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聖ベルナデッタの物語 1/2 一九八八年十二月一日フォルモサ(台湾)屏東(台湾語)(中国語)    
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フォルモサ(台湾)の 人々には福報があり 加護と熱望と誠実さが あります ある日私は 在家の弟子と 生地を買いに 街へ出かけました 店に着いて 私達が生地を 購入する前に 店主が霊修行について 話していました 店主には一人 七~八歳くらいの 子供がいました とにかく八歳以上では ないようでした 彼は母に「ママ パパが今朝また仏陀を 見たって言ったよ」 父親はこんな風に 彼が寺院へ行き またどのように仏陀を 見たかついて気楽に 話をしたのです

「それに今日は 菩薩も見たんだよ」 子供は言いました 私はその子に 「なぜそれが菩薩だと 分かったの」と 尋ねました 「パパみたいだったの パパを見たら分かった でも説明できない」 それで私は彼の父 店主に尋ねました 「どうやって 仏陀を見ましたか」 単なる会話です ただ何とはなしに する世間話です その人は言いました 「何でもないことです 私の師の寺院へ行き 暫く瞑想をすると 幾らか映像が見られる という訳です」 私は彼に「その師の 寺院はどこですか」と 尋ね 彼はどこそこの 場所だと答えました 私はその場所の名を 覚えてはいませんが また彼に「その師とは 誰ですか」と尋ねると 彼は「広欽老和尚です」 と言いました 私は「もちろん 彼はこの世を去って しまって残念です」と 言いました それで私は他のことを 話しました

彼に「広欽老和尚には 多くの弟子がいます 沢山の 良い弟子に 会いましたよ 皆良い人たちで 素晴らしく親切で 霊修行においてとても 誠心誠意です」と 私は彼に言いましたし 本当に思ったのです 多くの修行仲間は 広欽老和尚の 生徒でした 彼らは とても良い人たちです とても親切で 熱心で 信仰心が 厚いのです 私達は更に霊修行に ついても話しました 今日霊修行については 非常にオープンです 釈迦牟尼仏が存命中 人々は内面の体験を 気軽に話し合うことは できませんでした

容易に布屋の店頭で 話すようにはいかない 昨今は子供でさえ 話すことができます 昔は 霊修行とは 非常に神秘的で 信じがたく 非常に 秘められたものでした ですから 蓮華経で 釈迦牟尼仏は 生きた観音菩薩に ついて 観音法門の 修行者についての 体験を話していますが 弟子にはこの経典を 他者に見せないように と話しました 気楽にこの情報を 他者に与えることは できませんでした 言いませんでしたか 知っていますか 知らない(知ってます) ええ 知らなくても 構いません 仏教徒でない人々も いますがそれは仏陀の 子供達ではないという 意味ではありません

私達は皆仏陀の子供で 私達が何を信じようと 信じまいと それでも彼は私達を 愛し保護してくれます 西洋 フランスでも 約一世紀前は 霊修行についてあマリア オープンではなく 例えばカトリック教徒 なら皆ベルナデッタの 話を知っています お教えしますか(はい) ベルナデッタは カトリック教徒の 貧しい家庭に 生まれました 彼女の家族は非常に 貧しく時には 子供達のパンにも 事欠くほどでした 長女の名前は ベルナデッタといい 彼女は自分のパンを 少し隠し取っておいて 弟にあげました弟は 食べることが好きで 他の者より沢山食べた からです

十分食べる 物がないと 彼は教会へ行き食べる ために ろうそくを 盗んで来るのでした ろうそく 分りますか ろうそくを食べました それ程まで範囲を越え 空腹だったのです でも家族は神を信じ 善良で 高潔な人々でした ベルナデッタが有名に なった後も多くの 人々が彼ら家族に 贈り物を施しましたが それらを拒否しました 彼らは潔癖で 政府の高官と同じ位 潔癖だったのです ベルナデッタは貧しい ながら愛は偉大でした 彼女はそれほど 賢くはなく 文盲で経典を 聖書を 暗誦することもできず 人々は彼女を 笑いものにしました

子供達でさえ経典を 暗唱できたのに彼女は 成長した後もいまだに できませんでした でもある日 洞窟に薪を拾いに 行った時 彼女は突然 美しい音楽を聴き 突然音の風を 耳にしたのです そこには風が吹いては いなかったのにどうやって聞いたのか 彼女は単なる空耳に 違いないと思いました でも再び美しい音楽を 聴いたのです そして彼女はマリアを 聖母マリアを見ました ご存知ですか ええ 知っていますね 知らなければ 説明しましょう マリアはイエス キリストの生母です 聖霊によって彼女は 妊娠したと言われて います 夫によりでは なく それで彼女は 聖母と呼ばれています

マリアは遠い昔に 地球を去りました 約二千年前ですが ベルナデッタはその日 彼女を見たのです それが聖母マリアだと 知りませんでした 大昔に既に亡くなった 女性ですから どんな見かけか 誰に分かるでしょう でも彼女はまるで 昔の古い写真のような 人でベルナデッタは 後で知ったのです マリアを見た後彼女は 完全に変わりました 病気は治りました その日たまたまひどく 具合が悪かったのです でもマリアの啓示を 見た後 その同じ日に彼女の 病気は治りました

彼女は二人の弟妹に 聞きました 「今何か見た」 二人とも見ていないと 言いました 彼らはベルナデッタが 恍惚として跪く姿しか 見なかったのです 彼らは彼女を数回 呼びましたがその声は 聞こえませんでした 仏教伝統のいわゆる 「サマディー」です カトリックでは 何と呼びますか 聖霊に満たされる 聖書にはこう 記されています その時彼女の耳には 兄弟が呼ぶその声は 聞こえませんでした 彼らは大声で二、三回 呼びましたが彼女には 聞こえませんでした その後彼女は起上がり病気はなくなりました 彼女は早く走れました

最初は 彼女は病気で 弱っていましたが その日その後は早く 走ることができました 皆が驚きました いつもパンを盗む 弟が尋ねました 「今何を見たの」 ベルナデッタは最初 教えたくなかったけど 弟がしつこく聞くので 彼女は言いました 「分かったわ 教えるわ でも誰にも 話してはだめよ」 それで彼女は二人に 「私はたった今 美しい女性を見たの 素晴らしく 美しく 輝いていたわ」 しかし二人とも彼女を 信じませんでした 彼らは家路に着くと 母親に話しました それで問題が 始まったのです

彼ら自身が信用しない のは構いませんが 他の者に様々なことを 吹聴してしまい 問題が起こったのです 母はベルナデッタを 打って言いました 「おまえは空想をして 何か悪霊に 取り付かれたんだ もうそこへ行っては ならないよ」 はい いいでしょう 小人数の家族が 知るなら良いですが でも後で子供達は 村全体に吹聴し 引っ掻き回しました 外の人々に話して 多くの人々が彼女を 中傷し始めました ベルナデッタに汚い 言葉を浴びせました

彼女を殴る者もいて 彼女に通りに 来るように言い 彼女を殴るのです 霊修行が以前それほど 容易でなかったことが 分かりますね 誰も彼女を信じません どうしてこんなに 貧しく 文盲の少女が 聖霊や聖母マリアを 見られるのか 意味が分かりますか あなたが凡夫だったと して 貧困で 文盲だったとします 偉大な慈悲のある 真言を暗誦することも できません 例えばこのようです しかしあなたが 観音菩薩を見たと 何か言ったとしたら 人々はあなたのことを 信じないでしょう 今日でも同じです

それで私は皆さんに 他者に観音法門の 修行を通じての 体験を言わないように 忠告するのです それが一つ目の理由で それだけではないです しかし重要です 私達の体験を 同様にした事がない 人々は そんなに簡単に 私達の内面の体験を 信じられません 私達が見たもの 知ったものです 後にベルナデッタは 多くの人から虐待され 彼らは 彼女が疲れきるまで 質問攻めにします 彼女は質問攻めに あうとそこに立った まま話せなくなります 彼女は同じ事を何度も 復唱するだけです

人々は彼女が有名に なり利益を得たいが為 嘘をついていると 発見したいだけです 彼女はこれほど憐れで 純粋な少女でした どうして彼女が高名や 利益を求め得ますか ですが人々はまだ 彼女を疑っていました 卒倒する寸前まで 彼らは彼女を 質問攻めにしたのです 彼女を脅かす人々も いました 彼らは言いました 「お前が何かを見たと 言うなら これこれが お前の身の上に 起こるに違いない だから何も見なかった という方がいい そうしないとお前には これこれの良い事を してやろう」 ある人々は彼女を 買収しようとしまた

他の人々は脅すのです しかし彼女は見たと 固執して自分の言葉を 変えませんでした 後に徐々に明白になり 多くの人々が 彼女が本当に見た事を 知ったのです

ルルドという場所は 非常に有名になり 後には皇帝の子息も そこを訪れ 水を飲み その病気を 治したそうです それが有名になった 理由です 後に ベルナデッタについて 誤解は消えて なくなりました けれどもこの事は 多くの問題を彼女にも 家族にも与えました これは嵐のような 出来事であり 皆その 事で疲れ果てました 一日中人々はやって 来ては疑問を 尋ねては邪魔します やってくる人々は 問題を起こします 彼らは祝福のために やって来るのです 最後には物事は 明らかになり 皆が彼女を認め 王さえも 牧師 尼僧も皆 彼女を認めました そして多くの人々が やって来て願いを言い または彼女に加護して もらおうと牧師 尼僧 カトリックの 高い階級の者達も やってきます

今ではフォルモサ (台湾)ではオープンに 霊修行ができます それで私達は 生きた観音菩薩を見た ことを聞けるのです 私達の修行仲間の 一人でやはりマリアを 見た人がいます 簡単です ベルナデッタは有名に なった後 外出する時変装せねば なりませんでした 以前と同じ衣服を 着る勇気はなくなり それでもなお 人々には彼女が分かり 認識されてしまいます 彼女の衣服は 細切れに引き裂かれ 人々は崇拝のために 持って帰りました たぶんそうしました ちぎれた衣服を 持ち帰り加護や お土産としてです

それで私は 皆さんに霊修行からの 体験を他言しない ように忠告するのです その上私達を この事で傲慢になり 興奮しすぎることから 自らを保護します これは霊修行において 私達を 妨害するでしょうから ベルナデッタの話は 天国の手配です それは人々に 真の聖霊による体験を 知らせるためだったと いうわけです この世界は物質的な 事柄で成り立ってなく 精神的な局面では 私達には説明不可能で 言語では表しきれず 科学でも証明できない 事柄があるのです

科学がどんなに 進んでもまだ掘り下げ 物質的な境界において 目には見えない世界に 入ることができません それで現代の科学者は 月やある惑星へ 行けるのです でも彼らは何も 持ち帰ることはできず そこにある種の生物は 見られないのです 私達が霊体を使い 私達の智慧で そこへ行くなら そこの衆生を見る ことができますが 物質的な手段を通して はっきり見えません 現代誰もがUFOを 知っていますね でも彼らがどこから 来るか どんな材料を 用い 空飛ぶ円盤が 作られているのか なぜそれほど早く飛べ 頑丈で信じがたいのか 誰も知りません

普通の科学者でも 空飛ぶ円盤を作れます でもそれほど 速くは飛べません 私達の空飛ぶ円盤が それ程速く飛んだと したら 空気抵抗で 破裂するでしょう UFOの速さのもの には追いついてなく それにどんな種の 金属を 使用しているか UFOの内外の構造に おいてです この種の金属はここで 未発見のものです それらは高次の衆生 からのダイヤモンド 金 他の種の宝石に より製造されています ここでこの種の水晶は 見つけられません 水晶 金 ダイヤモンド 混合の新たな金属に 形成しています 見るだけで 分かるでしょうが 霊修行を通して 分かるのです

肉眼では水晶から できていることは 分かりません そこの水晶は ここの水晶とは 異なります 私達の水晶なら 道具で連打すると 砕けてしまいます 役立ちません そして一つのUFOを 空飛ぶ円盤を巨大な 乗り物を作るに十分な 水晶を持ち合わせては いません この世界を 超越できるほどのです この世界では飛行機は 飛ばせますが これらはこの世を 超越しています 御覧なさい 科学でさえこの宇宙の 多くの現象について 説明できないのです ベルナデッタの死後 上昇した彼女の体は 腐敗せず残り 退化しませんでした

フォルモサ(台湾)では 仏教の慣例を 覚えています 二人の菩薩がいて 体が腐敗する事なく 退化せずに残されて いたのです 皆 知っています 何という名でしたか 慈航と清厳でした そうですよね 慈航菩薩と 清厳菩薩 両者とも仏教の マスターでアジアの フォルモサ(台湾) 出身です ベルナデッタは西洋 カトリック教徒の 尼僧です なぜ三者とも同様に 腐敗しない肉体 不可思議な現象を 表している のでしょうか 知っていますか

真理は一つだけです 真理は一つだけ ええ どのドアを開いても 一つの 真理に たどり着くでしょう ドアが二つ 三つ四つあったとして あのドアから来ても 良いし このドアから 来ても良いですが 最終的に 皆 そこにたどり着きます だから私がどこへ 行っても その五つの 宗教は一つだと 私は主張し 皆同じ 事を話しているのです 古代からの その宗教を 見つけた人の案内に 従えば 少なくとも 基本のところに 達するでしょう 分かりますか 少なくとも  私達は親切で  純粋な人になり  この世界を越えた  経験をするでしょう 違いますか

ベルナデッタが マリアを見たとき  彼女はこの世界を 超越した風の音と 音楽を聞いたのです 彼女の弟妹は 聞こえませんし 見えませんでした 彼女だけでした なぜ彼女なのか 私達は聞きました その音楽と 風の音は さっきお話した 「内面の音」は 観音修行者に そう呼ばれます 観音修行者は 彼女と同じ体験を しています 彼女が体験したのは 私達が 知っているものですが すべてではありません

沢山の 異なる音と音楽があり 私達の霊体を この世界から 引き出しているのです 私達の肉体は まだここにあっても 霊体は 肉体とは 無関係で 他の領域に他の世界に 達することができ それは全く 私達の世界とは 違うのです だから 私達は戻って 他の人に言っても 誰にも分りません 誰も理解せず 信じてくれません その時 多くの人が ベルナデッタに聞き 「なぜマリアはお前の 前に現れたのか」 「なぜ王様には彼女が 見えないのか」 「その牧師と 尼僧は高い地位にあり よく学んでいて  信心深くて 長い間 修行をしているのに なぜ彼女が見えなくて お前だけしか 見えないのか」 「なぜ貧しい 羊飼いの女の子に 見えるのか」 彼女は「それは恐らく 私はマリアのように 貧しかったので 彼女が選んだのです」

マリアとイエスは 貧しかったのです 覚えていますか イエスは裕福な家庭に 生まれていません でも貧しい人だけが 聖なる体験が できるとは限りません 例えば 釈迦牟尼仏は 王家の宮殿の 出身で ムハンマド イスラム教の創始者は 裕福な女性と結婚し 家族は裕福でした 仏教の伝統では 唯摩と呼ばれる 年長者は 裕福で有力でした 彼もまた 精霊を体験し 「タオ」に達し 仏性に達しています 異なった宗教が 異なる事を教えますが それは一つのことを 指していて 内面の無限な力 全能の力なのです それが自身のマスター 私達の本性なのです

それを神やタオと または仏性と 呼ぶのは構いません 彼は同じ人で 同じ力を持っています 聖書には「裕福な人は 天国に行くのが 難しい」とあります 他のところでは 「貧しい人は純粋で 神が彼らを祝福し 愛するだろう」 とあります 私達はこう尋ねます 「愛しているなら 神はなぜ彼らを裕福に しないのですか」と そうではありません その理由を立証する ことは不可能です 神がいるとして なぜ 皆を平等に しないのですか

多くが私に尋ねます 「なぜ神は沢山の 問題を作るのですか 悪い人 良い人 貧しい人 裕福な人 なぜ 神は天国を 造らないのか それで  皆が幸せになるのに」 同じ質問は ありますか (はい)いますね 同じ質問です 理由を知っていますか 私達の智慧がまだ 開かれていないからで 私達は識別しています 良い事と悪い事の 識別です 満足していなからです これがあって あれが欲しくて これを得たら 他を欲しがるので 決して満足しません 何が本当に良くて 悪いのか分かりません

ベルナデッタは 聖霊を経験したのは 癒しの能力が 与えられたからです 彼女が盲目の子を抱き キスをしたとき その子は見えました 人を意図的に癒そうと していないからです 彼を可哀想に思い 彼を抱いて  それで彼の病気は すぐに治ったのです その子は十年以上 病気でした そのような実例は 沢山あります ルルドの水は沢山の 患者を治しました それで有名に なったのです でも彼女は自分の 病気を治せません ベルナデッタは喘息で 病気は治りません

牧師は尋ねました 「そのような治癒の 力があり ルルドの水で多くの 患者が治ったのに なぜ自分の病気を 治せないか」と 彼女には分かりません 恐らく彼女が 耐えなければならない 苦しみなのです 彼らは尋ねました 「なぜ苦痛に耐える 必要があるのか なぜマリアはあなたを 治さないのか」 彼女は「神だけが 知っています」 神が理由を知ってます 彼女の言葉は 簡素ですが 私達には 何十年も 何百年も 何億年もかかって そのような高い レベルに達せるのです 人並みではありません

これが 「不満のない」境界で 老子が説明したのと 同じレベルです 「天下に元々 何事もなし」 そのレベルで すべてを受け入れます それを「気付くこと なしで耐えられる」と 私達はそう呼びます 「気付かずに耐える」 を私達が得たら 何も知らずに 何でも耐えることが できるのです 私達のこの耐久力は 当たり前のように 受け取ります 私達はどんな状況でも 受け入れます  神が与え 仏陀が 手配したからです そこに到達すれば 私達は満足し 確信し 幸福で自由になります

何にも動揺させません 誰かが中傷しても 私達は傷つかず 誰かが褒めても 傲慢に感じません 簡単のようですが 簡単ではありません ベルナデッタは カトリックでしたが 彼女は 慈航法師と清厳法師と 同レベルに 達したのです 私達はただ 外面の身体の ことだけを観察して 話しています 内面については 議論していません 彼らの人生哲学は 話す必要ありません どの宗教でも 良い霊修行者を 生み出せるのだと 証明できます 純粋な人は道に 達することができます

最も重要なのは 純粋な心で 差別心を 持たず  幸福と苦痛を 区別しないことです 僧燦禅師 僧燦禅師 三代目の開祖もまた 差別的な心を持っては 道を得るのは 難しいと言います 彼の言う意味は 差別をしない人 純粋で満足した 心を持てば 簡単に 道を見つけられます 老子は 私達は 子供に戻り  道に達するためには 子供のように なるべきだと言います イエスキリストもまた 純真な子供になれば 神の王国に 達することができると 言いました これは仏教と 道教は同じ教えだと いうことです

イスラム教の教えも 同じです イスラム教は人を評価 してはいけないと信じ でもそれは これはそうあるべき 神の意志なのです 同じです 同じ意味です 私達は子供になるべき 他人を批判しては 行けないのです それは同じですか 同意しますか(はい) 良いです では開悟しました ですから 私は決して 宗教に対して 区別をしません すべての宗教は 同じ事を教えています 信者の理解が 異なっているので それが問題を起こす 原因なのです その人の外観だけで 霊的なレベルを 判断してはいけません

その人の洋服や 宗教を見て 判断してはいけません 代わりに  その人の教えや その知識 その理解  そして寛大さをみて 判断すべきなのです そしたらその人の レベルが分かります その人が特定の 場所に留まり  主張すれば最高ですが 彼はまだ差別的で 「差別心がない」 所に達して いなければならないと 僧燦は言います 彼は「天下に元々 何事もなし」という レベルに達してないと 老子は言います

イエスキリストに よるとまだ子供の 心に達していないです ベルナデッタは 貧しかったのですが  神は彼女を愛し  マリアが彼女を愛し  彼らが聖霊授けるのは 彼女が貧しいから ではありません 彼女の心がとても 純粋だったからです 世界にとって 彼女は輝いてはなく 批判的な目で見れば 彼女は輝いてはなく 教養的な目で見れば 彼女は輝いてはなく なぜなら聖書の 短い一節さえ 覚えられなかった 昔 私は 楞厳マントラが 覚えられませんでした 楞厳マントラ以外は どれでも 覚えられたのです

長過ぎるからです 楞厳マントラは 知っていますか 何千もの 言葉が並んでいます 歯を磨きに行く時 私は 楞厳マントラを持って 読んでいます 歯医者が私の歯を 削っている間 私は楞厳マントラを 読んでいます 彼は「一分でも 良いから本を 置けないですか」と 私は「できません 暗記しないと」 彼はこっち側を 削っていて 私は 反対で読んでいました 彼があっちを 削っていたら 私はこっちに戻します 彼は驚いて 聞きました「いつも 持ってないといけない ものとは何ですか」 私は「これは仏教の マントラです とても重要です 覚えなければ 解脱できません」

その当時は  とても心配でした それを覚えなければ 尼僧になれないと 思ったからです 私はベルナデッタの 状況に同感しました 彼女は聖書を 暗記できなかったけど 聖霊を体験した後 彼女は 雄弁に話しました 彼女は牧師たちと 明確な論理について 討論したら それで彼女を称賛し  自由にさせ  彼女が精霊を体験した のだと信じられました それは彼女が 以前と違って 普通に話せて 偉大な 智慧があるからです しかし彼女の智慧は 外部の知識とは 違うのです そのようなレベルは 学校に通ったり この世界のことを 学んだことでは 取得できません

彼女は知っています 彼女は心から 確信があり 誰に言われても 動揺しないことをです 私達観音修行者と 同じです 私達修行者は人々と 議論するのが 好きではありません 本当のところ 修行すればするほど 議論は減ります しかし議論する 時になれば 私達にはできます 状況とその人次第です ある人は筋が 通っていませんので 私達は頭を振って 言います 「阿弥陀仏」 違いますか いいです ですから状況を見る 必要があります マスター 私の家の 近くに八万ワットの 発電機があります 私が瞑想をすると 影響しますか

いいえ しません 悩みがあるなら 聞いて下さい マスター 感情や 物質的な欲望を捨て それらに 邪魔されない 方法はありますか 解決法は簡単です 結婚するのです 霊修行の視点で 説明する 必要はありません 若者はエネルギーが あり 欲望が もっとあります 年を取っていくと それ自身がなくなる これが修行の 最初の方法です 二つ目の修行は 観音法門です 内面的に もっと役立ちます 外面的な治療は 少しの間しか 効きません ですから殆どの人は 自分の強欲と 嫌悪 そして無知を 減らせません それは外面的な薬を 使っているからで でも続けても良いです

例えば 何かの 欠点 例えば人に 親切ではなかったり 慈悲深くなかったり 他人を愛せなかったり と欠点があることを 知ると 自分の 考えを変えて 変わるのです ですから毎月 一日 どの日でも 二日でも 専念すれば  霊修行が毎日 できなくても 月に 一、二回専念すれば 最初の日と十五日目に ベジタリアンになり 良いことをしたり 布施をして  皆を愛せば 良いのです それらの日に 私達は修行したり 嘘をつかず 殺生せず 盗みをせず 邪淫せず 飲酒や賭け事は しません 不道徳なことや 不法なことは 一切控えます 月に一度だけ これを修行します

一度修行をすれば もう一日追加します その日 私達は嘘をつかない とか 人を傷つけず 愛するのだと決めます 古代の聖者が記した 古典的な経典を 読むよう決めます 分かりますか 例えば道教が好きなら 道教の経典を 読むでしょうし カトリックを 信じるのなら 聖書を読み 神に祈るはずです 仏教を信じる 仏教徒なら 金剛教や 菩薩の経典などを 読んで 自分自身に 人間の道徳的行いを 思い出させるはずです 例えばそんな感じです 一貫道を 信じるのなら もう一度一貫道で 教わった道徳的規則を 読むのです

私達はその日に読むと 決めて ただ読むだけでなく 同様に実行するのです また私達が 儒家に属すなら 仁 義 礼 智 信 といった 孔子の教えを 読むでしょう 荘子の道徳同様に 孔子の話も 読むべきです 古い時代の 人々の振舞い方を 学ぶのだと決めます こうして私達は 孔子や道家 仏教徒 カトリック信者の 真の生徒になるのです 私達はお寺や教会に 行けないので 経典を読んで そのすべてを 神に返します それは無益な方法です 代わりに私達は 月に一度 愛と慈悲を修行し 古の聖人の教えを 学ぶのです 月に一度出来たら すでに大変良いです

後に二日増やし それ以上でもなお良く 週に一度増やします その日 私達は 良い事すべてをして 一切の悪行を 控えます 経典を読んで 適当な服を着ます 厳然と振る舞い 人々の注意を引いたり 人々の注意を引いたり 誘惑するような 服は着ません 私達は 昔の霊修行者みたいに 完璧に威厳があります 後に週に一度 増やします このように毎日 実行するのが最良です 出家者になるために 家を出る目的は こうして毎日 修行するためです でも簡単にできません

週に一度 最善を尽くしてみて 少なくても一日 すべてを手放します 霊修行を するために この世での あらゆる責任と 物事をすべて手放して 自分の宗教の 創始者の名前を 唱えます 自分が信じている人の 名を唱えられます 例えば 浄土を信じているなら その日は心から 阿弥陀仏を唱え 完全に信じます 心から阿弥陀仏と 繋がるよう 試みます カトリック教徒なら その日は心から 神を思い 神に祈ります イエスキリストや マリア 聖ヨセフ 聖フランシスコなどの 名前を唱えます 自分達が聖霊に近づく のを彼らが助けるよう 救うように祈ります こんな感じです

イスラム教などの 他の宗教を信じるなら ムハンマドの名を 唱えるのです 孔子の哲学を 信じるなら 自分達の孔子の方法を 修行します 道教を信じるなら 道教の方法を 修行します 週に一度 既に良い結果を もたらすでしょう ご自宅で試して下さい より良い結果を お望みなら 私と一緒に毎日 観音訪問を修行する のを学べます 寺院の住職が 高潔ではないなら 仏陀の存在に 影響しますか いいえ影響しません 仏陀はその僧侶には 頼らないからです 住職に頼って 存在していません 自ら存在します

マスター 観音法門は 自身を得るのを助ける 最高の法門です 観音法門を 修行することは 人間の人生の 究極の目標ですか そうです すべての 経典がそう書いてます 先に触れた ベルナデッタですら 聖霊を体験するために 内なる音を 得ました あなたが私と共に 学ばず 自分自身で 内なる音を得るなら あなたも 同様に開悟し 同様に 観音法門を 修行しています 観音法門は 私からではなく 私達の内から現れます 自身で見つけられない 私は早く見つける 方法を知っています そういうことです

分かりますか 私達は 観音法門の修行を 通して内なる音を 得るべきです 私達は自身の 真我を知った時だけ 解脱できます 私達は言葉を使う 必要があるのでそれを 「法門」と呼びます だから私達はそれを 「観音法門」と言います ですが 必ずしも 「法門」ではありません 一種の「ノウハウ」で やり方を知ること 自身の力の開け方 内なる振動と音に 繋がる方法を知り そうして 私達は解脱します これが 観音法門です 時々自分自身で 音が聞こえますが 開悟した マスターなしでは 失い易く レベルはあまり 高くありません ある音を聞く時は 自分のレベルは 分かりません どんな音が良くて どんな音が悪いかは 言えません だから私達は 学んでマスターした 人が必要なのです 私達はその人物を 開悟したマスターとか 仏陀と呼びます 不思議ではありません

気食者クラブ 彼らは不食で生きます ある人は六カ月 ある人は五十年以上も 彼らは気 日光 水 または宇宙の エネルギーで生きます 気食 日光食 水食 プラーナ食の 人々を紹介します
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