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心を分かち合う 第一部/3 一九八八年十一月十八日 台湾(中国語)    
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私達はよく 肉体は得がたいと 聞きます この世で生きることは 貴重な機会であるとも 聞いています と言いながら 一方では 私達はこの世界を 離れなければならない とも聞きます これではもちろん 混同するでしょう

人間の体は得がたく 大変貴重であると 言いながら 一方では この世は 苦しみに満ちていて 早く離れなければ ならないと言います どういう意味でしょう

肉体は 得がたい事は 分っていますね しかし いつかは 離れなければならない また誰もが こう言います どの経典も 人間の体は 得がたいと言い 人間の体のみ 最も高いレベルの 地位と完璧な宝物を 得ることができると 言っています また天使は どんな高い天国に いようと 仏陀になれないと 言っています 天使は天国の 最高のレベルに 到達できませんし 完璧なパワーを得る こともできないという 意味です また人間の世界は 苦しみに満ちていて ひどく汚らしく とても耐え難い 世界だから 早く修行して早く 離れなければならない とも聞いています

肉体はなぜそんなに 大事なのでしょうか それは 肉体の中に悟りを 開く事ができる道具を 備えているからです その道具とは何かと いうと 智慧眼という所です 天使は智慧眼を 持っていません その智慧の宝庫が 彼らの体には ないのです 頭脳もありません

なぜ人間の体が 大切なのでしょう それはこの世界は 全てが備わっている からです 私達は 地獄に生きている人と 天国に生きている人は 修行できないと 聞いています 極端だからです

この人間界は 一番完璧です なのになぜ苦しみを 見るのでしょうか または多くの人が この世の苦しみを 見ています それは私達がこの世の 完璧な部分が 見えないからです 宇宙の中で 私達の世界だけが 完璧なのです あらゆるものが 備わっています すべてがあります 天国や 地獄 仏陀の浄土 想像もできない 境界がこの世界で 見つけることが できますが 天国では それができません

例えば天国だと ただ一種の幸せを 得ることができます 毎日毎日が 幸せです これはただ一種類 だけの幸せな生活で その生活を変える ことはできません

地獄だと 苦しみの生活だけで それを変える道は ありません 今日は楽しく 明日は苦しくする こともできません まったく不可能です しかし人間の世界では 変えることができます 私達は智慧を使って そして本来 私達の内面に 備わっている 万能のパワーを使って この世界を 地獄や天国 仏陀の王国に 変えることができます だからこの世界は 完璧だと言っています 今分かりましたね だからこの 人間の世界は 最も大事だと 言っているのです なのになぜまたこの 世界は苦しみに 満ちていて 早く 離れなければならない というのでしょうか

それは私達が 幸せな所を見つけて いないために苦しみ ばかりなのです 私達は地獄ばかり 作って 天国を 作っていません だからそういう人に とってはこの世界は 苦しみに満ちています 多くの人にとって この世は苦痛です 私達はまた全ては 心が作るものだと 聞いています よって地獄を作るのも 天国を作るのも 私達なのです この人間の体なしには 天国も地獄も 作ることができません 地獄は地獄に属し 天国は天国に属します しかし私達が人間の 体を持つと 天国も地獄も 造ることができます また最高の悟りの 境界も得られます 同じ世界にいながら 私達は色んな人達が 異なる感覚を持って 違った生活をしている のが見られます 例えばフォルモサ (台湾)だけを とってみても 北の方に住む人と 南に住む人とでは 個性が違うのです 生活常識や 生活様式も 大分違います

時には伝統的な 風習さえ異なります こんな小さな島でさえ こんなに違うのです 今私は台北の人と 台南の人が 標準中国語を 話すのを聞くと 彼らがどこから 来ているかが 分かります 台北の人か台南の人か 知ることができます 同じ台北でも 場所によって 裕福なところと 貧しいところが あります 私は貧しいところに 行ったことがあります といってもフォルモサ (台湾)はそんなに 貧しくありません

それに例えば 私が苗栗に 住んでいたころ  村の役人や警官らと 世間話をする時 貧しい人がいるかと 尋ね 彼らの名簿が 欲しいと 言いました 彼らは「はいいます」と 後で彼らは 政府が貧しい人達に 配給があると 教えてくれました 毎月 政府は お米や基本的な生活 補助を与えているので 飢え死にとか 凍え死にすることは ないと言いました 私は大変感動しました 私は弟子に言いました 私達の政府は本当に 素晴らしい 感動させられた 田舎まで面倒を 見てくれていると 政府は庶民に 深く浸透しています これを聞いて私は 本当に感動しました

フォルモサ(台湾)は 実に素晴らしいと 本当に  フォルモサ(台湾)に 貧しい人はいません でも比較的 貧しいという意味です つまりそんなに裕福で ないと言う意味です 好きなように 使うお金が ないだけの話です 欲しい物が買えない ということです 中にはテレビを 買うのに考えなければ ならない人もいます 数カ月のローンを 組まなければ 買えないのです 私も人と世間話を する時分ったことで  こう言う人もいます 時には私達のできる 範囲で彼らを 助けています とにかく 世界の他の所と比べて フォルモサ(台湾)は とても素晴らしいです そんなに貧しくなく お金や薬が 不足している 事例はありません

なのに 同じ所でも 裕福な人もいて 貧しい人も います 同じ俗世界の 中でもそうです 私達の世界には 色んなレベルの智慧と 智慧の差があります ある人は このレベルが分かり 見て分かるように 教育の程度によって 異なります 同じクラスの中でも 頭のいい学生が多く 彼らはクラスで トップの座に あります 一部の学生は落第して もう一年やらなければ なりません

同様に 智慧の面では 智慧と知識は 異なります 知識は賢いことで学び 運用することができ よく物事を処理し 指揮能力もあって 何でもすぐに 理解します 仕事もてきぱきし 立派にやってのけます これが知識です 本を読むときも すぐ理解します これが知識なです 智慧は大分違います 智慧はこの世界の 知識を超えたものです 智慧のある人は この世界のこと だけではなく 超世界のことも 分かります これこそ智慧のある 人だと言えます 同様にこの世界では 人々の智慧のレベルが 大変異なります そこでこの世界に 対する見方が それぞれ異なるのです この世界は苦しみに 満ちていると思う人は 本人も大変 苦しく感じます 世界が見るからに 苦しいのです 世界が見るからに 苦しいのは まだましです

自分がそんなに苦しく ないのでこの世の 苦しみを見る 余裕があるのです これはまだましです というのは私達は 自分を忘れているか またはそんなに多くの 物を必要としないため この世界の苦しみを 見る時間があるのです ある人達は自分自身が とても苦しいのです 本当に苦しみます そこで世界全体が 苦しみに満ちている ように感じます そして苦しんでいる 人を同情するのです

ある人は この世には 何事もないと 言っています

老子もこの世界には 何事もないと 言っていて 禅宗のマスター 菩提達磨も 衆生は自分で 自分を救うのであって 衆生は皆 仏陀なので 誰も救う必要がないと 言っています イエスも 野原のゆりの花の 中にも神が宿ると 言っています つまり 何もする必要がない という意味で 神が宇宙の全てを面倒 見るということです 偉大なマスター達が こう言っているのを 聞いてはいるものの 私達はやはり この世界は苦しく 問題が多いように 感じていて ここを 離れたくなります 私も時には皆さんに 早くここを離れて 移住しなければ ならないと言います ある人は私にパワーを 使って戦争と災難を 中止させ  戦争に介入して 二度と戦争が 起こらないように また世界の終末が ないようにして欲しい というのです 私はそれはできない 移住するばいいと 答えました なぜでしょう それは 海に浮かぶ船に 穴ができていて 水が漏れていて 長い間風や雨で 破れているのです だから早く 離れねばなりません 修理する時間など ありません こういう事なのです ダメージが大きすぎて 修理できないのです こういうことです しかし観音法門を 修行する人が多ければ この世界を修理する ことができます

例えば 船に沢山の 道具があり 沢山の専門家がいて 一緒に協力して 働けばすぐに 修理できます もちろん そうなります 一人や二人だけだと もちろん 間に合いません こういうことです だから私達は または 私が皆さんに早く この世界を離れるべき だと言っているのです 皆が修行するのも この世の苦しみから 離れるためです  どこに移住しますか どこにも行きません 依然ここにいます ただ内面を変え 智慧を発展させ 大きな世界を見て 良いことを見て 悪いところを 見ないだけです 人が 小さな部屋で壁に 開いた小さな穴を 眺めるのと同じです そこを見れば物事が 小さく見えます 後から 窓が見つかると もっと多く見えます そしてドアが 見つかって ドアを開けると もっと見えます または階段を上ると 下の全てがはっきり 見えます 釈迦はこんな話を しました 数人の盲目の人が 象に触れたとき 耳に触れた人は 言いました「ああ 象は扇のようだ」と 足に触れた人は 言います 「象は柱のようだ」と 鼻に触れた人は 言いました「象は パイプのようだ」と 尻尾に触れた人は もう何もいう ことがありません

後で目の手術をして 見えるようになれば 象が見えるのです 象の全体像が 見えるのです 彼らが言ったのは 象の一部分で 象ではありませんが やはり象です

彼らは像を完全に 分かったのはなく 一部分しか 分かっていないのです だから言ったことは 不的確なのです 同様に 私達はこの世界で 智慧が開いて いないため 目も半分閉じた ままなので 苦しみばかり見えて ほんの僅かな 幸せしか見えません 私達の世界が どんなに完璧なのか 分っていません だから修行するのです 修行した後 見方が変ってきます そして私達は 老子と同じように 世の中は何事もない というでしょう ただし私達が 世の中は何事もなく やるべき仕事がない と思える境地に達する ことは難しいです でも難しくありません 私だって世の中には 何もやる事がないと 言うことができます すると皆さんは  ではなぜ経の講義をし 衆生を救うのかと 聞くでしょう

私が経の講義をし 私が衆生を救おうと するからでは ありません 皆さんが私に 経の講義を頼み 皆さんが私に衆生を 救うよう 頼むからです

親と同じで 例えば私達は 幼稚園でシーソーで 遊びました

そして子供はずっと それで遊びたがります 私達にとっては退屈で しかし子供はそれが 好きですから 私達は付き合い  そして根気よく待って いなければなりません 親は何年も 根気よく 子供が成長して シーソー遊びをしなく なるまで待ちます

子供達は分かりません シーソーで 楽しそうに 遊んでいます そして両親も 遊びたがっていて 自分達と一緒にいたい と思っています そうではありません この世には何も やる事がないという ことはただ突っ立って 袖手傍観し あなたが苦しいのは あなたのことで  私さえ苦しくなければ それでいいとか あなたが開悟しようと しまいと私と 関係ないという ことではありません 聞かれなければ 何も言う事ありません 聞かれるから 話をするのです

私達は修行者や 偉大な修行者 開悟した人は 自由自適と聞いてます どのように自由に なったか分りません 時には 彼らも泣いたり 怒ったり 時には 喜怒哀楽を表し 普通の凡夫のような 振る舞いを見せます すると私達はあの人は 本当に開悟したのか 疑わしいと思うのです

後から神通力を使って 試して見ようとします 疑うのは 自然な反応ですが 私達は ただの喜怒哀楽と 別種の 別種の 喜怒哀楽は異なる ことを知るべきです 例えば社会には 多くの非道な人がいて いつも訳もなく 人を殴ったりします

お酒を飲んでは 酔っ払って 自分を抑制できず 人を殴ったり 盗んだりします 人を殴ったりすると

怒っていると言います

怒ると 人を殴ります

しかし親が子供を 叩くのは  子供がしっかりせず 親不孝で 外で 悪い事をするからです 同じく怒っている

ように見えますが この種の怒りは子供に とっていいのです こうすると子供は 将来外でケンカしたり いたずらするような ことをせず 盗みを働くような ことも しないでしょう 他の子供を殴るような こともなく よい市民に なるのです

ある人は人を殴り もう一人の人も 人を打ちますが 目的が違うのです 親が子供を 打つ行為には 愛があり 世話する 気持ちなのです 酒に酔って怒った 人とは異なります それは無明で  怒って暴力で 人を殴るのです

同様に マスターも時には 喜怒哀楽の 感情を用いて 学生を教えます また彼らのカルマの 問題からそうします マスターは鏡のようで あなたが醜い顔だと 醜く映り 美しい顔だと きれいに映った自分の 顔を見る事ができます 鏡がきれいに変ったり 醜く変ったりする 訳ではありません 映った顔なのです そこでなぜ ミラレパが マスターに七年間も 打たれたか分かるわね 彼は七年間も怒られ 七年間も家を 建てさせられ また 建てては壊させました 時には大きい石を 山頂から下に運ば なければなりません するとマスターは 彼に怒鳴りつけ  石を元の所に戻すよう 命じたのです 体は汗にまみれ 血が流れるほど 働きました 涙を流す事もあります 彼のマスターは とても厳しかったです そうしなければ なりませんでした 私達はこれを見て 彼のマスターは実に 暴力的で慈悲心がない と思うかもしれません 彼に何も 教えないばかりか 怒鳴りつけ 叩き付け あのように 罰するのです しかし その行為の裏を 見た場合 私達は違いを 理解できると思います 時々ミラレパは 真理を渇望して いるのに マスターは 何も教えないので 彼は逃げた振りを したのです マスターは彼が 本当に出て行ったと 思い泣き出しました

マスターは全ての仏陀 十方の三つの世界の 仏陀に祈りを 捧げました 早く弟子を連れて 帰るようにと マスターの心を 誰が分かりますか 親の心は 誰が分かりますか 自分が子を持って 始めて 親の気持ちが 分かるのです オゥラック (ベトナム)には 子供を持たないと 親の心が分からない という諺があります 同様に私達は 仏陀にならないと 仏陀を理解する ことができません マスターに ならないと マスターの方法を 理解できません ミラレパのマスターは 暴力を振るった 訳でもなく 悪意で 彼を打ったのでも ありません 弟子の カルマ(悪い報い)が あまりにも 重かったからです ミラレパはマスターに ついて学ぶ前に 黒魔術で 人を殺したのです それは大変深いカルマ (悪い報い)です

白魔術を使って 人を助けたり 病気を治したり 人の命を助けても 悪いカルマ(報い)が あるのです ましてや 黒魔術で人を殺した ことはなおさらです 想像できますか 昨日ある人が こんな質問をしました

誰かにある人が 早く死ぬように 呪文を唱えてもらうと その人はすぐ 死にますかと その人は確かに すぐ死ぬでしょう しかし呪文を 唱えた人は仇に 見つけられたのです これは実際の話で うそではありません 私達は 最高のパワーを 得ていないと 何をしても人を傷つけ 自分も傷つきます 自分が生きている間に 自分だけが傷いた 場合はまだいいのです それを正し 懺悔する 機会があるからです 過ちを償う機会が あるのですが 問題は死んだ人を 害するのです なぜなら彼が一時間か 二時間早目に死ぬと 悪いカルマ(報い)を 払い切っていないため 天国に行く事ができず 地獄に行くのです こういう事なのです ですから 軽率にいわゆる小さな 神通力を使って 人を救うことは できません 人を救いたければ 人々が永遠に解脱 できるように助ける ことです 彼らに 自分を永遠に救う 方法を教えるべきで これが本当の意味での 救うことです だから釈迦は 自分自身に頼って 修行すべきで 自分で歩きなさい 自分の光に頼りなさい 誰かに頼るのではない と言ったのです マスターに従うことは マスターに頼る事では もちろん 皆さんは マスターの加護を 得たとかマスターに 助けれられたとか マスターの化身が 助けてくれたなどと 聞きますが これは ごく一部分であって 大部分の修行は 自分自身によります まだ歩けない 子供と同じで 私達は 子供の手を取って  一歩か二歩歩きます 長い時間が 過ぎると 子供は自分で 歩くようになります

私達は代わりに 歩くことはできません 修行も同じです 私達を救うために ここに来る仏陀や 菩薩はありません はっきり言うと 彼らが救おうと思えば とっくに 来ているはずで 私達がこの世界で 苦しむのを放って おかないでしょう そうでしょう(はい) ですから 早く目覚ることです 一緒に目覚めましょう 早く修行法を見つけ なければなりません 早くこの世界の美しい 所を見つけることです 美しいところはどこに あるか見つける事です 私が言ったように  一つの方法があって すぐに見つける ことができます 私達は座ったまま 仏陀の国に 行くことができます 座ったまま 天国に行けます 天国も仏陀も私達の 目の前にあります はしごに上ったり UFOに乗って 探す必要もありません 科学者達は 大変進歩していて 他の惑星に行っても 何も見つけることが できませんでした 全ては心が 作り出したものです 天国は確かにあります しかし 目が開いていないため 見えません 盲目の人が太陽が 見えないのと同じです 私達には肉眼があって 多くの物が見えます しかし見える物は 完璧ではありません 多くの人を見ますが ある人は非道で ある人は善良で ある人は きれいで ある人は醜いのです いずれも肉眼で 見るからです もし真の目 智慧眼で見れば 皆が完璧で 美しく見えます だから釈迦は 悟りを開いてから 全ての衆生は 皆私と同じで 何の区別もないと 言ったのです もちろん イエスは自分は神の子 だと言いましたが しかし彼は野原の 草を讃えて 神は この草にも宿っている とも言っています 神はイエスの中にも 草の中にも あるのです だから彼は自分は 神の子と言ったのです 決して傲慢で 自慢げに言ったのでは ありません それは彼が 悟りを開いて 神が草の中にあるのを 見たからです 釈迦も同じことを 言っています 全ての衆生は皆仏性が あるということと 同じ意味なのです 老子は万物は一体だと 言っていますが 同じ意味なのです ヒンズー教や イスラム教も同じ事を 言っています

イスラム教には 一つの規則があります つまり人の行為を 批判してはいけない 人が どんな事をしても 神が彼にそうさせた と言います 神が彼に こういう体験を させているのです ですから人を 批判しないことです 同様に 釈迦は 全ての衆生は皆 仏性を持っていると 言っています それは 仏性は全ての衆生に あって行動を指示する という意味です

全ての衆生を 存在させるのは 仏性です イエスも同じように 言いました 野に咲く 百合の花を見よ  神はその中にあり  それの面倒をみてると 決して  悪人は神の子でないと 言っていません 釈迦も決して 善良な人だけに 仏性があって 他の人にはないとは 言っていません 全ての人にあると 言っています 老子も 同じ事を言っています 万物は同一体である と言いました 決して人間だけが 同一体だとか 善良な人は 同一体だとか 道教の信者は 同一体で 仏教徒は そうでないなどとは 言っていません  開悟した人は 全てを含めた 見方をします ですからとても シンプルです 人の考え方や人の 信仰や行為を 容易に受けいれる ことができるのです 批判の目で見るのは ありません 人を自由にします 彼らは経の講義に 出かけますが とても自適です 人に押し付けるとか 人を引き付けるために 手を使うような事は しません 神通力やお金を使って 人を引き付けるような ことはしません 過激な方法で ドアを敲いたり 道端で歌ったりする ような事もしません 多くの宗教は 道端で法を広めます ただ立っています そこに何かを入れると あなたが来るまで 待って レクチャを 始めます 一人や二人がきても 構いません 彼らの弘法の精神は 本当に偉いと 思いますが 本当の法を広める人は こうではありません 押し付けず 強制せず 人を自由にさせます なぜなら人には それぞれ 時間があるからです 子供と同じで 子供に山海の珍味を 食べさせても 消化できません 私達にとっては いい物ですが 子供には無理です
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