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永遠の世界を得る方法 3/3 一九八九年三月五日、フォルモサ(台湾)澎湖(フォルモサ語)    
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先程話されましたが 私達が 誤って修行すれば 取り付かれますか 憑依とは何か 知りたいのですが 何か悪い結果が ありますか 憑依は多くの形で 起こり得ます 最も粗雑なのは 誰にでも認められます 例えば 一日中大声で 叫んでいる人や 下らないことを話す人 あるいはいつも誰かが あれこれするよう 言うのを聞く人 自身に悪い事良い事を するように話す人 無意識に自身を 叩いている人です この場合取り付かれて いると言います

別の種の憑依は 更に悪く それは傲慢さが 私達に表れるときです 人はこの法門を 知らないのに 悪いとか 悪魔の法門と言います これが最悪の 憑依の類で 精神の憑依で 傲慢にとりつかれます

人は無明で 八万四千の法門を 全く知らないのに でたらめを言います この種は 救われません ある人が取り付かれ 大声で叫んだり 体を憑依されたら マントラを唱える だけで悪魔を払えます それでおしまいです でも傲慢さに 取り付かれたら 救うのは難しく 私達がある日突然に 災難に遭わない限り あるいはある難問に 遭遇すれば 私達は後悔し目が覚め 自身の罪を後悔します そうしてマスターは 私達を救えます さもないと 非常に厄介です

マスターこの肉体の 衣は私達の悪いカルマ (報い)でしょうか この肉体は 私達の魂の悪いカルマ(報い)なのですか 悪いカルマ(報い)かもしれませんが 確かではありません 私達が過去世でした事の反映により 細胞は悪いカルマ (報い)であれ 加護であれ 積んだ ものが分かります 例えばキリストや 釈迦牟尼仏や老子 孔子にも私達のように 肉体があります でも彼らは体を 感覚ある衆生の福報や 解脱に達するために 真理を伝えるために 使いました そのため 彼らの肉体は 福報に恵まれました

私達がこの肉体を 世俗の楽しみや 人々を傷つけるために 使い そして後悔せず 真理を求めないなら 霊修行者や 道徳的な経典を 軽蔑するなら この肉体は 私達の悪いカルマ (報い)と言えます マスター 朝の詠唱と 晩の詠唱とは どういう意味ですか それらの詠唱の会は こんな感じです 仏教では あるいは 他の宗教では それをみな強調し 朝に 仏陀や神を 崇拝したり 霊修行をすべきです 晩には 寝る前にも 同じ事を すべきです これは私達に 真理や道徳を気付かせ 霊修行をするためです これは朝や晩の 詠唱と言います 私達は毎日同じ事を 唱える必要ありません

なぜ昔はこのように 唱えたのでしょう それは経典が十分に なかったからです ほとんどの教えは 口伝えで 印刷は遅かったのです 人々は真似て そうして他の人に 伝えたのです 一部の人は文盲で 覚えるために誰かが 声に出し読み聞かせる 必要がありました だから 唱える必要があり 何度も 唱えて覚えるのです わかった後 もう唱える必要は ありません おそらく勉強を始めた 医師には 知らない処方が 沢山あって 覚えるために 真似る必要があります 学生みたいに 多くの事を 覚える必要があります 覚えたら もう復唱の必要は ありません

他の事を覚えるのを 始めます 私達が 何か覚えたいなら 何度か 復唱するだけです 暗記したら もう復唱する 必要はないのです 朝晩の詠唱は 毎日の修行では ありません 正しい方法は 早朝に 心から仏陀を 拝みます

道への切望とともに 全ての仏陀を拝みます 身体的に あるいは 視覚化で礼拝するのは それでいいです 両方OKです でも 私達は毎日 同じ行動や詠唱を してはいけません 仏陀は耳を傾けるのに 飽きるでしょう 仏陀は言います「私は 沢山の経典を有するが なぜ彼らは無視して これをいつも 詠唱し続けるのだ 沢山真言があるのに どうして 他のではなく これを唱え続けるのだ どういう意味だ」 仏陀は困るでしょう ここを見下ろし 人々がしている事が 分かりません

釈迦牟尼仏が 生きていた頃は 自分の弟子に 毎日同じものを 唱えよと教えてません 老子が生きていた時も 毎日同じものを 唱えよと 教えませんでした イエスキリストも 同じものを唱えるよう 教えていません でも私達の宗教の 創始者の意図を忘れた ことをしています それはすべて私達が 開悟してないからです 一度開悟すれば 私達の理解は異なり 仏陀の意図を 理解できます 私達に直接伝えます

マスター 永遠の命と生死からの 解脱との違いは 何でしょうか 違いはありません それらは同じです 永遠の命は 生死からの 解脱と同じことです ただ 霊修行者は 時々異なる表現方法を 用いるだけです 例えば先に私が 言及したように 老子は言いました 「万物は一つ」と イエスキリストもまた 「私達は皆神の子供達 である」と言いました 釈迦牟尼仏は「全ての 衆生に仏性がある」と 言っています 彼らは皆同じ事を 言っています

したがって解脱もまた 永遠の命と同じ意味 だと言えます 生死からの解脱とは 意味一切生まれる事 死ぬ事がないという 意味です お腹の中に入り生まれ 結局死んでいく事は もはやないのです 非常に痛ましい事です 不死の意味は二度と 死なないことです これは私達が 生と死から解脱すると いうのと同じことです マスター 私達はどう自身の 輪廻転生の 四生と六道から 完全に切り離され 解脱することが できるのでしょう

輪廻転生の 四生と六道から 解脱します でも私達は皆に 説明せねばなりません そうでなければ 彼らには全く 何が四生で六道なのか 輪廻転生の意味が 分かりません ここには誰も仏教徒は いません ある人は無宗教ですが 私達は 彼らも歓迎しています あなたに信じる 宗教がないなら 私達は自身の良心を 信じています それが信心でそのようなことです 四生の意味は この宇宙 この世には四つの 種の誕生があります 胎生 卵生 化生 湿生からの ものがいます 何が胎生でしょうか 例えば 人と動物は胚に 運び込まれて そこから生まれます これが胎生です 私達はまず胚に 入らねばなりません

私達は父と母の結合を 必要とします 胚の形成には 男性と女性が 必要です これが胎生です 卵生は卵から 生まれます 鶏 あひる等の 鳥類です 蛇も含まれます いわゆる卵生です まず卵で生まれ 時間が来ると孵化し 誕生します 卵は母鳥により または陰陽で暖められ 孵化されねば なりません しばらくして 卵は分割されて 新たな命が誕生します いわゆる卵生です 化生は胚または 卵を必要としません それは単独で変化し 誕生します いわゆる化生です

例えば蝶ですが それは元々 毛虫でした ある期間がたつと 蝶に姿を変えます これは自然に自分の 体から抜け出します これが化生です 母に体を与える事を 要求しません 変形を通して 新たな体に変わります これが化生です 「湿生」とは 何でしょう この種の命の繁殖は 湿気から発生します 例えばミミズは 湿気のある所から 繁殖します 分かりますか (はい) ひどく湿気た場所は 自然に多くのミミズ 昆虫がそこから 発生します あるいは生物形態が 自然に汚い場所から 発生してきます

これがいわゆる 「湿生」です 輪廻転生の 六道についてですが そこには 天道 人間道 修羅道 地獄道 飢餓道 畜生道があります 「天道」とは 何でしょうか 彼らは 天使 神です 私達は天国への 入り口は神によって 守られると聞きました 私達人間は神に 保護されています これらが神です 時々 私達が問題に 遭遇した時 神が来て 私達を助けてくれる または良いニュースを 知らせてくれます それらは神です 又はイエスキリストが 生まれる前に 天使達が多くの人々の 夢の中に現れて 啓示しました イエスが誰で彼の 両親には彼がどれほど 偉大かを知らせました 大勢が来てイエスを 敬い祈りました

これらは 天国の衆生です 天国の衆生は私達と どう違うのでしょうか 彼らはより美しく ずっと自由で 偉大な権威と 神通力を持ちます 彼らは自由に旅し 彼らが望み使命が あるなら天国へ行くか 地上に戻って 来られるのです

理由がなければここに 彼らは来られません ここに使命がある時 のみ来られます 遊びまわる事はできず 遊ぶと罰せられます しかし天国の衆生は霊修行はできません 開悟するマスターに なれません 彼らは最高の境界に 到達する偉大な智慧を 得ることができません 従って 彼らは人間よりも 自由で力強く見えます けれども彼らは人間 より崇高でもないです 人間は宇宙の中で 二番目に高い存在です 仏陀の次にです 人間は最も高く 天使よりも 高いのです よって天使は 人間を支援し人間を 尊重せねばなりません

これは天道です そういう理由で 私達は天国へ行ける ように天の衆生に祈る べきではありません そういう意味です 仏教では 輪廻転生の 四生と六道について 話をしていています それらは私達に 非常に痛ましく 短命で何も良い事は ないという事をです 天国の衆生になる ことさえ良くないと 次の「道」は 人間道です 私達の意味です 私達は「道」 人間道にいます 「道」は通りの意です この境界にいるなら 私達はこの道を歩き 人間の姿をして 生まれるのです 「道」の意味は 何でしょうか 歩く道または 追求する方法の事です

人間になりたいなら 何をすべきでしょうか 私がただ言うことは 私達は五つの戒律を 守り人間になるのです あなたが修行しなくても五つの戒律を 順守すべきです 「殺生しない」には 肉食をしない 飲酒 喫煙をしない賭け事を しない嘘を言わない 等が含まれます そして私達は再び 人間に転生でき 健康を楽しみ 裕福で 力強く人々に憧憬を 抱かせるでしょう これが人間道です 天道を歩くなら 私達はさらに戒律を 守るべきなのです 例えば他の人々を 中傷せず 私達は嘘を言わず 噂話を人々と 話さないことです 良い事も悪い事も 人間道よりも多くの 戒律を要求されます

それが天道です 仏教経典は この事を明確に 説明しています 繰り返しませんが あなたに人間道 天道を教えることは 私の責務ではないです あなたを仏土に上昇 する事を教えます それで私は 更に戒律と規則を あなたに求めます 高次の階級を学べば 学ぶほど 私達は 勤勉になるべきです 小学校は非常に容易で 高校でも まだ簡単です 大学を卒業するには 懸命に働くことを 私達に要求します 日夜懸命に 私達が勉学に よく励むことをです 懸命に働いた後 私達は将来まだ更に 学ばねばなりません

私達は卒業した後 引続き 勉強せねばなりません 良い医者 良い弁護士 または良い技術者に なるために したがって各々の方法 各々の法門は異なる ものを要求します だから私達の条件は むしろ厳しいです 肉食をせず 飲酒をせず うそをつかず 邪淫をせず 賭博もドラッグもせず これら皆許されません 私達は仏陀 菩薩になって 大衆を導くので 普通の人間がする これらをすることが できません 観音法門を修めている 人々は人間として 生まれ変わって来る 事に興味がありません たとえ戻って来ると しても人間としてで なく仏陀または 菩薩としてです

ですから同じではなく これは人道です すでに人道と天道に ついて話しました なら阿修羅道は どうでしょう それは より簡単です 五戒を守る必要は ありません 彼らはありとあらゆる 世間の楽しみを 享受して構いません 他人と対抗したり 戦ったり 他人を侮辱しても 構いません そしたら すぐに阿修羅の境界に 落ちます そこは敵意 そこは敵意 中傷と戦いの雰囲気に 満ちています だから 釈迦牟尼仏は 阿修羅の衆生は戦いが 専門だと言ったのです

戦うのが好きで 戦争を引き起す人は 阿修羅の領域に 落ちます だから阿修羅の衆生に なるのはとても簡単で 大部分の人がなれます では地獄に行きたい ならどうでしょう 地獄に行くのは もっと簡単です 他人を考慮する必要 ありません 隣人の物を盗んだり 隣人の妻と 関係を持っても 構いません 自分の所有物のように 他人の物を取ります 他人の命をアリの命の ように扱います なんでもありです そうなら地獄の衆生に なれます これら「偉大な英雄」は 何も気にしません 戒律や他人の財産など 気にしません 他人の夫や妻など 気にしません 他人の命など 気にしません

これが地獄行きの 道です 地獄に行きたかったら この道を修めます

じゃ 地獄での様子は どんなでしょう 何らガスストーブを 必要としません 毎日 焼き肉を楽しめます 自分の肉を何百万年も 焼くのを すべての悪い部分が 焼却され 癒やされ 回復するまで 焼かれます 体は浄化され 心口意が更生したら 人間か動物として 戻って来られるかも しれません 悪い部分は すべて焼却されました

彼らは火だけを 使うとは限りません 多くの効果的な 工具があります ここの私達のより もっと進歩しています 例えば ガスストーブの代りに 溶鉱炉を使います 温度は 何百万度にも 達します 私達のガスストーブは 百度にしか達さない 彼らのは何百万度に 達します あなたは想像できます いかにすべてが完全に 消えるまで燃やすか すべての悪いものは 焼却されます ここの火は悪いカルマ (報い)を 破壊できません それら邪悪な心を 焼却できません 溶鉱炉でだけしか できません 心や魂のどこかに 悪性ガンが あるとします 彼らはナイフを 使いません

彼らの工具は 非常に進歩しています レーザー光線を使う 何度も何度も切って 体は何百個にも切られ それから修繕されます 切られた部分を 繕うのに縫う必要なし 彼らは多くの進歩した 工具を使います この世には存在しない この世の最先進の 医者でさえ それらを知りません 最高の医者がいます 地獄の病院には 彼らは人間の体を 何百万個にも切り そして元通りに 縫うことができます 縫う速度はとても速く 見る間にくっつきます そしてまた切ります これは皆さんが 経典で読むように 地獄にいる人々が バラバラに切られ そくっつけられ また切られて くっつけられる方法 面白いですか いいえ

地獄道を 修めたいですか (いいえ) そうです 私も同意します そして 餓鬼は どうでしょう

餓鬼道は もっと簡単に 修められます それは多少 地獄道に似ていますが 倍も簡単です

それは簡単です 人々が苦しみ 災難と病気がある時 彼らを無視します 彼らの食物を盗み 奪い 暴行を加え 彼らをののしります

より激しい苦痛を 彼らに与えます そしたら死んだ後 きっと餓鬼になります そしたら私達は 毎日飢えます 食べたかったら 赤い 熱い鉄が あるだけです 飲みたかったら 溶けた銅を飲みます このように 生きて行きます 腹はとても大きくなり 喉はとても狭い 飢えを満たす方法が ありません 何百年も何千年も 毎日飢えます 悪いカルマ(報い)と 罪の重さによります これが餓鬼道です これら悪徳の法門を 教えたくないので そのように速く 言い終えます 最後に 畜生道です それも非常に 修め易いです 私達の人生で 悪人として生きます

私達は動物のように ふるまいます 同じ 種類の行動と思考法で 後で死んだ時 私達は動物になります 動物と類似して いますから 類似しているものに 私達はなります

老子は何か言いました 人間が天に 行きたいなら 天人になる 私達が地に 行きたいなら 地球人になると それが彼の意味です 天の法門を修めたら 私達は天人になり 仏陀の法門を修め 彼の道徳的な 教えに従ったら 仏陀になります 餓鬼 地獄の衆生 或いは地球人の法門を 修めたら その種の衆生になります そんなふうです 老子の意味も 同じです ですからこの 「四生」「六道」から 解脱するのは 簡単ではありません 天人になるには 十戒を守るだけです

しかし天人になった後 戻って来なければ なりません 私達の福報が 使い果たされた時 人間は百年の 寿命しかないので 多くの福報を稼ぐ事が できません 福報が生じると 同時に また世界に借りができ 悪いカルマ(報い)を招きます 私達を救い  悪いカルマ(報い)を 完全に浄化する この無上で 最高の力なしでは 私達の罪の記録は 決して消去できず 決して十分な福報を 稼げません だから私達は やはり観音法門を 修めるべきです それは最高です マスター 彼も知りたいです

「四生」と「六道」も この物質界に 存在していますか と はい そして いいえ 「はい」と言うのは 私達は 「四生」と「六道」を この世で 経験できるからです ノーと言うのは この世で私達は 「四生」と「六道」から 解脱できるからです それは私達の心 智慧と何をしたいかに よります この世界で私達は 何でも経験できます

マスター 臨終の時 何が起りますか 観音法門を 修めている人と 修めていない人に 観音法門を 修行する人は 死ぬ時 仏陀が迎えにきます 死ぬ前に彼らは死ぬ 事を事前に分かります 死ぬ数日前 または数週間前 マスターが来て 知らせます 観音法門を 修行しない人が 修行しない人が ある偉大な パワーを持った人に 出会った場合 彼らは天国か 高いレベルの境界に いくことができます そうでない場合 悪いカルマ(報い)と 福報次第です カルマ(報い)の方が 重いと地獄に行き 福報が多いと 天国に行きます

しかしこれらは皆 一時的です 地獄も 天国も永遠では ありません 人間に戻るか 六度輪廻の中を くるくると 回ります 観音法門を 修行すると 私達は永遠に 生死や 六度輪廻をしません 人間に戻って 衆生を助けたいと 願をかけない限り 戻って来ません 戻って来ません そうでないと 決して私達は 戻ってきて 生死を体験したり 六度輪廻の中の 衆生になったり することはありません 永遠に 仏陀の国で 幸せに過ごします マスター永遠に 生きるためには先ず 肉体を捨てなければ なりませんか だとするとどんな体で 不滅を楽しみましか 元々 この肉体は 一時的な道具であって 無視していいのです

私達には色々な形態の 体を持っています 肉体がなくても 永遠の命を 楽しむことができます 永遠の命を 得てから 私達はいつでも欲しい 体を使う事ができます 例えば一つ下の レベルに降りて行くと 無形の透明な体を 使用できます もう一つと 降りていくと密度の ある体を使います もう一つ降りていくと 更に密度の濃い 体を使います 人間のレベルだと 更に密度の濃い体を 使います 今私達が 着ている体です 私達は物質の世界に いるからです たとえ仏陀や 菩薩 天使が ここに来るとしても 肉体がないと 人々は見えません

それにこの 物質世界の振動力は 粗過ぎて 敏感で繊細な マスターの魂を 圧迫します ですからここでは よく包んで守らねば なりません また人がいつも 私達を見て私達と 交流できるように しなければなりません 彼らと同じく見えると 私達が何を言っている のか分かるのです 私が仏陀だとします 仮にです 私が この「服」を着ないで ここに降りて来たと すると皆はどうやって 私の話を聴きますか そして私が 仏陀の言葉で話を すると皆はどうやって 理解しますか 仏陀は言葉を 必要としません

彼がここに来た時 見る事もできずそれに 何も言わないとしたら 今日の経の講義は 要らないですね 皆さんはここに来て 何もないステージと いくつのお花と マイク二つだけ見えて ここに座っている人は 誰もいなく 人の話し声も ないでしょう 禅は言葉を必要と しないからと言って これでいいでしょうか (いいえ) そのとおりです マスター 天地創造の 根源のパワー以外に 別の更に高い パワーが存在しますか はい 非創造パワーという ものがあります この絶対的なパワーは 決して創造しません

良くも悪くもなく 決して 誰かを構ったり 愛したり 憎んだりもせず 何も創造しません 創造のパワーは ここから生まれました そこで私達は陰と陽が あると聞いています 陽は 絶対的なパワーで 決して動きません 生死もなく 創造も 破壊もされません 創造のパワーは 創造も破壊もします しかしこの 創造のパワーがないと 私達は生まれもせず 死ぬこともなく 宇宙も存在しません

そこでこういう 事を耳にします 「道は 言葉では表せない」 「道が存在する としたらそれは 万物の母なるもの」で 存在する前は 絶対的な「道」です 存在してから 万物の母になり そして私達は 陰も陽も持ちます これは「男性」と 「女性」をも意味します

または「父」と 「息子」 「神と 神の子」も意味します いいですか これがその意味です それから 聖霊と 三位一体があります 実際これは一つです

仏教でも これを 三身仏といいます これと同じです マスター  法華経に妙なる音と 世俗の音に 言及していて 海潮の音は 世俗の音に勝る とあります 海潮の音とは 何ですか ここ澎湖は海に 囲まれていますが

波の音のことですか だとするとなぜ私は 悟りが開きませんか 一番いい質問です 観音法門を 修行して始めて この海潮音は何かが 本当に分かります この海潮音は 内面の音です この内面の潮の音こそ 私達に悟りを 開いてくれます そうでなければ全ての 澎湖の人がとっくに 悟りを開いたでしょう

これは世俗の音に 勝る音で この世界の潮の音では ありません その音は この世界を超えた音で これが 法華経で 言及した 本当の潮の音です 私達の修行仲間は 皆これを知っています そうですね(はい)

あなたはこの音を 聞きましたか(はい)

あなたが望むとしたら 私はこの潮の音を 聞かせる事ができます 今はではないです 今は時間が足りません 印心の時 観音法門を 伝授する時 あなたは即座に その潮の音を 体験できます その音を超えて 更に高い音に 至ることです この潮の音は最高の 音ではありません

最高境地ではないです マスター 六祖壇経と 般若波羅蜜多心経が 伝える思想は 何ですか それらは 観音法門と どう違いますか 何も違いません 皆同じことを 言っています 観音法門を 修行することで 般若波羅蜜多が 大智慧を意味している ことがわかります 観音法門は 大智慧を つまり般若波羅蜜多を 修行する法門です この修行を通して 智慧が発展し そしてはじめて 色即是空 空即是色の 意味が分かります

ただ言葉だけの ものではありません 色即是空だなんて 何でもないはずは ありません 人に 打たれると痛いのです 何でもなくはないです

もし色即是空なら なぜ花は依然 花なのでしょうか 何でもないでしょうか 霊修行をすると 時々私達は 本当に何も見えなく なることがあります 本当に何もないです 花は花でなく 人間は人間でなく そのときこそ 色即是空 空即是色を理解する ことができ その時始めて 般若波羅蜜多の意味が 分かります 六祖壇経の中に 般若波羅蜜多法 または無相法について 言及しています 「無相法」とは 目に見える明確な法は ないということです しかし私達には 法門があります

無相法は決して 法がなく 法を 必要としないという 意味ではありません だとするとなぜ 彼は十六年も修行 したのでしょうか またなぜ大きな 苦しみを堪え忍び ながら人に法を 伝授したのでしょうか それが無相法だと するとなぜ 彼のマスターが 彼に法を伝授した時 全ての寺院に反対され 全中国に衝撃を 与えたのでしょうか なぜ北と南で 誰が最高の マスターかを めぐって論争が 起きたのでしょうか 相こそないものの 法は確かにあります 無相というのは それは私達が 目や耳 手で感じる ことができなく 言葉で表現できない からです

しかし私達の智慧は それを認知でき 私達は悟りを得て それを理解し 認知します ですから 法門は確かにあります 形はないですが 法はあります 無相の法です こういう意味です 般若波羅蜜多 心経と六祖壇経は 同じ事を 言っています これは私が教えている 観音法門とも 同じです

おやすみなさい 有難うございました 皆様の熱烈な ご応援に感謝します

澎湖の皆さん 印心を受けた人 まだ受けていない人 将来の印心者 過去の 印心者に感謝します
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