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天なる父と一体になる 第二部/2 1992年2月24日 マレーシア(マレー語)    
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マスター 今日の午後 私は即刻開悟について 質問をしました (はい) あなたは 印心の時 弟子は即刻開悟を 得ると言いました しかし彼らに毎日 瞑想を二時間半する ことを求めています それは彼らは 一時的に開悟した ことを意味しますか それとも・・・ よく理解できません (はい 分かりました) この質問をしてくれて うれしいです こういうことです 子供がいるとして 子供は生まれましたが まだ成長していません そこで毎日彼らを 養わねばなりません 成長するまでです 一旦開悟すると あなたは開悟してます

しかし自分をもっと 知らねばなりません 開悟して 一日経てば 自分を少し知り 開悟して 二日経てば 自分をもっと知り 神を知ります 神は一日で分かる わけではありません マスター たとえ少しでも 世界の苦しみの本質を 知ったことでも 開悟したことを 意味しますか 世界の全てのことを 知っていることは 開悟なのですか この世界の 苦しみの本質を 少しでも 分かったことも 開悟したと 言えるのですか それは理解であって 開悟ではありません 開悟は 光を意味します あることを通して この世界の 無常を見た時  この世界は苦しみで はかないと分かります

私達は知っています 皆が分かります 子供でも分かります ですから 「開悟」という 言葉を使っても 誰も止めません でも開悟の真の意味は 「光」を意味します ですから光 つまり 神の光を見て始めて 開悟したと 言えます もちろん 開悟には 色々なレベルがあり 開悟の初日は 二日目と異なり 一年目は 二年目と異なります

あなたがなぜ この印象を受けたか 私には分かります ある人は 花の中心を見て 開悟したと言います そうですね しかしそれは彼が 開悟の仕方を知った後 得た開悟なのです すると たとえ 遊んでいる時でも 開悟することが できます 昨日 私の アメリカ人の弟子が 美しい体験をしたと 話してくれました ドラムを叩いている時 別の世界に行きました これは印心後 彼に起きたことです もしくは たとえ 印心していなくても 偶然マスターに 一人の大変 開悟したマスター 真のマスターに会うと たとえその人について 学んでいなくても 彼はやはり加護します

そして突然 家に帰った時 色々美しい夢を見ます 美しい所を見たり 禅定に入り 至福を感じたりします その人はこれが どこから来るか知らず 実際 この祝福は開悟した マスターからのもので その人には分りません ちょうど たまたま お菓子屋かコーヒー ショップを通った時 またはあなたに ロンドンの道を聞き 彼の目を一回か 二回見ただけです これは一種の 非公式の印心で それであなたは 加護を受けます そして 時々 花を眺めていると 花の芯から 美しい世界が 見えてきたり 花の芯から 光が見えたりすると あなたは開悟は自然に 来たものと思うのです

アメリカから来た 私の弟子は 印心を受けた後 誠心誠意 熱心に 修行していたので 私は彼女に 一分二分でも瞑想 できると教えました 道を歩く時 頭を使う必要のない 仕事をする時 目を閉じて 私が 教えた通りにしなさい と言いました これは一分間瞑想 二分間瞑想と言います しないよりいいです 例えば 一ポンドか 二ポンド または 一ドル稼ぐのと同じで 百ドルではないですが やはりお金なのです 私は彼らに 日々の暇を利用して 瞑想するとより強く 力がつくと教えます とても簡単です 電車に乗るとき ぼうっとしていないで 瞑想するのです トイレでぼうっと 座っていないで 瞑想できます

飛行機に乗るときも 雑念を出さないで 時間を瞑想して禅定に 入るのに使います 皆にとって 瞑想はとても便利です いいですか 彼女は印心を受けた ばかりの時 とても熱心でした 家に帰ったから 時間がある時はいつも 瞑想しました とても高い境界でした 大変高い境地の 体験をしています 彼女は様々な 違う世界を見てきて 見方も違ってきました 彼女はあまり教育を 受けていませんが 彼女の話を聴くと まるで聖人や菩薩が 説法するようです 彼女は自身の 体験から話しますので 知っている世界は いわゆる聖人より多く「聖人でも 不案内な世界」を 彼女は知っています

ある日彼女は 髪を洗っていました 知っての通り 女性は髪を洗う時 このように 頭を下げて このように洗います 彼女は目を閉じました これも一種の瞑想です 彼女は「ああマスター 光を見ました 下からです なぜ光が 地獄からくるのか」と 私に聞きます 彼女は 上は天国で下は 地獄だと思ったのです 彼女は「マスター なぜ光が地獄から くるのか」と聞きます 実際 光は地獄からではなく 彼女自身の 神の王国から来ます 逆さであっても 裏返ししてもです 彼女はとても純真です 彼女は 無学な女性だからです 彼女の人生は 六人の子供を設け 夫の世話をし 子供の世話する以外は 何も知りません

何の 宗教的な背景もなく 何もありません ただ 信心深さと純粋さです だから聖書に曰く 「心が純粋な人は 幸いである 神の王国は彼らの中に あるからである」と また「子供のように 無邪気にならない限り 神の王国には 入れない」と マスターがやりたい 事は必ず成し遂げます ただ私達が考えている 世俗的なことではなく 霊性面でです マスターは人々の 目に見えない面の 世話をします だからインドの人は グルつまりマスターを 大変尊敬します 彼らはマスターを 一目だけでも 見たがっています 時にはこんな感じです 私は一人のインドの マスターを知っていて 彼は一九五〇年に往生 しました

彼が在世の時 汽車で旅をしました 農夫が右側の 外の畑で農作業を していました そのマスターが 窓の外を眺めた時 その瞬間 その人も たまたま見上げました そういう感じで 一秒で 通り過ぎました その三日後 その農夫は死にました 彼はそのマスターが 現れて彼を連れて上に 上がるのを見ました 亡くなる前 彼は 周りの人に言いました 彼は 「そのマスターを見た こんな顔をしていて 今やって来て 私を連れて上がる」と 言っている ちょうどその マスターの弟子が 彼のそばにいました 彼の説明を聞いて その弟子は この写真と 同じ人ですかと聞くと そうだと答えました

一目見ただけで 彼は解脱したのです 仏教の伝統にも この種の話が 沢山あります 例えば 地蔵菩薩は 在世の時 誰でも彼の名前を 耳にすると面倒を 見ると誓いました ですから 菩薩や聖人の力は 無限です 私達の 判断や理解や認識を 遥かに超えています マスター あなたは 印心後 毎日少なくとも 二時間半の瞑想が必要 だと言いました(はい) なぜ瞑想を強調するか 私は知っています 瞑想は 神と連結する 時間だからです 一日は 二十四時間ありますが 私達は二時間半しか 瞑想しません 睡眠時間と普段の 責任を 履行する時間を 除くと残りの 時間はあまりないです

これらを前提として 瞑想すればするほど 高いレベルに至ります あなたが 本当に 真の印心と法門を 得たのであれば さてあなたはさっき あなたの 最も素晴らしい弟子が 起きている間の時間を 起きている間の時間を 十分に利用して 瞑想すると仰いました 今 私が推測するには 仏教の伝統では 専念といいます (そうです) 歩いても食べても 寝ても専念します そこでですが この種の専念は 観音法門とある程度 関連がありますか そうです ただ やり方が違います 

違う方法ですか 例えば 他のいわゆる禅宗では 歩くときは自分が 歩いていると分かり 歩く事に注意を 払います 食べる時は食べる事に 注意を払います 皿洗いをする時は それに注意を払います それも結構です もちろん私も弟子達に この方法を教えます 運転する時は 運転に専念し 皿を洗う時はそれに 専念します でないと 皿を割ってしまいます それとは別に 同時に瞑想する 魂があります

暇がある時はいつも それに集中するのです つまり内面の光と 内面の音に集中します しかし時間が ない場合は 手元のことに専念 しなければなりません では 内面の光に 集中しますか それは意識と 関係ありますか 自分が何をしているか 分かっているのですか 内面の光に 向かって行く時 意識ははっきりして 自分が何をしているか 分かっていますか 完全に意識しています それは 起きている間いつでも 瞑想できるということ ですか 座ってする 二時間半以外にです それができれば たぶんそこまでは集中 できないと思います

おそらく 二時間半以上は 瞑想できないでしょう 多忙の中では もちろん瞑想は沢山 するほどいいのですが 最低限の時間です それは 座って集中して 瞑想する最小限の 時間ですか 日常の仕事をする時 集中してやると 瞑想と言えますか ええと それは違います 仕事をする時は 働いているのです 瞑想とも言えますが 瞑想も様々で お金や女姓や 男性や色々な事に対し 瞑想します これも瞑想と言えます 私が言う瞑想は神です これは異なります それは 人が高い意識 レベルに至るのに 有益ですか 例えば 完全に 自分がやっている事に 集中し他の事はすべて 除外する場合です そうです 

様々な 種類の開悟と 様々な種類の 集中があります いったんマスターの 水準に至ると何を するにしても瞑想です その前は何をするに しても世俗の仕事です 少なくとも 世俗の流れをカットし 二時間半瞑想した方が いつまでも 世俗の流れに おかれるよりましです もちろんマスターは 食べている時も 目に見えない仕事をし 寝る時も私達のように 寝るのではありません 例えば 真のマスターはここに 座ってお茶を飲んでも 数千里離れた所に それぞれ異なる 弟子の前に現れます 弟子が助けを求めた時 事故に遭った時や 問題が生じた時です これが 食べていても寝ても 禅だということです

完全に起きています この場合はそうですが その前は違います 以前私も瞑想しました 釈迦も 仏陀になってからも 瞑想しました どうして分かったか というと 仏典を読むと 冒頭は皆こうです 「釈迦牟尼仏は 瞑想三昧から 目を覚まし このように言った」と いずれもこうです そうですね ですから釈迦は 成仏してからも瞑想 した事が分かります ただ彼の瞑想は 一種の付加的なもので 休憩であり 弟子のための手本です 実際 彼がする全ては 神の力の中にあります

神の中に涅槃 (最高の天国)に あります そうです それは私達の レベルを遥かに超えて いるという意味ですか この次元の瞑想を 得る道はないですか それを得る道は あります それを得ればできます 私の意味は 二時間半瞑想する 以外の時間のことです それを願うなら いつでもできます

ただ二時間半は 最低限の時間です これさえ できないとしたら· ある人は 時間がないと言います しかし実際 最低限の二時間半は あなたが その利益を知り 感じる時間なのです 例えば 一定分量の ご飯やパンを食べて 始めて空腹感が なくなります

食べたくなければ 食べなくていいです 空腹でよければ それも結構です 瞑想を学ぶには マスターが必要だと いうことですか 一人のマスターに ついて学ぶ時 そのマスター自身が 力に限界がある場合 どうなりますか 沢山のマスターに ついて習いながら 自分の道を探した方が 一人だけを認めて受け 入れるよりいいですか いいえ  不満足なら何も受け 入れる事はありません ほとんどの私の弟子は 印心を受けた後 満足しています 彼らは自分が 探している人は ここにいると知り 自分が求めている 法門をすでに得ていて 充足感を感じています

彼らは他にマスターを 探す必要はありません 彼らが他のマスターに 学びたいとしたら 決して反対しません 私達は イエスや釈迦の生涯 からも分かるように 最終的な道は 自分で探さなければ なりません もちろんです 私は皆さんに どう探すかを教えます 私が代りに探すことを 教えるのではないです それで私は教えます でないと私が代わりに 全部やればよく なぜ印心が必要ですか

自身に頼ることです でもマスターは 案内者で あなたが 途中でつまずき失敗し 時には道中 あなたの知らない事が 起きたりします 見知らぬ道だからです マスターがあなたの 手を取り問題に遭った 時に助けるのです そしてもっといい道を 教えてくれます マスター マスターが弟子に あらゆる辛酸を 舐めさせる代わりに 皆を連れ上げて それで世界の問題が 終われば それは 理想的な世界では ありませんか マスターが皆を連れ 上げるという事ですか (そうです)

ええ 私も賛同します でも昔から それができた師は いませんでした 師に出来ない訳でなく 師に出来ない訳でなく 私達が師について いけないからです 仏陀を誹謗し ムハンマドを 傷つけたりなど それで だいぶ歳月が 経ってから他の人が あえて降りてきます その間退歩しています 師に会わなかった人は 皆 師がいないまま 死にました そうすると彼らは再び 戻って来てどこかに より低級な生命に 生まれねばなりません ですから 師は戻って 来なければなりません すべての師がこれらを 救いに戻るべきです

マスター精神が 伝わって行ったら たとえ信じなくても マスター精神が伝わり あるマスターから 次のマスターへと 教えが伝わったら すぐに全世界が 悟って ここは涅槃(最高の 楽園)になります 他へ行く必要がなく もう修行する必要が ありません いろんな導師に印心を 受けるのは悪いですか 最高の導師が 怒りますか

良い導師は怒りません あなたの動機が 重要なのです あなたが本当の マスターを探すのが ただ悟りを望み 神に近づきたい だけなら どのマスターも あなたを励まします しかしもちろん このマスターが 良い師で この師に長く従ってる 他の弟子の証明により 師が本当に開悟した マスターだと 思ったら またあなたが得る 教えが真実で 本当だと思えば 進歩するために その師にしがみついて いるべきです しかしそのマスターに 疑いを持ち 何か反対の 証明があれば 離れてください

そのマスターが実は 開悟してないことや 自分の教え通りに やってないことや 約束したことを 実現してないことが 証明できて また師が約束どおり あなたに 心の平和を与えず 愛を与えず 修行をしても 安全で 愛されて 進歩しているように 感じなかったら その時 あなたは分り感じます 他のマスターに会う 権利があることを 目的は神を探すことで 師ではありません どんな師も神を 見せられないなら 捨てても構いません ですから神は あなたに怒りません 本当の師なら 理解するはずです

あなたに証明もなく マスターを疑い 他のマスターの所に 行きたいことを あなたが彼と同じか 彼より良い師に会える よう祈るだけです あなたともっと 縁があり 修行の道を後押しして くれるような師にです どちらも同じことを しているからです 弟子達を支え 神を見つけるよう 導いているのです ですから 師が怒る はずがありません 残念だと思うだけで 怒りません 個人的な質問です あなたは自ら 自然に悟りましたか 師に導かれましたか 自分で悟りましたが 良い師の導きも 要ります 個人的にあなたは どうですか 例外はありません

私は悟っては生まれず 誰も悟った状態で 生まれてきません たとえ以前 悟っていても 前世でそうだとしても 私達は再び始めねば なりません しかし より早く悟る でしょう 既に私達が 悟っていたなら 高次の世界から ただ降りてきたなら 数千年も この世の輪廻で 走り回っている 代わりに ある人は直接 天国から来ます 彼らが多くの生涯で あるいは前世で もう開悟し解脱して いたなら 今彼らは 喜んで再び戻って来て 無明な人達を 教えるのです イエスとか仏陀の ような場合はとても 早く悟ったでしょう

他の人達はゆっくり 得たり いつも彼らが するのと同様に得たり それは彼らの信心と 修行と蓄えてきた 福報によります 何より神の恩恵ですね 神の恩恵は重要です マスター 人が死ぬ時 何が起こりますか 魂が解放されたり 死後 一般的に 何が起こりますか 死んだ後ですか 通常人々は 阿修羅界に行きます 彼らが何か悪い行為を しなかったら 阿修羅界と呼ばれる 世界に行きます 魂がしばらく休むのに 良い世界です それから 再び 肉体を備えて この 世界に来るでしょう この間の時間が 長いか短いかは その人のカルマ つまり行いの蓄え 次第です

しかし 罪が重過ぎる 他の人たちは 地獄と言われる所で 彼ら自身を罰します それはそうすべきと 彼らが考えるからです したがって 彼らは 罪を清算し終わるまで そういう世界に 落ちていて その後 彼らも再び生まれます 良い行為をした 人々はもちろん 彼らの良心がそれを 覚えていて 自分達が 良いと知っています それで彼らは自分達が 天国に値すると考え したがって 彼らは天国へ行きます それでいわゆる天国と 地獄があるのです 天国により良い世界も 地獄にはここより悪い 世界もあります

「地獄」とは 苦しみの世界で 意識の苦しみの レベルで そこで 私達は罪意識を全う しなければなりません 私達は自分を罰します 神はそれをしません 私達に内在する 神が何が良くて何が 悪いかを知るからです いわゆる悪いことを したと思ったら 私達は自分自身を 罰しねばなりません 神は正義だからです 私達はいわゆる 間違ったことをしたり それが間違った事だと 思うがゆえに 自分自身を許せません そこでいわゆる地獄で それを直すのです 世界の終わりが 来ているとの 予測があります あなたのご意見は それは世界の終わりが 来ているかどうかが 問題ではありません

問題は世界の終わりに 当たって私達の準備が 出来ているかです あなたが死んだら 明日でも終わりが 来ます あなたが死ぬ時  世界の終わりが来ます 少なくてもあなたには だから準備して下さい 私がインドで聞いた 狼とリスの 物語があります 狼はリスを食べた かったのですがリスは 言いました 「待って あなたは食べられない 私を食べたら 世界は終わります 私を食べないで 食べないで」と 狼が言いました「なぜ お前は一体誰だ お前を食べたら 世界が終わるなんて」 リスが言いました 「私を食べると 私の世界が終わります 私の世界が終わって しまうんです」

私達は世界の終わりが 来ることを心配する 必要はありません 私達自身の終わりを 心配すべきです 結局いつか来るその日 最後の審判の日のため 私達は準備を しなければなりません 誰にも最後の審判の 日があります 有徳の者は 生命を得て 不徳の者はそのまま 死にます 私達は自身を罰すると あなたは言いました ええ 自分を罰します しかし この世では 子供達が 間違ったことをしても 自分を罰することは 決してありません 子供を罰するのは 両親です 更に私達が交通規則を 破っても 私達自ら 警察署に出向いて 私がスピード違反を したとは言いません 私達を逮捕して 罰するのは警察です ですから 私達の 善悪のカルマ(報い)を 目撃するより 高次の証人がいて 私達がした事によって 彼が報酬と罰を与えて るような感じがします

私達が自分自身に 報酬と罰を 提供していると 思うのは難しいです もちろん この世界の 法律と内面の法律は 異なります 私達自身は 意識であり この世ですることは 何でも物質的です 見るためには 肉眼が必要であり 人を捕らえるためには 手が必要です 私達が物質的なことを する限り 物質的な 法律に支配されます

しかし 物質的レベル より更に深いものが あります 私達が故意に人々を 傷つけたとき 私達が 人々の物を奪ったとき そうすべきでないと 分かっていたら警察に 逮捕されなくても 私達自身が常に 二十四時間 自分の 犯罪の証人なのです 私達は良心から 逃げられません したがって時々 私達がこの世で 罪を犯して 警察に 逮捕されなくても 私達は自分が誤ちを 犯した事を知ってます そして 誤ちを犯した 感覚がずっと私達に 付きまといます 私達が何をしても 何を考えても それは一種の エネルギーを形成し 私達を囲み 私達の霊体に くっついています

それで私達は 物質的存在のこの世を 去った後もそれに耐え ねばならないのです 幾つかの犯罪は報いを 超えているからです 例えば 私達が 誰かを殺して 警察が私達を逮捕し 刑務所に入れたと します 私達は 懲役に服します 十年か二十年 または 一生涯の間です でも それは良心の 不安を消せません 私達が刑務所に 入っても その人は 生き返らないからです 彼が死んで 彼の子供達や妻や 最愛の人々が彼を求め 泣き 恋しく思い 寂しくて苦しみます この苦しみがやはり 私達に向けられる一種 エネルギーをつくって 私達は逃げられません

思いに形とエネルギー がある事を知ってます それで催眠術を かけられるのです したがって 思いが 死んだ人と 彼の愛する人々の 憎悪が ずっとあなたを傷つけ 付きまといます そしてあなた自身の 良心がこの種の 後悔のエネルギーを 作り続けてあなたは 厄介だと感じます 刑務所に入っても 取り除けないのです それで私達は 神としてエネルギーや 智慧や魂として パワーとして自分の 犯した誤った行為を 大目に見れないのです ですから良心を 楽にするために 償う方法を 探さねばなりません それで 私達は この種の意識レベルに 落ちるのです そこは 非常に暗くて光のない 苦しみの世界 いわゆる「地獄」です

さもなければ 地獄は存在しません 私達自身の良心を 別にしたら 誤ちを犯した人の 意識を別にしたら 地獄はありません 物質的レベルは 精神的レベルとは 異なります 内面的に 私達は何か 誤った事をしたと 分ります たとえ他の 人が知らなくても 人々が知らないことが 沢山あります 例えば とても邪悪な人々が 沢山います 彼らは人々を呪って 彼らを呪って 病気にもできます 物質的証拠なしでは 警察は彼らを 逮捕できません しかし 内面的に その邪悪な人は 常に知っています そして私達は 演じるどんな良い事や どんな犯罪においても 最高の目撃者です

それで私は 自分自身を罰するとか 自身に天国を与えると 言ったのです それは確実により高い 規則だと言えます それは より高い自分 より高い意識 私達の正義 私達に この審判を記録します それが私達自身です 分かりますか 本当の私達自身です 私には違う 質問があります 私はおよそ七カ月前 アジア マレーシアに やって来ました 以前は 西洋の寺院に 住んでいました アジアに来て私は 寺院で常に家族のため 健康のため あるいは ビジネスのために 天の加護を もとめている 人々に出会います そう そうです 何でも求めます 開悟だけは求めません そうです 

本当です あなたはこれらを どう扱いますか 通常ある人は そのために来ますが 大部分の人は すでに知っています 開悟のために 来たのでなければ 私は何も 与えられないと 私は「店」の外で 広告します 「開悟を売っています」 とね たぶん外で こう言うべきです 「即刻開悟」と すると 彼らはその為に来ます 彼らはよく 様々な寺院に行きます これは人々の 非常に習慣的な 行動と印象で 通常寺院に行って 木の仏像に 加護を求めます だからあなたが そこに座っていて 上品で優しく誰をも 叱らないのを見て やはり木の仏像だと 思い 彼らは 加護を求めます 手を置けるので 木の仏像より良く 彼らはあなたにもっと 多くさえ求めます しかし私の「店」の 外には ただ 外の看板は 開悟だけのためです ですから来た人々は すでに準備が できているのです

開悟したい人だけが 私のところへ来ます もちろん加護や 病気を治す等々の ために来る多くの 場合もありますが 私は言います 治るなら治る 治らなければ 治らない 私は医者ではない 私はあなたに 富を授けられるような 富の神ではない でもまだしています はい でも富の神に 求めるような富では ありません それで私は言います 「あなたは騙せない 富を与えられません あなたは不可能な事を 求めています 裕福になりたかったら より多く布施し 貧しい者と病人を 助けなさい そしたら 将来または未来で 裕福になります

健康を望むなら 病人に 薬を上げなさい 医者になって 自分自身とすべての 患者を世話しなさい 息子を試験に合格させ たかったら一生懸命 勉強するよう言います 私は言います「でも 最良のを提供しますよ 即刻開悟です いかがですか」 いかにしてある人の 足を元に戻せますか 二十年前 戦争中すでに 切り取られた足です 私は彼を騙せません 私は彼に言い続けます 「再び健全に なりたかったら 善を行い 瞑想修行して 肉体から 解放されなさい あなたの本性は常に 健全で美しいです 心配する必要はない これら肉体の足など」 このようなことを 私は彼らに言います

機会を捕えて 彼らに悟りを開かせ 彼らが望むものを 手に入れるため いかに生活すべきか 概念と人生における 方向を与えます 彼らが信じないか 従わないなら それまでです 少なくとも出家者と しての義務を果たし 厄介だと分かります それであなたは どうしますか 人生のすべてに 感謝しなさいと 彼らに教えます (それはいいですね) 神の恩恵として全てを 受け入れて下さいと そう彼らは変われる 彼らは生活様式を 変えてより多くの 恩恵を得られます すべてが神の 恩恵だと見なしたら 苦しむ代わりに すべてが喜びのもとに なります そうです 

でも彼らが 生活様式を変えれば あまり苦しみません 例えば 大量のタバコを吸い 大量の酒を飲んで 健康を期待するなら それを神の恩恵と 見なすと言わないで 彼らにこう言います 「それは自分のせい かわいそうな神を 何でも責めないで 罪のない とても無邪気な神を」 あなたの講義の方法に 関係する 今夜の環境を どう感じますか 会場は素晴らしく 気分良く祝福を感じて 特別な感じは 私はただうれしく マレーシア人からの 祝福を感じました キリスト教の伝統では 常に魂の存在を信じる 間違っていたら 指摘して下さい そう それは事実です 仏陀は常に 魂というものはないと おっしゃいます

それは五つの 元素だけで 死んだらもうないと 私自身は 魂の存在を信じます 私は常に私の心 私の体と言いますから それはつまり 私の言うことに 何か根拠があります 誰もが言います 私の心 私の体 仏陀は魂がないと 言いましたか あなたは間違ったか 違う語を使ったのです 多くの聡明な人たちが 彼に立ち向かいました 彼は常にこの魂の 問題を回避しました ただ知識の論争に 巻き込まれないように 私はそう思います あなたの言った事から すでに魂の存在を 暗示していると 思います

あなたが意識で または良心 または 考えていることは 何でも 魂と 悪いカルマ(報い)と すべてこれらを 述べたとき それは魂を伴います さもなければ悪い カルマ(報い)を心配 する必要ありません だから確かに 魂があるかどうか そうですね はい私は信じます あなたの会話は 魂があることを 暗示しています(はい)

おそらく彼は 人々の 「魂」に関する先入観を 打破しょうと したのでしょう 魂はこんななのか あんなようなのか こんな風に出現するか あんな事をすべきかと 彼らは思うからです 魂には形があると 彼らは思っていますが 実は形がありません 一種のエネルギー 愛 神のようです そしてまた同じように 彼は「神がいない」 彼もまた同じような ことを言いました それは当時 人々の 神と魂に対する概念が 非常にゆがんでいた からです それでゆがんだ概念を 彼は否定したのです それだけです

でなければ なぜ彼は「一つの 源から万物が生まれ 万物はそれに戻る」と 言うのですか それは何ですか 神でないなら それは道か神です 人々は「道」と言い 人々は「梵天」と言い 人々は「神」と言い 人々はそれを 「仏性」と言います だから私達には 多くの争論があります 仏教がより高いか あるいはキリスト教が もっと良いか 仏陀が神より高いか あるいは神が 仏陀より良いかと いつも私に 問題を与えます どこに行っても人々は 同じ質問をします

これ以上 何人の人が 死ぬべきですか

島や国があといくつ 沈まねばなりませんか 私達の口に入る 肉一切れのために あと何百万の 気候難民を 見たいのですか 私達の口に入れる 一切れの肉のために あと何数十億の動物が 小さい木枠の工場で
すし詰めになって 苦しむのを 目にしたいのですか 私達の口に入れる 一切れの肉のために それは交換できるのに 何人の患者が病院で 苦しんだりするのを 目にしたいですか 生死の間をさまようか 死ぬのを 私達の口に入れる 一切れの肉のために あとどれほどの家族が 肉が原因の 病気と死によって 別れ別れになるのを 望んでいるでしょうか

あと どれだけ多くの エネルギーを浪費して 肉を生産したいですか どれだけ多くの穀物 食物を 動物を育てる ため浪費したいですか 何百万もの人々の 飢餓を犠牲にしても 今 すでに十億人が 空腹のまま 一日を終えます 五秒ごとに子供が 飢えで死んでいきます

あと どれほど長く まだ取引を続ける 余裕があるのですか 私達が人類や動物の 苦痛や 環境被害に 直面しても その価値はありません 肉食は本当に 肉食は本当に 恥ずべき選択です

同類の この地球の 他の衆生の苦しみを  無視することを 選択するのは 人道的ではありません 私達が直面している 危機 つまり 気候変動は 地球全体や たぶん地球上の 大多数の生きものを 簡単に滅ぼすでしょう
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