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印心を授かって仏陀になる2/2 一九八八年一月一日 フォルモサ 新店(中国語)    
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印心を受けた時点で 皆さんはすでに 仏陀になっています 私達は仏陀のパワーの 海と繋がっていて 私達はその海の一部で 一滴の水が 海に落ちると 海の一部になるのです 分かりますか いったん海と繋がると あなたはもう 海の一部に なっているのです その時には 私はいつ海辺に 行くのかと聞く必要も ありません あなたは すでに海の中です その一滴の水は 次第に姿を消して 海の一部になります 同様に 印心の時私達は 仏陀の海に入って 仏陀になったのです

そのパワーは莫大です ただし私達がまだ 使っていないだけです 時が来て 私達が そのパワーを使う時 私達はそれがどれだけ 大きいか知るでしょう 私達は今 無理強い することはできません あなたがこのパワーを 使いたくても使えず あなたが仏陀である のを知らないからです それだけです 時が来て 状況がそうなれば あなたは自然に パワーを使えます その時 あなたは そのパワーがいかに 強力か分かります しかし時が来なければ あなたはそれを 知ることはできません

早すぎます あなたはまだ使う 必要がないからです まだ学んでいて 使う必要がないのです 時々 あなたはその 一部を使ってますが あなたは知りません しかしパワーは やはり働いています あなたが瞑想する時 多くの衆生のために 利益となります 私達の振動は広がり 全国を照らし 全宇宙の潜在意識を 引き上げています 私達がそれを 知らないのは最良です 私達が知れば エゴが出て来ます それで沢山修行した後 やっと偉大な霊性の 師となれるのです 私達は私達のエゴと 個性の制御を訓練する 必要があります

私達はエゴを制御 しなければなりません エゴが消失した後 この天性のパワーを どんな危険も引起こす ことなく使えます 例えば 両親は沢山お金を 子供に与えますが 子供が十八歳になる迄 お金を銀行へ預けます それはなぜでしょうか お金は既に子供の物で 幼い頃から彼の物です しかし彼が十八歳に なるまで使えません 彼が乱用し 滅茶苦茶に買物し お金を無駄遣いしたり あるいは賭博をしたり 人に騙し取られるかも しれないからです それで両親は 彼に使わせませんが お金は既に彼の物です 彼が十八歳になった時 あるいは結婚する時 彼は預金を 下ろすことができます

そうですね その時 彼は もう それを使えます 彼はよく訓練されて お金の使い方を 知っています それを浪費しませんし 彼は騙されません 例えばそんな風です 今 皆さんは既に 私と同じです 私達の間には 何の違いもありません 唯一の相違点は あなたは自分が誰か どのように自分の力を 意識的に使うか 分らないとのことです あなたは自分の力を 知らない 分りますか だんだんと その時間になると あなたは衆生を助ける ことができ  自分は莫大な資産と 不思議な力を持ってる ことを理解します いったん自分が仏陀で あることを理解すると 平和を感じます

他の質問がありますか マスターの体は 透明で明るいので 人々は彼を称賛しよう として 彼にその名を 付け 彼の所に避難を 求めると言います 彼らは自分達の マスターを仏陀として 賛美しました 彼は多くの 良い品性を具えました 慈悲深く 光を放ち 水晶の体があり そして多くの 良い品性を具えました それで八十八仏とは 八十八の違う仏陀の 意味ではありません マスターには 多くの違う品性が あるからです 私達は彼の大慈悲 偉大な光 偉大な力と大きな 自由のため 彼を賛美 するかもしれません

「南無」というのは 「賛美」を意味します マスターの大慈悲を 賛美し マスターの無量の 功徳を賛美し 無量の光を 賛美します 梵語でマスターは 「仏陀」のことです それで彼らが「南無 大光仏」と言うとき 「強い光を持っている 私のマスターを賛美 する」という意味です それだけです それで 彼らは 多くの名前でもって ただ一人の仏陀 最高レベルに達した 毘盧遮那仏だけを 賛美します それらは多くの違う 仏陀を指しません そうでないかもしれ ません 

例えば 時々 私達は観世音菩薩を 「観世音」 又は「観自在」 又は「施無畏菩薩」と 称します ある人は彼女を 「南無施無畏菩薩」 「南無普陀山琉璃菩薩」 「南無観世音菩薩」 「南無千手千眼菩薩」「南無楊柳瓶水菩薩」 と称します これらの名前はすべて 観世音菩薩を 指します それで「八十八仏」は ただ一人の仏陀だけを 指します 多くの違う名前で 彼を賛美します それは 美しい女性を 賛美するようです 私達は彼女が美しいと 言うだけではなく 彼女を「青い目」 「ハニー」とか「蜂蜜 パイ」と呼びます

例えばアメリカ人が 自分達の愛する人を 呼びかけるとき ただ「愛する人」と 言うだけでなく 「ハニー」「蜂蜜 パイ」「果物パイ」 「甘いパイ」とか 「恋人」など多くの 他の名で呼びます それらはすべて 同一の美しい女性 彼の最愛のガール フレンドを指します 彼は多くの名前で 彼女を呼びかけます 例えば「美人」「最愛の 妻」「私の女王」と 呼びます 彼女は女王 でないが 自分の妻を 「女王」と呼びます 例えばそのようです 全て彼の妻を指します

同様に 昔の弟子は 多くの名前で 彼らのマスターを賛美 するかもしれません 例えば「大光仏」 「普明仏」 「無垢仏」 他に何かありますか 八十八の名前が ありますね それで 八十八仏の 名前は八十八名の 仏陀を指しません 一万の名前を 与えることができるが 全てはこの最も偉大な 仏陀を指します 彼は多くの違う品性と 素晴らしい力を 持っています 彼は全能です それで 各々の名前は 彼の能力の中の一つを 意味します だから それほど多くの名前が あります 

それは神と 同じです ある人は 彼を「アッラー」と称し ある人は「エホバ」 と呼び ある人は 「神」と呼称し ある人は「玉皇大帝」 と呼びかけます すべて神を意味します 人々は自分が好きな 名前で彼を呼びます 後で彼らはただ 自分の名前が他の名前 よりよく聞えるため 互いに戦います そういう訳で衆生は とても可愛いです そういう訳で  私は誰とも戦いません

八十八仏の名前は 八十八人の 仏陀ではなく 一人の仏陀の 違う品性を意味します 普明仏 普淨仏 多摩羅跋栴檀香仏が あります そうでしょう ええ  そのうえ 栴檀光仏 摩尼幢仏 歡喜藏摩尼寶積仏 一切世間樂見 上大精進仏 例えばこのようです 全ては同じです 観音菩薩は 三つや四つの名前を 持っていて 三十二の 外形があります ある人は 阿弥陀仏と呼び 「無限の光」ある人は 「無限の命」と呼び ある人は 「アミトフォ」または 「アミドフ」と呼び それらは全て同じ 仏陀なのです

しかし名前で 争うのです 最終的に 今の辞書が 出来 阿弥陀仏は 「アミドフ」で 台湾語では 「アミドフ」と呼ぶ 事を知るのです 「アミドフ」ですね ある人は彼を アヒダプァと呼びます 日本では 彼を 「阿弥陀仏」または 「阿弥陀」と呼びます 日本でどう呼ばれて いるか忘れました 「南無阿弥陀仏」 最初にフォルモサ (台湾)に来た時 七日間の禅会に 参加しました 「ナモアミトーフ」 としか聞いてません どんな豆腐について 彼らが話していて なぜ仏陀の名前でなく 豆腐を繰り返してるか 不思議に思いました

本当に豆腐と 聞こえませんか なぜ彼らは豆腐を 繰り返しているのか 不思議に思いました それは南無阿弥陀で タバは台湾語で 豆腐という 方言なのです こう繰り返します 違いますか ナモア ミ ド フ その時 私は少しの 中国語と 少々の台湾語しか 知りませんでした ベトナム語では豆腐を 「ダウフ」と言います だから「なぜダウフと 彼らはベトナム語で 繰り返しているのか」 と思いました ベトナム語でダウフは 豆腐の意味です それは中国語から 来ているのです

中国人はそれを豆腐 と言い ベトナム人は ダウフと呼びます ええ ダウフ 彼らがナモアミ豆腐と 唱えていて 私は思いました 「まだ昼じゃないのに なぜ彼らはお腹が 空いているのか」と だから人々は時に 名前で争うのです 例えばフォルモサ (台湾)語で水は 「シュイ」です 独語は「ヴァッサー」 フランス語は 「ロー ミネラル」 そしてイタリア語は 「アクア ミネラル」 昔は 辞書など ありませんでした だから言葉のために 争っていました 現在はもっと 良くなりました なので「神」と 「仏陀」は同じです

ある人は 私が 神について話すと 敏感になることが あります 彼らは私に「なぜ 神 神について 話し続けるのですか」 私は「話しますが 聞きたくないのなら 構いません」と 人々は愚かです 彼らはいつも名前で 争います 私がアメリカに いたときですが あるマスターを訪れ その二日後 それ以上 滞在したく ないと思いました 彼らは私に尋ねました 私の理解で 彼らに答えました そして彼らは すぐに敏感に なったのです 「なぜ神について 話すのですか」と 私が大きな罪を 犯したように言います

私は「まあ それなら話すのを 止めます」と 神を信じないのは あなた次第ですが 私は信じます 人々に理解して もらうのは難しいです とても愚かです 愚かな執着で 愚かな壁です 無くすべきです それらに執着すべき ではないのです それらを 倒すべきです しかし倒すのは 難しいです 想像できますか 簡単な事ですが それを理解できない 人も中にはいます 失望的です 説明できません 私達の視点からは とても簡単ですね とても明白ですが 彼らはそれらから 離れないのです 彼らはその考えから 離れられず それから 逃れないのです 知ってる事を彼らに どう話すべきですか 霊修行すれば するほど  もっと無駄に感じます 修行すればするほど 孤独感を感じます そういうことです 頭を振ることしか 私にはできません 禅は言葉いらずです

ええ これは個性の問題で 習慣です 彼に悪意があったと いう訳ではありません 私達は真理を理解 しないので彼に悪意が あったと思うのです 悪いカルマ(報い)と 関係しています 仏陀に到達した 後でさえも 私達は人々との 因果関係があります カルマ(報い)が まだあります それである人が仏陀を 殺そうとしたのです ある人は彼に 石を投げました 釈迦には 頭痛もありました 彼はある過去世で 死魚の頭を蹴った ためだと言いました そのような小さな事で 彼は三日間 頭痛がありました

釈迦も悪いカルマ 釈迦も悪いカルマ (報い)に悩みました 彼は托鉢に 行きましたが 三カ月間 何の施しも ありませんでした 人々は彼を異端者だと 誹謗しました しかし彼はそれが 自分の過去世からの 悪いカルマ(報い)の 結果だと言いました それは楞厳経に 述べられています また時には 彼は弟子達に 腹を立てました 彼はアーナンダと ラーフラを叱りました 仏陀に悪意があったり 或は凶悪だったから ではなくアーナンダと ラーフラが 愚か過ぎたからです

それは衆生の カルマ(報い)によって 引き起されたので 仏陀にとっては 誰も 悪意を持っておらず 誰も悪ではないのです しかしなぜ 誰も悪くないのかを 説明し難いので 衆生の理解に合せて 私達は「悪」という 言葉を使わなければ なりません 仏陀にとって 罪はなく 悪はなく 善はないのです 悪もなく 善もなく 罪もなく 仏陀は子供のようです 子供は罪が何であるか 悪が何であるか 知りません 無いです これは「赤子の心に 返る」という言葉が 意味するところです

仏陀に到達した後は 善も悪もありません それで六祖慧能も 言いました 「仏性は善もなさず 悪もなさず」 ですから仏陀は 何をしても決して罪を 犯すことはありません しかし彼は悪い事は 何もしません 彼は衆生を混乱 させたくないからです 彼は開悟していますが 衆生は開悟してません それで彼は不法な事は 何もしないのです 当然それはこの様です とても自然なことです 皆さん 分りますか どうですか ええ でも人々はこの 重点を理解しません 彼らは自分達を 行為者と思い被害者も 彼らを行為者だと 思います

それで双方は憎しみの 雰囲気を引き起します 被害者はチャンスを 求めて復讐に 戻って来ようとします それでカルマの輪は 絶え間なく回るのです 分りますか ですから 仏陀は何をしても 罪もカルマ(報い)も ありません 彼は既にすべてを 見通しているからです 彼はカルマ(報い)が はっきりと見えます 彼は自分を行為者と 見なしません 分りますか 彼は彼がしたのでは ないと知っています 彼は非常に明確です それで 彼の心に 記録できないのです 意味が分りますか 彼はそれを自分が してないと明確ですが

衆生はこの点について 明確でなく 彼らは自分を 行為者だと思います それで彼らにはカルマ (報い)があるのです ですから私達の 考えを清めるために 毎日音流を使う 必要があります あなたが今日罪を 犯したとしても自分が 犯さなかったことを 確かめられません ですから考えや やましい感覚を 清めるために 観音法門を修行します 他の方法はありません しばらくすると 清められるべきものが 多く残りません あなたが慣れるまで 浄化し続けます

後で 罪の意識を感じる前に 罪悪感を 清める音流のみが 残ります わかりますか その時あなたは 罪悪感を持ちません 音流のみが 残ります 罪の意識を感じる前に それが清められるから あなたには罪の意識が ありません 観音法門を十分 修行しないので 多くの罪悪感を 持ちます 音流がそこにあっても 清めるためには 若干の時間が かかります 多く修行した後は 音流の力が 罪悪感の力を 上回ることに なります 罪悪感がしたとたん すぐに 清められます 非常に空腹の人と 同じです 彼が少し食べても 食べなかったのと 同じです

分りますか 良かった 他に質問はありますか 分かりましたか 満足していますか 本当に分かりましたか いいですね これは 非常に単純なものです あなたは開悟しました

彼女はマスターを 100%信じます これは内面の体験が あることより良いです

霊性のレベルの高い 人のみがマスターを 信頼できることを 意味します 彼らの潜在意識は すべてを知っています そういう訳で彼らは 信頼できるのです 他の人は少しの 霊能力があるかも しれません  あるいは阿修羅界 第二界が見られます しかし彼らは よく理解しません 意味が分かりますか

智慧を持つ人のみが マスターを 信頼できます ですから人々を内なる 体験で判断できません それらは何でもない 阿修羅の境界で多くの ものが見られます 阿修羅界には一五〇 以上レベルがあります 各々のレベルは多くの 副レベルを含みます あなたが阿修羅界を 何百万永劫年 旅行しても 終らせることが できませんし 高いレベルの境界は 言うまでもありません そういうわけで 内なる体験ではなく 智慧が重要なのです

誰かがマスターを 信頼することは この人には私への 非常に強い縁が あることと 彼の過去世で 霊修行をして 智慧を高めたわけです そういう訳で 彼は私の教えを理解し 信頼できるのです ミラレパの 例を挙げます 彼の話を知ってますか 彼が僧団に入った時 彼に内なる体験が 全くありませんでした 彼のマスターが何も 教えなかったからです マスターは彼を叩いて 毎日彼を叱って 追い払おうとしました 彼のマスターは彼に あらゆる耐えられない 方法を使用しましたが

ミラレパはマスターに 誠実なままでした 彼は七年間 耐えられない状況に 耐えました 低レベルの智慧の 普通の人々は すぐに去るでしょう もしくは 三、四年後に 去りますが ミラレパはそこに 七年間いました 毎日彼は家を建てては 後でそれを破壊して 再び建設して また破壊しながら 時間を 費やしました 彼は叱られて叩かれて 追い払われました マスターには彼が した事は何でも間違い マスターは決して彼を 称賛しませんでした 称賛されるどころか 叱られなかったら 幸運でした

彼は全てに耐えました 内面の体験が 全然ありませんでした マスターは教えず 体験があるはずが ないでしょう 毎日激務を経験する だけでした 出血するまで働き 全身傷つきました 一言も発することは 許されずマスターにも 会えません マスターからの返事を 決して得ませんでした マスターはどんな 法門も教えません 彼がどんなにそれを 請うたとしても だから彼は後で偉大な マスターになりました 今でもまだ有名です ですから内面の体験が ある事は重要でないと 私達は知るべきです 内面の体験があっても 十分ではありません

偉大な智慧のある人は 内面で何でも理解して います だから私達は あまり内面の体験を 気にしないことです ある人たちは私と 仕事する為この世界に 根づかなければならず それで彼らは あまり多くの内面の 体験を享受できません でないと 彼らは仕事ができず 内面の体験に 熱中してしまいます たった今皆さんは既に 私が何を話しているか 分からないでしょう そんなに多くの 体験があったら 私は無力です 私は一人で仕事し 手伝う人がいません 誰もが天国の甘露に 酔ってしまうので 何もすることが できません

だから時々修行者には あまり多くの体験が あってはなりません 私達にはここでする 仕事があるからです 意味が分りますか 例えば人々のために 料理する必要があり 料理する時そこに 座ってごちそうを 楽しむことができず 忙しく人々に 奉仕するのですから 時々料理の味さえ 知りません 私達は急いで彼らに 仕える必要があります 外の誰もが美味しい と大声で言いますが 台所で働いている 私達は不思議に 思います

なぜ彼らにはそれほど 多くの体験があるかと意味が分かりますか こういうことです 享受したいなら 盛装してテーブルの そばに座り人々に 仕えさせるべきです そしたら料理できなぃ 料理するなら優雅に 座って仕えられるのを 享受できません 同様にこの頃皆さんが ここで食べてる間 台所チームは皆さんに 奉仕しています 皆さんは食物を楽しみ そして瞑想しに 戻って行きます しかしそれらの人々が 皆さんに仕えている時 彼らは食べられません

食物のおいしい味を 楽しめません 皆さんが楽しんでる時 彼らは皆さんの 楽しみがどんなのか 分りません 私達の本分は仕事で 享受ではありません しかし仕事の後 やはり楽しめます 皆が満腹の後 私達は座って一緒に 食べることができます しかし私達は 西方浄土に行った時 享受します 今は享受する時では ありません 私達がそうしたら 働く人がいません ある人は働くべきです

皆が享受するなら 誰が働くのですか 働く人はごくわずかで 菩薩の心を持つ人は ごくわずかです 衆生は皆 仏陀と菩薩に 頼ります 彼らは自身に頼らず 勇敢に働きもしません 仕事の最中は 享受できないからです これを理解 しなければなりません 仕事している時楽しむ 機会はほとんどなく 私を見てご覧なさい サマディーを享受する 機会がありますか サマディーに入った 途端 常に用事が現れ 私は出なければ なりません 時々 それは非常に危険です

それであまり深い サマディーに入る 勇気がありません 突然出るのは 非常に危険ですから それは私の体に よくありません とても痛いです それに寝たい時に 寝られませんね 禅七の間いくらか 休みを取るつもり でしたが休みましたか 皆さんを世話すべきで 外の入りたがる人々も 入れなければ なりません

夏の禅会のとき 訪問客も 毎週来ました 夏の禅会をすれば するほど私はさらに 疲れ果てます 常に働かなければ なりません 私には一日の休みも ありません 禅七の間もやはり 働ねばなりません さっき話したように 皆が眠ってる間やはり 働かねばなりません
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