感じ それも職業です 資格証書をもらえたら 偉くなった気になる」 オゥラック(ベトナム) では 何でも 「証書」と呼びます 中国語では  何と呼びますか 「卒業証書」 タクシーを運転できる 資格のことも 「証書」と呼びますか 「免許」と言います それはもっと的確です オゥラック(ベトナム) では 何でも「卒業 証書」と呼びます

それで歌いました 「今 私はタクシーを 運転するための 卒業証書を得ました 私は今リラックスして 自由です私は首尾よく 毎日ハイウェイに 沿って急ぎます」 彼らはこの仕事も 職業だと意味しました たとえ何がそれに 書かれたとしても 証明書は一枚の 紙にすぎません 分かりましたか 私達が他人に役立つ 精神を持って  自分と家族を 支えるために 正直で 清潔で 愉快な態度で金を 稼ぐ限り それは 十分良いでしょう 彼らが伝えたかった メッセージです 非常に真実と思います
私達が他人に役立つ 精神を持って  自分と家族を 支えるために 正直で 清潔で 愉快な態度で 金を稼ぐ限り それは 十分良いでしょう 彼らが伝えたかった メッセージです 非常に真実と思います

つまり 能力があるなら 先生になってもいい さもなければ 農民 又はタクシー運転手に なることもよいです 普通の霊修行者に とってよいでしょう 社会 家族と自身に 役立てるなら それは十分よいです なぜ貴方は常に悟った マスターになることを 願っていますか 簡単な仕事ではない 神があなたを悟った マスターになれと指名 するなら泣くだろうと 以前話しました 生まれた時  更に大声で泣きます あなたが悲しい運命で あると知っているから その時からあなたの 楽しい三十八年間が 終わっています

あなたは本当に悟った マスターの苦しみが 分かっていません 彼らが笑って あなたと冗談を言って 彼ら自身又は他の人を 笑うのを見るだけで それが素晴らしい 仕事であると あなたは思います 彼らは素晴らしいと 感じるかもしれないが 彼らも非常に苦しみ 他の人の悪いカルマ (報い)を背負います 彼らは一切衆生より 苦しみます そういうわけで インドで人々は神が あなたを罰したいなら 神はあなたを マスターにさせると 言います  インドで本当にそう 言い それは真実です 私を信じないなら 彼らに尋ねに行っても いいです

今 私はますます 理解します 苦しみは時々うまく 言い表せないのです 私はそれを表す方法が ありません そして 誰にも分かりません 人が私の周りにいる時 私はより苦しみます それについて話すほど さらに苦しみますので 話さない方がいいです はい インドに飛んで 戻りましょう 釈迦は 仏陀に世々代々 入浴させ食べ物を 供養する天使について 語りました その後 彼は天使に 予言を授けました 「あなたは 百 阿僧祇劫年後 仏陀になります」 百 阿僧祇劫年と 言うのは彼の都合です 誰もこの時間を 数えることが できないからです

彼は阿僧祇劫年 数えきれない劫年の後 仏陀になると いう意味です 私は同じ事を言えます 「あなたは阿僧祇劫年 数えきれない劫年後 仏陀になる」と 確かに誰でも仏陀に なる日があります 一劫年でも既に かなり長い時間です まして阿僧祇劫年 しかも  百阿僧祇劫年とは 釈迦仏陀は 間違うことはないので  そう言うのは本当に 賢かったのです 「彼は浄身という 名の仏陀になります そして最高の世尊の ような十の肩書きを 与えられます

また 彼はそれから 無数の一切の 衆生を教化します」 仏陀の追随者と私は 阿難の意味ですが それを聞いて  非常に喜びました 一緒に言います 「仏陀が降臨し 衆生は真に利益を得る 少し供養しただけの この天人さえそんな 阿僧祇劫年もの 大きな功徳を 得られて 最後には 仏陀になれました これは本当に 考えられないです」 それが彼らが一緒に 言ったことでした そして釈迦牟尼仏は 「これを言うのは 非常に良いです 本当に正しいです」と 彼らを称賛しました

彼は続けて言いました 「仏陀が降臨する 唯一の目的は 衆生のためです 衆生を苦海から 救い出して すべて種類の 衆生のために なることです」と そして 彼は皆に 本当のダーマ(真の 教え)を説きました 講義の後 あるいは 印心かもしれませんが 多くの人々が異なった レベルに到達しました ある人は最高の真理を 探すと誓いました 皆は非常に幸せであり 崇敬をもって別れの 挨拶をしました」 おしまいです 物語はまだちょっと あります 次に暇な時 皆に教えますね 今 すぐに 「丹田」法門を 修行に行ってください 胃袋を満たしてから 帰って下さい 仏陀の食事を楽しめる ように願います 聖名を唱えることを 忘れないで下さい 急いでいるなら ステンレスカップを いっぱいにして よくふたをして 車で食べても良いです 聖名を 唱えると 車内にも 浄土になります あなたはただ幸福で 食べ物もよく 消化するでしょう ではまた会いましょう 愛をありがとう

皆とても幸せです 皆が笑っています

マスターはとても 美しいです

ありがとうございます

あなたはどんどん 美しく見えます

ありがとう さようなら バイバイ

ありがとうございます

今修行をすれば もっと賢くなり 知的になり 成長して

いけば知的である事に 慣れるでしょう 分かりますか(はい)

三〇才をすぎるまで 修行を待っていたら 遅過ぎます 自分の習慣を変える のが難しくなります 分かりますか(はい)

無知でいる習慣を 変えるのは 難しくなります 知的な習慣を 変えるのは難しくなり 無の習慣も 変えるのは難しいです

物語を聞きたいですか (はい) 物語をしばらく 話していないですね 先に物語か ゼリーが先ですか  先に物語です いいのですね はい 知りませんよ 本当に物語を 聞きたいですか はい 昼食は十分に 食べましたか はい 菜食には 慣れましたか はい 皆さんは常に 一緒に答えますね はい 慣れました これが良い話なのか 分かりません 一緒に読みましょう まだ読んでいませんが 短いですから ちょうど良いです

二、三個の 物語があります

一つは 「百個の頭のある 魚」です

あなたは瞑想をして 智慧をもって 成長するのです 成長を待ってから 瞑想を 始めないで下さい 遅すぎるからです 皆さんは中国語の ABC音声を 幼い時から 学んでいますね(はい)

それを 成長した後 例えば 今学ぶと 遅くなりませんか はい

今は 忙し過ぎて 学べません 他の事で 忙し過ぎたり 中国語音声を学ぶ 時間がありません

私は 言葉を 成長するまで 学びませんでした 中国人じゃないから 皆さんは 幼い年から 中国語音声を ABCから学んで 良いですね だから成長して 読み書きができます 同様に  霊修行を幼い時から 修行した方が最善で 智慧は成長する共に 共に広がるのです 時に  霊修行を成長してから 学ぶのは 遅すぎる事があります それは 無知になる ことの習慣を 変えるのは とても困難だからです では 百の頭と魚の 物語から 始めましょう それを聞いたことが あっても 阿難が 聞いた事にしましょう

釈迦牟尼仏は マガッダと言う 国に住んでいて 竹林に居ました 彼はそこに僧侶の 弟子と一緒に居て 時に彼は 竹林の中で 講義をします ある日 世尊敬が 誰が世界的に尊敬され ているか分かりますか 釈迦牟尼仏 それは 釈迦牟尼仏です なぜ彼は世界的に 尊敬されているか 分かりますか 私達は分かりません 世尊 と言うのは世界に 最も尊敬されていて 私達は自分たちの 尊敬をその人に 崇拝するのです ただ彼の名前を 釈迦牟尼仏と呼ぶ 代わりに 彼を 世尊と呼び 崇拝します 皆さんも両親を同じ ように扱いますね

彼らを尊敬している から 名前で チェンウェンチェンと 呼んだりしませんね お父さんと呼びますね 彼らを名前で 呼ばないのは 尊敬しているからです 同じ様な事です 一度  世尊は ある比丘 それは何ですか 男性の弟子や 僧のことです 「比丘」の 意味は男の僧です 女性の僧の弟子は 何と呼びますか 尼僧です 比丘尼です 重要ではありません それを知ってるかは 関係ありません 仏教に使われる 梵語があります それは中国人に 関連していません そのような言葉は 使われ 中国人も 仏教を学ぶのです これを皆さんに 言うのは聞かれた時に 皆さんも答えられる ようにです  はい

その日 世尊と 比丘は別の国 バイシャリと言う 国に行ってました 彼らは歩き疲れ 河の岸  名前は黎越で 休んでいました 五百人の遊牧民と 五百人の漁師が 川沿いにいました 漁師は三つの種類の 網を使ってました 小さい方の二百人で それを引いていました 大きい方の三百人は 大きい網が 必要でした 五百人はそれを引いて 釣りをしていました 五百人必要な位 網は大きくて 大きな魚を 捕まえることが できます

五百人で網を 引くのですから 沢山の人がいます 世尊と 比丘は彼らの 近くに座っていました しばらくして  五百人の漁師が 網を引くのを見て そこに人がいる事さえ 彼らは 動きませんでした 彼らは長い苦悩の後 網を引くのに 失敗しました 漁師はそこへ行き 五百人に尋ねました 不思議 なぜ彼らは 正確に数えているの いつも五百人なのです 彼らは引くのを 手伝ってくれる五百人 を探しに行きました 最後に 多くの努力をして 彼らは網を引っ張って 魚を揚げました 百の頭のある 巨大な魚でした

様々な動物の頭が ついてます 例えば 馬の頭 駱駝の頭 虎頭 狼の頭 豚の頭 ねずみの頭 獅子の頭 蛇の頭 巨大な象の頭 小さい象の頭 鹿の頭 羊の頭などなど 様々な動物の 頭があります 百もあります しかし 人間の頭がありません 動物の頭しか ありません ごめん  人間の頭がありません 皆集まってこの異常な 魚を見に来ました 仏陀も とても不思議でした しかし 仏陀だから 人込みに行くのは 厄介なので 阿難を調査に 送らせたのです 従って 阿難は 魚を見に行きました 百の動物の頭がついた 魚を見て当惑した 阿難は仏陀に 報告しました

仏陀は自分の好奇心に 耐えられなくて 僧団と一緒に 見に行きました 「君はカペレですか」 と仏陀は尋ねました 魚は「はい」と 魚さえ話せるのです けれども どの頭が 話したか解りません たぶん魚の 頭からでしょう 彼は質問に「はい」と 答えたのです 仏陀は再度尋ねました 「今生では あなたが魚ですが 来世はどうなるか 知っていますか」 魚は 「来世は間違いなく 無限地獄に 堕ちてしまうだろう」 阿難と他の人々は なぜそんなことが 魚に起こるかを 知りたくて 仏陀に尋ねました

世尊 この魚を「カペレ」と呼びます なぜですか 教えてください 仏陀が言いました 「よく聴いてください この魚の本来の 正体を教えてあげます 遠い昔 迦葉の時代 バラモンの ある人は息子を産んで 彼をカペレと 名付けました」 この子は皆さんの ようにとても知的で 観音法門を 修行しました 恐らくしてなかったが 非常に聡明な子でした 「彼は勉強で 一番だった 最も賢く 最も有名でした とはいえ 霊修行に 関してはあまり 知識がなかったです」 聡明だけでなく 霊修行にも励む 皆さんとは 違います 分りますか(はい)

たぶん彼には 霊修行と ダーマ(真の教え)の 概念がなかったのです 彼は単に世俗的な 知識に精通しただけで 非道徳的です その後 彼の父親が 臨終の際 彼を呼んで こう言いました 「気を付けるべきだ 他の誰かと議論しても よいが仏陀の修行者と 議論してはいけない なぜなら あなたは 間違いなく負けるから 彼らの偉大なる智慧に 勝てないから 彼らと議論しない ほうが良い 敗北なら 恥を かくのだ 解ったか」 彼は「これを頭に 入れて彼らと 議論しません」と 父親が死んでから 彼は勉強を 続けて 全省で非常に 有名になりました

彼は議論で 大変雄弁で 誰も彼に勝てません それで 彼は全省で 有名になりました しかしながら 彼は在世の仏陀の 弟子たちと議論する 勇気がなかったのです 彼の心配や 修行者と決して 議論しないことを 観察した母親は 彼に尋ねました 「お前は偉大な智慧と 知識を備えている 雄弁な人だよ この時代に他に誰か お前を打ち勝てるか」 息子は答えました 「仏陀の 弟子達は 私より優秀です」 彼の母親は尋ねました 「彼らはどこが お前より偉いの」 彼は答えました 「これら修行者は 私が知らないことを 明白に説明できますが 私が彼らの質問に 答えたり 言い返す  こともできません ですから 彼らに匹敵 するものではない」 彼の母親は 「それならなぜ 学びに行かないの」 「彼らから学ぶのは 僧侶でいなければ なりません 僧侶にならずに 私のような在家の人は どう学べるのですか 彼らは僧侶以外の人に 教えませんから」 昔では 彼らは観音法門と 智慧眼に関する 知識を決して外の人に 伝えませんでした

この法門を学ぶには 僧侶になることを 誓わねばなりません 自由に伝え なかったからです 今 私はこの法門を 自由にさせて子供さえ 気軽に学べるように なります 規則は大変 緩やかになります 昔の悟りの マスターは より厳しかったです 観音法門を学ぶのは 容易ではなかったです 何年も渡って試験を 通過せざるを得ません 仕事で苦労して 数多くのテストを 通過せざるを得ません 秘密の方法は あなたが僧侶に 値すると思われた 場合のみ伝えられます 秘密の方法が 誤って伝えられたり 無作為に伝わるのが 心配だからです

誰も簡単に信じられず その僧はこの世界の全てを放棄しました 僧は 親戚 友人 夫 妻を 持たなかったので 問題を 起こしませんでした 僧侶はマスターに カルマの障害物を 持ってこないのです

それが古代に 部外者や在家者でなく 僧侶のみに 教えられた 理由です その男性は言いました 「秘密を学ぶために 修道者になるのです どうやって修行者から 学べばいいのですか」 彼の母親は言いました 「しばらく僧侶の ふりをしなさい 学習が終わったら 母の元に戻りなさい 何か問題がある」 息子は同意して 言いました 「命令に従います」 彼はまさに子供でした まもなく彼は 頭を剃り 偽者の僧侶に なるために 托鉢椀を持ちました 彼は非常に 頭が良かったので そこに行った後 短時間で 全てを学びました ある日彼は 母に会いに行きました 母は彼に聞きました 「他の僧侶の 弟子達よりも 優れているの」 彼は答えました 「教えを学ぶのは 匹敵しているけれど 瞑想では 負けているよ」 彼はまだ瞑想に 慣れていないのですね 僧侶は毎日 長時間瞑想します 彼は偽者の初心者です どうやって長時間 座れたでしょうか 瞑想で他の僧に 負けました

母は息子に聞きました 「どうして競争 できないと分かるの」 息子は答えました 「瞑想は本当に難しい 具体的な勉強と違って 瞑想は 長期間の 訓練が必要なんだ 座っているのを 見ているだけでは 勉強にならないんだ」 たぶん彼はまだ 印心していませんね 彼は教えを 学べましたが 印心は受けていません 瞑想とサマディーは 自分の心の中で 深めて行きます 自分自身の中に 深く達せられないので 議論すると いつも負けます 印心を受けていない ので内面の智慧を 見つけられないのです 母は言いました 「今日からはいつも 議論に負けたときは 説教して侮辱すれば いいだけよ」

恐ろしい母親です 確実に地獄行きです 本当に恐ろしいです 彼は愚かではないので 言いました 「お母さん 僧院の 人達はとても 慈悲深く優しいよ 僕が叱らなければ いけないことを 彼らはしたかな」 母親は言いました 「彼らを叱ればお前は 負け犬にならないわ それどころか勝者よ」 カペルは少し間抜けで 子供すぎたので母親が 話した通りにしました 議論に負けるたびに このように叱り 侮辱しました

「お前は動物みたいに 愚かだし無知だ」 まるで馬の頭や 雌牛などの 頭みたいだと 侮辱したのです 彼は僧侶を動物の 頭に例えたのです 彼は他の僧侶を 馬や雌牛の頭だと言い 屈辱を与え 愚かで人間ではないと 暗に伝えたのです 暗に伝えたのです そのようにして彼は 僧院の人々に ひどい事をしたのです 話し終わってから 釈迦牟尼仏は 言いました 「阿難 カペラは悪意を持って 修道院の人々を 叱ったのだから 今度は彼が 報復を受ける番だ 百匹の動物の 頭がある魚になる」 どうして百匹の 頭がある魚なのか 阿難と僧侶は 仏陀の言葉を 恐れましたが

魚に大いに 同情も感じました そうであるから 一切の衆生は 行動 言語 思考に 気をつけなければ ならないのです この話を聞いた後 五百人の漁師と 五百人の牛飼いは 釈迦牟尼仏に ひれ伏し 出家して 修行者になる 了解を得るため 懇願しました この世のカルマの 結末がこんなにも ひどいと知ってからは 魚を捕まえたり 牛を飼うことは しなくなりました 仏陀は言いました 「もう比丘です」 すぐにあごひげと毛髪 全ての毛が突然消えて 衣類は僧衣に 変わりました 彼らは簡単に 僧侶になったのです 仏陀から学んだ後 彼らは阿羅漢に 達したのです はい これで物語は終わり

もう行きますね さようなら マスター 分かりました

私達の霊修行に 誠実になることは いかに重要なのか スプリームマスター テレビジョン 十二月二日木曜日 智慧の言葉で 預言者と聖人の賢明な 助言をご覧ください

本日の スプリームマスター テレビジョン 智慧の言葉で 誠実さに関する 預言者と聖人の賢明な 助言をご覧ください

 
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