智慧の言葉
 
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皆がマスターであり 皆の内面に マスターがいます 誰一人内面に マスターがいない人は いません 彼らが印心している いないに関係なく 彼ら皆の内面に マスターがいます 彼らの面倒を見るのは マスターの世話を するのと同じです いいでしょう 今日は皆さん 永遠の命について 聞きたいですか 永遠の命について 何か知りたいと 思いますか(はい) 皆知りたいですね もちろん この世は 苦難に満ちていますが それでも八百年生きた 彭祖のように長生き したい人はいますか 何年間 生きたいと 思いますか まず教えてそれから 私は魔法を使います 彭祖と同じくらい 長生きしたいですか マスターと同じくらい 私と同じくらいですか

これはいわゆる 「短命」ですね 「長寿」ではないです ある人は早く去る 必要があり ある人は 永遠に生きたい でも私達は皆 永遠に生きたいのです ここでは永遠に 生きたくないだけです ここに永遠に 生きたいと思っても 私達にはできません 釈迦牟尼仏は 仏教のマスターです

彼が他界する前に 側近の弟子阿難に ヒントを与えました 彼は「阿難 私は 永遠に生きられる種の 法門を修行した それで私はこの世に もう少し長く留まる ことが許される それが一劫か二劫かは 関係ない」 一劫の意味は「計測 不能の時間」を意味し 小さな劫 大きな劫が あります 時には一劫とは 数千年もあります 仏陀は彼の弟子に 三回繰り返しました 彼が言わんとした事は 阿難が彼に更にいて くれるよう懇願すれば 彼はこの法門を使い 俗世に長く留まれると 彼は衆生を救い 更に弟子を助けられる ということでした

でもその時 阿難は 魔に覆われていて 彼は仏陀に長く留まる よう頼みませんでした 彼は三回繰り返して 言った後も阿難は 何も言いませんでした 彼は「よしこの世から 私は去ることにしよう この世から去る」と 言いました 何と残念な ですよね 私達が阿難なら 彼に長くいてもらう ように頼んだでしょう そうですね 私達が阿難なら 彼に懇願したでしょう (はい) 阿難は本当に愚かで 残念です どうして彼はまだ 釈迦の最も近い弟子で いられたのでしょう 実際 阿難はそれほど 愚かだった訳ではなく それは運命でした それでも 釈迦牟尼仏はそれを 変えたいと思いました でもできませんでした 仏陀でさえ運命を 変えられませんでした

しかし私達は多くの 人々が長い間彭祖の ように生きられるのを 聞きました 彭祖は八百歳まで 生きなかったですか また 聖書の中にも 他の話があります 一つだけではなく 多くの話があります これこれの人が 八百歳まで生きました というような 例えばノアは長生き しましたね 七百歳でした 自身に尋ねます なぜ 彼らはそれほど 長生きしたの 私達は 百歳足らずで死ぬのか 皆さんは 長生きしたいですか 誰かそのことを 教えてもらいましたか

私達のこの身体は 魂で作られています 魂は宇宙から 来ています あらゆる 全ての衆生のパワーは 宇宙にあります 宇宙のパワーは すべてを創造した時に 消失したりします 消失ではなく 消散です 説明は困難ですが 多くの人々が 人はどこから来たのか 尋ねます どのように宇宙が 創造されたのかと 説明するのは容易では ありません でも私達が修行した後 分かります 宇宙は時々 すべてを戻します 完全にすべてです そしてすべてが なくなります 眠っているように これは私達が言う 「宇宙の夜」 「天と地の夜」の ことです それから 長い長い時間がたち 突然 再び目覚め 動き 創造の中で衆生として 再び生まれる こととなり 再び変わるのです その時人間は 再び生まれ変わります 私が意味する「人間」 とは何でしょう

この新しい肉体の 衣服 この「衣服」は 布で作られていますね これは「衣服」で 肉から作られています 真の存在は内面にあり 肉体の衣服を着てます 宇宙の衆生がいます 全能のパワーから 分散したものです この肉体を着ている その人はそれを その道具を上手く コントロールできない かもしれません この肉体は 私達の内面にいる その人の道具です 宗教的に言うなら 私達の元々の自性で 真我 仏性 天と地の 子供のことです それは天と地から 来ているからです それで「天と地の 子供」と呼ぶのです 彼はこれらの衣服を 使うか 道具として用い 衆生と接触を持ちます

この外側の衆生は既に 作られたものであり そうして 彼らは体験を通し学び 彼らと楽しむことが できるのです その後しばらくして 私達の内面のその人は 恐らく私達が「魂」と 呼ぶその魂とは 誰にも明白ですか 私達の魂はもはや 体は支配できません 恐らく 道具は壊れるか 指示が聞こえなく なるのでしょう 本当に長い間遊んで しまい外からの影響を 受けて 彼の指示に 従わないのです

そして身体を離れます 私達がこの肉体を 離れる時 「亡くなる」と言い または「死ぬ」とか 「他界する」と なぜこの種の現象が 起きると持ち主である 内面の私達は体を 離れるのでしょうか それはこの身体と 魂のためです 私達はそれもまた すべての衆生の魂の 一つといえます 霊的なエネルギー 霊的なパワー 全能のパワーは 摩擦があり その魂はひとりでに できたその道具との 間でもがきます この肉体は それにコントロール されたくありません 創造のパワーから 小さな部分として 分かれ 小さな魂になり そしてこの魂の中には 同じ種類の偉大な 同じ品質の同じ力が あります

それからそれ自体が 使う身体を作りました 意味が分かりますか 非常に聡明な 科学者がいたと します 彼自身が使うための 道具を彼の脳を用いて 発明しました 飛行機だったと しましょう その科学者が 飛行機を発明した時 最初その飛行機は 飛びませんでした 文書を調べたら そのことが分かると 思います そうですね 最初の飛行機は今日の ように開発されてなく 安全でもありません 最初の飛行機はまるで 小鳥のようでそれほど 開発されていません 飛行するや否や 直下降して しまうのでした

非常に危険だったので 彼は破壊しました その科学者はしばらく それを使いましたが 使い物になりません 彼は飛びたかったのに 再び落ちてしまいます 従って 昔の科学者は 模型を作っては 壊していました それから彼は完全に 新しい模型 異なる 模型を作りました 理解しましたね 彼は飛行機の操縦の 仕方を発見できず それは飛行する事なく 墜落ばかりして いました 結局その模型が 更により良くなって いったのです 今日の飛行機は 更にどんどん開発され もっと安全になって いったものです

私達が飛行機に乗る時 ずっと快適ですね 以前は誰も飛行機に あえて乗りたくはなく 同様に 同じ状況です 私達の魂はその道具を 作り出し遊びます そして外の世界を 体験したいと 思うのです しかしそれはそれほど よく出来てはいなく 魂はずっと作って 作り続けます 体の後またその身体を 最終的に 最も安定した身体と 最も開発された 最も美しい完璧な 体となるまでです 同様に私達の体は どんどん変化をとげ 毎回の生まれ変わりの たびに ある日完璧で 最適な理想的な身体を 作り出します

そして長生きします 最も長く生きた者が 仏陀となります 仏陀の体は決して 生まれず 破壊される ことはありません なぜ私達人類は百年後 死なねばならない のでしょうか 百歳以上亡くなる 人々もいますが それは身体が完璧な 道具ではないからです 役に立ちません 医者の仕事をするため   身体を使うとします それは医者の仕事を するだけのものです 他の仕事ではなく それはUFOなどを 発明できません 他の人々が住む家も 建てられません

ただ一つか二つの 仕事を行えるのみで 最高の人でさえ 最も有能な人でさえ 一度に一つの 仕事しかできません そうですね (はい) たぶん 最高でも 二つ位の仕事でしょう 例えば私達が医者だと して状況によって 車を修理できますが 専門家ではないです 私達は何か建物を 建てられますが例えば トイレとか 家族が使う貯蔵庫の ようなものをです でも私達は美しく 安定した感じには 作れず大きな家も 作れません 意味が分かりますか まず私達の才能には 限界があります

二つ目に私達には 唯一の体しかなく それは千や百の体に 猿王孫悟空のようには なり得ません 彼は一本の毛を取り 噛んでそれからプーと 吐き出し沢山の 孫悟空を作りだせます それでも こんなふうです これらの孫悟空は 偽者です 五分後には 皆消えてなくなります 未だ違うのです 彼らには多くの事は できません 私達はこの肉体の体に 執着する必要は ありません なぜ百年後には私達は 去るのでしょうか

それもまた良い事です なぜなら私達は この世界に留まっても 役に立ちませんから 私達はまず何かを学び 一つの道具を使います 何か学んだその後 私達は年老い 身体は弱くなり 壊れてもはや 使えなくなります そして破壊され 私達は再び戻ってきて 他の体を作り出し 何か他の事を学びます その後またこの身体は 再び故障して 再び破壊されそれから 私達は戻り他の体を 再び作り出し私達が すべてを学び終える それまでです それから私達は 「いいでしょう何もこの世で学ぶ事がない 更に上に行き他の事を 学びたい」と言います

その後私達は上がって そこで何もかも学び 私達は偉大な先生に 偉大な指導者に なるのです その時私達の体は 永遠に存在します 私達がどの世界に 存在しようと 自らの肉体を 保持します 私達がこの物質世界で 心に決めた事がです 私達はこの世俗の 世界において生き物を 更に救う事ができます 私達はこの惑星に 更に貢献することが できるのです 自らの体を保持し この肉体を保ち 続けるのも可能です ある日私達は既に この宇宙で何もかも 学んだとしたら私達は 永遠に身体を保持でき 私達が千年をも この体を保持したいと 思っても それは問題ないのです

それでなぜ殆どの 人々はこの肉体を保持 できないのでしょう それはこの世界では 既にそれは役に 立たなくなり保持でき なくなるからです それはそれらの 飛行機の発明と 同様なのです それらはあまり高く 遠く飛べませんそれで 壊すべきでした その後試行錯誤を 繰り返し他の模型を 作ります 完璧で 使用可能な飛行機と なるまでです 私達がこの世で長生き したいと思うなら 私達は高次の科学を 学ぶ必要があります それは誰にでも 最も有益なものです

そして私達は長い間 ここに留まれますが 私達はこの物質的な 世界に留まる必要は なく他の世界へ行き 永遠に生きられます 百年後に死ぬ必要は ありません 五百年 五千年後 死ぬこともありません その時 永遠に生きられると 言えるでしょう 殆どのマスターはこの 世を去る選択をします 彼らは肉体に長い間 留まりたくはないの ですが長く留まりたい マスターもいます 先ほど話した 釈迦牟尼仏の話を覚えていますか 彼は長く留まりたいと 思えばできました

彼は永遠の不死の 法門を学びましたから 彼にはただ 短期間のこの世との 縁でしかなく彼が 滞在したいと思っても 彼はその機会を得る 事はありませんでした 弟子は彼に留まるよう 頼みませんでした 彼の弟子が懇願しない なら留まれないのですそのようなことです 彼は誰かが懇願した時 だけそれができます 分かりますか 法とはそのようなもの 誰も私を招待せず 講演の依頼がなければ 私は ここに駆け込んで 来ることもできず 一人舞台に座り一人の 人に講演を行うことも できなかったでしょう 世界はこのように 科学的なのです

誰かが求めねば それはできません 仏陀と 同じです それで今私達は この世に長生きする 人々のいる理由が 分かりましたね ある人々にとっては もっと衆生に 恩恵を与え 彼らの健康 体の問題も 軽減させ得ます これは私達の この世でも同じ事です 例えば仕事で 多忙なら 私達は幸せに感じます 私達には問題 不服も それ程ないでしょう あまり忙しくないと 問題を抱え 身体の状態も 悪化します そうですね (はい) 僧徐允が 「徐允師の 説法と法語」の 講義の間 彼は言いました 昔々の西王母と 王の息子の話です

息子の名は 光緒です 光緒皇帝は亡命先を 求めて行きました 恐らくその時 戦時中でした 彼らは歩いて 亡命先を求めました 彼らは長い間歩き 何も食べ物を見つけ られませんでした そして彼らは農夫の 家に立ちよりました 農夫はあまりお金を 持ってなく皇帝が 食べる食べ物も持って いませんでした 彼は米を炊き さつま芋の葉を料理し 醤油をかけました 分かりますか この農夫は特に さつま芋の葉を沢山 彼らの食事のために 料理しました

皇帝は言いました 「わあこれは何だ とても美味しい」彼は それ程美味しい物を 一度も食べた事がなく 彼が宮殿にいる時 彼は宮殿での多くの 良い食事を楽しむ事が なかったのです そこでは食欲はあまり ありませんでした 彼は食べ過ぎて 毎日 胃を壊し 食べ物は美味しい味が しなかったのです 彼は長い間歩いた末 そこに辿りつき疲れ 空腹を抱えていました 彼らはさつま芋の葉を 彼の為に料理しました 彼は言いました 「最高の食べ物だ」 最高の食べ物は決して 以前食べた事がない 物で当然ですね 誰があえてさつま芋の 葉など皇帝に料理して 宮殿で出すでしょうか 宮殿で彼らは さつま芋の葉など 決して考えつきません

そうして皇帝は 宮殿の中で甘やかされ ていたのです 彼にはする仕事も それ程なくただ高位に 一日中座っているだけ です それ程動かず よって彼の食は 進みません そして彼は外に出て 少し運動をしたなら さつま芋の葉さえ 美味しくなるのです ちょうど 私達の体が更に恩恵を 他の人々に与えるなら 私達は健康で 長生きするような ことなのです しかしこの物質的な 世界では物質的な 局面においての恩恵は あまり受けられません 理由はなぜなら私達が 最高の医者だったと して私達は単に 小さな団体の人々を 助けられるだけで 他の人々を救うことは できません

私達が最高の科学者 だったとして 発明する道具には 限界があります 世界全体を 変えられず非常に 文明化することや 快適にすることに なれません 私達の物質的な力を 使うなら 限界があるからです 私達がより人々に恩恵 を与えたいなら他の 法門を用いるべきです 最も効果的な方法を 使うべきですその意味 は私達は霊修行すべき だということです ところが  いわゆる修行法は 沢山あります 最も多くの利益や 最も高い力を 得たければ 最高な方法を 修行すべきです

皆さんに お知らせしたいのは 最高の方法は 観音法門である事です 観音法門は すべての宗教の聖典に 言及されていました この「観音法門」は 実は法門ではなく 只の手段にすぎません より科学的な手段で 私達の内面にある 最も偉大なパワーを 開けさせてくれます それはまた 私達が生れる前に 分割された創造的で 一番原始的なパワー でもあります 自分のパワーなので 開いて使えます アラジンという 映画を見た事あります 彼の不思議なランプは 本来この魂が壺の中に 封じこめられました

その小さな壺の中に 封じ込まれました ある日誰かが 偶然開きました その魂が外に出て 背が高くて大きく 皆怯えました それを見ましたか いいです そんなに大きい人が 沢山のパワーがあって あっちこっち飛び回り 多くの事ができるのに 小さな壺に封じられた なんて信じられません 同様です 私達自身を とても弱くて とても普通な人間で 面白くなくて 皆同じ ように見えますが 私達の内面には 信じられないほど 神のパワーがあります ただまだ開いて 使っていないだけです

不意に開いたら 出てきますが 意図的に開くことが 出来ません たとえ意図的に 開こうとしても 無理です 両者の密接な関係に より 魂はその人を 見つけたのです それは彼が偶然 そうしたのではなく 時間が来たからです 神か誰かが 既に何百年も 彼を罰してきたので 今彼の時間が来たから 壺が開いたのです 私達がマスターに会い 観音法門を学んだのは 意外な事だと 考えるのと同様です それとも 私達は 好奇心あるいは偶然の 巡り合せで来ました それは私達の内面の マスター本来の存在が 分ったのです

彼は講演を聞いて 分ったのですが 私達の脳は恐らく まだ分っていません しかし ここに来た時 絶対に分るでしょう 内在する知的な存在は 脳がいくら彼を 騙そうが理解します 騙そうが理解します ここに来た以上 彼は他と違います どうして来たか 彼は分っていました 行き当りばったりで 来たわけではなく 彼の心に従い 心を 使って心をつかみます ハッキリ分っています 時間だと知りました ランプの中の アラジンも同様です 開けられたら一刻も 早く出てきました 私達の内面には この信じがたい 神の力があります

それはアラジンの力 よりもっと驚異的で よりパワフルです 想像を超えるほど それを開けて 私達を助ける人が いなかっただけです 壺を開けてくれる人が いなくて出られません 従って 何かのために祈る時 答えがないように 見えます 私達は仏陀 神がいた 魂があって菩薩がいた と聞きました そして イエス キリストが 非常に慈悲深い 仏陀は とても慈悲深く 私達のあらゆる望みを 実現させます 私達は 普門品を唱えると 観音菩薩は 最も慈悲深い と言います 私達が望むものなら 何でも手に入ります 火の海に落ちたら 火は私達を 燃やしません

海に落ちたら 水は私達を 溺れさせません 妙なことに 多く唱えるほど 興味が薄くなります なぜならランプの蓋を まだ開けていないので 全能のパワーは 出て来られません 小さな子どもが 蓋を開けた後 精霊は彼を連れて 山を登ったり 海を渡ったり 空を飛んだりして 彼に多くの不思議な 事をやってあげました 人間が出来ない事です いいですか 同様に 私達の内なる 万能のパワーを 開けたら 何でもできます どこにもいられ 永遠に生きられます 病気も治せますし 山を動かし 海をはかせます 私達の創造を超えた どんな事もできます

私達は 膝が骨折するまで ひざまずいて 見えない 触れない 想像できない 届かない神や菩薩に 祈るべきではないです 私達は何も祈る必要が ありません 全能のパワーは 何でもやってくれます 私達の需要が分るから これが 観音法門の利益です 観音法門は 全能のパワーを 開くための方法です しかし つい先ほど 言及したように 観音法門は 法門ではありません 時には 私達は とてもよく集中したら 蓋を見つけて 少し 開ける事ができます 時には 私達が家にいて とても注意深い時も やはり光を見えます しかし 私達は これが観音法門だと 分りません

時々 私達は もう一つのとても 美しい世界を見えます 菩薩や イエスキリストの様な 聖者を見ます それは何を意味するか 分りません 他の人に聞きに行くと 彼らはこう言います 「気が変です」 集中する時 私達は内面の美しい 音楽が聞こえますが 何なのか分りません 医者に聞きに行ったら 私達は耳鳴りだと 医者は言うでしょう それが彼らの仕事です 時折 私達は何気なく 蓋を取り 全能のパワーを 出したとしても その働きは分りません その 小さな子どものように 壺の蓋を開けたら 精霊が彼の前に現れ 巨大で でしょう

精霊は彼を 殺そうとしたでしょう 彼は「一回目 私は 誰か救ってくれたら 私は彼を手伝うと 祈りました 二回目も同じですが 三回目は その人を 殺す」と言いました 今その子どもを殺そう としたがその子どもは とても賢かったです 暫らくするその精霊を 管理する方法が分り そのパワーを有益な パワーに変えました 仮に私達は本当に 偶然このパワーを 開けたら気が変だ とも言えます なぜなら 時々 私達自身を 病的な人間に 変えることもあります このパワーの使い方を 指導する人が いないからです

原子力と同じです でしょう その使い方が分れば 沢山の国と市民に 利益をもたらします そしてそれで人を殺す 事にも使えます 電流と同じです 電流で電灯を点灯し 写真を撮り マイクを 使うことができます 最も高いレベルの教えを聞く時心地よく させてくれます しかし 幾つの地域で 人々は電流を使って 人を殺します 電流椅子のように 恐ろしい事のように 聞えますが実在します 同じパワーを使うと 多くの異なる事が 出来ます

それらいわゆる魔女達 黒魔術師もまた同じ 全能のパワーを 使います その違いとは 彼らが 神のパワーを使って 悪事をする点で それでその悪いカルマ (報い)が非常に重く 白魔術師達も同様に 神のパワーを使います 黒魔術師より 大分有益のように見え 黒魔術師よりましです けど完全に良いという 訳ではありません なぜなら彼らは 宇宙の自然の過程 自然のシステムを妨げ 交通渋滞を 引き起こすからです 分りますか 仮に私達は高速を 走っているとして 決められたスピードで 走るべきです

それで どんな事故も 起こしません 私達が交通管理を 担当しているなら 某高官や 私達のある友達を みたら赤信号を 通らせるでしょう 彼は忙しいと 話していたから 私が警察官で 私の友達を見たとして 故意に彼らの 赤信号走行を許します 彼らを止めなければ 災難を起すでしょう

彼に 赤信号走行をさせた時 よさそうに見えますが 車事故を起こします 仮にそうだとします あるいは 高速道路で スピード違反したり 他の車を追い越したり 他人を邪魔したりする 人を見ても  彼は私達の友達だから 彼らを止めずに 故意に無視しますが しばらくすると 高速道路が乱れ 車で行き詰ったり 渋滞したりしたら 全部その人が原因です 意味が分りますか 私達が 白魔術や黒魔術を 使うのと同じことです 宇宙のすべての 意識ある衆生の交通を 邪魔することです 交通渋滞を起し 一か所で行き詰るのは 全部一人の人へ 便宜を図った為です

それで 修行者として 絶対に神通力を使って 人を混乱させては いけません それはなぜ 釈迦牟尼仏が弟子に 神通力を使うのを 許さなかった理由です 彼も神通力を一切 使いませんでした 多くの人がやってきて 死んだばかりの 子ども達を救うように 頼みましたが 彼は救いませんでした 多くの病人が来て 病気を治すように 頼みましたが 彼は治しませんでした 彼の祖国に戦争が起り 弟子が両国の間の 悪い雰囲気の中で 調停をするよう 頼みましたが 彼は 調停しませんでした

彼はこう言いました それは悪いカルマ (報い)で清算すべきで 彼は介入できません 彼には神通力があって 介入できたのですが 一人の人で世界を めちゃくちゃに したくなかったです 私がつい先話した 交通渋滞 道路の障害物と 同様です 私達の都市でも 同様です 時々私達は神通力を 学びたがります いわゆるそれを修練 しようとする大多数の そういった人々は それらの神通力で 目が塞がれます 自分を失い 危ない所まで行きます 最も高いレベルまで 到達しません

仮に釈迦牟尼仏が 魔法を使って ある病気を治したなら 彼は下痢で 死ななかったでしょう どんな頭痛もなく 彼を殺す方法を 考える人は いなかったでしょう 彼は沢山の病気に 罹りました そして 食べ物は何も ありませんでした 三か月連続で 誰も彼に食べ物を 提供しなかったため 彼は馬の飼料を 取りに行かざるを 得ませんでした 彼はこう 「フラフラフープ」 石を米に 変えられます でもしませんでした 意味分かりますか 彼はこう 「フラフラフープ」 胃が痛みませんでした どうして彼は胃痛で 亡くなったのでしょう 私達はいまだに 彼は 本当に力があったか 自分を救えなったかに 疑問を抱いています 彼には出来ましたが そうしたくなかった 自然のままでした 彼は宇宙の法を 尊重しました

彼は一人の人のために そうしませんでした

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昔 中国ではこういう 言い方があります

法律は貴方が王族や 友人であるかどうか 考慮すべきでは ありません 宇宙の法律も同じです 私達は宇宙の法律から 逃げ出したければ とても正当な方法が あります 私達が 実践しているものです この世の法律に 従いながらもう一つの 道も言っています そこに行けたら 一回りして 中から出てこられます 意味が分りますか 同様に 高速道路で 交通ルールに従い 皆と同じように 運転できたら 何も起こりません たとえ大統領や 高官であっても やはり高速道路の 法律を尊重すべきです

さもないと災害は 私達にも降り注ぎます それで 私が 行く先々の人々は 皆私にいくつか 神通力を見せるように 頼みます 彼らはどうして 神通力を見たがるのか 私には分りません そのような魔法を 毎日見終えることが 出来ません どうしてまだ神通力を 見たがるのでしょうか そのお米を見て下さい 本来小さな種に 過ぎません 蒔いたら 沢山増えて とても大きくなります 今より多くの人々に 役立ち 沢山の人々の 命を維持しています これもまた 宇宙の魔法です

花はただ小さくて 見えない種に過ぎず しかし一旦植えたら こんなに沢山なります 人々を快適にさせます こんなに沢山の色を 持つ大きな花は皆 土地の同じ部分から 同じバケツの水を 吸いますが 沢山の色に育ちます これこそ神通力ですね 私達は空気が見えず どんなか分りませんが 空気がないとたちまち 死んでしまいます それも神通力です これが最も偉大な 神通力です 元々私達のお腹には 何もないのに 結婚後 子どもがやってきて 私達の中で生存し 暫くして「オギャー」 と出てきて こんなに 大きくなることです それが神通力では なければ 何でしょう 皆が十分な神通力を 既に持っているので そのような子供じみた フラフープ魔術を 求めないでください 神通力が欲しいと 言わない方がいいです あるいはそれをやって いる人が私達を笑い 「まだそれらの事を やりたいんですか」 分りますか

私達のレベルはとても 低いと思うでしょう ですから修行は 神通力ではありません 私が言いたいのは 観音法門は私達に 沢山のいわゆる 神通力を与えても 自然にやってくるので 意図的に自慢したり 故意に人に見せたりは しません 私達の生活 そして 私達の近所との生活を 自然に調節します 私達の家族と 友達を助けます このように自然に 行うのです 行く先々の人々に 自然に利益を与えます 行く先々の病気の人が 自然に快適に 感じるでしょう

私たちが何をしても それは自然に宇宙全体 全世界 国全体の ためになるでしょう 私たちは何かを 暗唱しながら  書き取りをしながら 二、三日祈ったり 一日中飢えたり寝ずに 夜を明かしながら いるべきではないです それは神通力と 同じです 小さい神通リキは 誰でも見ることができ 高い神通力は自然で まるで私たちがそれを 持っていないようです ちょうど高校に進学 したのと同じで人々は 私達に尋ねるでしょう トマトは 一個3ドルです

2個欲しいなら すぐ6ドル支払います 分かりますか それはとても自然です あなたは支払う瞬間に 何も考えませんでした 6ドルのことは 考えないし 誰にも尋ねません また複雑なものは 何も書きませんでした なぜなら既に小学校で それを学んだので 皆 当然知っています ですから観音法門を 修行することによって すべてを持ちますが それは非常に自然です あなたがそのことを 知りさえしないほど 自然です

それで金剛経の中で 釈迦牟尼仏は こう言いました 「菩薩は 自分が菩薩だと いうことを知りません 仏陀は自分が仏陀で あることを知りません 阿羅漢は自分が 阿羅漢だと知りません 菩薩が まだ 自分が菩薩であると 知っているなら 菩薩ではありません 阿羅漢が自分が阿羅漢 だとまだ知ってるなら 阿羅漢ではありません 仏陀が自分が仏陀で あると知っているなら 彼は仏陀でありません それで本当の神通力は エゴのない神通力です 自動的な神通力です

私たちに神通力がある ことを知らないなら それが本当の 神通力です 私達は自然に他者の ためになり 他者は 一度私達を見るだけで 気分が良くなります 私達が近くに座ると 患者は突然回復します こんな具合です 観音法門を修行した後 私達はそれを知ります 「フラフープ」とか 何か複雑なものを暗唱 するのではありません この自然的な神通力 自然の力は 宇宙の中の衆生を 邪魔しないでしょう

それでたとえ神通力を 使っても 実際には 神通力使わないので 私たちはどんな 悪いカルマ(報い)を 作りません 私達が黒魔術や 白魔術を使うとき 悪いカルマ(応報)を 作り出します それは 宇宙の法だけでなく 宇宙の交通を乱します ある人が不法に別の 車を追い越したとして 彼は高速道路における 交通を妨げ 警察は 彼を捕らえるでしょう

彼は自分にも 問題を起すでしょう それで警察は 彼を捕まえます 彼は法を破りました 彼が警察官だったか 彼の友人が警察官で 彼が猛スピードで 運転して高速道路の 交通を妨害したなら  それは合法的に見え  ましたが 彼は内密に それをしなかったし それをしたのを明確に 知っていたからですが 彼は依然高速道路で 問題を起しました 暫くして交通事故に 遭うかもしれません それで黒魔術白魔術は この宇宙の中で等しく 不幸な雰囲気と 乱雑な状況を 引き起こすでしょう

したがって 私達修行者は多くの 法門を知っていますが 最も高いパワーを 得たいと思うので 私たちは最も 高い法門を学びます 最高の法門は私たち 自身の全能のパワーを 開くために使い また それを使うのです 私達は他の人々から 何も借りる必要は ありません 私達は他人の神通力を 借りないし また 他人の力も借りません 私達は他人の修行を 当てにしません それらは皆他の人達の ものだからです

暫くして返さなければ なりません 自分の物でないのは 返すべきです 意味が分かりますか 遅かれ早かれ 私達は それを返すべきです 神通力とは何ですか それはあなたが 「フラフープ」とか 何か呪文を暗唱する時 あなたが地獄から 多くの兵を呼ぶか 多分あなたの 呪文によって操られる 幽霊や護法  それらの小さい天使を 呼ぶことです 彼らに来るよう頼み 「助けて これをして」 彼らはとても素早く 助けますが 彼らの 能力を利用するので 後で それを彼らに 返すべきです いつかは それを 返さねばなりません

それは神通力が 究極でない理由です 私達観音法門の 修行者の神通力は 私たち自身の全能の パワーから来ます それは私たち自身の 真我から来ます わかりますか 私達は宇宙の 小さい部下を 利用しませんでした 小さい霊魂 幽霊及び 地獄からの兵士などの ような小さい部下でも 宇宙の衆生です 彼らも全能な力に 属します しかし彼らに何かを やってもらうように 彼らに求めたため 彼らは私達に恩恵を 与えたと思われ 私達を見つけ出して 恩返しを 求めようとします

意味が分かりますか 自分の力で 何かをかせぐなら 誰にも借りが ありません 私達は自分のお金を 使い 誰からも借りる 必要がありません ゆえに 金利を 返済する必要がなく 私達にはいわゆる 悪いカルマ(報い)が ありません 神通力といっても 違いがあります 目で見える明らかな 神通力は物質的な 神通力です 目に見えない 自然な力が 最高の神通力です それは神通力ではなく それは実際に 全能のパワーです

でないと 「マスターチンハイは 二十四時間観音法門に ついて話しますが  一方 他人はただ 「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十」と 暗唱する 呼吸法を教えてくれ これも仏陀になると 言うのです 私達にとってその方が より簡単です なぜ観音法門を 修行すべきだろう」と 思う人がいるだろう ええ いますね ある人は 呼吸に集中して 呼吸法を修行します これで仏陀になれると 彼らは思っています それほど簡単なら なぜ皆がまだ仏陀に なってないでしょうか 私達は毎日呼吸し 誰でも一から十まで 唱えることができます

それほど簡単なら どうして皆がこれを 修行しないのでしょう ここにこの呼吸法を 修行したことがある 多くの人がいますが 役立たないので 止めました たとえあなたが 修行し続けても  役に立たないので 「確かにこのような 修行法は無駄だ」と 疑って思ったりします しかしそれら無用の 方法を修行すると いっても 「真理に従います」と 言ってしまうのです 仮に皆さんに別の名前 仏陀の名前を 教えるなら すぐ「外道」だと 批判されるでしょう 「一 二 三 四 五 六を 唱えるのは「正道」で 別の仏陀の名前を 唱えると 「外道」になります

仏陀は沢山の名前が あります 阿弥陀仏が唯一の 仏陀ではありません 仏陀は沢山います 仏陀を信じるとしたら 「一万の仏陀」の 名前を唱えます 人々は時々懺悔する時 「一万の仏陀」を礼拝し あらゆる名前を 暗唱します 「一万の仏陀」 「八十八の仏陀」 そして「千の仏陀」  「三千の仏陀」などを 称えます 「一万の仏陀」を 称える詩があります なぜ人達はこれらの 名前を唱えると 「正道」だと 心配するのでしょうか 「一 二 三 四 五 六を 唱えるなら どこへ行けるのですか ですからこの世界は いかに無明か分ります

いかに人々は 差別しているかと あまりにも この差別心が大きくて 重いので 悟りを開くことが できないのです 称号と服に 執着しているのです  違った服を着る人を 見ると その人が「外道」だと 思い込みます なぜ服がそれほど 重要なのですか 私はあそこへ行って これらの服を どこかに掛けて 別の服を着ることも できます 講義が終わってから また戻って別の服を 着ることができます ですから私達修行者は 勇気を持ちこれらの 事を見通すべきです 勇気のある人だけが 天国へ行け  解脱できます

この世界の多くの人は 他人に従います 刺激的な所でも 賑やかな所でも 「正しい」所と 思ってしまい 素早く他人に 従います 私達は自分の智慧で 判断しないので 多くの面で過ちを 犯してしまうのです 私達には自身の 能力や智慧があり 他人に聞くべきでは ありません これまで私はずっと 僧衣を着ています 以前 着ましたが 今も着ています どんな服であれ 以前着た服を引続き 着ることができると 理解して欲しいです つまり服には問題が ないです 分りますか 今日着替えることが でき 明日も着替える ことができます

このようにして あなたもこのように 着替えるのが可能です この世界は大変です 毎日服を買うなら 沢山のお金を 無駄にしていまいます あるものを 着ましょう これら衣服はその中の 人ではありません 皆誤解をしています ですから 多くの宗教戦争が 起きています 現在でも 同じ宗教の中でも 多くの人は異なる 見解を持っています 私達は宗教の 真髄を得ないで 頭で判断している だけだからです

人によって判断も 考えも異なるため 多くの衝突を 作り出しました 「ブッシュマン」という 映画を見たことが ありますか 英題に「神」が付いて いるので霊修行の 映画に違いないと思い 霊修行の映画だと 勘違いし 人が表面的に 道徳的なことを 話すことを 少し勉強 しようと思いました ほかの宗教の 霊修行に対する態度も 理解してみようと 思っていました 結局コメディーの 娯楽映画でした ほら あのアメリカ人の 白人女性は 人々は彼女は アメリカでは 一番の美人だと 思っていました 何が起きたでしょう

アフリカ人の男性は 「こんな醜い女性を 見たことはない」と 彼にとっては黒人が 一番の美人だからです 以前白人を見たことは なかったのです だから 全部見解の 違いからきています 彼に  黒人と白人両方の 内面の美が見えたら 両方の内面にある 全能の力が 分ったら 彼はこう言うでしょう 「どちらも美しい」 と言うでしょう 黒人は 全能のパワーを持ち 白人も 全能のパワーを持ち 中国人も 全能のパワーを持ち アメリカ人も ドイツ人もロシア人も  凶悪な人も  善良な人も  皆内面に全能の力を 持っています

すべての人が 夢から覚めれば  皆に同じ内面の力が あると気がつきます この二つのコップは 違いますが 中に同じものが 入っています 水です コップの蓋を開ければ それは飲めば 渇きを癒す 水だと分ります 意味が分りましたか 蓋を開けないから 中に何が入っているか 分からないのです ただもがきながら 「これは小さいが あれは大きいから 必ず違う」と思います これと同じです マスター 感覚の 眼耳鼻舌身意と五蘊  が皆無(一切皆空) の境地は何ですか 深い禅定に入った時 体験できる境地です

禅定には三つの レベルがあります 一番目は何が起きて いるかを知らない 深い眠りのような ものです これは一番低い レベルで「深い眠り」 と呼びます 二番目は まだ意識があり  頭も働き 外の環境も 意識出来る状態です でも内面は穏やかな 状態でし 外面を意識しながら 内面の境界を 見ることができます 三番目は深遠な レベルです 内面も 外面も 何も意識しません 感覚はなくなります 自分自身さえ 見えません 外面の何も見えず 何も感じられません 「無」の境地に 入ります 無限に広がる光しか ありません 宇宙も何も 消えてしまいます

でも言っておきますが これも最高の レベルではないのです 今日までの この物質の世界では  一番有名な人たちが 説明できるのも この三つのレベルに 過ぎません もう一つ 言葉では 表現できない最高の レベルがあります ですから 私にも説明できません マスター  菜食についてですが 霊修行の人は必要に 応じ 動物成分を含む 薬を処方されたら 使ってもいいですか 非印心者は使っても いいですが 印心者はだめです 動物成分を含む薬を 使ったら 借りを返せ ないからです 

それは 植物成分の薬より 大いに「高い」です 「高い」の意味は 金銭的な価格ではなく 悪いカルマ(報い)の 借りのことです だから多く使うほど 多く返済なければ なりません 植物にも 命がありますが  悪いカルマ(報い)は 最小限に留まります 植物性の薬を使っても それほど多く 返済せずに済むのです 観音法門を修行する ことにより その 悪いカルマ(報い)を 清算できます でも 動物の命を取る 悪いカルマ(報い)を 清算するのは 難しいです ですから私から印心を 受けた人は 肉を 食べてはいけません でも あなたが 医者である場合  患者にこのような 薬が必要でしたら  患者たちに 処方しても 構いません ご自身はこんな薬を 使ってはいけません

私達の毎日の生活が 仏陀または魔によって 用意されていると どう分かるのですか 分かります 私達 皆 観音修行者は 毎日 誰が私達の ために手配されてるか 良く分かっています もちろん修行を しない人ははっきりと 分かりません 観音法門の 修行者は どれが魔の手配で どれが仏陀の手配か そのうち 分かるでしょう とても明白です 故広欽師は こう残しました 「来ることもなく 行くこともなく 全く何もない」 マスター お伺いしたいのですが 「何もない」とは どう言う意味かですか 「何もない」とは 何がないのでしょうか 彼の代わりに 私に聞くのですか 彼が言ったのです 私ではありません 私は他人の事に 干渉しません マスターあなたの言う 真理とは何ですか それは道徳経で お話した 「道」のことですか 何が「開悟」で 何が「真実に 到達する」のですか 真実を語れば 永遠にかかります

老子は言いました 「耳を使わずに 聞く方法が 一つあります 眼を使わずに 見る方法が 一つあります」 しかし 決して 手にする事はできず それを感じ  存在を知るだけです 名前は分かりませんが それでとりあえず 「道」と呼んでいます これは 私が 話していた真理と 同じことです 説明はできませんが それでとりあえず 真理と私は呼びます とは言っても 私達にはそれが聞こえ それが見え 実感しています これが観音法門を 修行した成果です

観音法門の修行を 通して この「道」「真理」を 掴むことができます それを使えます それは聞こえますが 耳ではありません それは見えますが 眼ではありません これは正確に 道徳経の中で言って いることと一致します 内面の音は 耳では聞けませんが 私達には聞こえます 内面の光は 眼では見えませんが 私達には見えます 内面の無限の力は 私達の手で 掴めませんが 使うことはできます これを「道」と呼びます

どのようにして 私達の魂と仏性を 識別できますか 魂は仏性と同じです 私達の心  心性は仏性のことです 私達の魂は 私達に見えるような 触れる形はありません 説明したように 道徳経に述べられた ことと似ていて 肉眼では それが見えません しかしそれを見る時は はっきりと見えます 観音法門を 修行することで 私達の本性と魂を 見ることができます それで私達は 「内面に自らの 自性を聞く」と言い 「本性を見て仏陀に 到達する」と言います それは不可能ではなく 観音法門の 修行を通して 可能なのです

マスター どの宗教を 信じるかにかかわらず 真理を理解したら 私達は 解脱できますか はい しかし 一番難しいのは真理を 理解することです すべての宗教は 真理を紹介し 私達が真理を理解 できるよう励まします でもそれに気付くのは とても難しいのです どの宗教に 所属しても 真理に気付くのは 簡単ではありません この真理は私達の中に あるパワーなのです だから私達は自身の 力を認識すべきです そうすることで真理を 理解したと言えます

私が今言ったように この真理は触れられず 見ることも出来ず 掴むことも出来ません 私達が観音法門を 修行するのは この真理を 理解したいからです その後 宗教の聖典を 再び読んでみると 私達は 理解するのです ああ これが 道徳経が言っている 目では見えず 耳では聞こえず 掴むことも出来ないが 使う事が出来るものだ 今わかったと それであなたは 道徳経で説明されてる 真理を理解したと 言えるようになるか また観音法門を 修行することによって いくらかの内なる 体験を得られます

その後で 仏教の楞厳経を 再び読むと 「内面に自性を聞く」 について読むと 内なる音と 内なる光に関して 読むと 異なった色に関して 読むと 千枚の蓮の花に関して 釈迦牟尼仏陀に関して 読んだ時 それらの 意味が理解できます すべてが 明瞭にわかるでしょう 楞厳経が 理解できるのです 子供がABCを 学ぶように明瞭です そしてあなたは 釈迦牟尼仏が 到達した真理を 理解したと言えます なぜなら同じものに 到達したからです そうしてこそあなたは 道教を信じ そうしてこそ真に 仏教を信じるのです そうしてカトリックを 本当に信じるのです カトリック 仏教 道教に 間違いは なにもありません マスター 観音法門を  修行することにおける 最高レベルは何ですか

観音法門の 修行によって 私達が到達することの 出来る最高位のものは 観音菩薩になること 仏陀になること 遍在していて 無数の化身を 持つことです 誰かが私達の助けを 祈ったらこの場で それが解るということ アメリカの誰かが 助けを求め フランスの弟子が 何かの問題を抱えたら 直ちにそれらの対処が できることです この物質世界に 生きている間に既に 私達はあらゆる衆生に 役立つことができます 死んだ後は 霊修行の追及をせず そして涅槃 (最高の天国)に行き 楽しみます 物質世界は無視します 分かりますか それが真理に 到達した人です

真理に到達した 霊修行者として 彼はそこで 足を組んで一日中 座ったりしません 誰の役にも立ちません これは「責任逃れ」と 言われることです 真理に到達した人は 自分達の力量を示す べきです いいですか 天の恩恵を受け 天の果物を 味わいながら この地球に降りてきて 私達は隣人や 親戚や友人 国 世界のために 役立つべきです それで本当に陰陽の バランスがとれます そうしてはじめて 真の仏陀になります この恩恵を得る前は まるでロマンチックな ラブストーリーを 読んでいるようで 決して結婚できず 子供を持つことが どんなか分からない ようなものです

 
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