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内面の真我を見つめる 2/3 一九九三年三月十六日台湾、フォルモサ(台湾)(中国語)    
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ただ今 心からの拍手で マスターを お招きしましょう ありがとうございます ありがとう 皆さん

仏教の 伝統によると  講演の前に  経典を読んでから 論じます  だから「講演」という 皆さん二分間 お待ちください 釈迦牟尼仏陀の 三十二相を  読んでいきます 三十二相とは 何でしょうか   まず初めに 第一相から始めます 第一相は 足下安平立相 (説明してください) 偏平足であると いう意味です 第二相は 足下二輪相 足裏に 千輻輪が現れている 千輻輪が現れていると いう意味です 第三相は 長指相 第四相は 手足柔軟相 第五相は手足指慢綱相 手足の指の間に水掻き 状の膜があります

第六相は 足跟広平相 第七相は 足趺高満相 第八相は  伊泥延腨相 鹿王のように 荘厳で堂々としてる 第九相 正立手摩膝相 手の長さが ひざを超す位 第十相 陰蔵相 生殖器が体内に 隠されている 第十一相 身広長等相 身長と両手を広げた 長さが等しい 第十二相は 一一孔一毛生相 毛孔の色は青瑠璃色 第十三相 毛上向相 体にあるすべての毛が 巻き上がっている 第十四相 金色相 全身が金色に 輝いている 第十五相 丈光相 四方に一丈の光を 放っている

第十六相 細薄皮相 皮膚は非常に滑らか 第十七相 七処隆満相 両手両足両肩首筋に 肉が円満で浄らか 第十八相両腋下隆満相 両腋の下の肉が ふくよかである 第十九相 上身獅子相 獅子のような胴体 第二十相 大直身相 身体が端正である 第二一相 肩円好相 肩が丸く豊かである 第二二相 四十歯相 白い四十の歯を持つ 第二三相 歯斉相 歯の並びが美しい 第二四相 牙白相 四本の歯は 特に白くて堅固 第二五相 獅子頬相 獅子のように 両頬が隆満している 第二六相味中得上味相 何を食べても 最上の味覚をもつ 第二七相 大舌相 舌が長い

第二八相 梵声相 梵天のような声は 清浄で 遠くまで聞こえる 第二九相 真青眼相 眼は紺青である 第三十相 牛眼睫相 睫が長く 牛王のようである 第三一相 白毫相 眉間に右巻きの 白毛がある 第三二相 頂髻相 頭頂の肉が隆起してる 全部で 三二相です ありがとう  彼女が読んだことが 聞こえましたか 私が仏陀だとは 信じないでしょう 私はどの相も 持っていませんから 私には 金色の毛穴は ないし 私の睫毛は短く 牛のようではないし 私の足は短く 鹿王のような 足ではありません

八十種好というのも あります 例えば 象のように歩き  鴨の水掻きのように 指がつながっている 魔のように 見えますね 違います 意味が違います 仏陀は私達の想像とは 違うことを 意味しています 彼の良い相はほとんど 動物の相で あることに 気付きましたか 仏陀になったのに動物のように見えれば あえて誰が仏陀に なるでしょうか 本当にナンセンスです どうりで仏陀を 見付けられないのです 彼のまつげは 牛のように長いはず だから そうですね そして足指は 全て繋がっていて 鴨の水掻きのように 見えるのでしょうか そんな足は 鴨の水掻きだけです 彼の鼻は鷲のように 見えると 聞いています

そして足の裏が 平らです こんな足は 病人だけです 皆ご存じのように この種類の足は 「扁平足」です そして彼の脚は 鹿のようで 彼の生殖器は 馬のようだと言います 全ての特徴は 牛 馬 鹿と鴨と 関連しています これは仏陀の容貌 ではありません 仏陀になった人は 皆こんな特徴なの ではありません それは変です どうして 全ての特徴は動物に 似ているのでしょう 何故だか分りますか これは凡夫の 考え方です 私達は執着心を 捨てる事ができません 牛や馬のような 動物が好きで この世界に未練があり ひいては 動物の特徴でもって 仏陀を描写しています

私が仏陀になって 全ての特徴が こうだとします 上半身は 牛のようで 下半身は 馬のようで 片方は鹿みたいで 片方は金色で 毛は全部上を向いて いるとします 人間は体毛が そんなにありません 動物だけが沢山の 毛があるのです 毛が上に向くとか 右に傾くとなると 羊のようです 従って私達が 実像を知らないと ずっとそのような 特徴を探すのです それでは仏陀を探す ことができません 私は世界中方々を 旅して回りましたが そのような仏陀は 見た事がありません 分りますか 動物だけがそんな 形をしています そんな形をしている 人間はいません 仏陀はなおさらです 要するに人々は やみくもに話して 釈迦の名誉を 傷つけています それでも三十二相を 讃えています その特徴がなぜいいか 私には分りません

ですから私達は 凡夫の見方で仏陀を 見てはいけません 仏陀を外見で 判断するとしたら 長い時間かけて彼を 探しても見つける 事ができません 分りますか さらに私達は彼が とても優しくて 毎日のように 私達に対し 貴方は素晴らしいと 言い ただ座っている だけだと思っています そうではありません 仏陀になっても 個性は 変わりません 少し変わることも ありますが  時には変わりません

しかし自分の個性を 最大限に使って人々に 利益を与えます 私の意味が 分りますか 例えば 彼は辛抱強いですが 立腹する事もあります ただ目的があって 怒るわけです 分りますか 彼は怒る必要が ある時 その個性を使います またいつでも 止められます 分りますか 怒る必要が ある時怒ります 彼は全ての性質を 備えていて それを  正しく使います 外見からすると 私達と同じですが いつも適切に 使うので衆生に 利益をもたらします 私達は彼と 同じ性質があっても 使い方が分らないため 適切に使えません

分りますか 私達は怒るべき時 怒りません 優しくあるべき時 優しくしません 逆にしてしまいます 何故物事を反対に してしまうのでしょう それは 私達は自分の 大智慧 最高の 自我と繋がって いないからです この「自我」は即ち 仏陀になった人です 私達は本々仏陀です 昨日私が言ったように 鏡のせいで ゆがんで映る鏡の せいで 皆が違った 形に見えるのです 怪物に見えます 沢山の鏡があって それぞれ違った 形に映ります 私達が鏡の前を 通るとき 鏡はそれぞれ皆 違った姿を映します

同じように毎回 私達が生まれる時 人間の形もあれば 動物の形や悪魔の形 幽霊の形 女性の形 男性の形に変わります いずれも違った鏡の 前の通るからです しかし私達の真我は 同じです 分りますか ですから今私達は 真我を再発見し 真の正常な 自分を見るべきで 鏡を見るべきでは ないです 分りますか どんな鏡の前を 通っても それを見ないで こっちの方を見ると 私達はそのような姿 ではない事が分ります ただ私達はそっちを 見る事に慣れています そこで例え ある賢明な人がいて 彼は自分の真我を知り 鏡が私達を欺いている ことを知りそれを 私達に告げても すぐに 彼を信じたりしません

何故でしょう それは鏡の中の私達は 醜くても面白い からです 分りますか 鏡の前を通ると それぞれみな 違う形だからです それに魅惑され 好奇心が強くなる からです 分りますか 私達はそれを ずっと見つめます 鏡の中の自分の 姿をずっと見つめます 今私達がこの世界と 自分を見ているのと まったく同じです 分りますか この世界は鏡で 私達はこの鏡に 映った姿です 今 鏡の幻想から 脱出した人が 私達に 「皆さん苦しむ必要は ありません 鏡の中の自分の姿を 処理するのに時間を 浪費する事はないです 振り向いて自分自身を 見るべきです

すると 自分は誰か分ります」 と言います しかし長い時間 聞いて初めてゆっくり 見るようになります 聞きたがらないと その人はまた言います ここを見なさい 鏡はここにありますと 彼は美しいもので 私達の気を引きます 見てこっちを見るのよ ここにきてと言います 彼は私達の注意を ずっとここに引きます 分りますか 同じように 霊修行者も このように沢山の 境界を通ります

徐々に益々近くに 見え そして 自分自身が見えます 従ってすぐに 自分の全体像が見える わけではありません 私達は自分の 頭や顔は 見えません しかし 足が見えて 手や脚や胸部が 見えます 徐々に私達は自分は 正常な人だと分ります 分りますか 同じように 最高の次元は誰も 描写したりはっきりと 説明できません ただ分っています 例えば私は自分の頭を 見たことがないです 私は自分は頭があって 自分はどんな姿か 大体分ります 私が正常な自分の 姿を見るためには 正常な鏡を見つけ なければなりません その種のゆがんだ 鏡をみてはいけません 少なくとも本当の 自分の映像が見えます

それは真我を欺く 姿です だから人は 観音法門を 修行して 開悟した後 変わるのです 意味が分りますか それは彼が別の 鏡を見たからです 例え 彼はまだ真我が 見えなかったとしても ただ真我の一部を 見たとしても 彼は別の鏡を見つけて 見なければならないと 分ったのです 例えば彼は 戒律を保ち 菜食し 毎日瞑想して この幻想の世界を離れ 幻想に 執着しません これは正常な鏡です 従って今私達は 自分を見たとき 大分正常です たとえ私達が依然 この世界に住み まだ幻想の世界と 関係があっても この幻想は大分 正常になっています

ですからある人が 霊修行をし 道徳的で 戒律を保つのであれば 勿論彼の生活は それらの非修行者と 違うわけです 彼の生活は純粋で 整然として心地よく 順調です 修行しない人の人生は ゆがんでいて 何もかも苦しみで 何でも困難で いらいらします それは彼らが 違った鏡を 見ているからです 智慧のある人は 正常な鏡を 見ます 修行する人が 正常な鏡を 見るのと同じです ですから私達の 生活が順調かどうか 私達の振る舞いと道徳 水準をみれば人々は 私達の智慧を見分ける ことができます 徐々にできます

この幻想から 正常な幻想から私達は 自身を認識できます ですから修行には 戒律が必要ないとか 修行者は戒律を 超越するなどと 言わないことです そんなことありません 高い境界で私達は 戒律を超越します この世界では 私達は戒律を 厳格に守り社会と 融合すべきです でないと私達の 姿は醜く 映ります そして私達はその 映った姿が自分だと 思い動揺を感じます そして何故私はこんな 姿だろう 醜いな 何故私の頭は 小さくてお腹は 大きく両手は曲がって いるのかと嘆きます 分りますか きれいな人を 私達は天使のように 月の妖精嫦娥のように 美しいと言います

月と星のようだと いいます そうですね このように例えます 美しい人を牛とか 馬とか鹿に例える 理由はありません それは実に 悪魔の考えです 外道の人達が 手を尽くして釈迦の 名誉を破壊するために 言ったことでしょう 釈迦をテーマにして 彼をからかっています 後世の人は真実を 知らず迷信深くそして 誰も真実を教えて くれなかったため 私達は盲目的に信じ いつまでも牛や馬の 特徴を唱えて 仏陀はこのようだ といいます 釈迦にとって実に 不公平です 皆さんは不公平だと 思いませんか 仏陀になっても 以前と同じ姿です

勿論 もっと美しく 見えます 私達の眼に 見えない魅力と 美しさが 人々をとても 心地よくします 見れば見るほど 心地よく感じ もっと見たいと 思うわけです 私達を見ると彼らは 離れたがりません 飽きることなく 見ていたいのです 従って 経典の記載に よると 釈迦が存命の時 公に姿を現すたびに 彼の弟子達は 合掌するとあります 分りますか そしていつまでも 彼を見つめ 目は他の何も 見ませんでした 彼を見るのが大好きで 見飽きることが ありませんでした

これが目に見えない 美しさです 凡夫の場合は 例え配偶者を愛して いるとしても 長く彼又は彼女を 見ていると飽きます 分りますか 長く目を見つめると 疲れてしまいます しかし仏陀に なった人 道を得た人や 宇宙の万物と一つに なった人の目を 見つめると 決して飽きません 自分も何故だか分らず ただ彼を見るのが 大好きで彼に接近 したいのです そして日夜彼を 見つめたいのです 何故だか分りません 彼が何をするにしても 彼を見ていたいのです それで満足なのです わかりますか

彼の目に見えない 美しさのためです 彼の外見は そんなに変わらなく 外見は見た目は 普通の人と同じです 私達の修行仲間も 印心後変わりました 皆知っていることです 自分と他の人と 見た場合それが 分ります 分りますか 優しくなり 表情は穏やかになり 肌は艶やかで 白くすべすべに なりました 以前のように暗く ありません

私達が 仏陀になり 幻想から 解脱するには たった 一つの道があります 内面の自分の 真我を見ることです あの鏡をみるのでは ありません 反対側をみることです 先ずは足を見て そして脚と手を見て 腹部と胸部を見て そして肩をみると 自分が違って 見えてきます 同様に私達は 沢山の体があります 昨日私が言ったように この肉体は一番 外側の層です

他にも目に見えない 体があります 見た目は肉体と まったく同じです それを阿修羅の 体といいます 死んだらどんな人でも その体を得ます 修行していない 修行していない 人でもです 彼らはもっと上の先を 見てなかったからです 足の部分だけを見て 止まったため 阿修羅のレベルに 達しただけです 同様に修行者が 真剣に修行せず 高い境界に達して いないうちに死んだら やはり阿修羅の 世界に行きます それもいいでしょう そこにも開悟した マスターがいて 引き続き私達を教え 私達が仏陀になるまで 教え続けます

この世界にいる時 開悟したマスターを 見つける事ができず 帰依して 彼について学ばず 信仰がなかった人は 阿修羅の体を 得てから再び 肉体に戻ってきます それは私達が 上を見ないで ただ自分の足と 足取りを見たからです そしてまたその鏡を 見たからです こっちとそっちは 大変近いです 要するにそちらを みるということです こっちを見て 再び あっちを見ます このようにあちこち 見たりしています しかし上の方を 見ていないため 自分の全体像が どうなっているか 見えません

同様に 私達 修行者は 開悟したマスターが 私達に沢山の体が あることを教えます そして一歩一歩どう 見るか教えてくれます 従って私達のレベルは 益々高くなり 私達は前と 違ってきます これは私達自身の 違った体の 違った部分 だからです 違った境界は即ち 私達が創った 境界です 私達の体は いわゆる体は 体一つに宇宙全体が 含まれています 私達は徐々に一歩ずつ 上へ上がります 宇宙にはそれぞれ 異なる体と衆生が いますが これはただ 自身の反映です 分りますか 実際に多くの衆生が いるのではありません

だから全ては心により 造られるといいます 私達はだんだん 上へと進み 徐々に真我を認識 するようになります 分りますか しかし最高の境界に 達したら説明 しようがありません 最後には自分の頭が 見えないのと同じです 頭があると分っていて 見る事はできません 見たとしたらそれは 本物ではありません 分りますか 必ず鏡を見て 初めて私の頭は こうであると分ります 私達は自分の頭を 見る事ができません 鏡なしでは説明する こともできません 同様に 仏陀になるのも 一種の幻想です 分りますか

最も美しい 幻想です 従って仏陀に なってからも 更に上の先へ進むと 無仏陀の 境界です 「大智愚の如し」の ようになります 何も分りませんが 何でも知っていて 何もする 必要がありませんが 何でもできます 成さなずにして成し 知らずして知る境界で これは最高の 仏陀の境界です 仏陀になるのは 正常な鏡を 見るのと同じです 鏡で頭を見て 足と体全体を見て 私の真我はこうなんだ と分ります これがいわゆる 真我を知り私達の 本来の面目を知る事で これは第一歩です もし本当に真我を 認識した場合 それが見えません

目で頭上になにが あるか見えないのと 同じでそれが真我です 分りますか 分っていますが 見る事はできません これを神性 佛祖といいます このレベルに達する ことはとても簡単です 観音法門を 修行すればいいです これはとても早いです 徐々に私達は自分が 誰なのか体験できます 分りますか 例え 時々 境界を表現する ことができなくても はっきりと分ります 時には 幾分開悟しても また凡夫のレベルに 落ちてしまいます しかし後に再び 分るようになります

このように毎日 練習すると ある日 私達は完全に 開悟し 二十四時間 開悟した状態にいます 分りますか その時は 私達は何でもでき どんな人も救えて 遍在でき 神通力があります 宇宙全体と 大地 万物と全世界が私達の 手の平にあります だから仏菩薩の力は あんなにも不可思議 なのです 何故なら 彼らは全ての幻想を 手放し 真理だけを 知っているからです 誰かが真理を知らない としても 彼は 真理を教えません 真理は教えられる ものではなく 伝えるものだからです 分りますか 直に伝えなければ なりません

例えば 私が経の講義を 一日か二日 やった とします 時には浅い 内容で分り易く 時には深い内容を 話します 皆さんの頭脳は 時には分って 時には理解できません しかし魂は何でも 分っています 皆さんは全員ある レベルに達しています それを知る知らないに 関係ありません 皆解脱します 真我が私の話を 分っているからです だから老子はこの世は 全てが完璧だと 言っているのです 私達が 苦しくて この世界は苦しみに 満ちたと思い こんな生活はもう まっぴらだと思ったら ではすぐさま すでに 平静と永遠の 平和な境地を得た人を 見つけることです

そしてどうしたら できるか学ぶことです さもないとこの世界は 実に完璧です 私達の真我は決して 苦しみません ただ苦しみを 観察するだけです 私達は苦しみに 付着していて それで痛んだり 喜んだりします 映画や芝居を 見ているのと 同じです 分りますか ステージの上で 俳優が喜怒哀楽を 演じると私達も それを体験します 時には 悪い人がよい人を 不当に咎めると 私達はとても 腹が立ちます そうですね 私達がそのいい人と 繋がっている感じで 彼の苦痛は私達の 苦痛に感じるからです

私達は自分が不当に 扱われている感じで 泣いたり苦しんだり します そうですね 私達は彼と 繋がっているからです 例え私達は 観察者だとしても その時は誰かが あなたに ねえ 何故それに 巻き込まれて 泣くのですか ばかげています ただの芝居です 泣かないでと言っても 分りますか やはり泣くのを 止められません 泣き止むまで大分 時間がかかります すぐに泣きやむ ことはできなくても 私達の頭脳は 分っています そうよ ただの 芝居よ という風に わかりますか しかしやはり 涙が出て 心は傷つきます

同様に 私が経の講義をする時 皆さんは理解しても しなくても 構いません 輪廻の歯車は 徐々に速度を落とし 始めています もうブレーキがかかり 暫くすると止まります ブレーキをかけた時 やや時間がかかって 車は止まりますね 分りますか エンジンを 止めても エンジンが冷めるのに 暫く時間がかかります 同様に私達が 仏陀や大修行者の 経の講義を聴いたとき 輪廻の輪は 壊れ始めます 分りますか 昨日皆さんは私に 何故 釈迦が 経の講義をした時 ある人は阿羅漢の レベルに達しある人は スローターバンナの (須陀洹)レベルに 達したかと聞きました

これは天眼で 彼らのレベルを 見なければなりません そのレベルは 自分で又は頭脳で 達したわけではなく 観察者が 分っていて 劇で演じている人では ありません 私達の頭脳はただの 機械です 分りますか カメラと同じで 分っているのは そのカメラマンで カメラではありません カメラは前に おかれているものは 何でも記録します できた映像が 即ち私達が 見ているものです しかしその観察者は 違います 分りますか 彼はそれらはいずれも 自分が撮ったもので 自分ではないと 分っています

時々こんな話を耳に します 画家は美しい 女性を描きます 多くの芸術家は それに 恋してしまいます 自分自身の作品に 恋するのです ずっと見つめ 大好きになり 幸せを感じます 例えば彫刻家が 彫像を彫ったとします 彼はそれがとても 美しいと感じ それに恋します 詩人李白のように 彼は大知者で とても慈悲深く 両国の間の戦争をも 制止した人です しかし彼は幻想の愛を 止められませんでした 湖面に映る 月を見た時 彼は水に飛び込み それを抱擁したのです 分りますか それは 酒に酔ったからです 同様にこの世界で 私達は毒物や酒 人を 迷わせるものを飲んで 皆がこの幻想の 世界で生きています

私達はこの幻想の 世界と感情を 確かなものと認め  それに翻弄され それが自分だと 勘違いします 私達の真我は決して 生まれず滅びず 決して不潔でも 純潔でもありません 私達の真我は 最も優雅で 高尚で 智慧に満ち 愛に満ち最も 純潔かつ純粋です 私達の真我は決して 罪を犯しません ある日私達が 突然開悟したら 自分の真我は純粋で あることが分ります そして カルマ(報い)は 本来ないことが分り 私は何も悪い事をせず 皆このゆがんで映す 鏡のせいだと分ります 私の意味が分りますか 全ては芝居です

ですから悪いカルマ (報い)は消し去る ことができるのです 開悟したマスターの 責任は 私達の魂が 即ち真我が これ以上 鏡を見ないで反対側を 見るように 分らせることです ですから私達は 突然カルマ (報い)が消えた 感じがし 軽やかで 幸せを感じます そして自分は正常な 人間だと感じ 私達の智慧が開いた ことが分り 何をしても明晰に 処理できます それは私達の 真我が目覚めた からです それはマスターが 私達のために何かを したのではなく ただ マスターは私達の 注意をその鏡から 引き離し 別の方向に 注意を引いたからです

少しずつ 私達に 美しいものを見せて 「こっち見て こちらを 見るのよ」といいます 分りますか 私達は彼に従って 彼が指す 方向を見ると 自分の足と膝と 手そして自分が持って いるものを全部見ます そして私達は なんと美しいのだろう 一度も見たことがない そっちは醜すぎる こっちはきれいだと 言うでしょう 私達はマスターに 感謝し 彼がこれらを くれたと思います しかし私達はもともと 何でも持っています それを見るのを 忘れただけです 従って自分を救えば 同時に他の人をも 救えます 何故なら彼らも 幻想によって生まれ 皆さんの親戚 友人も皆幻想から 生まれたからです

貴方が目覚めると 貴方の親戚友人 五代 六代 七代 八代の先祖がみんな 解脱します 全員一緒に 幻想の中にいるので みんな一緒に 解脱します これは驚異的な ことだとか 迷信だと 思うことはありません 例えば 私が一人でそれぞれの 明かりの所に 立っているとします するといくつかの影が できます そうですね 私が離れたら 全ての影は 消えます 私が回りに幾つかの 鏡をおいて私一人 中央に立っていると 数十もの 姿と沢山の 人間が映ります 私が離れると 鏡に映る姿は 全部消えます

分りますか 素晴らしいです おめでとうございます 皆さんの知性に 拍手を送ります 皆さんはすぐに 開悟しました 簡単に分る事ではなく 誰もが分る ことでもありません 皆さんは分ったのです 素晴らしいです おめでとうございます 今から 皆さんは全ては幻想 である事を知るべきで 観音法門を修行する 事すら幻想です ただ これは美しい幻想で もっと心地のよい 幻想です 私達に苦痛を感じさせ 涙を流させ 挫折感を 感じさせません 生きていくに 耐えられなくて自殺 したいほどのつらさを 感じさせません 従って二つの幻想が あるとしたら 私達は少なくとも いい方を選択できます 私は皆さんが 私について 観音法門を習うことを お勧めします この世界が苦しくて 耐え難いと 感じるなら自分が 誰だか分らない人 この幻想が余りにも リアルで脱出できない と感じる人は 私達と一緒にこれを 習うと自身の偉大さを 見つけられます
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