智慧の言葉
 
死後への即刻の方策 1/3 一九八九年五月二八日 合衆国 、カリフォルニア州、 サンフランシスコ   
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皆様 セミナーへようこそ まず簡単に 私達の マスターチンハイを ご紹介させて頂きます マスターチンハイが 生れたのはオゥラック (ベトナム)の家庭です 幼い頃 彼女は日曜日 いつも 神様と イエス キリストを 厚く信仰する両親と 教会に行きました 平日には 放課後の ほとんどの時間を 敬虔な仏教徒だった 祖母と一緒に過し あらゆる仏教の経典を 学びました この特別な 生い立ちにより マスターチンハイは 幼少時からカトリック 仏教 両方の教えを 受入れてきました

マスターの略歴に つきましては お手元の小冊子を ご参照ください 私自身は ごく幼い時分から 人生の答えを 探し続けてきました 仏教からキリスト教 まで 試しましたが マスターチンハイに 出会うまで 満足しませんでした 彼女は答えを下さり 私を目覚めさせました ありがとう マスター 今夜この部屋に おいでの皆さんも とても早い段階に 私と同じ事を 感じると思います では再び 私達の スプリームマスターを お迎えしましょう

有難うございます ありがとう 私の友人 兄弟 姉妹 お父さん お母さん 彼はボストンの方です 印心したのは 昨年ごろですか (ええ) 去年 フォルモサ (台湾)でです 私達を歓迎するため ボストンから来ました ですから私もあなたを 歓迎しましょうか 今日 皆さんが 休暇から 戻って くるのを見ました そうですね 休暇から戻って きたのですね 楽しかったですか そうですか 最高の休暇は 私達がこの世を 離れる時です― つまり 天国に戻る時です けれど それには 今日 準備せねばなりません それは  長い休暇や 短い休暇で出かける前 旅行かばん 小切手帳 ガソリン 衣類 行く途中と 休暇先で快適に過ごす ために必要なものを 用意する様なものです

ですから 私達の旅の 最後の日の為に 今日 準備せねばなりません この日にどう備えるか 殆どの人は分りません 私達は老後や病気 生命保険の  備えの方法は 知っていますが 死の保険を準備する 人はいません  けれども死の保険こそ 私達が留意すべき 最も必要な保険です 女性が 子どもを産む時 大勢の人が 手伝いに駆けつけます 私達が結婚する時 沢山の人が お祝いに来て 楽しい行事の準備を 手伝います どんな状況でも 私達には 援助と 助ける人がいます 私達が・・・ 何の場合以外でしょう この世を去る時です 死の天使以外 誰も 手伝ってくれません でも 人々は言います 「いえ いえ いえ 私が死ぬ時は 仏陀が祝福に来て 私を仏土に 連れて行ってくれます 私は仏教徒ですから」

クリスチャンなら 「いえ 私が死ぬ時は イエスが私の救世主 としてやってきて 私を神の王国へと 連れて帰ります」 しかし私達は・・・ 仏陀が言った解脱 仏土に戻ることとは 何かを 忘れています  イエスが言った 神の王国に どうすれば戻れるかを 忘れています 今お話ししているのは 新しい事ではなく 全部 聖書や 仏教の経典に 述べられています 私は 本当に 仏土 または 神の王国に入るために 私達が従うべき 助言を強調する為に それに ふれただけです さて 仏陀は  人は仏陀(覚者)に 会わなければ 生死の環を巡り 繰り返し輪廻せねば ならないと言いました 彼はデーヴァ つまり天国の衆生 あるいは人間として 生れるかもしれません 地獄か動物界に 生れるかもしれません でも 仏土ではありません

「仏土」とは どういう意味でしょう 至福の地 最高に幸せな地 或いは涅槃と 私達は呼びます では 仏陀とは何でしょう 皆 仏陀の事は 知っていますが 仏陀の 真の意味について 大多数の人は 深く考えません 「仏陀」とは 何度も言っていますが 梵語の「開悟した マスター」です そういうことです それが仏陀です 開悟したマスターに 会った時 いつも 仏陀に会っています ヘブライ語の 「キリスト」と同様 意味は 「開悟した聖人」 「メシア」「救世主」です 私達を解脱へと導き 神の天国へ 連れて帰る事の 出来る人のことです それで釈迦は 言ったのです まだそういうマスター 或いは仏陀に会って いないなら  完全に解脱する機会 完全に真理 真の世界― 見えない本当の世界 最高の世界―を 知る機会は 極めて少ない 殆ど機会はない あなたは天国 地獄 この世に生れる それだけだ― 八四の世界を 堂々めぐりするのだ―

つまり八万四千種類の 衆生として― けれど 決して 仏陀にはならない 決して 開悟して―本当に 完全に開悟した完璧な 聖人にはならない それが 仏陀が 言った意味です ではキリストの場合 私達は キリストの 神の王国に 帰りたければという 話を忘れています ではキリストは何を? 「私を通さなければ 誰も父のもとに 行かれぬ」 ではその 「私」とは何でしょう 「私」とは 神の息子を意味します 神を完全に知る人 内面で神を 認識する人 心の中で 神の国を発見した人を 意味します

なぜなら 「実に 神の王国は あなた方の中に ある」からです 神の王国は外にあると 言う人はいません 皆 仏陀は あなたの心にある 皆 神の王国は 手元に あなたの中に あると言います それは 仏教や キリスト教の聖典で そう言うだけでなく 他の全ての経典が 同じ事を言います 私はシーク教の経典を もっと時間をかけて 勉強すべきですが ぜひこう言いたいです シーク教の経典は 本当に完璧だと その書物の名前は 『アーディグラント』 中には 世界中の 偉大な古代の マスターのあらゆる 言葉があります そして 彼らは皆 内なる神の力を称え 内なる光 内なる振動 宇宙の音を 称えました 打たない・・・

グルナーナクが言った 「打たない音楽」を 彼は「打たない音楽が 私を養い  賢くし 謙虚に してくれる」と言い  それを知っていました この打たない音楽を 通じて神を知りました グル ナーナクとは シーク教の開祖です 彼はイエスや仏陀と 同様の事を多く述べ この内なる振動を 大いに称賛しました 聖書では「言葉」 仏教では 観音「クアン アン」 「音流」と言います 「音流」と言います そして その他の 全ての宗教の経典に 私は この内なる 音に関する記載を  見つけました 全衆生を解放し 養い 時間が来たら 神のもとに 連れ戻すのです イエスは言いました 「私を通さねば 誰も 父のもとへ行かれぬ」

彼の言う意味は大きな エゴの「私」 傲慢 無知な「私」ではなく 彼が言う 「私」 とは 真の自我であり 目覚めた人 内なる人 光り輝く人 智慧のある人 何でも知る 何でも持っている 何でも作れる 何もすることなく 何でも 成し遂げられる人です 老子の言葉 「する事無くしている」 「為無為」と同様です 「する事無くしている」 状態に達すとは どういう事でしょう エゴを無くすこと エゴがない状態の達成 つまり「私と私の父は 一体である」時です

同じような意味が 「する事無くしている」 或いは仏陀が言った 「布施していると 自分で知らずに 布施する」― それが本当の布施です 或いはイエスが言った 左手で誰かに ものをあげるとき 右手に分らないように するのと同じです すべて同じ 開悟したエゴのない 状態を意味します イエスがこう言う時 「私を通さねば 誰も 父のもとへ行かれぬ」 彼の意味するのは 開悟した人 「私」です イエスはその時 開悟していたからです 私達が彼 開悟したイエスに 従えば 父のもとへ 戻れるのです それこそ彼が 意味する事です イエスがこの世を 去った時 私達は 地球にいる 別の 開悟したマスターに 従わねばなりません ヒンズー教徒 インド人 米国人 どんな国の人でも 関係なく従います

米国人には最近偉大な開悟したマスター  エマソンがいますね エマソンが言った 極めてエゴのない 状態とは何でしょう 彼はこう言いました 「神に宇宙を 支配させれば  肩の重荷が降りる」― 私達が神に宇宙を 支配させればです そして今 私達に 何が起っていますか― 私達が全宇宙を 支配しています 私達は限られた知性と 非常に弱い 物理的な力で 全ての面倒を 見ています それで 疲労困憊で 脳も疲れて 混乱しているのです 神に宇宙を 支配させずに 宇宙も 神も 支配するからです 神にする事を伝えます 毎日 神に言います 「お願い神様 助けて 必ず 息子を試験に 合格させて下さい」 「娘が よい結婚が できるように 面倒を見てあげて 下さい」 「商売がうまく いってない もっと 速く回るように」 毎日 神様に やることを要求します

そして それからは 何も得ず 得るのは怒り 不満 また 時には自分の 宗教から離れます 神が聞いて くれないと思うのです 或いは 私達は 迷信深い人間で 宗教はよくないと 思うかもしれません それは宗教の献身に あかしが 見えないためです しかしどんな宗教でも 敬虔な人は 何らかの解決策や 神の存在する力を 少ないながらも 見出します ですから聖人について よく耳にします サンフランシスコ サンノゼ サンタクララ みな 過去の偉大な 指導者のスペイン語の 名前に因んでいます そうですね サンフランシスコは 聖フランシス 合っていますか スペイン語では サンフランシスコ そういうことです 同じ有名な 聖フランシスの 名前です では 何が彼を 聖人にしたのでしょう

彼を導く素晴らしい 開悟したマスターが いたかもしれません それでとても偉大な 聖人になったのです もし彼が自分で修行し 本当に献身的だったら もう少し低い聖人に なったかもしれません 彼は慈悲深く とても謙虚で とても・・とにかく 神にとても献身的に なるかもしれません しかし 真の聖人 最高位の聖人は 仏陀 グル ナーナク イエス キリストの ようです 彼らは最も高い 階級の聖人です どう知るのでしょう 彼らの生活の模範から 分りますし いかにして 衆生を救うかで 他者を苦痛と不幸の 生死の束縛から 解放させるかで 分ります 仏陀も同時に どこにでも いることができます イエスも同時に どこにでもいられます 彼には瞬間的に 他者の苦しみを 癒す力がありました

シーク教の グル ナーナクや ヒンズー教の クリシュナ 過去の その他の 聖人も同様です 過去の聖人は 数えきれないほど 大勢いるので とても言えません より高い聖人もいれば 階級の低い聖人も います さて「その成果により 汝は知られる」 ですから私達は聖人の パワーとその行為から 判断ができます 聖人は有名になり より偉大な聖人になる と言う意味ではなく― 必要ありません 大抵は 聖人が 生きている時は あまり有名ではなく 多くの嫉妬深い人々に 迫害されます イエス グル ナーナクや シーク教の第十代グル グル ゴビンドシング ゴビンドシングは 彼がした事で 追われて 転々としました 人々を助けたためです 彼は人々に 真理を説き 体験を得た彼らに 崇拝されました 彼の言った事は正しく 彼の言った事は 本当のことであり 騙していなかったと 知ったのです

人々は 開悟の証拠を グル ゴビンドシング グル ナーナクや クリシュナなど その時代の人から 得られ それで 彼を信じたのです イエスを信じたのは 証拠を与えたからです 仏陀を信じたのは 即刻開悟の証拠を 与えて くれたからです それで彼らを 崇拝したのです 崇拝する 弟子が多ければ 嫉妬する人も 多くなり 彼らを 苦労させました そういうわけで マスターが在世の時は 必ずしも その人生が 順調で 気楽で 誰もが彼のもとに来て 崇拝したとは 限らないのです そんな人もいましたが 違う人もいました それどころか 古代 マスターの命を 守るのは非常に大変で 公然とマスターでいる ことも難しいのです

では イエスの 「私」に戻りましょう なぜ皆 彼に従わねば ならないと言ったか というと さもないと 地獄の様な創造のより 低い階級に行くから 開悟したマスターが いなければ 一人で 存在の海を泳いで 解脱の 自由の地の 彼岸に渡るのが 難しいからです これが その意味です 自分で泳ぐことを 学べそうですが 危険です 泳げる専門家に 学ぶ方が良いのです 泳ぐ方法を知り 何度もその川を 泳いで渡れる人です 彼は どこに渦があり どこが危険で どこが深い どこがこれこれで どこの下に 岩があるか分るので  たやすく助けられます 船長のように 何回も大きな海域を 航海したので 分るのです

そして 殆どの クリスチャンは イエスは唯一だったと 信じています 殆どの仏教徒も 同様です 釈迦牟尼仏は 世界で 唯一無二の仏陀で 数千年も 生れておらず 生れて来ないと 信じています 今私達は釈迦が言った ことを忘れています 昨日話しましたが 彼はこう言いました 私は仏陀になった あなた方も仏陀になる 誰でも一世で 仏陀になれます イエスも言いました 全ての衆生は神の子で 私に出来る事は 貴方達にもできる 私よりすばらしく もっと良くできると これがイエスの言葉 こうではありません 私はより良くできる 貴方達は絶対できない 私達はそれを忘れ 自分を見下すのです 私達には内在の王国が ある事を忘れています

では 聖書に あるように 王国が 私達の中にあるなら なぜ内面を見て その場所を探したり 内面で見つけた人に 聞かないのでしょうか それほど容易なのです そして 仏陀が 仏性は内面に あると言い 皆にこの仏性が あるなら なぜ私達は お寺に行き 木の仏像に お辞儀する代わりに 内なる私達の仏陀を 探さないのでしょうか 私達の仏性の場所を 知ってこそ もっと仏陀を 崇拝できるのです もっと熱烈に 釈迦牟尼を 崇拝できます つまり より忠実に より真摯に より積極的にです そして 私達の中の イエスを キリストを 内在の天国を 見てこそ 本当に いかにして イエスを愛するか いかにして彼に 感謝するか分り そして 本当に神を 崇拝できるのです

今のところ まだ 神を知らなければ・・ もし知っているなら お許し下さい つまり 大多数の人が まだ神のことを 知らない時 神は「何でもない」 抽象的な概念だけです 神とは何か分りません 皆 神は愛だと 言いますが 何を愛するのでしょう 愛とは何でしょう 「神が私を愛するなら なぜ毎日 こんなに 惨めなのですか なぜ お金がない時 くれなかった のでしょう 病気の時治してくれ なかったのでしょう 困っている時 神を呼んでも 助けに 来ないのでしょうか」 神と繋がらなければ 私達は神の愛を 知ることができません 私が言いたいのは 私には 皆さんが この愛の力 内面の王国 内なる仏性と 繋がる方法があると いうことです

そして 毎日 その愛が分り それは神の愛だと 分るのです 神は一人か二人の このような長い あご髭を生やす人 ではなく 神は真の愛 L―O―V―Eです それで神は愛と言う時 神と連絡を取れれば 愛されるのです どんな意味でしょう その時から毎日 24時間 面倒を見て もらうのです 一日の毎分 神がいて 愛はそこにあり 私達を取り巻き 私達から発し 私達を包み それから あらゆる 方向へと放出し 多者を利する事が 分るのです それこそ真の愛です 抱き合って 「愛してる」などと 言いませんが 宇宙の 愛の感覚そのものです 皆さんはこの愛を持ち この愛と共に眠り この愛と共に食します 皆さん知っています ただ 決してそれを 語ろうとしません 確信しているので 言葉は無用です それで今私達は あちこちで叫ぶのです 「愛 愛 愛 神は愛 貴方を愛す 誰もが愛し合う」と

ところが 一分後には戦います 沢山語りますが 何も得ていません 皆がこのように 叫ぶが如く 「お金! お金!」 そして何も得ません 百万長者なら あちこちに行って こうは叫びません 「私は金持ちだ!」― 彼はお金を持っていて 確かに知っているし とても確信しています 彼は笑いながら 歩きまわります 皆が お金について話し 通りで わずかの お金で口論する時 彼は笑います こう言います「小さな お金で なぜそこまで 喧嘩するのか」と 分りますか 彼は沢山あるので 小銭で口論することが 信じられないのです 同様に  開悟した聖人が 歩く時 彼は神や仏陀を 語りません― 決して議論しません― 神を知っています 彼は神と共にいます 神の中にいます 彼は 神と一体とも言えます イエスが言ったように しかし その人は  いつも 毎日 歩き回って誇らしげに こうは言いません 「私は神と一体だ」 人々に感じさせません いいえ いいえ その人は とても謙虚で とても愛すべき人で ごく普通なのです ですから

道教では こう言います 「平常心是道」 「平常心は道である」 「平常心は道である」 今 私達は 平常心が道であると 聞き こう言います 「では 私は 平凡な人間だから 平常心があるわけだ 瞑想も 神に祈る必要もない 何もする必要は ないのだ 悟りを開く必要など ない だって 「普通の心が道」だから 「普通の心が道」だから 皆さんが 真の道を 得たときのみ 本当に平凡なのです つまり とても賢明で 平凡で普通― けれど凡人は普通では ありません なぜか? 私達の心は あらゆる考え あらゆる悩み事に かき乱されているので それは「平常心」 ではありません

平常心とは 疲れたら寝る お腹がすいたら食べる その脳波には 悩み事がありません 自分が 悟っていると思わずに 悟っているのです 仏陀だから 自分が仏陀である事を 心配しないし その地位を 自慢しません 皆と同じように 食べて寝ますが 彼は仏陀です 心の中は 普通です すべての衆生に対して とても穏やかで 調和しています 彼には憎しみ 心配 不安 悩み事がありません それこそが本当の 平常心 開悟した人の 心のあり様です 食べている時でさえ 彼らは その体を 生きとし生けるものを 救うため 全ての国と宇宙に 現すことができます 彼らが 寝ている時も その化身は 全宇宙 地獄 天国を 飛びまわります 全ての衆生を救い 全ての衆生を 教えますが 彼はとても普通です それがいわゆる 「平常心是道」 「平常心は道である」 なのです

私達凡人には この道がありません 持っていますが まだそれを十分 認識していません 十分静かで 内面が とても穏やかな人が 道を認識するのです それを知っているから 悟ったのです 彼らは仏陀 聖人 キリストになり 神と一体になりました それが 「平常心」と 「平凡な衆生」との 違いです では なぜイエスは 「私を通さずして 誰も 父のもとに帰れぬ」 と言ったのでしょう まだ彼にはエゴが あるからでしょうか いいえ 彼は他の人を 啓発する目的で 真実を話しただけです さもなければ 気にしないでしょう 彼は疲れ切った体 健康を犠牲にして  多くの無知な人に 話す代りに ただ 話す代りに ただ 食べて寝るでしょう

主クリシュナが バガヴァッド ギータで言及した時 彼もこう言いました 私を崇拝する時 真の解放を 得るだろう 私に専心し 私を崇拝し 私の指示を聞き 私の戒律に従い 私だけを愛すべきだ すると 真の解放を 得るだろう さあ 何だか大きな エゴのようですが 違います イエスの 場合と同じです 「私」は「私」と言う エゴでなく 「私」は 私達の内面の真我で 私達が言う 「本来の面目」 「自分の本来の姿」です 「昨日以前の 私達の姿」 これは禅宗の 言い方です 「私」とは 内面の人 資格のある マスターから 印心を受けた時に 目覚める真我です 眠れる森の美女の話 覚えていますね 彼女は王子が やってきて命のキスを するまで待ち そして目覚めたのです

昔 人々は 公然と 開悟や修行について 話せなかったので たとえ話を用いました そうですね 物語で隠すようにして それを使って 他の人に話せば 彼らの弟子には 分るのです 普通の人々は 簡単には 理解できないでしょう 彼らもこの開悟した マスターについて 修行すれば 理解 できるようになります この集会には 三か国の国民がいます 神 至高の神や仏陀が 私達と一緒になり 三つの国籍と 異なる国々から 少なくとも 私達の非常に忙しい 現代の生活の中で とても慌しい中で 数時間 一緒に座るための 時間を割いて 下さった事は 本当に光栄で 誇りと 喜びを感じます 私は初めてフォルモサ (台湾)から皆さんに 会いに来ましたが 家にいる様な感じです まったく距離を 感じません 皆さんは感じますか  どうでしょうか はい? いいえ? 感じませんね

私は全く感じません 距離がありません まるで 皆さんの事を 長い 長い 長い 長い間知っている様で それで楽しいのです 言葉では 説明できません では 三大宗教の 経典を見ましょう ― 仏教 ヒンズー教 シーク教 または その他 道教― どれも マスター 在世のマスターを信じ 解脱するには そのマスターの指示に 従うべきことを 述べています だから彼らのもとに 参拝しに行くように とは言っていません 言っていません 真実を言っただけです そして 実際 これらのマスターは 人々の供養や参拝は 受入れません 文字通りの 意味だけ つまり マスターの指示を 敬わなければ ならないという事です

従って イエスは こう言いませんでした 「私個人を崇拝せねば ならない」 私を愛するなら戒律を 守れと言ったのです 「私というマスター」を 崇拝しなさいと いうことです なぜ その真のマスターは 人々の供養や礼拝を 受入れないのでしょう 彼らがとても 謙虚だからです 彼らは 皆それぞれ 内なる真のマスターを 持っている事を 知っています それで これら真のマスター 「昨日以前の 私達の真の姿」 内なる王国 真我は 目覚めさせる 必要があるのです それだけのことです そうすると 自分の マスターを見つけます

それを見つけるまで それができなく・・・ それを自分で できなくても 大丈夫です できなければ 自身の内なる自我に 既に目覚めた人に 聞いて下さい とても簡単です マスターとは 内面の真我を 目覚めさせる手助けが できる人です 分りますね 何回も 私に同じ質問をする 人がいます 「内面に 天国があるなら 私達の心に仏性が あるなら なぜ自分で見出せ なかったのですか なぜマスターを探す 必要があるのですか 私は「自分で見出せる なら 大歓迎です」と それはとても大変で 難しいのです 天国への道は 剃刀の 刃のようなものです

それは 道を知る人の助けが なければ 一人では 歩きにくい道です 「狭き道は 解脱へと続く 広き道は 破壊への道であり 多くの人が踏み入る 道である」 なぜ解脱の道を 歩むことが それ程 難しいのでしょうか それは 逆流だからです 「逆流」と呼びます 人々は喜びや 肉体の楽しみの中を 泳いでいますが 私達は反対方向を 泳いでいるからです 逆流を泳ぐのは 難しいことなので 私達は少し強くて 道を知っている人の 助けが必要です その人は先に 少しばかりパワーを 発達させた人― つまり「私達以前」に― その後 私達は 力強く成長し 同じようになります


仏陀になりたければ 仏陀の道 仏陀の開悟の方法に 従わなければ なりません ですから 仏典 スランガマスートラ― 『楞厳経』 『キンランニェム』― この中で釈迦牟尼仏は 内に向かって 聞く方法を修行し 内なる本性 自我の本性を 聞くべきと言いました 内なる本性は どうすれば聞けるのか いくつかの音が あります ですから 正確には 要点を話しましょう 内なる音の振動が 聞えますが 耳を使わないのです 内なる耳を開くのは 開く方法を知っている 人の仕事です

飛行機を飛ばすのが 飛行法を知る操縦士の 仕事であるのと同じ 彼はそれを学んだので 能力もあるし 飛行許可も 取っています 一人で飛んで 家に帰れるだけでなく 他の沢山の人を 連れて帰れます ですから いわゆる マスターや 開悟した 聖人も同様です― 彼らは故郷に帰れるし 彼らに従うことを望む 他の沢山の人も 連れて帰れます けれどマスターに従い 飛行機に乗るには お金の掛るチケットを 買う必要があります

マスターに従うには お金も チケットも一切 必要ありませんが 幾分かの徳が必要です これが「お金」 これが 天国の財産なのです 天国に行きたければ 徳をチケットとして 使わねばなりません 従って倫理的な生活を あらゆる経典 あらゆる過去 現在 未来のマスターが 強調するのです まともなマスターなら 人々に肉体の喜びで 気ままな人生を 送る事など教えません 肉体を崇拝するなら 魂を崇拝できない からです 神と富を同時に 崇拝する事は できません それは 聖書にある言葉です

さて 聖書には こうも書いてあります 魂の為に肉体を捨てる 命を捨てるものは それを見つける この意味は 私達は生活を ある程度犠牲にし  抑制して 仏や 天国の基準を 満たさなければ ならないという事です アメリカへの 移住を望む人々が アメリカの基準に 見合わなければ ならない様なものです そうでしょう そして 英語を 話せるようになったら グリーンカードを きっと持つでしょう その条件は いくつかの 規律を求めます 自己犠牲を求めます 母国での財産を 売らねばなりません アメリカ式生活の 規律を学ばねば なりません そういう生活に 合わせなければ なりません

例えば 車の運転 少し・・・ 「飛ぶスタイル」 ええ 飛ぶようにね そして タクシー このように ええ 高速で「ヒュー!」 すると 5分で着きます 目にも見えないほど 彼は急いでるのです  稼ぎたいからです ここ米国でタクシーは そうできないでしょう 例えばニューヨークの 人がカリフォルニアに 来れば ここの ルールに従います 私はカリフォルニアに 行くと快適に感じます どこでも聖人に囲まれ 例えば サンタクララ サンノゼ サンフランシスコ 本当に聖なる 雰囲気があります とても歓迎され 寛ぎを感じます どの車の後ろにも 黒い煙がありません それがいいのです 健康にとてもよいと 感じます

仏陀になり 仏土や神々の天国に 入りたければ 生れ変らなければ なりません 「生れ変わる以外 神の王国に入る事は できない」 「生れ変わるとは」 どういう意味でしょう 「毎日死ぬこと」です どうやって生きたまま 毎日死んで 生れ変わるのでしょう 「死ぬことを学んだら 生き始める」のです どうやって死ぬか 分る人いますか 自分を殺しますか エゴを殺しますか ええ その通りですが エゴどう殺しますか エゴを殺すだけでなく 本当に死にます 物理的な方法で 本当に死にます 私達は ほんの少しの間「死に」 数時間「死に」 それから 仕事に戻ります これが死との隣合せ この方法で死ぬと どうなるでしょう

私達は 実際には 死んでいなくて いわゆる銀の紐で 依然 自分の肉体と 繋がっています 私達が本当に 死んだ時のみ 銀の紐が切れます 身体との 繋がりが断ち切れ それで 永遠に 消え去ります しかし開悟した人 自ら あるいは 内なる神の力で 開悟している 救われた人のみが 永遠に行くのです 他の人達は暫らく いなくなるだけです 天国 地獄 動物の洋服店に 行くかもしれません ええ 「動物の服」を 売る店があります それを数十年 着ることができます それから 人間の服に変えます 分りますか

それで それらの 動物衣料品店を うろついたら 暫らく動物の服を 着る事ができます 或いは天国に行き 天国の服を 着ます 地獄に行ったら とても熱い服を着ます 熱い火  バーベキュー服です ですから 時には バーベキュー服を着て それから人間の生活に 戻ります これは 開悟していない人々に 起る出来事です 徳のある人達は 天国に行きますが いわゆる無徳の人達は 地獄に行きます

これは仏教の解釈に よるものです しかし 実は 信じたくなければ 信じなくていいのです 智慧眼を開けば 自分自身で 証明できます それで 私達には 第三の眼 仏眼 特別な眼が あると言われるのです それで ヒンズーの習慣では 毎朝 祈祷をし それから 額に眼を つけるのです それは 自分にその眼を 思い出させる 以前の習慣です 今は本質がなく 習慣だけ残っています 誰でも 第三の眼 智慧眼について 聞いた事はあっても どこにあるか 誰も知りません 

ここです 開ける方法を 知る人もいません 私達は開けられます 私は開け方が分ります 自分で開ける 手助けができます 自分のを開けられたら 人のも開けられます 私達は物理的にどんな 違いもありません 智慧眼は 新生児と八、九十代の お年寄りとは まったく同じです 一旦開けたら 一緒です 開かれていない時 それも皆同じです 使えないだけの ことです 拡大鏡のように それを 持たないと 小さな文字が 読めません 置く場所を忘れたら 眼があっても どうにもなりません 見えませんから

私達の智慧眼は 今 私達自身の無知と 以前の 無徳の行動によって できた いくつかの障害物で 曇っています 今 きれいにするには それを知る人の手が 必要です 神の偉大なる力が 必要です そして この偉大なる力は 私達の中にあります 蛇口を開けさえすれば 流れ出します 水槽のように 水で一杯ですが 蛇口が塞いでいます 水道屋さんが来て きれいにして あるいは新しいものに 換えれば 蛇口は 再び機能します それを開ければ 水が流れ出てきます 水は既にあるからです 水道屋さんは 水を くれません 

水は既に パイプの中にあります 蛇口の調整と修理が 必要なだけです お望みなら 私は 皆さんの為に 無料で 無条件で 「蛇口を修理」します でも一つだけ条件が ありました 自分の 命を浄化するのです 今日から徳ある 食事を取るのです 二度と命 肉を 取らないと誓うのです 二度と殺生せず 嘘をつかず 盗まないこと ちょうど 聖書の十の戒律か 聖書の十の戒律か 在家仏教徒の五つの 戒律のようです 殺生しない 嘘をつかない 盗まない 不倫しない 酒を飲まない 賭博をしない 麻薬 タバコを吸わない

私達はこういった 安い代替品ではなく 神の力で陶酔します 以前 私達がそれを 許されていたか 無知でしたのは 不幸せで 何かを切望していて 空虚とは何か 知らなかったからです

内面が空虚だから 不幸せなのです 私達はこの お金と 文明的な快適さから 何だか 満たされない思いで 満足するために タバコ 麻薬 ギャンブルを求め いわゆる 性的なことを 求めるのです それが満足させて くれると思うのです ところが それらを 使えば使うほど 疲れきって 空虚で 無意味に感じるのです それで真に幸せを 感じる人などいません 沢山取れば取るほど 欲しくなり 肉体と精神の 弊害を さらに感じるのです 真の陶酔は この全てに代わり 満足させ 二度と欲しがる こともありません 二度と欲しがりません

私の多くの弟子は その人生の50年間も 喫煙 飲酒していても 来て 印心すれば 二度と触れずに 自動的にやめます その理由を神が 私が 知っています 彼らの 内面が幸せなためです 彼らは楽しいのです 彼らは見出したのです 喜びを見つけ いくつもの人生で ずっと切望してきた 真の満足を 見つけたのです そして 今 時が来て 彼らは それを得て 快く 幸せになり 神と一体になり 故郷へ帰るのです

他の人は まだ時機が 来ていないのです 今生で依然 彼らの幾つかの 使命や役目 彼らの発展を 成し遂げるために 駆け回らなければ なりません そして 時が来たら 彼らも 開悟した マスターを探し 真の道を求め それから故郷に 帰るでしょう 彼らも あらゆる 世俗の執着と欲望を 断ちます そして死ぬとは 真の死です 瞑想する時は 天国を見ます― つまり死ぬのです 死んだ者だけが 天国に行けるのです 分りますか?  死んだ者が 天国に行きます ですから 瞑想する時 しばらく天国を 訪れるか 仏土に 行くかもしれません 天国はすこし・・・

すこしゆったりします 実は 天国は神の王国より 低いのです 人は軽く使います― 天国と 神の王国は 同じ―それは イエスが回っている時 皆が天国という言葉に 慣れていたからです 彼が他の言葉 例えば 涅槃(最高の楽園)を 使ったら 誰も分らないでしょう 仏教では 「涅槃」を使います 私は仏教徒には 涅槃と言いますが クリスチャンには  神の王国と言います すると人々は二つが 同じ意味と分ります

さて 私達が これらの天国 または 最高の神の王国を 訪れる時 それは 暫らく死ぬことです 肉体を離れ 至福の境界に行きます それがつまり毎日 死ぬことの意味です いつでも好きな時 死ねます 意のままに 帰って来られます これを制御できます 心臓の鼓動 呼吸まで 制御できます―

すべて自分でやります ですから意のままに  天国 仏土にも 行かれるのです その方法が分れば 毎日練習すればです 飛行機を飛ばす方法を 学ぶのに似ています そしてある日そうして 米国に飛んで行きます できるからです 私達はできたのです 練習しました そして なれました OK? では 質問の時間です ご清聴 ありがとうございます

専念することは 真の尊敬です 土曜日 いくつかの 宗派は肉を食べたため 部分的な悟りを得たと 仰いました これは私達西洋人の 方法にならないですか 「土曜日 いくつかの宗派は 部分的な悟りを得たと 言及した」とは 少しだけ悟ったという 意味です ええ 「肉を食べたから これは私達西洋人の 方法にならないか また少しずつ肉なしに するのはだめですか」

お気持ちは分ります 交渉したいのですね ではそこに行く事です いいですね 部分的な 悟りを得て下さい 見つけるならですね 部分的な 開悟でも 部分的に 悟ったマスターを 見つけねばなりません とても稀ですが 肉を食べワインを飲み 世俗の喜びで 滅茶苦茶になる人は 簡単には 断てませんから それらを断てなければ 神の王国には 行けません 神は専心を 求めます

私達が 神より 肉や 女性や 他の事を崇拝すれば 神に一人にされます 「OK 楽しみなさい」 孤独を求められます けれど 重要なのは 皆がお坊さんになる 必要はないということ 少なくとも僧侶に ならなくていいのです 皆さんは依然として 妻や夫を持ち 少し貞節で抑制した 性生活を送り 不倫しないように するのは簡単でしょう そして肉食ですが 肉を断てなければ 肉もあなたから 離れられません 「腹のための肉 肉のための腹」 神は両方を 全滅させます 聖書にあるのを 覚えていますか

私は仏教の教理を 説いているのではなく 聖書にあることです 同じ事を言っています 仏陀は仏教の修行者に あらゆる肉を 禁止しました 部分的な悟りが 欲しければ 私も教えるでしょう 部分的に悟った人を 見つけてもいいです 難しいです ええ ですが この方法を 教えれば 私は少し 無責任に感じます なぜでしょう 家で肉を食べて 修行すれば あなたを 道中においてきた ような気がします

そして マスターが なければ 時々 苦境に陥ります ね あなたが肉を 手放せないために 私達がより高い 意識レベルに行く際 肉が多くの障害を 誘発し 私は完全に あなたをその中から 助ける事ができません ある種の闘いです 分りますか 高いところに行きたい としたら良い事ですが 大変です 肉を食べる利点とは 何か 教えて下さい 血なまぐさいと 思いませんか オーケー 考えてみて なぜ菜食主義者に なるべきか 私の本を 読んでから もう一度 考えて下さい 来年 または来世 私が帰ってきたら それを議論する でしょう 長い間の問題ですので 本当に今ここでは 議論できません

タクミンと言います 63歳です 菜食主義者になって ほぼ7年経ちました 本日お会いできて 心からマスターからの 印心を受けたいと 思います 敬意をこめて 私の 願いをお認め下さい よろしくお願いします

オーケー この女性は 63歳で 七年間 菜食を してきました 私に印心を願い 彼女を受入れたら 感謝すると 言っています そういうことです 彼女は印心を 願っています もちろん もちろん 大丈夫 オーケー ええ 問題ありません 明日 明日にね もう一人? 七十二歳!

「ブイティバンという 72歳の者です 私は長い間 菜食を してきました 今 印心を望み 今日から菜食主義者に なることを誓います」

本当ですか

彼女は年ですが 印心も 受けたがっています 今日から菜食を すると約束しています 私は言いました 「本当に? すぐに 切り替えられますか お年なのに?」と 彼女は 大丈夫と言っています 「イエスは十二使徒に 肉を食べてもいいと  神が創造した全ては 良いもので 私達の口を通して 身体に何を入れても 問題ない 魂に入れるものが 問題と言いました なぜ開悟の 必要条件が 菜食に なる事なのでしょうか ナンセンスです 野菜を食べるのは 儀式の様なもの?

NO イエスは子供の頃から 菜食主義者でした エッセネ派の 家庭に生れました ヒンズーカーストに 生れるのと同じです 幼少時代から 菜食しますね 本当のシーク教の 家庭に生れたら やはり幼少時代から 菜食するようなもの 本当の仏教家庭に 生れたら 幼少時代から菜食する ようなものです イエスは教えの中で こう言っています 肉を食べてはならない 聖書でも神は 言いました・・

何を? 覚えていますか 「誰がお前達に 牛やヤギを殺して 私に捧げるように 言ったのか この罪なき者の 血を洗えば 私は お前達の祈りを聞く さもないと 私は顔をそむける お前達の手は 血に まみれているから」 神はヤギを殺し 神に捧げる事を 許可していません どうして食べることを 許可するでしょうか 神は言いました 「それは無垢の命 懺悔すれば お前達を許そう」 神は聖書で 言いませんでしたか そこを読まなかった? 読んでない? 家に帰ったら 聖書を読んで下さい

今 皆が 読みたいところだけ 読んで それから 人々は全部曲げます 仏教徒も そうです 仏典では 何度も何度も 沢山の箇所に どんな感覚ある衆生の 肉も食べてはならない と記述しています ところが殆どの 仏教徒も言います 「私は仏教徒ですが 肉を食べます」と

私達はこれに対して 何が言えますか  なにもありません ですから 自分が考える 慈悲の方法に従い 神を喜ばせると 思うことに従うのです 神は作り殺してません 皆 自然に死にます 私達が不意に命を 強要したら 神の 権利を取るのです 分りますか 神のみに殺す権利が あるのです 何も作れないのに なぜ殺すのでしょう イエスは言ってません 構うなと言いました それは自分の衣食の ことをあまり気に するなという意味です 

神が面倒を見るのです それが彼の言う意味 彼が言ったのは 彼の弟子は 物質的な快適をあまり 心配すべきではなく 「神に委ね 神に 面倒を見てもらう」 べきということです 従ってこうも言います 「まず神の王国を 探し求めれば 他の全てのものが もたらされるだろう」 そういうことです イエスは肉を食べる 様に教えませんでした 彼は子どもの時から 菜食でした その上 彼は インドに十何年も  十九年ほど 行っていました

研究によると 彼はインドに行った時 さまざまな ヒンズー教ヨガ行者や 仏教僧に学びました 彼らは生来の 菜食主義者でした ご存知のはずです もし イエスが肉を 食べたとしても これらの人々に 十数年も従えば 彼は二度と肉食に 戻れなかったでしょう それを間違えたと したら残念です 殆ど読まないこと それが問題です 肉の文章だけ選び 菜食の文章は 忘れてしまったのです

二番目の質問 「イエスは慰安者 聖霊を送ったと 言いましたが 大勢 慰安者として送ったと  言っていません」 一人と言っていません 「ではなぜ仏陀や他の マスターは イエスが 送った救世主や慰安者 と言うのですか」 いえ 彼は仏陀の後に 生れたので「送った」 と言うなら 仏陀が イエスを送ったのです イエスは仏陀より 「若かった」のです 残念ながら あなたの 読み間違いでしょう 仏陀はイエスに 送られていません イエスが後の生れです

しかし ともかく 彼らは皆同じです この点について 口論しないで下さい 神は多くの慰安者を 送ります イエスだけ ではありません イエスの前には エリヤがいました 沢山の聖人がいました それで ある人が イエスに聞きました あなたは過去の マスター 例えばエリヤか誰かの 生れ変りですか イエスは違うとは 言いませんでした 沈黙で認めたのです 分りますか ですからイエス以前に マスターはいたし イエスの後にも マスターがいるのです 仏陀の前に 仏陀(覚者)がいたし 仏陀の後にも 仏陀はいます 神は覚者を送ります イエスを送ったのです イエスが仏陀(覚者)を 送ったのではないです

とにかくイエスの方が すこし若いのです 三つ目 「赤ん坊はみな 転生した魂ですか」 貴方はどう思いますか そう思いますか? 転生した 魂でなければ 何でしょう 転生した石ですか 四つ目「どんなふうに 生れ変わるのですが 転生したい魂は 女性が妊娠するのを 女性が妊娠するのを 待つのですか」 こんな感じです 魂はその功徳が 人間の基準を満たす時 転生できます 人間として 生れるには 以前の人生で とても倫理的な生活を 送るか  以前の罪悪の償いが 済んでいなければ なりません

さて 人間として 生れるには 人間の品性を 持たねばなりません 例えば前世で殺生せず 不貞をせず 盗みをせず 嘘をつかず 賭博 飲酒 薬物をしていない ならば  今生は まっすぐ 帰ってきます 再び 人間として生れます でも 前世で この五つの戒律に 照らして  何か過ちを犯したら 人間として 生れません 子どもは生れる前 魂は中間地点で 休んでいます いいですか それから 機が熟し ある女性と男性が この赤ちゃんの魂と 何らかの縁があれば 来られるのです それからです 

全ての条件が合って いなければなりません 誰の息子にでも 赤ちゃんにでもなれる わけではありません ですから誰もが  家族の全員が いくつもの生涯の 因果と事情で 繋がっているのです これは 仏教によることです 私を信じる必要は ありませんよ はい もう一つ 「魂は 全ての妊婦を見て 誰から生まれたいかを 決めるのでしょうか」 既に話しましたね 「或いは  人が妊娠するのは 生れ変りたい魂が いるからですか」 既に話しました すべての原因と状況が 熟していなければ なりません 

そうです 何により決まるのか ―カルマです 或いはいわゆる 前世の原因と 状況に よって決まります 人生 或いはカルマ (報い)のこの本は ある悟りのレベル 第二界に行った時 読めるのです そこに図書館があって 誰の人生の本でも 手に入れられて 彼がどこから来るか 誰と縁があり 未来の人生はどうか 知ることができます しかし 開悟の方法 私が皆さんに教える 観音法門を 修行する人は 他者を助ける 何らかの目的で 自らの意思で 望まない限り 二度と生れ変りません

この方が知りたいのは マスターの年齢 そして 毎日二時間半 瞑想する必要が あるかということと その理由です 必要です ええ 私の年は 当らないでしょう 何歳か言って下さい 質問した方  当ててみて下さい  35歳 そんなに若いですか? 18? 38? ええ そんなものです そんなところです どうでもいい事です それは単に 私の 肉体の年齢です 世界と同じ位老いてて 生まれてない子と 同じくらい 若いです

さて 2時間半 瞑想するべき理由は 沢山の万能薬で 私達の魂 汚染部位を浄化する 必要があるからです もし一日中働いて 汚れたら 帰宅して 洗うのに最低2ガロン (約7・5L)必要です 私達は毎日 世間で付き合っては 他の人に染まり 周りのあらゆる人に 影響され 自らの避けがたい 罪に影響されます 例えば 呼吸すると 多くの見えない 衆生を殺します 野菜を食べると 野菜の命を殺します 分りますか あるいは 虫や蟻を踏みつけ

手を洗うでしょう 消毒して多くの 見えない命を殺します 分りますか つまりこの2時間半は 魂を洗う 2ガロンの水なのです 分りますか  1・5ガロンで 洗っても いいですが 完全に 洗い落とせません すると明日は さらに汚れて 1ガロンの水のみで 洗い落します 毎日完全に 綺麗ではないので いつか臭うでしょう 神にのみ殺す権利が あると話されますが これについて詳しく ご説明頂けますか よろしくお願いします はい それは神が 全てを作ったからです 私達ではなく 神が 魂の服を変えるべき 時を知っています 分りますか

これは あなたが ある会社で働いていて ボスが どの機械が 性能がよく 完璧で 良い価格で売れるか どれが 欠陥があり もう一回解体して 他の形に仕上げるかを 決める人であることに 似ています 分りますか あなたにはできません 自分でやったら・・・ 或いは間違えてやるか この機械は 完璧でないと思い 「よし 持って帰ろう」 すると あなたは 業務上過失を犯し ボスはあなたを 蹴飛ばして首にして 弁済させます ね そういうことです

自分の不満に 気づき マスターや ガイドを知りたいと 切望する時 私を助け 私の空虚を満たせる 人に会いに行くには どうすればいいですか また 私は これが起る前に 絶望しなければ ならないのでしょうか もう起きていますよ あなたが準備できたら マスターが来ます 絶望する前ではなく いつもそうです 定かではないと 思うなら 家に帰って 神に 祈りましょう「どうか 確信して従ってもよい 人を教えて下さい 誰に従うべきですか」

でも 私は既に いかにマスターを 認識するか話しました 自分の生計の為に あなたから 何も取らないマスター その人は 何もかもただで与え 奉仕のみ 要求もありません あなたは とにかく 最初から 何も 失いません 何も恐れません では マスターを 識別する二番目の しるしは その人が 聖書や経典に 記載された 開悟の 体験を与えられること

そうですね 開悟した人に 炎のような天国の光が 見え 雷のような 神の声が聞えるなら 少なくとも あなたの マスターは こういう 基本的な体験を与える 能力があるはずです それでその人が 本物だと分ります そうでなければ どうやって分りますか 誰でも ここに こう書けます 「私はマスターです」 誰でもあなたにお金を 一切見せずに 自分は 百万長者だと言えます 本物のマスターは 自分が 開悟するだけでなく 一、二分であなたにも 悟りの体験を 与えるはずです それこそ力のある マスターのしるしです いいですね


私は菜食主義者ですが 配偶者は違います 私達二人にとって良い そして賢明な 料理法はどうすれば よいでしょうか それほど伝統的な 家庭ではないので 時々 別々に作り 自分の料理を食べます 既に別々なのですか (彼らは時々そうです) たまにだけですか その他の時 あなたは 肉か何か食べますか ええ そうなりますね 別々に料理するのです あなたは彼に肉を 自分に菜食を 作ればいいです それぞれにです 自ら受入れない 或いはまだ準備できて いなければ 誰にも菜食を強いる 必要はありません でも自分は 菜食しているのですね そして平和に 暮すのです でしょう パートナーに菜食を 取るように話せれば 二人にとって より良いのですが あなたが模範を示せば 彼か彼女は 結局そうなるでしょう あなたが進歩して よい波動があり 瞑想し  愛を放てば 相手に 影響するでしょう

マスターについて 修行してから 前のマスターを訪れる 時間がなくなりました 私は恩知らずですか そんなことありません あなたは毎日瞑想し 内なる仏陀を 崇拝しています あなたは 開悟した人になり あなた自身 あなたの親類  友人 他の感覚のある 衆生を救えます 先生に 恩返しする方法です 訪れる必要は ありません 勿論 時間があったら 行ってもいいですが 霊修行をせずに 悪い事をしていたら 彼を訪れて 何になるでしょう 彼の親切に どう恩返しできますか 私達が親孝行な 良い子供なら 両親を訪れる だけでなく 良い人になり 仕事でよく働き 両親にお金を あげるべきです そうやって恩返し します 分りますか もし 毎日両親に くっついて 自分で稼がずに すねをかじっていたら 役に立ちません 分りますか

こういう事です 彼の質問は もし私に習ったら 以前のマスターに 会いに行く時間が なくなる―つまり 先生ですね ええ この方法を 教えなかった先生にね 例えば 道徳的な生活など 司祭のように 彼らは道徳的な ことしか教えません そして もし彼が 以前の先生に会いに 行く時間がなかったら 彼は 裏切り者になり 一種の・・恩知らず その先生が与えた 恩恵を忘れることに なると言いました 私はこう言いました いいえ あなたが 霊的に 道徳的に 進歩して 悟りを開いた時 先生の親切に 報いるのです・・・

悟りを開けば開くほど より多くの愛と命を 放つ事ができて 多くの他の人々と 自らを救い それで先生の親切に 報いるのです ずっと彼につきまとい 無知でいる 必要はありません 先生にまとわりついて 無知であるのは 親切に報いる 方法ではありません 違いますか? なぜ基督教シスターにならなかったのですか かまいませんよ 私はシスターにでも 何にでもなります それはただある種の 生き方です ね 異なる道 つまり 異なる服です 私が生まれたのは より仏教的な 伝統の中でした よろしいですね? また 仏教の修道院や どんなところででも 菜食を得られますが キリスト教の 修道院ではできません

それに縁も あります 分りますか 何になるかは 至高神の 命令によります 妻になるのは 妻の役をしなくては ならないからです 大統領になるのは 大統領の目的を 成し遂げなくては ならないからです 仏教の尼僧になるか カトリック修道士に なるかは宿命です 悟りを開いていても 自分の宿命に 従うのです 例えば 仏陀です 悟りを開いた後 戻ってきて 再び 在家者になれました 服を変えましたが 悟りは変わりません 分りますか 彼は変えませんでした そのまま 続けました では普通の服を 着ている場合 悟りを得たら 例えば 観音法門の 印心を受けて 悟りを開いたら ジーンズを ミニスカートに変える 必要がありますか 違う服に 変えますか いいえ 悟りを開いていたら どんな服でも 悟りを開いています シーク教の服 ヒンズー教の服を 着てもいいですし 仏教徒の服や クリスチャンの服を 着ても 何も 変わりません 何も変える 必要はありません 分りますか ね だから私も何か変える 必要はないですね 私はこれでいいのです これで大丈夫でしょう 皆さんが喜べば 変える必要はないです

なぜ酒を飲んでは いけないのですか 医学的な研究により 良い効能があると 証明されましたが

いいえ 飲酒は脳に 影響します 頭脳を曇らせ 混乱させます ある程度 神経を 麻痺させます 誰でも知っています ですから 表面的な 良い影響には 私は 関心がありません 脳 思考系統に 損害を与えるのです 私達が開悟するには この思考系統に 頼らねばなりません 分りますか 麻痺すればするほど 私達は混乱し きちんと 考えられなくなります それがお酒を飲む べきでない理由です

因果とは 何でしょうか 因果とは 蒔いたら・・・ 聖書にはこうあります 蒔いた種は 刈らねばならぬ レモンの種を蒔いたら レモンがなります 悪い行いをしたら 悪い結果を得ます 善い行いをしたら 善いカルマ(報い)を 得るのです 仏陀の道に従えば 仏陀になるでしょう 世俗の道に 従えば 世俗の意識ある衆生に なるでしょう ね 三つ目の質問は 因縁とは何ですか 因縁とは こういうことです 時には前世で この男性がこの女性に 何か物質的な 快適さを与えます その女性がその生涯で 物質的な方法で 親切に対して 何も 恩返ししなかったら また戻って来て 彼の妻や娘に なるかもしれません 仕事をして お金を稼ぐのです 借りを返すためです

それがいわゆる 「因縁」です 「因縁」です 戻りたくなければ 借金を全部 確実に返すようにね ですから私に学ぶとは 倫理的な生活を 守る事を意味します 盗まない すると 戻らなくていいのです 何でもきちんと 誠実にしましょう 印心にはとても 興味がありますが 私には 不貞や婚前交渉の 問題があります この問題について お話し頂けますか 婚前交渉は不貞では ないです あなたは 結婚が前提で 相手を 変えてないからです 最近は そういう事は 結婚と同等ですね 一緒に生活し まずお互いを 知ることなので それは大丈夫です 他の人を探さないで すぐに変えたり しないでね

ところが たとえば 結婚していなくて その後 互いに 耐えられなくなり あらゆる努力を してみても 元に戻らず 平和な解決法を 話し合っても 解決できなければ 二人は別れることに するか あるいは将来 偶然 別の人と出会う かもしれません その時 自分に正直に なることだと思います それだけです 分りますか 現代ではそう厳しくは できません 私が言う不貞とは 既に妻や夫がいて しかもその人が とても良くしてくれて 仲がいいにも拘らず 情欲のために 周囲を物色して 伴侶を傷付ける事です 分りますか  でも この方法を 暫らく修行すると 周りを物色したいとは 思わなくなります そうです 自ずと 純粋になります 神のパワーがあなたを 浄化するからです

「私が知りたいのは 幻覚の中身は どこからくるのか ということです 夢と同じ源から くるのでしょうか 内から 又は外から?」 はい 一番目の質問 面白いですね 幻覚はどこからくるか 分りますか 私達自身の 誤った考えから 誤った食事からです それで仏陀は こう言ったのです 肉を食べ 酒を飲み 性的な喜びや 世俗の喜びに溺れたら 魔王の身分しか 得られず 仏陀の身分は 決して得られない 「魔王」とは 偽の状況の 幻覚の地位を 意味します 本物ではなく 最高ではありません 幻覚は 私達の 言葉 身体と考えが きれいでない時 瞑想を試みたり 適格なマスターなしに 一人で瞑想する時 出やすいのです

それで 倫理的な生活 きれいな 身体 言葉と考えは 必要不可欠なのです 究極なものに 到達したいならばです さもないと 天国や幻覚の間に 至るかもしれません 幻覚はどんな 瞑想をしなくても 起こることがあります 酸欠になると 気が遠くなる事があり なんだか 天国を見るようです それは酸素が不足 しているのです または 極度の痛みや 苦しみに耐えていて 気が遠くなった時も やはり見ます あるいは 疲れ果てた時や 薬物を摂取した時に 幻覚が起きます ええ 非常に多く 起きます これは夢に似ています でも いつも夢という わけではありません 夢はすこし 自然です―寝ると 夢を見ます しかし 幻覚は 時には外的苦痛から 来ることがあります ええ 既に話した通り 極端な痛みの時 酸欠の時 へとへとになった時 薬物を摂取する時 分りますか

ですから少し 違うということです 「私の健康状態は チキンなど動物蛋白の 食事が必要です どうすれば いいですか」 この時代に 人が まだ動物蛋白が 世の中で唯一の 蛋白質だと 誤解しているとは 知りませんでした あらゆる医者や  科学者が 植物蛋白は 完全に十分であり 肉食より 健康に役立つと 立証しています フォルモサ(台湾)に カトリック信者が 建てた 二つの病院が あります この中では全ての医師 看護師と患者が 完全菜食を 要求されます そこに入院したいなら 菜食主義者に ならねばなりません そして 彼らはとても 早く回復します 栄養不良で死ぬ人など いません ええ それで私は 菜食は 間違いなく 一番だと思うのです ご存知のように アメリカ人は肉を 沢山食べます それで 研究によると 皆さんの国の 癌発症率は 世界一高いのです それは 祝うことでしょうか また ロシアと 中国は肉を食べません 癌発症率は 一番低いです 比較すると 面白いですね

私の仏教の名前は ディエウ タンです 80歳です この7年間 菜食をしています ええ 分りました ええ オーケー はい はい 学べます

彼女は 印心を願っています

伺いたいのですが 本当に身体を失っても 魂は失わないのですか 智慧を得て 超然となれるまで 一所懸命 霊修行するとしたら それは 仏陀の道を行く事に なりますか はい でも修行が   できる前に 修行への 道を知るべきです 無分別に 修行するのではなく 私が教えれば修行の 仕方が分るでしょう いいですね それが正しいのです 考えていることは 正しいですが まだ 方法が欠けています 明日 私が教えます ビーガンにならねば 解脱するのですね 解脱します ええ この法門を 修行してこそ 解脱できるのです 有難うございます 「現在 私は 20歳から 年に 6か月ビーガン食を とり続けています」 20歳から 今年まで 年に6カ月 ビーガンの食事 そうですね そして 今学びたい もちろん もちろん 大丈夫です ええ あなたはまだ若いです 59歳なら 聞く必要がありません 65歳なら 申請は できません ええ

開悟する前に 死ぬ子どもは どうなりますか 開悟する前に 死ぬ子どもですか 大したことないです 皆 開悟する前に 死にます 他の何かとして 戻ってきます よろしいですか 子どもが 開悟する前に死ぬのは 私達が年を取って 無知のまま死ぬほど 悲惨ではありません 私達は長い時間が あるのに マスターや 方法を探しません 子どもには無理ですが 私達はできます 変わる時間があります 30、40、50でも まだ時間があります ですからやって下さい 処方薬は どうしますか そして 結婚相手との 性生活はどうしますか できるだけ 早く 進歩するには できるだけ 最小限にすることです 自然にやって下さい さもないと 脳が反抗します

ゆっくり 自然にです 修行すればするほど 自然に なるのです それから それは必要ないと 完全に感じます あっても構わないし なくても 大丈夫です 僧侶や尼僧のように 全く難しくないと 感じます はい 性行為は本当に 必要なわけではなく ただの習慣です  観察してみて 時々 何カ月も 女性を見なくても あまり感じません ある期間 奥さんから 離れたら それに 仕事に励んでいると どんな性的快楽も 必要とは感じない でしょう そうではないですか しばらく試せば 私の言う意味が 分るでしょう

動物は 時間が来るまで 何も望みません 彼らの時期があります 違いますか ところで人間は 心が 神のものである以外は 動物界にいます 人も動物です 実は 私達はその中で 勝手すぎます 自然界の法則の規律を 守って シーズン だけにすべきです つまり 欲求ではなく― 生殖の為だけです そうですね それで聖書では 溺れるなと言ってます 度を超すと 習慣になり なくなったら つまらなくなります 過去の殆どの 霊性の師は ほんの わずかな弟子しか 啓発できませんでした なぜあなたは大勢を 悟らせるのですか

誰が沢山ですか 彼ら全員が 私についてきて悟ると 思いますか いいえ ついて来る人もいれば 来ない人もいます 古代の大多数の マスターは 少数の 人しか来なかったので もちろん 少数にしか 提供しませんでした 彼らの殆どは 隠れていて 公には 敢えて出ませんでした 彼らが公に 出てくると・・・ イエス 分りますね 彼をたった三年半しか 生かしませんでした 第五代のグルの場合 人々は彼を  街から街へと 追いかけ  生きたまま皮をはぎ 炎天下で彼を焼き かまどに座らせ― シーク教の 五代目のグルです 彼らは炎天下で 火をつけた 熱い鍋の上に 彼を座らせました

全能の力を持つ彼は 抵抗しませんでした 臆病者だから ではなく 弟子たちのために 刑罰に耐えたのです 彼自身の身体で 悪いカルマ(報い) 弟子の醜く 重いカルマ(報い)を 受け取るのです それで刑罰に耐えねば ならなかったのです イエスの様に 意のままに消える事も 天国に行くことも 魔法の技も できるのに 抵抗しませんでした 釘で打付けさせました 逃げられなかった からではありません 彼にはできました 自由に消えられました 彼には神通力が 沢山ありました 聖典の記録によると 彼は何回も 消えています ヨギのトリックを 沢山学んでいました 彼は消え 現われ 病気を 治す事ができて 盲人を治し 水上を渡れますが そうしません 

なぜか その時 弟子の 罪を洗わなければ ならなかったからです マスターは皆 開悟のために来た どんな人の罪も 負わねばなりません 人類の おびただしい生涯で 集めた 罪だからです その大きさは 想像もできません では 仏教のマスターは これについて 何と 言っているでしょう 仏陀はこう言いました 「一人の人間の罪が 見えたとしたら 全宇宙を満たす」 一人の人の罪が 全宇宙を いっぱいにするのです 聖書でも 私達が 生れる時 既に 罪を犯したと言います 罪を私達の血で 引き継ぐのです 自分の限られた 智慧と強さで どう洗い落とせますか 神の子 救世主や それを 洗う方法の分る マスターが必要です

高いパワーは 一つしかないのですか 体験 強さと 望みを共有する 幾分悟った 人達との親交を 開悟したマスターの 団体として 生かせませんか? 高いパワーは 一つしかないのか ええ 最高のは一つ 高く行くほど パワーが高く より強いのです 低いものは私達の 世界に降ります この世界に近いほど パワーは少ないのです 従って開悟には レベルがあります 高く上がるほど より悟り より力を持ち そして 神と 一体になります すると  絶対的な力を持ちます

その時 あなたは 涅槃を得た 仏果を得た 神と一体になった 神の認識を得たと 言うでしょう 次は「体験 強さと 望みを共有する 幾分悟った 人達との親交を 開悟したマスターの 団体として 生かせませんか? 体験を分かち合う 幾分悟った 人達との親交を 生かせないか?」 どういうこと?― 悟ったマスター全員が 集まるべきという事? そういう意味ですか そうですか? はい それは可能です でも悟ったマスターは そう多くいません いるとしても 忙しいです 世界中に まだ悟っていない人が 大勢いるので 一緒になるのではなく 彼らを助けるために 回らねばなりません

彼らは霊的には 既に共にいます 物理的に一緒にいる 必要はありません でも できます 印心後 私達の仲間 開悟した 修行者と修行でき 体験 喜びと 団体のパワーを 分かち合えます  そして遠い処にいる グル達は グループ 全体を守り 助け  そして加持できます 団体の修行は とても有益です それでイエスは こう言ったのです 「二人が私の名で 座れば 私は共にいる」 そういう意味です はい 集団修行は 沢山の神の加持が あります OK いいでしょう

「タオ」とは どういう意味ですか タオとは「道」です 中国語の「タオ」は 「道」や 「解脱への道」 または 宇宙の 最高の智慧 創造の力です それがタオです 「平常心がタオ(道)と おっしゃった時 何を意味しますか その単語の意味が 分りませんでした」 タオとはそのことです  「平常心」とは 私達の心が 平和で 穏やかで あらゆる状況と 生き物と調和している ことを意味します それを 「平常心」と言います 実は 「平常心」は 「普通の心」という 意味ではありません 英語には この語彙がないから そう訳したのです ですから普通の心 「平常心」は 本当に 「普通の心」の意味 ですが これは通常の 意味ではありません 「平和な心」を 意味します 分りますか ― 既に 開悟した心 とても調和の取れた心 それが平常心です

私は維森と言います 今年 32歳です 私は既に 菩薩への道を得ました 三年間 菜食しています 今 マスターに会えて 本当に幸運です どうか印心して頂き 私を成長させて下さい OK そうしましょう 問題ありません エゴの役目は 何でしょう エゴが払拭されずに 助長されることは ありえますか 私達の神に似た本性と 私達の神に似た本性と 七つのチャクラとの 関係は 何でしょうか あなたの道が 自分の道かどうか 確信が持てない場合 印心できますか そして 悪い感覚や カルマ(報い)を 負わずに 自分の道を 歩むために去れますか ええ できます 私は束縛しません― 条件なし― けれど 離れたくない と思うかもしれません

印心後 うっかりして 約束の一部を 守れなかったら どうなりますか 三、四歩進むごとに 二歩後退するなら もし 他の道を 決めるなら 印心しない方が いいと思いますか 食べる前 食べ物に 加持を求めるのは 役に立ちませんか 食べ始める前に 加持を求めては いけないでしょうか こういうことです 私達の道を試してみて 神のパワーは 七つのチャクラと 関係があります しかし チャクラ ここまでの肉体の チャクラなら違います これらのチャクラを 超えて話しています 身体のチャクラを 修練する殆どのヨギは 内面の熱の 運行だけ操ります 身体には二つの動き 二つの流れがあります

一つは音の流れ もう一つは 熱の流れです 熱の流れは 体の運行を 面倒見ます― 消化 汗 血液 循環です もう一つの流れは 私達を神の王国に 連れ帰ってくれます

それで ヨギが 修練する時・・・ あなたが言うのが 性チャクラ 肛門チャクラ 腹部チャクラ 太陽神経叢や 心 喉のチャクラなら それを言っていません それより上の意味です 私の本 『智慧眼の秘密』を 参照して下さい 各チャクラについて そして 私達の修行と これらのチャクラの 違いを述べています それから 印心を受けたいなら 信念を持って下さい 全てを超えた神を 望むと知るべきです はい 神と交渉しない事です 何をするか私ではなく 神が気にします 神をばかにしないこと 「私を差し置いて誰も 崇拝しないこと」です

食べ物への加持を 求めることですが 「食前に 食べ物への 加持を求めるのは 役に立ちませんか 野菜も命があります」 はい 役に立ちます 食べる前に 食べ物を 神 イエスや 仏陀 あなたが 一番信じる明師 グル ナーナクでも 自分のグルに供養して その後食べるべきです そうすると食べ物は もっと加持されます より消化しやすく なります もちろんいいことです 開悟に到達する道は どのくらいありますか どんなものですか 開悟するには 幾つの道があるか 一つしかありません 仏陀は 音流の方法 内なる光と音が 開悟へと私達を 導くと言いました

イエスも同様に 言いました「私は 世の光である 私に従うものは暗闇を 歩むことがない」 ですから光を与える 誰でも キリストの 使命を果たしています その人が光を 与えるなら光へと導き あなたは暗闇を 歩まなくていいことを 意味します 「開悟」は光を 暗示し 誰でも 光を与えてくれるなら あなたは間違いなく 悟ります いいですね 肉を食べるのが 不道徳なら 他の目的で動物を 殺すのも不道徳ですね ベルトや靴など ええ そうです どんな目的でも 「殺すべからず」 「目には目を 歯には歯を」と 古代の人は言いました

直接的でも間接的でも いかなる殺生も やめた方がいいです 私達が動物食品を 一切食べなければ 誰も殺さなくなります 利益がないからです 肉を食べると 間接的に殺生します 開悟は 私にとって ずっと謎です より一層進化して つながる所に 到達するために 人が多くの 多くの 人生を経験しなければ ならない事を 私は理解できません 印心を 受けたいなら 教えます 明日の朝8時 私達のところで 丸一日の大きな 印心会を行い 全て説明します 昼食を持参する必要は ありません こちらで 用意します OK?

また無料です 全て無料です マスターからのものは 全て無料で カルマ (報い)もありません つまり 返すべき 債務はありません 他の人達からも  マスターパワーからも ありません はい それをどうしますか 多分こう言うでしょう 「この人は 今 待ち切れずにいます 彼女は言いました 『私は 次から次へと 転生したくないのです だから 今生で開悟して 解脱したいです』」と みんなそうです ええ あなたが  開悟していないなら 商売だけするなら どこでも同じです しかし 開悟したら どんな石にも 頭を下げられます 気にしません―

それぞれ自分の事を するのです OK? 人ではなく 開悟の象徴のみを 崇拝するのです それに頭を下げます 私の場合は どんな状況でも私に 頭を下げないで下さい 私に頭を下げないで 肉体に過ぎませんから 私はこれではないです これは私の服です 私の所に来たら頭を 下げる必要はないです 恐れないで下さい 全ての弟子は 無知で分らない時以外 私に頭を下げません そうしたら私は逃げて 彼らは空の椅子に頭を 下げることになります 観音菩薩は この世に 存在しますか? どこのパゴダや 寺でも よく唱え 祈るのが見られます それは 開悟に到達する道か 方法なのでしょうか はい「クアン アム」 聖観音のことを 言っているのですね オゥラック語 (ベトナム語)の 「クアン アム」は 「観音菩薩」です

この人 この聖人は 神や仏陀の 慈悲の品性を 表してます 彼女は存在します 時々 彼女は この世に生れ変り  他の無知な人を 助けるため 肉体の服を着るのです 彼女は存在します 中国に何度も来ました そして 私達は 誰が 何度も何度も来た 観音の化身か 分ります チベットででも何回か 肉体を持ちました それから二つ目 「どこのパゴダや 寺でも よく唱え 祈るのが見られます それは 開悟に到達する道か 方法なのでしょうか」

いいえ 違います その一部です 祈りや詠唱は 私達の 誠意を刺激するには 必要です そして 誠実で清浄な雰囲気を 作る助けになります けれど 私達の寡黙な 神と対話するには 静かにすべきです 神は騒がしくないです 私達は毎日 私達の口 言葉 考えで すでに忙しく 教会に行けば また忙しく唱え 語り 神にどうすべきか 話します 神は いつ私達の為の 時間を持てるでしょう 或いは神の為の時間を 私達が持てますか ね 静かに座り 立ち 横たわらないと どこで神を 見つけるのでしょう― 

お寺とパゴダでの 祈りと詠唱を 除いて  人を助ける場合 どうやって 彼らの カルマ(報い)や試練を 邪魔していないか 分りますか 或いは誰かの靴ひもを しめ続けたら 彼らは自分で 学べません 助けるべき時と そうでない時は どうすれば分りますか 助けを求められるまで 待つべきですか いいですか こうです 自分で靴ひもを 締められる人の 靴ひもを締める 必要はありません 彼が病気で 出来ない場合は 助けてもいいでしょう そして邪魔するか しないか これは どうにもならないです

時には そうしたくなくても してしまいます 一番いい方法は 神のパワーと繋がり 神の智慧を持つこと そうすると 神が 何をするか指示します 重荷と責任から自由に なります OK? さもないと 他に方法はありません 神しか知りません 私達の智慧と 繋がったら 智慧が 毎日どんなことも 指示してくれます そして自信を持ち 時にはそれを 正しくしていると 感じます 私には 正しく どうやるかを教える 方法がありますが 印心後 少し時間が かかります OK?

あなたは初期のころに 自分の宿命が 分っていましたか 師はどなたですか 彼はヒマラヤに いたのですか ええ ヒマラヤです 彼は故郷に帰りました 誰かに助けられたら 他の人に恩返し せねばならないですか 他者によくする事で 借りはなくせますか ええ 同じ人に 返せればですね できなければ 全宇宙の衆生への 徳という名で 他の人に返して下さい  助けが必要なら 助けを求めて その後 時がきたら 恩返しして下さい 誰でも時には 助けが必要です

仏陀が教えた通り 私達の本質は 愛と思いやりです 私達は無知により 世々代々 誤って 導かれてきました そしてこの境界の闇は 私達に さらに 忘れるという 抑圧を与えています ですから私は 人々が 自分や動物を愛す事や 真の自分が何であるか ―それは愛です 忘れていることを 責めた事はありません 人間は 肉体を持った 愛なのです しかし 再び思い出す 時がきています

スプリームマスター テレビの 智慧の言葉 五月二十九日 日曜にお届けする スプリーム マスターとの ビデオ会議 スプリームマスターの 「愛の世紀」 モンゴル語版発表会 第一部を ご覧ください

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私たちは 慈悲深く 情け深くあるべきです 同じ性質を 生み出すためです 私達は地球の仲間に 優しく親切で あるべきです 天国の愛と優しい 慈悲を引き付けます 過去の あらゆるマスターが 同じ事を教えています 即ち 私達は優しさと 愛を取り戻すべきと それは私達の本質です 私達は自らと 愛する者達を救えます 殺生をやめて愛情深く 慈悲深く 親切でいて 下さい

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